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まずは検温を習慣に

2020-04-02
朝起きると検温を
最近は「15秒」という素早い体温計も
この世界を生き抜く習慣

小欄を記すまでに実行する習慣は、秋冬からこの時季までは服を重ね着し珈琲を淹れることぐらいであった。それに口内洗浄や目薬などを加えて、PCのある書斎の椅子に座る。ほぼ絵に描いたように、ここまでの時間が進行する。そして起床時間を手帳に記すのだが、新たに記録する一つの習慣を加えることにした。それが検温、起きてすぐまだ蒲団の中でベッド脇に置いてある体温計を使用する。昨今はマスクや消毒液の品薄状態が続いているが、体温計もその類に加わっている。先日、妻と何軒かのドラッグストアを尋ねて、ようやく一本のみ在庫があった新しい体温計を購入した。(既に旧式のものが家にもあったが)それなりの値段であったが、約15秒で検温できるという優れた代物であった。

なぜ僅か約15秒で計測できるのか?と思うと、説明書に「予測体温」が表示されるのだとあった。従来の体温計(現在もそのような基本的な機種も少なくないが)であると、概ね3分から5分程度は計測に時間を要した。この新しい機種も「予測体温」でなければ、「10分」ほどを要するとされている。僕らが子どもの頃の、まさに水銀が入っていて赤い色が目盛りの脇を上昇する機種が懐かしい。脇に挟んで15秒間の体温上昇値からその後を予測計算するのが、手に入れた体温計の基本原理である。ここ数日の検温状況から、ほぼ正確に僕の体温を計測した数値でブレも少ない。年齢とともに衰える筋肉量の維持に努めているので、一定の体温が保たれている。それは免疫力にも通じ、細胞の活性化にも必要な温度であると認識する。いずれにしても起床時に自らの体温を知り倦怠感や喉の痛みなどがないか点検する習慣は、誰彼問わず今後の世の中を生き抜く上で必須の生活要件ではないだろうか。

10年前の新型インフルエンザの際の生活習慣
自らの身体を数値で捉え1日を生きる
僕らは無頓着であると自らの身体のことも知ることはできない。


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前提たる理解なき無惨

2020-03-14
「仏語。罪を犯しながら、みずからを省みて恥じないこと。
 後世、多く『破戒無慙』『放免無慙』などと熟し用いる。むぞう。」
(『日本国語大辞典第二版』「むざん」の見出し(1)より)

先が読めない事態にあって、情報を収集し精査し適切に理解して判断し行動するのが知性ある態度であろう。翻って真逆を考えてみると、証拠なき出所もわからぬ情報を文脈や誰に向けた発言であるかも吟味し想像もせず、自分勝手な解釈を施し恣意的な判断を下して安易に行動してしまうことを、何と呼べばいのだろうか?新型コロナ感染拡大で様々なニュースが報道される中、「ばらまいてやる」と家族に言い放ち飲食店を複数渡り歩いて濃厚接触的な行為を平然か意図的にか行なっていた陽性患者、その映像までもがメディアで公開されていた。飲食店の店員1名が感染してしまい、店舗側は警察に被害届を提出するらしい。まさに「破戒無慙」、戒律を破っても心に恥じない所業である。

本当に理解ができていないのか?それとも拡散を意図していたのか?いずれにしてもこの社会全体が不安の渦中にある中で、常識人には理解できない愚行である。あらためて「理解」とは何か?を深く考えさせられる事例でもあった。常識として現況の社会状況ならば、最低限の範囲の「理解」があり、自らの言動を律するのが普通であろう。こう書くと「常識」や「普通」も、大変に気になってくる。もとより「常識」の尺度が違えば、当人にとって「愚行」ではない。前述した事例のみならず、社会を構成している人々の中で共有されるべき「常識」「普通」「理解」の紐がほつれてしまうような事例が多き世の中になってはいないか。特に「知性」はあるはずだ、と思っている輩の愚行には唖然以上の無惨を覚え、表現する言葉を僕は知らない。

「無残」「無惨」ー「残酷であること」で使用されることが多いが
まさに仏語としての原義を思う
「理解力」「想像力」小学生でも身につけるべき力である。


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気にするかしないかー花粉症とホワイトデー

2019-03-15
花粉症が今年は少し
気にすることあれこれ
すべて温泉に流したいものだが

「宮崎に住むようになって花粉症が治った」と自覚しているが、今年は花粉量が例年よりも多いようだ。時折、くしゃみが出て目の痒みに聊か悩まされている。だが特段何らかの治療を施そうとは思わない、何より自然に抗うより融け合うことが肝要だと思うゆえである。現代社会は「気にすれば気になる」ことがかなり増量してしまったが、「気にしなければそれで済む」ものも実際は多いのではないだろうか。「社会」が作り上げた風潮に動かされて右往左往することが、この国には特に多いような気がする。

ホワイトデーであったが、前日の夕刻に宮崎市中心部のデパ地下に行って少々驚いた。普段は客足も多くないであろう洋菓子売り場に、スーツ姿の男たちが殺到している。もちろんこの事実を知ったことは僕自身もその一人であったからに他ならない。だが大きく違うのは、比較的安目の小箱を大量に買うか否かという点である。多くの男たちは、日本的慣習と云われる「義理チョコ」の準備に躍起になっているのだ。人気店の洋菓子は最低でも1箱1000円はする、それを10個以上も買う光景を目の当たりにした。僕はただ、その類と差別化できる商品をたった一つだけ購入したのだ。

大学ではこの風潮がないのがよい
友人も務める人気店は確かに美味しい
それにしても気にするかしないかということがここにも。


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義理ってなんだろう?

2019-02-15
日本だけの風習?「義理チョコ」
Xマスやハロウィンの異常な喧騒に同じ
何のために?そして様々な弊害も・・・

Web記事に掲載された情報なので確証はないが、「義理チョコ」というのは日本ならではの社会的慣習なのだと云う。主に職場などで「バレンタインデー」の本来の趣旨には適わない人にも、「義理」を通してチョコを贈るということである。社内の状況によっては、かなりエスカレートした状況もあると聞く。確かに僕が小中一貫女子校の教員だった頃は、その日だけ校則である「お菓子持ち込み禁止」が解かれ、競って手作りチョコを持った生徒たちが、職員室に押しかけたことが思い返される。経済効果の上ではそれなりな事態ではあろうが、この狂騒曲のごとき乱舞には聊か眉を顰めたくもなる。本当に大切に思う人に日常の感謝の心を込めてと、せめてこのくらいの密度を持って楽しみたいと思う。

「義理」とは『日本国語大辞典第二版』によれば、「1、物事の正しい道筋。道理。」「2、体面・面目」「3、つきあいや社交の場でのべる口上や挨拶。」「4、特に世間的なつきあいの上で、仕方なしにする行為やことば。」「5、血縁以外の者が血縁と同じ関係を結ぶこと。また、その関係。」「6、わけ。意味。字句の内容。」「7、(能で)劇としての筋、内容。またその面白さ。」などと多岐にわたる。主に1、2、6あたりの意味で古来は使用されていたものが、江戸期以降に4、5などの意味を生じたように用例を見る限りでは思える。こうした語誌から考えるに、「仕方なし」という負の心を背負いながらも、「道理・面目」といった日本で「しがらみ」の原因になるような体面に拘束される精神的図式のように思う。

漱石『草枕』冒頭に曰く
「義理を通せば窮屈だ」
講義のないこの時期の大学は、静かでとても過ごしやすい。


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言葉の使い方を知れ

2018-11-17

「そこ邪魔なんですけど」
と商品を棚に並べる店員をどける
「言葉」「ことば」「こころ」

つい今しがたのことである。東京駅構内のパン屋さんで、自らトレイでパンを選んでいた。休日の朝はサンドイッチが頻繁に売れるらしく、店員さんが新しい商品を棚に供給していた。すると僕の後ろで「すいません、そこ邪魔なんですけど」という女性の声がした。最初は僕が言われたのかと振り返ると、まさかとは思ったがその声は商品を棚に並べる作業をしている店員さんに向けられていた。やや唖然としてその場で立ち尽くしていると、女性はそそくさとサンドイッチを選んで僕よりも早くレジに並んだ。店員さんはむしろ僕に対して「すいません」と言葉を発した。という「事実」だけを、まずは記したくなってしまった。

昨晩は東京の馴染みの店のカウンターで1人の常連仲間と話していると、初めて来店されたという女性が「言葉」に興味があるとおっしゃって、僕らの話題に加わってくれた。最近は組織内や世間で「文脈の分からない人」が多いという話題である。「言葉」は断片的ではなく必ず「文脈」の中で意味をなす。それがLINEなどの使用によって断片的・単純発語的になってしまっていて、「社会生活上の文脈」も読めなくなってしまっているようだという仮説で盛り上がった。一語の影響力、その「言葉」の重み。「邪魔」という「言葉」の卑劣さを僕は朝から感じ取った。

また今僕の向かいの席にある女性が
「ここいるね!」と言うとその席を一時空けていた女性がすぐさま退散した
「言葉」ではなく「ことば」から「こころ」を考える人でありたい。


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「開けっ放し」は気にする、気にしない?

2018-11-01
「間抜けの三寸・馬鹿の開けっ放し」
開けたら閉める扉やドアの作法
どうも気になってしまうのだが・・・

よく通っていた公共温泉が改修工事中のため、近辺にある他の何軒かのホテルの日帰り入浴を渡り歩いている。ホテルによって宿泊客の特徴もあり、浴場そのものの構えも異なる。あるホテルには先日までプロ野球球団の二軍選手が宿泊しており、浴場では逞しい身体の若者たちが多かった。ホテルチェーンに属するそのホテルには出張慣れしたビジネスマンも多く、敢えて市内ではなく温泉が充実したこのホテルをめがけてくる人が多いのだと地元の方に聞いた。温泉に入っている人たちの行動を見ていると「教育者」の心が疼くのか、ついついあれこれとその作法が気になってしまう。

そのホテルには露天風呂があり、宵月のうちなら湯けむりの向こうに天空の陰を見ることができる。露天風呂への出入口にドアがあるのだが、時折それを開けっ放しで入ってくる人がいる。特別な人だろうと思っていると、別の日に別の人が同じ行動をした。しかも、その開けっ放しにされるドアには「締切」の表示が貼られている。さらには1度ぐらいなら偶々忘れた、ということかもしれないが、繰り返し繰り返し他の人が締めたであろうドアを開けっ放しにするのである。室内外の空気が相互に出入りし、たぶんホテルとしても「意味」を持って「締切」にしてあるのであろう。さて、あなたならこの「開けっ放し」が気になりますか?気にしませんか?

幼少の頃、父に習った
三寸ほどの幅を締め切らない「間抜け」
「開けっ放し」は冒頭に記した通りであるのだが・・・


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免許より身体感覚・実効性・理性を

2017-08-19
車の運転は「歩行」と違わず
理性と実効性と身体感覚が重要
「免許」の持つ意味は何か?

しばらく海外に渡航していない。2000年代にはしばしば「日本語教育」や、海外での「日本文学」研究の実情を知るべくよく米国に渡った。米国は都市部以外は車社会であるため、その都度「国際免許」を取得してレンタカーで広大なキャンパスの大学を訪れていた。当時は東京在住で車を運転する必要もなかったので、米国での右車線運転にむしろ慣れてきて、帰国して道路を横断する際などに左側ばかりを注視して危険を感じることもあった。運転はまさに身体感覚によるところが大きいゆえ、経験と実効性が物を言うように思われる。そんなことを実感して1年間有効でサイズも大き過ぎる「国際免許」を取得して渡米すると、レンタカーを借りる際にしか提示することもなく、免許はあくまで「建前」であって、肝心なのは「1、身体感覚」「2、実効性」「3、理性」のように思われて来るのであった。

「理性」が3番目というのは、何も交通ルールを疎かにするという意味では決してない。海外ではむしろ「ルール」というのは「自らの身を危険から回避する方法」だと思えることもある。日本ほど細部のルールに厳格なわけではないが、「右折は信号が赤でも安全ならいつでも可」といった運転者判断に委ねられる点もある。「信号」という単なる「記号」に全面的に依存する日本の感覚からすると、最初は少々違和感があった。だが次第に、それが心地よくなって来る。ハイウェイの運転などでも、日本では考えらえないような大型トラックが往来しているが、誠に柔軟で理性的な運転をしているように思われた。肝心なのは「自らが走る」ことにおいて、明確な自己主張がありながら、車社会を楽しむ現実的な感覚で運転がなされているからであろう。もちろんNYなどの都市部に行けば、横暴な運転に遭遇して危険な思いもしたことはある。そうした緊迫さを実感した時、日本の免許センターで与えられる段ボールのような灰色の紙片に写真と割印が押された「許可証」よりも、現地での連係した3つの感覚こそが大切であることを痛感した。「ライセンス」はあくまで社会的「許可」に過ぎず、「運転」はより現場での経験と判断力が大切だということである。

よく「大学教員に免許なし」と云う
現地で現場で体験的に積み上げていく実力
「免許」とその「更新」について諸々と考えさせられる。
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構造的理解の重要性

2017-08-18
家具を組み立てる作業
重ねられたプリント類をどう取るか
生活の中の構造的理解

宮崎では暑い日が続く。少々早めの午後4時に大学から帰宅しようとすると、自家用車の車載温度計がなんと「39度」を示していた。人間なら平熱を通り越して、インフルエンザでも罹患したかのような体温である。帰宅してしばし待機すると、宅配さんが呼び鈴を鳴らした。「衣類ラック」が、時間指定で届くように注文しておいたのである。数年来使用してきたハンガーごと吊るせる横棒状のものが左右の均衡を崩し左に歪み、とうとう角のプラスチック部品に亀裂が入ってしまっていた。いつ「倒壊」するかと恐れていたが、なんとか新旧交代まで頑張ってくれた。”新人”は、金属製の耐久度重視の一品。早速自ら組み立て作業に入ったが、注文の折に確認すると作業員の方に組み立ててもらうと「2700円追加」とあった。この作業はそれほどの価値か、と思いながら、こうした作業は嫌いではない。

友人などに聞いた話だと、こうした家具の組み立てで部品の左右を間違えたりすることも多いと云う。要は全体の構造を視野に組み立てるか否かという、思考の問題であると毎度考える。ネジの穴の方向や種類、全体の耐久性を考えたら湾曲はこの方向であるなど、「全体」を見据えて「部分」を構築することが肝要である。部分部分で面倒臭がらずに、それを常に確かめる。幼少時に「プラモデル」で鍛えられた感覚ともいえようか。まさに、学校での図画工作や技術の課程の重要性も再認識する。日常の大学で講義をしていると、学生たちにプリント類を配布する機会も多い。その際に、敢えて「仕切り」を曖昧にしておいて取らせることがある。ただそこにあるプリントを取ればいいと安易に考える者や、始業間際に来る学生などは粗雑に一番上の「一枚」だけを取る傾向がある。すかさず授業の「マクラ」に、前述したような「構造的理解」の重要性を話すことにしている。一枚取ればその下から違うプリントが顔を出す意味は何かと・・・

日常に「考える」行動はあるか
メディアが放つ情報にも構造的理解が必要だ
疎かにされていた自動車学校の「構造(機械的)」の重要性を顧みる。
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慎重かつ丁寧に走ろう

2017-05-16
車はどんな運転を「上手い」とするか
同乗者がどれほど揺れずに乗っていられるか
慎重かつ丁寧にハンドルを握る

大学1年生の夏休みに免許を取得したので、運転歴はそれなりに長い。若かりし初任校で教員をしていた頃は、同僚の多くが車を所有していたこともあって、今思えば必要性もあまりないのに車を購入していた。その頃はバブル前後の時代で「モーターブーム」でもあり、特に「パリ・ダカールラリー」などに冒険心をくすぐられていたことがあった。その所謂「パリダカ」の著名な日本人ドライバーに、篠塚健次郎氏がいた。ちょうど実家近所の知人が懇意にしているということで、何度かお会いしたことがある。砂漠をはじめとして道無き道を長距離に渡って走行する「パリダカ」、どんな運転上の心得があるのかと聞いた話が印象的であった。

まずは、車のシートは常に的確な位置に合わせる。これによって運転の注意力や疲れが、まったく違うと云う。そして走行時は、なるべく同乗者の身体を揺らさないような走りを心掛けると云うのである。ラリーというと過酷な中を果敢に走るようで、強引に走る印象が一般的にはあるが、実はまったく逆であると聞いて、当時それまでの運転姿勢を改めたことがあった。同乗者の身体を揺らさないということは、急発進はもちろん不可であり、また的確な先を読んだブレーキングが求められる。そのためには走りゆく道の先々で何が起こるかを、予見しながら走るということになる。この慎重かつ丁寧な走りが、砂漠の砂にスタッグせず、急なギャップにも落ちたりせず、路面状態を読んで走る基本であると云うことなのだ。そしてこの姿勢は、我々が日常で安全運転をする上での心構えに通ずるのである。

あらためて運転姿勢を見直す
同乗者のいるときの平常心
5日間、県内での走行距離はどれほどであっただろうか。
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健康に向かう価値観ー「米国発」を考える

2017-04-25
「煙草」の辿ってきた道
「酒」はどこに向かうのだろうか?
「健康志向」という米国発価値観について考える

昨日一昨日の小欄記事をお読みいただき、いくつかのご意見をいただいた。「ほろよい学会」の座談でも指摘された「酒と恋の歌が少なくなってきた」ということを、どのように考えたらよいかということである。「恋」の方に関しては、従前から「草食系」とか「晩婚化」が社会的に指摘されており、「恋」に踏み出せない、踏み出さない若者が増えたという社会学上の報告を多く目にする。古代よりの短歌の歴史を考えるに、その起源は「相聞歌」にあるわけで、必然的に「恋」を詠う性質を歌は持っていることになるだろう。もしかするとこうした社会学上の報告に囚われるあまり、我々はそのように思い込まされているのかもしれない。SNS等が急速に発達したことで、「恋」が社会的に潜在化しただけなのかもしれない。このような意味で、学生が恋歌を題材に卒論を進めるとか歌を詠むことには、大学教員として内容のみならず社会的な深い「意義」を覚えるのである。

さて、酒はどうだろうか?いただいたご意見の中に「米国発の価値観」に左右され支配されているといった趣旨のものがあり、深く考えさせられた。イチローは以前から日本では「ビール」のCMに出演し続けているが(今年から会社を異動したようだが)、「米国発の価値観」では「アスリートとしてのイメージに疑問符」とされる指摘もあると教わった。イチローを尊敬している一人としては、ビールを選ぶ際にそのCMの影響を強く受けるのだが、CM上は美味そうにビールを飲み干すイチローの姿を見るに、果たして日常では飲むのだろうか?という疑問を常に抱いていた。いやむしろ「常飲」していないような人が「美味そうに飲む」ことに、CM効果があるのではと穿った見方をすることも。メーカーの管理としても「飲み過ぎ」を戒めるイメージを伴っていた方が、得策と考えているのかもしれない。昭和を遡れば、石原裕次郎のイメージはまさに酒と煙草である。刑事物では仕事中も常に煙草を手にしており、カウンターでブランデーグラスというのが定番な絵である。しかも「1晩ボトル1本」を空けるほどのイメージが、酒造会社にはこの上ないキャラクターであっただろう。それに好印象を持つ時代は、確実に終わってしまった。

ご存知のように、牧水は夭逝した。残暑厳しき9月であったが、なぜか屍の腐敗は進行しなかったという逸話がある。まさに、体内アルコール量の効果であると云われている。裕次郎も美空ひばりもたぶん、アルコールで命を短くしてしまったのであろう。こうした太く短い人生を、現在ではどう考えたらよいのだろうか?「健康」をはじめとする「米国発価値観」が世界を席巻することが、果たして妥当なのだろうか。そこには「健康」を過剰に意識し過ぎるがために、むしろ「健康を損ねる」事例が潜んでいることに注意しなければならないように思う。例えば、米国でのPhD(博士号)取得の道は実に過酷であり、日本の大学院がたいそう「甘く」見えるようだ。だがその内実を鑑みると、何のために「研究」しているのかがわからなくなるほどの状況が窺える。過酷さの中で心身の健康を害し、それで豊かな生き方なのかと考えさせられる。いつでも米国発の極端な価値観は、特にこの島国の住人には、不適合なことがあることを心得ておくべきかもしれない。本日、だいぶ話は右往左往してしまった。

酒はまさに「文化」でもある
「うまみ」という語彙に飛びつく米国人も多い
それゆえに「酒」の短歌を詠み続けたいと思うのである。
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