LIVEの曲はどう決めようか?
2015-12-03
「この曲が歌いたい」自己の思いを主張する
「折衝」は妥協ではなく向上へと・・・
来春のLIVE開催が決定し、バンド仲間で曲の選定を行なっていた。メールに各自のやりたい曲を書き連ねて全員に送る。すべて出揃ったところで”投票”の多かった曲から候補にする。更にはライブハウスの演奏時間45分に収まるように、各曲の「尺」を検討し曲順を考慮して並べ直す。こうして誠に民主的にLIVEのセットリストが出来上がった。勤務先でも時折、「メール会議」が設定されることがあるが、時間と距離を超える方法として、遠距離在住者にとってありがたい代物である。今回のLIVEは実に8年ぶりであるのだが、この間、リハだけを1年1回程度は行なっていた。その際の曲決めとは桁違いの盛り上がりで、セットリストが出来上がった。やはり何事も発表機会があってこそ、意欲が湧くものである。
「選定」するということは、自己の「解釈」「考え方」「思い入れ」を基準とする。「和歌・短歌」の世界では、古来より「選定」することがある種の「批評」の提出でもあった。今回の曲決めも僕なりに演奏したい歌いたい曲を、積極的に考えて「選定」した。曲の中でも「このパートが歌いたい」といった思いがつのる部分がある。そこに関して、メインボーカル担当のメンバーに相談のメールを出す。すると彼女もその曲に、強い思い入れを持っているという返信。数回の「折衝」を重ねて、結局僕が歌うことは断念することになった。それに引き替え、他の曲で歌って欲しい箇所が提案されて、僕としては「衝かれて折れる」のではなく、新たなる「野望」を持つ結果となった。ボンゴでリズムを打ちながらの歌唱は難度が高いのだが、そこに挑む気持ちがバンド全体の演奏を向上させると確信した。何事も挑んでみて初めて、分かることがあるだろう。
来春までにやる事は多岐にわたれど
趣味にも目標があって然りであろう
遠距離の地方に住んでいても、仲間とできることの幸せ。
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小さな夢を大切に!
2014-11-24
人は夢を抱く大きい夢もあれば、小さな夢もある
本日は実現可能な小さな夢のお話
野球選手や芸能人になりたいなどと、幼少の頃には大きな夢を抱くものだ。僕も例外ではなく、後楽園球場の近くで育ったという環境も手伝って、巨人の選手になりたいなどと真剣に考えていた頃もあった。また「8時だよ全員集合」全盛期であったこともあって、加藤茶に本気で憧れていた頃もあった。だが、次第にその大きな夢が実現可能かどうかが判然としてくる。そこで本当の自分と対話して、夢の規模を整え始める。僕が至った方向性は、「教師となり文学を愛する」ということだった。
それでも尚、決して幼少の頃の夢を諦めた訳ではないと思っていた。教員となって勤務校が甲子園大会に出場して優勝し、教え子が巨人に入団するという経験をした。甲子園の優勝旗にも触れることができたし、巨人で「生きる」ことの表裏を間接的ではあるが知ることができた。また、弱小であったソフトボール部の顧問を務めて、チームが地区大会で優勝したこともあった。「プロ野球選手になりたい。」という夢は、形を変えつつ僕の歩みの中で結実したともいえよう。
今ひとつ、「芸能人になりたい」という夢はどうか。中高教員時代2校目の勤務校で、学級担任をするクラスの生徒が、文化祭実行委員長となった。その際に「先生も何か盛り上げることをやってもらえないでしょうか」という依頼を受けて、校庭のステージでサザンの「勝手にシンドバッド」を歌ったことがある。生徒のみならず外来者が多数見物する中での「屋外ライブ」は、実に爽快な気分であった。その学年の卒業謝恩会では、僕のサザン再演が求められ「みんなのうた」を歌った。その際に卒業生に贈ったことばは「大きな夢を持つことも大切だが、眼前で可能性のある小さな夢を逐次実現して行くことも、人生の上で大切なことだ。」といった趣旨であったと記憶する。自らも常に大小の夢を持ち続けたいと願いながら・・・。
そして今も、いくつかの小さな夢を持っている。バンド活動もその一つ。まったく楽器などには触れることのなかった僕が、パーカッション・コーラス担当となってバンドに参加して早9年の月日が経過した。2年ぶりにメンバーが再会しリハを実施した。僕はせいぜい他の奏者を助ける程度の働きしかできないが、メンバーの腕もよろしく結構な曲を演奏できる楽しい時間となる。研究上で「ことばのリズム」を考えているので、やはり音楽との関わりから学ぶことも多い。再びこのメンバーでLIVEのステージに立つことを、みんなが願っているような気持ちとなった。来年は「結成10周年」でもあるからして・・・・・。
人生は夢一つ叶えるためにある
決して大仰ではなく、眼前にある小さな夢も大切にすべきではないだろうか
希望を持って生きるとは、そういうことだと思っている。
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一旦は絃を緩めて
2014-09-26
買ってはみたもののお蔵入りそんなギターの絃は張り詰めていないか
ON OFF緩急が必要である
張り詰めて緊張した状態の絃から、美しい音色が奏でられる。とはいえまったくといっていいほど”物”にならず、僕が所有するギターはあまりにも可哀想ではある。それでも尚、絃のことを知人に指摘された時、ギターの休息時は緩めておいてあげないとネックの反り具合などに影響を与えると教示されて、甚だ気になった。こうしていま文章を書いていても、「お蔵」に眠るギターの状態が心配になってきた。
アコギの音は何とも言えない。大好きな桑田佳祐さんも、曲によってはアコギを抱えて歌うが、今回の新曲もその一つである。音源を聞きながらほとんど自分で弾いた気になっているが、そこには繊細な音への配慮が必要なのだろう。と考えながら、この日は自分の心身を緩めた。3カ月もの間、ほとんど緩めることなく張り詰めた状態が続いたと自覚したからだ。その果てに、チューニングがだいぶ錯綜してしまったようだ。睡眠・栄養・休息を施してこそ、また新たな音色が奏でられる筈だ。
木は呼吸し張った絃の音を共鳴させる
身体は閑適を経て再び思考の声を表現する
多様なジャンルの曲を弾くことも、自分の意志で決めた道ゆえに。
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表現者の逆説
2014-04-30
心の中にあることば外に向けて解き放つ
訴えたいことは歌いたいこと
懇意にするギタリストが、ある歌い手さんのサポートで出演するライブがあると聞いた。両親との食事をランチとして、宵のうちの時間を作った。彼は、加藤登紀子さんや下地勇さんなど、実力派歌手のバックも務めた経験がある秀逸な演奏者だ。朗読関係の僕の講義でも、数回バックをお願いしたことがある。
彼のギターが奏でる音色は多彩だ。ジャズ・フラメンコ、そして表面的には出さないがロックの魂も潜めている。朗読作品や眼の前にいる人の名前をイメージして、絃で表現してしまう。この日の演奏でも、絃を捻じって捻り出す音や、ギター本体を打楽器のように使う技を始め、しまいには自らの頬を叩き口蓋内を共鳴させるコミカルな演奏も魅せた。
更に彼が表現者として秀逸なのは、主役の音を最大限に引き立ててくれることだ。まさに"バック"として逆説的な主役かと思わせる如き姿勢がある。朗読でも読み手は表現者であるに違いないが、同時に享受者でもあり作品や他者が聴くこととの対称性の中で、反転が生じた際にこの上ない創造的意味づけが立ち上がる。音の共鳴には、このような構造があると彼の演奏が気づかせてくれた。
表現してこその理解
理解してこその表現
その双方向性の中から創造は生まれる
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音楽と仲間なくして人生何かあらむ
2014-04-29
ギターの音で涙あふれる身体に染み込んだ曲を口ずさむ
そして仲間との再会
音楽も朗読もライブ性なくして語ること勿れ。そんな共通項を発見した。音源を通して聞く日常的な音楽を、ライブ会場で聴くということ。アーティストと観衆の対話的興奮の中から、聞き慣れた曲にも新たな発見がもたらされる。特に演奏者に近い場所で、生の音と演奏する身体を実感すると、熱い思いが背筋に湧き起こるものだ。
アーティストの音楽に対する熟練さが他の追随を許さないレベルを感じる。往々にして過去の栄光のみを翳して来日し、「金稼ぎ」と揶揄されるごとき"幻滅演奏者"も少なくない。その中で更なる進化と熟達した演奏技術を魅せるアーティストの存在は貴重だ。どんな年齢になっても、進化形を崩さない存在でありたいものだ。
ライブの感激を倍増させたのは、当該アーティストのカバーバンドをやっていた経験があるからだ。音楽に関しては素人であった僕を、バンド活動に導いてくれたかけがえのない親友たちがいる。この日は、ライブ公演を機に彼らと再会した。米国にいる親友は、飲み屋でのSkype中継という手段で参加した。まさに心の友との再会に、やや閉塞的に陥っていた己の思考が開放的に蘇った。
音楽も文学も、聞くだけ読むだけでは本質的な理解には至らない。ともに表現者の立場になって、演奏や朗読をして人に伝えようとする。次第にその曲目や小説のどこがどのように素晴らしいから、受け取る側の心を動かすことができるかが実感できてくる。受け身にならない主体的な芸術享受の方法は、曲の「カバー(コピー)」や自己の"読み"を活かした朗読をすることである。更にはそれを集団で組織的に成し遂げることで、音楽や朗読は人と人とを繋ぐのである。
距離を超えて繋がる仲間
音を磨き続けるアーティスト
音楽と文学、そして酒と仲間なくして人生何かあらむ!
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スポットライトをもう一度
2013-08-15
暗いステージに立ち、ライブ開始を待つ瞬間の喩えようのない緊張感。
5人がそれぞれの楽器を奏でて創る音の交響。
日常にない高揚と達成を求めて、
スポットライトをもう一度。
しばし活動休止をしている音楽仲間が、久し振りに集まった。僕自身は幼少の頃から、機会はありながらなかなか音楽に取り組むことができないでいた。しかしこの仲間と出逢い、パーカッション担当として幾度となくステージに立つことができた。人前での弁舌が本職ではあるが、やはり音楽演奏を披露する機会というのは、大変勉強になった。何事も経験に勝る学びはないということであろう。
リハーサルを繰り返し、曲を練り上げて行く。パーカッションやコーラスは、調味料のような存在であるが、それだけに失敗すれば曲を台無しにもする。リズムと間をいかに体得するか。他の楽器奏者には及ばないが、音楽素人であった僕にとって、たまらない緊張の連続であった。その時間を共有できた仲間たちとの繋がりは、実に深いものがある。
現在はメンバーが、地方や海外に分散してなかなかまとまったライブ活動もできない。しかしまたいつか、あのスポットライトをともに浴びたいという欲求が心の中に巣食う。たぶんライブを体験したことがある者にしか、決して理解できない共感性を持った仲間なのである。
人前で展開するパフォーマンス。
どんなジャンルでも体験するに限る。
「授業」の意義を考える僕の研究分野にも、
いくつものヒントを投げ掛けてくれるのである。
スポットライトをもう一度。
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歌おう!「未来に平和の花咲くまでは」
2013-08-07
サザンの5年ぶりのシングル「ピースとハイライト」早速入手した。(発売は8月7日)
そのサビに曰く
「希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ
未来に平和の花咲くまでは・・・憂鬱(Blue)」
桑田佳祐氏が曲作りについて述べているインタビュー(tower+ special issue Aug.7)によれば、
「5年ぶりだからという情緒や復活といったお祭り騒ぎではない方向性のもので、今の時代と向き合った現実を歌にしたかった。」
と述べている。
そしてこのタイミングでの発売。まさに平和とは何かをあらためてわれわれに問い掛ける。われわれはこうした”何か”がない限り、あまりにも平和を当然のこととして安易に見てやしないか。まさしく68年前のこの日、広島に原子爆弾が投下された。そして9日には長崎にも原子爆弾の投下。そして15日の終戦の日へと連なる。もちろん沖縄で組織的戦闘が終結した6月23日にも遡り、われわれは「平和」の尊さを噛み締めなければならないはずだ。
広島で行われた平和記念式典では、小学生男女の声が「平和」を健気に訴えた。そのしっかりとした声と賢明な表情からこそ学ぶものが多い。広島市長の平和宣言は、福島での原発事故以後の不安と今後の原発輸出政策への懸念が盛り込まれた。「平和」とは、戦争により侵されるだけではなく、人間が人間らしく生きる条件を破壊するものには、人として警鐘を鳴らし受け入れないことで初めて創られていくものだろう。そう「平和」は維持したり守るものではなく、僕たちが創り上げていかねばならないものだ。偏向した発想では、決して「平和」を創り出してはいけない。
サザンの新曲に戻ろう。
「教科書は現代史を
やる前に時間切れ」
まさに教育の一断面を鮮烈に語る。
仮に「時間切れ」を克服している学校があるとしても、
それは”大学受験”の為が最優先で、決して「平和」を創る為にあらず。
「都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は・・・狂気(Insane)」
「裸の王様」を許しているのはわれわれだという自覚を持とう。
「20世紀に懲りたはずでしょう?
燻る火種が燃え上がるだけ」
たかが68年間で忘れてしまうほど、われわれは愚かであることを自覚しよう。
「色んな事情があるけどさ
知ろうよ互いのイイところ!!」
われわれの身近にも”粗捜し”が存在していないか?
他者の「イイところ」を見ようとするのが「平和」の原点ではないのか。
誰しもが「イイところ」を見て欲しいはずなのに。
「この素晴らしい地球(ふるさと)に生まれ
悲しい過去も 愚かな行為も
人間(ひと)は何故に忘れてしまう?」
忘れない為に68年目の8月がいま進行中なのだ。
さあ、まずこのサザンの曲を歌えばいい。
僕たちがいまこそ考えなければならないことは何か?
この曲を噛み締めつつ、
僕は15日までにいくつかの行動をしてみようかと思う。
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やるせなさと喜びと(桑田のちから)
2013-02-11
久方ぶりに家でゆっくりする休日。音楽を掛けながら気ままに過ごす。
いつもながら桑田佳祐の楽曲を流す。
意図しない曲の歌詞や曲調に心が揺さぶられる。
やるせなさと喜びと。
なぜだろうか?彼の曲を聞くと“今”の自分が浮き彫りになって来る。心の底で錯綜する今の気持ちが顔を覗かせて来る感覚である。その1フレーズ・メロディが正直な自己を炙り出してくれるのである。過去に何度も聞き込んで来た彼の曲であるが、自分自身が新たな局面に至ると、また違った響きを提供してくれる。そんな色褪せない音楽が、まさに“桑田のちから”である。
それだけに数ある彼の曲には、どれも自分の心のアルバムが附されてるようでもある。まだ恋など知らぬ頃に聞いた「勝手にシンドバッド」の鮮烈な曲調。恋の味を少しはわかるようになった頃の「海」。更に大人の恋を味わうようになってからは数々の曲に共感できるようになった。そしていつもやるせなさと喜びが潜んでいる。
家で過ごした日曜日。夕方になり「ちびまる子ちゃん」を観てみた。するとエンディングで「100万年の幸せ!!」(さくらももこ作詞・桑田佳祐作曲)が掛かる。またアルバムで聞くのとは違った趣に酔った。
「今を生きてる喜びが宇宙(そら)を駆ける
風のしらべ川のせせらぎ
胸の鼓動のリズムで踊れ
希望の螺旋を描き青空に向け
手を伸ばせば明日があるさ
新しいキミがいるから
たった100万年ほどの幸せを掴もう
輝くこの地球(ほし)に
Oh, 愛を刻み込もうよ」
まさに「ちびまる子ちゃん」と桑田の世界観の融合。
アニメ画面にもギターを持って曲を歌う桑田が登場している。
何とも幸せな日曜日の夕方が迎えられた心境になる。
「夢のかけらを集めて旅に出ようか
果てなき道 虹の彼方へ
歩いて行こう Ah・・・
It’s alright.」
歩いて行こう!!!
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『クリスマスだからじゃない』特別な毎日こそ
2012-12-26
今年もクリスマスという“特別な日”かのように仮構された1日が過ぎて行った。バブル期頃からであろうか、その仮構としての虚飾度が表面的に増しているのがたいそう気になっている。それだけに日常をどのように過ごしているかが試されているかのような逆説に、自らを陥れたりもする。イブは、馴染みの洋食屋さんに出向き、奥さん手作りのケーキを家族のように御相伴にあずかった。こんなありがたさも、僕自身の日常の行動に依拠する。(と自負する。)クリスマスソングの一押しは何か?という問いがある。先ほど、“バブル期”と書いたのは、それが山下達郎の「クリスマスイブ」と関わっているからである。当時、JR東海の新幹線CMに使用されたこの曲は、クリスマスに恋人がやっと逢える切なさを、この上もないほどに演出し未だに市民権を得ている。だがしかし、今年のクリスマスソングとして僕が一押しであったのは、桑田佳祐のアルバム「I Love You Now&Forever」(2012年7月発売)に初めて収録された「Kissin’ Christmas(クリスマスだからじゃない)」(松任谷由実作詞・桑田佳祐作曲)である。
「道行く人の吐息が星屑に消え
気づいたら君がそっと手をつないだ
忘れちゃいたくないよね今夜の瞳
泣きそうな街中よりキラキラして
クリスマスだから言うわけじゃないけど
何か特別な事をしてあげる」
こんな歌い出しの曲であるが、静かな雰囲気に劇的な影は封印され、素朴な恋人達の心が見え隠れする。「泣きそうな街中」とはどう解せばよいか。はてまた「何か特別な事」とは何か。
「これから何処に向かって進んでるのか
時々わからなくて哀しいけど
きっと大丈夫だよね今夜の瞳
新しい日を夢で変えてゆける
クリスマスだから言うわけじゃないけど
何か大切な事ができるような」
このように続く2番の歌詞では、これからの2人の行く末はわからず、「哀しい」という日常が顔を覗かせる。しかし、このクリスマスの日の「瞳」を見る限り、今後を「夢で変えてゆける」ことを確かめ合う2人がいる。そして「何か大切な事ができるような」と、クリスマスの意義を噛み締める。
曲の後半は、いくつかのリフレインで構成されるが、そこで述べられるのは次のような歌詞である。
「今年の出来事がすべて好きになる」
そしてその理由は、
「今年の想い出にすべて君がいる」
と吐露して曲は結びとなる。
またリフレインの合間合間には、
「主は来ませり」のメロディや
「もういくつ寝るとお正月」というコーラスが挿入され
クリスマスムードとともに
これが終わればお正月に向かうという
日本的情緒への接続が意識されている。
あなたにとって
「何か特別な事」
「何か大切な事」
とは何ですか?
「泣きそうな街中」の電飾やクリスマスケーキといった
表面的な「特別」のみではない
「何か大切」なものを胸に刻みたい。
そんな心穏やかな1年のまとめとしてクリスマスは過ごしてみたい。
“バブル”という虚飾に嫌悪感を抱いていただけに、
僕はあらためてこの曲で、真に豊かなクリスマスの感情を獲得できた。
それは、様々に喜怒哀楽はあれど
「今年の出来事がすべて好きになる」
ことである。
さて!
いよいよ「もういくつ寝ると」と数える時が来た。
特別な毎日を今日も生きる。
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アイリッシュな響きと香り
2012-12-08
懇意にする神保町のボン・ヴィヴァンでアイリッシュナイトが開催された。女性2名ユニット「生梅」によるイーリアンパイプ&ハープ&ティンホイッスルによるライブである。なかなか普段ではライブで聞くことのできない音色の共演。しばし、アイリッシュに思いを馳せながら魅惑的な時間が過ぎて行った。パイプから音が出るのはどんな構造であるのか。見るからに単純ではないその構造。脇にある“ふいご”のような供給機から皮の袋に空気が送り込まれて、その皮を圧迫することでパイプへのエネルギーが供給されることになるそうだ。パイプ上で指が動いて旋律を作り出してはいるが、その脇構えにある装置に音の源がある。空気がどれほどの美しい音に変換されるか。「肺—喉—口」の関係を楽器として可視化したようで、実にその構造に興味が尽きなかった。
そして僕としては珍しくアイリッシュウイスキーの香りを楽しんだ。優しく甘みのある良質な香り。ワインとはまた違った香りの楽しみ方ができた。必然的にイギリス西部にある島国の地理や風土に話題が飛ぶ。あの中立的な位置関係にあり、海に囲まれた地理的条件が生み出した独特の文化。どこか日本的なものとの類似性と結び付けたくもなる。演奏後は、アイルランドに住んだことがあるという初顔のお客さんと、しばしイギリスでの体験などを語り合った。
欧州諸国で英国ほど入国審査が厳しい国はない。僕も遥か昔であるが、入国に際し多くの時間を要した経験がある。だがしかし、英国人曰く「日本ほど五月蝿くはない」のだそうだ。海に囲まれた“島国”であるという密閉性が、どんな文化を育んで来たのか。アイルランドも含めて、英国周辺の文化との比較から学ぶことも多くありそうだ。
パイプ&ハープの調べ
しばし喧噪を離れ
夕刻の地震も忘れる宵のうち。
豊かな心とは、こんな時間から醸し出されるのだ。
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