短歌で学ぶ〈教師未来セミナー「宮崎の先生っていいな」〉

2017-11-19
「この子らを妊りし日の母のことふと思う試験監督しつつ」
(俵万智さん『サラダ記念日』より)
短歌から考える「教師のこころ」・・・・・

夜中には激しい雨音で目が覚めてしまった。その流れで早目に起床し準備を整えて、宮崎南高等学校へと車を走らせた。昨日の小欄でも触れた「教師未来セミナー」の講師を務めるためである。南高校の生徒のみならず、県内各地から教師を目指す高校生たちが、雨にも負けず朝から70名ほど集まった。まずはその情熱に大きな拍手を送りたい。人生の志というものは、悪天候など簡単に凌駕するものである。9:00セミナー開始、まずは前の方に座っている何人かの生徒たちに「どこから来た?」「部活は何を?」と”つかみ”を入れる。「教師」とは教科を教えるのみならず、「部活」などを通して生徒たちと深く関わるものである。その後、僕が〈教室〉で関わった「教え子」ならぬ”学び子”たちで、プロ選手となった面々を写真で紹介した。サッカー・野球では既に指導者やチーム運営に関わる要職に就く者もいる。彼らは「プロ」として厳しい競争を勝ち抜いて生きて来た。その生き様を自己に照らし合わせると、「教師」も「プロ」であることを忘れてはならないと思う。スポーツ選手は実績がなければ「自由契約」となるが、「教師」はどうだろうか?そのくらいの矜持と決意を持って、あらためて「教師はプロだ」と高校生たちに熱く語った。

その後は、俵万智さん『サラダ記念日』にある「橋本高校」の連作から、5首の歌(冒頭に記した歌が一例)をみんなで音読して味わった。そこから対話活動へ、6人1組となって5首から印象深い歌を1首選ぶ、そしてその歌から感じられる「教師のこころ」を話し合い、各班のコメントを簡潔にまとめる内容である。この活動は予想以上に効果的で、選ばれた歌は様々であったが、「先生を評する・・・」といった歌の一節に、「教師は中学生から厳しく見られている」などと、現代の世相を反映するようなコメントが付けられて、『サラダ記念日』という歌集が「色褪せない」というよりも、「いつの時代にも対応する」歌集なのだとあらためて実感した。また定番とも言える「歌の中の『君』はどんな存在か?」といった観点からコメントを述べた班もあって、「教師」も「人」であるという思いも含めて多様な「こころ」が学べたように思われた。

後半は宮崎が生んだ国民的歌人・若山牧水の歌へ。牧水が家業を継がずに歌人を志した強固な意志、そして人生とは「旅」のように出逢いの連続である感慨を歌から味わった。その後の対話活動では、「教師への志に不安なことは?」を話し合う内容。「志を持ちなさい」と学校では教え込むことが多いが、「不安」は誰しも持っているものである。むしろその負の方向を対話して共有してこそ、「志」はさらに固まるのではないかと思う。僕自身もいくつかの志に迷い、そして「教科(専攻)選択」でも大いに悩んだ。だが「教師」になれば、部活動を担当したり学校行事で出番が与えられたり、様々な「夢」をささやかながら「現実」にすることができる。これもまた「教師」という職業の大きな「希望」に違いない。

生徒「上手く授業ができるか不安です」
私「どうぞ宮崎大学教育学部へ来てください!」
宮崎の次世代を担う瞳が輝いていたことに、大きな希望を実感した。

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現代語訳に頼らないでこそ

2017-11-16
古文・漢文の現代語訳
高校古典授業の訳中心主義
わかったような気になるだけで読めていないのでは・・・

高大連携などが世間では叫ばれているが、大学入試がその間に置かれていることにより、むしろ分断されている感を抱かざるを得ない状況に遭遇することも多い。センター試験をはじめとして客観式試験が中心であるせいで、どうしても高校生は「正解主義」に陥った思考になりがちである。もちろん「最も適切なものを選びなさい」と問われるゆえ、「思考の傾向」を客観的に捉えるという意味では有効と言えるのであるが、その「最も」は「一つ」だけに微妙な差異を認めない薄情さが伴い、「正解」という「規範」だけを崇める思考に陥りがちなのは否めない。それが古典の場合は顕著で、特に「現代語訳」を求めても「唯一無二」の規範訳を授業で提示し、それを定期試験の「正解」としている「教室」を数多く見てきた経験もある。だがしかし、提示される現代語訳など、その教師の解釈か、あるいは指導書などの解釈に依存した偏りのあるものだと知るべきであろう。

古文であれ漢文であれ、そしてまた明治期の文語文であっても、その原文と向き合って意味を探るところにこそ、文学を読む魅力があるのではないだろうか。現代語訳することを求めたり、あるいは、訳を示して教え込む方法は、もとより「読む楽しさ」を失う受動的な学習に陥りがちである。大学1年生配当科目の「国語」では、こうした「読む楽しさ」を協働活動の中から見出す講義内容を心がけている。昨日は「短歌教材で育む思考力・想像力・表現力」と題して、主に牧水の歌について、自分なりの「読み」を個人思考した後に班内対話をして擦り合わせて一つの見解にまとめて、それを全体に発表するという方法で進行した。「あくがれ」の意味を短歌全体の文脈から考えることや、「白鳥」は「何羽?」が「どこに?」いるのかという疑問について、「正解」などを求めるわけではなく、自分の経験を立ち上げながら、歌の場面を想像し自ら映像化していく思考力を体験的に学ぶ機会とした。

自ら道を歩かずして道は覚えられず
現代語訳という「即席レトルト」を食べさせていいものか
森林で道に迷い、また材料を切り、味付けに配慮し、焦げ付きを避けてこそ・・・・・


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講義より対話ーやる気と思いやりの教育へ

2017-11-10
心とは「思いやりとやる気」で人間性といふ
それ即ち「対話性」と「主体性」なり
もはや講義よりも対話を創る研修こそが・・・

県中部教育事務所からのご依頼で「読書推進協議会」にて、講演とワークショップを実施した。8日付小欄にその経緯は記したが、ゼミ4年生6名を伴っていよいよ本番当日となった。会は県内中部地区中学校の図書室担当の先生方が一堂に会し、まず現場からの実践報告が為された。図書館担当教員であっても現状の学校組織の中では、他の仕事もたくさん抱えているゆえに、その活動には努力が欠かさない。また学校内で忙しい他の教員からの理解を得ることも困難ながら、地道な工夫を重ねていらっしゃる先生方の活動をあらためて知ることができた。その後、30分のお時間をいただき「読書活動と豊かな人間性」というテーマで講演を行った。冒頭一行目に記したのは、僕の通っていた幼稚園園長のお言葉であるが、「心(人間性)を育てる」ことこそが「心育(教育)」であると云う。実は次期学習指導要領で提唱されている「対話性」や「主体性」とは、「思いやりとやる気」という「人間性」ではないかという提案を行った。

さて「教員研修」というと、実に雰囲気が硬い。そこで一方的に大学教員が”わかったような”理論を掲げても、現場での実践活動にどれほどに変化を差し向けられるものかと、かねてから疑問に思っていた。もはや時代の要請として「講演」「講話」というのは、やめた方がよいのではないかとさえ思う。今回も担当の先生にお願いして、学生たちが将来の教壇での意識を予想した「読書推進」に役立つであろう活動をご披露して、その後に現場の先生方とともに対話する構成にして欲しいと懇願した。「歌集ブックトーク」「創作的読み聞かせ」「詩の群読」の3点をゼミ生が分担して作品を創って披露した。その後はグループに分かれて、その発表に対する先生方のご意見を学生が各班内で対話しながら聴き、また学生側からも現場への質問が先生方との間に為された。今後は県内でも大量退職大量採用の時代となるが、こうして県教育事務所と現場教員、そして地元教育学部の学生と教員が三者で学び合う環境が、求められていることも予見できた。学生たちは卒論へも大きな示唆を得たであろうし、また現場の実情や先輩教員となる先生方との間に、人間的な繋がりが芽生えたのも大きな成果であった。

時代は大きく動きつつある
学生たちとともに未来の教育を模索する
日本一の「短歌県」「読書県」を目指すためにも。


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「正しさ」の強制が危うい

2017-08-12
「正しい」読み方を
「正しい」解釈を
授業における「正しさ」の強要を考える・・・

「正」を手元の『漢字源改訂新版』(学研)で引くと、その字源は「一+あし」で、「足が目標の線めがけてまっすぐ進むさまを示す。」とあり、「征」(まっすぐ進む)の源字であるとされている。意味としても「まっすぐであるさま。」ならば対照となるのは「邪」の文字。「まともであるさま。また、まっすぐ向いているさま。」なら対照は「反」や「裏」の文字。「まじりけのない。」という意味なら類語として「純」の文字が掲げられている。また「中国の暦法で、一年の基準になるもの。」つまり「正月」という語彙はここから来ているわけで、「改正」という語に至っては、「王朝が変わった時、正月をいつとするかの規準を改めて、新たに暦を決めること」と解説されている。この「改正」という語彙の本来的意味に象徴さるように、「正」の規準というものは、権力を掌握した「王朝」によって違うわけであり、「暦」でさえも「改正」されていた時代があったことを考えさせられる。

こうした小学校低学年で既習の基本的な教育漢字というものは、上記のような字源などをあらためて考える機会が少ない。本来は高校の漢文教育がこの分野を担うはずであるが、現場における漢文の授業のあり方も、教科書教材文の訓読と口語訳に終始し、漢字文化の奥深さに言及されることは少ない。それは学習者というより、指導者がこうした意義を理解していない場合が殆どである。最近気になることは、学部の学生たちが模擬授業などを指導案段階から作ると、「・・・は正しいか正しくないか」という問いや、「正しい読み方」「正しい解釈」など「正しい」を冠して授業を進行する過程にしていることが多いのである。教室での「音読」が「正しく読めるか読めないか」を規準として実施されるゆえ、学習者は伸び伸びと自分らしい声で「音読」する気持ちが失せてしまう。もとより「漢字の読み方」そのものが相対的なもので、本来はその文体や形式によって多様な読み方があってよいものである。「唯一無二の正しい読み方」に怯えながら、萎縮した「音読」しかできなくなる〈教室〉を無意識に(そう無意識がさらには危うい)醸成してしまっている。この図式が暗澹たる歴史の再生であることに、我々は自覚的でありたいと思う。

「いま此処にいる」ことの自覚
あらゆることは「相対的規準」の上で
「当然」「問題ない」もあくまで恣意的な「正しさ」の上でしかない。

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あくまで現代に読む古典

2017-07-21
「温故知新」再考
「伝統的な言語文化」という文言の罠
「現代」を生きる我々が何を読むか・・・

大学生にアンケートを取ると、概ね「古典は好きではなかった」という回答が多い。たぶんそれはここ20年〜30年か、それ以上変わらない「定番不人気」であるように思われる。「古典教育をどうしたらよいか?」という命題も、様々に議論されながらもなかなか明るい未来が見えないままになっているわけである。とりわけ現行指導要領から加わった「伝統的な言語文化」という「一事項」に関しては、「古典重視」の方針が明らかに打ち出されたのであるが、小学校から古典教材を扱うようになったという革新が見られた程度で、その授業のあり方や享受のあり方を改善する方向性が明確になったわけではない。抑も「伝統的な・・・」という文言が使用されることで、古典には「核心」となる「権威」が含まれていて、それを再び甦らせるといった動きだけが見え隠れして、真に現代人として「古典をどのように読んだらよいか?」という意識が希薄なのが問題だと思われる。

「昔」は崇高で「現代」は頽廃したのか?だとすれば、我々はその「頽廃」たる文明を享受して、少なくとも「便利」だなどと「甘えて」いるのであろうか?考えやすいので数世代の歴史の中でこれを考えるならば、祖父祖母・父母の世代が「戦争」を経験し苦労したから「崇高」で、その苦労を知らない僕ら「戦争を知らない子どもたち」は「頽廃」したのだろうか?こうした懐古主義に走ればむしろ「戦争」という体験が「貴重」だとも考えられてしまい、無闇に「戦前回帰」をするような悪質な考え方を助長しかねない。もちろん「戦争」の経験を語り継ぐことを、否定する気は毛頭ない。語り継ぐにはどのような考え方を採るかを、精査すべきだと思うのである。「今」を生きる我々は、宿命的に「今現在」しか生きられない。だとすれば、受け継いだことばを想像力豊かに「現代」における「意味」を創り出すしかないのではないか。中高の「古典学習」を考えた時、まずは指導者自身がその「現代的意味」を持てるか否かが、重要ではないのかと痛感するのである。

「現在」の歌創りにも生きる
「古今和歌集仮名序」の抒情論と効用論
和漢・和洋との相対化の中で育てられた「やまとことば」とは何かを考えたい。
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高校漢文学習と教科横断のことなど

2017-07-13
「国語」で漢文を学習する意味
そして言語系科目の教科横断を考える
これからの時代に求められる学力として

ある高校の校内授業研究に、本学部から数名の大学教員が参加した。高校1年生「国語総合」の「漢文」の公開授業から参観。入門期にあたり「寓話」の教材をどのように扱うのか大変興味深かった。比較的多くの教科書に掲載されている「漁夫の利」の教材で、その「譬え話」にどのような効果とか意味があるかを考える授業構想となっており、多くの点で共感できる内容であらためて漢文教育の重要性を考えさせられて大変勉強になった。まずはプリントに記された白文を、生徒たちは文構造としての「述語」を探し出すように読み解いていく。自ずと主語やそのうちなる固有名詞が明らかになっていく。入門期というのは、往々にして訓点の扱い方を記号的に学ばせる方法が採られがちだが、無機質な四角の中に訓点に従って番号を記していく学習などは、むしろ様々な錯綜を招き起こし、有効な学習とは思えない。こうして内容ある本文(白文)に対峙して読み解く過程を経験してこそ、訓読がいかに意味ある直訳法であるかが体験的に理解できると考えたい。

事後研究会では、語彙的な理解が必要になった際の「二字熟語」に変換した学習を進めることを提案した。「強秦」(強い秦という国名)の理解であったら「強敵」という現代日本語を考えて、上の漢字が下の漢字を修飾しているという漢語構造を考えさせる。「幣大衆」(大衆を疲れさせす)であれば、「幣」の単語家族として「疲弊」の「弊」の字があることを考えさせる。こうした習慣をつけておくと、日本語への理解力と表現力がつき、まさに「国語」で「漢文」を学ぶ意味が具体的に浮上する。もちろん大学入試対策にも誠に有効な方法である。自らが高校現職教員だった頃より、こうした漢文教育方法の提言をどこかでしたいと考えていたので、誠に意義ある機会をいただいた。その後、英語の授業も参観。「国語」で学んだ「論理的文章展開」を意識しながら、自らの興味ある「音楽」について英文を書き、最後にはそれを会話として表現するという内容であった。個人的な見解であるが、この「国語」でいうところの「論理的」という観点が、非常に曖昧であるようにも思われる。長い日本語の歴史も鑑みるに、口語性が高く時系列的に物事を記していくという特徴があり、それがまさに奈良平安朝以後は「漢文」の、明治維新以後の「西洋文化(言語)」に依存して「論理性」を築き上げてきたことを認識しておく必要性を感じた。

生の現場の授業改善に関わることの意味
「入試」学力に偏重した高校教育を変えるべく
教科横断の鍵は「自分のことばを持つこと」ではないかという気づきを得た。
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悩ましい文法学習を考える

2017-07-11
中学校での口語文法
高校での古典文法
形骸化した学習から抜け出すために

国語教師であれば、文法学習について日頃から苦心することも多いであろう。反対にむしろ定式的に消化すべき内容として、”得意”としている方もいるかもしれない。僕自身が高校生の時、この後者のタイプの教師の授業を受けたが、それは”得意”というより”独り舞台”であり、文法副教材に載っているようなことを、ほぼ独りで板書して話し切っていた。その視線は僕ら生徒に向けられることなく宙を泳ぎ、ただただ時間だけが過ぎ去っていった。もちろん僕は自分自身で好きな本を読んでいたので退屈しなかったが、心の隅で「国語教師とは?国語授業とは?」という疑問が浮上し、今の仕事に至る一因となっているような気もする。いつの時代でも、「授業」とは「教師の説明」にあらずなのである。

県内のある中学校を授業研究で訪れ、小規模校少人数学級の「口語文法」の授業を参観した。個々の生徒たちが、いかなる課題意識を持って口語文法の学習に取り組むのか、またどのような対話を醸成し無味乾燥な文法学習を活性化させるのか興味深かった。僕自身の教員経験からしても、中学校の口語文法の学習は目標や到達度が見えづらく、また生徒たちの学習意欲を上げるのも難しい。幼少の頃からの「言語感覚」で心得ていることを、いかに理論的に理解・定着させるのか?文法上の説明ができないと生活上何に支障が出るのか?など、授業づくりの根本で悩ましいことも多い。参観して学んだことは、やはり「場面・人物・状況」を具体化して、それを会話にするなどロールプレイの手法を用いたりする方法が考えられる。この発想からすると、短歌を学んでいることがとても有効なのだという考えに至った。一つの「助詞」で、その歌の出来栄えを大きく左右する。そして「場面」があって「人物」の心も見えてくる。種々の短歌用例を挙げて学ぶ「短歌文法学習法」などを開発してみるのも面白いかもしれない。

「言語感覚」を「知識」とするために
そしてまた「知識」は表面的な用語にあらず
日本語教育の視点とも交流し、豊かな発想で生きた文法学習を求めたい。

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対話性を奥深くみる授業

2017-07-01
「主体的・対話的で深い学び」とは
「授業」の見方が大きく変化した
個々の学習者の中にある奥深さに分け入って・・・

2日間にわたる学部附属中学校の公開研究会にて、研究主題は「社会で活きる汎用的な資質・能力の育成を視野に入れたこれからの教科指導のあり方〜各教科における「主体的・対話的で深い学び」をとおして〜」であった。この日は、国語科の公開授業と分科会が開催され県教委の指導主事の先生とともに「指導助言」の役も仰せつかった。中学校2年生で実施された公開授業は、班ごとになった各部活動の「CM」作りを他班に「発注」して、「受注」した側は発注者の意に沿う「CM」を製作しプレゼンテーションをするという活動を中心にしたものであった。公開授業の本時は、四名の各班で用紙にキャッチコピーや絵図を作製し、それを仮にプレゼンした後にその内実について「発注」側と「受注」側が対話を深め、よりよいプレゼンに改善する糸口を見つけ、さらに深く考えるとともに、そこで実施された「対話」のあり方を客観的に見つめ直し、自らの「話す・聞く」がどのような状況であったかを見つめるという点に大きな特長があった。

さて、ここで重要であるのが「授業」そのものの見方であろう。公開授業参観となると、概ね教室の後ろとか両脇から「授業」の全体像を観察することが多いが、上記のような内容の「授業」において、それでは内実をほとんど理解することはできない。各班の「対話」の内容がどのように深まりを見せて、さらには各学習者の言動の具体相がどのように交流して思考が変容しているかを観る必要があろう。このような意味で、様々な班の「対話」を観たいという衝動を抑えながら、ある班に終始張り付いてその「対話」の内実を観察することにした。小欄ではその具体相についての記述は控えるが、指導助言で「公開」した内容を一部記述しておきたい。学級全体であれ各班の中でも、自ずと「対話性」の深い学習者と浅い学習者がいるのは必然である。だが相互の刺激によっては、深い者はより深く浅い者も深い領域に及ぶことが可能となる。「四人一班」の構成をどうするかも授業戦略として重要であるとともに、自由に考えを交流できるということを学習者に根付かせることも重要である。もちろん「話し合い」には一定のルールがあるが、相互に挙手・指名をしていても不毛な答弁に終始してしまうのは、今や「政治」舞台を見ていて辟易としてしまう。四名という構成要素が、まさに「主体的」に自らが「今」考えたことを言葉にしていくことで、相互の考えが深まっていく。このように級友とはいえ、その内なる「他者」に気づき、その言動に接触して自らの考えそのものに気づいてこそ批評性や創造性、そしてメタ認知力につながり、「社会で活きる」力が育まれることになるであろう。

もはや「教室」の構造も変化を望みたい
授業中は「静かに聞く」から「主体的に話す・聞く」へ
あらためて歌会・朗読会などが、必然な「対話的」な場であることを確認できる。

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ICT授業支援を考える

2017-06-22
タブレットによる学習者発信
教材提示装置の可能性
授業は教室はどう変わっていくのか?

1970年代の学校の教室と現在では何が違うのであろうか?一斉授業形式の机配列など表面上は特段何も変わっていないともいえるが、最近は少なくとも「教材提示装置」などの類は多くの教室に備えられたように思われる。70年代当時にもやはりテレビはあったが、扉付きの箱のような中に格納されていて、NHKの「道徳」番組などを視聴するとか、特別な折しか起動することはなかった。時折、誰かが悪戯して民放チャンネルに”回し”たりすると、教室は特別な空気感に包まれたものであった。そのテレビの用途は、現代では確実に変化したといってよい。「教材提示装置」が接続されるだけで、「実物」を全員に拡大して見せることができるようになり、教科書そのものから学習者のノートの一部、様々なサンプルなどを投影して授業を進めることができる。

さらにはタブレット端末の普及によって、大きな「提示装置」はなくとも同様かそれ以上の機能を展開できるようになった。保存しておいた写真の提示のみならず、教室その場で様々なサンプルを撮影して即座に提示することができる。もちろん動画再生も簡単に実行でき、教室の局所を”生中継”することもできるようになった。この日は、附属学校園との共同研究において、タブレット端末を授業支援システムに接続し、双方向性のある情報送受信をワークショップ形式で体験することができた。各タブレットに書き込まれた情報は「親機」に一括表示されて前面に投影され、特定な二例などを比較提示することもできる。次から次へと書き込む情報は即時更新され、思考の流れがどう変化していくかを指導者はもとより相互に見える化することができる。班別活動をした際に他班は何をどう書き込んでいるかを前面のテレビ画面を見れば把握することができる。もちろん各班が机上で撮影した写真も提示することができて、過程をリアルに実況中継することも可能だ。各班がホワイトボードを使用することと比較して、機能の違いをどう活用するかは、やはり「授業戦略」次第ということになろうか。残念ながらICTの導入に関しては、宮崎県は全国でも後進であると言わざるを得ない状況のようだ。

もう既に多くの子どもたちが家庭でタブレットを扱っている
そしてまた指導者もスマホは生活の一部となっている
教室の外見以上に指導者・学習者の「生活」が大きく変化しているということだろう。
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結果ありきに骨を抜かれる勿れ

2017-06-16
〈教室〉における「国語」の発問
一つの「正解」が決まっているとすれば
みんなが考えなくなり骨を抜かれるがごとくに・・・

大学院在学時に「国語教育」を御教授いただいた大平浩哉先生は、授業でいつも「国語の正解は一つか?」という問いを批評的に我々学生に投げ掛けられていた。長年、文科省教科調査官をお務めであった先生は、全国でかなりの数に上る授業を参観していたと云う。その現場での実感から「国語の答え」を「一つ」にしていることが、子どもたちの思考力・想像力を剥奪し、その延長上で「結果ありき」ゆえ興味の減退を招き、「国語」という教科そのものが頽廃してしまっているといった趣旨を訴えていらした。それならばどうしたらよいか?それは大平先生の御著書『国語教育改造論』等に記されており、今でも新鮮な論として参考になる点が多い。例えば、小説・物語で「ある場面での登場人物の心情」が問われる。表現を根拠にして多様な捉え方が可能であり、個々の経験を起ち上げて考えて、他者との違いに気づくことで「自己」の思考の傾向を知る。こうした「国語」であればこそ、子どもたちの思考力は柔軟に育まれる。

ところが今でも、知識偏重・「正解」主義的で意欲減退を招きかねない「国語教室」が存在しない訳ではない。いくら考えても最後に到る結果は決まっており、それゆえに子どもたちは「多様な考え」をすること自体を諦めてしまう。例えば〈教室〉で、ある子どもが発表したとしても、周囲は「同じです」を大声で連呼し、既定路線の「一つの答え」を疑問なく受け容れていく。「多様さ」がなく「一つ」に決まった方が教師としても進行が円滑になるので、「授業技術」の上では「上手くいった」と安易に判断し甘んじてしまう。実際はこうした「国語教室」が今でも多数存在しているのではないだろうか?となると、思考の上で頽廃した姿勢の子どもたちが育ち大人になっていく。社会の中で起こる事象もきっと「結論は同じ」だと思い込み、批評性を失っていく。すると自由な「表現」をはじめとする基本的な「権利」をも、平然と放棄してしまう輩となりかねない。一昨日まで3日間の実践のように、声優さんに触発されて個性的な「多様な声」で表現し、「まとめ」など敢えてしない開放的な「表現活動」の場こそが、〈教室〉に求められるのではないだろうか。

「結論」が暴力的に押し付けられる
「主体性」こそが国際基準の個のあり方ではないのか
「教育」という「装置」の責任をあらためて痛感する日々である。
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