島にこそ宮崎の魅力ー島野浦島の教育
2023-03-03
延岡市北の浦城港より高速艇10分・人口713人・世帯数404(実際には239とも)
「ひと・もの・こと」とつながる体験満載の義務教育学校へ
明治から近現代155年、「物・便利・速度」をこの国の人間は求め過ぎて来たのではないか。いずれも「自然」を無視した人間の強欲さが先立ち、海や川や山を汚して切り開き道路や電車や航空機で便利に速く移動できることを求めた。その結果、一見は自然災害のような人為災害を多く体験してきた。時にこうした近現代的な傲慢から離れ「無為自然」な生き方こそ素晴らしいと若山牧水の短歌などに学ぶことも多い。「なにも無いでしょ」宮崎に僕が移住した際に地元の人から投げ掛けられた言葉だ。だが「無為自然」に大きな魅力があるとするなら、宮崎はまだ「近現代の強欲から逃れた桃源郷」のような場所であるようにも思う。
九州でも宮崎県は地理上においても、長崎県や鹿児島県ほど人々が暮らす島嶼部は少ない。日南・大島のように以前は住民が生活し学校もあったが、今は無人島になってしまった島もある。そんな中で冒頭に記した環境の「島野浦島」に、従来からある小学校・中学校を統合し新たに義務教育学校が令和4年度より開校された。従来からの「島野浦小学校」は、国民学校時代から数えること148年の歴史があり、江戸時代などは九州ー瀬戸内海航路の寄港地としても栄えたらしい。この学校に9学年(小中)24人の児童・生徒たちが学んでいる。宮崎県はむしろ山間部の小規模校が多いが、今後の少子高齢化の波風を受けており、様々な面で支援が必要である。地域の教育に貢献すべき地方国立大学として、この県内の課題に真摯に向き合う必要がある。
以上のような背景から「島野浦学園」を学部の同僚2名とともに視察に赴いた。大学から車で約2時間、至近の高速インターから港までコンビニはない。どこが高速艇乗り場か?と思うほど素朴な桟橋に、綺麗に新築された日豊汽船のチケット販売所がある。波を搔き分ける高速艇で10分、まあここには「速い」という概念が侵食はしている。島の桟橋には先方の学校職員の方々が迎えに来ていただいていた。そこから車で10分もしないうちに新設学校へ到着した。(旧中学校があった場所)校長・教頭より学校概要や特色のわかりやすい説明をいただいたが、「島浦学」など此処でしかできない自然体験的な学びも教育課程に組み込まれ、まさに個々の児童・生徒が自らのペースで焦らない「個別最適な学び」を展開している印象を持った。さらに島の水産加工業の人々との交流や地元祭りへの参加など、地域との「協働的な学び」も満載である。授業中の校内見学を含め約2時間の視察であったが、この教育内容こそ学部学生に体験的に学んでもらいたいという思いを強くした。
昼食は「満月食堂」にて
魚の獲れない満月の夜には島民が集い楽しんだという由来から
宮崎の魅力がより集約的に詰まった無為自然の理想郷がそこにあった。
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「ねばならない」から抜け出そう
2023-01-27
「学校」で言われる「・・・ねばならない」「多様性」と言いながら「横並び」と「空気」の社会を作る
やりたいこと言いたいことをやって個性が光る社会へ
「主体性」は、現在の学習指導要領でも筆頭に求めている個々人の多様性ある資質である。OECD(経済協力開発機構)の「PISA」と呼ばれる学力調査で、2000年代になってから、「読解力」など日本の子どもたちの世界における学力の低下が大きく問題視されてきた。その結果、現在の共通テストのような形式となるなど「対策」を講じたがゆえに「読解力はV字回復をした」などとメディアなども報じる時期もあった。だが真にこの20年間ほどで、日本の子どもたちの学力は回復したのだろうか?日頃から問題に感じるのは、「対策」を取ったから「テスト」では一定の成果を上げるが、個人の資質・能力を真に開発しているのかという点である。昨今でも「全国学力テスト」の過去問を授業で実施するなど、「対策」を実行していた学校があったと報じられた。「テスト」とは、あくまで日頃の学習成果を測るものさしであるはずだが。
学力以上に、いつも僕が問題に思うのは「主体性」である。子どもたちは「対策」を「やらされて」いる。やりたくなくとも「・・・ねばならぬ」と学校で強制される。その図式は私立中学校受験などでも同様で、真に「子どもたちがやりたい」ことなのかどうか?甚だ疑問である。いつしか「ねばならぬ」受験対策に翻弄され自らの興味や関心のある学びをすることから遠ざかる。もとより多様性と言いながら「学校」という制度の中では「ねばならない」が多過ぎる。「国語」において考えても、「音読」「漢字」「感想文」「暗唱」「鑑賞文」などあらゆるものが「ねばならない」ものとして強制されるので、主体的に自らの興味関心を活かした選択の学びにはならない。人間は往々にして「ねばならない」と強制されたり、「空気」に支配されるとそれに反抗したくなるものだ。「国語」の「音読嫌い」「感想文嫌い」はこうした点に起因すると思われ、決して教材そのものが嫌なわけではない。大学となればより主体性ある個々人の選択を尊重し、広く大きな視野で将来を見据えた学びを選びとってもらいたいと思う。学生たちはその特権ゆえに、もっと自由でよいのだなどと昨今は強く実感する機会は多い。
自らがワクワクするものを選び取る
心が燃える自然と向き合えるものは何か?
この3年間で社会に「ねばならない」が増えたが、今こそ自らの頭で考えたい。
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「正しい」とはどういうことか?
2022-10-21
古典に向き合って「正しい」とは?「正しい」ことを言わねばならないと教える「学校」
「正解」という言葉をせめて「国語」では使いたくない
昨今、「正しい」ということが大きく揺らいでいる世の中である。「戦争」はいつでも「自国が正しい」と主張して、他国に侵攻するという行為である。「正しい主張ありき」で根拠たる理屈を「歪曲した真実」により取って付ける。本来は「根拠たる真実」があってこそ「適切」が導き出されるはずで、方向性が真逆であることを強制する悪辣な行為だ。やがて感覚は麻痺し尽くして「正しさ」は独裁的に強制される国となる。世界では多くの人が子どもでもわかる「裸の王様」の逸話を知っているだろう。「王様は裸ではない」という歪曲された事実が民に強制される訳である。周知のように「王様は裸だ!」と暴いたのは、幼い子どもの一言だ。素朴な疑問を忖度なく声を上げることの重要性に「強制を受ける大人」こそが学ぶべきだ。これは何も現在、侵攻をしている国に限らない危うい現実であると思う。政治が何事も「ありき」で進められ、行政も司法も「王様は裸だ」に忖度し、監視する役割のあるメディアまでが迎合していく。「正しさ」という言い方が実は何よりも「危うい」ことを、僕たちは注意深く子どものような童心で声を上げるべきなのだ。
なぜ我々は「正しさの捕虜」のようになってしまうのだろうか?大学教員になって「6・3・3と12年」を「学校」で学んできた学生たちと向き合うようになって、その理由が少しずつ解け始めている。入学後の1年生の講義での思考は、当初明らかに「(教員が与える)正しさを待つ」のが顕著だ。「あなたが思うように自由に考えてよい」という本来の「市民的思考」に気づくまでに半期ほどの時間を要する。具体例を挙げるならば、毎年の『枕草子』演習(2年生後期)での学生たちの発想が典型的な「ありき」なのである。「清少納言はあれこれ自慢めいたことを書き散らす嫌味な人物だ」という先入観「ありき」で、テキストに向き合おうとする。確かに「清少納言らしき人物」を酷評した同時代の『紫式部日記』の影響が大きいのか「高校古典学習」によって、この「ありき」がかなりの力を持って多くの学生たちに浸透しているのだ。ある意味で「教育の強制力」の恐さを実感する事例である。先ほど「清少納言らしき人物」と書いたが、この人物の存在を確かめられる資料そのものが『枕草子』なのである。ゆえに僕は身をもって学生たちに告げる、「僕の言うことも正しいかどうか?あくまで諸説を検討した上での一解釈である」と。そして「大学教員の言うことを簡単に信じてはならない」と続ける。自らの地頭で眼で批評的に疑ってみる。「国語」の学び一つでもこうした思考で行われないと、この国にいつまでも成熟は訪れない。
入試による「正解主義」の教育環境
果たして人生の「正解」などあるのだろうか?
「みんながそうする」からではない「一人ひとりがこう考える」なのだ。
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GIGAスクルール構想から先へ
2022-09-16
タブレット1人1台が提供され教室には充電用のロッカー設備も
WiFi環境ある教室で学級全員の課題共有など
この数年で教育現場の大きな変化は、GIGAスクール構想により児童・生徒にタブレットが「1人1台」は提供されるようになったことだ。教育実習参観に行くと、児童・生徒らの机上にはタブレットが置いてある。もちろん実習生の授業でも使用されることが少なくなく、学生らは「教師」として平然と機能を展開させる授業構成を実践している。この日も小学校6年生と中学校1年生に対して、タブレットを使用して学級内の課題を全員が閲覧できるように共有する授業を参観した。10年前であれば、ミニホワイトボードなどを使用し班ごとに話し合った意見を書いて教室の前の黒板に並べて共有をしていた。学生らの実習授業ではGIGA上に提出する資料を配布し、その書式に個々が思考した内容を書いてもらい、共有の場所にアップする作業を展開する。それを児童生徒らも、何ら戸惑いもなく容易に実践する。教師も子どもたちも、もはやICT機器を扱えなければ授業ができない時代になった。
ただし学生の授業参観をしていて思うのは、果たしてICT機器がどれほど有効に機能しているか?という疑問である。「国語」の学習として、「文字を手書きする」という活動も退化させてはなるまい。実習生らも板書においては、丁寧に見やすく書く工夫にも努力をしているのがわかる。エレベータやエスカレーターに喩えると、その存在がなくとも登れるところを使用すれば、人間は自らの脚を脆弱化させてしまう。手書きとICT機器での文字打ち込みは、このような関係性にも似ているように思えてくる。さらに言えばまだまだ有効な使用方法があり、子どもらの思考力・判断力・表現力を伸ばして行く可能性もある。昨今は「AIが短歌を作る」というような、実験的な試みもされるようになった。近々に開催される学会でも「AIによる作詩(漢詩)」という題目の発表が気になる。やがてGIGAスクールで学校生活を送った子どもらが成長して大人になる。スマホ使用が、日常生活のあらゆる分野に関係してくる可能性が高い。過去に普通であった仕事も淘汰され、ICT機器が容易に作業してくれる分野も少なくない。「短歌作り」一つにしても、このGIGAスクール構想を存分に活かした展開が、今後は求められてくだろう。僕らがSFとして考えていた「未来の学校」、実習生が容易にタブレットを使用して授業する姿に現実が見えた。
そしてまた情緒や共感など心にも関連させて人間性等を失わないために
やればいいわけではない、実践していかに伸ばして行くか?
GIGAスクールの先を考える。
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「先生の先生ですか?」学校が楽しい光景
2022-09-15
教育実習一斉視察「先生の先生ですか?」と親しむ子どもたち
次世代に「楽しい学校」を引き継ぐために
70年代の青春学園ドラマといえば、中村雅俊主演の「われら青春」「青春ど真ん中」「ゆうひが丘の総理大臣」などがあり、僕自身が小・中学生の頃に観て影響を受けたドラマであった。生徒らと同視線で部活動に勤しんだり、青年海外協力隊から産休補助の臨時英語教員であったり、破天荒でラフなジーンズスタイルで学校をかき回す、そんな教師像にある意味で憧れたものだ。こうしたドラマの中村演じる主人公の教師は、共通して「学校とは楽しいところじゃないか!」と主張し続けていた。学校の規制を守らせようとする校長・教頭などと敵対するが怯まず、生徒が生きやすい環境を押し通す。密かに理解ある理事長などが破天荒教師に学校の本質的な改革を期待している、そんな図式があった。もちろん、そんな破天荒な行動は実際の教育現場では不可能なのは確かだが、「生徒の目線に立つ」ということは実に大切で僕が教員になってから励行してきた姿勢でもある。むしろ現実の学校で教師たちは、「ドラマのようにはいかない」と口にする者が多かった。だが少なくとも「上から押し付ける」のではない、「学び手の目線」が主体になることは、現在では当然な考え方になった。
「ドラマのようには」と聞かされながら、僕自身は自らが楽しい教員生活を送ることができた。初任校が全国レベルの部活動もあってか、そのまま「ドラマ」みたいなキャラクターの同僚も多かった。現に「とんねるず(初任校卒業生・在学時代は僕の赴任前)」などは、「母校の教師ネタ」でラジオやテレビで人気を博しスターへの道を歩んだ。日々の職場へ行くことが楽しい!20代のそんな恵まれた現実の「青春ドラマ」を体験させてもらった。そんな「楽しい学校」がこの10年15年ぐらいで、この国から消え続けた感がある。今や世間的には「ブラックな仕事」とされ、管理職と保護者との板挟みになり、残業のつかない長時間労働、休職も辞さない人々の多さも目立つ。もちろん「学校がツラい」のは教員ばかりではなく、主人公であるはずの学び手も学校に行けない人がいづこでも多い状況がある。指導者・支援者である教師が、ある意味で楽しくなくて、どうして学び手が楽しいであろうか?基本的に「授業」を考える時に、僕はこんな考え方をする。昨日から始まった3年生の教育実習一斉視察に赴き、僕はこんなことを思った。ゼミ生になつく小学生らがいて、「先生の先生ですか?」と三者が笑顔で楽しめる、そんな場面に出会えて、ゼミ生らは「楽しい」要素も体験していることに少しは安堵を覚えるのであった。
教師の世間知らず
みんなが心を和ませることができるのが学校ではなかったのか?
「青春ドラマ」で主人公を追い込む状況だけが現実になってきてしまったのだろうか?
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まなびをえらぶー個別最適化へ向けた「国語」の学び
2022-08-08
自ら問いを立て問いを吟味し解決への方法をえらび取る押し付けられるのではなく個々が最適な方法で学んでいくために
「課題を形成する」分科会で学んだこと
日本国語教育学会全国大会(オンライン)2日目、午前中は「校種別分科会3・小学校「課題を形成する」の指定討論者兼司会を担当した。延べにして40名ほどの方々が、参集いただいたであろうか。2名の小学校教員の先生方が、自らの現場での授業実践に基づいた提案をいただいた。いずれも「文学学習材」により学習者自ら「問い」を立て、さらに問いを吟味して解決方法そのものを模索して展開される授業であった。令和型の教育として「個別最適化」が唱えられているが、「知識・技能」を活かすために「思考力・判断力・表現力」を働かせることで、「学びに向かう力」を求める方向性であることは昨日の小欄にも記した。「教師」はあくまで支援者、「学習材」と対等な関係でそれぞれが主体的に「学習者」と関わることになる。「学習者」は「いまここ」で学んでいることの「意味付け」に、自らが気づくことが必要だ。旧態依然の授業観をお持ちの向きは、果たしてそれで「学び」になるのか?と疑われるかもしれない。だが、この国の社会の「横並び」「社会的意識の低さ」を考えてもらえばすぐにわかる。いかに押し付けられた上からの「授業」を「学び」だと勘違いして来た歴史が厳然とあることを。
「学習者」を信じること、まずは「指導者」が心がける根本的な姿勢である。それは口で言うほど単純なことでもなく、「放蕩的」に学習者を身勝手に解き放つことでもない。「指導者」は「学習者」と「学習材」のそれぞれの「主体的な存在」に向き合い、自らも主体的になり「学習を繊細に支援する」という精密な協働性の円環の中に置かれることになる。「学習者」が「劇をすれば(物語の)登場人物の気持ちがよりわかる」という方法を採用したとすれば、「どんな劇をどのようにするのか」に対して適切な助言が求められる。そんな発想が「学習者」から発案される背景には、「登場人物に聞いてみよう」という「他人事」では済まされない、「学習者」自らが「物語世界に入り込む」という仕掛けが必要になる。「子どもたち」が「遊びの方法」を自ら発案し楽しむように、「学習方法」を自らが見つけていくという発明・開発の発想を育てていくことになるのだ。提案者の先生の向き合う学習者も、まさに多様である。それゆえに「指導者の支援調整」も自ずと求められて来る。夏の甲子園大会も開幕したが、開会式をはじめとして「高校生が自ら作る」ことで開催されつつある。監督談話の「選手がよくやってくれました」という意味は、決して「監督のため」という誤解ではなく、「選手が(主体的に考え行動し試合に向き合ったゆえの)よくやってくれました」と解することに偽りのない環境であることを信じたい。
「指導者」が学びを深めるために全国大会の場に向き合う
僕たち教員養成に向き合う者も「主体的」に実践から学ぶ姿勢が必要だ
活発な質疑応答により司会者として助けられまさに「発見」のある対話が醸成できた。
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自律的契機ー好き・楽しむ・浸るから始まる国語
2022-08-07
「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」
「学びに向かう力・人間性」ここを出発点として
日本国語教育学会主催「国語教育全国大会(オンライン)」が、2日間の日程で始まった。僕自身が宮崎県理事を務めるこの学会では、昨年(2021年)6月に「西日本集会宮崎大会(オンライン)」を主催し「短歌県みやざきの授業実践」という特集テーマにて実施した。「短歌学習材」に焦点化された内容は予想以上に好評で、シンポジウムには俵万智さんにもパネリストに加わっていただいた。今回は2日目の校種別分科会小学校の部において「指定討論者兼司会者」に指名いただき、「課題を形成する」というテーマの分科会を担当することにもなっている。初日のこの日は、「基調授業」が筑波大附属小学校の先生から提案された。「問い日記をつくろう」という単元名で、学習者自らが「物語」の問いを作り確かめ改めていくことが主眼とされていた。中でも注目したのは、学習者が「考える方法を自ら選ぶ」という方法を採用していたこと。これまでは指導者が「4人一組」などと決めた方法で話し合わせていた実践例が多かった。そうではなく、「一人」「ペア」「四人」「自由(途中で入れ替わる)」など主体的な活動をすることに新機軸が見られた。その後の授業協議では、「教室内を区切る」とか「教室から出ていく」という空間を超える「自律」の可能性を語る意見も出され、学びの(主体的)自由度を上げ個別最適を選ぶことが肝要なのが確かめられた。
その後、学会会長である桑原隆先生により「展望」が語られた。前述した授業の方法が理論的に提唱されるような内容で、考え方を明確に整理することができた。冒頭に掲げたのは学習指導要領に示されている「何ができるようになるか(資質・能力)」の三つの柱である。これを「総合的にバランスよく育む」ということを目指して「教育課程全体や各教科の学び」が構成されることになっている。だが、現場の「国語」授業などを見る限りどうしても「知識・技能」が最優先で、言語活動を通して「思考力・判断力・表現力」については意識しているという程なのが実情であるように思う。「バランスよく」とは言いながら、三番目の「学びに向かう力」が後付けのようになっている場合が多いということだ。桑原先生の「展望」では、この力こそが出発点となり「好き・楽しむ・浸る・成就感・上達したい」というような情動(情緒)的なことから自律的契機を大切にすべきだという方向性が示された。従前より僕自身も「音読・朗読」を中心として、「楽しい国語」を目指すべきと様々な機会に提唱してきたが、この提案により方針が適切であったことが確認されたようであった。さらに「elaborated code(精密コード)」による言語活動が大切であり、「異文化・異コード」と接触し変換する力により、自律的契機はさらに発動するということだ。例えば、「異言語間変換(外国語翻訳)」「異コード間変換(絵・写真・図)」などを始めとして、「同一言語間」では「ジャンル(韻文⇄散文)文体(物語⇄脚本)人称(一人称⇄二人称・三人称)」間の変換が有効な言語活動として自律の契機となるということ。これまで「創作活動」の大切さを提案し「短歌⇄物語・脚本」などの活動を大学講義でも取り込んで来た僕自身の実践の方向性を、明らかに「展望」として照らされたようだった。早稲田大学国語教育学会を通じても大変にお世話になっていた桑原先生、西日本集会開催や今回の司会者などで、少しでも先生への恩返しができるものとあらためて感謝の念を深く抱く機会であった。
「好き・楽しむ・浸る・成就感・上達したい」
「正解探し」や「やらされる」国語授業はもういい加減におさらば!
日本の学びに一番欠けている「意欲的」に火をつけて豊かな「国語」の学びを作りたい。
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子どもの貧困と不登校ー「強さ」は美徳にあらず
2022-05-06
「19万6,127人」(2021年10月発表全国不登校児童生徒数)うち宮崎県「1,917人」(学校種別に小学校・高校全国35位・中学校34位)
さらには訴えたくとも窓口のない多くの子どもたち
子どもの日、近隣の家でも鯉のぼりが庭に元気よく泳ぐところも目につく。僕なども幼少の頃には都市部であったから鯉のぼりを掲げる場所はなかったが、五月人形の段飾りを必ず客間に出して、次第に自分で飾りつけるのが楽しみであった。そんな中で「なぜ兜を飾るのか?」とか「武具や太鼓がなぜあるのか?」または「金太郎の人形などがなぜあるのか?(段飾り以外にお祝いにいただいた金太郎などがあった)」などと考えを巡らせていたものだ。「男は逞しく力強くあれ」という戦国・江戸時代由来の「猛き武士(もののふ)」観によって、現代的に言えばシェンダー平等に反し「力による強さ」だけを讃えるような内容だけが誇示される。僕の場合は特段にそんな「強さ」が求められたわけではなく、前述のような疑問から歴史・文化に目を開く育ち方をすることができた。幼稚園や小学校低学年ぐらいまではむしろ「弱く」、他者にいじめられることもしばしばだった。だが現代の社会では「優しさ・弱さ」こそが生きる上で肝心である流れが生まれてきた。風に靡き空に目を向ける鯉のぼりのように、柔軟であることに大きな価値がある。21世紀に至った世界でも独裁的な侵攻が現実となった今、あらためて「強さ」は美徳ではないことを「子どもの日」ゆえに悟ることも必要だと思う。
「子どもの貧困問題」を考える対話の会に参加した。冒頭に記したように、全国での不登校児童生徒の数は年々増加の一途である。数のみで考えれば都市圏にその数は多く、まだ宮崎県は全国で35位前後の数字ではある。(1,000人あたりの人数でも30位〜38位の間である)都市部に多く地方に少ないのはコロナ感染者も同様であり、人口密度による負の影響などを考えざるを得なくなる数字のように受け止められる。また全国的に貧困の問題は甚だしく、友人のフードバンクでも市内40世帯に食料や文房具を配布しているのだと云う。そしてこうした貧困は世代間で負の連鎖を起こし、学歴社会の中で格差を拡大していく。現状での大学授業料は国公立大学でも高額化し、奨学金制度とはいっても貸与制度であれば社会人になる前に借金をするに等しく学びたくとも学べない子どもたちの存在も少なくない。県内の様々な分野の方々が集まり、個々の実情を様々に情報交換することができた。国の政策も鳴り物入りの目立つものではなく、地道に学校・家庭・地域をやさしく繋ぎ、豊かに語り合いながら子どもらを育てる環境ができるような動きが欲しい。少なくとも宮崎はこの人口密度でさらに少子高齢化が進む中、「地方創生」の地道なモデルとして「子ども」の問題に実質的に向き合う県として歩みたいと願う。
「強くあれと言う前に、己の弱さを知れ」
強要して強さを求めない豊かな心が育つ学校とは?
小さな訴える声を堅実に拾える学校・家庭・地域でありたい。
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やらされるかみずからやるきになるか
2022-03-23
やらされる学習は早々に記憶から消え自ら生活に活用できるはずもなし
自らの思いが詰まった学びにするために
「指示待ち」という言い方が頻繁に指摘されてから既にだいぶ年月が経ち、今ではあまり世間では言わなくなった感がある。若い世代(に限らないのだが)が、指示を出さないと何もしないことを批判的に指摘する際の言葉である。今や「マニュアル化」は当然であり、「言われてやる」ことへの抵抗もない領域に入ったということか?昔日であれば「仕事は自ら見つけ先輩の姿を見て自ら学び取る」というのが常識であった。更にいえば心の奥では「こんなやり方ではダメだ」と、既存のものへの批判めいた思いも持っていたように思う。「主体的で多様な」とよく言うようになったのは、意識しないとそうでなくなったからかもしれない。OECD(経済協力開発機構)の実施する学力調査(PISA)では「読解力」とか「数学的思考」などの参加国ランクが取り沙汰されることは目立つが、「自ら進んで学ぶ」主体性に関するアンケート結果において日本が低いことはあまり喧伝されない。「読解力」なども一時の凋落傾向から回復したのは、「問題対策」を実施したからで、何事も「試験対策」を「学び」だと勘違いするこの国の傾向が浮かび上がる。社会全体が「やらされる」学習であることに批判的な眼を持てないことも問題だと思う。
「国語」における「読書感想文」「古典文法」「漢字学習」などは「やらされる」典型的なもので、いずれも学習者の身になる学びになることは少ない。むしろ「読書嫌い・古典嫌い・漢字嫌い」を助長する皮肉な課題であるのは、昔も今も同様であろう。自らやる気になればいずれも面白い学習になるものだが、残念ながら大学に入学してくる教員志望の学生でもこの三つへの課題体験の印象はあまりよくない。「読まされる・覚えさせられる・書かされる」という意識では、内容を身につけようとはなかなか思わないものである。同類のものとして論じてよいものかとも思うが、ウクライナがロシア側の予想以上に善戦しているのは「みずからやる気」があるからではないかと思わせる報道やコメントも多い。強制的に「やらされて」いるロシア軍と、祖国を護るために主体的に「やる気」なウクライナ軍という図式が士気の違いに明らかなのではないだろうか。強権による権威的な強制は、どんな場合でも下された者を幸せにはしないことがわかる。ウクライナの人々とみならずロシア軍の兵士の戦死者も将官を含めて多いと聞くが、その全てが「強制」の犠牲者でもある。学習のみならず、僕たちは自らの周辺にこうした「強権で権威的で威圧的な強制」があるとすれば、注意深く拒む必要があるだろう。
まずは目の前のことを自らやる気であるか?
暗黙の権威や強制に屈していないだろうか?
個々人が多様に主体的に幸せであるために・・・
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ごっこ遊びとやさしい学校ー昭和にもあった個別最適
2022-03-04
「戦争ごっこ」に「サムライごっこ」「ウルトラマンごっこ」に「仮面ライダーごっこ」
「ドリフごっこ」で活路を見出した僕として・・・
あってはならぬことの真実を理解するには、その体験をすべきなのだろう。文学・小説に描かれた虚構が現実以上の真実だとするならば、ある種の「体験」として学ぶべきと以前から考えて来た。例えば「国語」の定番教材でも、漱石『こころ』における「Kの自死」について、中島敦『山月記』であれば、「虎となって友を殺めてしまうかもしれない心」を体験することができる。だがそれを単なる机上の思考で終わらせてしまう大変に勿体無い学習である場合も少なくない。第二次大戦終戦から77年、僕たちは戦争を知らない子どもたちだ。「どんなことがあっても戦争はいけないことだ」と日本も世界も学んだはずだが、年とともに「経験」をした人は必然的に少なくなる。今にして思えば、僕が子どもの頃は「戦争ごっこ」「サムライごっこ」などがよく行われていた。駄菓子屋でプラスチック製の銃や刀剣などの玩具は定番であり、一定の年齢になると「モデルガン」などを競って買う雰囲気もあった。「コンバット」など米軍の独軍との欧州戦争を題材とした人間ドラマもTVで放映していた。また時代劇は盛んにゴールデンタイムに放映され、人が平然と斬られることの理不尽や不埒な悪行をしている権力者が暴かれ裁かれる勧善懲悪を日常的に眼にしていた。「ウルトラマン」は地球を侵略しようとする宇宙人との戦いで、「仮面ライダー」は人間社会が悪に改造されることから逃れる物語だ。いずれも「ごっこ」遊びが為されていたが、どこかで「なぜ人間は戦うのか?」とか「侵略という欲求は何なのか?」という人間の黒い欲求を「ごっこ体験」として学ぶことができていたのだ。
このような勧善懲悪を脱構築したのが『ルパン三世』の登場であった。「泥棒」が主人公、頭は切れるが女ったらし、「ワルサーP38」という銃を所持しているが決して人は殺めない。むしろ世界中で私腹を肥やしている欲望の悪魔から、美術品などを盗み出しその価値を世界に知らしめる。ある意味で『ルパン三世』は善悪二元論から思考を脱却させる画期的な発想のアニメであった。このような「ごっこ」を大人が大真面目にやって茶の間を笑わせていたのがドリフターズだ。「戦争」も「サムライ」も「忍者」も「盗賊」もコントの題材としてよくあったように思う。もちろん「学校」も定番コントとしてあって、僕などは現実に叶わないのだが加藤茶のような言動を実際に学校でしたいという願望をいつも持っていた。小学校低学年の頃、僕は早生まれのせいかあまり活発な児童ではなく、現在でいう「いじめ」とも言える行為を受けることもよくあった。だが学級内の権力者をねじ伏せる方法を発見した。それは「ドリフのような道化を演じる」ことだった。学期末のお楽しみ会で班ごとに出し物をやることになり、そこで銀行強盗の芝居をすることになった。僕は加藤茶のような銀行員役、銃で脅迫されている際に急に「ちょっとだけよ」の音楽を流し、強盗を撃退するという役柄だった。そんな加藤茶のような言動が、その後もガキ大将に受け入れられ、僕はやっと学級内で市民権を得ることができた。
「小説」でも「ごっこ」でも虚構の体験から学ぶもの
体験的な学びと多様な人間の立場を経験的に学ぶ場が必要だ
附属学校園共同研究における「やさしい学校」から考えたこと。
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