うっかり八兵衛ひそめよ権力

2017-11-14
水戸黄門に不可欠のキャラクター
ヨレヨレのコートで汚い衣服の「刑事コロンボ」
物乞いに間違えられて追い返された牧水先生も

「水戸黄門」という不滅の時代劇に登場するキャラクターとして、「うっかり八兵衛」は不可欠であろう。食いしん坊ゆえ旅先で食べ過ぎて腹を壊し、世話になった先の農家が代官に苦しめられているとか、ストーリー展開の契機を作る上で重要な役割を担っている。その八兵衛が一話のかなり最初の方で、無法な連中がいると「このお方は誰だがわかっているのか!」と啖呵を切って「田舎ジジイ」に扮する黄門様を「天下の副将軍」だと明かしてしまいそうな場面もよくあったように記憶する。それを黄門様や助さん格さんが、「八!」と言わないように戒める。一話展開上で、こうしたことが必要だとも言えるのだが、それのみならず早々に「権力」を晒してしまうとたぶん悪事を働いている連中はいそいそと画策して、それが露見しないよう施してしまうであろう。黄門様はどんな罵詈雑言であっても「ハイハイ」と受け止めて、「田舎ジジイ」で居続けることに寛容である。あの水戸黄門を観終わった際の、「こんな為政者がいたら世の中は」と我々が思うのは、こうして庶民視線を続けられる心に支えられているのかもしれない。

洋の東西を問わず「水戸黄門」と類似する図式なのが、「刑事コロンボ」だろう。知能犯であるその回ごとの犯人は、汚い衣服で”なまくら”(鈍感)そうに見える「コロンボ」を舐めてかかり、「コロンボ」も最後まで自らが鋭い洞察力があることを伏せ続ける。その結果、自ら犯行を証明してしまったり、語るに落ちるという展開となることが多い。知能犯の多くは社会的地位も財産もある「権力」を持った人物である。彼らはその権力を笠にきて完全犯罪を企てるのだが、結局は自身の「権力」によって自らが暴かれるような図式となって実に痛快なのである。こんなことを考えていると、若山牧水が旅に出る際にも実に粗末な風体であったことを思い出した。東京で親しかった詩人の萩原朔太郎の親戚を訪ねた際など、あまりに汚い身なりであったので「物乞い」に間違えられて追い返されてしまったという逸話もあるほどだ。虚構の映像作品と牧水の逸話を同等に論じるのは、不平の誹りを逃れないのは承知の上で、「権力」なり「名声」を示すことで先方の心が閉じてしまうという普遍的な社会の作用を考えるべきではないだろうか。宮崎大学短歌会の活動には、学生と同等に詠草(歌の原稿)を出しているが、無記名で批評される際には、学生たちは僕の歌もあると知りながら忌憚なく批評する姿勢が心地よい。歌会の無記名批評もまた、「八兵衛の論理」として公平だからこそ、心開かれた批評が可能となるのだ。

学校教育もまた「権力」を押し付けないこと
国語教育なら教師も一読者として対話(思いやり)のある話し合いを
僕たちは時に「八兵衛」になってしまうことがあるので注意をしたいものである。


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あくなき表現活動を求めて

2017-11-11
社会・組織に絡めとられ
本来の「表現活動」を失ってしまう
「本気」の「本気」とは・・・・・

ある方とメッセージをやりとりしていて、そのあくなき表現活動への追究姿勢に心を揺さぶられた。自らも短歌・評論・論文、また朗読・落語などの表現活動をしてはいるが、個々の対象にそれほど妥協なき姿勢を貫いているか思うと、やや恥ずかしくなってしまった。「真摯に向き合う」と言葉では簡単にいえるが、「本気」とはこういうことではないかと大変触発された思いである。自由ではあるが何ら保証のない道を歩み、頼れるのは自らの「表現活動」のみ。まさに「プロの矜持」ということになろうが、組織に属した人間というのは本来「プロ」であるはずなのにこの「矜持」を持たない人々が圧倒的に多いように思われる。往々にして組織に絡め取られるか、依存し尽くして、いずれにしても自らを失う輩が多いのではないだろうか。

僕が初任校に勤務した時、高校スポーツの頂点に何度も導いた指導者がいらして、常々口にしていたことがあった。「本気になれば全国制覇はできる」である。若輩であった僕は、何度も既に実績があるからいえる言葉だと思いながらも、どこかでその「本気」という点が心に強く響いた記憶がある。初任校は私立学校で十数年在籍させてもらったが、その間に関わった生徒たちの中にはプロスポーツ界の門を叩く者も少なくなかった。その活躍と挫折を目の当たりにすると、自らは「教師」として「国語」を教える「プロ」として本気かどうか?という疑問が拭えなくなった。考えてみれば、その時に「本気」になったゆえに、いま僕は大学教員として自らの生きる道を歩んでいることになる。だから採用試験を目指す学生たちにもこう言う、「本気で教師になる気があるか?」と。

どうやらまた「本気」になる時が来たようだ
ありがたき先輩が身近で本気以上の表現活動をされている
偶然なるも与えられた環境を自らの前向きさにどう活かすかである。


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広きを見渡し小さきから手を

2017-11-07
大会開催の残務整理
進行中の講義に実務書類
さて仕事はいかに進めようかと・・・

大きな山に登り頂まで到達する。そのとき人は、未だ道半ばであることを忘れがちである。登ったならば必ず下りなければ命の保証はない。自明のことながら頂上に到達した瞬間には、それが大抵頭にないことが多い。野球でもまた、優位に進めれば必ずその点数を守らねばならない。「サヨナラゲーム」などというのは、ホームチームに与えられた登りっぱなしの特権ながら、その歓喜の直前までは断崖絶壁に立たされて、今にも敗戦の底に突き落とされそうな局面でなければ為し得ない危険性を孕んだ一方通行なのだ。水上を滑る船はすぐには止まれず、車であっても制止までには距離が必要である。大きな力で動けば動くほど、その制動距離は伸びるのが物理的な定理であろう。

先月まではまさに「山に登っていた」という感覚で、今月は麓の「日常」に戻りたくさんの「やるべきこと」が待っている。どこからどのようにと考えることもしばしばだが、ある知人の方がWeb上で「着眼大局 着手小局」の言葉を記していた。全体を広く見渡す視点を持ちながらも、細かく分かれた部分から手をつける、といった意味である。人生を進むためには、どんな境遇や生業にあろうとも、この姿勢が不可欠ではないかと思われる。往々にして反転した「着眼小局着手大局」となり、空転して時間を浪費してしまうこともあるゆえ気をつけなければなるまい。例えば、”忙殺”されるとは感じながらも小欄を記す時間は確保できるわけで、それもまた「大局」に眼を向ければ、そんな状況での自らの「ことば」が、これから行先の自分を救うかもしれないのである。「授業づくり」でも教員の仕事でもそうだ、いや社会におけるあらゆる行為において、この姿勢は持つべきであろう。

広きを見渡して得られる視点
そして眼前の仕事ひとつを丁寧に
山を登るのも降りるのも一歩ずつしか人は進めぬものだから。


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過去の引き出しいくつものわれ

2017-11-02
時の過ぎゆくままに
今の自己は数え切れない過去に支えられている
その集積である「いま」をどう未来へと生きるか

11月となったが、ここまで例年になく早かった印象がある。夕食をとるために入店したレストランでは、早くもクリスマスソングが流れており、思わず「もう少し待ってください」とでも言いたくなった。だがいつもながら時は過ぎゆくままに、今の連続はこうしている「いま」でさえ決して待ってはくれない。そんな「流れ」に重りを乗せて、何とか留めようとするのが、こうして文章に記すことや短歌に詠む行為である。先日の中古文学会シンポジウムでも、「書く」とは「掻く」「描く」「刻む」などの動詞にに連なり、今ではこうしたPCなど機械類で文字を「書く」時代になったが、元来「文字」とは「時を掻く」「時を刻む」ものであり、小欄なども昨日という「過去」をここに何とか留め置こうとして8年以上の歳月が経過しているわけである。

流れた時間を流れたままにしておく人生というのは、虚しさが伴う。前述したように時間は前にしか進まないが、その宿命の渦中でも様々な場面と必要性に応じて、過去と現在を往還することで未来のあり方も見えてくるように思う。過去の引き出しにある「いくつものわれ」を取り出してみることで、「いま」の行動の必然性が見えてくる。仕事をする力も、生活上の衣食住でも、趣味・嗜好のひとつにしても、超え難く過去の「われ」と繋がっている。当然といえば当然のことながら、人はそれを忘れてしまっていることがある。例えば短歌ひとつを詠む際にも、こうした引き出しから、「記憶」という「宝」を出すことだと思うことがある。やや大仰な行為のようだが、「いま」の「われ」はこうした幾重もの「過去」によって形作られているわけである。

イチローがよく口にする
「野球に関するすべてのこだわりは、『生き方』の問題」なのであると
時計の針を止めて「われ」を見つめるには「掻く」「刻む」しかないことがわかる。


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親子とは遠きにありて響くもの

2017-10-31
存在の原点としての父母
お互い苦悩を抱えても響きあう間柄
あらためてふるさとは遠きにありて・・・

あっという間に10月が過ぎ去ろうとしている。和歌文学会大会開催のことばかりに専心しているうちに、という感覚である。だがその間にも在京の父が怪我に遭い、その症状や治療の方向性について、電話で母とやりとりを繰り返し気を揉んだ期間でもあった。本来ならすぐにでも上京したいという思いも押さえ込みながら、宮崎で「和歌・短歌」のためゆえに集中できたとも言える。ようやく2つ目の台風を横目にしつつ、怪我後の父を見舞った。怪我から1ヶ月ほど経過したこともあったが、思いのほかに元気そうで安心した。近所にある昔から馴染みの鰻屋まで歩いて行って父母と3人で食事をした。カルシウムを含めた栄養素抜群の鰻は、格好の食事となった。もちろん父も完食、こうして向かい合って接してみると、やや無口な父ながら息子への思いが伝わってくるようで、とても良い時間であった。

母もまたこの1ヶ月は闘いであった。父の病院への付き添いを始め、治療方針についても様々に考えを巡らし、家での安静な生活にも気を遣い続けた。また会社の請け負った進行中の仕事もあり、その差配にもテキパキと動き続けた。忙しいながらも宮崎からの電話を繰り返すことを絶やさずに、語り合うことでお互いの苦しさを紛らわして来たように回想できる。それを実感として会って生のことばで聞いてみると、僕が想像していた以上に父も苦しみ、母も苦しんだことが肌身に沁みて伝わって来た。宮崎での和歌文学会開催にあたり、この重責の苦しさは自分しかわからないと思っていたが、性質は違えど父母もそれぞれの苦しさを乗り越えようと必死だったことがわかった。ふと、親子とはこんなものなのかもしれないと思った。個々の歩む道で苦しさがあっても、無償の愛情で繋がり支え合うようなことばにし難い感覚。お互いがこのような気持ちを、ようやく発見したような帰郷であった。

思い遣るとは自らの苦闘を超えること
そこに何の見返りも期待せずただただ自らが進むこと
親子とは・・・・・・・そして楽しく語るもの



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究竟な父の背中

2017-10-13
「誰しも同じ、持ち時間は24時間
 それをいかに働いて活かすか」
やはり究竟(屈強)であった父の言葉に励まされ・・・

私事めいたことはあまり小欄には書くべきではないと思うが、現状を表現するには欠かせないと思うので敢えて書き記しておきたいことがある。和歌文学会大会の開催が近づき、この数ヶ月間で憂えて来たことは、大会運営には直接関わらないことで心身が揺さぶられることである。数日前にも新燃岳が6年ぶりに噴火したという報を聞き、以前の噴火のように大規模なものとなったら、降灰などで大会に訪れる会員のみなさんに諸々の影響が出やしないかなどと心配になる。そんな最中10日ほど前であろうか、父が腰を骨折したと母からの電話で知った。変わらず現役で建築業を営む父は、現場作業に関わり資材運びで転倒したらしい。幸い神経を痛めたりということはないが、自宅で安静にしていて十分な歩行はできない状態だと云う。本来なら週末などを利用して上京し見舞うべきだろうが、今の僕にその余裕はなかった。こうした時において、あまりにも1200Kmの距離は遠い。

だが昨日になって受診しコルセットが完成して装着すると、だいぶ歩けるようになったと妹からのメールで知り、胸を撫で下ろす思いであった。しかも妹が止めたにも関わらず、父はその足で建築現場に向かったというのだ。研究室でそのメール文面を読んだ時、何か言葉にはならずして胸が熱くなった。幼少の頃から自営業ゆえ、自宅で父の働きぶりを目の当たりにして来た。「夜なべ」と言って仕事が深夜まで及ぶこともしばしばで、冒頭に記したような言葉を仕事場を訪ねる僕に言って聞かせた。この10日間ほどはかなり自分自身の不甲斐なさに苛立っていたようだが、それは「仕事」が気になる「プロフェッショナル」な精神に起因するものと確かめられた。夜になって父に電話をすると、1週間前と見違えるほど元気な声であった。若い頃から幾たびも辛い仕事を乗り越えてきた父であったが、またまさに父らしく究竟であった。どんなに辛くとも、どんな悪条件に見舞われても「プロ」の矜持は失うこと勿れ。あらためて父から学んだのであった。

志望通りの私立大学に進学させてもらったこと
その後も紆余曲折の果てに歩む研究者としての道を支援してくれたこと
この和歌文学会大会を穏やかな気持ちで完遂することが、僕の父への恩返しなのかもしれない。


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あの月を母も見るらむ

2017-10-04
「あの月を母も見るらむ杯あげて生をいただく今日を祝はむ」
事務仕事・ゼミ・大学院講義に学生短歌会
すべて終わってやっと・・・・・

母の誕生日であると知りながら、ひとたび仕事に入ると隙間のない時間が夜の8時半頃まで続いた。それでもゼミでの学会準備作業に教育実習の振り返り、大学院講義での古典和歌の話題、そして次第に各歌が個性的にレベルアップして来た宮崎大学短歌会の対話に加わっている時間は、誠に充実感があった。その後、ようやく研究室で母に誕生祝いの電話をした。宮崎に移住してからというもの、当日に母の誕生日を祝ったことはない。だが近くにいて平然と祝っていた頃よりも、この日の意味を深く考えるようになった気がする。自分の誕生日というのは、もちろん自らの「命」の「始発」であるが、母の誕生日があってこそ自らの「生」があると考えるならば、この日が僕の「始原」記念日であるとも言える。こうした共感性こそが、家族の意味ではあるまいか。

時に旧暦8月14日、大学から帰宅して車庫から月を見上げれば、心なしか微細に欠けた月が微笑みかけてくれた。思わず路地裏をそぞろ歩きがしたくなる気分となり、荷物だけ置いて家を出た。少々歩いた後に近所の店のカウンターにて一人で祝杯をあげた。だが妙に不思議な気分である、あの空の月が一緒に酒場まで付いて来ているような気分になった。そういえばいつぞや母と電話をしていて、東京で月を見上げて同じ月が宮崎でも見えてるのが不思議だ、といった趣旨のことを父と話したと聞いたことがあった。人為で遮るものが何もない月こそ、遠方の人と人が心を交わす象徴となる。ゆえに古来から月を愛で人を恋う詩歌は数知れない。ちょうど現在、日向市東郷町坪谷の若山牧水記念文学館では企画展「牧水と月」が開催されている。

本日は旧暦仲秋の名月である
けふもまた月が見たくなった
そして自らが生を受けたことに深く感謝するのである。


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揺れないように信念

2017-10-03
思うように進むこと
簡単なようで難しい
だが信念だけは揺れないように・・・

世間には様々な人々がいる。その個々の考えが尊重されるべきことを、昨今は「多様性」などという語彙で表現することが多くなった。だがその反面、内輪での利を優先し「他」を「排除」する陰湿な流れが世界各地で散見される。その「分断」は、必然的に憎悪を膨らませ無差別なテロのような蛮行と化し表面化する。内輪が内輪のうちに自己完結するのは、ある意味で悪辣でまったく健全ではない。渡米して大学を訪ねて学んでいた頃、日本人留学生たちが内輪で学びも生活も完結させている「残念」な光景を何度となく眼にしたことがある。彼らの留学における語学力増進度は、言わずもがなである。たとえ小さな集団であっても、相容れない人々と交流してこそはじめて「自己」を理解でき発展の道を進むことができる。

後期講義が始まって教室に行って、上記のようなことを考えた。男女によってコースによって明らかに「内輪」を存分に活かした小集団で席に座っている。その光景を見ただけで、新たな「学び」は醸成されないごとき雰囲気を嗅ぎ取ってしまう。オムニバス(複数担当者講義)であるために、僕の担当はまだ先からになるが、担当回が始まったらまずは座席の混在性を作ることから始めねばなるまい。留学生がせっかくの環境を活かさず、日本語で呼吸をしてしまうのと似たような「残念」さを覚える。翻って自らはどうだろう?むしろ他分野とか、他の生業の人々と交流し過ぎてはいないか?それによって芯がぶれたりはしていないか?活動的で派手な方向性に、嫌悪感を抱かれていないか?あれこれと自省して考えてみる。だがそこで大切なのは「信念」であるとも思い直すこともある。多様性へ開き続けるならば、「信念」の道を歩むしかあるまい。

研究仲間からの「期待」「楽しみ」の言葉
噛み締めて精一杯の務めを完遂しよう
辛さから救ってくれるのは、ゼミの学生たちの笑顔に表れた多様性である。


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師のありがたさいまここにあり

2017-09-30
師と仰げる人物はいるか
厳しく温かく行く道を明るく照らす存在
師のありがたさいまここにあり

ちょうど10年前のことである。学部時代の指導教授と当時所属していた大学院の指導教授が、半年のうちにともに天国に旅立った。後者の恩師は前者の恩師の葬儀に参列していたわけで、ご本人も状況がわからぬうちといった急逝であった。師が世を去るということは、これほど辛いことはない。特に研究を志している場合、その本筋が折れてしまったような失望感を持たざるを得なかった。何を隠そう博士論文審査を年内に始めようと、指導教授から話をいただいていた矢先であったから。研究は独創性が求められながらも、その方法・性格はある種の見本が必要であるように思う。2人の尊敬する恩師の思考方法を、無意識のうちに継承しているのだと、今でも感じることがある。それだけに「いま」の自分があるのは、言うまでもなくこの2人の恩師のお蔭である。

この10年間は、真に相談できる師の存在がなかった。かろうじて期限の間際で学位を取得することができたが、その後の大学教員就職が難航し、かなり強引に前に前に進んで来たところがある。周囲の絶対的な反対を押し切って中高専任教員を辞し、大学非常勤講師というその年限定で翌年の目処のない収入源たる職に身を置いた。恩師がいたら何と言うだろうか?学部時代の恩師からは、現職教員でありながら大学院に再入学を試みるときに「簡単に大学教員になれるなどと思うな」と電話口で叱責された記憶が鮮明だ。その記憶を念頭に置きながらも、人生の賭けとも言える漂流に挑んだ。現実も「簡単に」では決してなく、考えられない回数の「絶望」の書状を手にした。そんな10年を背負いながら、まさに僕の「いま」がある。辿り着いた場所が、宮崎であったことに最近はあらためて深く感謝している。

夜いただいた一本の電話
その会話だけでこれほど元気が出てくるものか
宮崎には紛れもなく今後の人生を照らす新たな師の存在があるのだと確信できた。


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「絶対」は超えるためにあるー全否定からは何も生まれない

2017-09-28
真の「絶対」などあるのだろうか?
「可能性がない」ことそのものが思い込みでは
今まで何度「絶対」を超えて来たであろうか・・・

何事においても、「極」に振れた物言いをする社会に危うさを覚える。素晴らしいならば「神ってる」と言い、厳しい状況ならば「最悪」、ついついちょっとした不都合に遭遇すると「最悪」と口走ってしまう自ら戒めることもある。本日付の「伊藤一彦短歌日記」(ふらんす堂)においても、「最低」の語を批判的に捉え「使用に当たっては慎重でありたい。」と指摘されている。特にこの「最低」「最悪」という全否定的な思考は、可能性の芽を摘んでしまい自らを負の連鎖に追い込んでいるので注意をしたい。それ以前に、果たして本当に「最低」や「最悪」なのであろうか甚だ疑問である。ことばの歴史を考えてみれば、古語にも「いと」(とても・甚だしい)があり、「いみじ」(善悪ともに程度の甚だしいさま)がよく使用された時代もあり、言語生活上「とても」「非常に」に相当する意味のことばは、次々と開発されて使用される実情がある。ここ数十年でも「超・・・」とか「鬼・・・」などは高校生あたりが使用し始めた所謂「若者言葉」が発祥であると、現職教員として体験して来た。

同様な語彙として「絶対」もある。「絶対主義」といえば「君主が絶対的な権力をにぎって人民を支配・統治する政治形態。」と『日本国語大辞典第二版』にあり、哲学上は「相対主義に対していう。」とされている。この語も本来の意味とかけ離れて、日常でよく使用してしまう場合が多い。だが使用された内容次第では、その本来の意味を考えてしまい「絶対など絶対にない」などと反発し苛立ってしまう自分を発見する。そのように考えてみれば、僕自身は今までの人生でどれだけ「絶対」を超えて来たであろうかなどとも考えた。高校の担任教師に「絶対に受からない」と、断言された大学に合格できたこと。現職教員の仕事を持ちながら「(休職でもしなければ)絶対に両立は無理」と、考えられていた大学院を修士課程・博士後期課程と修了できたこと。大学での教育経験実績を増やすために「次の専任職が決まるまで絶対に辞めてはいけない」と多くの人に言われながら中高専任教員を辞し大学非常勤講師の茨の道を歩き、専任職に辿り着いたこと。そしてここには記せないようなことを超えて、研究したいという志を貫いて来たのである。

むしろ「絶対」は「超えるためにある」のかもしれない
「希望」に希望が見えない時代
「絶望」するのは簡単だが、そこから立ち上がる人生こそ面白い。

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