0.001の美学ー体操新時代の破格

2017-10-10
白井健三が床と跳馬で金
村上茉愛が床で日本女子63年ぶりの金
世界体操選手権に破格な新時代選手の台頭が見える

白井健三が世界体操選手権で、床に続き跳馬でも金メダルを獲得した。2位選手との差は「0.001」という微妙なものとはいえ、インタビューで「その差こそが(練習などで積み上げて来た)自分のこだわりだと思います。」といった趣旨のコメントをしていて大変感心した。器械体操の採点のあり方は一般の方にはほとんど理解しづらいだろうが、技の高度化に伴ってこうした微細な差が勝負を分けるほどの精密さの上に成り立っていることは想像がつくであろう。高校時代に器械体操の経験がある僕にとって、白井の技の難度の高さはまさに破格である。一応、どんな技をどのようにしているかは、経験から十分に理解できる。だがそれを実現できていることが誠に驚きなのである。

中学校までの野球から高校で器械体操に転向した僕にとって、それは身体作りからして大きな自己改革の試みでもあった。中学校から体操をして来た同級生たちに負けじと、どちらかというと理論派の僕は、ロシアの体操教本が翻訳された書物を買い込んでよく読んでいた。その中には基本的なことから高度の技まで、イラスト図解で丁寧な解説が施されていた。多分その時代のその教本にも、白井健三が現在実現している技の可能性は示されていたように思う。だが初心者なりにそれは理論上で可能なだけであって、人間技として実現できるなどとは思っていなかった。だがそれからの歳月において、もちろん高度で科学的な運動分析や練習方法の導入もあろうが、理論は明らかに現実のものとなっている。また「63年ぶり」が物語るように、村上の女子床での金メダルも誠に破格な偉業である。あれほどのパワフルさとバネを兼ね備えた床演技は、これまでの日本女子では到底考えらえない次元だと感じられる。

何事も理論上と諦めないことだ
為せば成る為さねばならぬ何事も
自己の身”体”を究極に”操”る動作の実に美しいことよ。


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横綱稀勢の里の優勝に思う

2017-03-27
横綱稀勢の里優勝
昇進時の「精進」を有言実行
物事は総合的に見てから判断せねばなるまい

昨日小欄に書いた記事を、聊か訂正しなければなるまい。大相撲春場所千秋楽で、重い左肩の負傷を抱えながらも、横綱稀勢の里は大関照ノ富士に勝ち優勝決定戦に持ち込み、そこでも堂々の相撲で2番連続で勝ち優勝を決めた。前日14日目に負傷を押しての相撲は、あまりにも力なく状態は厳しいと誰の目にも映ったはずだ。だが、この日は痛みさえも感じさせない相撲を見せたが、さすがに優勝賜杯を抱く時には、顔を顰める場面もあった。「怪我を押して」には賛否があろうが、これぞ横綱昇進時に稀勢の里が一言素朴に述べた「精進」の体現ということだろう。「精進」とは元来は仏教語で、『日本国語大辞典第二版』によれば(1)ひたすら仏道修行にはげむこと。(2)「転じて、一定期間、言語・行為・飲食を制限し、身を清めて不浄を避けること。」(4)「一生懸命努力すること。」(5)「品行をよくすること。」(一部記述を割愛)などとある。この日の稀勢の里の水を受け塩で清める姿には、まさに相撲とは何ぞやを考えさせる迫力があった。

それにしても「勝てる」という予想は、誰もがしなかったであろう。むしろ対戦相手の照ノ富士の表情にこそ、大きな油断が生じていたように思われる。物事は最後まで、その結果はわからない。あらためて、総合的に見てから判断する必要性を学んだ気がした。怪我を押してが、周囲からの強要や「空気」によって為された訳ではなく、あくまで自身との対話と矜持をもっての決断であったゆえの結果であろう。欧米ではこうした場合に、まったく合理的な判断がされるかといえば、そればかりではない。1988年ワールドシリーズ初戦のドジャース対アスレチックスの一戦は、9回裏アスレチックスが4対3でリードして守護神の登板。走者1塁の場面でリーグチャンピオンシリーズで足を負傷したカーク・ギブソンをドジャースの名将・ラソーダ監督は代打で起用した。1球2球目の空振りスイングを見るに、軸足の痛みが激しそうで、誰もが打てる望みは薄いと感じたことだろう。だがギブソンはファールで粘り続けるうちにタイミングが合いだし、フルカウントまで粘った後に逆転サヨナラ本塁打を右翼席に放った。そのスイングは、ほぼ左打者の右側壁一枚(つまり右手・右足のみで打つような変則スイング)で持って行ったという印象であった。ギブソンは足を引きずりながらダイヤモンドを一周し、歓喜のチームメイトが出迎える本塁を踏んだ。結果的にこのワールドシリーズは、ドジャースが制することのなるが、ギブソンの打席はこの1打席のみであった。プロ意識の打撃と「精進」の一差し、可能性を信じて諦めないということは、自らを十分に客観視できてこその所業であろう。

短絡的な判断こそ愚かなことはない
焦らず「いま」の自分を見極めていくこと
稀勢の里の優勝が多くの人々に勇気を与えたことは言うまでもない。
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休まないことと勇気ある撤退

2017-03-26
横綱稀勢の里
左肩の状態は本人しかわからないとか
休場せず取り組みをする姿勢やいかに

個人的には、基本姿勢として「休む」のが嫌いなたちである。中高一貫校在学時には、「6ヵ年皆勤賞」なるものをいただいたほどである。現職教員となってからもほとんど「病欠」した記憶はない。だがそれはあくまで、「無理」をして成し得た訳ではない。「学校に行きたい」という気持ちに突き動かされて、病気もしないから結果的にそうなったのだと思っている。社会人となってからは、むしろ信念をもって生きる上で「必要」だと思った際には、「仕事」よりも自らの「心」に従うこともあった。その柔軟な見極めというのも、とても大切であると実感している。こうした個人的な考え方もあって、大相撲春場所で横綱稀勢の里が、左肩の負傷を押して出場したことには、ある種の深い思いを抱いた。少なくとも前日の取り組みで負傷した際には、かなりの怪我だと誰もが思った状態であっただろう。だが、本人は怪我の状態などへのコメントは控えて、この日も「出場する」ということを親方も認めたのだと云う。ニュースでも放送局によっては冒頭あたりでこの事態を報じ、ファンが稀勢の里の状態を案じながらも期待するコメントを寄せていた。

両親が自宅に滞在している時以外は、あまり大相撲中継を観ないのであるが、この日は4時半頃からテレビの前に陣取った。土俵入りに関しては、まず問題なく同じ表情でこなしている稀勢の里関。自ずとファンの期待も高まり結びの一番を迎える。懸賞は17本が土俵上を巡り、映像の関係で数え切れなかったが2巡目もあったので、その倍の数ほどの懸賞があったのだろう。稀勢の里への期待の高さが、この数に表れていた。いざ取り組みとなり稀勢の里の開始までの動作や表情は、普段と何ら変わらない。まさに”ポーカーフェイス”、喜怒哀楽や痒い痛いは表面に出さないのが、稀勢の里の信念であり美徳とされている点であろう。そして横綱・鶴竜との取り組みが開始されると、ほぼ数秒かで稀勢の里は力を入れることなく土俵外に押し出されてしまった。もちろん、負傷した左側をかばうようにである。ファンの期待は、溜息に変わる間もなかった印象であった。

さて、稀勢の里関を批判する気は毛頭ないことをお断りしつつ、聊か思ったことを記しておきたい。素人ながら「肩・胸」は、相撲にとって誠に重要な身体箇所だろうと思う。今回の「強行出場」は、医師の診断の埒外で本人が決断したことであろう。懸念されるのは「筋断裂」などであろう症状が、今後の関取生命に致命的な打撃に至らないかということである。新横綱の場所であるゆえの責任もあるだろうが、今後を長い目で見た際の責任もあるはずだ。その後、ある放送局のニュースを観ていると、ファンの方が「神風が吹くのを願っていた」とコメントしていた。満身創痍の状況で撤退ではなく抗戦し、あらぬ「奇跡」があるだろうと願う精神構造が危うい、ということを我々は痛いほど知っている筈である。野球などでも同じであるが、肩が痛い素振りを見せずに考え難い球数を投げ抜くことや、デッドボールに当たった際も痛い素振りを見せないことが、果たして選手として妥当な姿勢なのかと疑うこと多い。むしろ「痛いものは痛い」と言える勇気ある撤退こそが、個人を追い込まない社会のあるべき構えではないのか。この国の隠蔽体質は、こんな点にも関連しているのではないかとさえ思うのである。いずれにしてもスポーツならまだ、「尊い」と言えるのであるが。

残業問題、教員の部活指導など休日の扱いについても
休まず仕事に身を投じることを美徳とする体質に起因している
稀勢の里関が大横綱として、長く活躍し続けることを願うばかりである。

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「精進」のみー単純化の美徳

2017-01-27
第72代横綱稀勢の里
横綱昇進口上には「精進」
自分の気持ちに素直な単純化の美徳

遅咲きの横綱、などと世間で囁かれる稀勢の里関の昇進口上は「横綱の名に恥じぬよう精進いたします。」であった。過去の横綱の例を思い出すに、どんな四字熟語が入るのかなどと予想する向きもあったが、人柄ゆえか素朴な口上にむしろ好感が持たれたようだ。思い返して例を挙げるならば、「全身全霊」「精神一到」「堅忍不抜」「不惜身命」「不撓不屈」といった四字熟語が並べられている。だがそれらを聞くたびに、口上とはそういうものだと思いながらも、力士たちの日常言語からはかけ離れているという違和感を覚えた。それはまた、四字熟語が持つ一つの負の歴史を想起するからかもしれない。いずれにしても稀勢の里の口上は単純化したことで、自らの心を表現することに成功したといってよい。

友人の落語家・金原亭馬治さんの師匠である第11代金原亭馬生師匠が、読売新聞に稀勢の里の横綱昇進についてコメントしていた。その比喩に曰く「料理に例えて言えば、稀勢の里は絶品の日本料理。見た目がきれいで、香りもよろしい。そして、上品。」と讃えていた。師匠とは何度も高座を拝見しまた直接お話もしているが、この稀勢の里評はそのまま師匠の人柄にも喩えられる。日本舞踊などの芸道にも精進する、落語家としての矜持が常に垣間見える。西洋料理に比べて派手さはないが、細部にまで手の込んだ施しがあり品格が漂う。このなかなか言葉にできない「品格」という部分には、日常生活からこだわりを持ちたいと僕自身も常々思っている。「単純化」といえば「良い歌」もまたそうだと、角川『短歌』の新年号で永田和宏氏が書いているのを思い出した。「情報量」は「限りなくゼロに近い」歌であっても、「言葉が抱え込む世界は如何に広く、かつ奥行きをもつ」として、「単純化は作歌の第一歩である。」としている。写真映りのよいファミレスやファーストフード、いかにも便利なコンビニの食物類などには、この「品格」は微塵も見えない。化学調味料・保存料といった情報量を詰め込んで、直立しない歌かのようである。短歌のことばに繊細に向き合うとは、日本料理の味わいを楽しむことにも似ている。

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
永井陽子の歌より(永田和宏氏が前述の「単純化」の好例として挙げている)
まさに僕が今向きあっっている林檎印のパソコンも「単純化」の極みである。
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そうか!イタリアだ!

2014-07-15
競技に表現されるお国柄
見習うべきはどこかと考えた
W杯を終えての雑談から・・・

W杯はドイツが堅実な強さを魅せて優勝した。延長で世界一を決めるゴールといい、ブラジルを完膚なきまで攻め続けた集中力には、どこか憧れに似た何かがあった。サッカーの歴史が違うのは自明であるが、これから日本のサッカーもこんな姿勢を学ぶべきではないか、などと素人の戯言を誰かと話したくなった。ふと、同僚の独文学者の先生に話題をふってみた。

僕自身は、今回”も”それほど完全中継を観た訳ではない。日曜日だったせいもあって日本の初戦を観たが、周知のような結果となり、そこで意欲が半減してしまった「にわか」観戦者に他ならない。ところがダイジェストなどをニュースで見る度に、ドイツの堅実さと集中力に魅せられていた。たぶん日本人として独文学者も同意見だろうと思いきや、彼は僕以上にW杯を存分に楽しみ、別な意見を持っていた。勿論、ドイツチームの魅力は尽きないがとしながらも、彼が目指すべきと言った国は、果たしてどこだっただろう?

日々、戦術等が変化する現代サッカーに於いて、日本が目指すべきは「イタリア」ではないかと彼は言う。攻めるべき時の躍動感と裏腹に、抜くべき時は休むような緩急。世界の中でも体力的に劣るのならば、そんな”遊び”ある組織作りこそが得策ではないのかと言う。この話に対して、僕は妙に腑に落ちて自身の目が輝いたと自覚した。「そうか!”遊び”なんだ!」という感慨。米国スタイルの強引とも言える文化が浸透する我が国であるが、欧州発想を更に学ぶべきではないかと、かねてから思っていた。それも英・仏・独ではなく「伊」である。独文学者は更に付け加えた、オランダも面白い闘い方をしていたね・・・

若い頃訪れたイタリアの風は爽やかだった。
その言葉に、何事も有為な”遊び心”が必要だと悟った。
W杯プチ文化談義に、あくまでサッカー素人の楽しみ方があった。

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W杯に映る自分史

2014-06-16
日本代表初戦
日曜日午前ということもあって
久し振りにTVでサッカー観戦

本田という中心選手の先制ゴールで、幸先よい船出に見えた試合前半。だが後半はまったく好守に不甲斐なく、悔いの残る失点で試合を落とした。何とも後味の悪い逆転負けである。試合後にそのままTVを視ていると、お昼のニュースで15分間も時間を費やしW杯についての報道。試合経過はもちろん、日本各地の応援風景が映し出され、その後は敗因の分析が。そこで提示されたのは「疲れて足が止まった。」であった。大会前のテストマッチでは、逆転勝ちなど”好結果”を残していたにもかかわらず・・・

ふと4年前のW杯において、自分はどのような生活をしていたかが気になった。小欄を紐解くと、いくつかの記事があった。どうやら4年前は、大会前のテストマッチで結果が出ず、岡田監督の更迭も辞さない論調が巷間を駆け巡りながらも、本大会に入ると好結果を残し、惜しくもベスト16でPKで敗れ去ったのだと思い出した。大河ドラマでは『龍馬伝』が放映され、人生の「志」とは何かといったことを盛んに僕は考えていたようである。このような文章を書く習慣が、4年間の僕自身の変化を巧みに映し出してくれるのであった。

8年前はどうであったか?たぶんあまりW杯の記憶もないので、他方面に興味を深く抱き、研究に邁進していた頃だったか。往々にして”へそ曲がり”ではあるので、巷間がW杯について”騒いで”いると、どうも冷静でいたくなる性分がある。その性分もこの8年前前後に、僕自身が獲得した研究者として自立する姿勢であったのではないかと、今にして振り返ることができる。

12年前の「日韓共催」大会の時は、どうだったか?日本代表メンバーに、教え子がいたこともあり、かなり興奮して大会を観ていた記憶がある。当時は中高教員であったが、生徒の要望で放課後の講堂にて、”パブリックビューイング”を開催したほどだった。僕自身も教員仲間と学校で観戦するか、家で観戦するかなどの選択に揺れていた時季でもあった。まだまだドップリとした「現職教員」である自分が透けて見える。

16年前は・・・日本代表の初出場フランス大会だが、まずは「16(年前)」の数字に驚く。もっと言えば、「ドーハの悲劇」は「20年前」である。スポーツが盛んな学校の中高教員として、まさにそのスポーツを礼讃し、そこに没入していた自分が、新たに「志」を学問に向け始め大学院修士課程を目指そうとしていたのが、その頃なのである。あらためて時の流れの積み重ねに驚かされ、今また更なる原点回帰の自覚が芽生えるような思いである。

今大会の記憶は、何を伴って僕の記憶に刻まれるのか?
この16年間で変わらないこともある。
常に喧騒の中ではなく、あくまで冷静に日本代表を観戦したいと願うことだ。
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パラリンピックをどう観るか

2014-03-02
「脳のマイナスはプラスになる。
 彼らは無理と思われることを実現して来た。
 脳は何歳になっても自分を変えることができる。」
スポーツ番組で茂木健一郎氏がパラリンピックについて語っていた。
そう!ソチで観るべきことはまだこれからなのだ。

さらに茂木氏は、「パラリンピックとは、自分のこと。」とも語っていた。障害をもった選手たちの奮闘ぶりは、何も特別なことではない。健常であることそのものを忘れてしまっている者や、ましてや傲慢な視点しかもてない輩への警鐘ともいえる発想である。障害があって高度な競技をこなしているから賞讃するのではなく、あくまで一選手としての技術の高さや奮闘ぶりを、存分に観戦すべきではないだろうか。

マイナスを背負う苦闘は、たぶん本人でなければわからないだろう。だがそこからプラスに開発される能力が幾多もあることは、まさに”生きる力”なのではないか。何事も「不可能」と諦めるのは簡単である。だがそこから立ち上がり前進していくことこそ、”生きる”ということである。そうした過程の結実が、スポーツを通して表現されていく。まさに「僕たち自身のこと」を考える機会に他ならない。

「無理」と規定することそのものが、傲慢であるという逆説を孕んでいるのかもしれない。パラリンピックで競技内容が一定の枠内であるのも、我々の先入観による無意味な制限なのだろう。すべての人はみな、生きる力の可能性を秘めているのだ。6年後の2020東京五輪に求められているのも、豪奢な経済的基盤を世界に誇示するような幼稚な理念ではなく、個々の生きる力と尊厳を最大限に見つめ直す機会なのではないだろうか。

ソチパラッリンピック開幕にあたり考えたこと。
東京でスポーツ推進に関わっている親友の顔が思い浮かんだ。
彼は明らかに「パラリンピック重視」を唱えていた。
その発想そのものが、日本のスポーツ界を変革させていくだろう。
僕自身の脳を変えていく6年間として、親友との対話を行動に移していきたい。
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「自分のペース」こそメダルに値するじゃないか

2014-02-22
ことばでは表現できない感激。
美しさ・精度の高さ・集中度。
片手間な分析を許さない技の高み。
視ることでしか伝わらない究極の演技。
それを彼女は「自分のペースですけど、成長できた。」と語った。

「天才少女」と云われて、浅田真央の闘いは始まっていたのだろう。早期に開花したこの逸材にメディアはこぞって過剰な報道をし、その”伸びしろ”に絶大な期待をかけてきた。その外聞と彼女自身の成長は決して合致せず、特に五輪という日本社会における”特殊な舞台”での結果を求められ続けて来たということになるのだろうか。

”特殊な”と言ったのは、この時季になると「メダル・メダル・メダル」という世間の喧騒を、僕自身も甚だ嫌悪しているからだ。期待が掛けられている選手が「メダル」を取れなければ、罵倒するかのような発言が跳梁跋扈する。その一方で、特に注目もされていなかった選手がメダルを取ると、群がるようにメディアがその足跡等を喧伝する。勿論、選手たちは向上するために、個々の生き様を賭して競技に挑んでいるのだろう。だが世間の論調の多くが、「自分のペース」を尊重するような波長がないことが甚だ残念であると感じるのだ。

個々人の胸に手を当てて、そっと考えてみよう。自己の生活や成長は、何よりも「自分なりのペース」が大切な筈だ。決して他人にはわからない、自分なりの境地を必ず持っているものである。単純にジョギングをしていることを想像してみよう。外野からそのペース配分に五月蝿く注文が付けられたならば、どれほど走りにくいかは自明のことだ。怠惰に陥ることなく、高みを目指すという意味において、外部からの抑圧ほど当人を苦しめるものはないだろう。

「自分なりのペース」をなかなか他者は理解できないものだ。だがしかし、それをわかろうとすることこそが「愛情」なのだろう。そこに自己との差を見出した時、こちら側の「自分なりのペース」を省察し歩調を合わせることができるかどうか。決して妥協ではない前進のベクトルがあることを前提に、精緻な「ペース配分」に配慮できるかどうか。スポーツを真に愛するということは、こうした選手側に立った視点をもてるかどうかではないだろうか。

”下等な注文”を許さない美しさに満ちていた。
本人こそが流した自然に溢れ出る涙。
僕たちはわかった気になるだけで、決してその真実の苦闘を知らない。
メダルよりも大切なもの、
それは「自分のペース」でその競技を愛する選手の姿勢ではないか。

浅田真央さんの滑りは、そんな真を僕に教えてくれた。
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攻めの姿勢を本能的に

2014-02-18
誰しも失敗は怖い。
何事も上手く運ぶようにと願って行動している。
だが、思い通りに行かないことの方が多いのが現実。
その時にどのような姿勢をとるか。
そこが好転への分水嶺なのだろう。

ジムで珍しくTV付のバイク選択してを40分漕いだ。通常は脚を動かしながら、いくつかの思考整理をする習慣があるので、(TVのない)雑念の入らないバイクを選択している。だが現在行われている五輪から何らかを学びたいという思いが、映像を求めた。そこに映し出されていたのは、男子フィギャースケートで1位となった羽生結弦(はにゅう ゆづる)選手の姿であった。

番組は、彼が今回の五輪で1位(意図的にメダルの色で表現しない)になるまでの経緯を辿るドキュメンタリーであった。幼少の頃の映像を始め、なかなか4回転を成功できない頃の苦闘の姿を見ることができた。そしてまた4回転ジャンプがどれほどに高度な技術を必要とし、鍛錬を重ねたアスリートでしか成し得ない技であるかが理解できた。

何より一番感心した点は、今回のソチ五輪で1位となった際のフリーの演技についてである。最初に跳んだ4回転サルコーの着地に失敗し、また3回転フリップでも両手をつくなど、序盤での失敗が目立った。だが彼は後半になって、何物かに取り憑かれたように跳べるだけ跳び続けた。本人もインタビューの中で、「跳ぶのが(無意識の)本能のような感じになった。」といった趣旨の発言をしている。その結果、ショートプログラムの貯金も活かし1位となることができた。

人は誰しも貯金を守ろうとするような精神的作用が働く場合が多い。羽生選手がフリー序盤の失敗から、もし更なる守りの姿勢に入ったらこの結果は伴わなかったであろう。演技中という究極の状況の中にして失敗を補う、いや失敗を自由な翼に変換するような精神的作用が彼の中で生じたように僕の眼には映った。「(無意識に)本能的」というような作用が生じた時には、ある種の「フロー状態」となり、より攻めの姿勢で前向きな行動を展開することができる。それは僕などが研究学会や朗読などの発表する際にも、似たような作用が生じることがある。だがその状態に入り込むには、他者が計り知れないほどの鍛錬や準備が必要であることも確かなのである。

そんな映像を見つつ40分の身体的鍛錬が終了した。その後、筋トレ系スタジオプログラムでは、トレーナーさんが「(今日は)攻めるように種目を重ねます。」といった趣旨の発言をした。彼女が羽生選手の映像を観たかどうかは定かではないが、この日のトレーニングはリズムに富み、躍動感に溢れていた。通常は丁寧な説明を加えてやや迂遠な構成のプログラムになりがちであったが、「攻めの姿勢」が快適なトレーニングリズムを生み出していた。

行動の価値は失敗した後にあり。
そこで恐れず前を向いて進めるかどうか。
自分でも制御できない「本能」に突き動かされる感覚。
それは、日常で積み重ねて来たものがあればこそ可能となる。
失敗を悔やむよりも、次の攻めの一手が命運を分けるのである。
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五輪では「挑む意志」を観よう

2014-02-17
いつものことだが「メダル」「メダル」と喧しい。
枕詞には「史上最年長・最年少」とか。
だがそれが何なんだというのか?
競技の技術や熟練度は年齢に拠らず。
「挑む意志」にあるということではないだろうか。

葛西紀明選手のラージヒル2位となったジャンプは、実に美しい上に飛距離も伸びた。スロー映像などを観ると、その飛行中の視線にはまさに「挑む意志」が感じられる。空中姿勢やその体型を観ても、同様の「意志」が滲み出ているような印象を僕は持っている。何度となく五輪を経験して来た熟練を経て、今また2位となったことそのものを「通過点」と意識するあたりに、彼のアスリートとしての生き様が浮かび上がる。

またスノーボードハーフパイプで2位・3位となった平野歩夢選手・平岡卓選手も同様だ。結果として「メダル」を獲得したのだが、それ以上に競技に取り組む柔軟で幅広い視野を備えた意志こそ賞讃すべきではないのだろうか。その競技への絶大な愛情と周囲の騒音に左右されることのない確固たる「挑む意志」が、彼らの華麗で自由で雄大な演技を支えているように思う。あくまで賞讃すべきは結果の表象たる”色の付いたメダル”ではなく、彼らの表現する競技そのものである。

一方で「メダル・メダル」という喧しさに、隠されてしまう現実があるように思う。メディアの節操なき予想的喧伝による期待から外れてしまった選手たちの健闘に、真摯に向き合う視線が欲しい。そしてまた「日本人選手のメダル」しか見所がないような報じ方にも大きな疑問がある。「挑む意志」をもった各国選手が、どれほどの高度で繊細なパフォーマンスを展開しているのかという点を、更に深く僕たちは見つめるべきなのではないだろうか。

「日本列島が沸き返った」
日本人選手のメダル獲得時によく使用されるフレーズ。
だがしかし、騒ぐ以上に高次元の競技性を見つめる視線を持ちたい。
それをまた自己の”高次元”への途に反映させるためにも。
あらためて「挑む意志」を己の心の中で再起動したい。
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