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「呑気はそれだけで傲慢だ」ー自由がなかった世の中から

2023-04-28
自由民権運動の指導者が豪語する
「呑気はそれだけで傲慢だ!」
それを聞く牧野富太郎が「雑草にも名前がある」と

朝の連続テレビ小説「らんまん」は、植物学者・牧野富太郎の生涯がモデルになっている。文久2年(1862年)土佐は佐川の造り酒屋の生まれ、幼くして両親を次々に亡くし祖母に育てられ6歳で明治維新を迎える。酒造りに興味を示す姉は「女」という理由で麹作りの蔵にも入れず、植物に甚だ興味がある弟・富太郎が後継として「当主」と担がれる。寺子屋→藩校(名教館)→小学校へと進んで学ぶが、植物と外国語だけは深く興味を持ち他の学習は身が入らず2年間で小学校中退。独学で植物の採集・調査に熱中する。これまでの数週間で、概ねこのようなあたりまでが連続テレビ小説で描かれてきた。

「長男は家業を継ぐ」江戸時代から明治の社会的慣習は、人々を縛り付けた。明治18年生まれの若山牧水はやや時代は先だが、やはり家業としての「医師」を継ぐことを求められ深い葛藤に悩み尽くす。富太郎の場合もそうだが、学校で「主体的に学びたいものを学ぶ」ことさえも許されない時代。牧水は短歌に、富太郎は植物において自らが「やりたい道」を貫き通したのはただそれだけでも深い尊敬に値する。連続テレビ小説ではさらに、「自由民権運動」の志士たちと富太郎が遭遇する。明治7年(1874)に始まり同21・22年あたりまで続いた、藩閥政治に反対し国民の自由と権利を要求した政治運動だ。本日の標題はその富太郎が出逢った志士の指導者の言葉。政治・社会・旧弊に拘束されていても何も声を上げず自由を求めないのは、それだけで「傲慢だ」と断じた言葉だ。「自由」が当たり前すぎる現在だからこそ、「自由」の獲得には命がけであったことを知るべきだろう。意識なき者は「傲慢」なのである。

「家業との葛藤」は今でも
反対に今でも残る世襲という旧弊の傲慢
「自由」に学問ができる社会を高めていかねばなるまい。


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歩行者優先を当たり前とせず

2022-10-13
クレームばかりの世間にあって
横断を待ってあげると深々と礼をする中学生
地方の素朴さこそがこの国を救う

この後期から水曜日は非常勤先の講義があるので、朝晩は妻を職場まで送迎し僕が自家用車を利用している。昨日の帰宅時に、こんな光景に出逢った。信号のない横断歩道で対向車が停車し、横断しようとしていた2名の女子中学生を優先して横断させた。(道交法上当然なのだが)僕は右折をしようとして待機していたのだが、その2名は横断歩道を渡り切ると対向車に振り返り深々と礼をした。その次は僕が右折しようとしている路地の横断歩道を渡る様子なので、そのまま右折待機を続けた。2名はやはり横断歩道を渡り切ると、僕の方を振り返り深々と礼をした。よほど窓でも開けて声を掛けたい気持ちになったが、軽く右手を挙げて応え僕は自宅へと車を走らせた。こうした光景は、僕が宮崎に移住した9年前から経験している。最初は小学生だったが、振り返り声も出して「ありがとうございました」と言った。もちろん宮崎なら何処でもという訳ではないだろうが、たぶん小中学校で交通ルールなどの教育が為され浸透しているのだろう。

世間は耳目を疑うほどの「クレーム社会」と化しており、人と向き合うサービス業への就職を避ける傾向さえ出てきていると聞く。いま「サービス業」とは書いたが、「クレーム」対象は「病院や医師」、そして「学校や教師」にも常軌を逸した次元で行われているのが実情である。ちょうど1年生対象講義「国語」において、「うちの子は甘えん坊でぐうたらで先生なんとかしてくださいよ」(俵万智)の短歌から想像できる「物語」を書くという課題を出した。「三者面談」の場面の作品が多かったが、概して保護者が「クレーム」を言う場面が多く描かれていた。「国語」で育む力のうち「想像力」への理解を促す講義内容であったが、教員志望の学生らが想像する未来は「クレーム」に溢れているということだ。「サービス」を受けて当たり前、「金を払って」いるから当たり前、という貧困なる精神をいつからこの国の人々は「当たり前」にしたのだろう。いつからか政治家が「・・・は当然だ」などと物事の道理を言わずに平然と吐くようになったが、そんな世相と機を一にしていないだろうか。結局は「力あるもの」その力も「財力」を指標とする下等な競争原理を埋め込まれた社会に、「クレーム」が蔓延する根があったのではないか。一方でどんなに指摘を受けても、「知らぬ存ぜぬ」を通してしまう強引さを我々はこれほど見せつけられている。誰が「クレームを言わない方が馬鹿」と思える世の中にしてしまったか?実は明らかなのだと思わざるを得ないのだ。

些細な横断における礼節を表わす中学生
宮崎という一地方に残る心が世界平和に繋がるのでは
「思いやりの心」は決して当たり前ではなく相互の立場を尊重してこそ起動する。


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「ゴールデンウィークが終わっちゃいました」ーその由来とは?

2022-05-10
いつから「ゴールデンウィーク」となったのか?
4月新学期からの歩調を整えられるように
盆と正月に続き人々が移動・活動する時節として

「黄金週間」=「ゴールデンウィーク」、「GW」の表記もたぶん「グループワーク」と間違えることなく社会にほぼ定着している。ところでこの「ゴールデンウィーク」という呼び名はいつ頃からあるのだろう?と疑問に思って調べてみた。1951年(昭和26)に上映された映画「自由学校」が盆や正月の興行よりもヒットしたことから、当時の大映専務・松山英夫という人の造語による和製英語であると知った。既にラジオでは「ゴールデンタイム」という用語があり、これに倣って「週間」に適用したというわけである。従来は祝日が「飛び石」になるのが常であったが、1985年(昭和60)の祝日法の改正によって5月4日も祝日となり「飛び石連休」とも言われなくなってきた。今年は「3年ぶりに行動制限のないGW」と報道では喧伝され、全国の観光地の人出も昨年比で3倍ほどになる所も多かったようである。しかしコロナ禍前に比べると、未だ5割から7割程度の人出であるという報道も見た。少しずつ「日常」は取り戻されているが、連休明けにあたり新規感染者数の増加も懸念されるところではある。

1ヶ月前に廊下ですれ違った同僚に「新学期が始まっちゃいました」と笑いあったが、昨日は「GWが終わっちゃいました」と声を掛けた。中高教員時代から感じていたが、子どもたちのみならず教員というのは「学校がある・ない」に大変に敏感である。「始まっちゃった」「終わっちゃった」という物言いは、僕の教員時代からの通例になっている。誰しもが好きなことをやって過ごせる「連休」はありがたく思うものだが、やはり身体が「休日」に一時的に順応してしまい「連休明け」はいささか辛い思いをするのは世の常である。それにしてもGW中にも講義があった担当科目は、既に5回目の講義を迎える。15回の三分の一が消化されたわけで、今月を終えるとほぼ半分を消化する計算になる。特にまさに「飛び石」だった月曜日・金曜日の講義は展開が早い。物事は1回ごとの積み重ねであるが、7月の海の日まで土日以外は休日のない日々がやって来た。それにしてもくり返すが、日本では「GW」などを話題にできるほど「平和」な日々が保たれている。あらためて「今日」のありがたさを実感しつつ、「GW」で得られた栄養を次に向けよう。

帰省した学生もチラホラ報告もあり
そしてまた今後の感染状況にどう向き合って行こうか
春季学会なども対面での開催が予定されている今月である。


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「在庫なし」ああ「残り1点」

2021-12-16
Webで買い物の際の表示
目をつけていた商品の「在庫なし」
そして「残り1点」に働く心理

飲食店に「限定10食」とされているメニューは、販促のための戦略であるとも聞いたことがある。このようにすることで「10食しか食べられない」という稀少価値を意識した客が増えて、同メニューへの注目が高まる。次第にTVの所謂「行列ができる」という評判がたち、当該メニュー以外も含めて「口コミ」が拡がり店が繁盛するという構造だ。僕は「行列に並んでまでも」と考える方だが、美味しいもの好きの人々にとっては「人気がある」というのは重要な尺度のようである。時に「限定」とされているメニューをあるお店で営業時間のかなり遅い時間帯に注文する際に、「・・・・・はありますか?」という問いに「終わりました」と言われた経験がない。僕の解釈では「人気メニュー」ではあるが、決して真の意味で「限定」ではないようだ。ある商品に対して「競争率が高い」という心理が、購買意欲をそそるというわけである。

新刊著書が、Web販売「Amazon」で「予約」から「残り5点。ご注文はお早めに。」と表示が変わった。確かに以前から、この「残り〜点」という表示は気になっていた。書店に行かずとも当該の書籍が数日以内に手元に届くのは、地方在住の研究者としては誠にありがたい。だがそれだけに「品切れ」になってしまうことには、いささか敏感にならざるを得ない。この日は書籍ではないが、Web上で「残り1点」と気に入った商品に表示されているのを朝方に見た。当該商品のメーカーは「手作り」感が売りでもあるゆえ、一概に販促戦略でもあるまいと思い即座に注文をした。その後にWebを見ると既に「在庫なし」の表示になっている。実はいくつかのWebサイトで関連商品を探している中で、前の晩に「在庫なし」になってしまった商品があったのだ。リアルな買い物でもそうだが、その場での商品との「出逢い」はある意味で緊張感に満ちている。質の高い商品こそ、リアルに「残り1点」なのである。さあいよいよWebでも書店でも、新刊著書が購入できるようになった。週末にはリアル書店に並んでいる表紙を、思い浮かべながら。

書店で手にとって本を選ぶことの大切さ
子どもの頃に玩具屋のお気に入りプラモデルがまだあるか?いつも気になった。
新刊著書どうぞよろしくお願い申しげます。


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生の声を聞くということ

2021-12-09
学生参加のFD研修会
オンライン講義は?アンケート結果は?
「忖度」社会から解放されるために

12月8日は、第二次世界が開戦して80年の節目の日である。なぜあれほどの惨禍となった戦争を回避できなかったのか?開戦以前にも米国とは、資源をはじめ明らかな国力の差が諸々のデータで明らかであった。内閣及び天皇も含めて外交交渉によって解決し開戦を避けたかった意向がありながら、なぜ開戦に突き進んだか?NHKBSプレミアム『選択』という番組で、歴史学者をはじめ元外交官や心理学者を交えての議論が大変に興味深かった。1937年(昭和12年)からの日中戦争に既に多くの戦費や人員を費やしてしまっているゆえ、後戻りができなかったことをはじめとして、見えない「世論」のようなものに政治家までもが左右されていく恐怖。専門家の意見をに広く耳を傾けようとせず、狭い了見の中でデータを無視した感情的な「忖度」で大勢が決定されてゆく。そんなかつての過ちは、80年が経過した今も「学習されていない」という話題には納得しつつ怖ろしさを覚えた。「忖度」はここ最近のこの国の傾向ではなく、常に根ざしたものであり大きな過ちの根源でもある。

全学FD研修関係の委員をしているので、この日は「学生参加」の研修会に参加した。昨年度から行われてきた「遠隔講義」について振り返るというテーマである。データとして示されたのは「学生アンケート」であるが、次第に学生らが本音を語り出すうちにその信憑性が問われ始めた。どうやら「記名」と「無記名」では、回答する内容に差があるということらしい。「記名」であれば、やはりどこか成績評価との関連が気になり「忖度」した内容を回答するというのだ。一方で「無記名」のアンケートには教員にとって辛辣な内容が記される傾向がある。こうした実態でありながら「データ」化された結果によって、改善の施策が検討されていく。「教育学部では質問が少ない」という「データ」は何をどのように表わしているのか?よくよく考えて活用する必要があるようだ。何より学生らに「本音で語って」と言っても、どれほど真に「本音」であろうか。次第に頻繁に発言する学生は固定化され、学部ごとの特質があるにも関わらず大局的な話題が展開していく。開放的な試みで有意義であったが、それだけに各学部でも同様の機会を設けて「忖度」のない対話を持つべきであろう。

歌会が「無記名」で批評することの意義
本音で語り合える時間の尊いこと
偏らず生身の己を語り合える健全な関係や社会を求めたい。


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家電品を購入する当事者として

2021-11-03
誰から何処から「買う」のだろう?
大企業ブランド名のつく商品を量販店?
顔の見える「街の電気屋さん」という「人」から・・・

些細なことに苛立つ社会である。先日来、自宅の洗濯機が不調で一度訪問修理を受けたのだが、また同様の不具合動作をし始めてしまった。東京で購入した商品のため、購入店での長期保証を紐付けに紐付けをくり返しようやく確認し、先方からメーカーサービスステーションに依頼が入り、さらに地元営業所に連絡され日時選択の電話が入りようやく訪問修理に至った。不具合があることそのものよりも、この何重もの依頼担当責任構造にすっかり辟易してしまった。そこへ来てあらためて訪問修理の際にもらった確認書のメーカーサービスステーションに再び依頼をすると、東京で購入した家電量販店に依頼せよと言われた。一般的には普通の些細なことなのかもしれないが、依頼の過程が複雑でようやく保証を掘り返した経験が特異に僕の中で大きなストレスになっており、電話を切った後に叫び出したい心境になった。まるで新型コロナでたらい回しにされる患者のように、家電量販店とメーカーという大企業の関係が一地方の一家庭に対して、あまりにも親身でない対応にすっかり呆れてしまった。正直なところ、この家電メーカーそのものの信頼、故障の多さ(先日は同メーカーの便座も不具合)そのものが日本の凋落ではないか?など拡大解釈してしまうほどだ。僕が幼少の頃の実家でも、社名は違ったがこのメーカーを愛用しており、家電にこんな不具合が生じた記憶はほとんどない。

宮崎に移住して以来、「街の電気屋さん」と呼べる親しいお店での購入を続けている。もちろん量販店より値段は高いが、不具合があればすぐに駆けつけてくれる。その選択をするにあたり思うのは、僕の両親が経営していた会社のことだ。量販店やネット販売が活況を呈するようになって、顧客に値段を比較され「お宅は高い」と言われたことが多々あったと聞かされた。内装を中心に建築工事全般を請け負っていた小さな会社であったが、街に住むおばあちゃんが「ドアの不具合がある」と電話が来ると、父がすぐに訪問するような会社であった。東京であっても、下町の人情に長けた商売を続けて来た両親を大変に誇りに思う。TVのCMが喧しい量販店の巨大組織競争力や大企業の「メーカー名」だから買うのではなく、「信頼できる人」から買うというのが一地方の一家庭の幸福につながるはずだ。今回の事例に遭遇して、あらためて「人」ということを実感した。今回の選挙の諸々の争点も、気候変動問題もそうであるが、まさに僕らは当事者であるという意識に欠けてしまう。それは顔のない大企業や量販店から、安価だからという理由のみで購入する生活のあり方にも問題があるように思う。昨日の小欄に記した投票率の問題を、ゼミで少々意見を聞いたが、やはり学生たちは当事者意識が欠けることが大きな問題だと自覚しているようではある。

社会構造の中でいかに生きるか?
何事にも当事者意識を持つべき
欧州で気候変動を訴える若者たちを見習いたい。


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〆切にどう向き合うか?

2021-10-19
〆切をどう意識してどう行動するか?
早々に終わらせる?〆切厳守?まあいいか?
原稿催促など昭和にお馴染みの風景なども

昭和の映画・ドラマなどでは、作家さんの元に編集者が借金取りならぬ「原稿取り」に詰めて、あれこれ策を弄するという常套な場面があった。確かザ・ドリフターズにも、そんなコントがあったと記憶する。メールや郵便や宅配も今ほど便利に利用できない時代、「紙原稿」を直接手渡す重量や手触り感があっただろう。たいてい作家さんはその場合、編集者が家に来ていても原稿を書き続けているのが常だ。上手く筆が進まないと原稿用紙を丸めて投げるので、次第に部屋は原稿用紙のゴミだらけになる。400字詰原稿用紙ゆえ、書いていって気にくわなければ最初からやり直しとなる。これもまたワープロソフトを使用するのとは大きく違う面である。要は作家さんが特別な存在で、「〆切日」を設定しても一向に守らないことが社会的に慣例化している訳である。作家さんはある意味で世離れしており、社会性はなく自らの世界観から秀作を生み出すという観念がはびこっていたように思う。編集者側も「原稿を待てる」という社会的・時間的余裕があり、味のある名作を数多く生んだことだろう。故・井上ひさしさんなどは自ら「遅筆堂」と称し、原稿を仕上げるのに大変に時間がかかったのは有名である。

学部卒で教員になった時、定期試験の答案が出てくるとその場ですぐさま採点を始める1年先輩の先生がいた。僕は気になる設問の解答欄をまず楽しみに何クラス分か繰ったりして、ひとたび答案を引き出しに保管し、気持ちが向いてから採点を始めるタイプだった。同僚の先輩は定期テスト期間中に採点を終わらせ、成績〆切までかなりの余裕を残して成績を提出していた。僕は記述問題などの減点具合などをあれこれ考えるせいもあるが、〆切日になってようやく成績票を提出する。新卒当時はまだ手書き成績票に書き入れて担任に手渡しするという方式で、その後に担任は各教科の成績一覧表を「閻魔帳」上に手書きで作成していた。教員生活が進むにつれて、次第にパソコン入力で自動的に成績一覧表が作成されるようになった。仕事が与えられたら「すぐやる」か?「しばらく寝かせる」か?明らかに僕は新卒時には後者のタイプ。その後、諸々の機会に母の行動を観察すると、やはり何事も「しばらく置いて」やる生活習慣があることに気がついた。遺伝子なのか生育の段階でそう習慣化させられたのか、母親の言動の習慣が無意識に染み付いていることが他にもある。今でも僕は前項に記した作家さんほどではないにしても、「〆切日」ギリギリまで粘るタイプである。今回は「待つこと」を一つのテーマに新刊を著したが、初校の〆切日となる前日までやはりじっくり「待った」訳である。東京の出版社まで宅配のタイムサービスでやや高い値段を支払い、昨日の午後にようやく発送した。自分なりに校正の追い込みをかなり頑張れた納得感はある。だが時折、初任時の先輩の姿勢を思い出すことがある。少なくともメールや実務に関しては、初見で対応する習慣が必要な時代だ。誕生日プレゼントをした靴を母は2週間ほど寝かせ、「短歌オペラ公演」がある特別な日に下ろしていた。「日を選ぶ」思考もまた大切なこと。今回の自著にある「前向きと前のめりは大きく違う」という自らの文言に頷いたりしている。

原稿のやりとりも高速化した
だが性急に結果だけを求める社会でいいのだろうか?
人生の「スピード感」について、「待つこと」の大切さと天秤にかける日々だ。


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時間をかければいいわけじゃない

2021-05-15
来年になればできる?
否、来年までに何をどうするか!である
時間への思考について

「思い立ったが吉日」と云う諺がある。手元の『故事俗信ことわざ大辞典』によれば、「何かをしようと思い立ったら、迷わず、すぐに取りかかるのがよい。吉日を選んで先延ばしにすると、その間に支障が生じ、実現できなくなることもあるから、思い立ったその日こそ吉日と考えて、ことを行なえ。思い立つ日を吉日。善は急げ。」とある。少なくとも平安朝頃から「暦によって事を行なう日を選ぶ風習」があることによる、生活の知恵を述べたものだ。あくまで「俗信」とは思いつつも、計画的な吉事の場合はやはり「日を選ぶ」のが人情である。これまでの僕の経験でも「自分の誕生日だから仏滅に納車」をした車は、大きな欠陥・故障に見舞われたことがある。その後、当該自動車メーカーの整備上の杜撰さが社会問題化したという事例であったが、僕自身が今でも「暦を選ぶ」一つの根拠にはなっている。

「暦を選ぶ」ことに問題があるわけではなく、「先延ばし」にすることに問題の核心はある。「先延ばし」や「問題の先送り」は、やるべき機会や時間を失って二度とできなくなることも少なくない。例えば、「忘れ物をする」ということは「思ったその時にその品物を鞄に入れなかった」からである。また「先延ばし」にしたから、「できる」保証はないことを僕たちは心得ておくべきだ。「時間をかけた」から物事が「改善」しているだろうと判断するのは、実に安易な思い込みに過ぎない。国語教育における思考の問題として、「日本人は時系列(ストーリー)」で考え、「欧米人は因果律(プロット)」で考える傾向があるという報告を学会で聞いたことがある。我々は無意識に「絵本」のように、「先送り」をすれば「ハッピーエンド」が待っているという幻想を信じていないか?まさに「今」を「なぜ?」と原因を考えて、即時に行動する思考に大きな遅れをとっているのではないだろうか。あらゆる面で昨年より今年が困難な国と、改善した国がある世界的な分布を見つめるべきだろう。

「今がその時」と思い立ち
「なぜ?」と問題解決の思考で行動する
時間が経過したことによる馴れ合いが一番怖い。


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身だしなみを気遣ってくれる人

2021-04-19
ネクタイでもベルトを通す穴でも
些細な身だしなみを気遣ってくれる人
当人の品格、伴侶の配慮

日米首脳会談が実施された模様が、映像で報道されていた。報じられた内容は、バイデン大統領と「初めて会談した他国の首脳」とか、「同盟関係が強固であることを確かめた」とか、「ワクチン会社のCEOに確約を得た」とか、成果があったとばかりが強調されている。東アジア・東シナ海をめぐって中国の進出も目立つ中、いかに平和を築くかが我が国に託されているとも思いたいが、どうもそれほどの懐の大きさを感じるには到底至らない。二人で居並ぶ外見上の雰囲気も、会見での発言の仕方も、質問への応じ方でもあまり対等な同盟関係とは思えぬものばかりが目立ってしまう。その拭えない印象の要因は何だろうか?

米国側が医療用の高性能マスク・N95を用意してくれたのだと報じられていた。会見で日本の首相は装着しているのだが、後頭部に回すゴム紐のつけ方が明らかに違っている。装着後には跡が残るほど顔面への圧着の強さがこのマスクの大きな特長であるが、そのためには後頭部方向に一本、耳を挟んで口の真後ろの頚部に一本と幅を広げて装着するのが基本である。それは製品を収納した袋に英語の説明書きが、図とともに明示されている。ところが首相は二本のゴムとも耳の下で、顎のあたりに隙間が空くように装着をしていた。本人が英語の説明書きを読まなかったとかいう問題よりも、側近たる人々がなぜ助言をしないのかが大変気になってしまった。側近たるや、まずは身だしなみを諌められずして何ができるのか?図らずもこの会見映像が全世界に流れることで、「マスクの誤った装着を見過ごす側近しかいない国」だということを広く曝してしまった。五輪開催国ながら国内の感染対応の遅速にもよく呼応したものとして、である。

出かける前の伴侶の一言は大切に
小さな身だしなみに気遣えるや否や
ささやかな配慮こそが国を救うのだと思う。


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身体は嘘をつかない

2021-01-28
健診結果にみる思い当たること
日常の習慣がそのまま反映する
身体は正直で嘘をつかないものである

世界中で、主に政治家の言葉に注目が集まっている。新型コロナが地球を席巻する渦中で、どれほどのメッセージを国民に訴えられるかが大変に重要であるからだ。感染対策に成功しているとされる国、例えばニュージーランドや台湾の指導的立場が語る言葉は正直で素直である。正反対にフェイクニュースを連発する大統領は論外であるが、強権的に虚飾な言葉を連ねている指導者も散見される。「・・・している」や「・・・を検討する」という響きは、誠に頼りない限りである。あらためて自分の生活を預けている「国」への信頼について、ウイルスは僕らに深く考えさせる機会を与えた。正直に嘘をつかないことの尊さを、見せつけているようだ。

さて、10日ほど前に受診した健診結果が自宅に郵送されて来た。特にさらなる精密検査を要求される項目はなかったが、率直な感想は「身体は嘘をつかない」ということ。数値が基準値を外れているものに関しては、あれこれ自らの生活を振り返ってみた。すると「これか」「あれか」と思い当たる節がある。主に日常的な食生活で習慣的に実行してしまっていたことにおいて、その影響が正直に反映されている。人は必ず「間違う」ものとも云われる。「間違いを間違いのままにしておくのが、本当の誤ちである」とも云う。自らの行動には客観的に示唆を与えてくれる、「通信簿」=「科学的データ」が必要である。振り返りをして、いかに改善していくか。歩く習慣をつけたことで、昨年よりは改善された数値も少なくない。その成果を思い、来年に向けて今日の生活がある。

年代とともに身体に変化が
小さな習慣の積み重ねが怖い
自国の国民を、そして自分の身体を、誤魔化していては未来は見えない。


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