宮崎国際音楽祭「映画音楽は時代を超える」
2022-05-08
「ポップスオーケストラinみやざき」宮崎国際音楽祭管弦楽団・指揮:広上淳一
歌:May.J 司会:三宅民夫
妻が本日に誕生日を迎えるが休日出勤なので、せめて前日に何か記念になるものをとチケットを取った。互いに聞きたい「映画音楽」をオーケストラで演奏し、さらにはMay.Jさんの歌唱もあるという豪華なプログラムだ。オケなので舞台全体が見渡せて、特にアイザック・スタンホールという県立劇場の中でも音楽専用の大ホールであったので3階バルコニー席(2階は両サイドバルコニー)の最前列S席という選択もよかった。冒頭は「スターウォーズ・メインタイトル」、弦楽器の奏者の方々の腕のしなやかな動きが舞台全体図の中で目を引き、管楽器の響きがまさに宇宙の奥行きを表現しているかのような気分にさせられた。さらに「風と共に去りぬ」「エデンの東」と続き、あらためてあの時代の名作を見直したい思いが湧き上がった。May.Jさんの最初の歌唱は「ティファニーで朝食を」の「ムーン・リバー」、以前からTVの歌番組などで聴いてその歌唱力に魅力を感じていたので楽しみであった。印象としてはオーケストラをバックに歌うことの難しさ、その個々の楽器の集合体の美しさに人間ひとりの声では勝てないという思いを持った。演奏は「シェルブールの雨傘」「太陽がいっぱい」「ロミオとジュリエット」で前半が終了。
後半は「タイタニック」の「My Heart Will Go On」をMay.Jさんの歌唱で開始。「ゴッドファーザー愛のテーマ」と前半最後の方にも続いた「ニーノ・ロータ」の曲調の重厚さに酔う。「ドクトルジバゴ・ララのテーマ」から「サウンドオブ・ミュージック メドレー」へ。いかに映画とその音楽が人々に生きる勇気を与えるかが実感されてくる。エンディングに向かいやはり「アナと雪の女王・Let It Go〜ありのままで」を英語バージョンでもちろんMay.Jさん、子どもの頃からいつか映画の最後の曲を歌いたいという夢が叶った曲だったというご本人のMCも聞かれた。そしてエンヂングは人々が元気になる「ロッキーのテーマ」、三宅民夫さんがMCで紹介していたが、ある公共の場所でエスカレーターと階段が併設されている場所において、「ロッキーのテーマ」をかけると階段で登る人が増えたのだと云う。音楽はこうして人の行動まで変えてしまう、大きな力を持っているというエピソードであった。
音楽に酔った後は宵のニシタチへ
何ともなく音楽がお互いの心を開かせてくれたようだ
音楽と映画、どんなに忙しくとも欠くべからざる人生の糧である。
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みやざき国際ストリート音楽祭2022
2022-04-30
いくつかの街中拠点で音楽の響き未だ感染者数は高止まりながら屋外会場の利点を
人々の心を豊かに癒す音楽の素晴らしさ
連休初日、朝から激しい雨音を寝床で聞き二度寝。今月は新年度の始まりとともに諸々の書類に追われやや厳しい1ヶ月であったゆえ、少しは身体を休めようと思う連休である。短歌や評論の〆切であれば、どこか心の中でその圧迫を楽しめるものだが、どうも仕事上の書類は追われる気分が否めない。そんな意味で実にありがたいタイミングで連休に突入したとも言えよう。午前中はゆっくりしながら、連休中の計画も考える。妻の誕生日も近いので、宮崎国際音楽祭の「スペシャルプログラム」のチケットを入手。生憎、誕生日当日は仕事と言うので前夜祭という意味で、映画音楽をオーケストラが演奏し「May.Jさん」が歌うというプログラムの席を予約できた。連休中はこれを楽しみに過ごせるのも良いタイミングだ。昼前後から実家に行っていた妻から連絡があり、この日の「みやざきストリート音楽祭」に行ってみようかと言う。幸い昼頃から雨も上がり薄日が差してきた。
コロナ以前は宮崎市中心街の橘通りを車両通行止めにして開催されていた「ストリート音楽祭」、この2年間は自粛傾向もあって僕自身がなかなか街中へ出向くこともなかった。3年ぶりに行ってみると県庁前以外の道路は車両が通ったままであるが、各ポイントで様々な演奏が為されていた。軽快なジャズの響き、小さなユニットの澄んだ歌声、やはりライブで音楽を聴くのは魂が燃えてくるものだ。この2年の間、オンライン演奏などの試みも実施されいくつかのものを観たことがあるが、やはり音楽はライブでないと魂まで響かないことが実感できた。次第に夕刻になり最後のプログラムには、以前に日向市の店で友人になった「小田加奈子さん」が出演するというのでニシタチ一番街のステージへ。保育園の頃から歌手になると言っていたという歌声が響き渡り、宮崎に取材したオリジナル曲が演歌のこぶしよろしく街に響き渡った。終演後にご挨拶を交わしたが、こうした人と人との繋がりの深さが宮崎の密度の濃さである。かくして音楽に浸り豊かな連休が始まった。
「お勉強」よりも大切な芸術文化体験
県内の多くの子どもたちにも体感してもらいたいものである。
この連休は芸術・文化体験を大切にしてみようかと思っている。
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Web配信「山下達郎さんライブ」
2020-07-31
“TATSURO YAMASHITA SUPER STREAMING”(MUSIC/SLASH)
音響・映像・ライブ感などへのこだわり
先月のサザンオールスターズWeb配信ライブに続き、昨日は山下達郎さんのライブ映像配信チケットを購入し1時間半の音楽に酔った。「クリスマスイブ」はCMに使用されてあまりにも有名だが、それ以外にも他者に提供した楽曲をはじめ著名な名曲の作曲者として素晴らしいものがある。あの独特な高音の響きはもちろん、マニアックなギター演奏を含めて見所は満載。今回は生配信ではなく、過去に行われたライブ映像をご本人の確認を経て流されたものであったそうだ。デビュー45周年で古民家のようなライブハウスでのアコースティックライブは、バックのベースとキーボード奏者もよろしく、実に聴きごたえの深いものであった。
後半は「氣志團」の夏フェスに参戦したという野外ライブ映像。雨の中でも物ともせず、花道で豪快なギターソロも魅せ、バラードなしの夏フェス仕様セットリストが前半と対照的で良かった。コーラスには竹内まりあさん(達郎さんの妻でミュージシャン)も加わり、KinKi Kids「硝子の少年」などの演奏もセットリストに含まれた。1950年代生まれで60〜70年代に思春期から青春期を過ごし、楽曲制作に深いこだわりがありラジオDJ番組を長年持っている。こんな点で達郎さんと桑田佳祐さんは、J-POPを牽引してきた存在感があり相互に敬愛しているあたりも興味が惹かれる。曲はもちろんであるが歌詞の質感と点描性の深さは、今後の分析対象として様々な角度から扱っていきたい。
映像配信の音響や質感
オンライン企画イベントなどへ参考となる
達郎さんの声に酔う宵のうち
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弦楽器は語るーウクレレの魅力
2020-05-06
NHKBS「ウクレレ音楽会」サザンの関口さんから高木ブーさんまで
弦楽器の魅力を再発見
先週の2日(土)に見逃していたNHKBSの番組「ウクレレ音楽会」の再放送があることを知り、午後2時から50分間を堪能した。大好きなサザンオールスターズのベイシスト・関口和之さん(新潟県出身)は、ウクレレ奏者としても一流の腕前である。サザンの折のどんな曲でもどんなライブでもブレないベースは、その音階を追いたくなるほど魅力的であるが、ウクレレの音色もまた確かなものがある。当番組はリレー形式で年代を超えて様々なウクレレ愛好家が登場し、今この時こその一曲をオンライン撮影で自宅から出演する内容である。自己流で学び子育てのストレスも解消して来たという荻野目洋子さんは、自曲「コーヒールンバ」を演奏しリズムが実に心地よかった。
それにしても著名な芸能人のみならず、凄腕のプロ中学生がサザンの「勝手にシンドバッド」を多彩な弦さばきで演奏したのは驚くほどであった。小学生とその母親が登場する何組かの演奏にも、心が癒された。弦楽器ではよく「泣きのギター」などと名手(主にロック)のことを呼ぶが、ボーカルとの相性も含めて「語り出す」感覚が持てるのも大きな魅力である。リズムと言葉が融合する間に弦楽器が存在し、旋律をリードしていく、そこに「言語表現」かのような「語り」が浮き上がる。奏者と音楽がこれほど一体化する楽器としての底知れぬ魅力がある。番組のしんがりはやはりこの人、これも僕の大好きなザ・ドリフターズの高木ブーさん。御歳87歳とは思えぬいつものコントの表情から、ウクレレを奏するとやはり弦が語り始める。「家族のような存在」と云う志村けんさんへの哀悼の意も込めて、最後には「いい湯だな」を演奏し「手を洗えよ!」と合いの手を入れるあたりはやはりドリフ仕込みであった。
人生の豊かさとしての弦楽器
妻と「やってみようか」などと言いながら
辛い時ほど音楽に助けられるものである。
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一番大事な音は叩かず
2017-05-06
「優れたパーカッショニストは、一番大事な音は叩かない。」
(村上春樹の発言に呼応した知人のTweetから)
曲がりなりにもバンドでパーカッショニストを務めているので、冒頭のような発言は大変気になる。一次資料(『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社2017/4)に当たったわけではないので、発言の文脈・真意からはかけ離れるかもしれないが、小生なりの捉え方を記しておこうと思う。元来、パーカッショニストは局所的にではなく総合的にみて「一番大事な音は叩かない」存在なのだと思ったことがある。バンドで音楽を構成すれば、ドラムとベースのリズム隊の安定感がボーカルを支え、ギターやキーボードが旋律を導いていくといった関係性にあるといえようか。この「リズム」にも「旋律」にも該当しない位置で、孤独にパーカッショニストは存在する。曲の中心には決して位置しないながら、「一打」のミスが曲を台無しにしてしまう。それゆえの、際立った緊張感に襲われることもあるが、恐れずに叩き続けいない限りその責務は果たすことができない。「一番大事な音」を聴衆に聴き取ってもらうには、そんな異種な「リズム」を実感させなければならない。
冒頭に引用した知人のTweetでも「リアリズムを優先にするのではなく、リズムを大切にするという意味。」という解釈が記されている。文筆表現や日常会話においても、こうした「リズム」が重要だと思うことは多い。とりわけ短歌は「自分で言ってしまっている」という評語が、歌会などで聞かれる。歌そのもので「結論」を分かりやすく言ってしまえば、読者の「解釈という仕事」を奪ってしまうことになる。もちろん表現活動であるゆえ、本能的には「言いたく」なってしまうことも多く、小生もこれまでに幾度となく「言って」しまった。特に「連作」などになれば、この「リズム」の意味はさらに肝要になるだろう。小説などの散文ならば「リズム」と「旋律」が上手く交響して、一つの世界観を構成していく。だがこうした村上の発言のように、「リアリズム」を重視して「分かりやすく」書くことは、作品として高次元に至らないということだろう。もちろんこの匙加減は誠に難しいのであるが、さながらパーカッショニストの孤高な存在は、短歌のあり方にも似ており、「一番大事な音は叩かない」心得が求められているのかもしれない。
「意味」「イメージ」「音楽」で一番大切なのは「音楽」と佐佐木幸綱氏
バンドでメインボーカルを担当する曲で感じることもある
「一番大事な音」を何と見定めるか?総合的な視野の広さが求められている。
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音楽は心の栄養
2017-04-30
「みやざき国際ストリート音楽祭2017」街に流れる音楽は心の栄養
そして自らも音楽をする衝動を覚え・・・
宮崎では様々なイベントが行われているが、なかなか全てを見通すまでには時間がかかる。だがこうしたイベントで季節が感じられるようになってこそ、初めてその土地に住んでいるということなのかもしれない。先月に俵万智さんとメッセージをしていて「私は宮崎5年目を迎えます」と書いたところ、「私は2年目の後輩ですが、よろしくお願いします。」というご返信をいただき、聊か恐縮した。大学でも小生の方が後輩であり、もちろん短歌の上では仰ぎ見る存在であるからだ。だが、こうした小粋なことばをさりげなく織り込めるのは、さすがは日本でも指折りの言葉の使い手である。さて、その万智さんが地元紙に載せる月1回の連載で、この「ストリート音楽祭」のことを書いていらした。文化芸術には、常にアンテナ感度が鋭いことが、よい歌を創ることにもつながるのであろう。などと考えて、この日は歩行者天国となった、宮崎の中心街を歩き廻ることにした。
「ストリート」というと、バンド仲間の親友がいつも参加している仙台の「定禅寺通り音楽祭」を想像し、アマチュアバンドなどもたくさん並んでいるのかと思いきや、なかなかのアーティストたちや台湾の吹奏楽団などの演奏が繰り広げられていた。その音色を聞くに、やはり自らが唄ったり演奏したりするバンド魂が、心の中で疼いてくる。短歌も「読むは詠むこと」と実感するが、音楽も「聞くは奏でること」などと心の中での共鳴が止まなかった。そしてまた自らは体験していない、ジャズの演奏に、妙に心惹かれる思いがあった。そのステージを前に、芸術家派遣活動でお世話になっている方とも偶然に会って、その魅力を共有できた。その後、ある友人の方にお誘いいただき食事をともにしたのだが、その二次会でジャズバーに足を運んだ。彼らはアマチュアジャズバンドの活動をしており、そのバーの常連らしい。急にジャズはさすがに唄えないので、「昭和歌謡」で行こうということになり、「襟裳岬」や「長崎は今日も雨だった」などをジャズフュージョンで唄わせていただいた。これは昨年の桑田佳祐さんの活動「The Roots」にも通じる感覚となって、しばし音楽に自己陶酔する宵の口となった。
短歌も「音楽」が重要と佐佐木幸綱さん
もちろん朗読にも通ず
自分のまだ目覚めていない感性を今後も刺激し続けようと思う機会となった。
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「風に吹かれて」一石を投じる受賞に思う
2016-10-15
How many roads must a man walk downBefore you call him a man?
ボブ・デュラン氏のノーベール文学賞に思う
毎年のことであるが、この時期の講義には「村上春樹」の作品の冒頭部分をスライドに仕込んでいる。古典から近・現代小説まで、主に散文の冒頭部分を教材にして「音読」活動をする授業構想を実践的に講ずる講義内容においてである。この日も、漱石・鴎外・芥川・川端に引き続き村上の作品冒頭部分を紹介した。明治から大正・昭和・平成という時代の中で、大まかではあるが冒頭部分が如何に変化してきたかを考えるためにも重要な配置である。そしてまた「村上」は「川端」の後の「一作品」として紹介するに過ぎず、特にコメントもしなかった。もしこの朝に受賞が決まっていたら、学生たちの反応はどう違っていただろう?などと僕一人が考えて講義はそのまま進行した。学生たちの中に、ぜひこの「思い」をわかる文学好きがいて欲しいと願いながら。
周知のように今年の「ノーベル文学賞」に、ボブ・デュラン氏が選考された。早速、大学へ向かう自家用車の中で、冒頭に示した歌詞の「Blowin’ In The Wind」を聞きながら大学の正門を通過した。そして、村上のように「作家」の受賞が一般的に目されているこの賞に、「シンガソングライター」が受賞した意味について自分なりに考えてみた。この代表曲「風に吹かれて(邦題)」のように彼に対する評価として耳にするのは、聴く人の立場立場で「如何様にも解釈できる」ということであろう。聴き手がその人の置かれている立場・状況を踏まえて、「自分」を起ち上げて解釈すると、その歌詞が寄せる波の如く「己」の中で響き渡るように”できて”いるということである。これまでの日本の国語教育の「失敗」として、教材の読み方を「一つ」に決めてしまうという点がある。「教師」の「読み(解釈)」が〈教室〉での唯一無二の正解であり、試験があるから仕方なく己の意に反して、学習者はそれに従う。その繰り返しが、せっかくの文学を「無味乾燥」なものとしてしまう。意見を発言したり自分なりの解釈で「音読」することも避けてしまう。実にシラけた〈教室〉を作り上げてきた。だいぶ改善はされてきたものの、いまだにその悪弊は払拭しきれていないと感じる場面に出会うこともある。歌詞は個々人の立場で「自由に解釈」してこそ、味わい深いものになることは、ボブ・デュラン氏の歌詞を味わえば明らかである。もしかするとこの受賞は、日本の「国語教育」にも大きな「一石」となるのかもしれない。
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind.
「友よ(学習者よ・中村挿入)、答えは風に吹かれている」のである。
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高次元の技を生で体感する
2016-03-08
TOTO武道館公演高次元の技とサウンド
何事も本物に触れなければわからない
朝起きると左手がやや熱を帯びたような感じなので、よく見るとやや紫色に腫れている状態であった。前日にリハからLIVEを通して、無心にボンゴを熱く叩き続けたゆえ、表面の皮を強めに張っている高音を出す小さめの打楽器に対して左手が主導で対応した結果である。もちろんそれなりに事前の練習もしてきたのだが、閑かな住宅地の一室で控えめに叩いていたのと、スタジオで聴衆を前に叩くのでは、音量にも違いがあり、手の皮にも計り知れぬ負担が掛かっていたのだと察した。まさにこの程度が、素人の素人たる所以でもあり、昨日の小欄に記した身体化などとは程遠い域にあるのだと、己の悲哀と自己満足にやや複雑な心境になった。それもこの日の夕刻から武道館に出向き、我らがバンドがカバーしたTOTO御本家の来日公演に生で触れ、その迫力に魅了されたからに他ならない。
新譜と過去の曲を適度に織り交ぜ、約2時間半近くに及ぶステージは、誠に圧巻であった。ロックバンドは多々あれども、TOTOの演奏技術には特筆すべきものがある。ドラムやベースは新たにメンバーが交代したものの、個々の技術の高さは他の追随を許さないものがある。日常に音源で聴いていると、その凄まじさを忘れてしまいがちであるが、それにしても日本のアーティストなどと聴き比べれば、音と演奏の違いは明らかである。そして何事も本物を生で現場で見なければ、その凄さはまったく分からないのだと、あらためてLIVEの大切さを痛感した。昨日僕自身がリードボーカルをとったAfricaは、いつ演奏されるかと待っていたが、何とアンコールのラスト曲であった。TOTOの歴史の中でも名高いパーカッショニストであるレニー・キャストロの異次元の打楽器演奏に、心の底がからゾクゾクしたものが湧き出し、無意識に涙が溢れているほどの演奏であった。まさに正真正銘の本物のプロとは、己の技だけで人をここまで感激させるのかと、熱い思いがあらためて自己の中に芽生えた気がした。
音楽表現の素晴らしさ
高次元のプロの技
こうした感激こそが、人生に潤いを与えるということなのだろう。
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粋な仲間と奏でるは
2016-03-07
今日もまた粋な仲間と奏でるは
整う調べ愛の歌なり
8年という歳月で、人は如何に変われて如何に同じでいられるだろうか?みなさん個々の8年間は、どのようなものであっただろう?僕自身が顧みると、誠に人生の中でも激動の時代であったと振り返ることができる。学位取得後に中高教員を辞職し、非常勤講師を経て大学専任教員となって東京から離れた。この変遷の中で、一つの変わらない友情があった。それは親愛なる音楽仲間たちとともに、演奏し歌うことである。やや枕が長くなったが、8年の時を経てLIVEのステージに立つことができた深い感慨に酔った。「遠距離バンド」たるや僕の九州への赴任はともかく、ボーカル&キーボードの主力メンバーの米国留学と永住。されど彼女の一時帰国の度に、仲間たちで日程を調整しリハーサルだけは繰り返してきた。ひととせにひとたびなれども、この仲間たちと曲を奏で無駄話をして飲んで騒ぐ時間が、何物にも代え難い楽しさに満ちていた。
表現をするとは何であろうか?「国語教育」の上でのそれを諸々と研究課題とし、また様々な表現者の方々とともに子どもたちの豊かな感性を育む活動もしている。何より自らが言い訳なき表現者であるべきだと思い、多様な表現に身を晒している。講義・講演・学会発表などのプレゼン・朗読・落語、それに最近は短歌を詠むこと。それぞれの表現が相乗効果で「人に伝える」ことを錬磨する。共通点を洗い出して述べるならば、身構えた硬直した身体で表面的な意識を持って表現しているうちは、真に他者には届かないのである。文面を「読んでいる」うちは表現にあらず、諸々の伝えたい要素が集約的に無意識下で表現できる境地に至れば、自ずと「伝わる」ものになる。まさに演奏やボーカルとして曲を歌うことは、その最たるものであると今回改めて実感した。更には、表現中に脳裏で顔を覗かせる邪念こそが大敵でもある。今回も正直なところ曲を歌いながら、次にMCで話すことが脳裏をかすめた。それが悔やむに悔やみきれない失点となる。されどステージでは決して独りではない。一曲を創るために仲間たちが個々の持ち場で、渾身の演奏をしている。何とも言葉では言い表せないほどの親和性のような感覚が、自らを鼓舞し聴衆へと届ける表現となる。これは文学作品を「群読」することで、仲間たちや作品への愛着が深くなるのと何処か共通している。ステージで光を浴びること、そして空想次元ではなく人が生身で其処にいるということ。LIVEという言葉の意味そのものを問い返すように、音楽表現が人と人とを繋ぐ。この仲間と出逢えたこと、そしてともに表現することの楽しさ。生きるということは、何事にも積極果敢に挑んでみることでしか、見えない楽園があるような気がする。
また癖になってしまった
ステージでの緊張と興奮
そしてもちろんこの仲間たちとのかけがえのない時間。
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合奏の親和性
2016-02-21
個人で取り組んだ練習それぞれの個性を織り成す
音楽表現に向き合って思うこと
約8年ぶりのライブに向けて、バンドメンバーによるリハーサルが行われた。ここ数ヶ月もの間、移動中の車内で当該曲を聞き込んだり、休日にパーカッションと歌の練習に勤しんできた。僕にとってはあらたな挑戦もあり、実に楽しみな自己改革の機会でもある。何より「表現」することにおいて、研究対象としている「言語」や「詩歌」、また「音読、朗読、群読」などとの共通性を見出すことができて、創造的な発見に満ちた活動なのである。人と人とが結び合い、一つの「表現」を織り成すということ。そこには、個性の輝きとともに親和性ある協働活動でなければならないという矛盾を孕んだ境地が見出せる。他者との関係性を「合」わせて「奏」でることの難しさと大切さを痛感するのである。
短歌創作でも、自分ではよかれと思った表現が、どれほどの共感性を持ち得るかには、誠に微妙な匙加減があるように思う。他者が読んだら、他者が聴いたら、という意味で音楽活動との共通性を痛いほど感じる。自分ではかなり歌えるようになったと思いきや、バンドで合奏すると親和的な表現にはならないこともある。その段になってようやく、己が未熟な過ちをやり過ごしていたことに気づく。ヒトとは根本的に「自惚れ」な動物であるが、親和性の中で自己を客観的に見つめてようやく「人」となる。それゆえに人として、「合奏」することにより生じる親和性に目を開くべきではないかと思う。仲間たちと批評し合い間違いを指摘し合うことで、その小さな社会の中で学ぶことは、計り知れない力を持っているように思う。
親友と奏でる曲の数々
今の自分にできる表現のあり方
合奏の親和性に深い境地を見出す。
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