手を出そうとしない少年

2017-08-10
所謂一つの「因縁をつける」
「ラシャメンの処へ這込んでマドロスにいんねんをつけられた情人とはちがいやす」
(『日本国語大辞典第二版』用例から『西洋道中膝栗毛』仮名垣魯文)

少年はいつものように家が近所の友だち二人と、公園に遊びに行った。その公園は都会には珍しく、由緒ある寺の裏山にあり墓地の奥の鬱蒼とした樹々の茂る崖の半ばあたりに造られたもので、その傾斜を利用したかなり長い距離の滑り台があった。まさに子どもたちの冒険心をくすぐる場所であったが、滑り切って底の砂場まで行くと、滑降する台の横に設置された長い階段を戻るしかなく、袋状の地形の中に閉じ込められたようになってしまう”怖さ”もあった。決して「独り」では行き難い場であったが、その日は友だちと勇気を出して行こうと決心したのであった。しばらくその滑り台で遊んで底の砂場にいると、上から別の二人の少年が滑り台を降りて来た。少年はすぐさま小学校で1年下級の3年生二人だとわかったが、特に相手もせずに遊んでいると、向こうから「俺たちは5年生だ」と言って、少年たちに所謂一つの「因縁をつけて」来る事態となった。

冒頭の『日国』により意味を示しておくならば、「無理な理屈をつけて相手を困らせる。言いがかりをつける。」とある。少年は脳裏に「これか!」と思いながらも、聊かの不安の中で奴ら二人の次の言動を待った。奴らが虚偽の学年を言ったのには根拠がある。奴らのうち一人の兄が5年生で、小学校や英語塾でも幅を利かせており、何か自分に気にくわないことがあると、殴ったり膝蹴りを加えたりする乱暴者であった。事実、英語塾で少年は、その兄が他の者に攻撃を加える現場を目撃したことがある。この公園で出会ってしまった弟は、兄の暴力的行動の権威の傘下で、少年たちに無理強いをしようと目論んでいたのだ。少年たち三人のうち、一人は隙を見てその場から逃げ出した。残るは少年と一人の友だちは二人とも「平和主義者」で、奴らと二対二ではあったが、暴力で対抗しようとは決して考えなかった。すると奴らは少年とその友だちに(仲間内で)「喧嘩をしろ」と強要し始めた。仕方なく二人は相撲の「相四つ」のように組んで静止していたが、「それは喧嘩じゃない」と言って奴らは少年たちを煽った。そんな苦渋の時間がしばらく続いたが、とうとう気持ち的に耐えられなくなった少年は、大きな声で泣き出してしまった。「泣き叫ぶ」というのはこういうことをいうのだろう、その絶叫ぶりに驚いた奴らは、少年を仕方なく解放した。果たして、この少年の言動は「情けない」ことなのかどうか?少年は全身で表現できる最大限の平和的手段を使用して、その場から逃げ出した。のちに奴の兄から報復を受けることもなく。

少年は英語塾で「泣き虫」と言われた
だがその兄弟に力で勝とうとは決して思わなかった
少なくとも英語では、1年前後する奴ら兄弟には決して負けなかったとさ。
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「キイハンター」土曜の夜の楽しみ

2017-06-18
「非情のライセンス」という曲
幼くわからなくても観たかった番組
「彼らの求めるものは自由、願うものは平和」

女優の野際陽子さんが亡くなられた。心よりご冥福をお祈りいたします。野際さんといえば「冬彦さんの母」としての奇怪な名演技が一世を風靡した。サザンの「涙のキッス」が主題歌だったこともあり、毎週欠かさずに観ていた記憶がある。だがそれ以上に野際さんの印象が刻みつけられているのは、「キイハンター」への出演である。僕自身はまだ幼稚園から小学校低学年であったので、土曜日だけは午後9時からのテレビを観られるという特別な感じに嬉しさを覚えていたこともあった。また土曜日は祖父母の家に遊びに行く機会も多く、そこでも必ず「キイハンター」を観ようとするので、祖母が「なんて難しい番組を観るの」などと言っていたのが思い出される。それほどに、このハードボイルド的番組には魅せられていた。

丹波哲郎や千葉真一というアクションスターの出演とともに、毎回の筋書きに人間味が感じられたのも、幼少ながら僕が魅せられていた理由であるようにも思う。オープニングタイトルの曲が特に格好よく、各出演者の格闘シーンが展開した後でポーズを決めて静止画となるあたりは、自らも想像した役柄を頭の中で創り上げ、ポーズを作る真似事をしていたのも思い出す。そのオープニングタイトルをあらためてYouTube(「キイハンター」カラーのオープニングタイトル)で観直してみた。曲の最後の方に流れるナレーションは冒頭に示したように「彼らの求めるものは自由、愛するものは平和」で、その直前には「今日もまた地球上のあらゆるところに陰謀・裏切り・暴動が渦巻く、その渦中に飛び込む彼ら」と語られている。いわば「キイハンター」という存在が、「自由と平和」を獲得する密偵として命を賭けているという想定となっているわけである。まさに60年代から70年代へ移行する時代の空気を反映してはいるのであるが、それだけに今日的にも貴重なメッセージであるようにも思う。「自由と平和」は「非情の掟」の中で闘ってこそ手に入れることができるのだ。

番組の最後は野際さんが歌う「非情のライセンス」
その妙に高い声に土曜の夜が更ける幻想を幼心に抱いていた
また一人昭和の名優が旅立ってしまった
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「カメラ」を欲しかったあの頃

2017-05-05
一台のカメラ
全体はベージュで太く大きなシャッター
小学生の時、どうしても欲しかったもの

かの昭和時代にはスパイ映画などを観ていると、主人公が決定的瞬間や機密書類などを、超小型の携帯カメラで撮影する場面などがよく設定されていた。そこにしかない「現実」をそのまま写し撮って他の場所で「利用」できることが、どれほどに貴重なことであったか。それが今や多くの人が日常的に「カメラ」を携帯するようになり、どんな情報でも手軽に撮影できる時代となった。大学で学生の様子を観ていると、掲示板の情報や講義のスクリーン・板書なども撮影(スマホ)で済ませる向きも多い。指導者側のデータ整理と保存上では、講義中に学生たちがグループで対話した際のメモやプレゼン用ボードなどを撮影しておくことができるという利便性は誠にありがたい。またタブレットを使用すれば、必要な写真を手軽に講義でプロジャクター投影することができる。こうした利便性の反面、プライベートの保全などの上で悪質な行為にもつながりかねず、例えばジムにおいては携帯は使用禁止(使用できる場所が限定)になっている。(それでも持ち込んでトレーニングか画面を見ているのか見分けがつかない者もいる。)

母と電話で話していて、「一台のカメラ」のことを思い出した。確か小学校4年性の時、「カメラ」が欲しいと言って地団駄を踏んで母親にねだった。それは学級の中で「新聞係」に自らなって、学級新聞を作成するので、そこに何らかを取材した写真を入れようと考えたことが理由である。それも、「新聞係」の中の他の者が「カメラ」を所有していて「自分だけが撮るから他の者は撮ってはならない」と言ったことを子どもながらに理不尽に思い、むしろ「自分が撮ってやろう」と強く思ったことが大きな動機であった。今思えば、あの頃から新聞作りなど報道・文筆的な方面に興味があったことを再確認するエピソードである。結果的に学級新聞には写真が掲載されることはなく、自分たちで見聞したことを絵に描いて発行したと記憶する。たぶん僕たちの「カメラ騒動」を担任の先生が察知して、新聞には「絵」で描くことを求めたのだと思う。そのお陰でむしろ自分たちの捉えた「絵」と「文章」が学級内の読み手によく伝わったように思える。もちろん、一流の写真家の方の撮影には表情がある。だが現代のように安易に大勢の人が撮影する写真は、他者に真実を伝えているのかと疑いたくもなる。情景には表情があり、そこには「ことば」でなければ捉えられず伝えられないものが含まれる。小学生だったあの当時に自覚はなかったが、機械的撮影という手段を手にいれたことで、むしろ「ことばの力」をどこかで自覚したのだと今にして思う。短歌を詠むようになった今では尚更、「写真」以上の表現を目指している自分に気付かされるのである。

連休の青島
雨もまた心が和む
あの「カメラ」が、今の自分の「ことば」に連なっている「意味」があったとは・・・

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人生で種を蒔く時期

2017-03-19
無条件に笑い合える友だち
そして思春期の成長を見守ってくれた恩師
その時期に蒔かれた種から芽が出て花が咲く

中学校時代の担任の先生を囲み、大変親しかった友だちたちとささやかな同窓会を開いた。長年、年賀状のやり取りだけで連絡だけは保たれていたが、ことしはぜひ「同窓会」を実現しようと自ら音頭をとった。教育関係を研究し教員養成に携わる身として、自らの「中学校時代」が如何なるものであったかという問題意識を、相対化する必要性も感じたゆえでもある。だが、実際に会ってみると、そんな堅苦しい意識は遠方に去ってしまい、ただただ楽しい時間が穏やかに流れた。話す口調は当時のものに戻り、友だちの笑顔は昔のままであった。現在の職業や生活環境を超えて、ただただ会って楽しい仲間と恩師。それこそが「中学校時代」なのではないかとあらためて思った。恩師は「あの頃」を「牧歌的だった」と振り返った。

食事をする前に、今は無くなってしまった当時の校舎が建つ敷地を散策した。今や附属の大学が「新凱旋門」にも似た、シンボル的な校舎を建築した場所となってしまっていた。あのあたりが中1で入学した時の教室、あそこが校庭、体育館はこちらにあった、などと語り合いながら、ある角度から表通りを見ると、変わらないあの日の街の表情が蘇る。ともかくあの頃は学校へ行くのが無条件で楽しかった。朝早くから登校し、校庭で野球やアメフトをして遊ぶのが常だった。一泊旅行や修学旅行では、今回会った友だちといつも部屋割りで同室になった。深夜に及ぶか徹夜も辞さないで語り合った時間。そしてまた「文学」を深く愛した恩師の様々な言動が、僕らに発芽すべき種を蒔いていたのだと、あらためて確認できた。ふたたび「教員養成」という観点から聊か述べるならば、「教師は生き方を見せる」べきではないかと恩師と僕自身の関係から痛感した。

また元気でこの地で会おう
今回来られなかった北海道の親友とともに
かけがえのない恩師と友だちと永遠なれ
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芸術を楽しもう!!!

2016-12-15
「年賀状に絵を描きますか?」
 教員が楽しいと思うことが原点かと。」
美術の先生の訴えに共感して・・・

過密日程の1日。朝は一番から会議が2つ続き、直後からすぐに講義。昼休みは国語専攻2年生を対象とする研究室(ゼミ)決定のための説明会。直後にもう1コマの講義。終えると好物の蜜柑が家になくなったので、懇意にする産直市場へ。昼食はこの蜜柑3個。そのまま附属小学校へと向かい「教員研修」に関する研究会に出席した。その後はホッとしてもいいものを、馴染みのうどん屋で「天ぷら定食」を食しすぐにジムへ。筋トレプログラムをこなしてから、ようやく大浴場とサウナでリラックスできて、帰宅するとすぐに就寝という一日であった。この日程の中で書いていないのは、朝の会議前の1時間である。そこで『万葉集』を読み直しているが、この何とも言えない「楽しさ」。やはり自らが「楽しい」と思うものこそ研究対象でもあり、論文や評論の素材であり、学生に教えるべきものであると再認識した。

上記の日程の「教員研修」に関する研究会で、同僚の画家である美術教員が力説したことがある。小学校の教員は多数の教科を教えるとなると、自ずから得手不得手があるだろうが、そうであっても自らが「楽しむ」姿勢なくしては、子どもたちの「学び」は創れないというのだ。美術教員は会場の小学校教員に問い掛けた、「高校で芸術は何を選択しましたか?」「年賀状は手書きで描きますか?」などと、教員が過去の体験として、また現在の生活上、どれほどに「図工」に親しみを覚えているかが肝要だということだ。僕自身のことを(小学校教員ではないが)語るならば、幼稚園時代から小学校の前半までは絵画教室に通っていた。先日も実家に行くと、母が当時の絵を保管していて何十年かぶりに対面を果たし、深い感激を覚えた。大学では「書道会」の幹事長まで務めたので、今でも年賀状を含めた葉書や封書はせめて筆ペンを使用し、附属小中学校での研究授業の折に黒板に貼り付ける表示資料は毛筆書きである。仲間とのバンド活動も断続的ながら、今でもステージに立つこともある。いずれもいずれも自分で実に楽しいのである。先日、幼少の頃の絵を見たので、時間に余裕ができたら(いつのことになるかは不明だが)また水彩画にでも取り組もうかという欲も出てきた。芸術は生活に確実に潤いを与えるのである。

生活そのものが文化的であるということ
芸術なき人生なんて
牧水先生も多くの短歌を揮毫しているように「表現」全域を考えて生きていたい。
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自己存在の原点を訪ねて

2016-09-04
母の故郷へ
宮大工棟梁であった祖父の建築した神社
親戚の面々との無条件に楽しい時間・・・

関越自動車道を一路、新潟へ向かった。母の故郷を訪れて親戚を訪ね歩き、また「いとこ」を中心に親戚が一堂に会し、久しぶりに憩いのひと時を持った。温泉場の近くにある小高い山の頂に神社があり、その社は宮大工棟梁として僕の祖父が中心となって建築されたものである。もちろん何度もこの地を訪れているのだが、何回来てもまた心に力が湧き新たなる希望が見え始める。僕にとってこの上ないパワースポットなのである。

母が幼少の時に建立されたということで、町からの道を3里以上も歩いてこの山合いの地まで来たと云う。途中、信濃川を渡る際には汽車の走る鉄橋を渡り、冬となれば雪の中を歩く場合もあり、子どもながら多くの苦労をした母の姿が想像できる。材木を山から切り出し、雪上を滑らして運搬したり、重機なども十分でない時代の建築への取り組みに想いを馳せる。母のいとこ、そして僕のいとこ、いずれも幼少時からお互いの育ちを見合って来た人々。今此処にいる自己存在の意味をあらためて心に刻むひと時となる。

僕がこの世に生を受ける前の物語
祖父から伝承されたものは何なのであろうか?
いとこなる親戚の繋がりを、あらためて大切にしたいと酒を酌み交わす宵の口。
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故郷と歴史のいま

2016-08-27
4年後の東京五輪
果たしてどのようなことになるのか?
モノレールに山手線の車窓から眺める故郷

宮崎から空路で東京へ。羽田空港に降り立つと、いまだ夏の面影も濃く入道雲が東京湾越しにお出迎え。明らかに南国とは違う空の色が一面を覆っていた。空港のターミナルには「2020TOKYO」の表示が目に入ってくる。この大都市はもう既に、4年後の世界的イベントの開催を責任をもって履行せねばならなくなった。そんなことは以前から決まっているというかもしれないが、実際に2016リオ五輪が終わってみると、その感覚が違って受け止められた。以前から経済はもとよりファションやグルメの拠点としては、世界的に注目を浴びた都市であるのも間違いない。だが五輪という「平和の祭典」が4年後は世界で唯一開催される場として眺めると、明らかに違った風景として東京の街並みが見えた。親友の理容室で散髪をしていると、ドキュメンタリー映画「東京五輪1964」の映像をを流してくれた。僕にとっては記憶のない五輪が開催された折に、首都高速道路や新幹線が整備され羽田空港が世界からの玄関口になった。

リオ五輪の現実と4年後の東京が重なりをもって見えてくる。僕が幼少の頃には、街中に「外国人」がいると特段に注目するほど稀少な存在であったと記憶する。それがいまやかなりの外国人がこの街を闊歩している。僕の中には妙な記憶があって、東京五輪の聖火ランナーかマラソン競技の選手たちが、実家前の路を走っていくという、たぶん誤った記憶が刻まれている。まずは年齢的に記憶が刻まれるはずはないという事実と、実家前の路が聖火ランナーやマラソンコースにはなり得ないということは明らかである。だがしかし、近隣にあった有名私立中高の学生たちが日常的に実家前をランニングする光景が、あまりに印象深かったのであろうか、それと東京五輪の映像が折り重なって、僕の中で虚像の歴史が生成されたようである。地方居住者としてあらためて東京を眺める。大きな荷物を抱えて山手線に乗車し、次第に実家のある駅に近づく。そのなんと言えない郷愁とともに、半世紀という歴史の中にあるこの街のあり方が身に迫ってくる。東京にばかり住み続けていたのではわからない感性が、僕の中に確実に宿っている。

上野・鶯谷・日暮里・西日暮里
駒込・巣鴨・大塚・池袋
あと4年で「TOKYO」はどんな変貌を遂げるのであろうか?
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人間こそが侵略者ー「ウルトラセブン50年」の信念

2016-07-10
幼少時に涙を流してみた最終回
幼心に何か心に響くものがあった記憶が
ウルトラマンシリーズ50年の特番を視て・・・

幼少時に両親が仕事で忙しかったせいもあって、結構自分のことは自分でやる習慣があった。テレビ番組は何があるだろうと探り、ウルトラマンは必ず視ていた記憶がある。だがなぜかアニメ番組は好きではなく(不思議な子供で漫画本が嫌いだった)、「サンダーバード」「ジャイアントロボ」「仮面ライダー」など実写版の英雄物が好きであった。そんな中でやはり「ウルトラマンシリーズ」は、僕の成育史において記憶に残る名作といってよいだろう。特に「ウルトラセブン」に関しては、「地球防衛軍」の基地を始めとするメカが精巧であったこと、場面場面の音楽が誠に適合していたこと、そして子供心にその正体は分からなかったが、何らかの考えるべきテーマがあることを無意識に察知してか、奥深いものだと感じて一番没頭したシリーズであった。そのシリーズからほぼ50年が経過したようで、NHKで特集番組が放映された。それを視るとやはり「ウルトラセブン」に関しては、沖縄出身の脚本家・金城氏の揺るぎない信念をもとに書かれた社会派人間ドラマであったことを知り、子供心に感じていた「分からなかった正体」が理解できた気になって大変感激して番組を視た。「セブン」の中の幾つかの場面においては、幼少時の記憶と重なり、当時も無意識の涙を流したが、あらためて涙腺が緩む感慨に見舞われた。

善行な英雄が悪者を懲らしめる、所謂「勧善懲悪」は、江戸時代頃より大衆文芸において民衆受けする一つの話型である。多くの時代劇が類型的で、「悪者」を主人公が懲らしめて一話が完結する。いうなれば「印籠」や「成敗」や「必殺」などと「スペシウム光線」は同じ仕掛けであり、民衆はそれが最後に使用されることを知りながら、その安心感を担保にそれまでに至る悪行の甚だしさに心を一度は痛める。そして最後は英雄の笑顔が、民衆の心を掴む。だが子供心に僕は、「悪者の手下として斬られてしまう者にも家族があるのでは?」とか、「怪獣や宇宙人にも、地球に来るべき理由があるのではないか?」と思うことがあった。「分からなかった正体」というのは、こういう疑問のうちにあった。特集番組においては、とりわけ「ウルトラセブン」で描かれた「人間こそ侵略者ではなかったのか?」というテーマを紹介した。地球防衛軍が宇宙開発を進め、惑星を瞬時に消滅させる恐ろしい兵器の実験を行ったりする。そこに生命体はいないという独善的で傲慢な思い込みに反し、破壊された星から怪獣が地球に復讐のために飛来する。ウルトラセブンは、やるせない思いでその怪獣と対峙する。また地球そのものにおいても、実は先住民たる「ノンマルト」がいて、人類こそが彼らの生活を侵略して現在の繁栄を築いたというテーマも描かれている。その回を子供心に視た記憶は鮮明で、「ノンマルト」の代表として人間の姿をした少年が、地球防衛軍隊員のアンヌに語り掛けた内容を、僕はほとんど記憶していた。「ウルトラセブン」には英雄の抱くべき葛藤が随所に散りばめられており、それはベトナム戦争を背景とする時代の主張でもあったと番組は伝えた。地球防衛軍は反転すれば侵略軍になり、真の英雄とはその狭間で葛藤に明け暮れる理性を持った人のことだと、「セブン」は語っていたようである。誠に芯のある子供向け番組の制作信念であると、今更ながら深く感心した。現在、これほどの深みを持った子供向け番組が、果たしてあるだろうか?今こそ僕らは昭和の「セブン」に学ばなければならないのかもしれない。だが、そうしたテーマを描き出すと、当時であっても視聴率が下降したというから、視聴者たる民衆の理性とは何かを考えさせられる。さながら現代であればSNSなどで,食べ物などの写真を挙げると「いいね」が大量に付くが、社会的話題には少ないことと類似した現象である。

『走れメロス』もまた同じ
正義は反転する可能性の高いものなのである
苦しくて受け容れ難い葛藤を描くことこそが、知性なのだと知るべきであろう。
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追悼・モハメッド・アリ氏

2016-06-13
異種格闘技戦での勇姿
様々な社会活動
時代を築いたアリ氏が逝く

まだ週休二日が定着していない頃、もとより私立中学校に通っていたので、土曜日は「半ドン」で授業があった。4時間目の授業が12時半に終了すると、僕は一目散に自宅へ走った。確か午後1時から「世紀の一戦」がテレビ中継されるからであった。学校から約15分ほどの道程を、我も忘れて疾走したのを今でも覚えている。そして中学校の夏制服を着たまま、僕は固唾を飲んでその「決戦」を刹那も見逃さじとテレビ画面に集中したのだ。試合は終始、猪木がグランドスタイルでアリの足にキックを入れ、ほとんど立ち上がる場面はなかった。15Rで、ほんの僅かに猪木が立ち上がった折に、アリが数発のパンチを見舞う場面があった程度であった。その硬直して変化しない試合に対しては、数々の酷評が向けられたことも鮮明に記憶している。

当時1976年(昭和51年)は、オイルショックから3年後。プロ野球で言えば第1次長嶋監督時代(王さんをはじめV9メンバー数名がまだ現役であった)だが、まだ高度経済成長期の経済上昇気運が残っていた時代だったように思う。プロレスは馬場の主宰する「全日本」が土曜日の8時、猪木が主宰する「新日本」が、金曜日の8時というともにゴールデンタイムに放送されていた。(因みにラッシャー木村が主宰する「国際」も、月曜日の8時放送)僕は、小学生の頃から祖母が「プロレス好き」であったことから、比較的テレビ中継をよく観る環境にあった。世間一般に「プロレスは茶番だ」という趣旨のことを口にする向きがあるが、僕はそれには真っ向から反対である。たとえ「演技」であったとしても、あれだけのパフォーマンスをするには、プロとしての「鍛錬」が必定だと思っているからだ。猪木対アリ戦に関して言うならば、圧倒的に不利な試合条件下で、猪木がよく奮闘したということだろう。グランドスタイルを15R、キックでの攻撃を続けることで、アリの両脚はその後かなりの痛手を負い、そしてまた猪木の肉体もかなりのダメージであったというのが実情のようだ。「異種格闘技戦」という実現不可能とも思える興行を行う「遊び心」に、大衆も真っ向から注目できた時代であったのだろう。

視聴率38.8%
ベトナム戦争徴兵拒否による世界チャンピオン剥奪
あの時代を築いたアリ氏のご冥福を心よりお祈りする。

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プラモデルの思い出

2016-05-13
飛行機を造り塗装まで
その面倒な過程が育むものは?
プラモデルの思い出を語りながら・・・

同僚の先生方と話していて、ふと「プラモデル」の話題になった。「何をよく造ったか?」という問い掛けに、「飛行機」というのが共通な回答であった。僕の場合も戦闘機を造るのが好きで、その空力抵抗を考え抜かれたフォルムには、なぜか魅せられるものがあった。造るのみならず塗装までを丹念に行うのが、プラモデルの醍醐味であるという点も同僚の先生と意見が一致した。説明書を読みながらも部品の状態を精査して次第にフォルムを形成していき、その過程で塗装すべき箇所に色を加える。車輪の支柱などは細い部品であったり、コックピット内部などまで精密にできている大型プラモデルさえあった。プラモデル造りによって、いつも間にか日米の戦闘機に関しては、かなり詳しくなるという知識の”おまけ”まで付いたものである。

僕の中で最大の”宝物”であったのは、「サンダーバード秘密基地」である。確か脳科学者の茂木健一郎氏も、同じようなことを云っていた。島全体がプラモデルになっていて、各所から「サンダーバード1号〜4号」がバネで飛び出す仕掛けがある。宇宙ステーションの5号は、針金状のもので島の上空で揺れるように設置される構造であった。僕はまだかなり幼少であるのに、このプラモデルを買うことを要求し、結局は自分で造ることができず母親に組み立ててもらった記憶がある。だがその「国際救助隊」という人命救助のプロフェッヨナルなメカニズムに、なぜか心が深く魅せられた。僕らすべてが不意に見舞われる可能性のある災害。元祖サンダーバードからかなりの月日が経過したが、人類は今だに災害に対して無力である。周知のことながら「サンダーバード」は未だに世界のどこでも実現していない。あの母親に組み立ててもらい、その後大切に遊んだ「秘密基地」は、僕の中に何を植え付けたのであろうか。

プラモデルが育てる思考と感性
完成したフィギャの意味とは何か?という疑問も
造り上げる過程の困難にこそ、物の価値を認識する大きな要素が潜むのかもしれない。
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