慎重かつ丁寧に走ろう

2017-05-16
車はどんな運転を「上手い」とするか
同乗者がどれほど揺れずに乗っていられるか
慎重かつ丁寧にハンドルを握る

大学1年生の夏休みに免許を取得したので、運転歴はそれなりに長い。若かりし初任校で教員をしていた頃は、同僚の多くが車を所有していたこともあって、今思えば必要性もあまりないのに車を購入していた。その頃はバブル前後の時代で「モーターブーム」でもあり、特に「パリ・ダカールラリー」などに冒険心をくすぐられていたことがあった。その所謂「パリダカ」の著名な日本人ドライバーに、篠塚健次郎氏がいた。ちょうど実家近所の知人が懇意にしているということで、何度かお会いしたことがある。砂漠をはじめとして道無き道を長距離に渡って走行する「パリダカ」、どんな運転上の心得があるのかと聞いた話が印象的であった。

まずは、車のシートは常に的確な位置に合わせる。これによって運転の注意力や疲れが、まったく違うと云う。そして走行時は、なるべく同乗者の身体を揺らさないような走りを心掛けると云うのである。ラリーというと過酷な中を果敢に走るようで、強引に走る印象が一般的にはあるが、実はまったく逆であると聞いて、当時それまでの運転姿勢を改めたことがあった。同乗者の身体を揺らさないということは、急発進はもちろん不可であり、また的確な先を読んだブレーキングが求められる。そのためには走りゆく道の先々で何が起こるかを、予見しながら走るということになる。この慎重かつ丁寧な走りが、砂漠の砂にスタッグせず、急なギャップにも落ちたりせず、路面状態を読んで走る基本であると云うことなのだ。そしてこの姿勢は、我々が日常で安全運転をする上での心構えに通ずるのである。

あらためて運転姿勢を見直す
同乗者のいるときの平常心
5日間、県内での走行距離はどれほどであっただろうか。
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健康に向かう価値観ー「米国発」を考える

2017-04-25
「煙草」の辿ってきた道
「酒」はどこに向かうのだろうか?
「健康志向」という米国発価値観について考える

昨日一昨日の小欄記事をお読みいただき、いくつかのご意見をいただいた。「ほろよい学会」の座談でも指摘された「酒と恋の歌が少なくなってきた」ということを、どのように考えたらよいかということである。「恋」の方に関しては、従前から「草食系」とか「晩婚化」が社会的に指摘されており、「恋」に踏み出せない、踏み出さない若者が増えたという社会学上の報告を多く目にする。古代よりの短歌の歴史を考えるに、その起源は「相聞歌」にあるわけで、必然的に「恋」を詠う性質を歌は持っていることになるだろう。もしかするとこうした社会学上の報告に囚われるあまり、我々はそのように思い込まされているのかもしれない。SNS等が急速に発達したことで、「恋」が社会的に潜在化しただけなのかもしれない。このような意味で、学生が恋歌を題材に卒論を進めるとか歌を詠むことには、大学教員として内容のみならず社会的な深い「意義」を覚えるのである。

さて、酒はどうだろうか?いただいたご意見の中に「米国発の価値観」に左右され支配されているといった趣旨のものがあり、深く考えさせられた。イチローは以前から日本では「ビール」のCMに出演し続けているが(今年から会社を異動したようだが)、「米国発の価値観」では「アスリートとしてのイメージに疑問符」とされる指摘もあると教わった。イチローを尊敬している一人としては、ビールを選ぶ際にそのCMの影響を強く受けるのだが、CM上は美味そうにビールを飲み干すイチローの姿を見るに、果たして日常では飲むのだろうか?という疑問を常に抱いていた。いやむしろ「常飲」していないような人が「美味そうに飲む」ことに、CM効果があるのではと穿った見方をすることも。メーカーの管理としても「飲み過ぎ」を戒めるイメージを伴っていた方が、得策と考えているのかもしれない。昭和を遡れば、石原裕次郎のイメージはまさに酒と煙草である。刑事物では仕事中も常に煙草を手にしており、カウンターでブランデーグラスというのが定番な絵である。しかも「1晩ボトル1本」を空けるほどのイメージが、酒造会社にはこの上ないキャラクターであっただろう。それに好印象を持つ時代は、確実に終わってしまった。

ご存知のように、牧水は夭逝した。残暑厳しき9月であったが、なぜか屍の腐敗は進行しなかったという逸話がある。まさに、体内アルコール量の効果であると云われている。裕次郎も美空ひばりもたぶん、アルコールで命を短くしてしまったのであろう。こうした太く短い人生を、現在ではどう考えたらよいのだろうか?「健康」をはじめとする「米国発価値観」が世界を席巻することが、果たして妥当なのだろうか。そこには「健康」を過剰に意識し過ぎるがために、むしろ「健康を損ねる」事例が潜んでいることに注意しなければならないように思う。例えば、米国でのPhD(博士号)取得の道は実に過酷であり、日本の大学院がたいそう「甘く」見えるようだ。だがその内実を鑑みると、何のために「研究」しているのかがわからなくなるほどの状況が窺える。過酷さの中で心身の健康を害し、それで豊かな生き方なのかと考えさせられる。いつでも米国発の極端な価値観は、特にこの島国の住人には、不適合なことがあることを心得ておくべきかもしれない。本日、だいぶ話は右往左往してしまった。

酒はまさに「文化」でもある
「うまみ」という語彙に飛びつく米国人も多い
それゆえに「酒」の短歌を詠み続けたいと思うのである。
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誤魔化し笑いにご用心

2017-03-15
何か指摘をすると「笑い」で応える
若者の特に女子に見られる傾向
だが似たようなことが国会の場でもあるような・・・

10年近く前からこの現象に気づいている。小欄を遡って検索すれば、確か同様のことを記した記憶がある。まだ現職教員として教育実習生を担当した時、授業や学級活動に関しての指摘をすると、その実習生は必ず最初に「笑い」で受け止める傾向があった。本人は至って悪気はない。良い点でも悪い点でも、指摘をするこちら側の言葉にまずは「小さな笑い」を出して、そこから話し始めるのである。少なくとも教育実習とは真剣勝負であるはずで、次第にすべての反応に添えられる「マクラ」としての「笑い」に抵抗を覚えるようになった。指摘によって行動が改善されればまだしも、改善の兆候が見えないとやはり、この「小さな笑い」によって指摘内容の受け入れを拒否するかのように思えて来たのである。こうした傾向が、実習生のみならず巷間の店員などにも見られ、その行為がどこか自分を護ために「本気にはならないでください」といった”バリア”を醸し出す行為なのではと捉えて今に至る。この傾向は、今も学生の一部に見受けられる。

笑い声は出さないまでも、国会の様子を報道するニュースで似たような「笑顔」を最近よく目にする。投げかけられた質問に対して、答弁する立場にある輩たちが「薄ら笑い」を浮かべている。質問・答弁の詳細を確認したわけではないが、相手の質問が「お門違い」であるという前提をつくるための”記号”として映る。それが作為的なのか無意識なのかは、如何様にも判断できない。自らの埒内の感覚からすると、「笑ってしまう」ほどの質問だということなのか。いつぞやは、ある質問者が「笑っている場合じゃないですよ」と迫る場面も観た。その一方で「笑い」一つ浮かべずにただ淡々とした仮面を被った表情で、意味不明の言語を繰り返す答弁者もいる。私たちの税金は、このような「議論」の場を設定するために費やされている。「笑い」がすべて「悪」だと言っている訳ではない。コミュニケーションの具として、大変有用で効果的な「表現」方法である。だからこそ「笑い」にも、様々な”記号”が埋め込まれていることに、我々は自覚的になる必要がある。

「指摘」に正対するや否や
自覚なき不埒な笑いにご用心
これは「笑えない」学校空間の環境と、何らかの関連があるのかもしれない。
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求めるものは正解と効率化だけか

2017-02-25
「その批判は当たらない」
だから、なぜどのように「当たらない」のかが「議論」
個々の意見が違うからこそ、対話して擦り合わせて生み出すということ

「生き方に正解はない。」といった趣旨のことを、講義で折あるごとに説いている。大学生になっても「最後に先生の言う正解」があるのではないかという姿勢で、自らの頭で考えようとしない傾向が学生たちに覗き見えるからだ。高等学校で大学入試対策の授業に明け暮れ、センター試験のような客観式問題であれば、いずれかの選択肢が「正解」となるので、そうした思考態度になっているように思われる。「用意されたもの」から「選ぶ」ことと、「白い紙の上」に「自らの思考を描く」のとでは、その過程に大きな違いがあるだろう。例えば、レポートなどでも、題材たる小説・詩歌などを提供して、「自ら」を起ち上げて「問い」を創り、そこから「思考」を展開する方式を採ると、「どのように書けばよいでしょうか?」といった質問に来る学生がいる。やはり彼らは「選択肢」が欲しいのである。だがしかし、その「正解」があるはずの「選択肢」が極端に偏っていたらどうするのだろうか?「本意」ではないけれども、「枠内」からやむを得ず選択するという行為は、誠に危うい思考を助長してはいないだろうか。

国会など仮にも「議論」の場でありながら、「その批判は当たらない」といった答弁が甚だ気になっている。特に理由を述べるのではなく「あなたの考える範疇でわたしは考えない」といっているようなもので、「自らの考える選択肢の枠内」でしか物事は考えませんと言うのに等しい。元来、「議論」する必要があるのは「個々の意見がみんな違う」ことから、多様な角度で複眼的に物事を解決に導くためなのではないだろうか。「議論」にも何らかの「正解」があって、その一点に向かって効率化を図って進められるべきものと考えられているとすれば、それは「茶番」に過ぎない。「スピード感」「迅速」「効率化」という語彙も、やはりこの「茶番」の促進に機能を発揮する。「選択肢以外は議論の対象にならない」という排他的な発想が、「創造」にはほど遠いのは明らかであろう。たぶんこうした「選択肢の枠内」という思考が蔓延している状況を、我々市民が見逃してきてしまったことが、例えば「豊洲市場」の問題などとして露出してきているようにも思う。その「茶番」が「茶番」で上塗りされないよう、僕たちは注意深く自らの頭で考える必要があるのではないだろうか。

「間違って」こそ初めて見える道がある
「寄り道」をしてこそ一生一度の光景に出逢えるかもしれない
「生きるということ いま生きているということ」
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自分の言葉に/嘘はなけれど

2017-02-17
就寝時の読書の罠
電灯もエアコンもつけたまま
「電気を大切にね」とデン子ちゃんの声が・・・

「デン子になってしまった」と、宮崎の友人に言っても通じなかったのを覚えている。嘗て東京では「無駄に電気を使用すること」という意味の俗語として、友人間では通用していた。かの電気会社のCMで「デン子ちゃん」なるキャラクターが設定され、節電を喧伝していたことに拠るものだ。その一例として「電灯をつけたまま寝てしまう」というケースが無駄遣いの典型的なものとして掲げられていた。6年前の東日本大震災以来、僕は特に家中の家電における節電に意識を高めていた。使用しない家電品のコンセントを抜いておくことや無駄な照明の消灯に関しては、ほぼ習慣化して、実際に電気代はかなり安価に収まっている。公共の場所でも、エレベーターやエスカレーターは極力使わず自らの足を使う。電気を使って不健康になりたくない、というある種特異な信念も持っている。このあたりは聊かこの国の電力業界への批判が、為さしめていることでもある。

最近は睡眠を大切にしているので、とりわけ熟睡を導く寝方にはこだわっている。室温と湿度の設定や健康枕の購入など一定の投資をして、掛布団の枚数などとともに照明の具合は重要だ。小欄で複数回触れたように、ここのところ石川啄木の歌に入れ込んでいるので、文庫を一冊寝床に持ち込むことで至福の時間となる。その啄木歌を、声になるかならないかの「低唱微吟」で読むのが心地よい。一昨日は自宅至近の公共温泉に行って、身体が温まったまま早々に寝床に入った。だがいつしか啄木の歌を読んでいるうちに寝入ってしまった。夜中の三時ごろに気づいたが、照明もエアコンも付いたまま。おまけにエアコンを消すと、一定の時間を稼働させたのちの「おそうじ」機能が起動し始め、しばらくはその音に寝入ることができなくなった。明るさの中での睡眠ほど、質が低いものはない。朝の寝覚めも最悪で、結局は1日の予定が大幅に狂ってしまった。だがしかし、なぜか脳裏には啄木の次の歌が響き渡っていたのだ。さて、この記憶をいかに活かそうか・・・

「新しき明日の来るを信ずといふ
 自分の言葉に
 嘘はなけれど」(『悲しき玩具』より)

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「痒いところはありますか」のとき

2016-10-08
床屋さんで洗髪をするとき
「痒いところはありますか」
と問われてあなたならどうしてますか?

かなり昔、僕が中高教員だった時のことだ。国語の授業で文化的な評論文を学習した時のこと、担当学級のある生徒がコメントに次のような趣旨のことを書いた。「床屋さんでシャンプーするとき、『痒いところはありますか?』と問われて、関西の人は「どこそこが痒い」と答えるが、関東の人は「特にありません」と答えることが多いようです。」というものだった。それから意識して僕自身が行く床屋さんで周囲の様子を伺ってみると、十中八九の人たちが「大丈夫です」といった答えをしていることに気付いた。かくいう僕は、床屋さんのシャンプーというのが大好きなので、大抵は「両サイドが痒いです」などと言って、余計にマッサージを要求するのが常であった。関西の人にこの状況を聞いたことはないが、果たしてどうなのであろうか。

たぶんこれは「関西・関東」という二項対立の問題でもなく、床屋さんとの関係性の問題ではないかと思う。店主始め店員さんたちと、どれほどにコミュニケーションを取るか、という度合が大きく関わっているのではないだろうか。「床屋政談」という言葉があるように、「江戸時代から「髪結い処」は社交の場でもあった。「政治」から「経済」、そして「スポーツ」から「芸能」まで、店主や店員さんも様々な情報に精通している必要があった。その会話を含めてが「理容のサービス」と、僕などは心得ている。だが昨今は「10分間」で安価で仕上げる店などが増えて、こうした「サービス」などはどこへやらという風潮もある。若い店員さんも、世間の多様な方々との会話から、「人生を学ぶ」ことも多かったはずである。大仰に言えば、社会の中から「一つの社交場」が消えたともいえるかもしれない。誠にこの「世知辛い社会」というのはどうしたことなのか。

僕は相変わらず昨日も
「トップ(頭頂部のこと)をお願いします」と答えた。
商売上の人情「昭和は遠くなりにけり」かもしれないが。
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“The last straw”にご用心

2013-08-28
「最後の藁」
その時に自覚はない。
蓄積されて来た大量の荷物の上に加わる僅かな加重。
その「藁」が悪い訳ではない。
It’s the last straw that breaks the camel’s back.

猛暑で疲れた身体は、涼しくなった頃に疲弊が露見してくることも多い。飲み物の摂取過剰で疲れた胃腸。バランスを欠いた食生活。寝苦しい夜の連続による睡眠不足。様々な要素が身体に疲労を蓄積させているはずだ。

冒頭に記した英語の諺は、よく同僚の英語教員が生徒に話していたものだ。これがとても気になり、僕なりに色々と考えることもあった。問題は「最後の藁」なのではなく、それまでに駱駝の背中の上に蓄積された過剰な積載物なのである。裏を返せば「最後の藁」となることは当事者にとって、事が起こらない限りわからない恐怖があるということだ。「背骨を折る」ということは、まさしく”致命傷”に他ならない。

「まだいいだろう」と考えてしまうことは日常に山積している。口座振替日、予約開始などの実利を伴うことも、いつしか当日になってしまっていることは多い。僕は日頃から洗面所・浴室には常に除湿器を稼働させている。蓄積された水を「まだ大丈夫だろう」と確かめもせずタイマーを掛けて外出し、帰宅した時に満水となっていて除湿効果が十分でないこともある。水は気付いた時に廃棄すべきなのである。

日常で蓄積させてはいけない最たるものがストレス。
その場、その場で適切な解放をしておくべきだ。
「まだいいだろう」という後回しの発想で、
取り返しのつかないことになることも。
決して駱駝の背骨を、折ってはいけないのである。
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ある買物の風景

2013-03-02
中高年夫婦が百貨店で買物をしている。
妻はバッグ売場で、あれでもないこれでもない。
しかし、夫は売場にも入らず通路で「早くしろ」とばかり顰めっ面。
日本ではよくみる光景である。

時折、こんな光景を見ていて、なぜともに買物を楽しまないのだろう?と疑問に思うことがある。女性にとって買物は、もちろん品物を求めるのと同時に、大きなストレス解消のような作用をもたらすのではないかと思う。その心性に対して、中高年男性はあまりに無頓着である。

場合によると、百貨店の通路でゴルフのスイングチェックを始める。眉間に皺を寄せて、仕事以上に真剣な眼差し。悲しいかな、その動きを観察すると決して上手なゴルファーとはいえそうにもない。場違いな動作が、一層感情的にそのような見方を付加する。

だいぶ時代は変わったが、日本の男性は、買物や食事を楽しむという感性に乏しい。特に家族の中では、甚だしくわがままな場合が多い。仕事上では、謙虚に装っていても、長年連れ立った伴侶等には横柄な態度を頻発させる。内と外、顔の違う日本的社会の一側面。

老舗百貨店に行った際に、考えたこと。

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持込み禁止物と土足と

2013-02-18
「缶・ビン類とは球場内にお持ち込みができませ〜ん。」
「ペットボトルは蓋を取ってのお持ち込みとなりま〜す。」
「水筒やクーラーボックスもお持ち込みになれませ〜ん。」
「どうぞご理解とご協力をお願いしま〜す。」
学生アルバイトらしき係員が拡声器で何度も呼び掛けている。
“学生”と判断したのは、外見もさることながら、
その語尾の伸ばし方。
現在の若者の喋り方の一典型であると感じられた。

“語尾の伸び”について今回はさておき、この「球場内持込み禁止物」について考えてみよう。だいぶ久方ぶりに、日本プロ野球を観戦するために、しかも自由席の列に並んだ。以前から東京ドーム等でもそのような禁止物があり、荷物検査が励行されることは周知である。テロ防止・危険物持込み禁止の観点から妥当な社会的規制であるように思われる。

最近は僕自身、米国での野球観戦機会が多いためついつい比較してしまうのだが、米国球場の徹底した自己責任を根底にした警備・規制のあり方と、日本のそれとで“文化的”な相違を感じることが多い。例えば、ペットボトルなどは日本の習慣で絶対に持込み禁止であると思っていたら、荷物検査はありながら米国球場では問題なく持ち込める。その理由はなんだろうかと模索していると、明らかな“自己責任”が球場内で課されていることに気付いた。仮にペットボトルをフィールド内に投棄したとしよう。警備員が跳ぶようにやって来て有無を言わせず即刻退場であり、場合によると暫くはその球場に入場できない。“入場時に易しく、入場後に全面的な責任が課される”のである。(実際にこうした光景を目にしたわけではない。僕の隣でいくつかの禁止行動を繰り返し注意を受けていた人物が警備員に“連行”されたことを見たことがある。)

それに比して、日本の球場は予防を徹底している。投げ込む可能性のある危険物は持ち込ませない。ペットボトルは、「蓋を取ってのお持ち込み」というのは今回初めて体験したが、果たしてその意味や効用とはなんだろうか?きっと蓋を閉めて液体が詰まっていれば、危険な投棄物となる可能性を排除しようとしているのだろう。ところが、今回偶々目にした光景というのは、この規制が裏目に出たものであった。入場後の座席で僕の隣に座った老夫婦のご婦人方に、通路を歩き座席を探す別のご婦人が、ペットボトル内のお茶を大量に浴びせ掛けてしまったのだ。蓋を“取られた”という意識が薄れてペットボトルを手にしていたからだと、掛けたご婦人は平謝りであったが、掛けられたご婦人は衣服に着いた“お茶”による染みをたいそう心配しつつ、不快な表情を禁じ得なかった。入場禁止物による悲劇ともいえよう。

そうかと思うと、「自己責任」を無用に主張する輩もいる。あるカメラマンが、球場の席の座面を土足で踏みながら移動をしていた。見かねたあるおじさんが言った。
「カメラマンさん!あなたはなんで、土足で席を踏んで行くのよ?おかしいよ!」
するとカメラマンは、
「いや〜。ここは僕たちカメラマン席ですから大丈夫です。」
という返答。
おじさんは更に呆れて、
「子供が見ているんだからさあ!」
と付け加えた。
自分たちが座る席だから、“汚してもいい”という実に“自己責任”感覚。
確かに大きな望遠付きカメラを持っての移動はきつかろうが・・・。
小欄には書かないが、僕はその発言をしたカメラマンの所属する新聞社を、胸から下げるIDで確認し、記憶に刻んでしまった。

規制と管理と。
「教育」の中でも常につきまとう事項。
予防措置も大切であるのだが、
的確に行動の意識が問われるという意味での“自己責任”も必要だ。
どうも巷間では、“自己責任”が“利己責任”になってやしないだろうか。
球場の光景二つについて、ふと考えさせられた。

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