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読むは詠むことー中学校和歌単元の学習を考える

2024-02-04
中学校3年生古典和歌単元の学習
学習者自らも歌を詠み掲載歌と対峙して判詞を書く
歌合方式の活動により言語文化としての学びの充実

教職大学院現職院生の課題研究の副査を仰せつかっており、この日に行われた発表会の当該発表を参観した。冒頭に記したように中学校3年生の古典和歌単元で、教科書掲載歌の「読むこと」に終始するのではなく、学習者自らも歌を「詠む」ことで掲載歌を相対的に「読もう」とする実践であった。しかも双方の歌を「歌合方式」で対峙させ判詞を書いた上で比べ読みをする、誠に古典和歌の学びとしては思慮深い内容であった。この実践研究の要点は2つ、「読むこと」の学習に連携させて「創作(書くこと)」を導入していること、また古典を古典における伝統文化の方法を活用して学ぶということだ。

中学校の古典学習はある意味で難しい。それなりに内容を深め批評的にせねばならないが、それでいて文法までは深入りできない。多くの現職教員が教科書の現代語訳を活用しつつ、学習者が主体的にはならない受け身の学習になりがちである。その結果、学習者にとって印象深い学びにならず言語生活に活かされることもない。もとより現職教員が「短歌を詠む」ことや「古典学習」そのものにアレルギー反応を起こすことも少なくない。だがむしろ先述した文法に深く立ち入らないからこそできる中学校での古典の充実した学びがある。短歌の世界では「読むは詠むこと」(「読」と「詠」の漢字を反転させてもよい)とよく言われる。学習指導要領の領域枠を超えて、学習者が自ら表現し批評することで初めて「主体的対話的深い学び」になる。「1人称の文学」と云われる短歌は、もとよりこの学びの力を含み持つということだ。

創作主体の立場になって読むこと
自らが詠み、相手に伝えることの大切さ難しさを知る
まだまだ古典学習において開けるべき風穴は多い。


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やってみる目的を伝える

2024-02-03
やってみる目的(価値)を伝える
遊びの中に多くの芽が見つかる
強制したり罰を与えるのではなく

学びの場に「ポジティブ行動支援」という方向性が示されている。個々の学び手の言動を前向きに捉えて、指導者は積極的に行動させその目的(価値)を自覚できる支援を学校全体でしていくという教育方針である。昨日は附属幼稚園の公開研究会が開催され、公開保育や全体会・分科会でその実践のあり方を直接に参観することができた。あらためて幼稚園という場では「遊び=学び」なのだと確認する機会でもあった。この国のこれまでの教育では「・・・させる」があまりにも多く、強制や罰によって行動規制することが少なくなかった。「読み聞かせ」という言葉も「聞かせる」という趣旨が臭うが、積極的行動支援であれば読み手である子どもたちの主体的な意味付けが基盤に据えられるはずである。

こうした潮流を知るに、僕自身が幼稚園で受けた教育は先進的であった。「遊び」を積極的に勧めており、幼児も保護者も自らがやる気になる方向を示してくれた。僕が紙芝居や絵本を好きになったのもその一端である。公共の水道場で手を洗って石鹸が蛇口に着いたら最後に流す、など生活習慣が身についたのも強制ではなく、「次に使う人のことを考えよう」という目的が意識化できたからだ。現在でも僕はこの行動を励行するが、自動で出水する洗面台も多くなってきた。だがこの姿勢を意識していると、「他者の気持ちがわかる」ようになる。家庭によっては早期教育で「知識・技能」を詰め込む方針も見受けられるが、幼少期に大切なのは「自らの行動の公共性ある価値に気づく」ことだろう。学び手を真に主体的にするためには、幼児教育からの変革が必要だ。

学習の「音読」活用でも「目的」を伝えよと主張してきた
意識の高い教育は過去から「ボジティブ行動支援」であった
「他者の気持ちがわかる」ならば「自己の存在の価値」にも気づく。


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八月の風と教員の夏休み

2023-08-02
今月は満月の日が2回((8/2 8/31)あるとか
満ち欠けがあってこそ日々は進む
新しい八月の朝がやってきた

県内で教員をしているあるゼミの卒業生と電話で話したが、夏休みに入って10日ほど部活指導はあるが落ち着いた時間が取れていると聞いて安心した。教員免許状更新講習制度も撤廃され、むしろ現在は教員不足により、免許状を持っているが教員をしていない人材の発掘にも力が注がれたりしている。少なくとも「昭和の教員」は、長い夏休みがある職業だった。その間に部活指導に勤しむのもよし、自らの見聞を広げるために旅行に出かけるもよし、個々人が人間的な器を拡げることで授業にも子どもらの対応にも、心の余裕とユニークな個性があった。教員は万能であるより、個を大切に生き生きとしていれば子どもらもまた活き活きと育つものだ。だが一部の政治家が「教員は休みばかりで遊んでいる」という偏見を真に受けて、次第に研修日も長期休みも奪ってしまったことで、現在は教員としての仕事の人気が大幅に下落した。本来は自らが好きなことをやり続けるという学校外の顔を持つ、懐の深さがあってこそ豊かな教育が成されていたのではないか。

小中高教員ばかりではなく、大学教員もまた同じ。かつてより長期休暇期間は縮小され、競争的資金獲得の申請は苛烈にかつ前倒しされ、長期休暇中も「せなばならない」ことが山積している。もとより授業などの大学業務以前に、「研究」をする時間こそが大学教員が確保しなければならない時間である。現在はむしろ研究時間を紡ぎ出すのに、様々な工夫が求められているかのようだ。定期試験期間になって毎週の講義のための準備(内容の精査・プレゼンの作成・学生レビューへのコメント)がなくなっただけで、少し余裕な時間が生まれて来る。もちろん試験作成や採点・評価はあるのだが・・・・・。かくして、あっという間に8月が訪れた。夕方になって大学至近の小学校へ、後期の授業からの学生参加活動の打ち合わせへ。校長の意欲もあって、先生方とともに新しい授業開発へ向けて学生を関わらせてくれると云う。学生たちは各自の卒論テーマに基づき、小学校教員と協働で授業づくりや補助を担うことになる。こうした「新しい繋がり」が地域で持てるのは、誠に喜ばしいことである。

八月の風が吹いてきた
今月は研究学会での東京行きや短歌甲子園もあり
母の手作り夕食をいただいた後、雲間から大きな月が幻想的にこちらを見つめていた。


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正しさの欺瞞とAIの行き着く先

2023-07-13
正しくなければならないに脅え
身動きができなくなる思考に陥らないために
いまここにしかない最適を多面的に考え出すということ

「正解!」という言葉が、日常で使用されることは少なくない。例えば、飲食店を選んで入店したところが美味しければ「正解だったね!」と言い合うあれだ。我々は小中高において「○か✖️か」における「○」を、試験で求められ続けて青少年期を過ごして来る。もちろん高校入試や大学入試でも「○」が多ければ、人生の進む道が変わって来る。だが特に人文学系の科目であれば、「正解とされている」内容でさえ学問上の一解釈に過ぎない。文学の解釈も歴史の認識も、ある一定の立場からの思考のとりあえずの結論であり「絶対」ということはあり得ない。よって大切なのは試験での「正解」ではなく、あれこれと「探究的に思考する過程」である。できるならばこの「過程」を存分に評価する入試であるべきと、僕は生涯を通じたテーマとして思考して来た。

昨今の学生と接していて「正解の呪縛」に脅かされてはいないか?と懸念することがある。教育実習でも「正しい授業」をしようと求めているようで、どこか窮屈な印象がある。いまその場で向き合う子どもたちにとって「最適」な世界でここにしかない授業、決して「正しい」などという狭量な尺度で「授業」は成立し得ない。考えてみれば「正解の朗読」「正解の文芸創作」など、甚だナンセンスな面でも「呪縛」から解放されないような雰囲気を感じる。最近は様々な面で話題となる「AI(人工知能)」は、果たして「正解」なのだろうか?短歌誌にも言及があり、「それなりの短歌」を作り出すそうだ。「AI短歌」の典型的な例を誌上で読んだが、どこか講義課題で初心者の学生たちに作ってもらう短歌の雰囲気に似ていた。「正解主義」の行き着く果ては、どうやら「人工知能」なのか?その無味乾燥な一首に「ニンゲン」としての「心」「魂」を入れるものは何か?思考する過程の葛藤・錯綜・混乱が入り混じってこそ、いまここにしかない「短歌」になるのだと信じている。

一つの教材にも様々な方法が
混濁した思いを言葉にしてこそ救われていく
人は何も「理路整然」でばかり生きているのではない。


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せめてもう積極的行動支援(PBS)のある環境を

2023-06-01
ほめるくらいで子どもらはかわらないか?
「期待される行動」と「問題行動」は表裏一体
「頻繁な強化」の積極的環境づくりから自律的社会的つながりの自己管理へ

自分自身の小・中・高校体験として、「怒号」がある環境は身がすくむ思いであった。あまり自らが怒られる子どもではなかったが、教室内に先生の怒りの声が響くのが大嫌いだった。その習性は自分が教員になっても同様で、職員室などで同僚が「怒鳴っている」雰囲気が大嫌いだった。未だ1980年代だった初任時、「怒れないのは指導していないに等しい」ように周囲から言われ「真似事の怒号の演技」を試みたこともあった。部活指導なども同様で、他校と交流すると激しく生徒を怒鳴る監督が山ほどいて、その度合いを競うかのように「怒鳴るだけチームが強くなる」と信じ込まれていた。だがその都度、「僕には決してできない」と心の中で呟いていた。「怒鳴らない」でも子どもらが競技力を高める方法が必ずあると信じていた。2020年代になってようやく僕が教員として考えていたことは適切だったのだ、という機会を最近は多く見聞するようになった。それが「積極的行動支援(PBS)」である。

所属学部の学部附属学校園にて、この「積極的行動支援」がまさに積極的に試みられ始めている。この日は自らが委員長を務める「共同研究」の全体会が開催され、本年度の研究計画・日程等の協議・確認が行われた後に、「スクールワイドPBS」の講演を学部の先生が行った。積極的行動支援のある「環境(学校風土)」を創り出すこと、「強化」は頻繁にしつつ次第に「自律的」な支援に移行してゆき、「自己管理」へと「ポジティブな循環」を創り出すというのだ。「適切な振る舞い」がなかなかできない子どもらにそれを教え、「修復するアプローチ」をしていく。反対に「怒り」など「不快な刺激」に直面した子どもは、「不快な刺激(暴言・暴力)の出し方」を学んでしまうか「逃避・回避」に向かってしまう。「怒号」などで押さえつけると表面的に問題行動は起こりにくくなっても、他の場面で(隠れて)生じることになる。むしろ陰湿な「いじめ」などの温床になるのではないか。「その場で期待される行動を組織的に教える」ことがまさに「SW-PBS」のあるべき方向性だと学んだ。最後に「学校」と同様に、僕は家庭でも「怒号」が大嫌いだった。子どもながら父は矛盾していると、反抗心を持つことも多かったと記憶する。積極的行動支援は家庭でも有効だろう、などと思いつつ「怒鳴る」ことの愚かさを再認識している。

教員の意識が重要
そして教員自身も積極的行動を評価されるべきで
明治以降の近現代化の鬱屈した「国」としての風土が生み出した「怒号」から解放されよう。


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島にこそ宮崎の魅力ー島野浦島の教育

2023-03-03
延岡市北の浦城港より
高速艇10分・人口713人・世帯数404(実際には239とも)
「ひと・もの・こと」とつながる体験満載の義務教育学校へ

明治から近現代155年、「物・便利・速度」をこの国の人間は求め過ぎて来たのではないか。いずれも「自然」を無視した人間の強欲さが先立ち、海や川や山を汚して切り開き道路や電車や航空機で便利に速く移動できることを求めた。その結果、一見は自然災害のような人為災害を多く体験してきた。時にこうした近現代的な傲慢から離れ「無為自然」な生き方こそ素晴らしいと若山牧水の短歌などに学ぶことも多い。「なにも無いでしょ」宮崎に僕が移住した際に地元の人から投げ掛けられた言葉だ。だが「無為自然」に大きな魅力があるとするなら、宮崎はまだ「近現代の強欲から逃れた桃源郷」のような場所であるようにも思う。

九州でも宮崎県は地理上においても、長崎県や鹿児島県ほど人々が暮らす島嶼部は少ない。日南・大島のように以前は住民が生活し学校もあったが、今は無人島になってしまった島もある。そんな中で冒頭に記した環境の「島野浦島」に、従来からある小学校・中学校を統合し新たに義務教育学校が令和4年度より開校された。従来からの「島野浦小学校」は、国民学校時代から数えること148年の歴史があり、江戸時代などは九州ー瀬戸内海航路の寄港地としても栄えたらしい。この学校に9学年(小中)24人の児童・生徒たちが学んでいる。宮崎県はむしろ山間部の小規模校が多いが、今後の少子高齢化の波風を受けており、様々な面で支援が必要である。地域の教育に貢献すべき地方国立大学として、この県内の課題に真摯に向き合う必要がある。

以上のような背景から「島野浦学園」を学部の同僚2名とともに視察に赴いた。大学から車で約2時間、至近の高速インターから港までコンビニはない。どこが高速艇乗り場か?と思うほど素朴な桟橋に、綺麗に新築された日豊汽船のチケット販売所がある。波を搔き分ける高速艇で10分、まあここには「速い」という概念が侵食はしている。島の桟橋には先方の学校職員の方々が迎えに来ていただいていた。そこから車で10分もしないうちに新設学校へ到着した。(旧中学校があった場所)校長・教頭より学校概要や特色のわかりやすい説明をいただいたが、「島浦学」など此処でしかできない自然体験的な学びも教育課程に組み込まれ、まさに個々の児童・生徒が自らのペースで焦らない「個別最適な学び」を展開している印象を持った。さらに島の水産加工業の人々との交流や地元祭りへの参加など、地域との「協働的な学び」も満載である。授業中の校内見学を含め約2時間の視察であったが、この教育内容こそ学部学生に体験的に学んでもらいたいという思いを強くした。

昼食は「満月食堂」にて
魚の獲れない満月の夜には島民が集い楽しんだという由来から
宮崎の魅力がより集約的に詰まった無為自然の理想郷がそこにあった。


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「ねばならない」から抜け出そう

2023-01-27
「学校」で言われる「・・・ねばならない」
「多様性」と言いながら「横並び」と「空気」の社会を作る
やりたいこと言いたいことをやって個性が光る社会へ

「主体性」は、現在の学習指導要領でも筆頭に求めている個々人の多様性ある資質である。OECD(経済協力開発機構)の「PISA」と呼ばれる学力調査で、2000年代になってから、「読解力」など日本の子どもたちの世界における学力の低下が大きく問題視されてきた。その結果、現在の共通テストのような形式となるなど「対策」を講じたがゆえに「読解力はV字回復をした」などとメディアなども報じる時期もあった。だが真にこの20年間ほどで、日本の子どもたちの学力は回復したのだろうか?日頃から問題に感じるのは、「対策」を取ったから「テスト」では一定の成果を上げるが、個人の資質・能力を真に開発しているのかという点である。昨今でも「全国学力テスト」の過去問を授業で実施するなど、「対策」を実行していた学校があったと報じられた。「テスト」とは、あくまで日頃の学習成果を測るものさしであるはずだが。

学力以上に、いつも僕が問題に思うのは「主体性」である。子どもたちは「対策」を「やらされて」いる。やりたくなくとも「・・・ねばならぬ」と学校で強制される。その図式は私立中学校受験などでも同様で、真に「子どもたちがやりたい」ことなのかどうか?甚だ疑問である。いつしか「ねばならぬ」受験対策に翻弄され自らの興味や関心のある学びをすることから遠ざかる。もとより多様性と言いながら「学校」という制度の中では「ねばならない」が多過ぎる。「国語」において考えても、「音読」「漢字」「感想文」「暗唱」「鑑賞文」などあらゆるものが「ねばならない」ものとして強制されるので、主体的に自らの興味関心を活かした選択の学びにはならない。人間は往々にして「ねばならない」と強制されたり、「空気」に支配されるとそれに反抗したくなるものだ。「国語」の「音読嫌い」「感想文嫌い」はこうした点に起因すると思われ、決して教材そのものが嫌なわけではない。大学となればより主体性ある個々人の選択を尊重し、広く大きな視野で将来を見据えた学びを選びとってもらいたいと思う。学生たちはその特権ゆえに、もっと自由でよいのだなどと昨今は強く実感する機会は多い。

自らがワクワクするものを選び取る
心が燃える自然と向き合えるものは何か?
この3年間で社会に「ねばならない」が増えたが、今こそ自らの頭で考えたい。


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「正しい」とはどういうことか?

2022-10-21
古典に向き合って「正しい」とは?
「正しい」ことを言わねばならないと教える「学校」
「正解」という言葉をせめて「国語」では使いたくない

昨今、「正しい」ということが大きく揺らいでいる世の中である。「戦争」はいつでも「自国が正しい」と主張して、他国に侵攻するという行為である。「正しい主張ありき」で根拠たる理屈を「歪曲した真実」により取って付ける。本来は「根拠たる真実」があってこそ「適切」が導き出されるはずで、方向性が真逆であることを強制する悪辣な行為だ。やがて感覚は麻痺し尽くして「正しさ」は独裁的に強制される国となる。世界では多くの人が子どもでもわかる「裸の王様」の逸話を知っているだろう。「王様は裸ではない」という歪曲された事実が民に強制される訳である。周知のように「王様は裸だ!」と暴いたのは、幼い子どもの一言だ。素朴な疑問を忖度なく声を上げることの重要性に「強制を受ける大人」こそが学ぶべきだ。これは何も現在、侵攻をしている国に限らない危うい現実であると思う。政治が何事も「ありき」で進められ、行政も司法も「王様は裸だ」に忖度し、監視する役割のあるメディアまでが迎合していく。「正しさ」という言い方が実は何よりも「危うい」ことを、僕たちは注意深く子どものような童心で声を上げるべきなのだ。

なぜ我々は「正しさの捕虜」のようになってしまうのだろうか?大学教員になって「6・3・3と12年」を「学校」で学んできた学生たちと向き合うようになって、その理由が少しずつ解け始めている。入学後の1年生の講義での思考は、当初明らかに「(教員が与える)正しさを待つ」のが顕著だ。「あなたが思うように自由に考えてよい」という本来の「市民的思考」に気づくまでに半期ほどの時間を要する。具体例を挙げるならば、毎年の『枕草子』演習(2年生後期)での学生たちの発想が典型的な「ありき」なのである。「清少納言はあれこれ自慢めいたことを書き散らす嫌味な人物だ」という先入観「ありき」で、テキストに向き合おうとする。確かに「清少納言らしき人物」を酷評した同時代の『紫式部日記』の影響が大きいのか「高校古典学習」によって、この「ありき」がかなりの力を持って多くの学生たちに浸透しているのだ。ある意味で「教育の強制力」の恐さを実感する事例である。先ほど「清少納言らしき人物」と書いたが、この人物の存在を確かめられる資料そのものが『枕草子』なのである。ゆえに僕は身をもって学生たちに告げる、「僕の言うことも正しいかどうか?あくまで諸説を検討した上での一解釈である」と。そして「大学教員の言うことを簡単に信じてはならない」と続ける。自らの地頭で眼で批評的に疑ってみる。「国語」の学び一つでもこうした思考で行われないと、この国にいつまでも成熟は訪れない。

入試による「正解主義」の教育環境
果たして人生の「正解」などあるのだろうか?
「みんながそうする」からではない「一人ひとりがこう考える」なのだ。


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GIGAスクルール構想から先へ

2022-09-16
タブレット1人1台が提供され
教室には充電用のロッカー設備も
WiFi環境ある教室で学級全員の課題共有など

この数年で教育現場の大きな変化は、GIGAスクール構想により児童・生徒にタブレットが「1人1台」は提供されるようになったことだ。教育実習参観に行くと、児童・生徒らの机上にはタブレットが置いてある。もちろん実習生の授業でも使用されることが少なくなく、学生らは「教師」として平然と機能を展開させる授業構成を実践している。この日も小学校6年生と中学校1年生に対して、タブレットを使用して学級内の課題を全員が閲覧できるように共有する授業を参観した。10年前であれば、ミニホワイトボードなどを使用し班ごとに話し合った意見を書いて教室の前の黒板に並べて共有をしていた。学生らの実習授業ではGIGA上に提出する資料を配布し、その書式に個々が思考した内容を書いてもらい、共有の場所にアップする作業を展開する。それを児童生徒らも、何ら戸惑いもなく容易に実践する。教師も子どもたちも、もはやICT機器を扱えなければ授業ができない時代になった。

ただし学生の授業参観をしていて思うのは、果たしてICT機器がどれほど有効に機能しているか?という疑問である。「国語」の学習として、「文字を手書きする」という活動も退化させてはなるまい。実習生らも板書においては、丁寧に見やすく書く工夫にも努力をしているのがわかる。エレベータやエスカレーターに喩えると、その存在がなくとも登れるところを使用すれば、人間は自らの脚を脆弱化させてしまう。手書きとICT機器での文字打ち込みは、このような関係性にも似ているように思えてくる。さらに言えばまだまだ有効な使用方法があり、子どもらの思考力・判断力・表現力を伸ばして行く可能性もある。昨今は「AIが短歌を作る」というような、実験的な試みもされるようになった。近々に開催される学会でも「AIによる作詩(漢詩)」という題目の発表が気になる。やがてGIGAスクールで学校生活を送った子どもらが成長して大人になる。スマホ使用が、日常生活のあらゆる分野に関係してくる可能性が高い。過去に普通であった仕事も淘汰され、ICT機器が容易に作業してくれる分野も少なくない。「短歌作り」一つにしても、このGIGAスクール構想を存分に活かした展開が、今後は求められてくだろう。僕らがSFとして考えていた「未来の学校」、実習生が容易にタブレットを使用して授業する姿に現実が見えた。

そしてまた情緒や共感など心にも関連させて人間性等を失わないために
やればいいわけではない、実践していかに伸ばして行くか?
GIGAスクールの先を考える。


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「先生の先生ですか?」学校が楽しい光景

2022-09-15
教育実習一斉視察
「先生の先生ですか?」と親しむ子どもたち
次世代に「楽しい学校」を引き継ぐために

70年代の青春学園ドラマといえば、中村雅俊主演の「われら青春」「青春ど真ん中」「ゆうひが丘の総理大臣」などがあり、僕自身が小・中学生の頃に観て影響を受けたドラマであった。生徒らと同視線で部活動に勤しんだり、青年海外協力隊から産休補助の臨時英語教員であったり、破天荒でラフなジーンズスタイルで学校をかき回す、そんな教師像にある意味で憧れたものだ。こうしたドラマの中村演じる主人公の教師は、共通して「学校とは楽しいところじゃないか!」と主張し続けていた。学校の規制を守らせようとする校長・教頭などと敵対するが怯まず、生徒が生きやすい環境を押し通す。密かに理解ある理事長などが破天荒教師に学校の本質的な改革を期待している、そんな図式があった。もちろん、そんな破天荒な行動は実際の教育現場では不可能なのは確かだが、「生徒の目線に立つ」ということは実に大切で僕が教員になってから励行してきた姿勢でもある。むしろ現実の学校で教師たちは、「ドラマのようにはいかない」と口にする者が多かった。だが少なくとも「上から押し付ける」のではない、「学び手の目線」が主体になることは、現在では当然な考え方になった。

「ドラマのようには」と聞かされながら、僕自身は自らが楽しい教員生活を送ることができた。初任校が全国レベルの部活動もあってか、そのまま「ドラマ」みたいなキャラクターの同僚も多かった。現に「とんねるず(初任校卒業生・在学時代は僕の赴任前)」などは、「母校の教師ネタ」でラジオやテレビで人気を博しスターへの道を歩んだ。日々の職場へ行くことが楽しい!20代のそんな恵まれた現実の「青春ドラマ」を体験させてもらった。そんな「楽しい学校」がこの10年15年ぐらいで、この国から消え続けた感がある。今や世間的には「ブラックな仕事」とされ、管理職と保護者との板挟みになり、残業のつかない長時間労働、休職も辞さない人々の多さも目立つ。もちろん「学校がツラい」のは教員ばかりではなく、主人公であるはずの学び手も学校に行けない人がいづこでも多い状況がある。指導者・支援者である教師が、ある意味で楽しくなくて、どうして学び手が楽しいであろうか?基本的に「授業」を考える時に、僕はこんな考え方をする。昨日から始まった3年生の教育実習一斉視察に赴き、僕はこんなことを思った。ゼミ生になつく小学生らがいて、「先生の先生ですか?」と三者が笑顔で楽しめる、そんな場面に出会えて、ゼミ生らは「楽しい」要素も体験していることに少しは安堵を覚えるのであった。

教師の世間知らず
みんなが心を和ませることができるのが学校ではなかったのか?
「青春ドラマ」で主人公を追い込む状況だけが現実になってきてしまったのだろうか?


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