詩ごころ文学のこころ

2018-05-30
ゼミ4年生教育実習研究授業
様々なジャンルの教材の授業研究
小学校にも中学校にも

ゼミ4年生の公立実習が2週目に入り、研究授業が行われる時期となった。今年度前期は担当講義が多く、実習訪問の時間を確保・調整するのも難しかったが、ゼミ生たちが上手く実習校とも交渉し相互の時間を配当したため、5校を参観することができるようになった。その初日は早速2校へ、1校が終わると宮崎市内を車で移動し次の実習校へと向かう。幸い市内の道路は渋滞などもなく、ほぼ予定通りに移動も可能だ。だが実習参観を終えて、すぐに大学に引き返してゼミの時間枠があり、なかなか昼食の時間もままならない。そのため初めての試みに、牛丼チェーン店の「ドライブスルー」なる販売方法を試してみた。弁当を一袋下げて大学へと戻り、ゼミの前の僅かな時間で昼食も取ることができた。

本学教育学部は義務教育の教員養成を旨としており、実習先も自ずと小学校・中学校ということになる。よって実習の研究授業で扱う教材も多岐にわたり、物語・語句の知識・詩歌から古典まで幅広い。だがいずれもいずれも「文学のこころ」を大切に扱って欲しいと、毎年のように思いを抱くことになる。とりわけ僕自身が専攻として愛好する韻文・詩歌を教材とする授業には、どうしてもこだわりも深く参観することになる。この日は中学校での俳句を扱う授業で、生徒たちの創作段階を参観することになったが、短歌ではなく「俳句」であったことで、なおさら自らの詩ごころに火が点いて勉強になった。そういえば、伊藤一彦先生も短歌を創る際に「俳句」を読むと発想に目覚める時がある、と云った趣旨のことをおっしゃていたのが思い出された。

国語教師なら持っていたい
詩ごころ文学のこころ
物語の登場人物の台詞の読み方なども同様である。


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喋ることから生み出す

2018-05-23
「ブレイン・ストーミング」
「脳に嵐を起こし」揺さぶって発想を吐き出す
まずは「喋る・記す」をしなければ脳は動かない

ゼミでは4年生が公立実習に入り、3年生のみとなった。この機会に3年生がこれからテーマとしたいものの掘り起こしを2週にわたって実施する。その初回は「発想マップ」を作ること。中央に中心的なテーマを記し、そこから枝葉が伸びるように関連した事項を書き連ねていく方式だ。米国発の発想法として、所謂「ブレイン・ストーミング」という。「ストーム」は「嵐」、いわば脳内に「嵐」を呼び起こすというもの。何を書いても自他ともに否定する・されることなく、5〜6分程度の時間であまり考え過ぎずにある程度仕上げるのがコツである。その後、作成した「発想マップ」をもとに他者と対話をする。そこでまた自由に質問や確認をして、新たな気づきを得る。この時点では「喋る」ことの効用を、存分に活用することになる。自分が文字で描いた「発想」を今度は、口頭で他者に伝えるのである。そのことで、脳内の嵐は境界を超えて融合をし、自らの進む道が見えて来るものである。

「考える(発想する)」=「記すこと」「喋ること」なのだと、こうした機会の学生に接していてあらためて痛感する。「(何かを)考えて」と課題を出して、「書いたり」「話したり」させなければ、「考えさせた」ことにはならない。ノートは取るにしても、90分間一方的に教師側が話し続ける講義が、いかに無益であるかがわかる。否、たとえ90分間教師が話し続けたとしても、聞く側が自然とメモして、思考に揺さぶりを掛ける話し方をすべきであろう。聞く側が「眠くなる」講義というものには、この「揺さぶり」がないのである。ゼミや講義に限らず、日常生活でも「書く」「喋る」のは大変重要と思う。この日から在京の父母が、宮崎にやって来た。日常ではスマホメールか電話での母との会話が、実際にできるようになる。あれこれと今の状況を「喋る」ことは、単なる情報の共有ではなく、今現在や今後の家族関係がどうあるかを「発想」することにもなる。母は最近覚えたスマホを使用できるようになり、文字を「書く」ことの新たなツールをも持ち得るようになった。その使用に挑戦することでより一層、脳内を自ら揺さぶって欲しいと願う。

書面に画面に「文字を書く」こと
対面に電話に「声を交わす」こと
ゼミでは、顔を突き合わせて己の考えていることを曝け出すこと。


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この初心なるいまを忘るな

2018-04-02
新年度初日
卒業生にメッセージ
明日には辞令交付式との

新年度初日が日曜であったが、いずれにしても新たな気分の朝であった。ここのところ新年度の態勢を整えるべく研究室の整理に赴いているが、5年分の保存資料の置き場にはあれこれと思案しなければならない。また書棚の構成も担当科目の変化に伴い、徐々に入れ替えをしていかねばなるまい。この何かが始まる胎動を感じるような時間は、悪いものではない。研究でも教育でも、新たな構想に胸を踊らせるのは楽しいものだ。その環境づくりには、労を惜しむべきではないと常々思っている。

夕刻になって馴染みのカレー店に出向いた。以前はゼミ生がバイトをしているという縁もあって、居心地のよい店である。すると卒業生たちはどんな新年度を迎えているかと気になり、グループメッセージを送信した。最近は便利なもので、普通にゼミで会話をするかのように全員が言葉を交わすことができる。その全員が「明日が辞令交付式です」とあって、いよいよ社会人・教員としての前夜に胸を踊らせていることが伝わって来た。そのメッセージの言葉には、生き生きした「初心」が込められていた。そう!この夜の「初心」をいつまでも忘れず、立派な教員として歩んで欲しい。

謙虚かつ信念を忘れず
まさに「染まずただよふ」の境地
今頃はちょうど職員室で、ぎこちなく動いている新人教員の姿が浮かぶ。


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贈る言葉は四年そのもの

2018-03-24
卒業式・祝賀会
受付業務から卒業生らと
餞の言葉は四年間での言動で・・・

またこの日がやってきた。教員になって初年度から、常に僕の人生には卒業式の日がやってくる。その初年度などは非常勤講師であったから、授業しか担当していなかったが、それでも卒業式で感情が高ぶったのち、夕方になって誰もいなくなった教室で一人黄昏れた記憶がある。その後の中高教員時代は、全ての年度に担任を持っていたので、当日の教室でまさに「贈る言葉」を生徒たちに伝えてきた。振り返りますれば、青き未熟な教員時代は形式的にその「言葉」を紡ぎ出していたように思う。だが次第に自然と在学時代のことを振り返ると、その内容が語れるようになってきた。要は建前の「贈る」は要らない、既に在学時の関わり合い方によって卒業式の日の最後の心の交流は出来上がっていると言ってよい。

今年卒業するゼミ生たちは、特に前述したことを明らかに感じさせてくれた。ゼミに入ってくる3年次から、様々な課外活動に参加して多分野の人々との交流も積極的にこなして来た。また大学近隣の小学校に足繁く通い、朝の読書活動などを進めて来た。日常から議論する際にはお互い忌憚なく、納得が行くまで徹底的に語り合った。そんな中で僕の方も、教えられることが多かった。この2年間というのは僕にとっても多忙な日々で、教務教育実習担当でありながら「地域連携群読劇」の企画実施や和歌文学会大会の開催に漕ぎ着けた。その行事もまた、このゼミ生たち無くしては実現しなかったのも事実である。僕自身は助けて欲しいと思うことは、率先して参加して協力することを惜しまなかった。さらにはゼミ生たちを中心に「宮崎大学短歌会」も結成された。このような二年間であったからこそ、卒業式で形骸化した「贈る言葉」があるのではなく、既に今後も継続する彼らとの「関係」があるのだと思う。

「染まずただよふ」と名前の刻印された記念のペン
これを携え教育現場で今度は君たち自らの「卒業式」へ向かう日々へ
僕もまた次の卒業式へと向かう準備を始めよう。


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大学で学ぶ意味をもう一度

2018-02-20
講座専攻卒業論文発表会
4年間での学びとは何か?
私情に流れず客観的立場から冷静な批評ができること

学部国語教育講座の卒論発表会を開催。4年生たちが自らの卒論の内容を、ポスターセッション方式で発表した。研究室によって様々な個性はあるが、基本的な問題意識として「ことばとは?」「文学とは?」という視点から様々な方法で思考が展開している。昨今、諸大学では「卒論」そのものが無くしたり、簡易なものにしてしまっている向きを聞くこともあるが、やはり大学での学びをここでまとめる意義は計り知れないと思っている。会の最後に所属教員として総評が求められたが、在学生を含めて「大学で学ぶ意味は何か?」と問うてみた。資格なり小手先の技術や話術を身につける狭量な意識で学ぶ場所ではないことを、まずは念頭に置いてもらいたいという願いを込めての訴えである。

「感動」「共感」「嫌悪」「憎悪」人は生きていれば様々に正負の感情を抱く。それをそのまま「感動した」「共感した」と言うのはあまりにも短絡的だ。また客観的度量が必要な折に、「嫌悪」「憎悪」の感情に左右された言動しかできなければ、組織や社会に歪みを生じさせる元凶となる。「批評」という立場は、なかなか高校までの教育で育むことは難しい。センター試験を始めとする大学入試を考えた時、「批評的思考」をすればむしろ混乱する可能性があるからだろう。また「教育」そのものも「素直」「従順」をよしとして、「疑問視」する言動を封鎖する傾向も否めない。だが大学生は、ましてや社会人としての教師は違う。児童・生徒を常に客観的に向き合う責務がある。その社会的「批評」の上に、「普遍性とは何か?」という問いもある。「白鳥は哀しからずや・・・」あなたは児童・生徒の前で批評的にわかるように語れるのか?ということである。

個々を尊重するとはいかなることか?
言語でも文学でも社会的営為にしても、向こう側に人がいるということ
その分け隔てから逃れられない宿命を、冷静にわきまえているかどうかということである。


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卒論口述試問の意味を問い直す

2018-02-06
あの時の先生の言葉
今もなお自らの心の礎
ゼミ生の卒論口述試問に及び・・・

文学部出身の僕にとって、卒論は生き方を賭した一大行事であった。執筆の際に最後の清書がかなり難航し、ほぼ3日間にわたって徹夜状態が続き、朦朧とすると好きな音楽をかけて歌を唄い覚醒させ、ペンだこの疼きに耐えながら書いた記憶が蘇る。そしてまた口述試問に臨んだ際に、指導教授が実に繊細に自らの論を読んでいて、仔細な誤字の指摘はもとより、自らも十分に理解していない論の展開を詳細に質問され、そこで初めて自分はこのような論を書きたかったのだと悟った記憶がある。その約20分間ほどの指導教授との対話を、僕は今でも克明に覚えている。そしてその後、現職教員である時も、研究者を再び志した折も、その記憶を礎にして歩んできたように思っている。

今や、その卒論口述試問を僕自身が行う立場となった。何より僕が恩師に施してもらったように、徹底的に「卒論を読む」ことを念頭に置いて指導しているつもりである。その読んでいる過程において、個々の学生の4年間の成長が手に取るようにわかってくる感覚がある。その長所と短所、思考の傾向、嗜好の如何なども含めて、日常で対話し関わってきたものが言説化されているようでとても興味深い。人は誰しも個性があり、得手不得手もある。それを自他ともに客観的に捉えて発展させたり補足したりして初めて成長が期待できる。大仰に述べるならば、ゼミで卒論に向き合うということは、その後の「生き方の傾向を予測する」に等しいのであると思っている。やはり僕自身の卒論を振り返るに、今のような「生き方」への傾向があったのだと納得しつつ、ゼミ生の「生き方」に向き合う午後であった。

大学の学びを考える
今こそあらためて卒論の意味を問い直す
22歳でとりあえず、それまでとこれからの「生き方」を言説として捕捉するということ。


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「締め切り」ありて人は生きたり

2018-02-01
卒論提出締め切り日
一つの生き方のモデルパターン
人生にももちろん「締め切り」があるゆえに

本学部の卒論提出締め切りは、「1月末日17時」と定められている。私立大学と比べれば時期も1ヶ月以上遅く、入試が2月下旬からという国立大学の特権であるようにも思う。「17時」となっているのはあくまで予測であるが、学部「教務学生支援課」が窓口として提出受取をしていた名残であろう。現在は指導教員まで直接提出となってはいるが、僕自身はこの「17時」という締め切り時間が大変重要であると思っている。その大きな理由は、社会は学生時代に考えもしないほど「事務的」であるからだ。思い出されるのは、母校の卒論締め切り。学部事務所が「15時」で閉まってしまうゆえ2日間ある卒論提出日の2日目の「15時」に遅れたら「留年」の憂き目を見ることになる。実際に「15時」前後に事務所に”飛び込もう”として叶わず、留年をしてしまった人を知っている。仲間内では「ともかく15時前に事務所に入る」ことが重要だとされ、当時手書きだった卒論では、事務所内の机で「あとがき」を書いている学生もいたという未確認の目撃情報もあった。

「卒論」の価値自体が既に多くの大学で、過去よりも軽視される傾向にあるように見受けられる。だがやはり「卒論」とは、その人の「大学4年間の生き方」そのものではないかと思う。課題の見つけ方、調査・検証の方法、執筆する作業過程、論の主張などあらゆる要素に、その人の個性が表出することになる。また本日の重要なテーマである「締め切り」もまた然り、逆算をして行動できる段取る力が試されているように思う。社会に出て職場に出ると切に理解できるが、「締め切り」の背後には、多くの人の「次の仕事」が控えている。その進行に思い遣りを持てば、「締め切り厳守」は必定となる。また自戒を込めて記すが、「締め切り」間際まで踠いていて果たして「良いもの」に仕上がるのであろうか?甚だ疑問に思うことも多い。まずは「形にする力」も社会で生きていく大きな要素ではないだろうか。短歌などは、踠けば踠くほど「悪く」なることも少なくない。

自らの仕事量を客観視する
「忙しい」現実社会では必須の自己管理力
人生には誰彼例外なく「締め切り」があることを忘れてはなるまい。


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自由対話読みの効

2018-01-31
定番教材の定番実践を乗り越えろ
名作の奥深さに挑むということ
「対話」に参加してこそ見える自己の読む傾向

年度内ゼミ最終回。4年生は「人生で最後のゼミ」と感慨深けにいつもの演習室に集まった。「最終回に何をするかは4年生が決めるように」した結果、定番教材の「自由対話読み」を実施したいということになった。これまでにもゼミ内で、「走れメロス」「ごんぎつね」「注文の多い料理店」などの小中学校の定番教材を実践して来た。「自由対話読み」とはまさに名の如く、「自由」な発言が全員に保証されていて、どんな着眼点からでも出された「読み」に随所に反応し、自らの意見も表明し、「読み」を多様に深めていく集団討論的な方法である。他者の意見を「納得」して頷くだけでは参加したことにはならず、その都度その都度の対話に自らが「参戦」することが肝要である方法である。

個々の様々な「読み」が提出され、自己の「読み」も俎上に上げることで、ようやく自らの思考の傾向を知ることができる。その基盤となるのはあくまで「個人の読み」なのであるが、それを内に籠めておかないことが重要である。中高の国語授業でよくある光景として、発問して回答を求めると「誰々と同じです」という回答で済まそうとする生徒がいる。だが果たしてその「誰々」の意見と自らの意見は、本当に「同じ」なのだろうか?それを「ことば」にして引き比べない限り、本当に「同じ」か細部は「違う」のかという相対化はできない。「読む」ということは、自己本位な思考を相対化することに他ならず、こうした議論の場で黙っているのは「謙虚」なのではなく、大変自己本位な「傲慢」だと心得るべきであろう。些細なことでも思ったら表明する姿勢こそが、教育の場でも社会の場でも必要な基本姿勢であることは言うまでもない。

高校国語総合定番教材「羅生門」
自由対話読みが暴いた教材の背景とは
またひとつゼミの思考展開の方法が確立した。


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ゼミ納めー討論力は1日にしてならず

2017-12-20
卒論の最終発表
そして納会へと
語るちから聴くちから

年内ゼミの最終回は、4年生の卒論最終発表。発表者も他の者も忌憚のない意見を出し合える雰囲気がある。「他者の発表に意見を言わないのは、聴いてないに等しく失礼にあたる。」という姿勢を前提としている。昨今の若い者は、こうした討論を「怖い」といって忌避する者が多いと云うが、まずはこのリアルな対面の討論でこそ、人間的なコミュニケーション能力を養う根本があるように思われる。

ゼミ後の夜は納会へ。ここでもまた今年1年を振り返りながら、さらに様々な話題を忌憚なくやり取りする。現職教員をやっている卒業生2名も駆けつけてくれて、話題もまた豊富である。今年のゼミは和歌文学会の開催を中心に実に多忙を極めた。その渦中で4年生は教員採用試験を乗り切り、自分なりに将来への道を拓いた。前向きにいかに自分と向き合うか、そんな意志を起動させる仲間こそがゼミの仲間ではないだろうか。夢ある将来へ向けて、様々な発想を語り合う宵の口であった。

討論力は日常の姿勢から
多様に語り合う環境を創ること
コミニケーションそしてノミニケーション。


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批評し主張するちから

2017-12-13
「事物の善悪・是非・美醜などを評価し論じること。
 長所・短所などを指摘して価値を決めること。」
(『日本国語大辞典第二版』見出し「批評」より)

卒論作成もいよいよ最終段階の時季となった。大学学部の提出締切は1月末日と決められているが、ゼミでは新年成人式連休明けに「仮提出」をするという慣例で、ここ数年間の指導をしてきている。最終提出後の「口述試問」において、基本的な次元で改めて欲しいことや十分な批評性がなく「論文」として問題がある場合などがあっては修正ができないために、敢えて正式な提出期限に3週間ほどの余裕を残し、先に僕の方で査読する方式を採用している訳である。主張やそれを表現する「論文」においては、やはり誰が読んでも理解のできる「普遍性」も必要になろう。ゼミ内で内輪の議論をしていると、個々の研究内容は概ね検討はつくので、ついつい馴れ合いから文章表現を「内向き」に叙述しがちである。「普遍性」の原点はせめて、これから同学部にやってくる顔も知らない多くの後輩たちにも役立つよう、何らかの主張を客観的に伝えようとする意識が求められる。

1・2年生の学生たちを見ていると、まだ高校までの丸暗記的学習習慣が抜けないと痛感することがある。先日も講義でスクリーンに映し出した「要点」を漏れなくノートに丸写しすることに”だけ”頭が向いている光景を目の当たりにした。その「要点」は講義までに読んでくるべき課題図書に詳述してある内容と違いなく、その理論を腑に落ちる段階まで引き上げる「思考の昇華」を講義内で課題を与えてまさに「思考」すべく頭を使うべきなのだ。映し出された「要点」について、まさに批評的にその価値づけをするように講義は仕組んである。何の疑いもなくただ与えられたものを内容も精査せずに写し取るいう「作業的歯車的思考」では、これからの時代は通用しない。何より「自分の頭で考える」(判断し価値づけする)ことが求められるということだろう。その点、昨晩も行われた宮崎大学短歌会の活発な議論は実にこのような頭の使い方が身につく機会である。その根本と延長上に短歌の「対話性」があるのと同時に、「牧水短歌甲子園」で展開する「批評性」が大きく作用しているように思われる。

「主張」をするための「判断と価値づけ」
疑問点を質問しないというのは相手方に失礼な行為である。
「批評性」を遠ざけようとする世相に抗う気概を学びてこそ生きる力となる。


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