木星と土星の最接近
2020-12-22
日の入り後の南西の空高台の公園に登るも山と樹々があって
自宅の二階和室から397年ぶりの天体ショーを
前回は江戸時代初期、その後の江戸文化の開花や明治維新に大正デモクラシー、悲劇的な第二次世界大戦など、日本いや世界は約400年ほどで大きく変化している。そんな中で太陽系という未知の星たちが、平然と自分たちのペースで呼吸をして寄り添っているかのようである。「水金地火木土天冥海」(僕らの頃は「海冥」の順で覚えたが)、その「8音(4拍)+8音(4拍)」の言葉の響きよろしく、僕らが太陽という「恒星」を中心に存在している天体の住人であることを思わせる。地球との距離からすると火星や金星は大きく光って見えるものだが、今回のように「木星」「土星」に注目すると、あらためてその遠さに思いを馳せた。太陽の光が今いるところから見えなくなる日の入り直後、その太陽系の星たちの微妙な軸の重なりとズレが一致する太陽系規模の「時」の流れの中に僕と妻は置かれている。
Web情報でこのことを知っていたので、職場からは日の入り時刻前に早々に帰宅した。「きっと毎朝登る高台の公園に行けば、全方位の空が良く見えるだろう」と思い込み、早々に朝のウォーキングのごとく着替えて公園の147段を登った。休日で実家に行っていた妻が帰るというので、その公園まで車で直接来るように連絡。二人で寒風の中をしばらく待ったが、どうもまだ明るさが残るのとちょうど南西方向に山や樹々があってよく見えない。意外に「南西」なら自宅の2階がう良いと思いつき、帰宅して再び空を眺めた。レジャー用の10倍程度の双眼鏡を使うと、はっきりと木星の右上に重なるように土星が見えた。思い込みでないかと疑いつつ、土星にリングが見える。スマホでやや拡大して撮影すると、個々の色や形状の違いがよくわかった。食事の準備に勤しもうとする妻もしばらくはこの大接近に夢中になっていた。この歴史的な一瞬のような「時」に、地球で愛する妻と出逢えている幸せに感謝。
次はどんな時代にどんな夫婦が見上げるのだろう
太陽系の時間からすると一人の人間の命は儚い
それだけに命をどれだけ「ことば」に刻めるかにこだわりたいものである。
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天体に生きるわれ
2016-04-22
熊本地震から1週間被災した方々に思いを寄せつつ
地震列島に生きる「われ」を考える
緊急地震速報の夜から1週間が経過した。僕の居住する地域では最大震度4までで、被害もほとんどなかった。それでも友人・知人からは心配する声が様々な媒体で寄せられ、人の心の温かさに深く感謝する契機にもなった。あらためて母とも電話をする機会が増えたが、この地は東京は大丈夫か?、そして国の地震対策はこれでいいのか?と様々な不安がよぎる会話内容となっている。僕たちは確実に「地震列島」に居住しているのだ。さらに大きな枠組でいえば、環太平洋に住む以上、地震の不安からは逃れられないということであろう。日本は古来から桜が散ることに思いを寄せ、諸行無常に「あはれ」を見出してきた文化的伝統もある。「世はさだめなきこそ、いみじけれ」とは兼好法師『徒然草』の一節であるが、こうして「無常」なることに「美」さえも見出してきたのである。まさに僕たちの生きる大地は、動いているのだ。
雨模様の天候が続いているが、この1週間の月齢を確かめてみた。昨日が旧暦三月十五日で満月、1週間前は八日ということになる。月が次第に満ち始めて望月に至るまでの間、この活断層型地震の蠢きは止まることがなかった。僕はスマホに地震速報専用アプリを搭載し、震度3以上の揺れはすべて地図上に震源と震度が表示されるようにしている。昨日一日を通して随時これを見てみると、1週間前に頻発した震源域での余震は、かなり少なくなったようである。むしろ北東に大分県方面と、南西に熊本県八代方面に震源域が移動している。TV報道に拠れば、中央構造線沿いに九州南北に分割される土地が、東西上下にかなり歪んだということらしい。日本列島が古代は大陸と地続きであったのを想定地図で見たことがあるが、大地はこのように動くのが必然なのであろう。
海岸に行くと波の絶え間ない力をひしひしと感じる
僕らは天体の引力作用の中で生きているとすると
月齢を重視する意識も必要ではないかと古代の知恵に思いを馳せるのである。
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星は何でも知っている
2013-11-30
満天の星空。地球が丸いと感じられるところ。
無数の星に僕たちは見守られている。
初冬を迎え澄んだ大気圏。
星は何でも知っている。
宇宙が好きだ。科学的な分析というよりも、そこに物語があるような気がするから。果てしなく広がり、その限界もわからない。探れば探るだけ奥深い次元のストーリー。SF的でもあり古代的でもある、矛盾に満ちた存在。その要素の多くが人間の想像力に依拠しており、決して真実ではないかもしれない。だが宇宙界全体を見極めるべく、人間という生命体は”猿知恵”を駆使してそれに挑もうとしている。
360度満天の星空に出逢った。今までにも何度か星空に感激したことはある。小学校3年生で、英会話セミナーの林間合宿に行き初めて天の河を見た。カナダの湖畔にある友人宅で、誰にも邪魔されない環境のうち地球と宇宙の相対性を感じた。そんな僕の人生史に新たな星空が加わった。この地の置かれた地理的条件が為せる技なのか。更には実に焦点化したその丘が、とりわけ特異な地球上の地点であったのか。そんな大仰なことを、感じさせるほどの光景であった。
無数の星を見ている僕。”見ている”という意識自体が自惚れであり、実は星たちに見られているのかもしれない。人生日々歩んでいると、不安や不確定ことだらけである。だが、こうして「宇宙」を感じる時間を持てば、その混乱も実に些細なことであると自覚できる。星は何んでも知っている。ゆえに幸福と平和への祈りを込めて星空を見上げよう。
都会では得られなかった時間。
誰にも教えたくないあの丘の上。
この地に来てからの時間の堆積が報われる思いだ。
この場所に出逢う偶然と必然。
繰り返すが、星は何でも知っている。
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聊か小休止してロマンの力を
2013-11-18
疲労感とともに寝不足。数日間で濃密な時間を過ごした果てに。
立ち止まって見えて来ることもある。
同時に考えるべき不安もよぎる。
たまにはちょっと小休止を。
質の高さにこだわるべきだというのが、最近よく考えること。睡眠一つにしても、時間量ではなく質の高い眠りを求めたい。寝入る際に気に掛かることがあれば、自ずと睡眠は浅くなる。いかに自己コントロールが難しいかを実感することも多い。
質保証の難しさに比べ、量は予定次第で確保できる。時には二度寝を繰り返すような休日も必要なのかもしれない。そんな時間にも、普段は聴かない身体の様々な声が響いて来る。思考もまた一旦は虚空に放つようにして、休めることで再び動き出す新たな力が養われる。
夜になって綺麗な満月の空。それがむしろ咎になるようだが、17日は「しし座流星群」発生のピークであるという。しばし東の空を眺めるが、短時間で”願い事が叶う”わけではない。流れ星への思いは、寝床での夢の中へお預けとした。確か2001年に大出現が話題になり、東京の空を何時間も眺めていて、それらしい光の箒を観ることができた。あの時の願い事は、12年後の今にして様々な紆余曲折の果てに現実のものとなっている。
星に願いを。
夢に預けて観た流れ星に託す。
夢想に浸り、現実に返す。
このまったく根拠のない”運命”を信じたい。
ロマンは、いつしか意志になっているものだ。
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金環日食の捉え方
2012-05-22
前日になって“日食眼鏡”はないものかと、数軒の眼鏡店やコンビニに寄ったが、結局売り切れや扱いなしで手に入らず。まあ仕方ないかという思いで、前日の晩に天気予報を窺がうと、「曇り」だという。結局、眼鏡があっても見られないのかなどと、万全の準備をしている方々からすれば、冷めた発想をもって前夜の床に就いた。その程度の意識ゆえに、実際に日食がどのように見えるかなど、それほどの期待もなかったといってよいだろう。普段通りの時間に起床。朝型生活ゆえに、特段の早起きをせずとも、日食の進行を追うことができる。起きてすぐに東向き寝室のブラインドを上げると、予想に反して太陽光が強く差し込んだ。前日のやや投げやりな感覚から、これなら「何とか見られないのか」という気持ちが高ぶってしまった。それでも太陽は、思わせぶりに雲間に見え隠れしている。
居住する東京ではなく、他の地方ではどうなのだろうという思いで、起床後には滅多に見ないTVのスイッチを入れた。NHKを始め民放各局も、こぞって日食を取り上げている。珍しくこれも滅多に観ない民放各局を、リレー式に巡ってみたりする。独断的なキャラクター人物が、各地の中継とのやり取りをしていたり、はてまた人気アイドルグループがTV局屋上に居並び、日食眼鏡で時折空を見上げたり。レポーターが五月蠅く様々な中継を伝えていたりしている。その喧騒具合に辟易して、NHK総合に戻ると、そのメインアナさえも、妙な興奮具合を露呈しつつ「世紀の天体ショー」などという看板を掲げて中継している。せめてNHKは、大晦日紅白後に感じるような、異常ともいえるほどの冷静さと客観性をもった「声」で伝えていて欲しかったなどという感情が沸き起こってしまった。公共放送が何も民放に右へ倣えの演出を“無理に”する必要はないはずだ。
関東地方の大部分では173年ぶりというから、江戸時代にまで遡る。次に日本で見られるのが18年ぶりの北海道。日本の広範囲で見られるのは300年後であるという。この稀少な機会にめぐり逢えたこと自体が、奇跡的ともいえるのかもしれない。遥か以前から2012年の金環日食は、時間的な“指標”として意識されていた節もある。
TVを離脱してから、何とか自分なりに観察しようとあれこれと試案した。東側寝室のブラインドを最大限に活かして、急造の“木漏れ日”をもたらそうとする。幸運だったのは、太陽を薄雲が覆っていたこと。その上で、手持ちのサングラスを2つ重ねて使用したりすることで、何とか観察する可能性を創り出した。ブラインド・薄雲・サングラスという3つのフィルターを通して、ようやくその美しい「指輪」の“現物”を観ることができた。情報に拠れば約5分間だったというが、太陽と月の直線状に自らが存在していることを感じることができた。
それにしても、「日」が侵「食」されるということば上の表現。過去には「日蝕」と、まさに「日」が「蝕(むしば)まれる」という表現も通行した。天にいる怪物か何かが、太陽を「蝕んだ」というような物語的発想による表現。人間の想像力は自然現象を記号化し、様々な修辞をもって表現の世界に遊ぶ。「金環」もまた然り。「金のリング(指輪)」とは、何とも美しくもロマンチックな表現といえるだろう。ことばは派生し現実行動を左右する。この日の「金環」にあやかって、「指輪」を贈り求婚するとか、「金婚」と類似の音韻に引っ掛けて結婚50年を祝うとか、人間の空想は商業主義か如何は別問題として、どこまでも止まるところを知らずに拡大する。
「日食」の折に「動物の異常行動」が見られるという説もあり、中には動物園でその様子を見学する方々が、TV中継されていた。それでも多くの人工的に飼育された動物たちは、何ら変わらぬ朝を迎えていたようではある。一番の「異常行動」を取っていたのは紛れもなく“ヒト”にほかならない。天体の変化にこれだけの関心を寄せ、騒ぎ興じて道具まで駆使してその様子を追い続ける。ちょうど『徒然草』の「花は盛りに」の段にある、「祭に興じる心なき人」を思い出した。「祭り」の中心である「行列」が通る時だけ大騒ぎをしているが、その前後の情趣を味わうことのない人々。該当の数時間を「世紀の・・・」などと呼称するならば、神秘極まりない未知の宇宙に生きている己の不思議に、日頃から目を向けたい。「心なき人(情趣を解さない人)」はいつの時代もあれど、昨今の「心なき」度合は、眼を覆うばかりである。
天体を観るロマンの心は、どこか物語的でもある。
そこに文系理系などと、無理に人事の枠組みに仕分けされない、
美しくも物理的に精緻な世界が存在している。
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星空をどう見るか?
2011-12-14
夜空を見上げたとき、人は何を見ようとするであろうか?大抵が“星”そのものを見ようとするのが普通の発想だろう。もちろん、月齢に応じて月明かりを楽しむこともできるし、ただ自分の思いにのみ浸るために夜空を背景とすることも可能だ。だが、ある場所においては、星の光がない“暗黒”な部分に注目し、そこに様々な造形を見出したこともあったと知った。「光らない部分」に焦点を当てるという意味で、実に興味深い発想である。南米大陸、現在のチリにある高地に栄えたインカ文明。そこは雨が少なく空気が澄んでいるので、天空にあまねく星が見え過ぎるゆえ、星座を点で結ぶことができず、暗黒の闇の部分に様々な動物の形などを見たのだという。南米特有なリャマを始めキツネにウズラなどなど。周囲の光る部分によって浮き出した漆黒の闇を焦点化する逆転の発想。この南米の高地をプラネタリュウム作家・大平貴之氏が訪れるというNHKBSプレミアム『旅のちから』を視て教わったことである。
この場所はアタカマ高地と呼ばれているが、現在、日米欧の共同プロジェクトとして史上最大規模の“アルマ電波望遠鏡”の建設が進行中である。標高2200m付近で巨大なパラボラアンテナを組み立て、それを水平に保ちながら坂道を登ることができる超級の車両に積載し、標高5000m付近まで時間を掛けて輸送している。2013年には計画している66基のパラボラアンテナが全て設置完了し、今までは探索不可能であった宇宙の神秘を格段の精度で一つ一つ解明できるようになるという。日本製・米国製・欧州製の三種の電波望遠鏡があり、それぞれが競い合って技術開発を試みている。国家間の争いもこうした切磋琢磨に落とし込めば、地球規模で新たな進歩が格段に向上する証左となるプロジェクトであろう。兵器開発などへの浪費を抑え、人間はもっとロマンに向けて金銭を投入すべきだとつくづく思う。
アルマ電波望遠鏡を使用すれば、世界一の星座の中にある“闇の星座”に迫ることができる。銀河の中に存在するガスを、電波によって捕捉することができるからだ。ガスの存在を確認することができれば、星が生まれるまでの歴史を解明することに繋がるという。大きな渦を巻いた銀河系の一部である私たちの棲む太陽系。更にはその銀河系外にある暗黒星雲。宇宙の果てしなさはまさに無限であり、地球という存在自体が実に微小なものであることに気付かされる。
その微小な地球上で、我々は“光”あるものだけを追い求め、貪欲に争い、殺し合い、自らの存在を危ぶむような開発を進めている。もし「宇宙の真理」というものが存在するのならば、“暗黒星雲”は地球人に語り掛けるであろう。「闇の部分にこそ真理が潜んでいる」と。インカ文明が見つめてきた天空への思想からも、現代人は多くを学ばなければならないのかもしれない。
番組の中で、大平貴之氏は語った。
(この高地にいると)「地球という球体に張り付いて、宇宙空間を観ているようだ。」
人類悠久の歴史と共に、宇宙という果てしないロマンの存在を知る。
『旅のちから』以上の何かが湧いてきそうだ。
自己という人間存在を考える意味で、南米の高地に思いを馳せる。
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