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映画「憧れを超えた侍たちー世界一への記録」

2023-06-18
栗山監督の小まめな声掛けから
翔平さんの心は熱くいつも冷静なメンタル
そして源田さんの小指が逆を向いていても走塁に行くという意志

あの準決勝・決勝のテレビ観戦は、明らかに僕の人生史に刻まれた。今年3月のWBCのことである。ここのところ僕の私事による心の疲弊を妻は深く察したのだろう、午後のオンライン学会に出席する前に「夜は映画に行かない」と誘ってくれた。標題の映画は6/2(金)に封切りで、直後の週末にでも観に行こうかと当初は思っていた。だが諸事によりその存在さえも忘れてしまう日々が続き、昨日に至った。上映期間も3週間限定、さらに1週間が延長されたとはいえ見逃してしまいそうな状況を妻が救ってくれた。上映が始まるとあの2月3月の熱い思いに、一気に引き戻された。さらに僕らが合宿や試合が進む間には、決して知ることができなかった舞台裏には感涙する場面が多々あった。もちろん2/17(金)の宮崎合宿初日の映像も含まれ、当日は妻と心を踊らせて球場に向かったことが思い出された。

これから観る方のために詳述は控えつつ、特に僕自身が印象に残った点を覚書としたい。まずは何といっても栗山監督の小まめな選手・コーチへの声掛けである。その謙虚さと人間的な温かみ、そして選手の「上に立つ」のではなく、常に心血を注いでくれる選手たちに感謝を忘れない。スポーツ界のみならず、今までの日本にはなかったリーダー像を具現化してくれている。「声掛け」という意味では大谷翔平さんも同じ、大きな存在ながらチームを盛り上げて行くささやかな声掛けを常に忘れていない。そしてあの最高のパフォーマンスの陰には、熱い思いとともに常に状況を冷静に分析するメンタルの豊かさがあったことを知る。さらには源田さんが韓国戦の二塁帰塁時に小指を骨折しながらも、ベンチで痛み止めを服用し走者として試合に戻り、貴重な1点の本塁を踏んでいるシーンには痺れた。もちろん怪我を押す行為が好ましいというのではない、「勝つ」という宮崎合宿からのチームの意志を貫いたことに讃辞を送りたい。その後も優勝まで源田さんがチームを離脱することはなかった。しかし、シーズンに入り1ヶ月以上の治療やリハビリ期間を要していることを忘れてはならない。チーム編成会議からの「一言」「一球」「一打」「一走」の全てが、「憧れを超える」ために一つたりとも欠けてはならない要素だったのだと思う。

日本野球の実に素晴らしいこの時に立ち会えた幸せ
やはり野球は楽しい、そして素晴らしい
監督をはじめ過去の強引で偉そうなイメージを変えた真の侍の姿がそこにある。


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箱根駅伝とラグビーと国立大学

2023-01-04
「決して良い環境ではない国立大学が準決勝まで・・・」
(ラグビー大学選手権TV中継アナの言葉から)
箱根駅伝出場校に見る私立大学のあり方のことなど

正月のTV番組といえばスポーツ中継で、とりわけ「箱根駅伝」は2日間のほぼ半日が無批判に流れているご家庭も多いのではないだろうか。概ね視聴率は関東で20%台後半、昨年大晦日の紅白歌合戦が35.3%で史上2番目の低さと報じられている。それからすると時間帯で差はあるものの、1スポーツ競技がこれほどの視聴率を上げるのは驚異的と言わざるを得ない。僕自身の意識でも箱根駅伝中継を観ていると主要なスポンサーのCMには印象深いものが多く、宣伝効果が高いことが窺える。よく見ると出場各大学のユニフォームには、スポーツメーカーを中心にスポンサーのロゴなどが貼られており、どうやら2021年からスポンサー取得と表示が可能になったのだと聞く。視聴率とスポンサードに注目するのは他でもない、まさに選手たちのユニフォームに表示される「大学名」においても大きな宣伝効果があることは間違いない。関東学生陸上連盟が主催ゆえに、関東地方の大学しか現状では参加できない。しかし、来年は100回記念大会ということから「関東以外」の予選参加を認めるということらしい。ともかく後の結果報道を含めて、箱根駅伝参加校の「大学宣伝効果」は実に大きなものがあることを認識すべきだろう。

既にお気づきだと思うが、箱根駅伝のほとんどの出場校が私立大学である。今回でも「学生連合」という参考記録として参加するチームに筑波大学の学生さんが1名入っていたのが、僕の気づいた唯一の国立大学所属選手であった。僕が懇意にする方で「筑波大学単独チーム」で箱根を走った経験のある人がいるので、予選会を通過して「筑波大」が参戦した年があることは知れる。それ以外はもちろん過去の記録を見返したわけではないが、現状では「私立大学」の独壇場な競技会となっている。前述した視聴率とスポンサードの商業主義的な数字を見ても明らかだが、多くの私立大学が学生募集の知名度を上げるという効果も狙っていないわけではない、などと穿った見方もできる。現に僕の初任校の高校がそうであったが、大々的に報道されるスポーツ競技で全国大会レベルの部活動があると、志願者の倍率がかなり高まるという現象があるのは確かである。当該競技の選手層のみならず、吹奏楽部やチアリーダーなど志願の学生たちが受験し偏差値も上昇する効果がある。箱根駅伝初日が終わって、全国大学ラグビー選手権の中継を観た。僕の母校は薄氷の勝利で決勝に進んだが、2試合目で筑波大学が帝京大学に大差をつけられ準決勝で敗退した。その際に、冒頭に記したような言い方をアナウンサーがしていた。当該試合の対決は、まさに商業主義的な学生募集競争においては蚊帳の外にある国立大学と典型的な私立大学の対戦でもあった。この国の大学のあり方を、ある意味で如実に表わした現象を正月早々から見せつけられたと言えるのかもしれない。

私立中高大学で育った身として考える
この国の国立と私立のあり方は果たして健全なのだろうか?
医学部の学費などに大きな差があることなど、世間が認知していないことも多い。


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礼節・清掃・折り紙

2022-12-08
サッカー日本代表が讃えられたこと
サポーターの人たちの観戦後恒例の清掃も
向き合う人に礼を尽くし平和な世界を作る源へ

いっときの精神高揚した喧騒で終わることなく、我々は世界各国の文化を鑑にして自らのあり方を見つめるのもスポーツ祭典の大きな役割だろう。森保代表監督が常に口にしていた「一喜一憂しない」というのは、我々が歴史・文化的に過ちをくり返さないための大切な警句である。ドイツに勝ち、スペインに勝ち、「死の組」といわれる予選リーグを1位通過した。代表チームを含めて、どこかこの成果に満足していたところはないか?それでもなお再び「ベスト8」の壁を破れなかったのは、乗り越える準備が疎かになってはいなかったか?自国チームを過大評価するのは必然かもしれないが、代表チームの弱点を我々は自覚していたか?己の弱さを知らねば、相手への敬意も持てず「闘い」は明らかに劣勢になることを、過去の様々な歴史から学ぶべきだろう。それは代表チームやサッカー関係者のみならず、社会を構成するすべての人々が世界を鑑に己の弱さを知る必要があると思うのだ。

大会はまだまだ続いているが、日本代表チームやサポーターが世界から賞讃された事例にも注目したい。森保監督をはじめとする選手たちの「礼節」、グランドや審判・関係者への深々とした敬意を示す一礼は、前述した己の弱さを悟るための身体的動作の一つと言えるかもしれない。「敬意」を示さねば、相手も「弱さ」を見せることはない。また利用した場所の徹底した清掃、代表チームはロッカールームの清掃はもちろん、使用後には「折り鶴」が置かれスタジアムの人々に笑顔を届けているらしい。また応援の声を絶やさなかったスタンドのサポーターの方々も、ゴミを集めて使用した観客席を清掃して引き上げることはあまりにも有名になった。どうやら他国のサポーターで見習うところも出てきたらしい。この「場所への礼節」こそが、「平和」への第一歩なのではないか?奇しくもこうした「文化」は、学校の中で教えようとしている大きな柱に共通する。世界の諸文化における相対化を考える、サッカーW杯という大会の背景たる意義がここにもあることを知る。

相手が何を考えようとしているか?
それをまずは敬意を持って聴こうとすること
僕たちが誇れるもは弱さから再認識するのである。


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PK戦は本当に見られない

2022-12-06
「見られませんね」という本田圭佑さんの解説
もはや技術や精神や時の運も超えた競技上の非情
社会ではこうした「決め方」をしないようにせねばならない

寝不足感とともに、口惜しく残念な気持ちを引き摺る朝だ。W杯決勝トーナメント1回戦、日本対クロアチア戦は、1対1で延長前半後半30分まで闘って決着つかず。PK戦での決着に持ち込まれたが、日本のPKを次々とクロアチアのゴールキーパーに止められ敗戦という結果となった。もちろん日本のゴールキーパーの権田さんも検討し最後まで1本のシュートを止めたが及ばなかった。もはや誰それが外した云々ということは取り上げるのも忌まわしく、本来はキーパーの働きさえも書きたくない心境だ。スポーツで勝負を決めるための延長やプレーオフの方法は多々あるが、サッカーのPKほど非情な方式はないように思う。(もちろんゴール系の他の種目も同様な状況があるのかもしれないが、管見では知り得ない)それまで組織的にチームで相手に対抗していたのが、急に「蹴る一人」「守る一人」の「一対一」に勝負の全てが託される。チームとしては肩を組むとかして、その「一人」の幸運を祈るしかないのだ。

初任校で高校教員をしていた時、サッカー部が全国大会で優勝候補にもなる強豪校であった。ゆえに都予選から、全国高校サッカー選手権大会まで数多くの試合を観戦に出向いた。もちろんPK戦となった試合もあり、試合展開では優位に立っていたはずという思いの中で生徒たちがこの「非情の儀式」で敗戦を喫したこともある。試合展開の中で頭に怪我までしたストライカーが、虚しくPKに散ってしまった姿には、教え子ゆえに涙を流さずには会場にいられなかった。もちろん彼はその後、Jリーグで名だたるストライカーとして活躍するに至った。あの敗戦は、次への階梯への「バネ」になったのであろう。はてまた旧国立競技場での決勝で、延長引き分けというケースもあった。この場合、PK戦はやらずに「両校優勝」という大会規定であって胸を撫で下ろした経験もあった。「それがサッカー」と言えば、それまでである。社会にも人生にも、非情な厳しさがある。だが実力のみでは測れないこの方式には、日本代表としても2回目のベスト8目前の敗戦だ。「PKにも強い選手を養成すべき」ということなのか?いや、PKに持ち込まない戦い方ができる代表チームとなるべきだと思う。どんな次元のどんな競技でも同様だが、「ベスト8」はそう簡単ではない。この段階で120分「1対1」という結果を、明日への希望として日本代表サッカーは、歩みを続けて欲しい。

社会ではPKにもならぬ独裁・強硬な決着が目立つ中で
スポーツの非情さが平和への一歩になりますように
30年間積み上げた努力の先へ、サッカー日本代表の「夢」は新時代を迎えている。


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ミリの可能性を考える

2022-12-03
サッカーW杯「スペイン対日本」
決勝点前のライン上
ミリの可能性をどう考えるのか・・・

サッカーW杯「スペイン対日本」決勝点となったゴールが話題になっている。ラインを割りそうなボールを三苫さんがセンタリングし、幼馴染の田中碧さんがゴールに押し込んだあのシーンだ。TV映像やWeb記事に新聞写真でも、ほとんど「ラインを割っている」ように見える。この1点で敗戦となったスペインのメディアなどでは、反対に相手チームがこのゴールで決められたらと考えると容易に想像できるが、大きな物議を醸しているようである。しかし「VAR」判定によってゴールが認められ、当該システムへの信頼度の高いスペイン代表の監督などは抗議することもなかったようだ。昨今、諸々のスポーツで先端技術を駆使した判定法が導入されている。正直なところ、野球などでは「正確過ぎ」とさえ思えることが多々あり、審判の存在そのものへの疑義さえも感じていた。だが、あくまで人間の五感は「思い込み」に左右されてしまうことも多く、迫真の技術が展開する競技においては、「ミリ単位」の精度と妥当性に委ねるのも、むしろロマンと醍醐味があることを知った今回のゴールであった。

Web記事等の聞き齧りであるが、「VAR」システムとは競技場全方位からの映像とともに、ボール内に「センサーチップ」が埋め込まれているのだと云う。事実上、今回の日本の勝利によってドイツ代表は決勝トーナメントに進出できなくなったのであるが、皮肉にもドイツで創業した「キネクソン社」という会社が製造したチップであるらしい。その「センサーチップ」の働きは一般人では想像できないような精度であるらしく、まさに「ミリ単位」でボールが「ライン上の空間」に存在したかどうかを計測できるのだと云う。スペインリーグなどでは既に汎用されているシステムらしく、この精度にはどう足掻いても逆らうことはできそうにない。もとより、自らがアウトだと思い込んで諦めることなく、人間の知覚では捉えらえない可能性に賭けてセンタリングを上げに行った三苫さんの「超高度なプレー」を賞讃すべきが、世界をボールひとつで公平に平和にできるサッカーの醍醐味ではないのか。それを「奇跡」と呼ぶのは簡単だが、そうではなく電子の精度においても証明されるアスリートの「超絶技」なのだと考えたい。サッカーという素朴な競技であるからこそ、その精度は問われるのであろう。今大会は女性審判員も積極的に導入され、サッカーによる世界の平等や公正がもたらされる可能性を存分に感じられる大会だ。実は日本が世界に誇れるのは、こうした「ミリ単位」の所業ではなかったのか?

2大会連続決勝トーナメント進出
アジアのチームで初の快挙である
自分たちができることを可能性を信じてやる、それができない人があまりにも多いのだが。


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「和」の作用〜一喜一憂おもてうら

2022-11-28
「和」の精神
「なごむ」「やわらげる」「柔和」「親和」
「一喜一憂」を警戒したが「強豪に勝利」の奢りなのか

物事は諦めれば何も始まらないのと同時に、奢れば必ず落とし穴がある。FIFAW杯「日本対コスタリカ」を観たいと思いTV放映を調べると、NHKは衛星を含め生中継なし、民放で放映権を持っているのがTV朝日系列、こうなると民放2局の宮崎では「TV」で生中継が観られない。スポーツ中継で結果を知っての「録画視聴」ほど、興奮度が半減するものはない。ひとたびは諦めかけたが、調べてみるとWebTVで観られることを知った。早速、登録設定をすると、思いのほか簡単にスマホ・タブレットで視聴できるようになり、TVにつなぎ生中継を楽しむことができた。こうしたスポーツ生中継の放映が無いのは「宮崎あるある」だそうだが、それもWeb社会への変革により状況は一転している。短絡的に諦めれば、生中継を観る醍醐味を失うところだった。もひとつの葛藤は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、この日は「三代将軍実朝暗殺」という山場、こちらはBS放映で18:00から観て、辞世の和歌が朗詠され思わず涙する場面もあった。その後、19:00からWeb中継に集中することができた。

それにしても「ドイツ戦に勝利した」という点が、メディアも我々ファンも頭から離れない「空気」に支配されていたのだろう。どこかで「選手たち(日本代表チーム)はそう思っていない」と信じつつも、スペインに「7対0」で敗戦したコスタリカには「勝てる」という奢りばかりが先立たなかったか。森保監督の「一喜一憂せず」というドイツ戦勝利後の言葉の背後には、「一喜一憂する」という危険性が語られていた。考えたのは「和」という、この国の精神性。試合後のスタンドやロッカールームを綺麗に清掃する点が、「なごむ」文化として外国メディアから賞讃された。しかし我々が接する国内メディアでは、「歓喜の勝利」「ドーハの奇跡」などという喧伝が目立っていなかったか。それは僕自身も自省するところであり、「欧米列強」という語を使用しサッカー界の30年の躍進を小欄でも讃えた。思うに、まるで「日露戦争」の勝利のようにメディアの発信と世論が交錯し「たかが奇跡による一歩」を「肩を並べた」と勘違いする「空気」を醸成した。この時点で来るべき戦いで奢りによる大きな代償を受けねばならぬことを、僕らは歴史で学んでいるにもかかわらずである。コスタリカ戦はまさに相手のペースに「なごむ」ことで、「守り切って1チャンスで得点する」という術中に嵌り切った印象があった。昨今よく「一丸となって」と吐く各分野の人々が多いが、「一丸」は「変化」に脆弱であることを心得ておくべきだ。

無垢に向き合う謙虚さ
相手への「慈しむ心」があれば自ずと視野は広がるが
相手への奢りがある時点で落とし穴があることを自覚するべきだろう。



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失われた30年と着々と登るサッカー界

2022-11-26
バブル崩壊以後の日本
政治・経済・社会に云う「失われた30年」
しかし、サッカー界は違っていたことにようやく気づく

「コロナ禍だから」何かと言い訳がしやすい世の中になった気もする。例えば、我々のような大学教員が「オンラインだから」と言うのも同じ。学内外を問わずその点には「オンラインであっても」と言いたい自負が僕は強い。2年半前から「オンラインでこそ」学習効果が上がる方法に、向き合い続けてきたからだ。実際に、対面以上の授業内容や効果だと思える担当科目も少なくない。対面になっても「オンライン」で培った有効な方法は活用し続けている。世情ではほとんど「言い訳」にもならない答弁で逃げる姿勢が、「国会」という国民を代表して議論する場で相次いでいる。ここまで「政治は劣化」したかと耳を疑う事例ばかりだ。少なくとも政治を始め、経済や世界的競争力など、この30年で劣化甚だしくこの国は窮地を迎えている。だがサッカー界はどうだろう?そんなTweetなどをいくつか目にした。1993年「ドーハの悲劇」から30年、ちょうど「Jリーグ」が開幕した頃。大衆的なスポーツといえば野球一辺倒であったこの国が、「サッカー(フットボール)」でも世界を目指し始めた。地域に根ざしたクラブチーム作り、世界の名だたる選手が移籍する器ができたことで、最高峰の技術が身近になった。

その後、日本選手の技術が向上するにつれて、海外に移籍する選手が次々と出てきた。サッカーの本場、欧州の名だたるチームの一員となり、決して引けを取らずレギュラーを勝ち取る選手も少なくなかった。前述した「Jリーグ」が地域に根を下ろし、幼少の頃から子どもたちの育成に向き合い、自ずと指導者も育成される。あらゆる世代・組織役割において、「育てる」ということに妥協はなかったのだろう。資金面でも同様だ、「Jリーグ」による収益は躊躇なく「次世代への投資」に投入される。Web記事に拠れば、今回のW杯メンバーで欧州で活躍する選手に「怪我の不安」などがある場合、医師などのサポート体制を欧州拠点に据えて来たのだと云う。森保監督がメンバー選定をする際に「怪我の不安」が払拭できたのは、こうした資金を活用した支援体制があったかららしい。昨夜もTV番組で岡田武史さんがくり返していたが、「今回のドイツ戦の勝利は奇跡でもなんでもない。勝つための準備をしてきた結果だ。」という言葉に如実に表れている。振り返れば1990年代、サッカー部が全国レベルの勤務校の「国語」の授業で、僕は当時の岡田さんが記した論を教材にしたことがある。育てることに投資する「日本サッカー」の方針は、明らかに教育界全体にあるべき姿勢のはずだ。「言い訳をしない育成」「言い訳をしない結果」、まだたかが「ドイツ戦1勝」でしかないが、社会全体の劣化の中でサッカー界の躍進に学ばずしてどうするのだろう。

1997年大学院修士課程入学
現職教員として「自己投資」し続けたことが今に至る
あの頃、日本サッカー界の黎明期について深く考え自らの学びにしておいてよかった。


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富士山の頂上に登る気なくしてー「欧米列強」という意識

2022-11-25
岡田武史さん解説での比喩
「奇跡」ではなく「一喜一憂」せず
スタンドやロッカールームの清掃が話題にもなって

やや眠気に襲われる1日を過ごした、というのも前晩にW杯「日本対ドイツ」を最後までTV観戦したからだ。終盤に興奮する場面が集中していたからか、あまり深く寝付けなかった気がする。それにしても「よく勝った」という思いを持っていたが、いくつかの点で省みるべだと考えた。もとよりW杯本戦に出場できているのに、対等に向き合えない筈はない。スポーツは「水物」であり優勝4回・準優勝4回と決勝まで8回進出しているドイツであっても、今回のチームがどれほどかは未知数であるはずだ。またサッカーは守り切って「0対0」ならば勝ち点1、個人技で劣っても組織で守れば勝機はある。冷静に考えればこうなるのだが、どうしても「ドイツ(欧米列強)には敵うわけがない」という劣等意識が僕たちのDNAに刻まれているのを感じざるを得ない。ところが今回の日本代表は違っていた、前半のPKによる痛い失点がありながら1点で凌いだ。前半最後の方でドイツのシュート機会が「オフサイド」と「VAR判定」で認定されたことも大きな岐路であった気もする。後半へ向けてシステムを変更したことが、前半の劣勢を忘れさせる組織的戦術が功を奏した。

昨日になっての番組において、元日本代表監督の岡田武史さん曰く「富士山の頂上に登る気なくして本当には登れない」と、「頂上に登るための準備をしてきたはず」という弁に納得した。今回の開催地のドーハは、1993年10月28日、W杯初出場まであと1勝の日本代表が対イラク戦で終了間際ロスタイムに同点とされ、出場を逃したという日本代表にとって「悲劇の地」であるのだ。まさにあらゆる「劣等感」を引き摺らざるを得ない環境でも、冷静さと高い意識を失わなかった日本代表チームに学ぶことは多い。あの日、相手のショートコーナーから「同点にされた」瞬間を僕は今でも忘れない。当時はサッカー部が全国優勝をするような勤務校にいたので、翌日の授業ではサッカー部の連中と「悲劇のショック」について語り合ったのを記憶する。あれから「29年」、日本という国の政治・社会はともかく、明らかに「サッカー日本代表」は進化したのだ。その後のW杯出場経験や、日常的なJ1・J2・J3を始めとする国内のサッカー界の積み上げには敬意を表したい。組織力と戦術、そして多くの選手が欧州などで個人としての力も上げている。明治以降154年の「欧米列強」意識は、これによってやっと大きな分水嶺まで辿り着いた印象だ。最後に、選手のロッカールームやサポーターらのスタンドがいずれも使用後に綺麗に清掃がなされていた、という点を海外メディアが盛んに喧伝している。SDGsなどを考える上でも、清掃や整理整頓におけるこの国の意識は、「世界が求める範」になる可能性を感じさせた。

思考は現実化する
思いを抱くのみならず意識と実行と決断と
世界の中で劣勢なことが多いここ最近、一抹の希望をサッカー日本代表が見せてくれている。


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スポーツと文化のこころー社会の成熟を考えて

2021-08-09
「文武両道」という信念
考えてこそ高次元のパフォーマンスが
スポーツと文化に彷徨うこころ

TOKYO2020閉会式を観ていて、何とも言葉にし難い虚しさが感じられた。仮にオリンピックを「世界的なスポーツの祭典」だとすると、開催国が式典で示す存在価値が強く意識されたからだろう。世界に誇りをもって示すことができる「この国の文化」とは何か?次期開催都市のパリのデモンストレーションがあったことで、余計に「文化」という意味での深層に何が根ざしているかを感じざるを得なかったのだと思う。あらためて世界的なパンデミック下で開催されたTOKYO2020の開催都市のある国の住民として、「今こそこの世界において、何をどのように考えて今後を生きるのか?」を一人ひとりが深く胸に刻むべき時ではないかと思う。同時に自分自身が何に根ざして生きてきたのか?東京1964から57年の時を経て、自分自身が何をどのように生きてきたのかを回顧させられるような「灯台」のような意義もあったような気がしている。あらためて世界と地域の人々と手を携えて、自分に何ができるかを考える貴重な機会でもあった。

幼少の頃から「本好き」「絵画好き」であった僕が、次第に「剣道」「野球」「器械体操」と小中高では「文武両道」を信念とする生き方を選んだ。大学でも「運動」をという思いも少しはあったが、そこで「文学」「書道」へと志向を転換した。「文武」の断層に様々な思考的彷徨をしながらの4年間であった気がする。学部卒時に大学院進学を迷った挙句、現場好きなこともあって高校教員となると、赴任校が全国レベルの部活動があったために「文武」のメーターが再び「武」に傾くことになった。汗臭いロッカー、運動に青春をかける生徒たち、全国大会で優勝する喜びを麻薬のように体験してしまった僕は、部活動や応援に20代の青春を費やすことになる。しかし10年もするとそのままの青春が人生でやりたいことなのかどうか?大きな疑問に苛まれた。あらためて「文学研究」の道を遅ればせながら志向することになる。何事もそうであるが「プロ」となるには「専念」する時期が必要になる。中高教員をしながらも修士・博士後期と進学して歩んだ研究者への道、自ずとスポーツは「趣味」の領域に押し込んでおく必要もあった。今思えば、修士修了して博士後期入学をしたの2000年シドニー五輪から、アテネ・北京・ロンドン・リオデジャネイロの5大会についての記憶は甚だしく薄い。そして今、あらためて「文学」を中心に据えながらも批評的にスポーツが観られる環境が整った。この国の「文化的次元」を憂えつつ、閉会式を批評的に捉えるのもそのためだ。

文学と社会を結びつける短歌
僕が経験してきたことでしか成し得ないことは何か?
PARI2024にもぜひ行ってみたくなった。


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「接近・展開・連続」の倫理

2019-10-26
スポーツにおいて日本が世界に勝つには
「常に近くで相手をつぶし、マイボールは相手との接触を避けて早く展開する。
 そしてこれを一試合通じてひたむきに繰り返し続ける。」
(『闘争の倫理』大西鐡之祐(文庫版)巻頭「推薦の言葉」岡田武史より)

序や前書きを読んで、すぐさま入り込みたくなる本がある。今回のラグビーW杯に触発されて、「スポーツとは何か?」ということや「日本が世界を相手にする際の挑み方」というような問題意識が喚起された。僕自身も剣道・野球・器械体操を小中高校で経験し、「スポーツ」の魅力や効用を体験的に理解しているつもりだ。大学学部でも何らかのスポーツを、と入学当初は考えなくもなかったが、「大学には文学を学びに来た」という意志が強く作用し本を読む道に没入した。だが学部卒業後に就職した初任校はスポーツが盛んであったことから、再び高校でも全国レベルの競技を身近に親しむことになった。「全国で勝つには何が必要なのか?」教室で部員たちに「国語」を教え、放課後のグランドを観察したり時に合宿まで同行させてもらい、その「秘密」を自分なりに考えていた。その時にふと思い出していたのが、「大西鐡之祐」の名前であった。

大学学部時代は文学部の学生でも一般教養として「体育実技」(2競技2単位)と「体育保健理論」(1単位)の二科目が必修であった。「理論」の方は「ぜひとも大西鐡之祐先生の講義を取るべきだ」と先輩に教えられた。大変な人気科目で登録するには抽選となって、残念ながら履修は叶わなかった記憶がある。今回のW杯ラグビーを観ていると、やはり「大西鐡之祐先生」の考え方を辿りたくなり、冒頭に記した書籍を紐解いた。未だきちんと読み進めていないが、冒頭にある岡田武史氏(早稲田大学OB)の「推薦の言葉」だけで心が熱くなってしまった。岡田氏は大西鐡之祐先生が「日本が世界で勝つには」という条件として、「接近・展開・連続」を挙げて成果を出していたことを紹介している。この三要素は、まさに今回のW杯日本代表がプレーの上で実行したことである。あまりに的確な予見であり、恐ろしいほどの迫力を同書から感得したのであった。

そして「はじめに」にある予見に身震いを覚える
「理論書ではなく哲学書だ」と岡田氏も絶讃する
副題「スポーツの本源を問う」まさに「倫理」を追究する好著で読み進めるのが楽しみだ。


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