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ホットラインを大切に

2020-09-13
携帯で連絡を取り合う人
あなたは何人おりますか?
声の交流を大切にしたくなるお相手とは

昨今は、「携帯」という呼称から「スマホ」という方が適切になった。「携帯」といえば所謂「ガラケー」のことで、それ自体がかなり稀少になった印象を受ける。僕の親族を見回しても、父ぐらいであろうか。「スマホ」にするのはいわば「通話機能」以外のWeb機能を優先して使うことと言い換えてもよいだろう。実際問題として、母との主要な連絡方法はLINEである。辞書機能やWeb記事閲覧に動画検索、母もかなりのスマホユーザーになった。しかし話を聞くと、叔母や友人らと電話で長話をすることもあると云う。スマホ使用ながら、電話との両立ユーザーだと思う。そんな訳で僕自身が「通話機能」を使用するのは、かなり限られたお相手ということになった。

「ホットライン」という言葉がある。『日本国語大辞典第二版』に拠れば、「二か国の政府首脳が緊急の際に直接対話できるように設置される直通の通信線。」とあり、1963年に米ソ間に結ばれたのが最初で「事故や誤解による戦争の防止のため」とあるので「冷戦」の産物なのであろう。もちろん「一般に、非常用の直通電話線」という第二義も表示してある。もはや他国間でもWeb会議などが通例となったコロナ禍の今、「ホットライン」の存在やいかに?そこで僕などはスマホの通話機能で貴重な連絡を取り合うお相手を頭の中で「ホットライン」と勝手に位置付けていた。「貴重」なだけに先方がどのような状況に置かれているか?という想像をかなりした上で「発信」ボタンに手をかける。その内容からは、いつもこれから進みゆく道を示唆していただくことばかりである。業社を除き僕が「通話機能」を使用する唯一のお相手かもしれない。本来の「ホットライン」とは意味合いは大きく違うが、僕の中で「熱い思い」が起動する通話として、いつまでも大切にしたいと思っている。

声でこそ伝わる熱い思い
時に通話の利点も再認識すべき
書簡のように記録に残らないが実に貴重な内容がそこにある。


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「ちがうもん!チンパンくんだもん」怒らんでね

2020-07-09
絵本を見ている幼い子どもたちの会話として
A:「(これは)オサルサン?」
B:「ちがうもん!チンパンくんだもん!」と言い返す

鶴見俊輔『文章心得帖』(ちくま学芸文庫)を読むと、冒頭に記したような幼い子どもたちの会話を例として、我々の会話表現の中に潜む醜さが指摘されていた。研究者(専門家)であればあるほど、微細な差異にこだわるあまり相手との会話を台無しにしてしまっている例である。Aの子どもの方がBよりも幼いという想定だが、概ね「類人猿」という意味で「オサルサン?」という発言は「誤り」ではないはずである。だが、Aの子どもより少しだけ知識のあるBの子どもは、その僅かな知識をひけらかして「(類人猿の中でも特定され)チンパンジーなんだ!」と聊かの怒りを持って反応している。発達著しい幼少期は特に、僅かな知識があるのを相手の現状をわきまえずにぶつけてしまうことが一般的だ。具体例として、まさに秀逸な「文章心得」であった。

我々は前述した「Bの子ども」を笑えない、否、笑ってはなるまい。日常会話の中で同様の会話を台無しにする発言を、してしまっていることが少なくないからだ。研究者(専門家)として「相手より知識がある」ことは当然でありながら、僅かに知っていることを「笠に着て」相手を否定したりしている。例えば、野球の始球式で経験のない人が捕手まで投球が届くだけで秀逸なのに、「このコースのストライク(でなければならない)」などと腹を立てているに等しい行為に思える。これは何も研究者に限ったことではないが、専門分野ならまだしも聞き齧った知識を「知っている顔」をして言い散らすほど醜いものはない。自戒を込めて敢えて記すならば、よく妻が会話の中で「怒って言わないで」と反応することがある。それは僕が「ちがうもん!チンパンくんだもん!」と醜さを露呈しているはずなのだ。愛する妻の投げる球なら、どんなコースでも捕球できるのが「プロの捕手」ではないのだろうか。

真に「知っている人」は他者に誇示しない
「笠に着て」=「他人の権勢をたのんで威張る」と辞書にある
「よくわかったね!オサルサンだよね!」


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顔を思い浮かべて読む聞く

2020-05-14
遠隔講義での課題文書
学生の個々の顔を思い浮かべて読む
尊敬する師よりの電話なら語る顔を思い浮かべて聞く

遠隔講義で求めた課題、特に国語専門科目については個々にコメントを付して再びWeb上の遠隔共有システムに添付して返却をする。Wordファイルにて共有するためにコメント挿入機能が使用できて、手書きよりも入念にコメントしてしまう。だが、PCソフトの機能のみならず、学生たちの文章の内容に触発されて対話的にコメントが増量して来ている自己の作用にも気づいた。昨年度の講義で顔を合わせていた学生たちなら、なおさら個々の顔と意見の特長が一致してきて、あらためて彼らとともに豊かな対話がしたいという気持ちが頭を擡げた。現在のコロナ禍について文学(古典・物語)との関連で述べる課題項目に何人かの学生がカミュの『ペスト』を読んだ所感を記していて、人間と社会の不条理について書いていたことにも嬉しい期待を抱いた。

課題のための課題という範疇に陥らず国語専攻の学生たちの文章は、実に情報の受信者である僕に対してメッセージ性に富むものであった。書簡などを読む際は当然であるが、文書を読む際に相手の顔が思い浮かべられるか否かは相互伝達性の上で実に大きな違いがある。これほど電子メールやLINEなどのSNSが普及した社会に至り、親しい仲でも文字だけの断片的な伝達が中心となり、画面上のアイコンを見ても仮想の「顔」のみしかない。この状況下で学生たちが個々の意見を〈教室〉で語っているかのように課題文書を読むことに大きな意義を感じる。昼休みに至り、尊敬する師よりお電話をいただいた。その常に温厚な語り口に、研究室の周囲の景色よりも先生が語る顔が眼前に立ち現れて来た。さながらICT遠隔テレビ電話を、人間の想像力で脳裏に創ってしまうかのようだった。文学に向き合い嗜んで来た人間にとって、AIなど最先端機器を超える想像力が武器になる、などとも考える昼のひと時であった。

文豪や歌人の手紙には同じような作用が
「人」が「人」に届ける思いを込めた文書のあたたかさ
現代に生きる学生たちに伝えていきたいこと。


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オンライン会議という現実の未来

2020-05-01
メール会議にオンライン会議
文字上での議論と表情と声の議論と
僕たちの未来は何処へ向かうのか?

理事を務める所属学会では今月の理事会が中止となり、事務局から提案された議案書に基づく「メール会議」が行われた。基本的に「全員へ返信」機能を使用し、提起した意見は理事全員が読めるようにする中で、今後の例会や大会のあり方やオンラインの使用などまで、様々な先生方の意見に接することができた。「文字」のみで行われることで、むしろ論点は明確になり学会のこれまでのあり方が浮き彫りになったような印象を持った。これまで「メール会議」というと、確認し承認するのみのあまり議論を要さない内容のものが多かったせいか、あまりその効用までは感じられなかった。だが論旨や根拠を明確にし、さながら「長いチャット」のような印象で、各先生方の学会への思い入れといった「志」をも感得することができた。

基本的に在宅勤務となっている学内では、Web会議システムを利用したオンライン会議を開催した。構成員の先生方の顔がPCのカメラで映し出され、発言ごとに音声が聞こえてくるわけで、画面上でほぼ「生会議」同様の議事が進行した。飛沫防止いわゆる「接触」無くして会議が進行できるので、この度のウイルス対策にはもってこいのシステムである。幼少の頃に「ウルトラセブン」などで、基地本部のモニターにウルトラ警備隊幹部の映像が映し出され、隊長以下隊員たちが指令を受ける場面などをよく観た。また隊員が装着している大きめの腕時計で現場と本部が映像・音声で繋がり、顔を見ながら状況報告をする装備に憧れた。今やPC・タブレット・スマホ・スマートウォッチなどで当時のSFは現実のものとなっている。会議は滞りなく進行し、システムの不具合などもなかった。もちろんこのWebシステムを使用し、今後は比較的少人数の授業やゼミを実施することになる。さて?それでは今まで「対面」で実施していた会議は何だったのだろうか?今後はそんな「過去」の意義を問い続けることから、人類の歴史を深く考えていく時代になったのかもしれない。

オンライン会議で失ったものは何だろう?
対面会議でこそ得られるものは何だったんだ?
既存・既得にもう戻れない現実を僕たちはどう生きようか。


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この温度差をどうしようか?

2020-04-09
「新型コロナ」をどう捉えているか?
実に深刻なのか、未だ安易に思っているか
情報の捉え方や個人の考え方、そして生きる姿勢

7都府県に「緊急事態宣言」が発出され、親戚・親友や知人らの生活はどうなっているのか?宮崎からの往来も自粛要請が出ていることもあり、精神的にもやや遠い世界になってしまった印象も拭えない。この世界的な惨禍の現状をいかに捉えて行動するか?これからの生き方までもを左右する重大な局面に、僕たちは立たされているのだろう。だがTV報道などを観ていても、個人個人の捉え方に大きな温度差があるようにも思う。「コミュニケーション」の考え方は時代とともに変化しているが、「上手く説明すれば聞き手に伝わる」というのは旧態依然とした態度である。「聞く側が自ら主体的に意味を創り上げる」ことが最近の考え方である。いかに「上手く話す」ことができても、それは発話者の自己満足に過ぎない。聞く側が同じ次元で言葉を理解しているとは限らないのである。今回でもこうしたコミュニケーションの温度差をひしひしと感じる。

在校生オリエンテーションを実施し、各学年の会の冒頭で「新型コロナ対応」を強く訴えた。なぜ2週間の授業延期が設定されているのか?それは宮崎に集まった学生たちに自宅待機を要請し健康観察をしつつ、前期の学修準備をしてもらうためである。自分が感染者だとしたら今朝の起床からここまで拡げないように行動をしているか?また今その机の上にウィルスがあったらこの後にどういう行動をするか?などの具体的な内容で危機感が共有できるように促した。「若者は重症化しない」というのもまだ何も判っていないこと。世界では10代で命を落とした者もおり、一説によると「500人に1人の若者」が死亡するという報告もある。世界で誰も何も「判っていない」ことと我々は向き合っている。ならば、最悪に危険な事態を想定して予防措置を取らないと危ういことを意識してもらいたいと思う。全員がマスクを装着した多くの学生の眼を見て、意識を「主体的に意味づけ」をしたと感得できる状況も看て取れた。それでもなお、昼休みの中庭で何人かの「三密」が見られ、誠にこの温度差こそが僕らの向き合っている現実の難しさであるとも痛感した1日であった。

取り越し苦労でも「危機感高い系」でありたい
あらゆる人間のシステム構造を試すかのように
このウィルスは強敵かつしたたかである


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笑いは涙の裏側で

2020-04-01
作り込んだ芸であるのに
台本がないように見える
いつ見ても笑えるがさすがに涙

志村けんさんの訃報から一夜が明けた。休日出勤の代休をいただいていたこの日、TVでは昼間のワイドショー系の番組で、往年のコントの映像がたくさん流された。中でも「ヒゲダンス」は僕自身が大好きなこともあって、思わずそのアクロバット的大道芸の面白さに声を上げて笑ってしまった。しかし、映像が終わるとこらえきれない涙がこみ上げる。その芸は既に、映像のみの世界のものとなってしまったのだ。番組の中では志村さんの足跡について、「いつ見ても笑えるのが本当のコントである」といった趣旨の信念を持っていたことが紹介されていた。時代や場所、そして年代も問わず、まさに自らが逝去したこの折にも、僕らが「笑う」ことでその「真の芸道」を受け止めてこそ、志村さんも浮かばれるということになるだろう。

「笑い」への徹底したこだわり、繊細に作り込んだコントであるのに、台本などないように見える。身体の動きや台詞の自然な吐き出し、語句の倒置的で微細な文体や語彙選択に至るまで、そのコントで僕らが笑いに引き込まれるのは、相当な「プロ意識」の元に作り込まれていたことが知られる。こう考えると、実はその芸道の裏側でかなりの努力をするうちに苦痛や深い孤独を感じていたのではないかと想像してしまう。報道に拠れば、個人的日常生活では寡黙であったとも。志村さんの笑いをこうして分析するうちに、人間の「笑い」は「悲哀」と裏腹であるなどと考えてしまうのだが。

伝わるスピーチ・伝わる講義も
あらためて志村さんから学ぶものを見つめる
僕たちはこの時代を如何に生きていくか。


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鳥の高度な伝達能力

2020-03-17
「四十雀(シジュウカラ)」の鳴き声
音や刻み方で言語のように何種類もの伝達能力が
対話して身を護る高度なコミュニケーション能力

TVの自然をテーマとする番組で、鳥の「シジュウカラ」が高度なコミュニケーション能力を持つと紹介されていた。「チュチュ ジジジジ」など音に変化をつけ刻み方を変えることで、外敵が近づいている警戒を仲間に伝え集団となって結束し自らの身を護っているのだと云う。番組に登場した研究者によると、かなりの種類の伝達内容が確認でき高度な対話が成されているらしい。弱小な鳥たちは仲間と協働することで、力及ばぬ大敵にも対抗できる力を得る。その要となるのが「言語的能力」であるのは、誠に興味深いことだ。時に人間であっても、良質なコミュニケーションを失い誤解や思い込みから十分に意志が通じない場合が少なくない。

「小鳥はとっても歌が好き🎶母さん呼ぶのも歌で呼ぶ♫」などと云う歌詞の曲を、幼稚園で習った覚えがある。人間は鳥の鳴き声を「歌」に見立て、比喩的に音律があることを意識してきたのであろう。そう考えると、自宅前にある樹木にやって来て啼く鳥たちの声を聞くのが実に楽しくなる。また春告鳥の鶯は仲間の鳴き声を相対的に学ぶことで、自らの鳴き声を綺麗に整ったものにしてゆくとも聞いたことがある。我々「人間」を含めて生き物は他者との協働でこそ、様々な能力を高度に発達させることができる。しかし人間は、私利私欲も多く自らが独善的になり過ぎて、他者の「言葉」が耳に届かない下等な行為も多い。そして「歌う」とはほど遠く、頽廃たる暗き声に埋没し時に無口にさえなってしまう。今朝も、この部屋から聞こえる鳥の声に学びたいものだ。

伝達には音律が必要
言語も韻律あってこそ伝わるものがある
他者の声を耳を澄まして聴いてみよう。


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詩のことば・わたしの言葉

2019-05-04
「言葉というのは、本来『わたし以外のだれか』が『わたし』の口を通して語るのを
 『わたし』が聴く、というそういう屈折した経験なわけですよね。」
(内田樹・池上六朗『身体の言い分』毎日文庫 2019年4月の一節P38より)

冒頭に記した1冊を読み始めた。2005年に刊行された「発見と驚きの〈身体論〉異色のロングセラー待望の文庫化」(帯文)である。〈身体論〉としては、文庫の背表紙に記されたように「腰痛も肩こりも悩める人生も、内なる身体の声を聞けばすべてうまくいく。」と自らの「身体」そのものを「ことば」を通じて見直したいという願望も強い。また「現代短歌・南の会」が5月1日に刊行した『梁』に僕自身として初めて、「牧水の耳」という〈身体論〉の短歌評論を執筆したことの時宜に適ったことも選書の大きな理由である。自らの発する「ことば」とは何か?その他者への作用と内的思考は、どのように結びついているのか?もとより「ことば」「文学」を「教育」の場に展開する「国語教師」を育てている身として、こうした問題を多角的に考えておく必要を日常的に強く感じる。

冒頭に記した内田樹氏の発言は、「今の子どもたちの話」は「語彙が貧困」なのではなく、「ヴォイスの貧困」なのだという指摘に始まる「コミニケーション」論の一節だ。「語り口」「話し方」を複数持ち、「同じコンテンツを違うモードで伝える」ことが大事であると云う。「自分自身の言葉に疑問をさしはさむ」ことで「自分の中で複数の声が輻輳していく」ことができる人が「チューニング能力が高い」ということになる。だが最近は「どんな場面でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいこと」とされて「コミュニケーションについては支配的イデオロギー」になったと内田氏は指摘する。また『身体のダイアローグ』(太郎次郎社)にある谷川俊太郎氏のことばを引用し、「『わたしが、わたしが』と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の『わたし』から離れて自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいという」ことを例に挙げている。つまり「自分自身の口から出てくる言葉の『静けさ』を聴く修練」が必要だと内田氏は云う。「コミニュケーション」のみならず、「短歌のことば」を考えるにも、この「輻輳的な声」のある表現は実に大切であるように思われる。

身体作用が思考を和らげるも乱すことも
「ことば」そのものが自らを作り上げている
「静かで、響きがよい」ことばで生きていたい。


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単純化と恣意的な言葉

2019-04-22
「すごい」「しっかり」「感動した」
そしてまた自分しか定義のわからない語句
伝える「言語」に対する知性・感性の未熟

学生の言語生活に日常から接していると、職業柄その傾向で気になることが多い。最近は講義レビューや発言で「すごい」「しっかり」「感動した」の〈安易三役揃い踏み〉に出くわすことが大変多くなった。気に入ったことは「すごい」、先方を立てて自分がやるべきと思っていることは「しっかり」、賞讃すべきと思うものは「感動した」で文章やコメントを構成する。今「学生」と書いたが、これはスポーツ選手や政治家まで幅広い社会構成員の傾向と残念ながら言わざるを得ない。言葉が定型化するというのは思考の硬直化でもあり、印鑑が未だ全盛であるこの国の再生産文化に関係しているのかもしれない。コメントする際は、判で押したように前述の安易三役語句で対応すれば済む社会なってしまった。

僕たちはイチローさんなどの「超一流アスリート」が、前述の「安易」ではないことを明らかに知っている。自らの考え方が細やかで構造的であり、基礎基本からの積み上げがあるように重層的な生活態度がある。したがって語彙選択も、複雑かつわかりやすい。一方で社会を見回すと当人だけがわかっている特定の語彙で、他人に説明を施して「伝えた気」になっている輩が出現する傾向も最近は察知している。比喩のようで比喩として機能しない語彙、業界用語にしては恣意的な語彙、を平然と使用し相手がわかったと思い込んでいる。社会の安易さが「わかりやすさ」を求めているゆえ、そこに迎合しつつ当人の思い込みだけで第三者と対応する連中である。繰り返すが、「一流」は複雑かつわかりやすいのである。当人だけが納得する特異な語彙表現に自己陶酔していては、コミュニケーションは始まらない。

いずれも「安易」な思考に起因する
中身が何であれ、話の「フレーム」の取り方による
社会に出る前の学生たちに注意したい「言語あり得ない感覚」である。


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先生も「やってみる」ー演劇と学校教育

2019-02-10
体験することで感覚を働かせる
子どもたちも先生も・・・同型性
自身の感覚の活性化

NPO法人Swing By主催、本大学院・学部・附属教育協働開発センター共催のワークショップ・講演が宮崎市内で開催された。午前中は県内の演劇人による「先生のためのワークショップ」、身体表現を活性化させ表現し対話する協働活動から様々な気づき・学びが生まれた。「先生」たるや、まずは自身の感覚を活性化する必要性があると常日頃から痛感していた。「自らは体感せず子どもたちには”やらせる”」というまさに「上から」なのが現場の実情としてまかり通り過ぎて来たのだと思う。「演じる」という語彙が、誤解や偏見を孕んでいることも、この国の教育に演劇が浸透しない大きな原因ではないだろうか。まずは「先生」も体験することである。

午後は東京学芸大学教職大学院の渡辺貴裕さんをお迎えして「演劇と学校教育」のフォーラム。約2時間の内容であったが、「講演」というよりワークショップを交えて参加者がまさに「体験」する形式で、方法そのものが参加者に「伝える」形式として大変有効に機能していた。従来型の学校の授業では、「理解」を十分にさせないと「表現」ができないという一方向性に偏り、群読や演劇的表現へ到達する活動の嵌め込み方が歪んだものになっていた。「理解」は「表現」しながら促進され円環的循環的に学びが進行していく。まさにそこが「主体的対話的深い学び」を生み出す要諦であろう。教育活動の報告そのものを演劇仕立てで行う実践校の紹介なども含めて、数多くの示唆に富んだ時間となった。最後の挨拶を僕が申し述べたが、「日本一の読書県・短歌県」を目指す宮崎においても、その方法としての「演劇」を積極的に活用すべきという趣旨を述べた。

「原作・脚色・主演・演出、俵万智の一人芝居ー
 それがこの歌集かと思う。」
(俵万智『サラダ記念日』あとがき より)


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