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「接近・展開・連続」の倫理

2019-10-26
スポーツにおいて日本が世界に勝つには
「常に近くで相手をつぶし、マイボールは相手との接触を避けて早く展開する。
 そしてこれを一試合通じてひたむきに繰り返し続ける。」
(『闘争の倫理』大西鐡之祐(文庫版)巻頭「推薦の言葉」岡田武史より)

序や前書きを読んで、すぐさま入り込みたくなる本がある。今回のラグビーW杯に触発されて、「スポーツとは何か?」ということや「日本が世界を相手にする際の挑み方」というような問題意識が喚起された。僕自身も剣道・野球・器械体操を小中高校で経験し、「スポーツ」の魅力や効用を体験的に理解しているつもりだ。大学学部でも何らかのスポーツを、と入学当初は考えなくもなかったが、「大学には文学を学びに来た」という意志が強く作用し本を読む道に没入した。だが学部卒業後に就職した初任校はスポーツが盛んであったことから、再び高校でも全国レベルの競技を身近に親しむことになった。「全国で勝つには何が必要なのか?」教室で部員たちに「国語」を教え、放課後のグランドを観察したり時に合宿まで同行させてもらい、その「秘密」を自分なりに考えていた。その時にふと思い出していたのが、「大西鐡之祐」の名前であった。

大学学部時代は文学部の学生でも一般教養として「体育実技」(2競技2単位)と「体育保健理論」(1単位)の二科目が必修であった。「理論」の方は「ぜひとも大西鐡之祐先生の講義を取るべきだ」と先輩に教えられた。大変な人気科目で登録するには抽選となって、残念ながら履修は叶わなかった記憶がある。今回のW杯ラグビーを観ていると、やはり「大西鐡之祐先生」の考え方を辿りたくなり、冒頭に記した書籍を紐解いた。未だきちんと読み進めていないが、冒頭にある岡田武史氏(早稲田大学OB)の「推薦の言葉」だけで心が熱くなってしまった。岡田氏は大西鐡之祐先生が「日本が世界で勝つには」という条件として、「接近・展開・連続」を挙げて成果を出していたことを紹介している。この三要素は、まさに今回のW杯日本代表がプレーの上で実行したことである。あまりに的確な予見であり、恐ろしいほどの迫力を同書から感得したのであった。

そして「はじめに」にある予見に身震いを覚える
「理論書ではなく哲学書だ」と岡田氏も絶讃する
副題「スポーツの本源を問う」まさに「倫理」を追究する好著で読み進めるのが楽しみだ。


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ただノーサイドであること

2019-10-21
「ノーサイド」:《敵・味方の区別がない意》
「1、ラグビーで、試合終了のこと。
 2、(比喩的に)戦いや争いが終わったのち、互いの健闘をたたえ合うこと。また、和解すること。」(『デジタル大辞泉』より)

ただノーサイドなのである。「試合」という出逢いで組み合った相手に深い敬意を払い、相互の力を認め合い、自らの置かれている状況を冷静に捕捉する。試合終了間際からの日本代表選手の眼差しに、このような「紳士」たるラグビーの思想が読めた。TV観戦をしていて、小賢しく小憎たらしいばかりのプレーをする南アフリカ代表・背番号「9番」の選手の素晴らしい管制塔的働きや体力と知力の均衡に根ざしたプレーの敏捷さ剛柔さに、僕自身も深い敬意を抱いた。そしてまた必要以上に個別なスターが存在するわけでもない南アフリカチームの防御の強さを讃えた。Webの一部で「日本代表は散った。」と表現されたが、ただ「ノーサイド」に立っただけなのだ。

「桜ジャージ」ゆえ「見事散りましょ」が美徳なわけではない。ただ自らの力を過信せずまたどんな相手にも臆さない均衡ある立ち位置、勝利至上主義、競争的原理、ましてや「国」という「仮の枠組」がいかに貧困なる精神の産物であるかが知られる。あるTV番組で台風のために試合ができなくなったカナダ代表選手が、東北のある土地でボランティアに取り組む姿が報じられた。冷蔵庫など重い家財を運び、溜まった汚泥の除去作業に熱心に取り組む彼らの姿こそ「スポーツマン」なのだと再認識した。他の競技の選手が、ここまで「身体を張って」無償の人類愛たるボランティア活動をするだろうか?今回のW杯ラグビー日本大会は、日本社会にそして世界に大きなメッセージを発信している。本当の強さとは、ただ「ノーサイド」と本気で思える勇気なのである。

メダルの数が大事なのでしょうか?
勝つために何でもありの世の中に、生きる誇りを見せてくれる
本当の幸福や成熟が「ノーサイド」にあることを、社会を動かす輩こそが知るべきなのだが。


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人生も寄せて行こう

2019-10-16
ラグビーから学ぶもの
寄せるタックル・寄せるパス
そして驕らず臆さず自らの意志を貫くこと

どんな競技においても、日本代表級の試合に対してにわかに世間が飛びつく報道を目にすると、聊かの違和感を覚えながらもその魅力は何かと考えたりもする。ファンたる人々の「感動した」という結果的な言葉に、「何がどうなのか?」と実を求めたくなるのは研究者の性(さが)であろうか。熱しやすく冷めやすい集団一斉横並び主義の愛好という精神構造には、相変わらずの危うさを覚えつつ、今回のラグビーW杯の魅力について考えている。「ノーサイド」というラグビーの紳士的な思想もあろうか、比較的に日本代表のみならず多くの参加国への興味と賞讃が存在することは、いつものこの国の社会と聊か違うような気もしている。そんなことをあれこれ考えつつ、昨日はゼミの冒頭で「ラグビーW杯になぜ感動するのか?」という話をした。

スポーツの試合は、一般的に「劇的」という語彙で賞讃されることが多い。それは、80分間なりの試合時間に人生の流れを見出すからではないだろうか。先手を取られても取り返す、諦めることなく前進する、手に入れたものは簡単には譲らず、冷静な分析の元に適切な足場で好機を待つ。攻守が一瞬にして切り替わる中で、謙虚に身を低く下半身を固めてじっくり耐える場合もあれば、好機となるや俊足を活かして疾走する。何より繋がった仲間への信頼を「パス」で現実の形にする。概ね僕がTV観戦している限り、こんな言語表現となる部分に人生が重ねられる。一言でいうならば、「寄せる人生」とでも言おうか。もちろん前述のような動きをするには、基礎体力とともに緻密で繊細な知力も必要だ。教員採用試験や大学院入試などを経験したゼミ4年生、君は「試合開始15分」の今「寄せる人生」を歩んでいるのか?

真の力と勇気とは何か?
知力と体力のバランスが大切
僕自身もかなり、傷だらけのタックルと疾走を繰り返してきている。


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稀勢の里の引退に思う

2019-01-18
「一生懸命にやって来た
 いい稽古もできていた」
横綱として彼が示したものは・・・

2017年3月26日付小欄に次のようなことを記した。この期に及び再読していただきたい。
「さて、稀勢の里関を批判する気は毛頭ないことをお断りしつつ、聊か思ったことを記しておきたい。素人ながら「肩・胸」は、相撲にとって誠に重要な身体箇所だろうと思う。今回の「強行出場」は、医師の診断の埒外で本人が決断したことであろう。懸念されるのは「筋断裂」などであろう症状が、今後の関取生命に致命的な打撃に至らないかということである。新横綱の場所であるゆえの責任もあるだろうが、今後を長い目で見た際の責任もあるはずだ。その後、ある放送局のニュースを観ていると、ファンの方が「神風が吹くのを願っていた」とコメントしていた。満身創痍の状況で撤退ではなく抗戦し、あらぬ「奇跡」があるだろうと願う精神構造が危うい、ということを我々は痛いほど知っている筈である。野球などでも同じであるが、肩が痛い素振りを見せずに考え難い球数を投げ抜くことや、デッドボールに当たった際も痛い素振りを見せないことが、果たして選手として妥当な姿勢なのかと疑うこと多い。むしろ「痛いものは痛い」と言える勇気ある撤退こそが、個人を追い込まない社会のあるべき構えではないのか。この国の隠蔽体質は、こんな点にも関連しているのではないかとさえ思うのである。いずれにしてもスポーツならまだ、「尊い」と言えるのであるが。

残業問題、教員の部活指導など休日の扱いについても
休まず仕事に身を投じることを美徳とする体質に起因している
稀勢の里関が大横綱として、長く活躍し続けることを願うばかりである。」



いかがであろうか?僕はこのように記した翌日には考えを改めて「出場に肯定」の考えも示している。それだけ「横綱」と云う存在の大きさを感じられたからであろう。横綱在位12場所・36勝36敗・休場率5割の成績は、やはり再掲した記事の心配がそのまま現れた形となってしまった。だからこそ思うのだが、あの怪我を押して稀勢の里が出場した姿を見て心を動かした者は、少なくとも彼の横綱としての実績を悪く言うべきではないのではないだろうか。”かの”段階で稀勢の里は「横綱」としての最大限の力を発揮したのだ。そしてどんなに身体が厳しい状況でも、稽古や治療を怠ることなく、まさに「一生懸命」に相撲道に精進したのではないか。もちろん「プロだ」「相撲道としては甘い」と云う意見もあろう。だがやはり問題なのは、一力士を旧態依然の「精神論」で追い込んでいる角界全体ではないだろうか。稀勢の里の姿はアスリートとして、世界を舞台で活躍する錦織圭などに比べると隔世の感を抱いてしまう。それは彼自身の問題ではなく、様々な問題が露見する角界全体の問題ではないかと思うのであるのだが・・・・・

「働き方改革」は「働き方」のみならず
仕事観そのものが、この国ではまったく成熟していない
稀勢の里が理性ある角界改革の先導役として親方となることを願う。


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感動と叫べば「感動」はなし

2019-01-04
アナウンサーの叫ぶごとき実況
テレビから流れ出る声が苦痛に
「感動」は各自のこころのなかに宿るもの

正月となれば、スポーツ競技の中継も花盛りだ。特に目立つものはサッカー・ラグビー・駅伝であろうか。新年となって平成の回顧を意識しているが、平成初頭の頃の僕は正月といえば「全国高校サッカー選手権大会」に明け暮れる日々であった。初任校が最多優勝を誇る強豪校で、僕が在任中も優勝1回準優勝2回を経験している。自ずと正月は毎日のようにサッカー応援の日々、決勝は当時8日に国立競技場で開催されていたゆえ、始業式は臨時的措置で10日に遅らせることが常なる学校であった。そのサッカーの実況の多くが南米式を見習ってのことか、例えば「ゴール!!!」を執拗に連呼したり、決定的な場面での「絶叫系」のアナウンスが横行している。それは今も変わらないであろう。もし「ニュース」であれば、とてつもないことが起きてしまったような過剰すぎる喧騒を、その実況に聞き取ってしまうのは僕だけであろうか。

その実況のあり方が、箱根駅伝において「感動すべき場面ではない」といった観点からSNS上で物議を醸している。スタート直後に転倒した選手が足を痛めながら襷をつないだことについて、「感動」を強要するような実況が繰り返されたと云うのだ。正直なところ、僕自身はもともと中継そのものの実況のあり方に嫌悪感があったので、この場面の実況を聞いていない。だが、Web上の記事では箱根出場経験のある著名な選手が、「感動する場面ではない」と転倒した学生の選手生命などを懸念する発言をしたと云う。「襷をつなぐ」いわば「大学の名誉」の為の自己犠牲、その姿を美談として祀り上げて「感動的場面」だと視聴者に伝える。足の怪我の状態を深く実感できる人にとっては、痛々しさのみが感じられる苦痛な時間であろう。「全体」の名誉を守る為に「個人」の身体を犠牲にする美徳という構図が、ここに仕立て上げられる。もちろん、当事者にとってみれば拙論も勝手な物言いに過ぎないだろう。だが、明らかに報道の現在が偏向していることを自覚する冷静さが、今こそ求められるとは言っておきたい。

「感動」という語彙を使わないのが真の感動
スポーツはファンの次元が育てるとも
東京五輪に向けて考えておきたい心性である。



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スポーツはこの社会でなぜ?

2018-12-21
「閉鎖・杜撰・主従」
スポーツ界の不都合な真実
社会が容認する空気もあったか

メディア報道でも、今年を振り返るといった趣旨の特集が多くなった。今年の漢字は「災」、たいていアナウンサーは「転じて福となす」と続けるのだが、天災のみならずその「災い」の根は深いと感じる分野もある。中でも今年相次いで露見したスポーツ界の体質的問題は、この国の社会構造や歴史にも関係する奥深い問題であると思う。概ねその原因は「閉鎖的体質・杜撰な組織運営・過度な主従関係」だと、あるテレビ番組で指摘されていた。密室の中で組織的な公正や均衡を欠き、指導者と選手の関係は絶対服従が強要される。この三要因が相互扶助的に作用し、陰湿な指導社会を作り上げている。

これは「スポーツ界」の問題として指摘されているが視野を拡げてみると、この国の社会の様々な分野に同様の体質が見える。蛸壺の中に籠り込み、他者の介入できない独特の空気感をまずは醸成する。組織としては広範な情報には触れようとせず、経験で獲得したことのみの主観的な押し付けを横行させる。ゆえに雇用や指導される側が、広い視野で問題意識を持つと上に立つ者は不都合ゆえに、意見を聞かずに暗に服従を求めるわけである。こうした「空気感」の中で、公正な雇用や指導など覚束ないことは自明であろう。だが考えてみよう、この国の社会にはどこか常に「隠す」と云う空気が蔓延している。まずは身近な人に「隠さない」ことから始める、根本的な問題のようにも思う。

「災」は体質から生じていることも
誰もが求めた社会に逆行する分断・閉鎖の横行
「見える」「つながる」「尊重し合う」社会でありたいのだが・・・


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五輪で常に抱く巷間・メディアへの違和感

2018-02-24
メダル「ラッシュ」「量産」「獲得数」
「圧巻」「一つになる」「身体を張る」
純粋にその競技の機微を楽しんでいてはいけないかのような・・・

冬季五輪も大詰めを迎えているが、諸々の忙しさに任せて取り立ててTV観戦することもなく、ニュース映像でダイジェスト的に見る程度である。ちょうど夏季北京五輪のときだったか、期間中に研究のため米国に滞在していたが、巷間もTV報道も大々的には五輪を扱っておらず、MLBなどの結果が優先されるあり方に自らの「五輪観」が揺さぶられた覚えがある。X’masのLosに滞在した折は、あまりの街の静かさにやはり同じような感覚に至ったこともあった。多くの人々は自宅で家族とともに閑かに聖夜を過ごすのである。それにひき比べ我が国では、何かと「国民的」という語彙を好み、個人個人の趣向を抜きにスポーツイベントなどで舞い上がる。また2月14日・3月14日・10月31日・12月24日に連なる「総動員」的な動きというのには、以前からかなりな違和感を覚えていた。もちろん「一個人」として、参入しなければよいだけなのであるが。その違和感が、こうした五輪報道を観ている際に必ず頭を擡げてくるのである。冒頭に記したような様々なアナウンス語彙そのものにも、ついつい違和感ばかりを覚えてしまう。

羽生結弦さんの演技をニュース映像で観た際に、牧水の「白鳥は・・・」の歌と重なった。(コスチュームも「白」に「青」が一部施されていた)先日の対談でも一部語ったことだが、怪我を克服してしなやかにのびやかに舞う姿は、まさに「染まずただよふ」であった。怪我後にあまり公に姿を現さなかったことは、前述したメディアの喧騒から逃れるためかもしれない。その姿勢も「染まずただよふ」だと思うのだ。選手とて自分なりに納得した競技をするためには、世間から「あくがれる」必要があることを物語っているように思う。メディアの理性なき喧伝で前評判による重圧から、本来の競技ができなかった選手も多いように思われる。「メダル」などという「結果」よりも、その競技がいかに美しいか、いかに相反する身体機能を発揮しているか、諸条件に適合していかに自分なりに競技に臨んでいるか、そんな機微を観戦者として自分の経験を立ち上げて楽しみたいと思っている。カーリングなどを観ると、その神経戦の微妙さが論文や評論における論の攻め方・守り方と類似した感覚になったりして、個人的に大変興味が湧いてくる。ハーフタイムに「もぐもぐタイム」などとメディアが喧伝する果物を食する選手たちを観て、脳をかなり消耗しているのではと仲間のような意識になってきたりもする。論文など作成時に味わう果物やチョコは脳への栄養補給として格別である。こんな自分を立ち上げた観戦があってもいいはずだ。

「叫ぶ」ことなく何がどのように「凄い」かを語れ
他国選手の健闘ぶりを讃える姿勢よあれ
むしろ「昭和」の方が長けていた世界観をどうしたらよいのだろうか?


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0.001の美学ー体操新時代の破格

2017-10-10
白井健三が床と跳馬で金
村上茉愛が床で日本女子63年ぶりの金
世界体操選手権に破格な新時代選手の台頭が見える

白井健三が世界体操選手権で、床に続き跳馬でも金メダルを獲得した。2位選手との差は「0.001」という微妙なものとはいえ、インタビューで「その差こそが(練習などで積み上げて来た)自分のこだわりだと思います。」といった趣旨のコメントをしていて大変感心した。器械体操の採点のあり方は一般の方にはほとんど理解しづらいだろうが、技の高度化に伴ってこうした微細な差が勝負を分けるほどの精密さの上に成り立っていることは想像がつくであろう。高校時代に器械体操の経験がある僕にとって、白井の技の難度の高さはまさに破格である。一応、どんな技をどのようにしているかは、経験から十分に理解できる。だがそれを実現できていることが誠に驚きなのである。

中学校までの野球から高校で器械体操に転向した僕にとって、それは身体作りからして大きな自己改革の試みでもあった。中学校から体操をして来た同級生たちに負けじと、どちらかというと理論派の僕は、ロシアの体操教本が翻訳された書物を買い込んでよく読んでいた。その中には基本的なことから高度の技まで、イラスト図解で丁寧な解説が施されていた。多分その時代のその教本にも、白井健三が現在実現している技の可能性は示されていたように思う。だが初心者なりにそれは理論上で可能なだけであって、人間技として実現できるなどとは思っていなかった。だがそれからの歳月において、もちろん高度で科学的な運動分析や練習方法の導入もあろうが、理論は明らかに現実のものとなっている。また「63年ぶり」が物語るように、村上の女子床での金メダルも誠に破格な偉業である。あれほどのパワフルさとバネを兼ね備えた床演技は、これまでの日本女子では到底考えらえない次元だと感じられる。

何事も理論上と諦めないことだ
為せば成る為さねばならぬ何事も
自己の身”体”を究極に”操”る動作の実に美しいことよ。


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横綱稀勢の里の優勝に思う

2017-03-27
横綱稀勢の里優勝
昇進時の「精進」を有言実行
物事は総合的に見てから判断せねばなるまい

昨日小欄に書いた記事を、聊か訂正しなければなるまい。大相撲春場所千秋楽で、重い左肩の負傷を抱えながらも、横綱稀勢の里は大関照ノ富士に勝ち優勝決定戦に持ち込み、そこでも堂々の相撲で2番連続で勝ち優勝を決めた。前日14日目に負傷を押しての相撲は、あまりにも力なく状態は厳しいと誰の目にも映ったはずだ。だが、この日は痛みさえも感じさせない相撲を見せたが、さすがに優勝賜杯を抱く時には、顔を顰める場面もあった。「怪我を押して」には賛否があろうが、これぞ横綱昇進時に稀勢の里が一言素朴に述べた「精進」の体現ということだろう。「精進」とは元来は仏教語で、『日本国語大辞典第二版』によれば(1)ひたすら仏道修行にはげむこと。(2)「転じて、一定期間、言語・行為・飲食を制限し、身を清めて不浄を避けること。」(4)「一生懸命努力すること。」(5)「品行をよくすること。」(一部記述を割愛)などとある。この日の稀勢の里の水を受け塩で清める姿には、まさに相撲とは何ぞやを考えさせる迫力があった。

それにしても「勝てる」という予想は、誰もがしなかったであろう。むしろ対戦相手の照ノ富士の表情にこそ、大きな油断が生じていたように思われる。物事は最後まで、その結果はわからない。あらためて、総合的に見てから判断する必要性を学んだ気がした。怪我を押してが、周囲からの強要や「空気」によって為された訳ではなく、あくまで自身との対話と矜持をもっての決断であったゆえの結果であろう。欧米ではこうした場合に、まったく合理的な判断がされるかといえば、そればかりではない。1988年ワールドシリーズ初戦のドジャース対アスレチックスの一戦は、9回裏アスレチックスが4対3でリードして守護神の登板。走者1塁の場面でリーグチャンピオンシリーズで足を負傷したカーク・ギブソンをドジャースの名将・ラソーダ監督は代打で起用した。1球2球目の空振りスイングを見るに、軸足の痛みが激しそうで、誰もが打てる望みは薄いと感じたことだろう。だがギブソンはファールで粘り続けるうちにタイミングが合いだし、フルカウントまで粘った後に逆転サヨナラ本塁打を右翼席に放った。そのスイングは、ほぼ左打者の右側壁一枚(つまり右手・右足のみで打つような変則スイング)で持って行ったという印象であった。ギブソンは足を引きずりながらダイヤモンドを一周し、歓喜のチームメイトが出迎える本塁を踏んだ。結果的にこのワールドシリーズは、ドジャースが制することのなるが、ギブソンの打席はこの1打席のみであった。プロ意識の打撃と「精進」の一差し、可能性を信じて諦めないということは、自らを十分に客観視できてこその所業であろう。

短絡的な判断こそ愚かなことはない
焦らず「いま」の自分を見極めていくこと
稀勢の里の優勝が多くの人々に勇気を与えたことは言うまでもない。
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休まないことと勇気ある撤退

2017-03-26
横綱稀勢の里
左肩の状態は本人しかわからないとか
休場せず取り組みをする姿勢やいかに

個人的には、基本姿勢として「休む」のが嫌いなたちである。中高一貫校在学時には、「6ヵ年皆勤賞」なるものをいただいたほどである。現職教員となってからもほとんど「病欠」した記憶はない。だがそれはあくまで、「無理」をして成し得た訳ではない。「学校に行きたい」という気持ちに突き動かされて、病気もしないから結果的にそうなったのだと思っている。社会人となってからは、むしろ信念をもって生きる上で「必要」だと思った際には、「仕事」よりも自らの「心」に従うこともあった。その柔軟な見極めというのも、とても大切であると実感している。こうした個人的な考え方もあって、大相撲春場所で横綱稀勢の里が、左肩の負傷を押して出場したことには、ある種の深い思いを抱いた。少なくとも前日の取り組みで負傷した際には、かなりの怪我だと誰もが思った状態であっただろう。だが、本人は怪我の状態などへのコメントは控えて、この日も「出場する」ということを親方も認めたのだと云う。ニュースでも放送局によっては冒頭あたりでこの事態を報じ、ファンが稀勢の里の状態を案じながらも期待するコメントを寄せていた。

両親が自宅に滞在している時以外は、あまり大相撲中継を観ないのであるが、この日は4時半頃からテレビの前に陣取った。土俵入りに関しては、まず問題なく同じ表情でこなしている稀勢の里関。自ずとファンの期待も高まり結びの一番を迎える。懸賞は17本が土俵上を巡り、映像の関係で数え切れなかったが2巡目もあったので、その倍の数ほどの懸賞があったのだろう。稀勢の里への期待の高さが、この数に表れていた。いざ取り組みとなり稀勢の里の開始までの動作や表情は、普段と何ら変わらない。まさに”ポーカーフェイス”、喜怒哀楽や痒い痛いは表面に出さないのが、稀勢の里の信念であり美徳とされている点であろう。そして横綱・鶴竜との取り組みが開始されると、ほぼ数秒かで稀勢の里は力を入れることなく土俵外に押し出されてしまった。もちろん、負傷した左側をかばうようにである。ファンの期待は、溜息に変わる間もなかった印象であった。

さて、稀勢の里関を批判する気は毛頭ないことをお断りしつつ、聊か思ったことを記しておきたい。素人ながら「肩・胸」は、相撲にとって誠に重要な身体箇所だろうと思う。今回の「強行出場」は、医師の診断の埒外で本人が決断したことであろう。懸念されるのは「筋断裂」などであろう症状が、今後の関取生命に致命的な打撃に至らないかということである。新横綱の場所であるゆえの責任もあるだろうが、今後を長い目で見た際の責任もあるはずだ。その後、ある放送局のニュースを観ていると、ファンの方が「神風が吹くのを願っていた」とコメントしていた。満身創痍の状況で撤退ではなく抗戦し、あらぬ「奇跡」があるだろうと願う精神構造が危うい、ということを我々は痛いほど知っている筈である。野球などでも同じであるが、肩が痛い素振りを見せずに考え難い球数を投げ抜くことや、デッドボールに当たった際も痛い素振りを見せないことが、果たして選手として妥当な姿勢なのかと疑うこと多い。むしろ「痛いものは痛い」と言える勇気ある撤退こそが、個人を追い込まない社会のあるべき構えではないのか。この国の隠蔽体質は、こんな点にも関連しているのではないかとさえ思うのである。いずれにしてもスポーツならまだ、「尊い」と言えるのであるが。

残業問題、教員の部活指導など休日の扱いについても
休まず仕事に身を投じることを美徳とする体質に起因している
稀勢の里関が大横綱として、長く活躍し続けることを願うばかりである。

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