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おばあちゃんのちから

2024-02-28

2月は人生最大の関門を思い出す。どうしても入りたい大学の入試。受験勉強に勤しむ日々には、母方のおばあちゃんが我が家に居た。日々の洗濯を担い、丁寧に畳んで僕の部屋まで届けてくれた。幼少の頃から、おばあちゃんの新潟の昔話を聞くのが好きだった。どこか不思議で怖くてでも温かい、昔話の中の物語性に目覚めた。よく僕の部屋の前の物干しから、おばあちゃんの鼻歌が聞こえた。どんなに辛くとも音楽のメロディーがあれば救われる、のだと学んだ。

受験は孤独な闘いだと、恩師は言った。その言葉に勇気をもらった。勉強に向き合えるのは自分だけで、決して人のせいにはできない。「誰々がいると勉強ができない」などと言う奴は、「勉強の孤独」を知らない。勉強はやればやっただけ自分を裏切ることはない、ゆえに人のせいにもしない。それでも入試の当日、おばあちゃんにおはようと言って、母が早朝から作ってくれたハンバーグ弁当を持って試験会場に向かった。決して独りではない、手元の受験票は郵送到着日に、母がそのまま祈願に行った力が宿っていた。


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起きてるのかと思われる寝言

2024-02-16
起床した妻が「目の前の中華料理が」など言ってたと
合宿や職員旅行でよく同僚に言われたこと
授業をしていたり時に外国語の寝言も

起床して来た妻が最初に「夜中に何か言っていた」と告げた。「何を言っていた?」と問い返すと「目の前の中華料理が云々」とか言っていたのだという。正直なところ宮崎にはなかなか美味い街中華がなく、東京などに赴くと取り憑かれたように中華を食べる傾向がある。何となく夢を思い出して見るとそんな東京の街中華の店先の光景を見ていたようだ。幼少の頃から、寝言を起きているようにはっきり言う習癖があるようだ。特に教員に就職してから部活動合宿や職員旅行などの機会に、同僚の先生から朝になって「驚いた」と指摘されることが少なくなかった。新米教員としてのストレスもあったのだろう、夜中に生徒を叱っているような寝言を言って、野球部合宿中の先輩教員を越してしまったことがある。さすがにこの際は叱った自らも目覚め、先輩が「怒られちゃったよ」と暗闇で呟いたのを記憶している。

こうして他者の目撃証言を集成すると、どうも「授業」をしているようなこともあるらしい。確かに夢で授業をしていることは少なくない。職業柄、その際の思いというのは特別なものであることがわかる。また自らも驚いたのは、教え子と中国旅行に行った時のことだ。朝起きると教え子が「先生、寝言が中国語でしたよ」と告げた。驚くとともに、そこまで外国語を習得したかという嬉しさも伴った。果たしてどんな内容を中国語で言ったのだろうか?と思う。もとより夢は、日常で気にかかることや期待するができないことなどが現れるような気がする。夢の中の発言と寝言はたいていが一致しているだろう、いやむしろ夢の中の行動を「発言のみ」現実で行うのが寝言のような気もする。思い返せば幼少の頃、祖父が「蛇が泳いでる」と寝言を言ったのに怖がって「何処に?」「どんな蛇?」と聞き返してしばらく会話した経験がある。俗説として、寝言に問い返すと当事者が衰弱すると云う。どうやら寝ていても「喋ること」を大切にしたいという、「言葉」に関わる性癖の象徴的な現象なのかもしれない。

自分では決して聴けない寝言
仮にスマホでの撮影動画を見たらどう思うだろう?
まあ、人に迷惑をかけず豊かな夢と寝言を楽しみたいと思う。


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やり尽くした卒論・修論

2024-01-17
ゼミ学生の卒論を読んでいて
やはり自分のその頃を思い出す
三日三晩徹夜の卒論清書と人生を賭した修士論文

ゼミでは9日までに卒論仮提出、そこから1週間で全員のものに目を通し指摘や助言を書き込んで昨日までに返送した。最近はデータでメール送付のやり取りが可能なため、仮提出は無駄な紙を要することなく行なう。更に言えば、こちらの指摘もデータ上に書き込むことができ、学生たちも修正が自由自在にできる。紙の原稿用紙に清書をしていた僕の学部時代を思うと、その労力は雲泥の差であるといえる。だが僕自身がいつでも人生の支えとしているのは、手書きで三日三晩をほとんど寝ずに書き尽くした学部卒論に向き合ったことへの矜持である。若い頃は無謀が良しとされる時代にあって、大学入試と卒論は僕自身の今を常に形作る要素である。

現職教員になって10年してから再び大学院修士に入学したので、その際の仕事をしながらの受験勉強と修士論文は前述したことに加えて大きな人生の記念碑だ。仕事上の定期試験の際などは、昼間に採点や成績処理でPCに向き合い、夜は研究発表準備や修士論文を書き進めた。自ずと甚だしい肩凝りに見舞われ、整骨院でマッサージを受けないと首が回らなかった記憶がある。それでも既にPC化した原稿に向き合い続け、雑誌論文3本を含む修士論文を3年間かけて提出し合格することができた。あの転換点で挫けずに本当に頑張っておいてよかった、と今にしてつくづく思う。ゼミの学生たちにもそれぞれの思いがあるだろう、今は彼らの人生に向き合っているのだ。

修論後、9年かけて博士号取得
そこから4年かけて宮崎大学へ就職
あの学部卒論からの長い道を思うに、やはり感慨が深いものがある。


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メリークリスマスショー〜ぶつかり合って和む

2023-12-24
『日本の恋歌とクリスマスー短歌とJ-pop』(新典社新書108)
あらためて自著で描きたかったことを考える
1986年のメリークリスマスショーを見返しつつ

2年前に刊行した前掲書を執筆する際に大きな力になったのが、今年の再録音で再び脚光を浴びている「Kissin’ Chiristmas クリスマスだからじゃない2023」の一曲である。もとより1986年・87年の2年間のみ制作され、イブの夜に放映されたクリスマス音楽特番「メリークリスマスショー」(日本テレビ系列)のエンディングテーマであった。当時はレコード化されることもなく、そのことがむしろ僕ら若い世代の胸に強く刻まれた要因でもあった。何事でも「幻の・・・」というのを人は見たり聞いたりしたくなるものだ。2012年7月になって、ようやく桑田佳祐さんのソロアルバムで初音源化された伝説の曲。それから11年が経過し今回、桑田佳祐&松任谷由実で再録音されたのは自著にとっても大変にありがたいことだった。

今年は例年以上に公私ともに忙しい日々であったが、ようやく少し落ち着いたこの日。夕食がてら1986年「メリークリスマスショー」をYouTubeで観なおした。桑田佳祐さんを中心に多様なミュージシャンがお互いの個性をぶつけ合う、個性の最たるものは泉谷しげるさん、さらにビデオ収録参加だが忌野清志郎などの姿も見える。その衝撃の力が、音楽を生み出し時代を切り拓く。何より出演者それぞれが、この番組収録そのものを楽しんでいる感じがいい。多くがワイングラスを片手にクリスマスパーティーの雰囲気を漂わせながら、自らが音楽とともに生きていることを露わにしていく。現在では「TV番組」そのものを若い人を中心に観なくなっているが(かくいう僕も昨夜はYouTube視聴者)、80年代はまだTVの力で社会を席巻することができたような時代だった。「ぶつかり合って和む」今やこんな楽しい時間を、多くの人が手離してしまったということだろうか。

クリスマス年末は石油ストーブの匂いだが
「化石燃料」を使用している自分を省みたり
諍いが多い時代になってしまった要因を僕らが生きてきた40年ぐらいで見定めるべきかも。


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あの頃の日本シリーズ

2023-10-30
少年時代、後楽園と巨人軍の宿泊先と
大学時代は阪神優勝に神宮球場のバイト先から動員が
秋晴れのもと行われていた日本シリーズ

土日は諸々と家ですべきことがあり買物以外の外出はせず、久しぶりに日本シリーズ第1戦・2戦のTV中継を観た。おかしなことに2試合で相互のチームが一方的に8対0となり、投手戦の僅差の試合になる予想に反してやや大味の試合になってしまった。僕が少年・青年時代の経験では、日本シリーズは1球が流れを変える大変に綿密な試合の記憶が多い。しかも1993年までは昼間に試合が行われていたゆえ、平日は学校や仕事と重なりつつ寸暇を惜しんで試合を観ていた記憶がある。確か中高教員の頃は未だ3学期制で、2学期中間試験の時期にあたり平日の日本シリーズが観やすかったという好条件も手伝っていた。

中学生の頃は実家が後楽園球場まで近いせいもあり、自転車でよく球場に赴いた。球場のみならず巨人軍が当時は縁起を担いでシリーズ中はある旅館に宿を取ることを知り、いわゆる「出待ち」(現在では禁止されていることが多い)をしに向かった。日本シリーズの試合が終わってから自宅を自転車で出ると、ちょうど旅館に選手らが帰ってくるタイミングに合う。そこでは王貞治さん・高田繁さんなど名だたる当時の選手たちと握手をすることができた。また大学生の頃は神宮球場でバイトをしていたので、ちょうど85年に阪神タイガースが優勝する可能性のある試合は21年ぶりということもあり警備を固める必要があったようで、バイト先から動員がかかったものだった。結局は大学祭の準備でバイトには行けなかったが、学祭準備の最中もラジオが手離せなかったのを記憶する。

ドーム球場が増えて気温調整ができTV視聴率が上がるゆえ
1994年の巨人対西武から平日はナイトゲーム、翌年から全試合が
平日土日を問わず秋晴れのもとで日本シリーズが行われていた祝祭的な雰囲気が懐かしい。


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自分を追い越して来た故郷で

2023-09-30
「ここが故郷🎶歌えニッポンの空」
紙芝居に生活作法まで自分を変えてくれた幼稚園
そしてまたヘアーファッションで人生の親友との出逢い

何歳になっても自分がどれだけ成長したか?などと日々に考えることがある。同時にこれまでの人生でどんな貴重な出逢いが、今の自分を作ってくれているか?などと考えることもある。誰しもが赤児の時は「親」の世界観の中で育てられるが、幼稚園や保育園という社会に出て行き次第にその世界観を追い越していくように思う。僕の場合は、登園しても母が帰ると頻りに泣き叫び周囲に連鎖を及ぼすほどであった。集団行動には遅れ、プールやかけっこも嫌いだった。だが紙芝居の「物語」が大好きになったり、発表会の合奏で「大太鼓」に起用されたり、次第に自分を追い越す契機が掴めた気がする。「物語」は現在の文学研究者の原点であり、「大太鼓」は音楽好きの基盤になっている。また手を石鹸で入念に洗い蛇口に泡が付いていたら、最後に水をかけて流すなど生活作法の多くを幼稚園で学んだ。僕の故郷には、現在もこうした教育方針を引き継ぐ幼稚園が「現代」という教育が混迷する時代にも燦然と向き合い続けているのが頼もしい。

中高大の思春期にも、自分を追い越す経験が幾多もあった。部活動や受験勉強が自分自身を鍛えてくれた。そんな中で「親の文化圏」から離れる経験もくり返したように思う。例えば、散髪に何処の「床屋」に行くかは大きな課題だったように思う。中高で部活動をしていた際は短髪にしていたので、親の仕事のお得意さんである「床屋さん」に行くのが常だった。大学に首尾よく入学しても、「床屋」でしばらくは「七三分け」みたいにしていた。だが中高男子校から文学部に入学した僕は、やはり恋に目覚め始めファッション雑誌などを読むようになった。そこで一番の問題はおしゃれな「ヘアーサロン」に鞍替えすることで、やはり「親文化圏」からの離脱に他ならない。その時、偶然にも実家から30秒程の場所にまさに「ヘアーファッション」と店名に冠する店が新規開店した。母親に律儀に新しい店で髪を切ると告げて、その店の扉を開いた。開店スタッフで同世代の一人と妙に馬が合い、次第に「専属担当」になり一番自分に合う髪型でおしゃれの道を歩むようになり今に至る。大学での学びなどとともに、20歳前後に髪型で自分を追い越した経験こそが、僕を形作って来てくれたといってよいだろう。

故郷にある人生の記念碑
これからまた恩返しをする機会を
親友と互いの人生を見つめ楽しむありがたき時間。


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北鎌倉の思い出

2023-09-29

小学校の遠足
「建長・円覚🎶古寺の〜」
雨の翌日で天園ハイキングコースの下り坂で転び

物事を運ぶときは冷静で慎重だと自負するのだが、人の内面は多重的であると思うこともある。東京では、小学校5年生の折に「社会科」で歴史を学ぶこともあり「鎌倉遠足」が行われるのが通例である。事前に「鎌倉幕府」のことを学び、音楽の時間には「鎌倉の歌(正式なタイトルではないと思うが)」も唄った。いよいよ遠足当日になり、地元の駅から東京駅で横須賀線に乗り換え北鎌倉駅で降りた。その時、なんともいえない歴史の素晴らしさを感じ取り、社会科がさらに好きになった。教科書に出ている「円覚寺舎利殿」を観てさらに感激し、僕はこういうことが学びたいんだと初めて思った経験だった。さらに建長寺まで歩いたので「鎌倉学園」の前を通ったわけだが、其処が桑田佳祐さんの母校だなんて当時は微塵も思っていなかった。もちろんサザンが鮮烈にデビューするのはその数年後なのだが、ある意味で僕の趣向に大きな縁と契機をもたらしたのは、あの北鎌倉の思い出だったのかもしれない。

遠足ではさらに建長寺の裏山に登り、やや険しい山道の「天園ハイキングコース」を歩いた。前日に雨が降っていて、先生方が思う以上に道はぬかるんでいた。僕は地図が大好きなせいもあってか、一番高いあたりからの鎌倉の歴史を想像させる景色は壮観であった。山道は次第に急な下りとなり、歴史を想像する楽しさを友だちと語り調子に乗ったのだろう。慎重な僕としたことが、足を滑らせて尻餅をつき衣服が泥だらけになってしまった。坂道を下り切るとアスファルとの公道に出たが、クラスの女の子などに泥だらけの衣服を見られのが恥かしく、傍に停車していた汚物処理の車の前で「臭いな〜」と照れ隠しで大声で言ってしまった。すると乗車していたおじさんが「臭いならあっち行け!クソ坊主」と大声で怒鳴り返された。ふと我に帰った僕は、とんでもない罵声を大声で言ってしまったと大変な自己嫌悪に陥った経験だった。もちろん帰りの横須賀線内も泥のついた衣服で乗車、そんな恥ずかしい経験が僕をさらに緻密に慎重にしたのかもしれない。

あの北鎌倉の思い出から何年が経ったのだろう
鎌倉学園出身の桑田さんこその「愛の言霊」「盆ギリ恋歌」
大きく自分を揺さぶった経験の中の鎌倉



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牧水『海の聲』と僕の湘南

2023-09-26
今も聞こえる海鳴りの響き
あの繋がっている海の先へ
牧水が身体で受け止めていた地球

こうして早朝に耳を澄ましていると、秋の優しい風とともに海の聲が聞こえてくる。家からほど近い公園の小高い丘に登れば、太平洋を拝むことができる。いつかこんな環境に住みたいと、若い頃から思っていた。東京在住時は「海」といえば湘南あたりまで行かなければ見られず、その響きも見た目も遠い存在だった。それだけに湘南の海へ行くと、妙な懐かしさにかられる時間だった。最も幼少の記憶は両親に江ノ島に車で連れて行ってもらい、おでんを食べて水族館で楽しんだものだ。海岸線の延長には刺激的な形をした茅ヶ崎の「ホテルパシフィック」が見えて、父が「加山雄三のホテルだ」と教えてくれた。あの幻想のようなホテルの影が、今もモノクロームのように僕の脳裏に焼き付いている。

牧水は第一歌集の名を『海の聲』にした。7歳まで海を見たことがなく、母に連れられて美々津の海を見たときの感激を後に文章に残している。12歳からの延岡生活では海のある街に住むことができ、大学で東京に行っても房総の海などを好んでいる。結婚後には妻・喜志子が病気になると三浦半島へしばらく転居したり、晩年は海と千本松原と富士山の光景が素晴らしい沼津を選んだ。山の奥深くで育った牧水が自然の本質を求めたとき、坪谷川から耳川を下り美々津で海に注ぐという原体験によって「海」に永遠の憧れを持ったのだろう。そんな意味では、牧水の「美々津」と僕の「湘南」は、海の原体験として永遠に生きているものなのかもしれない。寄せては返る波音を聞くとき、あの懐かしさは自分が生命をいただいたときの「母なる響き」を覚えるである。

湘南の江ノ島・宮崎の青島
僕の母なる海をいつも大切にしたい
今朝の海からの風は妙に心地よいのだ!


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あの頃の研究室ー恩師の年齢になって

2023-07-28
大学時代の研究室での研究会
先生の「喉が渇いたね」という一言から
大学近くの店になどくり出して・・・・・

大学学部の恩師は、母と同じ年齢だったので今も生きていらしたら80歳代になっていた。残念ながら72歳の折にこの世を去ったが、今もその声が聞こえて来るような気になることがある。研究会をしていて夕刻になると「喉が渇いたね」と先生は言う。それは言わずもがな「(みんなで)呑みに行かないか」という意味であった。現在とは異なり大学の環境も寛容なところがあって、研究室にもたくさんの茶碗とウイスキーが保管されていて『万葉集』の歌を講読しながら「はじめる」ことも少なくなかった。いわゆる「飲み会」が先生のもとでは日常から行われていたのだが、その場によって先生にも先輩にも多くのことを教えてもらった。卒業後も正月となれば必ず先生のご自宅に年始に伺い、かなりの大酒を呑んで終電で帰った。考えてみればいつしか僕自身が、あの頃の先生の年齢になっているのである。

現在はもちろん研究室(大学構内)で「はじめる」ことはご法度である。しかもこの3年間ぐらいは感染拡大で「飲み会」そのものの開催が控えられた。直近の昨年度でさえ、ゼミでは1回しか実施していない。思うのはかつて恩師が僕らにそうしてくれたように、僕自身がなるべくゼミ生と親しく語り合う時間を確保したいと常に願っていることだ。事実上、大学内で行うゼミの時間だけではまったく物足りない。教師としてのこころ構えでも、私的生活の話でも、はてまた実習への不安でも、自由に交流できる場が必要だ。などと考えて僕のゼミでは、なるべく「課外」の機会を設けるようにしている。恩師の思い出で印象深いのは、大変に気前が良いこと。店ではかなりの額を支出してくれていたし、場合によると早稲田ー高田馬場間のバス代七人分を出してくれたこともあった。あの頃の恩義に報いるためには、当時の恩師と同年代となったいまこそ学生との大切な時間を作り、恩師がしてくれたようにすることだと思っている。

自分が受けた「学び」は次の世代へ
語り合う時間を大切に作り出すこと
今もまた先生の笑い声が聞こえて来る。


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めばえ・げんてんーあの幼稚園の先生

2023-07-27
「心育」こころを育ててもらったあの頃
物心ついて初めての恋のような感情を抱いた物語
卒園幼稚園の現園長先生として宮崎へいらっしゃる

集団行動など「規律」という意味では、ダメダメだった幼稚園の頃。だが確実に「心育」を施していただき、現在の自分に繋がるめばえ(芽生え)があると回想できる。幼稚園は僕が現在の道に進む上で大きな原点となっている。文学研究をしているのもあの頃に紙芝居や絵本により大きな感動を与えてもらったから、その肉声で読み聞かせる素晴らしさから音声表現(朗読)研究にも踏み込んだ。「クリスマス」の著書を書いたのは「マッチ売りの少女」の紙芝居が原点、音楽と関連させたのもあの頃に楽器に向き合ったからだ。そして「ことば」は「心の耳で聞く」という短歌の原点のような姿勢もまた、当時の幼稚園園長の教えに由来するのではないかとさえ思う。ダメダメなことも多かった園児だったが、確実に未来に繋がる「あそび」によって「心」を育てていただいたのが僕の幼稚園の人生としての意義である。

現在もまた当時の園長の娘さんが園長として、「心育」の教育を引き継いでいる。僕が園児の時は年少の担任(自分の担任ではなかった)で、「日本の恋歌とクリスマス」に記した「初恋類型めばえ」として僕の内部に刻まれている先生だ。その現園長先生が、研修のために息子さんとともに宮崎を訪れた。妹の時に「ひまわり会会長」を務めた母に連絡があり、ぜひ会食の機会が持てればということでこの日を迎えた。不思議なのはその息子さんが、仕事の関係で宮崎にご縁があったということ。人生の原点に発する糸がどのように繁茂していくのか?誠に不思議でもあり必然でもあるドラマが待っている。この夜は昔話からさらにこれからの幼稚園まで、時間がまったく足りないほどの話が弾んだ。未来への話の中でも人と人とのご縁が不思議なほど繋がっており、母が築き上げた人間的な心の輪がさらに拡がりそうな予感を持った。幼稚園・保育園の頃には、何も早く「文字」「計算」ができればよいというのではない。人生という樹木の種となる「心」を芽生えさせる「あそび」にたくさん触れることだ。かつての園長はこう言っていた、「心を育てれば青少年の犯罪はなくなる」のだと。余裕なき効率化と詰め込みの発想から、この国はもういい加減に脱しなければなるまい。

母の人生の樹木として高く大きくそびえ立つ
さらにこれからも幼稚園に様々な繋がりで貢献したい
「人の心」が大好きな己を育ててくれた人生の恩師として


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