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忖度・保身をぶっ飛ばせ

2020-09-21
「半沢直樹」最終回前の熱演
結局は政治家の黒幕に忖度する銀行
「矜持と国民のために」と「千倍返し」を言い放つ直樹

「君は銀行員でいられなくなるよ」黒幕政治家が「半沢直樹」に皮肉たっぷりに脅しをかける。銀行の頭取・常務も政治家に忖度しその意向を鵜呑みにし、不正の証拠を隠滅すべく引き渡し政治家と会食をしている。常務に強引に「土下座」させられそうになる「半沢直樹」は、銀行内の力関係以上に「正義」を貫き通そうとして自力で抑圧を跳ね返す。暗躍な企みによる不正を闇から闇へ葬り去り、金と権力にまみれた政治と金の関係がこのドラマに描かれている。時折、虚構なのか現実にモデルがいるのかと思うほど、日本の状況をよく写し取っているようにさえ思う。

誰しもが自らの生活・経済(力)・立場を守りたいと思う。権力者は「人事権」を振り翳すことにより、不都合な真実を知った者に言うことを聞かせようとする。それを必ず「これが社会というものだ」と言って自らを正当化する。だが「保身」に身を委ねた者は、果たしてその後の人生を豊かに送れるものかと思う。ましてや「不正に加担」したなどとうことになれば、自らの正義感の上で耐え難い思いに追い込まれるだろう。僕が経験した中高教員の現場でも、自らの人事を有利にするために管理職と密通するごとき輩がいた。その「保身野郎」も野郎だが、応じる管理職側にも「矜持」はあるのかとよく考えた記憶がある。少なくとも生徒を導く教育の場である。広く考えるならば、現状の政治の状況を見て育つ若い人は、この国をどのように思っているのか誠に不安である。

また「ドラマはドラマでしかない」という声が聞こえる
虚構は現実以上の真実
「半沢直樹」がなぜこれほどの視聴率なのかを考えてみるべきである。


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やはり対面は嬉しいー親族も歌会も

2020-09-06
約半年ぶりの「心の花宮崎歌会」
そして義父の誕生祝をランチ会にて
未曾有の台風が来るという中に

3月以来開催されていなかった「心の花宮崎歌会」が、十分な感染対策を踏まえ1時間限定で行われた。横3人掛けの座席に1名ずつ参加者は前方を向き、詠草の歌からあらかじめ4名の選者が3首ずつ歌を選び講評。その後は約10首ずつすべての歌に簡潔なコメントが付され、予定通りの内容が消化でき三々五々の解散となった。選者は伊藤一彦先生・俵万智さん・大口玲子さん・長嶺元久さんの4名で、さながら「心の花全国大会」二日目の歌会を想起するようなものとなった。参加者からの意見を交えることはできなかったが、それにしてもやはり肉声で歌を語れることの嬉しさが会場に充満したように思えた。短歌を持ち寄り人々が集まる、という今までの当たり前が大変に貴重な機会であることを再認識する。この方式を考案し半年で対面開催に漕ぎ着けた事務局の方々にも、深い感謝の意を表したい。

歌会に出向く前、我が家では義父のランチ誕生会が開催された。義父母をはじめ義姉ご夫婦に甥っ子、そして僕の父母も含めて対面で集まれたのは大変に嬉しかった。この半年あまり、こうした親族でも会食等の交流を控えるような世情。新型コロナウイルスが人と人とを分断することを恨みもしたが、親族全員が感染にも十分に注意をすることと同時に、こうした会の意義を噛み締める機会となったのは貴重であった。こちらも時間は短時間限定、さらには未曾有とも言われている台風10号が接近している。こうした時宜にこそあらためて思うが、親族の繋がりは何にも代え難くありがたいものだ。約15年ほど前の宮崎の台風の経験などあらためて色々と情報をいただき、様々な想定をしつつ台風にも備えられそうである。

既に風雨が雨戸に激しく打ちつける
コロナのトンネルを少々抜けて台風に向き合う
人と人が対面で語り合えてこそ生きることができる。


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感謝と恩返しで明るい未来をー「半沢直樹」の生き方

2020-08-31
「大事なのは感謝と恩返しだ。その2つを忘れた未来は、ただのひとりよがりの絵空事だ。これまでの出会いと出来事に感謝をし、その恩返しのつもりで仕事をする。そうすれば、必ず明るい未来が開けるはずだ」(「半沢直樹」第3話での台詞から)

日曜日の夜、昨夜から大河ドラマも再開したが、今のところそれ以上に楽しみなのが「半沢直樹」である。7年前の前作では銀行内の不正や虚飾を暴き出す爽快な姿が描かれていたが、今回は政府(国土交通大臣とその後ろ盾となる黒幕)が敵となり「勧善懲悪」のスケールがさらに大きくなっている。政治的権力があれば銀行は何でも言う事を聞くという傲慢と、「一介の銀行員」は「組織のネジ」に過ぎないという横暴な発想が「半沢直樹」に振り翳されている。経営再建を目指す航空会社は自力で再生することこそ社員らの仕事への誇りまでも蘇らせる道だと硬く信じる「半沢直樹」、航空機に使用された何万何億本という「ネジ」の一本一本があってっこそ航行の安全性は保たれ、「お客様」の明るい未来に貢献できるのだという仕事へのプロ意識がそこにある。

誰しもが職業を選択する際に、自分の生育環境から得られた深層的な動機があるように思う。「半沢」の場合は前作で強調された大銀行に融資を打ち切られて倒産し、自殺に追い込まれた父の経営する中小零細「ネジ」会社の思春期でのショックが銀行での仕事への取り組みの根底にある。その「ネジ」が今作でも大きな鍵となっている。組織内の理不尽な論理にも従わざるを得ないと泣き寝入りが横行する日本社会、「不平不満を愚痴ってそれで終わり」なのか?「何をしても無駄だと全部を諦めるのか」?(以上鉤括弧は今作第1話の台詞より)冒頭の台詞にも記したように、「感謝と恩返し」がなければ「ただのひとりよがりの絵空事」になってしまう。本作がこれほどの視聴率を叩き出しているのには、大きな理由があろう。それは昭和から築かれてきた負の遺産を、独善的に引き継ぎ暗躍する組織や政治の内幕である。平成から令和の新しい時代にあって、あらためて「組織」の中でどう生きるか?が一人ひとりの胸の内で試されているのかもしれない。

「自分のためにした仕事は、内向きで卑屈で醜く歪んでいく」
(第4話の台詞より)
「プライドと達成感」僕らに求められるのは歪みの矯正からなのかもしれない。


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無鉄砲・我武者羅・むこうみず

2020-08-28
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」
(夏目漱石『坊っちゃん』冒頭より)
「理非や前後をよく考えないで事を行なうこと。」(『日本国語大辞典第二版』)

初めて漱石の『坊っちゃん』を読んだ小学生の時、同級生に「弱虫やーい」と囃し立てられ小学校校舎の二階から飛び降りたという書き出しに妙に惹かれた記憶がある。家に帰ると「おやじ」が「二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるか」と言われると「この次は抜かさずぬ飛んで見せます」と切り返す。その後の「西洋製のナイフ自慢」の顛末などは想像するに痛みに耐え難い場面であった。人はどこかで「無鉄砲」だとか「我武者羅」だとかいう性格に憧れを抱くのかもしれない。青春学園ドラマの主人公教師が、どこかで『坊っちゃん』をモチーフにしているのも十分に頷ける。規則を遵守させる立場の「教師」が「むこうみず」だという、ある種の矛盾みたいなものがたまらなく恋しいのである。「学校」には、様々なキャラクターの多様な「人間」が「教師」として存在すべきと言えるのかもしれない。

大学時代は、敢えて「無鉄砲」になれるような行動をしていたように思う。自分自身の中の「性格」に対する、一つの「挑戦」のような精神作用である。その延長で20代の初任校での教員生活は、現実に「むこうみず」な先生方も多かったせいか、『坊っちゃん』まがいの楽しい時間であった。ある意味で大学時代の「挑戦」が、実を結んだと言えるのかもしれない。「我武者(羅)」という言葉は、最近では「無我夢中」と混同されがちであるように思うが、「血気にはやること。むこうみずで乱暴であること。むちゃくちゃに物事を行なう事。」(『日本国語大辞典第二版』)とある。新たに物事を開拓したり、人生の流れを大きく変える場合などは、こうした姿勢が必要とされる時があるのかもしれない。20代や学生時代でない今でも時折、「無鉄砲」こそが力になるのではないかと思うことがある。

冷静で判断力よく落ち着いている
荒波を越えていくための「我武者羅」な姿勢
さて「新しい時代」の『坊っちゃん』には何が求められているのだろうか?


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知りたくてたまらないという気持ち

2020-08-26
「せねばならない」という外発的な
「自らやりたい」という自発的な
さらには自然に時間に組み込まれていること

多くの方に同様の経験があると思われるが、「・・・しなさい」と強引に言われると大抵はやる気を失うものだ。中高教員時代から保護者と生徒の面談機会を多く経験したが、高校生ぐらいともなれば過干渉されると当人が明らかに嫌気がさして意欲が下降しているのが常である。発達段階にも拠るがあらゆる学習活動は、「・・・させられている」という動機で行うと身にならないものとならざるを得ない。未来への道に明かりを照らし、本人が自らの意志で内容に興味をもって取り組むように導くのも教員としての大切な仕事である。

幼少期・思春期のみならず、大人も自発的な動機によって動くことが重要であるように思う。その内容にいかに興味が持てるか?その度合いによって仕事への姿勢も左右されるであろう。「読まねばならない資料」なのか「記してあることが知りたくてたまらない」資料なのかで、明らかに読解の深浅がある。この両天秤の均衡が仕事の上では大切であり、前者のようなものをいかに後者のようなものと意識するかも重要だ。読書の意欲というのは、あくまで内発的でありたい。一首の新たな短歌を読みたくてたまらない意欲をもち、どんなに忙しくとも「読み」また「詠む」時間を創っているようでありたい。学生指導や自らのことを省みながら、こんなことを考えた。

学び手の思考を動かす大原則
自らがどう生きたいか?ということ
極めればその短歌で何が言いたいか?ということ。


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ギラギラ太陽がまだ優しい時間

2020-08-18
日の出時刻5時40分
青島の沖の水平線に滲み出る朱の光
日中の「危険な暑さ」は太陽のせいなのか?

いつも変わらずたぶん太古の昔から、太陽は東から昇り西に沈んで来たのだろう。いやその見方そのものが人間の傲慢であり、太陽という恒星の周りを公転することで概ね1年という月日が刻まれ、地球そのものが自転することで一日という時間が刻まれる。その「公転」や「自転」の速度というものは、たぶん宇宙の中ではそう変化することはないように思う。しかし人類史の古代と近現代では、双方の速度を大きく変化させて来たと認識せざるを得ない。こんなことを考えると、地球温暖化の元を辿れば太陽により熱せられているのであろうが、この地球の生命に不可欠な熱を供給しているわけで「太陽の罪」であるわけではない。人間の身勝手が、太陽熱を過剰に地上に降り注ぐようにしてしまったのである。

静岡の浜松では国内最高気温41.1度、大学で親しかった浜松在住の先輩にラインを送った。もちろん宮崎でも36度前後の猛暑が続き、日中に太陽を見上げることなど考えようもない状況だ。もはや日焼け止めやサングラスは、人間が身体を護るために必須と思える。だが「太陽は罪なやつ」と責めてばかりもいられまい、などと考えて早朝に青島の浜辺を訪れた。気象情報によると日の出は5時40分、約15分前に到着し島まで妻と二人で歩き始めた。橋を渡り神社の鳥居をくぐり、ちょうど島から日の出する沖が見える場所まで到達。水平線から滲み出るような朱色の陽炎が立ち始め、次第に球体が空に昇り始めた。人の生命が生まれ出づるかのように、またこの宮崎に「今日」という一日が始まった。やや引いてみると、青島神社の鳥居の上に見事な太陽が見えた。日の出から約30分ほどの太陽は、人間に優しい時代の太陽の面影を十分に残している。

人間が目に見えないオゾン層などを破壊してしまった
「危険な暑さ」を作ってしまった当事者としてどう生きるか
まだ手遅れではないことを祈り、自然の偉大さをことばにしたためる。


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過ちを二度と繰り返さないために

2020-08-16
75年目の夏の日に
「平和」を当然と思わず
今も暗躍する「過ち」の芽を注意深く拒むために

「国際共同制作ドラマ・太陽の子」が昨日、NHK総合で放映となった。先頃、亡くなられた三浦春馬さんの遺作となり、出征する息子を演じている場面では「二度と会えない母(田中裕子さん)と子の姿」が現実とリアルに二重写しとなり涙が止まらなかった。好演をしていただけに甚だ惜しまれるが、あらためてご冥福を心からお祈りする。おにぎりを持たせ出征を見送る母は、その後に特攻出撃前の息子の手紙を受け取り、喪服で仏壇前で悲しみに暮れる。そんな母子を引き裂く非情なことが75年前に平然と行われていた狂気に、憤りが収まらない。かたや「科学者」としての道を歩む息子(柳楽優弥さん)は、京都帝国大学物理学研究室で新型爆弾の開発のための研究を続ける。だがこの爆弾開発に疑問を持ち出した矢先、広島に原爆が投下される。

「核」の物理学的発見は、人類の「夢のエネルギー」として科学者の誇りであったはずだ。だが時局が世界大戦と重なったことから、人類史上最悪の悲劇となり広島と長崎がそれを負ってしまう。「夢」が戦後も継続したことは、アニメのヒーローが「原子」によって無限の力を持つとされることに顕在化している。しかし「核」は明らかに人間の自然な生活にとって大きな脅威になることを、前世紀も今世紀でも人類は大きな事故として経験してきた。「夢」が人類の「我欲」に憑依してしまい、未だ世界的に「核軍縮」に舵を切れない人類の「過ち」は続いている。被爆国として広島・長崎に命を落とした方々の無念に寄り添うならば、この国は世界でも率先して「核廃絶」へ向けて先導する立場にあるのではないのか?今年も「尊い犠牲者の方々に、敬意と深い哀悼を」という文言が放たれた。一人ひとりの「命」が「尊い」のである。もし「敬意」を払う意志があるなら、再び「過ち」が繰り返されぬように子どもじみた国際的関係性に楔を打つべき「良識」を不言実行すべきではないか。75年という歳月で忘れてしまう反知性の芽を、注意深く拒まなければなるまい。

新型コロナ禍にも露出した各国の「戦後」
この国で生きている僕たちの良識を考えたい
何においても、生きづらい世の中であってはならないのだ。


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大河はないが半沢はあり

2020-07-20
日曜夜のお楽しみ
大河が中断してつまらないと思いきや
「半沢直樹」の「やられたらやり返す」が

日曜日の終息の仕方には流儀がある。5時台になると楽しんだ休日から平日へ移るべく、妻が掃除機をかけ始める。その各所に僕は水性モップを掛けて仕上げ、書斎は自ら掃除機を掛ける。その後、ちびまる子ちゃんとサザエさんがリビングに流れる中、夕食の時間となる。そのあたりから当日の大河ドラマの展開を想像するのだが、大きな歴史的事項が展開する日などはソワソワするものだ。残念ながらコロナ禍で撮影収録ができないとうことで、現在大河ドラマは休止中。過去の名場面を繋ぎで放映していたが、その興味も萎えてしまった。誠に拍子抜けした日曜締め括りとなるかと思いきや、この日から「半沢直樹」の続編シリーズが再開した。

大河ドラマ「真田丸」の演技に惚れ込んだことと、堺雅人さんが宮崎出身であり出身大学も同じことから好感と親近感が増した。前シリーズではドラマとしては驚異的な視聴率で「倍返し」など社会的な流行語を生み出した。2013年当時は現大学に赴任した年で新しい環境への順応に集中していたのか、あまりドラマなどに興味は持てなかった。現実の社会が様々な面で荒んでしまった昨今、ドラマ的誇張と演出は多々あれど欲と腹黒さを露呈する組織人を見返していく「半沢直樹」の鋼のような精神は見応えがある。堺雅人さんのみならず、憎らしき役柄で登場する役者陣が視聴者が本気で憎悪を抱きたくなるような演技で「半沢」包囲網を形成している。これにて暫くは、日曜日の夜の過ごし方が変わってしまう。現状で大河ドラマの時間帯は、入浴に当てざるを得ない実情である。

「銀行マンは顧客やその家族の幸せを願う仕事だ」
親の営んでいた昭和的な家内中小企業のあり方も描かれてくる
粉飾や改竄が政治でも平然とまかり通る世の中、ゆえに「半沢」の暴きは痛快なのだ。

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生涯一選手ー現役であり続けること

2020-07-15
今もトレーニングに励むイチローさん
「生涯一捕手」と言った野村克也さん
いつまでも現役であり続けるためには

今年の2月に亡くなった野村克也さんは、「生涯一捕手」と宣言し監督になっても現役捕手としてマスクを被り選手として試合に出場し続けた。その後、野村さんの弟子のような存在である古田敦也さんが同様のことを試みたが十分に成果が出せず、いかに監督と現役選手の両立は困難であるかが明らかになった。指揮官という立場になれば必然的に「自らは棚に上げて」指摘しなければならない場面も多いだろうが、自ら野球の肝心要の選手として重労働の捕手であり続けたことには、あらためて敬意を表したいと思う。権威を持った監督という上から目線ではなく、常にグランド上にいる意識でチームを率いる意識は、他の分野においても見習うべきことではないだろうか。

あまり報道もされず監督でもないが、シアトル・マリナーズの「アドバイザー」役であるイチローさんもまた、引退した今でもトレーニングを続け現役並みのコンディションを整えているようだ。仲間との草野球で投手を務めたり、日本のアマ野球指導者資格を取得したりとグランド視線での言動が目立つ。名選手でも監督やコーチまたは解説者になると急に肥満化する人もいる中で、真に「野球選手であり続けたい」を有言実行する姿が尊い。その姿勢を見習い、僕なども「生涯現役」であるにはどうあるべきかと考える時がある。「研究者であり教育者である」これは「両立」などという概念ではなく、「相乗効果」があるものと捉えたい。研究の気づきは学生との対話より生ずる場合も多く、学生に教えるためには自らが論文を書いていなければなるまい。小中高校での出張授業の機会も得たいし、研究学会でパネリストや発表者にもなりたい。そして和歌短歌を研究しているのであれば、自らも短歌を紡ぎ出す表現者であることを生活の根幹に据えておきたい。社会や組織に属していると、いつしか自らが真に求めたいことを忘れてしまうこともある。たぶん野村克也さんもイチローさんも、原点たる「自ら野球がしたい」という点でブレはなかったということだろう。

歌に人の心を読み取り人に伝え
学生たちと対話をすることで相互の学びを深める
そして生涯、一首の人の心に響く短歌を創り続けたいと切に思う。


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バネになる経験ー相手の立場を考えるということ

2020-07-13
「半沢直樹」シリーズ再び
「倍返し」の思考やいかに
父と家族の悲劇をバネに生きる銀行マン

放映当時2013年には社会的な流行語になった「倍返し」、ちょうど僕自身は宮崎に赴任した年でTVドラマを観る習慣もなかったので特に気にも留めなかった。しかし俳優の堺雅人さんが主演であって、宮崎のご出身ということで何らかの機会に観てみたいと思っていた。この間に大河ドラマ「真田丸」にはいたく執心し、堺さんの歴史洞察を踏まえた演技の奥深さにも興味を抱くようになって来たこともある。折しも「半沢直樹シリーズ」が再び今月19日から放送される前に、昨日までの2週間にわたり前回作の総集編が放送された。前作は最終回の視聴率がWeb記事に拠ると42.2%という驚異の数字、同じ2013年の紅白歌合戦が44.5%ということで、民法テレビドラマでも歴代3位であるらしい。(ウィキペディアによる)豪華キャストとともに、堺さんの迫真の演技が新作でも楽しみである。

ドラマの銀行マン「半沢直樹」が「倍返し」と言って銀行の不正を暴き、銀行を変えようという執念は、中学生頃の悲惨な経験に発する。金沢で両親が経営していたネジを製造する小さな町工場の経営が苦しくなり融資を受けていた大銀行に引き上げられ、父は工場で首をくくってしまうという家族の悲劇があった。雨の中を土下座して自らの製造したネジの価値を訴え融資継続を銀行員に懇願する父の姿、それを自分だけ傘をさして振り払うように一方的に融資引き上げを宣告する銀行マン。その一部始終を半沢少年は塀の陰から心の底に刻んでいたのだ。その担当銀行マンが銀行本部の上層部までのし上がり暗躍している現実に、銀行マンとなった半沢は毅然と立ち向かっていく。辛い時には、常に父が工場で製造していたネジを手に握りしめている。僕自身も両親が会社経営をしていたこともあり、中高生時代にその苦労を見てきただけに、半沢の「倍返し」執念へは体験的な共感を覚える。ただ僕の場合いつも母が信金などとの交渉を上手く成立させたゆえに、僕自身は思い通りに育つことができた。「このドラマはフィクション」であるのは大前提であるが、中小零細企業の立場や経営の苦しさを微塵もわからない巨大企業という図式は今もこの社会に蔓延しているのではないか。社会を支える根本に「一本のネジ」があることを、どんな立場でも理解できる人でありたい。

眼と表情で語れる堺雅人さん
新シリーズを楽しみにしたい
自らを動かす原点たる経験を思い出しつつ。


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