受け継ぐゼミの志

2017-07-18

自由闊達に発言する
各自が表現して考えを深める
そしてまたよく酒を呑む

大学院の恩師がこの世を去って10年目となった。病のことを知らされてから数ヶ月での急逝、僕たち院生はもとより、学部生で卒論ゼミであった学生たちのショックは甚だ大きかった。その卒論ゼミを急遽代講させていただき、彼らが卒論を提出し卒業するまでを、経験もない僕が担当することになった。5月の連休や夏休み中に、彼らが卒論の題材としている文献を読み漁り、恩師ほどではないまでも、何とか「指導」できるまでの次元に至ろうと死に物狂いで努力したのも、今では懐かしい思い出となった。そして恩師もお呼びしようと計画していた夏合宿。1月の卒論提出を経て、2月には京都に中古文学を巡る卒業旅行も実施した。このあまりに急な経験が、僕のゼミ指導の基本に据えられている。

当時の学生たちとは、恩師の命日であるこの時季に毎年欠かさず会うことにしている。その時間設定やお店の予約など、毎年のことながら彼らの中の女子たちが用意周到にこなしてくれる。また当時からそうであったが、会えば忌憚のない談話が次から次へと展開する。まさに彼らの20代をそのまま、僕も付き合わせてもらった感覚である。ゼミ生の多くは仕事に向き合いながらも家庭を持ち、子育てなどの話題も頻繁に話されるようになった。中古文学を自由闊達に語っていたあの頃と同様に、彼らとの対話から学ぶことも多い。紛れもなく僕自身が今もゼミで求めることは、彼らとの時間を起点としている。

恩師が導く僕自身の定点観測
穏やかな笑顔で今も見守ってくれている
「教育」に携わり人に接するこの上ない幸福の時間。
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盤を反対から見ること

2017-06-28
藤井四段14歳の29連勝
対局の休憩の一場面に
物事の見方について考える

公式戦29連勝の歴代新記録を樹立した最年少棋士藤井四段の活躍がめざましい。こうなると将棋などは年齢ではないのかと、様々な思いが駆け巡る。どのような生育過程で、どのように思考力や想像力を育んできたのか。たぶんそれほど「特別」ではない習慣の積み重ねによって、あの境地に到ったのではと「教育」を考える身としては思いたくなる。将棋のことには明るくないが、その先見性とか戦略性は、小手先の技術や工夫などではきっと養えないと思うからである。些細な「見る」の積み重ねが、どの道にも求められるのではないかと勝手な予想をしている。

TVでその様子が報じられていて目にしたのだが、対局の休憩時に藤井四段は相手側から盤を見ることがあると云う。これは先ごろ引退した加藤一二三名人の「必殺技」でもあると聞く。素人目に見れば「反対側から盤を見たところで何も変わらない」と思うかもしれないが、あれほどの境地に達すると何か違う風景が見えるということだろう。この単純にして素朴な「見る」行為こそが、大きな意味を持つことは、様々な分野でも同じであるようにも思う。著名な文学教材を反対側に立って見て読むということから、新たな視点を見つけ出す興奮に酔い痴れたいと思うのである。

ゼミであらためて読む「ごんぎつね」
定番教材ほど固着した読みになりがち
反対から、いや三百六十度から見ようとする柔軟な思考を持ちたいものである。
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後退か前進か受験勉強

2017-06-06
貴重な体験から学ぶこと
知識を積み上げる地道な勉学
総合的に成長するためには・・・

教育実習期間を終えて、多くの学生が大学に戻ってきた。個々に貴重な現場での体験を通して、また一皮向けた成長が見えることを期待して迎えたい。だが一方で来月に控えた教員採用試験に向けた「受験勉強」に関しては、どうしてもこの2週間は停滞せざるを得ない状況となる。「実習」に関しても精魂込めた授業づくりや学級活動をせねばならず、一方で「受験勉強」も気になるというダブルバインドの渦中で、うまい精神的な均衡が必要なのも事実だろう。だがしかし、特に「就職」が関係した「受験」において、僕は「人間的な総合力」が必要ではないかと常々思うのである。基礎的知識や技能を問う一次試験を通過したとて、二次試験での面接・集団討論・場面指導・模擬授業などではやはり現場での経験がものをいう。それだけに臨時採用講師で現場経験を積んだ人々の方が新卒より強いのも必定である。それだけに新卒学部生が為すべきことは、限られた期間とはいえ「実習」なのではないかと思うのである。

様々な受験熱の高まりが社会慣習化したことで、小中高各校種が「受験予備校化」している現場が多く見受けられる。特に「高等学校」の場合はそれが顕著で、「学力」=「受験の力」という矮小な教育観がはびこっている。小中学校ならまだ各教科で「育てたい力」を意図した授業が展開するものの、地域によってはやはり「高校受験」「私立中学受験」を意識せざるを得ない状況も珍しくはない。もちろん都市部を中心に所謂「お受験」と称した「私立小学校受験」熱も高くなり、ある意味で「異常」とも思える状況も散見される。僕自身も正直なところ「私立中学受験」の体験者であるが、それだけに「受験」中心の学力観に対する抵抗は強い。少なくともその「抵抗」の具現化として、中学高校時代はとことん運動部に所属して青春を謳歌したことを誇りに思える。大学受験前は7月の「国体予選」の試合にまで出場して、担任諸氏は「(高いレベルの)大学などは無理」と諌めたが、その抵抗ある言葉を再び力に変換し、志望大学に現役合格をすることができた。「部活動」あっての「現役合格」であると僕は今でも信じている。

座学では身につかない人間としての力
現場や実体験から学んで一回りもふた回りも大きくなる
4年生には「大きな前進」があったと力強く語りかけてみたい。
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響く「いとうつくしうてゐたり」

2017-06-02
小学生が古典に親しむには
千年前という「知識」よりもことばの響き
その音に感じるみやび

現行学習指導要領における小学校の「伝統的な言語文化」教材の授業については、小欄でも何度も取り扱ってきた。その「音読中心」とされる授業内容の検討・精査が求められ、いかにして「親しみ面白い」と子どもたちが感じられるか。「親しむ」とはいうが、千年の日本語史の距離感をどう授業で実感していくか問題点は尽きない。ただただ暗誦ができれば一つの「達成」と見てよしとする風潮も、未だに否めない。さらには同じ『竹取』『枕草子』『平家』などの作品冒頭を、中学校でも高等学校でも学ぶことになる学びの段階的な一貫性の問題も尽きない。

この日、ゼミ生の教育実習研究授業を参観して気づいたことは、古語のもつことばの響きのよさを体感していくことの効用である。例えば、『竹取物語』冒頭部分の「それを見れば三寸ばかりなる人、 いとうつくしうてゐたり。」とあるうちの「うつくしうて」(音=うつくしゅーて)といったことばの響きから、「千年前」といった隔たりを実感できやしないかということである。小学生は中高生とは違ってまだ「音」に敏感である。また自ら「音読」する活動も好きで、恥ずかしがることもなく「音読」を楽しむことができる。この段階でこうした「美しいことばの響き」を体感して、古典への思いを起動する学習活動が求められるということであろう。

自明ながらも確認すべきこと
ただ「音読」をすればいいわけではない
日本語の豊かな響きをもっと〈教室〉へ

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共感的関係を創るために

2017-06-01
子どもたちの変化に気づくこと
そして惜しまず言葉にして投げかけること
共感的関係から生まれる豊かな時間

ゼミ生の教育実習研究授業参観に毎日のように出向いている。現場に行くと「ゼミ生の指導」というよりも「僕自身の学び」になることが多く、毎年様々なことを取材し問題意識として研究や講義に活かそうとしている。「授業」というのは「生きている」(ライブ)というのが、僕の信念でもある。「授業が」というよりも、「生きた学習者」が創る「学び」なのだという前提で考えるべきであろう。指導者の提供する「授業」は、「いつでもどこでも同じ」といった「ファーストフード」のごときものではない。「今此処」にしかない学習者とともに共感性をもって創造するものである。その共感性を意識せずに、「自分が上手くやりたい」だけの授業を傲慢にも進めてしまえば、学習者にはその内容も届かないこともある。

それでは「共感性」などというものは、どうしたら築けるのであろうか?理論的な言葉にすれば難しく響くが、要は人間として心遣いをもって学習者と接することに尽きるように思う。例えば、朝の学級で顔を合わせた時にも、子どもたちは様々な表情をしているだろう。その一人ひとりの表情を思い遣りをもって受け止めるということ。昼休みを経てある子どもが衣服を汚していたら、昼休みには「何をしたのか」と気にかけて言葉を掛ける気持ちがあること。帰りの会で浮かない表情をしている子どもがいたら、帰りがけに話を聞いてあげるということ。これらは社会では至って常識的なことであるように思うが、その「常識」を実行することがまずは大切である。往々にして社会生活をしていても、こうした心遣いができない輩を見ることも少なくない。どうやら学生だけの問題ではないようにも思えてくるのだが・・・。

人として人に出逢う
その縁に感謝する
日本社会全体が、そんな大切なことを失いつつあることを憂えつつ。
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風薫る五月に卒論題目

2017-05-02
卒論題目提出
自らのテーマをことばに載せて
ちょっとでも新しいこと見つけてみよう

風薫る五月、気温は既に30度近いが頬打つ風は穏やかに感じる。旧暦では4月6日、いつしか初夏といってよい時季になっている。月ごとに何かが変化する。今年も三分の一が終わり、来るべき季節に向けて足場を固める。草木も芽吹き虫は躍動し燕たちの巣作りも盛んだ。なぜか様々な感性が起動して、五月が動き始めた。この月の10日には、4年生の卒論題目締切が控えている。この日は、何人ものゼミ生が題目の相談にやってきた。教員採用試験の勉強、そして4年間の集大成としての教育実習などと並行しながら、まさに大学時代の仕上げに向けて取り組みたいテーマをことばに載せていく。

本気でやりたいこと、やっていて楽しいこと、自他ともに読んで面白いものを選択するように日頃からゼミでは言っている。建前や他者から与えられたテーマ、また技術的な作業に終始する論は、書くのも読むのも苦痛であろう。自らの心がどう動いたか、それを今此処にしか存在しないかけがえのない自分のことばにして、未踏なことばの深淵を発見する。取り組んでいてワクワクするような卒論として、ぜひとも取り組んでほしい。題目について対話していると、学生の心に何かが起動するようだ。其処に火をつけることこそ、小生の役割だと自認している。

こうして何かが変わり始める
夜は温泉で心身を癒やして
食材としての春野菜がまた身体に優しい。
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未来をひらく国語教育と短歌

2017-04-12
「変化・変容に応じて自己を形成・拡充する内なる力。
 外なる他者と関わり、認識・思考の活動を通して主体を形成し、
 自己にとっての新しい価値を生み出していくことばの力を育てること。」
(『月刊国語教育研究』2017年4月号 巻頭言 田近洵一氏より)

今年度初のゼミでは「未来をひらく国語教育」と題して、冒頭に引いた田近氏の文章や、同誌に「問題提起」とされた今村久二氏の文章を読んでの対話活動を実施した。田近氏の文章の結びには、「自らのことばの可能性をひらいていくところに、ことばを自分のものにする言語学習は成立する。即ち、未来をひらく教育は、ことばの生きる現場を自ら体験することを通して、主体の言語学習力を高めるところにこそ、その可能性を見出すことができるのではないだろうか。」とされている。続く今村氏の問題提起では、「子供たちの五五%は将来、今は存在していない職業に就く」「仕事の自動化」や「人工知能が人類を超える」といった「予測できない」社会の大きな変革を見据えて、「自分がどのように生きるかを問い続け、行動しようとする主体」を期する教育実践が必要ではないかと提言されている。

こうした「未来志向」の「国語単元学習」における今村氏の具体的な提言として「通時的な言語の志向を未来に開く」として次のような指摘が記されている。「古典を初め、継承し、享受したい言語文化を、解釈・理解にとどめ、単なる遺産におとしめている。現在の生活、未来への展望を志向する場を模索したい。」ここでは、これまでの「古典」などにおいて、学習者主体な授業が為されておらず、「瑣末な言語事項」を押し付けて「訳するだけ」で、「自己形成・拡充」を志向するものにはなり得ていないことを云っている。往往にして現場で高校生などは、「現在使用しなくなった言葉をなぜ学ぶのか?」と疑問を抱き「古典」を嫌悪する場合が多い。「遺産におとしめている」と指摘されているが、どうやら短歌界では、「短歌は(文化的)遺産として申請はしない」という方向性を佐佐木幸綱先生などが打ち出しているようだ。それは、今回の「国語教育」に関する提言と軌を一にするもので、「短歌」は常に創作主体の「現在の生活」に根ざし、「未来への展望」という視点を持ち得るということだろう。昨夏の「牧水短歌甲子園」に於いても、優勝校の代表生徒のスピーチに「短歌を詠めば、現在・過去・未来は変えられる」と云った趣旨の内容に、心が熱くなったのが思い出される。

「未来をひらく国語教育」に於いて
「短歌」は誠に格好の教材であるということになる
あとはそのことに学校現場が気づくよう努力しなければならないのであるが。
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弱点に自覚的であれ

2017-04-07
ゼミの新人歓迎会
その前に年度始めの面談など
一人ひとりの弱点に自覚的であれ

「痛いところを突かれた」という成句がある。誰しも自らの弱点を指摘されると、このような思いに到るであろう。だが、なかなかその「弱点」を指摘してくれる人はいないものだ。すると自らの中で「弱点」をそれと自覚しないまま先に進んでしまい、肝心な折になってから実際に自らが「痛い目にあう」ことになってしまう。誰しも「弱点」を心のうちにおいて隠蔽し、むしろ自覚することを避けてしまうのであろう。年度始にして、ゼミの学生たちが研究室に集合した。全員で今年度のゼミ時間割やイベント類の日程などの確認を行い、概ねの方針や方向性を確認した。そして、4年生は個々に面談を実施し、主に現況の「弱点」を指摘するようにした。その指摘にもとづき”自らを変える”生活を進めることが、教員採用試験や1年後に現場の教壇に立つ上で、重要であると説いた。昨日小欄にも同様の趣旨を述べたが、己を「現場の教壇に立たせたい人材」として客観的に見てもらえるようになることが肝要である。

新たにゼミに加わったゼミ生は2名で例年よりは少なめであるが、やはり教員志望の意志は強いようである。志望動機や「国語」でどんな分野が好きかなど、こちらはお互いを知るための面談を進めた。研究室を持ってから、ゼミで「何ができるか」を自ら常に問い掛けている。単に「卒論指導」のみに終始するのは、本望ではない。人として教員としてどう成長するかを、あくまで念頭に置きたい。となれば、自ずと様々な体験活動に誘うことも多い。大学近隣の2校の小学校には、朝の読み聞かせにボランティアとして通う学生たちがいる。そこで培った繋がりから、授業見学や行事の参観など、自らの卒論や将来に資する活動に発展する。「学校」という範囲のみならず、短歌関係をはじめとする文化的な活動に様々な形で参加してもらうこともある。対外的には「忙しいゼミ」と映るようだが、学生時代の「無理をしてでも」の部分こそ、その後「生きる」上での糧になることが多い。現に新4年生の姿に、この1年間の成長を見る思いがした。

夜は新入生歓迎焼肉会
先輩たちは現場教員としてどんな顔で臨んでいるだろう
忌憚なくこころを通わせることからすべてが始まる。
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「三上」で参りましょう

2017-04-02
「余、平生文章を作る所、多くは三上に在り。
 乃ち馬上、枕上、厠上なり。」
(欧陽脩「帰田録」より)

今年度は土日から始まる。来週からは入学式・オリエンテーションと一気に大学も動き出す。休日とはいえ、在校生への教育実習オリエンテーションの準備で半日は研究室へ籠った。事務的な作業を進めるのと、研究をする批評的な思考と、はてまた創作をするときの自由な発想とは、それなりのチャンネル切り替えが必要だと思う。それぞれを行う時間と場所にも左右されるので、一日の中での設定も大切である。大学受験の頃からそうだが、学びや作業というのは、その内容に適した効率よい環境と適合させることで、自分の力を最大限に発揮することができるものだと思っている。採用試験などの学習に取り組む学生たちによく、「生活を変えろ」と言うようにしている。「学習」を「生活」に取り込むのではなく、「生活」の一部に「学習」を位置づけるということ。教員採用試験などでの一次通過は、このような意味で「本気」になるや否やというだけのことであろうと思う。

冒頭に掲げたのは著名な中国・宋代の文学者・欧陽脩の至言である。文章を練るにあたり好都合なのが、「三上」であると云うのだ。「机上」とはかけ離れて、いずれも「生活」の一部に格好の場所は用意されているということになろう。ここで云う「文章を作る」は、決して「事務」ではなく、「研究」かむしろ「創作」寄りのことだと考えたい。三つのうち、特に「馬上」は現代では一般的でなくなってしまった。代替物として車があるではないかと言うかもしれないが、どうも「機械の運転」となると安全性を第一として、また違った神経を使っているので、少なくとも僕は「文章」には向かない。「馬上」には適度な揺れとともに自己の身体性への強烈な自覚があるはずだ。現在、この「馬上」に一番近いと思っているのが「水上」である。プールで泳いでいると特に「創作」の思考が激しく刺激されるのだ。「散歩」にも似て妙な思考回路が起動してくるのである。もちろん、現代でも「枕上」は健在である。寝込もうとして衝動に駆られて、メモ書きに起き上がることもある。だが「厠上」に関しては、あまりにも現代の朝は忙しすぎるのかもしれない。

学部の恩師はいつ論文を書いているのかと不思議だった
忙しいゆえの研究・読書・創作
教員採用試験も二次となれば「人間」を磨いておく必要があることを念頭に・・・
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卒業するゼミ生へー豊かな人間性をもった教員たれ

2017-03-25
卒業証書授与式にあたり
ゼミ第3期生5名を送り出した
毎年のように思う自らの指導の定点観測日

宮崎大学・大学院の卒業証書・学位記・修了証書授与式が、シーガイアコンベンションセンターで挙行された。今年度は教務担当ということもあって、受付の仕事があり早朝より会場へと出向いた。次第に卒業生たちが受付台の前にやって来る。専攻の学生のみならず、講義科目で担当した学生たちが華やかな衣装に身を包み、人生の大きな節目の日を迎えたのだという感慨が込み上げて来る。その顔・顔を見ていると、講義の発表でこんなことを発言したとか、こんな作品を朗読発表していたとか、個々の記憶が穏やかに蘇る。一講義担当者として、どれほどに個々の学生たちの「記憶」として「学力」として、何かが遺っているかというのは、実はとても重要ではないかと思う。小中高校とは違って遥かに多くの担当者の講義を受ける大学であるからこそ、その内容がどれほどに学生のこころに浸透しているかは、「授業アンケート」などの形式以上に講義内容の意義を表すのではないかと思うゆえである。またそれは講義内でどれほど多くの対話があって、担当者として受講者と関わった度合に左右される。聊かそんなことを考えながら、受付で式次第などを卒業生たちに手渡した。

宮崎県内小学校2名・中学校1名、大分県中学校1名、兵庫県小学校1名という内訳で、ゼミ生5名のすべてが4月から教員として現場の教壇に立つ。ゼミとあれば卒論指導が中心であるが、それと同等に様々な「体験」を提供し、現場の教壇に立つ際の「糧」を提供したいと強く思っている。更には大学生として社会人として巣立つにあたり、人間的にどれほどに成長するかという点もゼミ指導の役割ではないかと思われる。よって研究室内での活動のみならず、短歌関係のイベント・芸術家派遣活動・公開講座補助などへの参加を通して、多くの分野の人々と出逢う機会を多く持つようにしている。人は出逢いの数だけ、人生が豊かになるはずである。たとえ当初は「違和感」を覚えたとしても、それが刺激となって人間としての厚みとなって来る。仲間内というのは、分かり合えて助け合う人々として有効であるが、内輪のみに安住していると、知らぬ間に頽廃への馴れ合いが生じてしまう。「可愛い子には旅をさせろ」の諺通りに、異質なものと出逢う経験を学生時代にすることが実に重要だと思うのである。「授業」の技術に長けるのみならず、何より人として信頼される教員となって欲しい。「豊かな人間性をもった教員」それがゼミで学ぶ主眼であり、僕自身の信念でもある。

1週間後は「先生」となるゼミ生
彼らからは、僕自身の現場経験が豊富な点を称えてくれる言葉も
このくにに豊かな人間性を諦めないためにも、一人一人の教員を育てる決意もあらたに。
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