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卒業式への思いー「発達段階の移行の完遂」

2023-03-25
通過儀礼としての「卒業式」
学びの集約とその後へ引き継ぐ思い
「心の故郷」と思われるように学生に向き合えたか?

所属大学の卒業証書授与式が、フエェニックス・シーガイア・コンベンションセンターで挙行された。近々にこの会場では、「G7農相会合」が開催される国際的基準を満たした場所である。東京にある大学が武道館などを借りて挙行しているのを考えると、決して引けを取らないかむしろ豪華な会場と言えるかもしれない。学生たちにとって一生に一度の時間にあたり、このような場所が用意されるのは誠にありがたいことだ。毎年のように小欄にも書いているが、僕は卒業式に特別な思いを持っている。自らの小学校・中学校・高等学校・大学・大学院修士・博士号授与式と自らは人生で6回の「修了」の儀式に臨んだ。だが高等学校については、大学入試日と重なり欠席をせざるを得なかった。そんな意味で高等学校での締め括りや引き継ぎの記憶や思いが曖昧で、心に特別な思いを抱き難い。「卒業」という事実は何ら変わらず、いただく「証書」にも変わりはないのだが、やはり「通過儀礼」の一つとしてその場にライブで臨席することの意味は大きい。

「通過儀礼」とは辞書によると「人が生まれてから死ぬまでに経過する、誕生、成人、結婚、死亡などに伴う儀礼」(『日本国語大辞典第二版』)とある。さらに「ユング心理学」によると、「イニシエーション」と呼ばれ、「『死と再生』のテーマが、原初的な無意識のイメージ(元型)として人類に共有されており、これが発達段階の移行を完遂させる役割をもつ」(『有斐閣現代心理学辞典』)とされる。この考えに拠るならば、学びの「発達段階の移行の完遂」を確かめ合う儀礼として「卒業式」は大変に重要だということになる。このような面が意識化していた大学・大学院の「学位授与式」としての意味合いは、僕自身にとっても大変に大きかった。その「儀式」に参列したことで初めて「母校が母校になる」ような感覚となり、「心の故郷」として燦然と自らの精神史に刻まれるのだ。このような意味で、新型コロナ感染拡大で普通に挙行できなかったこの3年間にも「儀礼」としての思いだけは届けたいという大学教員としての強い思いが僕にはあった。参列は卒業生と教職員に限られたが、華々しく着飾った卒業生らとともに僅かでも時間が共有できたことに、この上ない喜びを覚えるのである。

自らが4年間をいかに指導してきたか?
ゼミの学生たちの独り立ちの日としての喜び
学生生活の四分の三がコロナの影響を受けた学生たちがその思いを未来へ繋げる。


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「卒論」によって育むものは

2023-02-15
ただの卒業のための単位ならず
課題発見・探究・調査・実践・見解そして積み重ねの努力
「学士」として「教員免許取得見込者」として

文学部出身だからであろうか、「卒論」にはひとかたならぬ思い入れがある。あの頃の苦労と努力の積み重ねは、今も僕自身を支えていると思う。指導教授の厳しさと温かさが身に沁みて、その影響で迂遠したかもしれないが同じ職業に就いた。当時はPCなどなく「手書き」による制作であったため、清書ではペンだこを潰しながら3日3晩、意識朦朧としながら書き続けたのも今ではよい思い出であり心の糧である。30代になってからの修士論文ではPC使用が導入されたが、むしろ画面を見続け過ぎて首が回らないほどの肩凝りに見舞われ、近所の接骨院の先生なくして書き上げられなかった。博士論文は年次の雑誌論文の積み重ねであったため、むしろ苦労は分散型であった。だが公開審査の際、4名の審査の先生方からの厳しい質問は生涯忘れることはない。というわけで、自らがどれだけの価値をもって取り組んだか、その経験によって後の仕事の基盤になる資質・能力になっているか、という点を重視して今は学生たちの「卒論指導」に取り組んでいる。

動物たちが産まれて初めての経験に「親」の存在を本能的に認識するように、大学教員としての「初卒論指導」は実に大きな経験であった。大学院指導教授の急逝による代講として、そこで向き合った学生たちとは既に15年ぐらいになるが、今もオンラインも活用し毎年恒例で飲み会を開いている。彼らの自主的自立的な対話と探究の姿勢は、僕の中で一つの基準となって「卒論指導」で「求めたい姿」になっている。僕の指導教授がそうであったが、自らの考えを押し付けるのではなく、学生個々が主体的に学び合う対話を聴きつつ肝心な点を舵取りする姿勢を僕も貫いているつもりだ。指導教授が一対一で自説を述べれば、学生の卒論は「二番煎じ」に過ぎないものとなる。いかに学生自身の「個性」を立たせつつ、穏当な方向へ導くか?「個」で考え込んだ独善的な内容から、いかに客観的な根拠により説得力のあるものに仕立てるのか。この日は講座4年生の卒論発表会が開催された。諸々の思いを込めて、学生たちに丁寧に質問する自分がいた。

「卒論」は一日にして成らず
どれだけの時間と書籍と経験に寄り添ってきたか
教師として現場で仕事をするための多くの要素が育まれているのだ。


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生徒・学生の方を向いているといふこと

2022-12-27
初任の高校に勤務した時
「生徒の方を向いている先生」と言ってくれた先輩教員
向き合う心なくして自らの心も見えない

クリスマスが終わると、一気に年末モードになる日本社会。「もういくつ寝るとお正月」と言うための狼煙(のろし)が日本のクリスマスともいえよう。講義は先週で終わっている大学に行くと閑かな佇まい、〆切原稿1本といくつかの残務を集中して終わらたいと思っていた。だが今月21日付小欄に記したように、この時期は「卒論」の追い込み時期である。学部の最終〆切は1月末日だが、ゼミでは「仮提出」を毎年「成人の日」明けに設定している。あと2週間というこの時期にあって、凝り固まった頭をほぐす必要のある学生がいる。というわけで、オンラインを活用して午前中にゼミ生1名の卒論に対する「対話時間」を設けた。本来なら自らの仕事を集中して終わらせるとも考えたくなるが、学生の要望には極力応えたいと思っている。「対話」の時間を進めると次第に自らがこのクリスマスに考えていたことと重なる点が炙り出され、日本の近現代社会における「アイデンティティ(自己同一性・この用語の翻訳自体に大きな問題を孕む)」の問題について興味深く話している自分がいた。学生にはいつも教えられる、と考えるのが教員としての学びだ。

午後にはゼミ卒業生が帰省し「夏に出産した赤児を見せたい」と家を訪ねてくれた。昼食がてらいったん帰宅し、彼女を出迎えた。年末の予定としてこの日しか合う日がないこともあったが、1時間でも再会の時間を取ることが大切なのではないかと思った。「教員」としての最上の喜びは、卒業生が立派に活き活きと生きている姿を見ることだ。この日もすっかり「お母さん」になった彼女の姿に、大きな元気をもらった。再び大学に戻り事務関係にご挨拶もして、原稿の最終仕上げに入る。午前・午後と時間を限定したことで、むしろ原稿の執筆具合は良好となった。我欲ばかりで「この日は自分の時間」などと思うと、むしろダラダラと頭が凝り固まることもある。学生・卒業生に元気をもらい、集中モードを作るのがむしろ得策だった。冒頭に記したように、初任校に勤務した際に採用面接から担当してくれた国語科の先生が「生徒の方を向いている」という賛辞を僕に送ってくれたことがある。考えてみれば、その先生も「生徒」や「後輩教員」の方を向いてくれていたのだ。その先生が「教員1年目」にして僕の目指す目標でもあった。既に鬼籍に入られたと聞くが、あらためてこの日は先生のことを思い出した。こうして「教員が後輩や生徒の方を向く」という姿勢が、受け継がれていくのだ。少なくとも僕は今、「教員養成」の最前線にいる。この大切な「リレー」のバトンを、次の世代に確実に渡さなければならない。

今この時を生きて
日々に向き合う人々からいただくちからがある
生徒・学生の方を向かなくして、どうして自分なりの短歌ができようか。


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つづき続いて14年ー今年も新鮮に卒業生は集う

2022-07-17
卒論担当教授の急逝
代講のご依頼を受けて出逢った学生たち
卒業して14年目に今年もまた集う

僕の大学教員としての初めての経験、それはあまりにも突然に訪れた。新年度を迎えて間もない頃、夜になって大学院の指導教授から電話があった。ご自身の学部担当科目の代講をお願いできないか、という内容であった。指導教授は病いが発覚し治療のために、数ヶ月の入院をせねばならないと聞かされた。前期のうちには退院できそうなので、まずは前期講義をお願いしたいということ。担当を依頼いただいた2科目のうち1科目は学部3年生の演習、もう1科目は「特殊演習」と名付けられた4年生の「卒論指導」であった。指導教授を慕って当該ゼミを選択していた学生たち、急に経験も浅い僕などが担当して誠に気の毒なことになったという思いも持った。僕自身も博士学位請求を控えており、指導教授の入院に少なからず影響を受けた。だがその際に僕が行動したのは、学部4年生の卒論テーマに関する参考文献を読み漁ることだった。GW前に多くの参考文献を買ったり借りたりし、必死な思いで学部4年生の思いに応えようと思った。3ヶ月が経過し指導教授は退院どころか、急逝され帰らぬ人となってしまった。

指導教授に前期の指導内容を引き継ぐために計画していた夏合宿、その場でさらに学部4年生のメンバーの結束は固まった。もとより仲のよい仲間意識の強い人たちで、お互いに妥協なき議論ができる雰囲気を作っているメンバーであった。忌憚なく意見を言い合う、日本人の学生はそこに到るまでの指導こそが大変である。しかしこのメンバーには、指導教授を慕うがゆえに「学生こそが主体的に議論する。(指導者はそれを見守り適切なところで支援する)」という方針が浸透していたように思われた。後期も引き続き「卒論指導」が継続し、そして12月末の〆切となった。その後は2月に「源氏物語名所めぐり」というゼミ卒業旅行が企画され、僕自身も歓迎されて同行させてもらった。そして彼らは無事に卒業式を迎えた。初めての卒論指導であったにも関わらず、彼らは「先生のおかげで卒業できた」と今も口々に言ってくれる。指導教授の命日に近いこの時期に、今年で14年目となるが必ず参集し宴を開いている。この3年はオンライン飲み会、今年も対面の可能性を模索したが、結果的にオンラインが妥当な状況となっている。今もメンバーたちの忌憚ない会話には、僕自身が学ばせてもらうことが多い。昨晩も18時開宴で最終は23時半まで、妥協なき語り合いが実に楽しい時間であった。

来年は卒業15周年となる
あらためて「20周年京都旅行企画」などの話題も
僕を大学教員として導いてくれた大切な卒業生たちである。


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わたしはひとりじゃないー孤独を抜け出す朗読

2022-07-15
表現するとはつながること
観客と仲間とそして文学と
朗読によって抜け出す孤独

全国で再び感染状況が大幅に増加に転じた。だが今までと違うのは、経済活動を止めないという方針が根底にあるようだ。国や県も緊急な対策を、講じようとはしていない。それだけに個々人がそれぞれに身を護ることが求められるであろう。マスク・換気・距離の対策は、慢性的になり慣れてしまったが、今こそあらためて見直すべきだろう。経済活動が止まらないからといって、決して「感染しても仕方ない」というわけではない。このような状況から、ゼミ活動は久しぶりにオンラインで開催した。多くの者が自宅から他者との接触を避けて参加することができた。この2年間に培った方法は、適宜活用すべきである。この日のテーマ一つ目は、「現況の社会状況について思うこと」とした。この1週間、安倍元総理の銃撃事件、そして参議院議員選挙へと連なった世情を学生たちはどう考えているか。将来、教員として羽ばたく学生たちが忌憚なく意見を言う姿には、逞しさを感じるほどだった。メディアの偏向やネットリテラシーの問題など、現代ならではの視点も多く、まさに「時代を語り合う」時間となった。

後半は先週の「七夕朗読会」を開催して何が得られたか?についての対話。人前で朗読することで実習等へ向けて大きな自信になったという声も多く聞かれた。音声表現は「動作の程度」によって出る声が変わって来る、という体験的な学びもあったようだ。そして多くの学生が学び取ったのは、「表現することはつながること」ということだ。仲間がいて観客がいて文学がそこにある、自己を取り囲むものたちへ「声」を媒介としてつながる。本来は僕たち人間が必然的に社会の中で体得していることかもしれないが、新型コロナの2年間のトンネルもあってそれを再確認する必要があることも実感した。「朗読」にとって「聴き手」の存在は、大変に重要だ。言い換えるならば、「文学作品」にとって「読み手(黙読であっても心の中で声を出して読み、単なる文字表現を生きたものに変換する)」の存在があってこそ「文学」として成立できるということ。そして何より「朗読」することで「わたしはひとりじゃない」ことが強力に自覚できる。ゼミの学生たちは、「声でつながる」ことを体験できた。実習で実利がある、などという小手先な問題ではなく、彼らの人生が確実に豊かになったはずだ。

大学祭で朗読発表はできないのか?という提案も
県レベルで年代を超えた「文学フェス in みやざき」の企画も
わたしはひとりじゃないー「朗読は人をつなぐ」


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見上げてごらんー創発「七夕朗読会」開催

2022-07-08
「声」が悪者であった2年間を超えて
僕らはここに声を出し、平和を祈り多様な命に気づきたい
附属図書館で学生たちが自ら創造し発信する活動として

七夕には、笹の葉に願い事を「文字」で書き付けた短冊を吊るす。大学ともなるとこんな年中行事であっても何も意識されない。小中学校であれば笹の葉を校内に飾るところもあるだろう。だが果たして「七夕」という行事はどんな意識で何をして過ごすのか?文化の継承という意味では、誠に心もとない世情である。偶然、ゼミ設定日である木曜日が「7月7日」であったことも手伝いゼミ主催により附属図書館創発活動として朗読会を開催した。新型コロナに惑わされてきた2年間、そして世界の平和を揺るがすウクライナ侵攻という事態、世界共通の願いとして「平和」を特筆せなばならなくなった。僕たちは一人ひとりが「声」を出して文学を読むことで、自らの多様な命に気づきたい。「命」に気づいていない人などいるか?と言われそうだが、現実に「命」への意識度は薄くなってきてはいないか?「命」より大義、「命」より体裁、物価高が現実的な問題として知らぬ間に押し寄せ、僕たちの「命」の首を締めようとしている。これまでも多くの詩や歌が「命の尊厳と多様さ」をうたって来た。短冊ではなく「生の声」によって、僕たちはそれに気づきたい。

ゼミの仲間とともに、共有した「詩」に「声という命」を吹き込む。書物の中で「文字」として眠っている「詩」は、「声」を与えられることで「いのちのことば」になる。録音でも動画でも駄目だ!生身の人間が生身の身体で集まり、この地球の上の何処かで響き合う「声」を発して聴き合う。詩人たちがこの世に遺してきた「声」、詩人たちがあれほど警告していた「声」、詩人たちがいかに人を愛してきた「声」、僕らは再び詩を「声」にすることで初めて気付くことができる。自ら閑かに心の中で「声」を出すのもいい、そしてまた誰かとつながるために「声」を空間に投げ出してみる。教員を目指すゼミ生たちが、こうした意識ある「声」に自覚的になることは机上の空論よりも大切なことと考えている。教員になって児童・生徒らと向き合う際のことばは「届く声」でなければならなだろう。いたずらに「大きく」出せばいいのではない、穏やかに他者の心を傷つけぬよう、穏やかに柔らかく「届く声」を目指したい。朗読会には、以前から懇意にする詩人で高校教員の方が「特別ゲスト」として朗読参加してくれた。今後も季節ごとに、さらにゼミ生以外の朗読も受け入れながら、附属図書館で声を創発していきたい。

いま文学にできること
明日への希望へ進め、進め、
雲の多い宮崎の七夕の星たちへ、僕たちの声は届いただろうか。


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いま文学にできることーなぜ文学を学び教えるのか?

2022-06-24
ゼミで3班に分かれての共話
国語教員を目指す学生が基礎基本として据えておきたいこと
「文学」を読まないことは人生の損

ゼミ活動で標記のような共話・対話活動を実施した。「国語」で「文学」を学ぶことは当然というわけではなく、その意義が世間で問われつつある。論理的で実用的な言語生活ができる能力を育てよという方向性が強調され、「文学鑑賞」に偏っていた「国語」の授業内容に疑義が生じてきた長い経緯がある。もとより「国語」という「一つの器」には、あれやこれやと要素を盛り込み過ぎている。「文字・発音・語彙・文法」などの言語知識や技術から、「説明的・論理的文章の読み方」「話す聞くの理解・表現」「文章の書き方」、などに加えて「文学的文章の読み方」さらには「文芸創作」まで、実に多様な要素を「一つの器」にてんこ盛りにしている。それゆえに、小学校の教員などは、その多様さを整理できずに混濁とした意識で授業に取り組まねばならない場合も少なくない。小学校で算数と並び一番授業時間数が多い基礎科目として、せめて「なぜ文学を学び教えるのか?」という命題に一定の考えを持った教員を養成する必要があるだろう。答えはそう簡単ではない、まさに答えは「風の中にある」のかもしれない。それは母国語を基盤とした教科としての難しさという点もあるだろう。だが「混濁」するからといって「文学」を斬り捨てよというのは、あまりにも乱暴な発想ではないか。

①文学を読む体験を通して、物事への対応力・対話力を養い、自分に向き合い情緒を豊かにすることができる。デジタル時代に映像化や「要約チャンネル」などがWeb上には溢れているが、それを観て「文学を読んだ」気になるのは違うのではないか。「文学」の「読み」は個々に多様性のあるものと捉えておくべきだろう。
②「文学」とは「文を通して人生を学ぶ」ものである。喩えるなら「焼酎とアタリメ」みたいなもので、味わうたびにその味は変化するものだ。身近な内容で「心を動かされるもの」であり、「共感」する気持ちを養うという大きな目的がある。
③「文学」とは「人間が歩んできた経験」そのもの、言葉にできないもの、形のないもの、目に見えないものを定義していく。「文字表現」のみならず、古典芸能の落語なども含めた口誦文芸を含めて広く「文学」と捉え直し、学びとして教育に活かしていくべきである。
以上①②③は、3班のゼミ生たちが共話・対話した内容の概略である。肝心なのはこうした内容を共有すること。そして自らが受け身の「理解」のみならず、「表現」に多様に取り組むことである。

この世界情勢の中で「文学にできること」
ゼミでは来月7月7日「七夕創発朗読会」を公開で開催。
広く「文学」に共感と驚愕を抱いてくれる学生たちに集まって欲しい。


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「共に在る感覚〜共話」と「関係殻」はどこにでも

2022-06-04
「未知の自分を発見する旅」「メタローグの重要性」
「聞き書き学習と新しいシェアのしかた」
(山元隆春「他者の自覚による話すー聞く「関係殻」の破壊と再生ー対話・共話、そして「聞き書き」の可能性」『月刊国語教育研究2022年6月号』より)

前述の論文を、一昨日のゼミで学生たちと共に読んだ。今週は4年生が教育実習中で3年生のみ、どんなゼミ内容にしたいかと投げかけると、宮沢賢治『注文の多い料理店』の授業における「言語活動例」をみんなで考えたいという学生からの提案があった。以前に4年生が今年度のゼミの大きな課題としてICT機材導入による本教材の革新的な授業を模索するため、読み語りを創作する機会があった。その際に基本的な読みを中心にした教材研究を行ない、さらなる展開が楽しくなったのだろう。いずれにしても、課題を学生自身が提起するゼミは理想的である。今回はただ「話し合う」のみならず、自らが「話すー聞く」行為をするにあたり、どんな意義と効用があるかを意識化しつつ、豊かな話し合いができればと考えてゼミ冒頭で前述の論文を読んでもらった。15分程度の時間であったから内容の理解は不十分だろうが、その後に2人1組で「言語活動例」を話し合うと実に様々な発想が出てきた。さらに各組の全体発表をすると、各組同士の発案がつながり始める。最終的に『注文の多い料理店』デジタル創作教材の制作をしたら面白いとなり、すべての組の発案が融合した。ゼミ生はまさに「未知の自分を発見」し「共に在る感覚」で「関係殻」のうちに豊かで創造的な発案を体感した。

論文で得た知識は活かさねばなるまい。また活かすことができる論文こそ意義あるものであろう。紙資料として理論的に「読んだ」としても、すぐに「腑に落ちる理解」にはならない。まさに「関係殻」のある「共話」を現場で体験することでしか、真の理解には到らないとさえ思う。特に教員を目指す学生ばかりの本学部での学びとして、「理論への偏向」は避けるべきだろう。このような問題意識を持っていたこともあり、4年生の教育実習研究授業の参観のたびに「教室での共話」のあり方を考えていた。感染拡大で一時はオンライン化などを経験した学校現場は、やはり「共に在る感覚」を持たないと学びにはならないという考えに明らかに「戻って」いる。それだけに「なぜ共に教室に集まらなければならない」のかを問題意識として持つことも必要ではないか、などとゼミ生の授業を参観して考えることも多かった。「共話」をすることで、自分が思いも寄らなかった考え方をしていることに気づく。「自分の考え」などというが、それはあくまで「他者との関係性」の中から生じているものなのだ。よって「予定調和」な「正解ありき」な学習を特に「国語」ではすべきではない。生徒が仲間や教師とそして教材と「共に在る感覚」、そこに生身の自己を預けて「共話」すること。きっと社会で必要なことは、こんな人と人との関係であろう。

母が通う絵画サークルには「共に在る感覚」がきっと
「話すー聞く」の耐え難い勘違いも横行する中で
学生たちと常に「共に在る感覚」を大切にしたゼミでありたい。


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役割読み『注文の多い料理店』

2022-05-13
ゼミ活動として「役割読み」
「下読み語り」「テクスト分析」「読み語り劇」「演出・効果」「監督助手」
声で表現し作品の奥深さを分析し再び劇性を導入し表現する

文学教材をどう読み解いていくか?果たして従来の「学校の国語の授業」の方法は適切なのか?例えば18歳になって、小中高で学んだ「文学教材」のどれほどを覚えているのが「標準な人」だろうか。機会あるごとに1年生などには「印象に残っている文学教材」を問うたり、また新美南吉『ごんぎつね』や太宰治『走れメロス』に芥川龍之介『羅生門』を学んだかどうか?を問うこともある。この小中高3定番教材なら100%と思いきや、『走れメロス』はやっていないと答える学生が一部にいることにいささか驚かされる。ほぼ全ての教科書に掲載されているゆえの「定番」であるのだが、必要性を感じないのか担当教員が割愛する実情も垣間見える。よく「当該学年(『走れメロス』なら中学校2年生)では難し過ぎる」という理由を耳にするが、もちろん完全理解に至らしめるのが文学教材の学びではない。生涯の随所で「再読」し続けるのが定番教材たる大きな価値であろう。きっと挫けそうになった20代になってから『メロス』を再読すれば、救われる人々がたくさんいるはずである。だが哀しいかなそうならないのは、文学教材を表面的にしか学ばないという「学校授業」における誤りに起因していると考えている。

話は迂遠したが前述の問題を解決する手段として、学習者が自ら役割分担をしつつ文学を読み解く方法がある。本年度のゼミ活動として、小学校5年生教材・宮沢賢治『注文の多い料理店』を大きな課題としている。最終的にICTを導入しチームティーチングによって附属小学校で授業実践する計画である。そこで教材の読みを全員が深めるためにも、あらためてこの教材を活動的に再読してみようとするのがこの日のゼミ活動である。冒頭に記したような役割を作り〈音読→分析→演出・効果→劇表現→ふりかえり〉といった流れでの活動をした。ゼミ生各自がテーマとして得意とする分野に役割をつけ、全員の力を結集して一つの教材を読み込む活動である。文学は世間一般に思われている以上に「論理」も学ぶことができるが、字面の上のみではなく身体表現を伴い音声化することで見えてくる点も少なくない。机上の「理論」が偏重される世の傾向にあって、本気で思考力や想像力を育むには、「表現」体験をなくしては語れないと思っている。台詞の多いこの教材ならなおさら、仔細な言葉の趣旨を捉える上で音声化活動は有効である。オノマトペなども駆使され「声の文学」ともされる宮沢賢治の作品であるゆえ、この方法を実践してみての発見が多くあった。欧米でよく実践されている「オーラル・インタープリテーション」にも通ずる方法ではないかと考え、文学教材を表面的知識としてではなく「体験」することで生涯読書として個々の学習者の心身に保管する方法であるともいえるだろう。

「いや、・・・・・」の言い方(趣旨)は?
登場人物の性格など想像力が旺盛に働く
読むスピードや濃淡、もちろん教師としての身体を育てる活動でもある。


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『ぼく』ーこえでうけとめるしのふかいやみ

2022-04-15
『ぼく』作:谷川俊太郎・絵:合田里美
制作過程のドキュメンタリーも観て
ゼミにて声でうけとめる活動を敢えて初回に

講義開始の週も後半、今年度は木曜日の最終コマにゼミを設定した。昨年度来毎度、図書館の広めの一室に集まり換気をして感染対策を十分にとっての実施となる。今回は新たな3年生6名を加え、新鮮なメンバーでの初ゼミであった。あれこれ自己紹介という手もあるが、ここは何らかの活動をすべきと先月から考えていた。「自己紹介」はそれはそれで意義はあるだろうが、「目的」が「目的化」してしまい面白くないことが少なくない。いわば、当たり障りのないことしか言いわずに空虚な時間になるのが好きではない。ここはゼミの一つの大きなテーマ「声(音読)」を通した活動を実践したいと思い、選んだ題材が冒頭に記した『ぼく』という絵本である。同書は詩人・谷川俊太郎さんがコロナ禍中に編集者を介して絵本作家の合田さんと、精魂を傾け合った対話の末に完成した絵本である。そのことばの重みとともに、絵と溶け合うような鮮烈な印象を読む者に与える。『ぼく』というひらがながきの一人称が、何とも孤独な社会に生きる「ぼく」を既によく表現している。「僕」というように漢字によって小欄で”僕”もよく使用するのだが、この日本語の一人称代名詞について、こんなにも考えさせられるというのはまさに詩人の力であろう。そしてなによりこの『ぼく』という作品は、まだ小学生とも思える登場人物が「自死」を選んだという問題作でもある。

コロナ禍中において増加する「自死」、宮崎県も幸福度は全国ランクで高いという調査結果がありながら、「自死」の率も高いという矛盾を孕んだ現実を抱えている。しかし教育現場をはじめとして、この問題に正面から向き合うことそのものにも勇気がいる課題だ。今回も「果たして大学生にも?」などとこの活動の実施について熟慮した上で「ゼミ生」ということで踏み切ったところがある。僕自身、これまでの人生で「兄貴分」とも慕っていた二人もがそのような状況でこの世を去った。その際に最期に会った際のことは双方とも鮮明に覚えており、ともに「自分はこんなに進歩したことができるようになった」という趣旨のことを語ってしまった。もしあの時に「こんな苦しいこともある」という趣旨のことを話せていたら、「兄貴分」たちも僕に自分の「苦悩」を話してくれて楽になったかもしれないという激しい悔恨の情を持っている。教育現場の教材でいうと、漱石の『こころ』が登場人物「Kの自死」を扱う小説であるのはよく知られている。だがどこか明治時代の思想的な背景に紛れ込ませて、正面から「自死」に向き合う授業を実践するのは難しい場合が多いように思う。漱石の小説が描く「近代的自我」の問題を含めて、我々はこの近現代という歴史の中に呑み込まれて、いかに「ぼく」を失っているのか。「死」を扱う教材の難しさ、されど「死」を考えない限り「生」は考えられず。反転して無差別殺傷という暴挙が社会のあちこちに浮上するのも、この問題と表裏で直結している。「正か負か?」などとバラエティー番組風な単純二項対立の図式でしか考えられない頭を廃し、「死を考えることは生を考えること」という真実の中に、多くの人々がこの絵本から学ぶべきだろう。ゼミ生たちはきっと「自らのかけがえのない生」を考えて図書館を後にしたように思う。

谷川俊太郎のこれ以上ない素朴であり真実のことば
絵の登場人物が描く「いきる」こと
「生きるということ いま生きているということ」(谷川俊太郎)


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