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原稿の反応ー原稿の契機

2023-07-04
提出した原稿へのありがたい所感
「愛がある」という讃辞は誠に気分が良く
そして新たな原稿の契機を作る時間を優先する

この世に生きる以上、誰しもが「承認欲求」があるだろう。自分は何を成したのか?その成果がどれほど価値があるか?どんな影響を他者に与えるか?何も研究などに限らず、日常生活や家族の中でも「我」の存在感を相互に認め合うことが実に大切だと最近おもう。幼児でも何かができるようになると「見て!見て!」と要求するあれで、大人は「わかったよ」と思っても「すごいね!」と見てあげてコメントを返してあげる必要がある。もとより僕などは中高国語教員になって、その授業がどれほど評価されるべきものか?と自らに問い返したところから研究への道を歩むことができた。中高教員としては運動部顧問などもしていたが、すぐに戦績が物を言うゆえ執心した時期もあった。やはり「自分がどんな仕事を成したか」を認めて欲しいのである。

週末に推敲を仕上げ送った原稿の担当者から、その内容を讃えるメール返信が届いていた。ある意味で「宮崎への愛」を心の支えとして書いたものなので、その通り伝わってまさに甚だ承認欲求が満たされた気持ちになった。書いた原稿をこの世で最初に読んだ方が、このような反応をしてくれることのありがたさ、だから「物書き」はやめられない。昨日の小欄に記したように、「文の奥行き」があるゆえの反応であったと意図が伝わった喜びもある。その喜びに乗じて、この日は授業準備の前にしばらく次の原稿を書くための素材を探る作業に集中できた。原稿への反応が次の原稿の契機を作り出す、好循環が廻り始めた感覚であった。だがしかし、注意しなければならないのは、自ら「認めろ!認めろ!」という姿勢の仕事は、大抵が棘があって周囲に受け入れられないことが少なくない。「自己承認」とは、自らが欲求を捨て去り自らが集中して柔軟に物事に向き合ってこそ認められることを忘れてはならない。

講義にゆけば学生への讃辞を忘れず
課題を課したら必ず反応を書き込むこと
それにしても原稿を書く快感をさらに飛躍させたいと思っている。


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語り合うちからー対話による理解のために

2023-04-14
「聞くこと=理解」という静寂な授業
否、聞いただけでは真の理解に至らず
話すちからで理解を自分自身のものに

「静粛」従来は教室でも図書館でも、この姿勢が日常であった。授業であれば先生の話を静寂に聞く、話をせず黙りに黙って集中してこそ理解が高くなると信じて疑われなかった。図書館であれば「静かに独りで本を読む」、それが何より知識が得られ学ぶが進むと信じられていた。だが果たしてその常識は本当に「常識」なのだろうか?そんな疑問から、授業は「喋る時間」であり図書館は「語り合う場」になりつつある。授業で学ぼうとする知識は、殻に籠って習得するのではなく、他者と語り合う対話活動があってこそ真に自分のものになる。図書館で調べる課題は、書物で調べつつ語り合うことで自分たちの発想に有効に活用できるようになる。

「語り合うちから」は講義やゼミでは必須の活動としている。例えば、「古典を読む意義」についてもまずは個人思考をする時間を取り、その後は他の受講者と語り合う対話の時間を取る。その後は語り合い班ごとに出てきた話題を紹介して全体に共有する。個人思考の際の考え方に班別の語り合いや全体共有で得られた他者の考え方を融合して、最後は今一度自分自身と語り合い講義レポートを仕上げる。概ね講義は、このような流れで展開する。ゼミでも僕自身の指摘だけに終わらぬように、他のゼミ生との対話によって自身の発表内容がより深く自覚され新たに気づくことも多くなる。もとより原始の農耕・狩猟生活の頃から、人間の知恵というのは「協働」によって高められてきたはずなのだ。

声に出すー他者と語り合う
「井戸端会議」にはお互いの活性化があったはず
「黙せず、語り合う」物事は風穴を開けずして豊かにならない。


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サーバントリーダー〜個別傾聴共感コミニケーション

2023-03-28
組織の一人ひとりの話に耳を傾ける
上意下逹ではなく個々の最適な力を引き出すために
構成する個々に主体性があってこそ組織は活性化する

「サーバントリーダー」聞きなれない言葉であるが、『現代用語の基礎知識2019』に見出しがあり「部下を支えて協働できるリーダー」とある。「サーバント」は元々は「召し使い。使用人」(『日本国語大辞典第二版』)の意味で、「パブリックサーバント」とは「公務員」のことである。英和辞典を繰ると「servant」には「(ある目的・用途のために)役立つもの(動物・道具・機械)」(『ランダムハウス英和大辞典』)の意味見出しもある。どうやら心理学的な分野から使用され始めたようだが、組織のリーダーが頭ごなしに命令的に振る舞うのではなく、構成する個々人の考えに傾聴し共感することで組織をまとめていく姿勢のことを言うようだ。このリーダー像を僕たちは、この1ヶ月間で目の当たりにして来た。そう!WBC日本代表の栗山監督のチームにおけるリーダーシップのあり方である。その姿勢は、代表入りした日本プロ野球やMLB選手たちを結束させ、何よりも個々のスペックを最大限に発揮させたと言ってよいだろう。

もちろん、その栗山監督を長年信頼して来たダルビッシュ有や大谷翔平が組織を活性化させたのも確かだろう。大谷翔平がベーブルースまで遡らなければ成功例がないほどの「二刀流」を、プロ入団時から支えて来たのは何を隠そう栗山監督である。この大谷との信頼関係一つをとってもそうだが、やはり本人の意志を尊重し可能性や周囲の抵抗を溶解させ納得して進まなければ成り立たなかったことだろう。少年野球や高校野球では、未だに監督が絶対者でありその意のままに動くことが強要される悪弊がしつこく存在するものだが、日本野球が米国を倒し世界一になるためには新たな監督像が必要だったと言い換えてもよい。昨今の組織では「トップダウン」こそが効率的で活性化させるような誤謬もはびこる世の中だが、特に個々の構成員のスペックが高い場合にこそサーバントリーダーの存在が大切になるように思われる。まさに誰一人取り残さず、スタッフなど下支えする方々にも敬意を忘れない姿勢こそが、組織を新たな次元に引き上げるのである。

中高教員時代にクラスや部活でやって来たこと
個を尊重し耳を傾け共感して主体性と協調性を引き出すこと
構成員を「サーバント」にして来たこの国の危うい慣習を今こそ断ち切るべきだ。


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質問はクレームにあらずー考えを擦り合わせること

2022-12-23
質問や意見を言うことは先方への敬意
双方の思いが擦り合わされて考えが先に進む
質問のできる学生を育てるために

大学学部・大学院を通して母校から学びを受けた大きな点は、「質問をする姿勢」かもしれない。研究室での発表においても学年や年齢を問わず、妥協のない質問がくり返される環境で育った。学部の指導教授は自説に安易に迎合する発言などをすると、大いに𠮟咤されたものだ。大学院では現職教員として在籍した僕だが、むしろ学部卒院生と平等に扱って欲しいといった趣旨を願い出ていた。年齢は下となる研究室の先輩方は、まさに妥協なく僕の研究発表に厳しい質問や意見を提示してくれて大いに鍛えられた。研究発表をして見解を提示すれば、必ず少なからず疑問が伴うものだ。疑問を呈されて初めて、自分の主張の妥当性とか甘さを自覚できる。「culture(文化)」には「耕す」という語源があると受験英語の単語集で学んだが、まさに研究は「耕され」てこそ「文化」に昇華するわけだ。よって僕自身も心がけていることだが、母校の先輩後輩は研究学会でもよく質問をしている。学会に参加する意義は、「質問・意見」を言ってこそと思う。

「質問・意見」を言うことを欧米の文化では、「先方に敬意を示す」ことだと捉えられる。主張を精密に捉え尊重するがゆえに、「質問・意見」が出るというわけである。ところが日本社会では「質問・意見」を「クレーム」と混同してしまう人々が少なからずいる。よく会議の発言でも冒頭に「異論があるわけではないのですが・・・」と断りを入れる人も目立つ。反対に「質問・意見」は相手の主張を敬意をもって「開墾」するためのものだが、明らかに「否定ありき」で反論されるとズラしながら「否定し続ける」ような場面に遭遇することがある。いずれにしても「主張する者への敬意」なき、「質問・意見」の物言いに思えて潔さがない。「擦り合わせる」という言い方があるが、物理的にも当然ながら摩擦が生じる。その「摩擦」はむしろエネルギー源になり、主張する者を活性化させる力になるものだ。「擦り合わせる」ことで主張した者も、「質問・意見」を述べた者も、それまでに気づかなかった点に気づくことができる。これでこそ初めて「対話」と呼べる創造的な向上になるわけである。ゼミを始め日常の講義で、学生たちにも適切に「質問・意見」が言える資質を身につけさせることは、大学での学びの大きな役割だと自覚している。

意見が言える環境を作ることも
相互に「質問・意見」が出ない予定調和な「報告」では
少しでも物事を前に向けて動かすための「質問・意見」こそ平和をつくる。


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「関係の質」を高めるということ

2022-11-02
「対立・押し付け・命令・指示」が増える(関係)
「創造的思考」がなくなり「受け身で聞く」だけ(思考)
「自発的・積極的」に行動しない(行動)

妻が研修で学んだことから、「組織の成功循環モデル(By:ダニエル・キム、MIT教授)」を知った。これによれば「組織の結果を高める」ためには「関係の質を高める」ことが肝要だと云う。冒頭3行に記したのが「悪循環」の3要素で、その先では「さらに成果が上がらない」ことになり「関係がより悪化」して「なすり合い」や「自己防衛」に走ることになる訳である。実に驚いたことには、この「組織論」はそのまま「学校の学級や授業」に的確に当て嵌まるということだ。先生が「対立的」に「押しつけ」て「命令・指示」をする学級では、必然的に「児童・生徒間」でも他者抑圧的な言動が蔓延るのであると、学部のプロジェクト研究報告会の発表で聞いた。すると授業でも「創造的思考」はなくなり、黙って「受け身で聞くだけ」となる。その先で児童・生徒が「自発的・積極的な行動」をすることはない。ひたすら「指示待ち」となり学級は沈滞する。現在標榜されている「主体的・対話的深い学び」とは正反対な学習とならざるを得ない。

どんなに高次元の学習指導案を構築したとしても、指導者と学習者が「関係の質」を高めなければ「良質な結果」が出ることはない。前述した「悪循環」の反対を行えば、自ずと好循環となる。それは「互いに尊重し結果を認め一緒に考える」(関係の質)から「気づきがあり共有され当事者意識がある」(思考の質)となり「自発的・積極的に挑戦・行動する」(行動の質)に展開し「成果が出て」くると「信頼関係が深まる」ことに至り「さらに良い発案が生まれる」という訳である。このことはふと、夫婦間という小さな単位の「組織」でもいえるのではないかと思った。些細な家事においても「互いに尊重し結果を認め一緒に考え行動する」ことを心がけることで、「なすり合い」や「自己防衛」に走ることはなくなる。例えば夕飯を作るにしても「当事者意識」があれば、「自発的・積極的に挑戦・行動」をすることができるわけだ。10月から11月となった気の変転から、思いがけずこのような意識を持って家事に取り組んでみた。ともに忙しい中において、「なすり合い」や「自己防衛」は最悪な図式である。世間でも好循環を成している組織を、僕は自ずと選択をして利用するようにしているようにも思った。

相互の尊重と協働で考えるということ
一部の者に負担が集中すれば自ずと疲弊し危うい結果に至るものだ
まずはあなたの身近にいる人との「関係の質」を変えてみませんか。


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スマートウォッチの功罪

2022-09-01
電話を先方にかける時間を選ぶか?
メールは?ラインは?いつ投げてもよいのか?
情報を腕に巻いているスマートウォッチの功罪

ほぼ限定されているが、電話によって連絡や情報交換をしている相手方がいる。おおよそ先方の好ましい時間帯が何年ものやり取りの中で掴めており、その時間帯に掛ければほぼほぼ受話してくれる。たとえ受話いただけない場合でも、ほぼ30分以内には掛け直しの電話をいただける。タイミングに迷うことなく、連絡の「ホットライン(各国首脳を結ぶ直通電話・かつての米ソ間が始まりと云う)」のようで重宝している。反対に迷惑な電話に関していえば、研究室にかかるダイレクトコールの勧誘系が煩わしい。恐らくは僕の名前すら知らないような口ぶりだが、こちらが内線電話かという意識で受話すると妙に親しげに話し出す。ひとたび受話のタイミングで(内線事務連絡と思うので)名を告げると、2度目には「ご無沙汰してます!・・さん」と知り合い気取りだ。研究室という場所柄をまったくわきまえておらず、集中を途切れさせ余計な憤怒をせねばならず大きな迷惑である。仮に大変に優秀なものを扱う企業にしても、こうした失礼な手法を取る者からの話に乗る気は120%ない。

スマホと連動するスマートウォッチをするようになって、2年半ほど経つだろうか。制限しているものもあるのだが、スマホに情報が入ると連動して知らせてくれる。予定情報のリマインド機能などは、実施の1時間前にお知らせが来るので予定をやり過ごすこともない。前述した電話のようにほぼ決まった時間帯に来る母のLINEなどは、その日の安心が得られてありがたい。またスマホを所持していなくとも、その日の歩数が計測でき日常トレーニングの目標と達成度を確認するのに大変に有効である。その一方で、公の肝心な場面で思わぬLINEなどを受けることもある。その内容の一部がウォッチに表示され「知ってしまう」ことで、公の司会で動揺した経験もある。情報が氾濫することで、僕らはそれを受け取る機会を選べなくなってきている。あらためて「情報の手錠」のようでもあるスマートウォッチの設定は見直すべきかなどと考えている。それにしても、スマホ・ウォッチと財布やチケット機能の融合が進んでいる。ほぼ現金などなくとも、スマホ系とカードを所持していれば十分。いや、カードさえスマホの中に格納されつつある。あと5年10年でどこまで進化するのだろう?うまい情報との付き合い方が望まれる。

僕らが子どもの頃の未来を腕に装着している
その利を十分に身のために活かすには
電話で話すこと、それはそれで相互の意思疎通として大変に重要であると思う。


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とことん実践主義ー教員みずからがやるということ

2022-08-04
音読も文芸創作もはてまた演技まで
授業で導入する活動は教員がやってこそ
ゆえに理論に閉じず活動に開いた教員養成を

「読み聞かせ」という用語が、お仕着せがましく大嫌いである。ゼミ生が卒論で扱うたびに、「読み語り」という用語を使用したらどうか?と提案している。子どもたちに「聞かせる」という「受け身」な姿勢を取らせ、どこか「読む者」が上から構える姿勢を想像させる用語を改めたい。絵本そのものを含めて「読み語る」空間では対等な関係があり、絵本は素材として読み手は伝達者として聞き手は反応者としていずれも主体的でありたい。叶うならば、この三者が融和する空間へと導くのが「読み語り」の対話的な理想である。語り手は絵本世界そのものになり、聞き手をその世界へ誘う。こんな関係があらゆる〈国語教室〉で実現したら、より楽しい「国語教育」になるだろう。だがしかし現実の〈教室〉では、旧態依然な「読み聞かせ」の理念のままの授業が横行しがちである。特に「音読」や「文芸創作」においては、「児童生徒」には「やらせる」が自らは「やらない」という場合が多いのだ。その結果、「創作の指導ができない」などという声を多く聞くのだが、創作指導がしたいならまずは自らが「実践」することである。

中高教員を長くやって来た経験から学んだことは「とことん実践主義」、生徒と同じ目線で自らが「やる」ということである。「音読」も「朗読劇」もそして「創作」も、活動として授業に導入することは自らが経験するのが原則だ。この考えは「国語授業」のみに止まらない。部活動でソフトボール部の顧問をしていたが、守備練習の「ノック(守備練習に有効な打球をバットで打つ行為)」はもちろん打撃練習の「投手」も自らが買って出る。野球経験はあったものの、初任の頃は上手くできないことが多かった。「ノック」でフライが上手く上がるか、特に「キャッチャーフライ」は難易度が高く、練習後のグランドで一人で練習をくり返したこともある。また打撃投手で練習に有効なボール(打ち頃なストライク)を投げてやる技術は思った以上に難しい。中学校からの経験者の生徒に呆れられることもあったが、僕はめげずに練習ボールを投げ続けた。その結果、いつしか思ったところにソフトボール独特の投法で投げることができるようになっていた。また文化祭を盛り上げたいという実行委員長がクラスの生徒にいた時、要望に応えて校庭の野外ステージでサザンの曲を熱唱したこともある。あくまで生徒の目線で自らも実践する主義なのである。この考え方は今でも生きている。例えば、現在いついかなる際に小中高どの学校種でも「授業をしてください」と言われたら、いつでも買って出る自信がある。「とことん実践主義」僕の「一教員」としての人生を貫く信条である。

大学の授業こそ「探究的学び」を
様々に厳しい状況がある教育現場にどう応えるか?
自らが実作をしないで和歌短歌をどうして読めるのだろう。


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なぜ覚えられているのか?ー馴染みになるためのことば

2022-05-28
飲食店をはじめあらゆるお店などで
些細な一言が心をつなぐ契機になる
しばらく行けなかったお店の笑顔の嬉しさ

しばらく行けていなかった街中のうどん屋さんに行った。かつて教育実習委員会副委員長を担当していた頃、仕事の用件で頻繁に附属学校に行く必要があり、その頃から大変にお店のご夫婦と親しくなった。たぶん間違いなくその天ぷらは宮崎でも指折り、東京なら2倍の値段でも売れる人気商品だろう。天丼としてあるが具材は海老のみならず各種野菜にきのこ類まで、ほとんど天ぷら盛り丼と呼んだ方がよい絶品だ。現に皿に天ぷらを盛っておにぎりが付く選択も可能、痩せた海老に幻滅するチェーン系丼とは大違いの個人経営店である。この日は久しぶりに妻と出向いたが、いつもと変わらず笑顔で奥様が迎えてくれた。前述したような美味しさゆえに昼時などは入店するのも困難で、限られた駐車場に入庫させるのにも苦労する。それでも何より、奥様の対応とカウンター内で調理している旦那さんの素朴な表情に惹かれる。

よく妻や友人に「なぜそんなにお店の人と仲良くなるのか?」と問われることがある。自分でも「なぜ?」はよく分からない。だがたぶん会計の際やちょっとした折に、何らかの一言を投げかけるからだと思う節はある。この日も「久しぶりですね」という奥様に、「ここのところオンライン会議も多くてね」とやや言い訳めいてあまり街まで出てこない理由を告げた。長くダラダラと話すのもお店には迷惑、その時の事情や時節を捉えた最短で効果的な内容が大切である。同時に事務的な言葉ではダメで、相手の心の琴線に触れる言葉が必要だと思う。とはいえ何も技術的・作為的に、そんな一言を投げかけているわけではない。あくまで自然に出て来る一言であることが肝要だ。子どもの頃に父母と買い物や飲食店に行くと、会計後などに母が何やらお店の人と話しているのが気になっていた。当時は引っ込み思案だった僕は「なぜお金を払ったのに話を続けているのだろう?」と不思議にも思った。だが年齢とともに話すのが大好きになった僕は、当時の母と同じことをしているように思う今日この頃である。

馴染みになりたい宮崎のお店
どこも人々の優しさに満ちている
Web上の無機質な世界とは違う人と人との温もりを大切にしたい。


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「物語に基づく医療」に学ぶ人文学

2022-01-06
「ナラティブ・ベースド・メディシン」
「ナラティブ=朗読による物語文学・語り」
細分化された研究をつなぐ「物語」を

友人のフリーライターがTwitterに投稿していた「ナラティブ・ベースド・メディシン(Narrative Based Medicine)」という用語が大変に気になった。彼は医療系の出版社に勤務した経験がありその方面の知識が豊富で、医療では重要視されて久しい方法だと云う。『デジタル大辞泉』をくると「患者が語る病の体験を、医師が真摯に聞き、理解を深め、また対話を通して問題解決に向けた新しい物語を創り出すこと。医療の質の向上、治療の促進が期待される。(エビデンスベースドメディシン)を補完するものとして提唱されている。」とある。補足するならば「エビデンス」は最近よく使われる外来語だが「科学的根拠」という意味、「科学的に検証された最新の研究成果に基づく医療の実践」のことである。友人は『泣ける日本史』(文響社)という自著について語って曰く、「日本史も細分化された研究をつなぐ『物語』が、カオスを迎えた今、特に必要とされている。」とTwitterでの弁舌は熱い。

考えてみれば僕が若い頃は受診した際の医師の対応に不満を抱くことが少なくなかったが、最近は実に良好なコミニュケーションを取ってくれる医師が多くなった印象だ。もっとも僕自身がそうした可能性のある医師を、選んでいるからかもしれないのだが。少なくとも僕が宮崎で蜂に刺されて救急に駆け込んだ際(医師を選べない)も、看護師さんも医師も「僕が蜂に刺された物語」を十分に聞いてくれた。その「対話」によって、刺されてからの時間や蜂の種類などの危険性を把握してくれたように思う。医療でこうした方法が重要視されているのに、「物語」を研究する本家本元の人文学ではむしろようやくそれに「気づいた」程度の段階まで来たようで情けなさを禁じ得ない。文学も史学も研究が細分化され精緻化されたことによって、それをつなぐ「物語」が語られなくなった。ダイナミックな研究が消えた反動は中高の学びにも影響を与え、「精読主義」に偏り文法や語彙にのみこだわり「物語を読まない」国語授業を増産してしまった。小学校の前半までは「物語」が好きだった子どもたちは、後半ぐらいから「読む技術」という名の「物語の解体」に曝されて興味を失ってしまう。「物語」はもちろん「短歌」の中にも読める。短歌一首からどんな物語を想像できるか?そこに対話が生じ短歌そのものの奥行きが問われていく。「創作課題制作型学習」の意義を、医療の面から証明してくれたような話題であった。

人に物語あり
「医療」も「文学」も「人がいかに生きるか」を支える
魯迅が医療から文学に転じた理由がわかる気がする。


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小言や意見を言うことが大切な理由

2021-10-22
小言や意見は相手を尊重しているがゆえ
そこが自分を変えていける大きな契機
忌憚なく言ってこその教育

怒れない社会になった。それゆえか、意義ある「怒ること」と非難・中傷の区別がつかなくもなっている。特に日本社会では「当たり障りのない」ことが、公にまかり通るようになった。「見て見ぬ振り」が反転して、暗躍する輩はどんな卑怯な手段を使っても隠し通す社会だ。今筆者は「・・・なった」と書いたが、昔から「知らぬが仏、知るが煩悩」「知らぬが仏、見ぬが極楽」という諺があるように、軋轢を生むよりも「見て見ぬ振り」をするか、敢えて踏み込んだ物言いをしないことが求められた社会なのかもしれない。直近での流行語でいえば「空気が読めない(KY)」なども、この類のうるさいことは言わない同調圧力を求めるものだ。だが表面的に「怒らない」一方で、ネット上の匿名での誹謗中傷が高揚してしまう社会。体裁を繕い陰で攻撃する陰湿さが増長する社会だ。欧米の若者たちの地球温暖化への非難デモとか、差別問題に毅然と立ち上がる姿を報道で目にすると、日本の高校生らでも運動をしているものがいない訳ではないが、あくまで少数派であるように思う。むしろ「出る杭」にならないために、ただ入試に合格するためだけを考えて若い時間を空費しているようにも見える。これが選挙で投票率の上がらない理由にもなってやしないか。「正統なる社会」を求める行動がこの国では危ういのだ。

親しい友人ががネット記事「”思い”の伝わる注意の仕方を欠かせないこと」を引用しつつ、「三項関係」の大切さについて投稿していてなるほどと思った。記事にはあるCAが先輩から再三の小言・苦言を受けた経験談があって、その小言の延長上には「お客様の背中に熱い飲み物をこぼさない」ための万全の配慮が根付くためという大きな目的・意義があることにようやく気づけたという内容だった。少なくとも「プロ」の仕事をするに当たっては、妥協のない育成が欠かせない。ならば僕が携わっている日々の学生への教育では、「子どもたちに熱湯をかけてしまうような(←ここはCAの話題に関連した比喩ですので念のため)絶望を与えるような言動を教室でしないため」の心構えの根底を学部で養わねばなるまい。指導者が教材を調べ尽くしてこそ授業ができること、児童・生徒にも小言や意見を忌憚なく言わないと育たないと理解すること、嫌われることを避けずに小言をくり返すことが卒業の時に児童・生徒に感謝されること、そこに教師冥利があること、等々を日常から学生に伝えるべきと考えている。昨日から演習の学生発表が始まったが、発表後にクラスの学生らから様々な質問が出たことは、前述したような教育を施した成果のように感じられて納得感があった。それゆえに発表資料内容が十分調べられていない場合には、存分に学生たちに小言・意見を忌憚なく言うように心掛けている。それが常識となる社会にするためには、まず眼の前の学生たちにそのように接することだ。

筋断裂をさせるのが筋トレ、ゆえに筋肉は育まれる
意見を言ってこそ相手を尊重しているのだ
未来の社会に絶望しないために。


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