スーパーヒューマンー常識を超えていけ!
2023-05-31
大学の研究を広く紹介する「イブニングセミナー」特別支援教育・工学機器開発・リハビリテーションが横断的に
連携してこそ発芽するものがある
現在の役職上の分担として大学が広く研究内容を内外に紹介する「イブニングセミナー」をコーディネートし、この日の夕刻にオンラインにて本番が開催され司会を務めた。報告者選定の契機は、自らの所属学部の特別支援教育である。肢体不自由児の教育現場経験があり、さらに国際的な活動を含めて研究を展開している先生を起点とし「異分野」をつなぐ先生方を学内に求めた。工学部には「視線入力装置」という工学機器を研究開発している先生がいる。肢体不自由者が「視線」でキーボードを打ち込み、コミュニケーションが可能となる夢の装置である。さらには大学には附属病院もあり、整形外科リハビリテーション科には「パラスポーツ」に関わる先生がいた。「教育・工学・医学」という三分野が学内で連携する契機として、新しい芽が出ることが期待される内容となった。
教育の面では、現場で肢体不自由児の身体を揺らし副交感神経を優位にし様々な効果を求める方法が紹介された。特別支援の教員が人力でこれを実践するのは大変ゆえに、揺動ベッドを導入する効果検証について報告された。どうやら教員なども揺さぶられることで、腰部への負担軽減やメンタル回復の効果もあると云う。また東アジアに支援の範囲を拡げた活動にも、大きな期待が持てる。ICT機器やAI(人口知能)の開発が進む中で、「視線入力」への挑戦というのは誠に夢のある未来が実感された。僕など文学を研究・創作する者からすると、やはり「目は口ほどに物を言う」の格言通り「心」は「眼」で表現されるのだ。肢体が不自由でキーボードが打てない人でも、眼で注視することで「コトバ」を発信できる。ぜひこの装置で打ち込まれた「短歌のコトバ」を読んでみたいものだ。最後にリハビリテーションに関わる先生からの報告にも、大いなる希望が持てた。むしろ障害がある方がパラスポーツに前向きに取り組むと、ある特定な機能が高度化するというのだ。英国では彼らを「スーパーヒューマン」と呼ぶ。健常者が自らの「できる」ことに甘えているのだとすると、困難な障がいをむしろ糧として夢追う人たちがいることを知った。人間の可能性とはまさに限りないものだ。社会が作ってしまう「常識とされる壁」を超え、個々人がその可能性を最大に引き出す平和な社会を、宮崎から創っていきたいと願う。
3名の報告者の研究がこれを契機につながる・ひろがる
実は学問とは如何様にも連携できるものだ
可能性を狭めているのは健常に甘えた思い込みであることを肝に銘じよう!
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飛び石連休谷間と移動・観察のこととか
2022-05-03
なぜか?講義日であるのに閑かな大学帰省した学生など諸々の確認なども
もはや移動のリスクより検査の徹底では・・・
今週は月曜日と金曜日が、すっぽり連休の谷間になっている。かつて東京で中高教員をしていた頃、生徒募集とか部活動で多くの他の私立学校の先生方に知り合いが多かった。諸々の情報源として大変に有意義であったが、時に連休の谷間に「創立記念日」を移動するなどして上手く「埋める」学校があることを知った。暦の上では「谷間」であっても、その学校は小さな長期連休で部活動でも教員の研究活動でも有効に時間を使用できると羨ましく思ったことがあった。一般企業ではそうした措置は一般的かもしれないが、今回の場合も「10連休」というわけで「初夏休み」の様相があって好ましくも思う。桜が散った後の4月が甚だ慌ただしく過ぎ去ることから、一旦停止して体制を整えるのには格好の連休となる。僕などもようやく自分の研究に向き合える時間を確保し、芸術文化に心を癒す連休前半を送ることができている。半期15回講義必須となってから、私立大学の中にはむしろ土日祝日まで講義日にして半期末を従来通りにする大学もあるが、何が良いか悪いかは物の考えようだと思うのであるが・・・。
新年度開始は新入生にとっても疲労と郷愁の募る1ヶ月であったのだろう。どうやら、帰省するという学生もチラホラいるという関係の連絡を受けた。全学の規定で「離県すると1週間は自宅観察」(附属図書館の場合も1週間経過しないと入館禁止にしている。)となっていることから、先週の連休に帰省した学生は今週が「待機期間」となる。遡れば今年度は、入学式・オリエンテーション後の授業開始にあたり即座に「対面講義」が開始された。昨年度までであれば、多くの学生が「離県後」ということで2週間とか1週間は「遠隔講義」という規定が全学的に実施されていた。要するに全体で「待機期間」を設けていたことになる。しかし、今年度はたぶん全国的に「原則対面」の方針が出されており、全学での「待機期間」は実施されなかった。それはそれで2年間のトンネルから解放された感があるのだが、根拠なき「待機」という施策がトンネル内に設置されていた標識のように残っているように思われる。今年度は対面研究学会なども開催予定である、そこで大切になるのが「検査」ではないかと思っている。諸外国ではお隣の韓国も含めて「マスクなし」を議論する段階に至っている。この国では「マスク」の着用義務などは引き続きで問題ないとしても、感染拡大の当初から一向に進まない「検査」への意識をもう少し高めるべきと思う。宮崎空港や各駅では「移動」した県民対象に「無料検査」を受けることができる。抗原検査なら20分程度で結果を知ることができ、PCR検査でも午前中で翌日、午後は翌々日に結果がWeb上のシステムで確認できる。もはや根拠ある「With Corona政策」を各所が実施する段階になったことに自覚的になるべきだろう。
季節的にも連休は実に良いシステムだ
学生も教員も各自なりに有効に使うべきだろう
連休中盤、谷間での水の味わい。
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あの頃の放任主義を思い出しつつ
2022-04-07
入学式後にも続く孤独感など懇切丁寧に説明などまったくなかった僕の学生時代
常時が大学祭のようなキャンパスの賑わいを思い出しつつ
新入生オリエンテーションも2日目。前日に小学校免許を主とする学生らが「希望専攻」を第3希望まで記しており、この日に各講座の受け入れ可能人数によって調整が為され講座専攻に来る学生の人数が決まるという仕組みである。この「受け入れ可能人数」というのが、何とも国立大学法人としての大きな特長のようにも思う。当方「国語教育講座」の場合は総計で15名、これを5名の教員で担当することになる。単純計算で1人あたり「3名」ということになり、綿密で懇切丁寧な指導が可能となる。卒論に取り組む段階を考えてみれば、途中の指導段階から提出されて評価するまでの過程で大変に細かいところまで目が行き届く。またこうした研究面ばかりではなく、進路や学生生活の上でも家庭的に話を聞くことができる。これは僕が大学受験をした頃から同じで、当時はさらに入試段階から「国語8名」など専攻ごとの定員が示されていたように思う。何でこんなに少ない募集人数なのだろう?と思ったが、きめ細かな指導には欠かせない条件である。同時に各都道府県1校しかない国立教員養成系では、当該自治体の教員採用人数を勘案した定員になっていたというわけである。志が定まった学生に確実に当該県(出身県の場合が多い)の教員になる繊細で親身な指導が求められるというわけである。
現在の所属大学の1学年入学者数は約1200人から1300人、僕が学生時代の母校の1学部程度の規模である。母校は1学年全学部で1万人以上、入試の際も入学式・卒業式などでも大学祭のようでキャンパスを移動するにも人混みで一苦労ということが多かった。卒論に関しては、日本文学専攻で「近現代文学」の研究室などは「20名以上」といいのがザラで、僕など「古典」の研究室で5名から10名以内であったと記憶する。入学式後も細かにオリエンテーションで説明された記憶はなく、健康診断で並んでいた際にたまたま見た掲示板で「1年次から教職科目(教員免許を取得する科目)」が履修できることを知り、教育学部まで手続きに出向いた。「担任」と称する先生は「語学クラス(英語)」の先生で、週1回の講義以外ではほとんど会うことさえもなかった。ともかく「自分の単位や行動は自分で責任を持つ」ことが意識され、しばらくは居場所なき大海をさまようような日々であったと記憶する。ある意味でこの経験から自力で「居場所探し」もできたし、見知らぬ人と繋がる術も身につけることができた。高校2年生ぐらいまで国立志望だった僕が、今や教員として国立で指導する立場。人生には多様な経験があってこそ、豊かにものを考えることができるようである。
1年生15名の眼差し
希望と夢を抱きここから未来へ
再び県内感染状況が過去最多を記録するが、協力して豊かな学びを始めよう!
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研究室あれこれ年度末
2022-04-01
水道の水圧が下がりすげ替え工事マイク・スキャナー・照明などオンライン対応備品
年度末を迎えて諸々のご挨拶などもいただき
朝、研究室に行くと既に工事業者の方が作業をしていた。各研究室には洗面台があり水道が使用できるのだが、昨年末ぐらいから水圧が下がり出が悪くなり、手やコーヒーカップを洗うのもままならない状況になってしまった。仕方なく学部事務へと相談すると、技術関係の職員さんが応急処置はしてくれた。それでも「チョロ」が「チョロチョロ」になった程度にしか改善されない。どうやら僕の研究室のみならず、同階の同方向の配管に接続される部屋部屋を同時に断水しないと改善工事が望めないらしいと聞いた。先月来、同階同方向の先生方に一斉に調査がなされ、不具合がある部屋の水栓工事が為されることになった。その工事当日を迎えたわけである。工事は迅速に実施され、業者の方から配管内が黒く水垢で容積が圧迫されているものを見せていただいた。水圧が回復するということより、この汚濁な配管を通った水で手やカップを洗うことが回避できることの方に安堵を覚えた。業者が帰って水栓をひねると、飛び出すほどの水圧に驚かされるほどであった。
数日来の研究室整理も大詰め、書籍を整理して配架し直したり、過去の資料の裁断などに追われた。それにしてもこの2年間で、研究室も様変わりしたものと思う。オンライン講義が大半を占めるようになり、スペックの高いPCと机上の照明の充実にかなり努めた結果である。また個人的なこだわりもあってマイク類が、複数台も机上を占めている。さながら個人机の周辺は小さなスタジオのような趣になった。学生との面談スペースは最低限で確保しつつ、緑の養生テープで僕しか入れない区域と交流区域、来訪者が入れる範囲が示されている。感染症対策の「いろは」であるゾーニングを施し、入口付近には消毒液も常時設置している。2022年度は主に対面講義という方針が出されているが、現状で研究室という空間でどれほどが学生らと話ができるかは未知数である。それにしても、整理整頓と掃除がなされた部屋は気持ちがよい。新年度は新入生の支援教員も担当し、新たな希望に出逢う春が待っている。
頻繁に使用しない水栓は水垢で詰まるのだと云う
人と人との交流もスムーズに水が流れるように心がけたい
帰宅時は雨、三月尽の日は暮れた。
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学長退任に寄せてー地域貢献度全国立大学法人一位
2021-09-30
学長の2期6年間自らの8年半のうちの大半において
「短歌」への理解と様々な機会に感謝
9月は大学役職任期の交代時期、現学長の任期も本日が最終日となる。僕自身が宮崎に赴任して9年目8年半が過ぎたが、その大半を現学長体制のもとで勤めてきた。振り返れば、2015年夏には県立劇場と組んで「地域連携群読劇・星の王子さま」を宮交ボタニックガーデン(県営植物園)でかなり強引な試みとして共催、その直後に現学長の任期が始まったことになる。この頃から短歌創作にも夢中になり始め、2016年には俵万智さんの宮崎移住により「短歌県づくり」の機運が高まった。2017年10月には「和歌文学会宮崎大会」を主催、河野県知事の懇親会への参加は「当該学会初」だと研究仲間に賞讃してもらった。2018年1月1日個人的に「教授昇任」当年10月からは副教務長の役職となり、2019年10月から副学部長(教務担当)となった。さらにこの年は「教育活動表彰」を受け、学長を前に受賞者代表で挨拶をしたのをよく覚えている。ホームカミングディで講演をしたのもこの前後、牧水や短歌の研究成果が学長の目に止まり、その後は諸々の講演機会を学長からいただくことになった。2020年コロナ禍に見舞われ役職上学部の学生や授業対応に苦心したが、全学の教職員で何とか乗り越えようとする「仲間意識」に頼もしさも実感した。そして今年の7月には学長の専門分野である「日本周産期・新生児医学会学術集会」での講演の大任もいただいた。
昨日は「学長退任講演・式典」に出席した。6年間を振り返るスライド・動画・メッセージが多く紹介された。その中で全国の国立大学法人地域貢献型大学で評価が一位になった成果について、様々に言及された。既に地元紙で報道もされたが、琉球大学と並んでの一位ということ。国立大学が「法人化」してから既に20年近くなるが、その改革によって「1、世界的先端研究」「2、特色ある専門研究」「3、地域貢献研究」の大きく三分類が為された。1は東大や九大など旧帝大系が多く、2は東京芸大や鹿屋体育大など、本学は3の地域貢献研究に分類されるという訳である。所属学部の場合は、地域教育への貢献を大きな柱として「宮崎」の発展に貢献できる研究が望まれている。僕自身は宮崎の地に赴任したことで、あらためて短歌の魅力に出会い直し、若山牧水を研究し近現代における「声」の問題を教育とも関連付けながら向き合ってきた。所属大学が「地域貢献大学」であるからという拘束感ではなく、「宮崎」という土地の魅力を知った県外出身者としてこの地に惚れ込んだという方が適しているように思われる。同じく県外出身者である俵万智さんが、あらゆる面を全肯定的に語る機会も多く、いつも背中を押されるような機会に恵まれたこともある。僕自身の研究や取り組みが、どれほど「地域貢献度」の評価に繋がったかは定かではないが、学長が方針として掲げた「宮崎でしかできない研究」を自然に取り組む流れになったと今にして振り返ることができる。
牧水研究と短歌創作に向き合った6年間
その成果は新刊著書として本年末までに刊行する。
現学長に感謝を伝え、僕自身の「宮崎でしかできない研究」はさらに未来へと続く。
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大学教員の「新しい生活様式」
2020-08-21
1日10000歩を目指したい日常動作でどれほどに歩いているか?
遠隔講義で研究室に居座る時間が長く
全国的に猛暑いや酷暑が続き、日中に屋外を歩くことも憚られる。最近はスマートウォッチを装着しているので、1日の活動歩数が確実に記録されている。年平均のグラフを見てみると、3月までの時期より5月以降が明らかに歩行数が減少している。遠隔講義の開始が5月、そこから4ヶ月間は研究室で講義を制作し研究室からオンラインで講義をすることが日常となった。その影響が、明らかに出ているといってよい。教室で教壇上から語り、机間巡視し班活動の対話に助言する。このような90分間においては、かなりの歩数となりカロリー消費も高いわけである。しかし遠隔講義は、尽く大学教員からその身体性を奪ったという訳である。
もとより論文執筆などの研究活動は、座り続ける時間が長いのは確かであった。ただあまりにそればかりが続くのも、身体的に不健康であるとは思っていた。そうした意味で教室での講義は、身体を動かすには大変にありがたい時間でもあった。授業準備に費やす時間が長くなり、それが終わったとしてもそのまま研究室のPCの前で講義をすることになった。その上にこの暑さが加わり、冷房をかけた部屋に1日中籠ることも少なくない。どうしても1日の生活歩数は減少し、やがては脳の血液循環が悪くなったのではないかという感覚に至る。せめて資料読みは図書館に行くなど、最近は意識して対策を講じているが、それも遠隔講義期間が終わり定期試験期間になったから。講義制作と課題対応の連続で、研究室から出られる余裕もなかったのが実情だった。
あらためて意識して動こう
身体の固着は脳の血液循環もよくならない
感染対策のみならず「新しい生活様式」が大学教員にも求められている。
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季節と学事暦のかかわり方
2020-08-07
まだ終わらない前期講義梅雨明け十日からすぐに立秋へ
時節を問わない感染対策も続く
今朝は小欄を書こうと思い書斎の窓を開けると、足元にどこからともなく涼風が吹いた。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という『古今和歌集』秋の巻頭歌を現実に体験する思いである。本日は暦の上では立秋、「梅雨明け十日」という成句があって晴天が続くということらしいが、たった「十日」の「夏」から既に「秋」になってしまうような本来の季節観からすると不条理な地球を生きなければならない。今朝の東の空は妙に朝焼けがオレンジ色に広がっていたが、繊細な心を持てば季節は正直に僕らの前に顔を出すということかもしれない。
通常であればこの時期は前期末の定期試験期間、半期を締め括り夏の現職教員対象の研修なども始まり夏期休暇へ向かう構えをする時節である。それにしても長年の教員生活で染み込んだ学事暦の心身へのへばりつき方は、かなり執拗なものがある。コロナ禍で俄かに湧き出るごとく「9月入学」が頭を擡げ即座に消えて行ったが、何より現場を支える教員のメンタル面が転換しようがないほど春夏秋冬と深い心身との相関関係があるようだ。世間はお盆の帰省云々と喧しいが、もとより急速なコロナ禍で4月に前期を始められず、お盆を跨いで今月3週までは前期授業+定期試験期間が続く。
遠隔講義でなんとか終盤まで遂げた気持ちと
日々の講義制作に費やす時間的に大きな負担を思う
暦と時節、この国では何に囚われて人々は生きているのであろう。
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書店・図書館・街と郊外
2020-07-23
Web販売と街の本屋さんとまちなかと郊外の人の往来
リアルとオンラインといかなる融合を成していくか
子どもの頃からの大きな楽しみは、街の本屋さんに行くことだった。『小学◯年生』などの定期購読本を、母と商店街の買い物がてらに書店で受け取る日がたまらなく楽しみだった。小学校も高学年ぐらいになると少し離れたところに大きな本屋さんがあるのを発見し、その店内ではどこにどんな本があるかを把握するようになった。特にお気に入りのコーナーでは、「この本が売れてしまった」など本屋さんの在庫管理並みに把握していたことなどが思い返される。本屋で参考書を選ぶことは、受験の意志を強くする一歩として大きな動機付けであった。さらに大学生になるにつれ、神保町の古本屋街で自分なりの巡り歩く「コース」ができた。リアル書店の存在は、僕の若かりし頃の成長を大きく支えてくれていた。だが、宮崎に移住してからは市内から居住地が離れていることもあり、Web書店に依存するのが実情だ。研究室で読みたい本があればすぐにスマホから購入することができ、数日以内には確実にメールボックスに届く。もちろん市内に出向けば、リアル書店さんの店内を巡り歩くのであるが。
市内にある大手書店会社の懇意にする方が、本学附属図書館を見学のために来校した。昨年末に県庁文化振興の仲介もあり、書店の閲覧スペースで出前講義を2回やらせていただいた。通常はなぜか高校生などがかなりの人数集って、勉強をしているスペースだ。決して静かでもなく人通りのあるスペースを、なぜ高校生は勉強場所に選ぶのか?たぶん僕の経験の中にもあるような、「学ぶ」動機付けが書店にはあるのだろう。その閲覧スペースを利用したイベントも、現在はコロナ対応で使用ができないと云う。「まちなか文化堂」と名付けて来たるべく「国文祭・芸文祭2020」(来年に延期となったが)を盛り上げる企画を展開したいところだ。実施の可能性は「オンライン」にあり、附属図書館には限られた講演者・出演者・スタッフのみが密を避けて集い、企画内容をオンラインで配信する。大学附属図書館ならば「感染対応ガイドライン」も整備され、遠隔講義を実施している方法も熟知している。次第に市民の方々も大学附属図書館の存在を「利用できる」と知るようになる。書店と図書館が繋がった展開を見せる先例が目立ち始めている昨今、街と郊外という距離を超えて販売と閲覧、企画と公開という線で「本屋さん」と大学が繋がるチャンスであるように思われる。
「本屋さん」で抱く知的興奮
地域の小中高校生にも広く開放して行きたい
郊外である大学キャンパスに人を呼ぶための仕掛けを模索している。
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附属図書館リニューアルオープン
2020-07-16
「共創の場」として新たな機能さらにはオンライン対応機能も附加すべく
2016年からの改修計画・創発考案の成果が今
改修計画についての検討会議の最初は「2016年でした」という館長の挨拶に、4年以上にわたり自らが関わってきたことを思い返した。大学に赴任してそれほど経たぬうちに、初めての全学委員として図書館運営委員になった。「国語教育・日本文学」という研究・専攻の上でも、大学図書館の運営には大変に興味があった。その「在り方」を考え大学の学びが大きく変革する時勢に併走し、単に本を読みひとりで学修する場ではない創発的な機能の充実を考案する日々が続いた。2年前からは「副館長」のご指名を受けたこともあり、図書館協会の主催するシンポジウムを東大まで聞きに赴いたり、同志社・玉川・早稲田などの私立大学の充実した設備や施設の概念の見学にも足を運んだ。図書館の改修は一日にしてならず、新たな方向性へ改善しようと努力しているところへ予算措置がなされる。紛れもなく5年以上の日々が、そこにあることが館長挨拶の間中、僕の脳裏に走馬灯のように流れていた。
新たな情報、新たな人々と出逢う、カフェやプレゼンテーションコートのある1階は「交流」の拠点となる。地元宮崎のテーマごとに分類した書籍の展示的配架、もちろん其処には「短歌県みやざき」もある。2階は「黙考の杜」従来の図書館のように静かに個々が学修するスペースである。キャンパス周囲の緑を見ながら。全ての窓際にカウンター席が設置されている。3階は1階での出逢いと2階での知識修得を展開する、まさに創発の場となる。米国福岡領事館の支援を受けた留学デスクも常設。5台のプロジェクターを備え遥か日向灘も見える「hidamari(陽だまり)」では、このコロナ禍で急に需要が高まった遠隔オンラインへの展開も期待できる。県内外の教育機関などの空間を五ヶ所までオンラインでつなぎ、多様な対話を創造する可能性がある。また土足禁止の「itanoma(板の間)」では、日本文化に根ざした企画や地域のお子さん連れのお母さんたちが読み聞かせをすることも可能だ。また多分野の教職員らがともに語り合い大学を創ろうと集う「katarai(語らい)」もある。各部屋の理念や名前そのものにも、この約5年間の個々の検討場面が思い返される。僕にとっては子どものような存在の図書館が、いま産声を上げたわけである。
県庁文化振興課の方々もオープニングに駆けつけてくれ
「短歌県」を始め知と文化の交流拠点として地域にも開いていきたい
学生・教職員のみならず多くの一般の方々にもご利用いただきたい。
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社会的距離と対面性を考える
2020-06-27
座席を離しての対面講義ビニールシートなどで仕切られた学生窓口
マスクで塞がれた顔と顔
大学で廊下を歩いていると、遠目から怪訝そうな顔で同僚の先生が僕を見つめて近づいて来る。どうやら話したいことがあるらしく、「社会的距離」まで近づいて僕だと確認し立ち話。マスクをした顔はなかなか当人と判断し得ない状況があるのだと自覚した。久しぶりに会った学生などでも、僕も当人かどうか確認してから話しかけた場合もあった。顔の三分の二をマスクで覆っているだけで、対面情報が限定されてコミュニケーションが滞留するような状況を経験する。会議などでも、なるべく距離をとって座るようになった。発言や応答の通い合いは、やはり以前よりは形骸化した印象が拭えない。「社会的距離」の励行により、対話の環境が変化しつつあるようだ。
この数年間大学教育に求められてきた「アクティブ・ラーニング」、班別の学生同士の対話を取り入れて講義を進める方法を中心に採ってきた。なるべく「密」になってお互いの相違する考え方を対話することで、学生各自の思考傾向を客観的に知覚して気づきの学びを進めるということ。学部内で分散し開始した対面講義においては、「社会的距離」を保つ座席を指定し教室の収容率も定員(座席数)の50%まで、以前は指導しなければ後ろに固まっていた学生たちが、教室全体に均衡に拡がって着席している。僕は従来、教壇から学生までの近い距離が重要であると考えて、なるべく教室の前半分に座るように勧めていた。班活動をする際も机を向き合わせて対面度を上げて実施するようにしていたが、尽く反対のことをしなければならなくなった。試みに「社会的距離」を保った班別対話も行なってみたが、どうも煮詰まったものにはならないような印象だ。サザンのWeb配信ライブでも、メンバー同士やダンサーと桑田佳祐さんは「社会的距離」を考慮したと云う。「またみなさんとライブでお会いしたい」というメッセージに、やはり「ライブ」は「生きた」上での対話なのだと思う。こんなことを考えつつ、「教育に対面性はなぜ必要か?」という命題を考えている。
人と人とが遠ざかる
文化として持つ対人的習慣による感染の差もあるか
以前から考えてきた「ライブ性」を多面的に考えなければならない時代になった。
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