君が国文学を選ぶのは

2018-04-07
英語・社会そして国語から専攻選び
文系教科の中から決め手となるのは
自分自身があれこれ考えた階梯でもあり

小学校の教員は担任制で、全教科の授業を担当することになる。その全教科というのは、まさに人類が歩んできた知性そのものだと思う。だからこそ個々人の能力の範疇では、当然ながら得手不得手があり志向が異なるものだ。すべてにおいて万能であるというのは、むしろ胡散臭い気がする。よって小学校教員を養成するにあたっても、個々の拠り所とする専攻が必要であるはずだ。そのような環境で養成された多様な教員が、「学校」という場に集まり互いに刺激し合って子どもたちを育てていくことで豊かな思考が育つのである。「いつでもどこでも誰がやっても同じ授業」という謳い文句は、ある意味で理想的に見えるが、教育のファーストフードマニュアル化のように思えてしまい、実は危ういのではないだろうか。

振り返りますれば、自らが国語国文学を選んだ理由は何か?高校生の頃は、体育も含めて社会(歴史)・英語・国語のどの教科の教員になろうかとあれこれ模索した記憶がある。体育は部活をしていたからでもあるが、競技選手として大学で専門に行うには技量が乏しいと悟った。当初は苦手であった英語であるが、ある高尚な先生と出会ったことで得意科目となった。だが実は日本語との表現の比較に興味があることを悟り、日本文化のあり方について考えたくなった。ならば日本史か国文学か、という選択が最終的に残された。そこで考えたのは、人間の社会との関わり方を中心に考えるか、個々の人間の生きたこころを考えるかではないかと思うようになった。特に詩歌を愛好すれば、なおさら人のこころを考えたくなった。こんな過程で僕自身は国文学を選んだ。もちろん大学入学後も制度的に2年次から専攻が決まるので、その段階で日本文学か中国文学かも迷ったこともあった。

小学校教員としての専攻教科
中高教員志望者とも交えて多様な学びを提供したい
国語国文学を選んだ君に、意義深い学びを提供しよう。



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3分間で教科の魅力を

2018-04-05
新入生ガイダンス
専攻決定のための説明を
「国語」の魅力を3分間で・・・

大学受験を終えたばかりの新入生は、とりわけ「国語嫌い」が頂点に達しているように思うことがある。それは、「英語」の力はたぶん一生のうちの一番高いという日本の教育の皮肉と相まっている。1年生の講義では「国語の何がどのように嫌いであったか?」を、書いてもらうようにしている。「登場人物の心情を考えること」「作者の意図を答えること」などには、結局は「先生の作られた解答のみが良しとされる」ので嫌悪される。また教室で行われる「指名音読」も、誰も聞いていない中を、指摘を受けながら読む”苦行”であるため嫌悪度合いが高い。この日のガイダンスではまず、こうした点を嫌悪しなかったか?という問いを投げかけることから始めた。

30名ほどの小集団に対して3セットで専攻教科の説明。「国語が嫌いな人?」と問えば、半数ぐらいが手を挙げる。「君たちこそ国語講座に来るのに適した人」として、「その嫌いだった点をすべて理論的に大学では解明する」と投げかける。また「君たちはスマホでSNSで言葉をやりとりしているだろう」と投げかけて、「相手の言葉の真意を読みやすく、また相手に伝えたいことを的確に表現できるようになる」のが国語専攻であると紹介。「国語学」「国文学」「漢文学」「書写」の分野によって講義単位は構成され、3年生以後は「教科教育法」を学ぶ。これらが総合して「君たちは小中高生に『国語』を教える力が身につく」と説明をした。最後にはもちろん「白鳥は哀しからずや・・・」と牧水の短歌に触れて、自分自身を起ちあげてこの短歌を読んでみようと提案して話を締め括る。

さて何人が「国語」を希望するだろう?
小学校免許を主にしたコースは特に・・・
また新たな輝く眼に短歌のこころに出逢ってもらいたい。


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地域の図書を集めます

2018-02-21
そこにしかない品揃え
そんなお店に魅力を覚えるように
図書館も「グローカル」なコーナを新設

附属図書館運営委員となって、この3月で丸3年となる。この間、「ラーニングコモンズ」の新設や使用方法、「学生サポーター」の新設や活動、そして図書館の配架を含めたレイアウトの再考などに関わってきた。単に図書を利用して「静かに勉強する場所」から、「話し合い動き合い創造する場所」への転換がいま、大学図書館には求められている。そうした意味で先進の施設運営をしている大学へ赴いたり、国立大学図書館協会のシンポジウムなどにも出張させてもらってきた。館長や副館長とともに動いてきた甲斐もあってだいぶそのような改革も形になってきたが、いま少し具体的に現実にできることがあるのではないかと思っているところであった。

そんな折、図書館事務職員の方々からのお声掛けで、1階に「地域の図書」コーナーを新設し併せて留学生向きの図書をまとめて展示し、カフェスタイルで閲覧できる空間を創る提案がなされた。その場にどのような図書を置くべきかという点で、僕と歴史を専門とする先生とが相談にのることになった。「地域学」というと未だ学問分野では馴染みが薄いが、「地方創生」や「地域の活性化」などの号令に伴って、最近勃興してきた分野・用語である。本学にも「地域資源創生学部」ができて2年目となるが、地方国立大学が担う大きな使命の一つとも言えるであろう。新分野というのは多様な捉え方が可能なので、「地域学」というカテゴリーに囚われるよりも、「みやざき」そのものをコンセプトにして、柔軟に図書を揃える方がよいのではないかという方向に話は進んだ。

もちろんまずは「短歌県」として「牧水」関連図書
そして2020年国民文化祭へ向けて「神話と食」
歴史・産業・自然などと図書を通じて新たな発想が生まれる空間にすべく。


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各部署に心を込めてありがとう

2017-12-29
大学業務の仕事納め
各部署の方々にお世話になった1年
すべてに挨拶はできずこの場を借りて

大学業務も官庁同様に仕事納め。いくつかの方面に報告や感謝のメールを送り、提出が滞っていた書類などを指定部署に提出したりもする。この1年、研究・教育そして学会大会運営に当たり、様々な部署の方々にお世話になった。外部から学会大会宛に大量の郵便物が届くこともあり、その郵便物は個人名ではなく、「和歌文学会第63回大会運営委員会」宛であるため、特別な箱を用意していただき、料金後納葉書などを間違いなく丁寧に受け取っていただいた部署の方々がいらした。大学のメールボックスというのは、常々見て郵便物を受け取らないと様々な書類が混在し煩雑になりがちである。書類のみならず、定期購読の雑誌類や小箱ながら荷物も届く。それに加えて学会の出席葉書や郵便振替口座の収支を記した封筒などの郵送物の整理にも、大変気を遣った1年であった。

今年は学会大会開催のみならず、教務教育実習担当としての実務にも奔走する1年であった。担当2年目ということで、ガイダンスや事前指導などでの学生への説明・注意、また各実習校へ挨拶回りに出向き説明する機会も多かった。こうした実務を支えていただいたのも、担当部署の方々である。説明用の配布資料や申請書類などを整えて印刷していただく、内容の確認に始まる労力は並大抵でもないと思われる。諸々と伝え聞くところによると、国立大学法人化してから「経営合理化」の建前で、事務担当者もだいぶ人員的に削減されてしまったようだ。自ずと1人1人にかかる負担は大きくなっている。特に責任ある立場になると、時間外の夜間や休日に仕事をこなす方も少なくないように思う。非常勤を勤めていた母校の事務の方々の状況を知っているだけに、ある意味で「法人」とはいえ「国立大学」と冠している大学の”台所”がこのような状況でいいものかと思うこともある。待った無しの少子高齢化社会、それゆえにこそ国は「教育」に投資を惜しむべきではないのではないか。

午後は自宅の一部改修工事
街の電気屋さんにも諸々と世話になった
そしてゆったりとした時間を過ごす宵の口。


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今年は長い年内講義

2017-12-26
大学暦の変化甚だしく
休暇の余裕はほとんどなくなってしまった
研究・教育を支えるのは個人の努力なのか

Xマスを過ぎて、年末の雰囲気が一気に押し寄せて来た感覚である。今年度は大学暦の関係で講義は27日まで、町には小学生が日中に遊びまわる姿が見られたが大学はまだ終わらない。セメスターに「15回講義+試験」を文科省が必須として以来、各大学は暦の設定に大変苦心している。私立大学に在籍する研究者仲間などは、祝日でも通常の曜日の講義があって出勤することも珍しくないと云う。4月の新学期開始前の3月にオリエンテーションを実施したり、松の内に講義が始まるのも既に普通のことのようである。その点、国立大学法人は入試が2月下旬であるため、私立大学のように1月いっぱいで講義+試験を終わらせる必要もなく聊か余裕があるものの、夏休み・冬休みの入りは全校種で一番遅い。

今週の講義はどうなんだろう?と聊か学生たちの動向に注目していたが、まずは月曜の講義に関しては全員が顔を揃えた。帰省先がある学生にとっては、27日まで講義があると特に航空券の値段に大きな影響があるのではと余計な心配などもしている。まあ一時期は「大学レジャーランド」などと世間から揶揄される時期もあったゆえ、その反動が今にあるとも考えられるかもしれない。この流れに並行して、必然的に大学教員の仕事も多忙化している。これは「大学」に限らず全校種に言えることだが、「働き方改革」が本気で必要であるように思う。僕が初任者で教員になりたての頃は、町の親しいガソリンスタンドで「先生は休みばかりでいいですね」などと常々皮肉を言われていた記憶がある。そうした世間の狭量な見方が現在の波を作り出したのかもしれない。だが小中高大を問わず、「先生」には豊かな子どもの未来を考えるために、豊かな時間と心に栄養をつける余裕が必須ではないかと思う。欧米とくに北欧などで教育水準が高いのは、こうした点に予算を十分に確保し、「余裕」を生み出しているからに他ならない。こう考えると日本の研究力・教育力そのものが、危機に瀕しているとも考えられ末恐ろしいことだと現状を憂える。

時間さえあれば質が確保できるのか
講義内容・方法そして研究の深さが教育力を支える
「短歌」とは哲学・処世術的にも最たる表現なのかもしれないなどとも。


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隙間なきのち意味ある宴

2017-12-21
講義に会議が隙間なく
宵には忘年会がつづく
今やこうした機会は個人の選択の自由・・・

朝一番から全学のとある委員会会議、自らが興味ある分野ゆえ学内外の環境整備に寄与したいという気持ちがあるので、会議への出席も負担感は少ない。その後2限は通常の講義、講義を終えた足で学部販売所で弁当を買い込み、僅かな時間でドライカレーを掻き込む。昼休みは専攻講座会議があり、その流れで3限目の講義は図書館ラーニングコモンズ。1年生の教科専門科目であるが、『百人一首』を教材に和歌表現の豊かさに遊ぶような内容。学生たちが興味を持って古典和歌を対話し発表する姿に接し、担当者として気が和む時間となる。

講義終了後もすぐに会議へ。人は1日のうち何通り「頭」の使い方をしているのだろうか?会議終了後はいくつかの個人的な案件でメールや電話。ついつい電話の口調が荒くなっている自分に気付く。平常心を保つのは難しいなどとよく云われるが、動的な1日の中ではなおさらそれを痛感する。その後は学部の忘年会へ。一昨年の改組を機に学部互助会がなくなってしまい、参加も「任意」という傾向が強まった。せめて1年に1度ぐらいは学部教員や職員が席をともにする「意味」はあると思うのだが、時代はどうもそのような慣習を過去のものとしてしまったようだ。個人的にその「意味」を蘇生させるべく、少人数ながら自由で豊かな会話を何人もの先生方と交わすことができた。

どうも小欄の文体も荒れている
心身と相談して自らを立て直そう
しばらく運動もしていない・・・


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学祭の光景と時代

2017-11-20
身近な学生たちの非日常
そしてまた卒業生たちの来校機会
学祭の様々な光景から・・・

普段はマイクによる発声や大きな音のない静寂なキャンパスであるが、1年にこの数日間だけは「非日常」が訪れる。あくまで「学生による学生のための祭」であるから、赴任当初はあまり足を運ぶこともなかった。だがここ2年間は、教務担当ということもあって「緊急時対応」のために当番制で大学に詰めるようになった。幸い昨年も今年も「緊急時」に該当するようなことは発生せず、自由にキャンパス内を巡り歩くことができた。今年は特に「短歌会」ブースもあって、其処に行けば馴染みの学生たちにすぐに会えるという環境も整った。短歌会「第1号会誌」はなかなか好調に多くの方々に配布されたようで、ブースには短歌関係の方々も何名かが訪れてくれたようだ。まずは、興味を示して足を運んでくれた方々に感謝申し上げたい。今年は特に教室で何をするわけでもなかったが、来年以降はイベントを開催してさらに存在をアピールしたいところである。

さてキャンパス内には数カ所のステージが設けられ、ダンスや音楽が発表されている。其処にゼミ生が出演する光景を観るのもまた楽しみの一つ。普段のゼミでの討議では見られない姿が浮かび上がり、学生たちの日常が様々な綾で織り成されているのが知られる。だがいずれもいずれも「表現」に関係していると考えると、自ずとゼミで考えていることにも繋がってくる。学生時代というものは、専攻する「学び」だけでは十分な「学び」として満たされないと、自分の経験からも痛感するのである。思い返せば、僕の学生時代の学祭は今の時代とも違い、ある種の「主張」を持った企画イベントが乱立している様相であった。その中でどれだけ社会的にも通用する内容を企画制作実施できるかに、各サークルなどが躍起になっていた気がする。会員数100名近いサークルの幹事長という重責を僕も担っていたこともあるが、OBの方々をはじめ多くの社会人の方々から、様々なことを学んだ覚えがある。あらためて「あの頃」も忙しい日々を送っていたのだと、何かを担う「性分」なのを再発見したりもできた。

祭りのあとやがて哀しき
後夜祭での打ち上げ花火は今年から中止になったらしい
それでもなお、祭りには何らかの「主張」がと思うのは僕の世代だからであろうか。


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検索による過大評価の落とし穴

2017-04-05
相応の知識とリテラシー
PC再起動までの喩えようのない時間
「偏向した自分の意見を補強する材料を手に入れるだけ」

朝は新入生オリエンテーションの受付業務から。昨日の入学式とはまた違った表情の新入生が、大学の教室を目指してやってくる。これから4年間のうち、何らかの形で彼らと接することになるが、そこで僕は何を提供することができるか。大きく成長した姿で4年後の卒業式を迎えてもらいたいなどと先走ったことも考えつつ、新鮮な学生たちの姿に「学ぶ」ことの原点を顧みたりもする。先月19日付朝日新聞書評欄に『クラウド時代の思考術』(ウィリアム・バウンドストーン  青土社2017)が取り上げられており、その評に次のような趣旨のことが書いてあった。「能力の低い人ほど自分を過大評価する」という現象があり、「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれているのだと云う。Web検索旺盛の時代にあって、簡単に検索するだけで自分が物知りだという自己認識が肥大するが、それは「偏向した自分の意見を補強する材料を手に入れるだけだ」と云うのだ。誠に至言であると考えさせられた。

スマホの普及により、学生たちも何でも即座に「検索」するようになった。本来ならば重厚な研究書や全集などの書籍で調べるべきものを、簡易に「その場」で検索して「知識を得た」気になってしまっている。「検索」を掛けた段階で、多くの候補から無意識に自らに都合のよい情報だけを取捨選択している可能性が高い。前述の書評にあるように「知識がない人ほど、楽観的」ともいえるようである。また反対に「科学的知識が豊富」であっても、「自分の政治イデオロギーに適した解釈を下す傾向が強い。」という指摘もある。同書では対応策として、「新聞やテレビなど、プロによって編集された従来型マスメディアの重要性を強調」するのだと云う。「興味のない情報」にも触れて、全方位的な視野から物事を判断する必要があるということであろう。ちょうど夕刻に、PCソフトの構成を整えていると再起動に異常に長い時間を要する状態になってしまった。「自分の都合」では全部で30分もあれば終わると踏んでいた作業が終わらなくなった。開き直って待ち時間に夕食をしに行って帰ると、しっかりPCは使える状態で待ってくれていた。やはり僕自身も、「自らに都合のよい」判断で行動していたのだ。

新入生に身につけて欲しい思考
様々な知識とリテラシーが新時代を迎えている
いずれにしても「独善を排す」ということは、いつの時代も同じである。
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整理と引き継ぎの思考

2017-03-29
研究室の今年度分の整理を進める
学内の仕事も次年度への引き継ぎが
研究・執筆・創作もこうした思考が必須かと


春休みながら年度最終週は、重点的に研究室の整理を進めている。本年度のレポートや授業レビュー、様々なファイルにある記録の整理・保管をして、次年度の講義に支障のない環境を整備する。不要な書類はシュレッダーに破棄し、引き出しや保管庫を整えていく。それでも昨今は、教授会をはじめとして資料のペーパーレス化が進み、だいぶ資源の無駄使いは少なくなったように思う。このような行動をしていると、この1年間を振り返る思いが湧き上がってくることがある。特に学生たちが講義の最後に肉筆で書いた担当者へのメッセージなどを読み返すと、自らがやってきたことが報われた思いとなり、奥へ仕舞い込まずに見返せる位置に保管したりもする。「印字」ではなく、肉筆の「文字」の意義を再考するひと時でもある。などという感慨に浸ると整理は滞るのであるが。

学生時代に読むべき書籍のベストセラーに、外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫)がある。複眼的視点で物事を捉えて知的生活を勧め、思考をいかに整理し表現するかを説いた好著である。学生諸君でこの書物を知らない者は、急いで人の知らぬ間に読了し、「当然知っています」という顔をして欲しいほど、基本中の基本の書籍である。書名に示される通り、内容は「整理学」である。研究をはじめ執筆・創作となどの知的活動は、「整理」することでもある。「文章」は「思考」を表現したものであり、それが他者に伝わらなければ意味を持たない。「伝わるか」「伝わらないか」を自ら判断できる客観的な視点が求められる。また、研究・執筆・創作いずれも、「運動」と同じように絶え間なく「続ける」ことが上達の秘訣でもある。この1年半ほど「短歌」を創り始めて、誠にそれを実感している。そしてまた、「短歌」という表現に自らの「心」を収斂させるのもまた、「思考の整理」と「言語表現」を擦り合わせる所業に他ならないだろう。

デスク周辺はほぼ終了
本日は棚の整理を予定している
進めるごとに「知的生産意欲」が倍増するように感じている。
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ビブリオバトル九州Dブロック予選会(宮崎大学)

2016-11-27
今年はホスト校として本学図書館にて
知的書評合戦として8名が参加
鹿児島・宮崎の大学生たちの競演

勤務校の附属図書館にて、標題の大会が開催された。昨年来、附属図書館運営委員となったこともあり図書館活動の推進にも従事している。今年は様々な他の行事と重なってしまい、2度に渡る学内予選の参観やゼミからの出場者を出すことができなかったのことが悔やまれる。昨年はゼミの4年生が参加し見事に大学代表となり、鹿児島大学まで応援のゼミ生とともに乗り込んだことが懐かしく思い出される。「ビブリオバトル」とは冒頭にも記したように、「知的書評合戦」である。出場者が自分で選んだ本に関して3分間のプレゼンテーションを行い、その後2分間のディスカッション(質疑応答)を行い、会場に参加している方々に本の魅力を伝えるというもの。審査員は会場にいるすべての人で、最終的に「どの本が一番読みたくなったか」を基準に投票し得票数の多い出場者が勝者となる。プレゼンの内容や知人・友人であるかといった贔屓目ではなく、あくまで「どの本を読みたいか」を基準とするのが肝要である。

今回の大会で取り上げられた本は以下の通りである。
1、甲賀忍法帖(山田風太郎)
2、変身(東野圭吾)
3、少女は卒業しない(朝井リョウ)
4、ちいちゃな王様
5、歌うクジラ(村上龍)
6、てい先生(ゆくえ高那)
7、四畳半神大系(森見登美彦)
8、脳の右側で描け(ベティ・エドワーズ)

僕自身が投票したのは、5番目の『歌うクジラ』である。発表者は冒頭に「僕は今日、皆さんに警鐘を鳴らしたいと思います。」と始まり、該当書がフィクションとして描く「現代社会の行方」がどれほどに壮絶かが紹介される。人間の徹底的な階層化と政府の管理下に置かれる社会。身の回りのものは「共通化」され、日本語の大きな特徴である「敬語の喪失」などが起きる。プレゼンを聞いているうちに、どうやらこれは「フィクション」ではないような気にさせられる。僕は発表者に質問をした。「この本が書かれてから11年ということですが、既に起きている危機的状況は何であると思いますか?」と。すると「自動運転」など機械による「行動管理」のような現象はその兆候であるという答えをいただいた。スーパーのレジの「セルフ化」なども進むが、こうして「機械」が「人間の仕事」を既に奪い始めている。あと20年〜30年もすれば、失われる職業はかなりの量と職種に及ぶということ。囲碁や将棋の名人が人工知能と対決することが試されているが、時に「名人の敗戦」の報に触れると、まさに人間の知力とは何かと考えさせられてしまう。そんな壮絶で暗黒な社会を助長するかのような政治・経済の動きに、僕たちは果たして無頓着でいいのだろうか?『歌うクジラ』ぜひ読んでみよう。

優勝本は『脳の右側で描け」に決定。
「描画」という人間の豊かな脳のあり方に注目が集まる
大学生の「知的」を支援するイベントとして今後も注目したいと思う。
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