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『なぎさホテル』(伊集院静)の夢

2022-12-11
「関東の海をじっくり見ていなかった」
逗子にあったという「なぎさホテル」に滞在し
人生が変わった男の物語

桑田佳祐さんの新曲「なぎさホテル」が耳について離れなくなり、歌詞についてもあれこれ咀嚼している。これはと思って同題の伊集院静さんの小説『なぎさホテル』を読み始めた。ある男が、関東で仕事にも結婚生活にも敗れ故郷の山口に帰ろうとしたが、「関東の海を少し見てから帰るか」と思い立ち逗子へ行き、偶発的な体験から新たな自分に出逢う物語である。夢に敗れた際に「海が見たい」と思うのは、ある意味で物語の定番である。特に僕ら関東で育った人間にとっては、湘南の海がその舞台となるのもお決まりの図式ではある。東京都内に住んでいると、決して湘南が近いわけではない。幼少時は父が車好きであったのも手伝って、江ノ島などに連れて行ってもらった記憶がある。島に渡る橋の手前におでん屋が何軒も連なる一角があって、そこで食べた「ちくわぶ」の味を今でも覚えている。その周辺には射的ができる店などもあり、父が何らかの人形を撃ち落としていた。「大人」になって、特に大学生になって免許を取ると自ら父の車を借り出して湘南へ向かった。自ずと誰も知らない「なぎさ」などを求め、逗子から三浦半島にも足を伸ばすことが多くなった。

湘南・鎌倉の雰囲気は絶対的にいい。小説はそんな環境の中で「物書き」という自らの才能に気づく男の物語でもある。もしその機会がなかったら、「自分自身」の真の「天命」に気付けないかもしれなかった男だ。ちょうど今年の大河ドラマを観ていると、あらためて鎌倉という場所は武人の野望と暗躍の渦巻いた壮絶な場所だと思えてくる。特に和歌好きであった三代将軍・実朝のことを考えるに、若きうちの暗殺による死において何よりもっと和歌が詠みたかっただろうと偲びたくなる。そんな生きた悔恨が、鎌倉には跳梁跋扈しているのであろう。彼の地へ行くと、何か大きな力に動かされるような感覚が昔からある。小説の表現からあれこれ想像を膨らませていたせいか、鎌倉から湘南をひとり歩きする夢をみた。「あの日の海辺」「あの日の店」遡れば雨上がりの山道で転んだ小学校の遠足の記憶もある。一曲の音楽から小説へ、想像の小旅行は実に面白い。

そして僕の海は青島海岸になった
牧水も憧れた「海」への思い
「なぎさホテル」たまらない感覚が僕の胸を打つ



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手先の器用さに対する思い

2022-11-10
幼稚園から絵画教室に通い
小学校では理科工作クラブにも
手先の器用な父のことをいつも意識しつつ

今度の13日(日)に宮崎市内にて、若山牧水に関するトーク&朗読と音楽会のコラボ企画が開催される。県内外で活躍される演奏家の方々が企画・主催し、今月3日に叙勲を受けたばかりである伊藤一彦先生とともに登壇をする誠に光栄な機会である。僕自身は「牧水トーク」に加えて、牧水の日常の声を再現するごとく親友宛の書簡を朗読する。あらためて『書簡集』を読み、若き日の恋や晩年になって母への思いが述べられている部分を選び出し、しばらくその呼吸感を考えていた。朗読箇所をPCであらためて文字として打ち込み、事あるごとにその「口調」を声に出して再現して来た。いよいよ前週となったので、PC打ち込み原稿を本番用に拡大しページ割をして綴じ込む作業をする段階になった。一昨日に附属中学校へ赴いた帰りに、書道専門店に立ち寄り表紙用の綺麗な料紙も購入した。午前中の非常勤先での講義を終えて研究室に帰り、大学生協でまずは板紙と製本テープを購入。教授会のない水曜の午後は、さながら製本加工の時間となった。

いつからか?「自分は不器用である」という先入観に支配されている。だが研究者となってから「思い込み」で判断してはならないことを悟り、自分のことでも「決めつけ」はしないようにした。もとより建築業に従事していた父は、実に手先が器用なのである。工事の寸法をわずかでも違わずに仕上げる腕は、見事なものだと子どもながらに感心することが頻繁にあった。また生活でも僕ら兄妹の耳掃除など、父の手先の器用さは随所に発揮されていた。大学時代に僕が工事現場に手伝いに行った際、床に貼る建築資材を「何メートルで切って来て」と職人さんに言われて、僕は材料を積み込んだ商用車でその作業を敢行した。確かに測ったつもりであったが、だいぶ長さが違っていたと後に職人さんが言っていたことを知った。まあ間違いなく性格的に「長め」に切ってしまったので、資材を使用することは可能であったはずだ。このように「不器用」を曝す経験がいくつか積み重なり、先入観が固定していた。だがこの日の作業、朗読用の製本はなかなかの仕上がりだと自負している。実は幼稚園頃から絵画教室で色使いを繊細にするとか、小学校の際の理科工作クラブで「ホーバークラフト(現代ならドローン)」を製作し実験を重ねていた経験もある。プラモデルで映画「トップガン」のF14戦闘機を、色まで塗って見事に仕上げたこともある。かくして「朗読本」が出来上がった。秋らしい色目の表紙となる料紙に題箋まで付し、落款を押して仕上げたのだった。

牧水の声をいま蘇らせる
書簡を元に仕上げた朗読本を片手に
3日前となったが今から公演が楽しみである。
(*ちなみにチケットは完売とのこと)


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再会を求めて探し当てる親友

2022-10-12
大学学部時代の友人
記憶にあるのは彼の結婚式に出席したこと
県立学校勤務で異動が公示される仕事ゆえ

その昔「それは秘密です」という番組が、お茶の間のゴールデンタイムに放映されていた。落語家・桂小金治が司会を務め、それなりの人気を博していた番組であったように思う。なぜか僕が幼少時の我が家では、幾つもの民放チャンネルがある中でこの番組を必ず観ていたと記憶する。現在のバラエティー番組のように下世話な芸人の盛り上がりではなく、まさに昭和感のある「人情」をテーマにした内容だった。番組は長年会えなくなった肉親・友人等を探すというのが目的で、出演する一般視聴者の「秘密」を語り大切に調査して再会を果たすという経過が披露されていく訳である。戦後30年ほどの時代であるゆえ、戦争前後で家族が離散したままの方々も多かったということだろう。僕の両親はこの番組を観て、必ず眼に涙を溢れさせ感激をしていたものだ。しかし、僕には「泣ける」理由がまだ幼少でよくわからなかった。母が特に甚だ泣くので、合わせなければと泣く真似をしていたような感じだった。未だ個人の情報網の少ない昭和ゆえ、この「再会」というものが実に稀少で大切なものだと、ようやくこの年齢になって想像ができるようになった気がする。

今週末は、「中古文学会」が対面開催される「山口大学」まで出張する。九州から山陽と近いようだが福岡経由で行くことになり、宮崎からは一度も訪れたことがない。せっかくの機会なので、大学時代の親友が山口県で教員をしているのが思い出された。以前に会ったのはいつのことだろう?記憶を遡り思い出せるのは、彼の結婚式に出席したことだ。忘れもしない阪神淡路大震災の1ヶ月後で大阪ー神戸間の鉄道が寸断されており、礼服をリックに背負って約11Kmを歩いて山口へ向かった。大学友人代表でスピーチも行い、友人や先輩と楽しい披露宴となったと記憶する。その折からすると今年で27年目、前述した「それは秘密です」の再会からするとまだまだの年数かもしれないが、ようやく人生の再会の意味が僕にもわかってきた気がする。年賀状などのやり取りも途絶えていたので、まずは彼への連絡をどうするか?と頭を悩ませた。幸い県立学校の教員なので「異動」がネット上で検索をすることができた。たぶん現勤務校だろうという学校を探し当て、この日は昼休みに電話を入れてみた。受話した事務の方が「どのようなご用件でしょうか?」と問われたので、正直に事情を話した。しばらくすると、電話口から親友の声がした。「(勤務先が)どうしてわかっちゃったんだ?」と彼は不思議そうであったが、簡潔に探した経過や僕の現状を伝え、ともかく次の日曜日に会うことを約束した。

人生のあの頃をともに生きた親友
27年の距離は僕たちに何を感じさせるだろうか?
研究学会を対面で各地に赴く意義はこんな点にもあった。


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エリザベス女王追悼

2022-09-24
若き日にバッキンガム宮殿前にて
映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」
英国を再認識した国葬に女王を悼み

1990年の新年を迎えた(日本時間)のは、ドーバー海峡上のホーバークラフトの船内(1989年12月31日夕刻)だった。ドーバーの白碧が聳り立つのを横目にして港に着岸し入国審査を受けると、かなり厳しい審査官に当たった不幸だろうか?滞在先を問題視された。当時は初任校の同僚が同校のロンドン校に出向していたので、そこへ転がり込む予定だった。だが事前調査もしておらず、「滞在先住所」がわからない。審査官は「不法就労」かのようなことを低音の声で語り、「入国を許さない」といった構えだった。もっとも髭面に革ジャンという出で立ちは、そう思わせることを助長していただろう。英語で必死に「私は日本の教員で同僚がロンドンで教員をやっている」ことを力説し続けた。時間にして15分間ほどはアピールしただろうか、僕の審査ブースの後は長蛇の列になっていた。最後には1週間後にパリから日本へ帰国する航空券を見せると、「不法就労」ではないことが理解されたらしくようやく入国の運びとなった。これが僕の「英国初体験」である。

ロンドン市内を巡り一番感激したのは、バッキンガム宮殿を前にした時。思わず「エリザベス!」と大声を上げると、同行していた同僚が「やめとけ」と制止した。何か得体の知れない感情が僕の中に湧き起こり、宮殿の主である女王陛下に「私は此処に来た」と知らせたい心境だった。入国審査の苦い思いも忘れ、幼少の頃から映像で観ていた女王の住んでいる場所に来た感情の高まりが抑えきれなくなったのだろう。この度の女王陛下の逝去にあたり、謹んでご冥福をお祈り申し上げたい。国葬の様子を映像で観ていて、再び英国に行ってみたくなった。そして入国審査の厳しさも、当地での料理の味も、オックスフォード大学の雰囲気も、なぜか僕らの親和性があるのではないかなどと考えるようになった。こんな思いから、昨日はドキュメンタリー映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」を観た。これまでの女王陛下の様々な場面での微笑み映像を精査し、「エリザベス」が君臨した時代を語る内容であり、抱いていた思いに納得することができた。天皇皇后両陛下とも関係の深い英国、日本でも自動車が左車線を走るように、明治以降の関係などからして今一度考えてみるべき時なのかもしれない。

もはやトンネルができてホーバークラフトは
あの頃から今日までのエリザベス女王陛下を偲び
英国のこの先に思いを馳せながら


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あらためて沖縄に寄り添うために

2022-09-13
「ちむどんどん」本土復帰前後の沖縄から
米国統治下の沖縄に行った叔母のこと
そして高校教員として修学旅行の引率を何度も

会員である短歌結社『心の花』誌・9月号に6月の歌稿が6首、「特選」となった。「選歌ルーム」欄の評においては、さらによくするための指摘・助言もあったが「沖縄の復帰50年を考えよ」というテーマを読んでいただけたのは、思いが伝わったという実感が持てた。幼少の頃に未だ米国統治下であった沖縄に、同居していた叔母が行くことになり「親族初の渡米」と家族の一大ニュースになったのを鮮明に記憶する。帰京後に撮影してきた写真や沖縄査証を見せてくれ、渡航するとはこんなに大変なのだと子ども心に思ったことがある。見せてもらった写真の多くは、「沖縄米軍基地」の現実のようなもので、B52戦略爆撃機が飛び立つところを室内から「隠れて撮った」と叔母は僕に懇切丁寧に解説してくれた。叔母の口上は幼少の僕には「面白く」感じることが多く、やや大仰に言っていたのであろう、「撮影がバレると捕まってフィルムが没収される」という趣旨のことまでも教えてくれた。その真偽のほどはわからないが、ベトナム戦争の基地として重要な拠点であったのは確かだろう。叔母が体験し僕に伝えてくれたことは、まさに「歴史」そのものだったのだ。

僕自身が高校3年生になっての修学旅行先が、在籍していた学校で初めて沖縄になった。戦跡を訪れ平和を祈り、やや疑問にも感じながら「摩文仁の丘」で集合写真を撮ったことを記憶する。「ひめゆり資料館」などではもっとじっくり見学したかったが、荒々しい男子校の連中が長くいい加減な気持ちで滞在するのは、むしろ憚られた気持ちもあった。その後はリゾート地に宿泊し、ただただ友人たちと楽しむ修学旅行であった。この際の自らが周囲に同調するために取った「平和への思い」のいい加減さ、それ以後の僕はそんな自分が許せなくなった。そこが「いい加減」であるから再び「戦争」の惨禍がやってくる、そんな罪悪感を持ちながら大人になった。この思いは、教員となって沖縄に生徒を引率する際にあらゆる形で晴らそうとした。「ひめゆり資料館」では学級の生徒らに「ひめゆり学徒の手記をじっくり読もう」と提案し、バスの集合時間に遅れた。ガマ(第二次世界大戦当時、島民が避難した自然の地下洞窟)での暗闇の体験では、感受性の強い生徒は身動きができなくなり、背負って担ぎ出したこともある。その沖縄が本土復帰して50年、果たして首都圏の高校の多くが修学旅行先に選んできた意義は、どれほど「沖縄へ寄り添う」ことに活きているのだろうか。

基地問題
唯一の地上戦が行われた日本国内の地として
「沖縄」にあらゆる犠牲を押し付けてきていることにまずは自覚的になるべきだ。


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どんな試験をやるべきなのだろう?

2022-08-06
約2年半の感染拡大で「レポート」ばかり
中高教員だった頃に課した試験も思い出しつつ
なぜ試験をやるのか?どんな試験をやるべきなのだろう?

僕が大学学部3年生の後期のこと、大学の授業料値上げに反対する学生自治会らしき組織が反対運動を起こし「試験」が実施できない事態となった。その際には全ての受講科目が「レポート」となり、大学から自宅にレポートと担当大学教員の自宅送り先一覧が送付された。大学という場を介せずとも担当教員へ単位取得の学力を証明するという方法として、大学側も手慣れている印象だった。学部の先輩らと話していると、「『・・・概論』はレポートでよかったね!」と言われたりした。当該科目は「試験」をすると、大量の単位不可が出ると有名であったらしい。確かにかなり頑張って担当教員宅へ郵送したレポートの評価は「良」であった。この経験からやはり「レポート」の方が単位取得という意味を考えると「安定株」ということになるのだろうか。この2年半ほどの感染拡大の状況下で、現在の僕の担当科目はWebシステム上への「レポート提出」にすることがほとんどだった。「手書きレポート→郵送」の時代からすると「個人情報」の問題も含めて隔世の感がある。今年度は「原則対面」が貫かれた前期、「定期試験」もコロナ以前のようにできるような感触があり、迷った挙句に「文学史」の担当科目は試験を実施した。教室で90分間を頑張って答案を書く学生らの姿を見ていて、やはり実施してよかったという感想を持った。

中高教員だった頃、同じ学年で「国語」を担当する教員が複数いた。「試験作成」も自ずと輪番となり「共通問題」を課すという慣習であった。転任したばかりで生徒の状況もわからない中、50分の試験時間を半分ぐらいで十分に書き終えて退屈そうにしている生徒が目立つのを監督をして目の当たりにした。試験問題の多くが単純な知識を問うもので、教科書準拠のワークブックの設問通りの問題も少なからず見られた。生徒らの学習姿勢として、ほとんど「国語は暗記科目」と思い込んでいる。その時、僕の「教師魂」に火がついた!果たして「このような試験でいいのだろうか?生徒は力を伸ばすのだろうか?」という強烈な問題意識に目覚めた。その後、僕と学年を一にする先生方からは、「採点者泣かせ」の問題を出題するようになった。まずはどんなに優秀な生徒でも「100点は取らせない」という戦いのような意識で作問した。自ずと記述設問が多くなり、試験中に問題文を多様に頭を働かせて再読しないと解けない問題である。正直、当初は生徒にも教員にも悪評であったが、次第にその学年の「国語成績」が実力テストなどで伸びてきていることに気づいた。「試験」に「試練」がなくてどうするのだろう?よく優秀なスポーツチームでは、「練習がキツくて試合は楽だ」という選手たちの感想があるものだ。こんなことを思い出しながら、大学の試験時間90分をフルに手書きの腕力を存分に使う学生たちに「実力」をつけるための「試験」を課し、あらためて満足した午後であった。

講義も含めて教員養成の「実力」がつく内容を
「試験を課す課される」という学生の経験としても
安易で採点がしやすい試験ほど学生を軽んじていると思うべきだろう。


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写真と記憶とー保存されているものを活かす

2022-07-25
スマホが日常携帯化して誰もがいつでも写真を
スマホには「容量」があるが人間の記憶はどうなのだろう?
蘇るあのシャツ・蘇る親戚の面々

現代社会はスマホの普及によって、いつでもどこでもどんなことでも「写真」に残せるようになった。たぶん「誰かがカメラを所持していなければ写真が撮れなかった」時代から、「写ルンです」など「箱型簡易カメラ」の時代を経て、時間進行とともに世の中の写真は激増しているはずである。それだけにスマホで撮影して「終わり」という簡易さが、「写真は貴重なもの」という意識を薄くさせたのも確かである。正直なかなかスマホ内の写真を整理することはなく、振り返る機会も少なくなったのではないだろうか。「カメラ(写真機)」の時代であれば、フィルムを街のカメラ店に出して現像が出来上がるまでが楽しみで、仕上がると様々に身近な人と話し合いながら楽しんだものだ。僕は「写真撮影」という「保存方法」をことさら大切に思っていた傾向があり、小学生の時に無理矢理に母にせがんで「カメラ」を買ってもらった記憶がある。小学校の学級内で「新聞委員」を務めていたこともあり、区内の公園などを「取材」と称して出かけては「撮影」をして「記事を書く」などしていた。「事実を写真に残す」という意識が大変に強かったと振り返ることができる。

母が久しぶりに昔の写真を引っ張り出したというので、ともにしばらく見て語り合う時間をとった。主に母方の親戚との幼少時の写真で、見るたびに当時の記憶が蘇ってくる。時折不思議に思うのは、このように写真があるから記憶も鮮明に刻まれ続けてきたのか?それとも記憶が特段にいいのか?自分では判断がつかないことである。あらためて写真を見ると、その際に着ていた「シャツ」がお気に入りであるとか、その際に「叔母さんが迎えにきた」とか鮮明に記憶として蘇るのである。スマホでは「写真保存容量」としてデータ量に制限があるが、人間の脳の「保存容量」の無限さを感じる。またそれぞれの写真に映る人々が、蘇るのも大きな意義だ。親戚の人々は「こういう人であった」など、既に鬼籍に入った人などを回想することに魂の供養という意味合いもあるだろう。更にいえば、母方の親戚を辿ると江戸時代生まれの曽祖父、明治初年生まれの曽祖母の存在を確認できて、「近現代150年」の歴史の中に自分が生きていることが位置付けられる。このような意味で誠に写真を見返すことは、重要な人生の確認作業だと思う。小学校の修学旅行の集合写真などもあって、「日光東照宮」を背景に学友が顔を並べる。思わず「当時はこの女の子が好きだった」などと思い返し、叶わぬ恋の経験も「再読」することができた。「過去」は決して失われるものではない、「あの日々」の蓄積の上に僕たちは生きているのである。

笑うのが下手だった少年時代
多くの人々に支えられて笑顔の自分になって来た
生きることの年輪を時に再起動させる必要がある。


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正直に向き合って何が悪いのか?

2022-07-12
「世の中はそんなもんだ」という言い方
世論とか世間体とか得体の知れない流れにしがみつくより
自らの信念と自らの目と耳で正面から正直に向き合うということ

子どもの頃、近所に比較的仲のよい同級生がいた。大手寝具会社社員の親を持つその同級生とは、社宅に行ったり寝具会社内に遊びに行ったりとまあ「友だち」と呼べる間柄だった。ある意味で「大手会社」とは?その社員とはこんなものか?という幼少時の体験であった。正直に自営業に向き合う僕の両親との差も感じたのだろう。だが僕は「大手会社」よりも、自らの両親の営みに誇りを持っていた。正直に地道に日々の営みを続ける、そんな両親の姿から多くを学んだ。小学校も中学年になり、その同級生と近所の公園で遊んでいた時のことだ。「かけっこの勝負」をしようと向こうから提案があった。僕は何も言わずにその「勝負」を受けた。いざスタートしてみると、明らかに僕の方が足が速かった。スタートの合図を彼がかけるにもかかわらず、僕は出足から圧倒した。すると彼は「今のは練習」と言って、劣勢な「勝負」を勝手にあって無き物にした。再スタートに僕は無言で応じたが、それでもまた明らかに僕の足は彼を圧倒した。再び「これは練習」と彼は「自分が優位にならない現実」を受け入れようとしなかった。その後も数回くり返されたであろうか、やる気が萎えた僕はスタートから走りを緩めてようやく「作られた勝負」が成立した。明らかに「僕は勝った」という自信を持って、その後に彼と遊ぶことはほとんどなくなった。

前述のことがその後も大人になるまで、こうして今でも鮮明な記憶にある。「お前はズルい」と言うべきであったのか?という自己嫌悪も伴う。だがその時に根付いたものは、「正直な実力は裏切らない(他人は裏切っても)」という自己の熱い思いであった。社会的な体裁よりも「人生は実力」だと思った子どもの頃の経験である。参議院議員選挙が開票され新たな議席が確定した。TV報道で様々な当選議員の弁を聞くことになるが、果たして顔の見える有権者一人ひとりに向き合い大切にしようとする議員はどれほどいるのだろう?と思ってしまう。企業や団体など大きな組織に依存し票を集め、投票行動をしてくれた「有権者個々」より「国のため」という人たち。選挙という制度は、僕たちの代弁者として生活の実情を国会に届ける人を選ぶための「民主主義」によるものだ。だがしかし「集団横並び」を好むこの列島の人々の意識が反映してか、「組織票」という実情がその結果にも見え隠れしている。「大手会社」に身を寄せ、「個の思い」よりも会社の論理が優先する中での生き方。そんな「没個我」な生き方は僕には受け入れられない。長く中高教員として勤めてきたが、何より考えるのは向き合う「現場の生徒一人ひとり」である。「学校」の論理が優先して生徒個々が呑み込まれそうな時、僕はいつも会議で異を唱えた記憶が鮮明だ。正直で何が悪いのだろう?一人ひとりの現場を見据えた信念を貫く生き方から、また多くを学ばせてもらったように思う。

正直に背を伸ばして機嫌よく
僕はいつも自らの走る力を試してきた
母校でもなく所属先でもない「僕個人はどれほど走れるのか」を常に問いたいものだ。


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あの頃の気持ちいくつか〜リーダーになりたい思い

2022-07-07
小学校の学級委員長は「内閣総理大臣」とされた
部活動と生徒会長の両立はなるか?
幹事長と連盟展覧会委員長など両方できるものか?

一定の年齢になると、「早生まれ」にある種の優越感が伴うようになった。年齢の2桁目が加算される時など、同級生より9ヶ月は遅く「歳をとる」からである。生きている総時間数は同級生に追いつけないが、ゆえに健康長寿を心がけた生活を意識すべきかもしれない。近所の親友が次のようなことを言った。「死を意識すれば生活は濃くなる」確かにそうだ。「明日、死ぬとしたら何を食べたいか」という「最後の晩餐」の理屈に顕著なように、財産を遺してもあの世には持っていけない。同様なことは中世の『徒然草』などでもよく語られていて、「無常」を意識してこそ「現世」での生き様は充実すると云う。「早生まれ」の体験に話を戻そう。幼稚園から小学校3年生ぐらいまでは、誠に引っ込み思案で集団に付いていけず学習なども遅れ気味な存在であった。だが4年生ぐらいからなぜか「学級委員」になりたい気持ちが芽生えた。当時の担任の先生が「学級委員」のことを「内閣総理大臣」と呼ぶように社会(公民)意識を持たせようとしていて、「僕は内閣総理大臣になりたい」という願望を強く持った。だがそれは簡単ではなく、1学期も2学期も優秀そうな級友に及ばずだったが、3学期になってようやく僕は「総理大臣」になることができた。

中学校に入ると野球部の副主将、高校に入ると部活に熱中しつつ「生徒会長」に立候補した。文化祭をもっと盛り上げたいと全校朝礼で演説したが、その後の選挙で落選した。怪我の功名か、さらに広い世界を知りたいという願望が高まり、高校時代は部活と大学受験との両立に専念できた。その結果、第一志望の大学に合格しさらに大きな人生の転機を迎えた。全国から優秀な学生が集まっている母校で、その荒波の中でも目立つ「リーダー的な存在」になりたいといつしか思うようになっていた。その結果、文学部日本文学専修の「学生研究班代表」を務めることになった。片やサークルでは、3年次に幹事長、さらには東京10大学の連盟の書道展覧会実行委員長も兼ねて務めることになった。サークル内では前例がなかったのだろう、「会内が疎かになる」と懸念されたが、親友が「副幹事長」をうまくこなしてくれて、自分では支障なくそれぞれの「長」を務め上げることができたと自負している。なぜにここまで自分は「・・・長」たる仕事を吸い寄せるのか?などと当時は勢いで何事も猛進していた時代だった。もしあの頃、「研究」だけで本にばかり向き合っていたら?どんな人生になっていたのだろう。「何より今、いまを濃く生きる」という宮崎の親友の言葉に、ふとこんな過去の経験を思い出した。

「いま」を生きる密度を考える
未来への不安で「いま」」を無駄にしてはいないか?
コロナでも世情の不安があっても「陽はまた昇る」のである。


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見逃し配信を活かして

2022-06-15
放映から7日間はスマホで簡単に
時間に制約されず録画予約なども必要なく
TVそのものが退行するわけも理解できるような

仕事の時間帯にどうしても見たいTV番組がある場合、テレビ機材に接続したDVDレコーダーで予約録画というのが通例であった。録画という行為は遡ればVHSの時代を含めてもう40年ほど前からであろうか。録画をVHSのテープにしていた頃、TVと録画デッキを置く機材の周辺にはVHSカセットが溢れ出してなかなか整理がつかない状態であった。さらに遡ると録画などできない時代があった。僕などは小学生の頃、英会話教室に通い教材を聞くための「テープレコーダー」を購入してもらい、それに付属するマイクをTVに向けて録音して聞き直していたことがあった。今も覚えているのは、「8時だよっ!全員集合」で加藤茶が「ちょっとだけよ」をする音を録音して楽しんでいた。はてまた中村敦夫主演の「木枯らし紋次郎」(こちらも土曜夜10時の放映であった)の主題歌「誰かが風の中で」(歌:上條恒彦)を録音していると、映像で野宿する「紋次郎」の姿を見て思わず妹が「うち(家)だって?」と声を上げたものまでが録音された記憶がある。このように幼少時から録画して保存し楽しみたいという思いを叶えることのくり返しであった。

昨日、午後2時から放映された「新日本紀行・空海の旅」(2021年に放送した内容らしい)を観たいと思ったが、朝の出勤の慌しさに紛れて録画予約を忘れてしまった。昼前後までは雨が甚だしく、昼休みに帰宅して設定するのも儘ならなかった。そこで思いついたのが「見逃し配信」という方法、最近はよく番組の合間などに宣伝もしており登録すれば無料で利用できると云う。(もっとも当局への受信料は適切に納入しているのだが)早速に登録をするとスマホ用のアプリまであって、様々な番組が放映から7日間はWeb上で配信されているというものだ。これは誠に便利!日曜日早朝の「短歌」も早起きせずに学べ、吉田類さんの「日本百低山」も昼休みに興じることができる。もはや指定された時間に目当ての番組を、無理して観る必要もなくなったというわけである。中高生頃までVHSさえもまだない頃は、いい番組があると無理して学校から早く帰ったりした過去が嘘のような夢の番組配信システムである。これでこそ「受信料」の「元を取った」気が十分にしてくるというものだ。今後は「録画予約」に悩まされず、様々な番組を見逃すことなく楽しめる。

コロナ禍でさらなる進化をしたWeb配信
時間に制約されず自分のスタイルを貫ける
BSで放映される有料番組を楽しむ時間は僕にはなかった。


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