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お手製ハンバーグ作りへの期待

2023-02-07
幼稚園のお弁当の大好物
大学受験の際に胃もたれしないタンパク質
今また母が作るという意義を考えて

幼少の頃は偏食で「ハンバーグしか食べない」と、よく家族に言われていた記憶がある。刺身や寿司は、中学生ぐらいにならないと食べなかった。「胡瓜と蜜柑とぶどうで生きている」などと父方の祖母に言われた記憶もある。だが最近になって、ようやくわかったことがある。偏食は僕だけではなく、父が甚だしい偏食であることだ。野菜は食べず、好みも極端に偏っている。祖母からの家庭環境であろうが、こうした生活習慣が身体によろしいわけはない。大学以降は、僕自身の嗜好でほとんど好き嫌いはなくなった。それは自分自身の性格も同様で、自己開拓したせいもあるが社交的で人付き合いを重視するようになった。今にして考えると、僕が「偏食だ」とされていたのは父の隠れ蓑になっていたのではないかと思う。それにしても幼稚園の頃から、母が作るハンバーグが大好きになったのは確かである。

幼稚園の時、まだ暖房はガスストーブだった。周囲を柵で囲われた暖のそばに昼食が近づくと、各自が持参したお弁当が置かれて温められる慣習があった。その際に僕の弁当が温め終わって蓋が開けられると、ハンバーグが焦げていて幼稚園の先生方が困惑したことがあった。先生方は相談して近くのパン屋でパンを購入して、僕に食べさせてくれた。だが僕自身は「弁当のハンバーグは食べられる」とずっと思っていた。だいたいにしてストーブの近くに置くことで、中身のハンバーグが焦げるはずはない。僕が記憶している幼稚園の頃のハンバーグ騒動である。また鮮明な記憶があるのは、大学受験の時のお弁当だ。午後の試験を考慮して、胃もたれせずに良質なタンパク質が取れる弁当として、母のお手製ハンバーグ弁当の味は格別だった。母校の入試は科目間の休憩時間がひたすら長く、お腹の調整具合が重要だと考えていた。確か午後は「歴史(日本史選択)」だったと思うが、頭がよく働いたのを覚えている。今にして思えば、脳を働かせるためには「良質なタンパク質」が重要だと合格への根拠ある弁当であったのだ。さて、先週末の買物で母が「ハンバーグを作ってみる」と挽肉を購入していた。父の偏食は度を増しているので、その対策もあろうか。いやそれ以上に、母自身が「ハンバーグを作る」ことそのもので心も脳も活性化するだろうことが嬉しい。料理を工夫することは大きな達成感があって、心の健康に間違いなく好影響をもたらすと思うからだ。

僕はもちろん今でもハンバーグが好き
母のお手製ハンバーグで切り開いてきた人生の扉
生きるために料理に向き合うことの大切さを実感する。


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無停車鉄道ー動きながら考えること

2023-01-17
小学校の時に読んだ本にあった未来像
常に新陳代謝があることで生命は維持される
考えては動き、動きながら考える

小学校の時、図書館が好きで足繁く通うような毎日だった。在住の隣接区立図書館が、都電車庫跡に新たに開業したのでそちらへ徒歩10分ほど。今思えば区内在住者でなくともよいのか?と疑問もあるが、当該図書館では快く貸出カードも本を入れる黄色い手提げも提供され、数冊の本をいつも借りてきていた。その本の中で「無停車鉄道」という未来構想があるということを知った。電車が駅に近づくと、駅のホームごと動いて並走し客が乗降するというシステムだ。確かに理にはかなっていて自転車に乗ると妹と並走を試み、こういうことか!と現実に納得していた。電車は始動停止に一番電気を消費し、省エネであるという解説もあった。しかし考えてみれば、駅の敷地が膨大に長くなり、結局は移動するプラットホームを始動停止させる電気も必要になる。あれからかなりの年数が経過したが、構想が実現化していないのはどこか不合理もあったからだろう。

それにしても、夢を語り動きながら考えることは貴重なことだと学んだ経験となった。その後は、山手線の中で一瞬飛び上がったら自らの身体は後ろに下がるのか?とか様々な疑問が芽生えた。残念ながら中学校で物理を習った先生の授業が面白くなく、この分野に進むことはなかった。もとより、ことばと物語が好きだったのだろう。その後は「無停車鉄道」のことを、「行動と思考」の比喩のように考えることが多かった。ある意味で人間の生命は「無停車」である。深く「思考」をするあまり、「行動」ができなくなることは少なくない。だが「行動」を止めてしまうと、「思考」はそのまま停滞し「妄想」で終わってしまう危うさがある。「無停車鉄道」のように「動きながら行動し目的を叶える」ように進めていくことが得策であろう。動く方向が常に適切であるとは限らない、だがたとえ迂遠したとしても動いていることで錆びず固まらない思考に辿り着く。アントニオ猪木さんのことば「迷わず行けよ、行けばわかるさ」も、同想の考え方だろう。

流れに遅れず臆さず「やってみる」こと
そこに道がなくとも自ら動き道にすればいい
あれこれと物事を動かす爽快さを味わった1日であった。


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部活動こそ受験や将来に役立つ理由ー「自己開発」の経験として

2023-01-16
社会で活用できるちからとは
机上であれこれ考えるより現実の経験こそが考えを拡げてゆく
真に「活用できる学び」とは・・・

「部活動の経験が受験に役立った」昨日の小欄に記したことの背景と後日談の続編。高校3年生の折に志望校を受験することを表明すると、担任は「部活動を7月までしていたのに到底無理だ」といった趣旨のことを三者面談で告げた記憶がある。加えて「滑り止めを受験せよ」というススメがあった。だがその進言を僕は、受験講習会で出逢った著名な英語の先生を慕い、その先生の母校である志望校しか目指さないと徹底的に突っぱねた。担任はその先生の英語を「受験英語で本当の英語ではない」などと理屈を言って、自らを正当化しようとしていた。だが高校3年の僕はその先生の講義を微塵も逃さず毎週聞き続けることで、これぞ「受験を超えた学問」なのであると悟っていた。それは今現在考えても、僕の考えに理があると判断できる。どんなに著名な先生であっても、前向きに学ぶ姿勢で直接に向き合うことの大切さを学んでいた。

志望通り母校に合格した際の実感は、前文冒頭に記したことだった。部活動顧問や中高一貫の中学担任の先生は喜んでくれたし、校長などは手のひらを返したようにその後の全校朝礼等で「文武両道こそが大事」と僕の例を教訓に語っていたと云う。より厳密に考えれば「部活動の経験が」という点に注釈が必要だ。「部活動で不可能を可能にする体験を多く得た」「部活動で時間を有効に使用するコツに目覚めた」「部活動(特に器械体操部)で危険を顧みず前向きに挑戦することの尊さを知った」ということだろうか。中学校の野球部の時から「野球が上手くなるにはどうしたらよいか?」と常に考えて練習や日常の鍛錬をすることを身につけた。この習慣は即座に学習方法にも反映し、学校での成績上位につながり、大学受験勉強の際の計画にも役立った。要は部活動の経験で「自己開発」できるちからを、僕は自ら養っていたのだ。高校の際にあまり僕の意志を認めてくれなかった教師の存在は、僕が今でも「教育」に問題意識が高い文学研究者である契機にもなっている。人生とはどのような出会いが功を奏するか、まったくわからないものである。

高校教育・大学受験が真に「自己開発」に意義あるものであるか?
この問題はこの国の将来を担う若者の資質・能力に大きな影を落としてはいないか
「日本の凋落」が現実になりつつある今、肝心なのは将来を担う若者をどう育てるかである。


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塾がイヤだった午後

2023-01-15
部活がしたいのになぜ塾に?
中学校入学直後の率直な思い
自発的に学問への憧れで行った大学受験講習

毎年、この時期になると自らの受験体験を回想する。東京で生まれ育った僕にとって、最初の「受験」との出会いは幼稚園だった。確か「国立大学附属小学校」受験のための「講座」らしきものに参加したのだ。園は終わったのにホールに残り、保護者とともに面接形式でいくつかの「適性検査」のような練習をした記憶がある。しかし、家の仕事が忙しかった母がなかなか幼稚園まで足を運べず、「練習」をするブースに僕だけなかなか行かないで待った記憶もある。どうもその「義務感」というか「抑圧感」がイヤに感じたのだろう、「もうこれを受けるのはイヤだ」と母に言って僕の「お受験」はご破算になった。公立小学校に行って5年生後半ぐらいから、私立中学校受験の「日曜テスト」を受けるのに誘われた。あまり自発的ではなく「なんとなく」御茶ノ水駅近くの会場まで行った。

しばらくしてある大学系列の私立中高に「どうしても進学したい」という自発的な意志が生まれた。自転車で15分ぐらい2駅先の進学塾に日曜ごとに通う、しばらくして平日も3日間通うようになった。ここで頑張れたのは、あくまで自らの明るい将来像を描けたから。しかし、大願は成就されず第2志望の父の出身校に進学することになった。不合格の悔しさが僕の中に渦巻き、中学入学後も同じ塾の平日クラスに申し込みをした。だが数回ほど塾に行くために授業が終わって早々に帰宅する自分の姿に疑問を持った。クラスの友人はグラブを持って「野球部」の練習に行くのに、なぜ僕は塾なのだ?という大きな拒絶感が宿った。私立中学校への入学費用に加え、塾の費用まで支払ってくれた父母には誠に申し訳なかったが、理由を話して僕は「野球部の午後」を選択した。その時に決意したのは、学校の勉強に妥協しないことだった。その後は、ほとんど学年で1番・2番の成績を続けることができた。結果として中学の野球部、高校での器械体操部、その経験が大学受験の際に活かされた。適切な方法で的確に挑めば叶えたいことは叶う、という生き方に確信が持てたのだ。大学受験では、中学受験で不合格だった系列大学に自力で見事に合格することができた。

自らの意志こそが自らの生き方を開拓する
そして学びたい先生に徹底的に教えを受けること
「対策」ではなく「学びたい」を喚起する教育がこの国にはあまりに足りない。


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『なぎさホテル』(伊集院静)の夢

2022-12-11
「関東の海をじっくり見ていなかった」
逗子にあったという「なぎさホテル」に滞在し
人生が変わった男の物語

桑田佳祐さんの新曲「なぎさホテル」が耳について離れなくなり、歌詞についてもあれこれ咀嚼している。これはと思って同題の伊集院静さんの小説『なぎさホテル』を読み始めた。ある男が、関東で仕事にも結婚生活にも敗れ故郷の山口に帰ろうとしたが、「関東の海を少し見てから帰るか」と思い立ち逗子へ行き、偶発的な体験から新たな自分に出逢う物語である。夢に敗れた際に「海が見たい」と思うのは、ある意味で物語の定番である。特に僕ら関東で育った人間にとっては、湘南の海がその舞台となるのもお決まりの図式ではある。東京都内に住んでいると、決して湘南が近いわけではない。幼少時は父が車好きであったのも手伝って、江ノ島などに連れて行ってもらった記憶がある。島に渡る橋の手前におでん屋が何軒も連なる一角があって、そこで食べた「ちくわぶ」の味を今でも覚えている。その周辺には射的ができる店などもあり、父が何らかの人形を撃ち落としていた。「大人」になって、特に大学生になって免許を取ると自ら父の車を借り出して湘南へ向かった。自ずと誰も知らない「なぎさ」などを求め、逗子から三浦半島にも足を伸ばすことが多くなった。

湘南・鎌倉の雰囲気は絶対的にいい。小説はそんな環境の中で「物書き」という自らの才能に気づく男の物語でもある。もしその機会がなかったら、「自分自身」の真の「天命」に気付けないかもしれなかった男だ。ちょうど今年の大河ドラマを観ていると、あらためて鎌倉という場所は武人の野望と暗躍の渦巻いた壮絶な場所だと思えてくる。特に和歌好きであった三代将軍・実朝のことを考えるに、若きうちの暗殺による死において何よりもっと和歌が詠みたかっただろうと偲びたくなる。そんな生きた悔恨が、鎌倉には跳梁跋扈しているのであろう。彼の地へ行くと、何か大きな力に動かされるような感覚が昔からある。小説の表現からあれこれ想像を膨らませていたせいか、鎌倉から湘南をひとり歩きする夢をみた。「あの日の海辺」「あの日の店」遡れば雨上がりの山道で転んだ小学校の遠足の記憶もある。一曲の音楽から小説へ、想像の小旅行は実に面白い。

そして僕の海は青島海岸になった
牧水も憧れた「海」への思い
「なぎさホテル」たまらない感覚が僕の胸を打つ



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手先の器用さに対する思い

2022-11-10
幼稚園から絵画教室に通い
小学校では理科工作クラブにも
手先の器用な父のことをいつも意識しつつ

今度の13日(日)に宮崎市内にて、若山牧水に関するトーク&朗読と音楽会のコラボ企画が開催される。県内外で活躍される演奏家の方々が企画・主催し、今月3日に叙勲を受けたばかりである伊藤一彦先生とともに登壇をする誠に光栄な機会である。僕自身は「牧水トーク」に加えて、牧水の日常の声を再現するごとく親友宛の書簡を朗読する。あらためて『書簡集』を読み、若き日の恋や晩年になって母への思いが述べられている部分を選び出し、しばらくその呼吸感を考えていた。朗読箇所をPCであらためて文字として打ち込み、事あるごとにその「口調」を声に出して再現して来た。いよいよ前週となったので、PC打ち込み原稿を本番用に拡大しページ割をして綴じ込む作業をする段階になった。一昨日に附属中学校へ赴いた帰りに、書道専門店に立ち寄り表紙用の綺麗な料紙も購入した。午前中の非常勤先での講義を終えて研究室に帰り、大学生協でまずは板紙と製本テープを購入。教授会のない水曜の午後は、さながら製本加工の時間となった。

いつからか?「自分は不器用である」という先入観に支配されている。だが研究者となってから「思い込み」で判断してはならないことを悟り、自分のことでも「決めつけ」はしないようにした。もとより建築業に従事していた父は、実に手先が器用なのである。工事の寸法をわずかでも違わずに仕上げる腕は、見事なものだと子どもながらに感心することが頻繁にあった。また生活でも僕ら兄妹の耳掃除など、父の手先の器用さは随所に発揮されていた。大学時代に僕が工事現場に手伝いに行った際、床に貼る建築資材を「何メートルで切って来て」と職人さんに言われて、僕は材料を積み込んだ商用車でその作業を敢行した。確かに測ったつもりであったが、だいぶ長さが違っていたと後に職人さんが言っていたことを知った。まあ間違いなく性格的に「長め」に切ってしまったので、資材を使用することは可能であったはずだ。このように「不器用」を曝す経験がいくつか積み重なり、先入観が固定していた。だがこの日の作業、朗読用の製本はなかなかの仕上がりだと自負している。実は幼稚園頃から絵画教室で色使いを繊細にするとか、小学校の際の理科工作クラブで「ホーバークラフト(現代ならドローン)」を製作し実験を重ねていた経験もある。プラモデルで映画「トップガン」のF14戦闘機を、色まで塗って見事に仕上げたこともある。かくして「朗読本」が出来上がった。秋らしい色目の表紙となる料紙に題箋まで付し、落款を押して仕上げたのだった。

牧水の声をいま蘇らせる
書簡を元に仕上げた朗読本を片手に
3日前となったが今から公演が楽しみである。
(*ちなみにチケットは完売とのこと)


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再会を求めて探し当てる親友

2022-10-12
大学学部時代の友人
記憶にあるのは彼の結婚式に出席したこと
県立学校勤務で異動が公示される仕事ゆえ

その昔「それは秘密です」という番組が、お茶の間のゴールデンタイムに放映されていた。落語家・桂小金治が司会を務め、それなりの人気を博していた番組であったように思う。なぜか僕が幼少時の我が家では、幾つもの民放チャンネルがある中でこの番組を必ず観ていたと記憶する。現在のバラエティー番組のように下世話な芸人の盛り上がりではなく、まさに昭和感のある「人情」をテーマにした内容だった。番組は長年会えなくなった肉親・友人等を探すというのが目的で、出演する一般視聴者の「秘密」を語り大切に調査して再会を果たすという経過が披露されていく訳である。戦後30年ほどの時代であるゆえ、戦争前後で家族が離散したままの方々も多かったということだろう。僕の両親はこの番組を観て、必ず眼に涙を溢れさせ感激をしていたものだ。しかし、僕には「泣ける」理由がまだ幼少でよくわからなかった。母が特に甚だ泣くので、合わせなければと泣く真似をしていたような感じだった。未だ個人の情報網の少ない昭和ゆえ、この「再会」というものが実に稀少で大切なものだと、ようやくこの年齢になって想像ができるようになった気がする。

今週末は、「中古文学会」が対面開催される「山口大学」まで出張する。九州から山陽と近いようだが福岡経由で行くことになり、宮崎からは一度も訪れたことがない。せっかくの機会なので、大学時代の親友が山口県で教員をしているのが思い出された。以前に会ったのはいつのことだろう?記憶を遡り思い出せるのは、彼の結婚式に出席したことだ。忘れもしない阪神淡路大震災の1ヶ月後で大阪ー神戸間の鉄道が寸断されており、礼服をリックに背負って約11Kmを歩いて山口へ向かった。大学友人代表でスピーチも行い、友人や先輩と楽しい披露宴となったと記憶する。その折からすると今年で27年目、前述した「それは秘密です」の再会からするとまだまだの年数かもしれないが、ようやく人生の再会の意味が僕にもわかってきた気がする。年賀状などのやり取りも途絶えていたので、まずは彼への連絡をどうするか?と頭を悩ませた。幸い県立学校の教員なので「異動」がネット上で検索をすることができた。たぶん現勤務校だろうという学校を探し当て、この日は昼休みに電話を入れてみた。受話した事務の方が「どのようなご用件でしょうか?」と問われたので、正直に事情を話した。しばらくすると、電話口から親友の声がした。「(勤務先が)どうしてわかっちゃったんだ?」と彼は不思議そうであったが、簡潔に探した経過や僕の現状を伝え、ともかく次の日曜日に会うことを約束した。

人生のあの頃をともに生きた親友
27年の距離は僕たちに何を感じさせるだろうか?
研究学会を対面で各地に赴く意義はこんな点にもあった。


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エリザベス女王追悼

2022-09-24
若き日にバッキンガム宮殿前にて
映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」
英国を再認識した国葬に女王を悼み

1990年の新年を迎えた(日本時間)のは、ドーバー海峡上のホーバークラフトの船内(1989年12月31日夕刻)だった。ドーバーの白碧が聳り立つのを横目にして港に着岸し入国審査を受けると、かなり厳しい審査官に当たった不幸だろうか?滞在先を問題視された。当時は初任校の同僚が同校のロンドン校に出向していたので、そこへ転がり込む予定だった。だが事前調査もしておらず、「滞在先住所」がわからない。審査官は「不法就労」かのようなことを低音の声で語り、「入国を許さない」といった構えだった。もっとも髭面に革ジャンという出で立ちは、そう思わせることを助長していただろう。英語で必死に「私は日本の教員で同僚がロンドンで教員をやっている」ことを力説し続けた。時間にして15分間ほどはアピールしただろうか、僕の審査ブースの後は長蛇の列になっていた。最後には1週間後にパリから日本へ帰国する航空券を見せると、「不法就労」ではないことが理解されたらしくようやく入国の運びとなった。これが僕の「英国初体験」である。

ロンドン市内を巡り一番感激したのは、バッキンガム宮殿を前にした時。思わず「エリザベス!」と大声を上げると、同行していた同僚が「やめとけ」と制止した。何か得体の知れない感情が僕の中に湧き起こり、宮殿の主である女王陛下に「私は此処に来た」と知らせたい心境だった。入国審査の苦い思いも忘れ、幼少の頃から映像で観ていた女王の住んでいる場所に来た感情の高まりが抑えきれなくなったのだろう。この度の女王陛下の逝去にあたり、謹んでご冥福をお祈り申し上げたい。国葬の様子を映像で観ていて、再び英国に行ってみたくなった。そして入国審査の厳しさも、当地での料理の味も、オックスフォード大学の雰囲気も、なぜか僕らの親和性があるのではないかなどと考えるようになった。こんな思いから、昨日はドキュメンタリー映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」を観た。これまでの女王陛下の様々な場面での微笑み映像を精査し、「エリザベス」が君臨した時代を語る内容であり、抱いていた思いに納得することができた。天皇皇后両陛下とも関係の深い英国、日本でも自動車が左車線を走るように、明治以降の関係などからして今一度考えてみるべき時なのかもしれない。

もはやトンネルができてホーバークラフトは
あの頃から今日までのエリザベス女王陛下を偲び
英国のこの先に思いを馳せながら


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あらためて沖縄に寄り添うために

2022-09-13
「ちむどんどん」本土復帰前後の沖縄から
米国統治下の沖縄に行った叔母のこと
そして高校教員として修学旅行の引率を何度も

会員である短歌結社『心の花』誌・9月号に6月の歌稿が6首、「特選」となった。「選歌ルーム」欄の評においては、さらによくするための指摘・助言もあったが「沖縄の復帰50年を考えよ」というテーマを読んでいただけたのは、思いが伝わったという実感が持てた。幼少の頃に未だ米国統治下であった沖縄に、同居していた叔母が行くことになり「親族初の渡米」と家族の一大ニュースになったのを鮮明に記憶する。帰京後に撮影してきた写真や沖縄査証を見せてくれ、渡航するとはこんなに大変なのだと子ども心に思ったことがある。見せてもらった写真の多くは、「沖縄米軍基地」の現実のようなもので、B52戦略爆撃機が飛び立つところを室内から「隠れて撮った」と叔母は僕に懇切丁寧に解説してくれた。叔母の口上は幼少の僕には「面白く」感じることが多く、やや大仰に言っていたのであろう、「撮影がバレると捕まってフィルムが没収される」という趣旨のことまでも教えてくれた。その真偽のほどはわからないが、ベトナム戦争の基地として重要な拠点であったのは確かだろう。叔母が体験し僕に伝えてくれたことは、まさに「歴史」そのものだったのだ。

僕自身が高校3年生になっての修学旅行先が、在籍していた学校で初めて沖縄になった。戦跡を訪れ平和を祈り、やや疑問にも感じながら「摩文仁の丘」で集合写真を撮ったことを記憶する。「ひめゆり資料館」などではもっとじっくり見学したかったが、荒々しい男子校の連中が長くいい加減な気持ちで滞在するのは、むしろ憚られた気持ちもあった。その後はリゾート地に宿泊し、ただただ友人たちと楽しむ修学旅行であった。この際の自らが周囲に同調するために取った「平和への思い」のいい加減さ、それ以後の僕はそんな自分が許せなくなった。そこが「いい加減」であるから再び「戦争」の惨禍がやってくる、そんな罪悪感を持ちながら大人になった。この思いは、教員となって沖縄に生徒を引率する際にあらゆる形で晴らそうとした。「ひめゆり資料館」では学級の生徒らに「ひめゆり学徒の手記をじっくり読もう」と提案し、バスの集合時間に遅れた。ガマ(第二次世界大戦当時、島民が避難した自然の地下洞窟)での暗闇の体験では、感受性の強い生徒は身動きができなくなり、背負って担ぎ出したこともある。その沖縄が本土復帰して50年、果たして首都圏の高校の多くが修学旅行先に選んできた意義は、どれほど「沖縄へ寄り添う」ことに活きているのだろうか。

基地問題
唯一の地上戦が行われた日本国内の地として
「沖縄」にあらゆる犠牲を押し付けてきていることにまずは自覚的になるべきだ。


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どんな試験をやるべきなのだろう?

2022-08-06
約2年半の感染拡大で「レポート」ばかり
中高教員だった頃に課した試験も思い出しつつ
なぜ試験をやるのか?どんな試験をやるべきなのだろう?

僕が大学学部3年生の後期のこと、大学の授業料値上げに反対する学生自治会らしき組織が反対運動を起こし「試験」が実施できない事態となった。その際には全ての受講科目が「レポート」となり、大学から自宅にレポートと担当大学教員の自宅送り先一覧が送付された。大学という場を介せずとも担当教員へ単位取得の学力を証明するという方法として、大学側も手慣れている印象だった。学部の先輩らと話していると、「『・・・概論』はレポートでよかったね!」と言われたりした。当該科目は「試験」をすると、大量の単位不可が出ると有名であったらしい。確かにかなり頑張って担当教員宅へ郵送したレポートの評価は「良」であった。この経験からやはり「レポート」の方が単位取得という意味を考えると「安定株」ということになるのだろうか。この2年半ほどの感染拡大の状況下で、現在の僕の担当科目はWebシステム上への「レポート提出」にすることがほとんどだった。「手書きレポート→郵送」の時代からすると「個人情報」の問題も含めて隔世の感がある。今年度は「原則対面」が貫かれた前期、「定期試験」もコロナ以前のようにできるような感触があり、迷った挙句に「文学史」の担当科目は試験を実施した。教室で90分間を頑張って答案を書く学生らの姿を見ていて、やはり実施してよかったという感想を持った。

中高教員だった頃、同じ学年で「国語」を担当する教員が複数いた。「試験作成」も自ずと輪番となり「共通問題」を課すという慣習であった。転任したばかりで生徒の状況もわからない中、50分の試験時間を半分ぐらいで十分に書き終えて退屈そうにしている生徒が目立つのを監督をして目の当たりにした。試験問題の多くが単純な知識を問うもので、教科書準拠のワークブックの設問通りの問題も少なからず見られた。生徒らの学習姿勢として、ほとんど「国語は暗記科目」と思い込んでいる。その時、僕の「教師魂」に火がついた!果たして「このような試験でいいのだろうか?生徒は力を伸ばすのだろうか?」という強烈な問題意識に目覚めた。その後、僕と学年を一にする先生方からは、「採点者泣かせ」の問題を出題するようになった。まずはどんなに優秀な生徒でも「100点は取らせない」という戦いのような意識で作問した。自ずと記述設問が多くなり、試験中に問題文を多様に頭を働かせて再読しないと解けない問題である。正直、当初は生徒にも教員にも悪評であったが、次第にその学年の「国語成績」が実力テストなどで伸びてきていることに気づいた。「試験」に「試練」がなくてどうするのだろう?よく優秀なスポーツチームでは、「練習がキツくて試合は楽だ」という選手たちの感想があるものだ。こんなことを思い出しながら、大学の試験時間90分をフルに手書きの腕力を存分に使う学生たちに「実力」をつけるための「試験」を課し、あらためて満足した午後であった。

講義も含めて教員養成の「実力」がつく内容を
「試験を課す課される」という学生の経験としても
安易で採点がしやすい試験ほど学生を軽んじていると思うべきだろう。


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