「覚える暗記する」を考える

2018-04-12
「覚えらえない」
「丸暗記」はすぐに抜けてしまう
自らが使えるものにするために・・・

大学1年生には様々な機会を通して言っている、「覚える暗記する」から「考える疑う」に移行せよと。もちろん高校までの段階で、「考える疑う」思考の姿勢が身についている者もいないわけではない。だが大学入試対策の影響か、多くの者が「一つの正解を覚えていることから出す」という思考であることが多い。僕自身が高校現職教員だった頃にも、定期試験についてクラスの生徒たちと話すと、「覚えられない」という悩みを吐露する者が圧倒的に多かった。試験つまり「学力」を「覚える暗記する」と明らかに捉えているのだ。それゆえに大学1年生に文学史や歴史などを問いかけると、多くが「忘れました」という結果となり「教育段階の分断」のような虚しさを感じざるを得ない。

ジムのストレッチマット上で、親しい方から質問された。親戚の子どもさん(小学生)が数分間の漫才ネタなど聞いた話を克明に覚えて話せるのだが、それが良いことなのか?どう能力を伸ばしたらよいのか?という質問だった。たぶんその子は、「文字を覚えよう」としているわけではなく、他者の話を映像のように想像しながら脳裏に刻みつけているのではないかと答えた。例えば大人でも、観た映画の粗筋はたいていは他者に話すことができるだろう。この子どもさんは「文字」ではなく「声」で想像する力があるのだ。それは比較的、幼児の際に培われる能力だが、「文字言語」の学習が進むにつれてむしろ退化してしまう。中高生が「覚えられない」というのは、このあたりに原因があるのではないか。したがって、この子どもさんへのアドバイスとして、単語などでも、「音声」(発声や聴解)を使って「物語」的なストーリー(場面)で頭に刻むようにしたらいかがでしょうという提案を申し上げた。

大学講義としての「国文学史」をどうするか?
「意味」に偏った「文字」のみの机上の学習
「音」や「イメージ(場面)」を考えるのもまた短歌なのである。


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小学校国語教材を振り返り

2018-03-01
「くじらぐも」「スイミー」
「ごんぎつね」「注文の多い料理店」
名作文学で低学年教材も多く・・・

附属小中学校との共同研究年度最終回にて、例年行われている小中乗り入れ授業が実施された。今回は前回までに実践されていた古典教材の授業から、新しい趣向へと転換。小学校6年生児童を対象に「心に残る思い出の作品を紹介しよう」というテーマで、45分間の授業が3名の中学校教諭によって実践された。まずは6年間の教科書教材一覧表を見て様々な作品をまずは想起し、その後、中学校3年生が3年間の教材で同じように書いた「推薦作文」を読んでその良いところを捉える。「当時の自分と重ね合せている」「別の作品と比較している」「忘れられない言葉や文がある」「理由が具体的」などの点を、実際の作文から学ぶことで、自ら書く作文のあり方に活かせるようにする。そして約15分間で作文し最後にはペアでそれを発表し感想を述べ合うという授業であった。

実践後の授業研究では授業方法や作文のあり方にも様々な指摘が為されたが、僕自身の大きな興味は6年生が「どのような作品を選ぶか?」という点であった。統計的に確認したわけではないが、3学級で机間巡視をし、また終了後に作文を読ませてもらった概ねの印象は、低学年及び文学教材が多いということ。「スイミー」や「ずうっと、ずうっと、大すきだよ」などは元来が絵本作品、また「ごんぎつね」や「注文の多い料理店」なども目立って取り上げられる教材であった。中には説明文教材を選ぶ子どもがいないことはないが、この文学教材優位な実態は、大仰に言うならば現在の国語教材の時流に問題提起をするものと思われた。とりわけ6年生段階になって低学年文学教材を取り上げるのはなぜか?記憶に新しい5・6年生教材よりも、鮮烈に子どもの脳裏に焼き付いている理由などに興味が持たれた。

純粋な感性のうちに限定された情報量で学ぶ教材であるからか?
動作化・音読劇・紙芝居などの言語活動で学ぶからか?
絵本的な学びこそが発達段階を超えて必要なのではないか、などと思ったりもした。


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授業の演じ手は誰であるか?

2018-02-23
「教師が創る」授業
舞台を観せ学習者は鑑賞者なのか
学習者そのものが演じ手となる授業を考える・・・

凡そこの30年間において、「授業」「講義」に関する概念は大きく変化した。僕自身が初任者教員であった頃も、ともかく50分間(中高)の「授業」を舞台で演じ手として教師が主役で展開することを疑いもしなかった。それだけに様々な演出・舞台装置(仕掛け)・演じ分けなども考慮して、「授業創り」に勤しんでいた記憶がある。たぶん同僚の他教科の授業を覗いてもそれは同様で、「教師主導の一斉教授法」がほとんどであった。こうした意味では座学ではない芸術・体育や家庭においては実技中心の授業であり、生徒たちにとっても息抜きになっていたようにも思う。座学の教員からすると体育などは、「ゲーム(ある競技の)」をやらせるばかりで教師が演じることも少なく、準備が不要で楽な印象を受けたものだ。だが実技科目であっても、意識が高い教員であれば、むしろ様々に演出を施して学習者主体の授業を構成していたようにも思う。

喩えて述べるならば、さながらTVを観るかのような感覚で「授業」が展開される。ほとんど教員が喋っていて、学習者は「静かに聞く」ことが義務付けられている。中学校以上であれば「専科生」であるゆえ、同学年で複数学級の科目を担当していれば同じ授業を複数回実践するわけで、それを「再放送」と呼んでいる安易な教員も同僚にいた。だが僕自身は「同じ授業」であっても学級によって違ってしまうと思っていたので、その教員を「安易」と考えていたのであろう。板書の内容なども学習者の発言によって変化するので学級ごとに違うこともあり、「再放送」に慣らされた学習者からは学級ごとの板書を統一して欲しいと抗議を受けたこともある。そうでないと学習者は試験で不安であったのだろう。だがしかし、それで左右される試験問題を所詮僕は作成していなかった。古典の現代語訳や英文の日本語訳などを、「授業(で教えた)通り」に寸分も違わず書かないと「正解」にしない教員の存在などを担任学級の生徒を通じて知り、「再放送」を要求する生徒も無理はないと悟ったこともあった。だがその頃から思っていた僕の意識が、間違っていなかったことがようやく最近、一般的な通念になったということだろう。

演じ手は学習者である
教員は演出を施し気付きを支援する
今尚「一人芝居」を「再放送」している教員もいないわけではないのだが・・・


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楽しく力のつく授業にするためには

2018-02-05
授業が楽しいか?=主体的
力のつく授業であるか?=指導力
指導者自身の力を問いたい・・・

教職大学院課題研究発表会が開催された。僕は学部所属であるが、数科目に及び兼任担当科目があり、大学院実習で中学校該当者がいると担当になるという関わり方をしている。教職大学院に関わった折に常に考えるのは、研究者教員としていかに関わるかということだ。当該大学院には実務家教員として、県教育委員会から出向でいらしている先生方も配属されている。現場経験に根ざしたより実践的な指導のあり方を、実務家の先生方は指導の旨とされている。ならば研究者教員としては、より客観的・分析的に授業を始めとする学校での活動を捉えて、院生たちに指導する責務があろう。その院生も半数は県内の教職員の方々で、現場での課題を解決しよりよい指導力をつけて1年後に再び現場に帰るということになる。

「楽しい授業(教科)」などと簡単に口にする場合も多いが、果たして「楽しい」とはいかに培われるものなのだろうか?例えば、「落語」は「楽しく笑える」ものであるが、同じ噺を誰が喋っても笑える訳ではない。落語家はその日の一期一会の客に対しても、マクラで笑いのツボを捉えてから噺を決めたり、その場にふさわしいネタを振り込む。それはひとえに、落語家自身の基礎的な力量が高くなければできるものではない。そして「力量」とは決して「話す技術」のみにあらず、落語の演目や背景に対する奥深い造詣があってこその「力量」であろう。話題を「授業」に戻そう。「授業」では、学習者に「力をつけさせる」のは自明のことである。だが果たして「授業技術」の範疇、いわゆる「フレーム」を整えるだけで「力のつく授業」になるのだろうか?学習者に「力をつける」と言うならば、前提として指導者に「力」が備わっていなければなるまい。どんなに技術が高くとも、この2月のキャンプからシーズンを乗り切る基礎体力がなければ、プロ野球選手も大成しないとの同様であるように思われる。

教科の基礎体力が授業を楽しくする
これぞ研究者教員が関わる内容ではないか
指導者本人が文学たる教材の豊かな読者でなくてはなるまい。


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語ることを語り合うまなび

2018-01-25
自ら語っている映像
その姿を観てまた語り合う
客観視に有効なICT導入授業

附属学校園との共同研究では、年に3回テーマを持った研究授業を実施している。昨年度から今年にかけては「ICTの有効な導入」が課題となっている。今回は中学校の先生が、ipadを活用した授業を展開した。「ICT教育」というと指導者側が教材提示として導入することを、まずは第一にイメージするであろう。僕自身も一昨年には「デジタル教科書」を使用して中学校2年生で「漢詩」の研究授業をやらせてもらった。コンテンツにある音声教材や映像教材、工夫された教材提示ツールなどを使用して、学習者自身がICTに触れるわけではなかった。

今回の試みはipadを使用して、学習者が班内で語り合った様子を動画撮影し、その様子を自分たちで今一度視聴することによって、さらなる対話を促す内容であった。さながら「語ることを語り合う」と言ったわけで、その討論の内容はもとより自己の話し方の特徴や傾向を自覚できるという利点があった。多くの方がそう感じるであろうが、あの自分の声の録音を聴いた時の喩えようのない違和感は何なのだろうか?「これは私の声ではない」とまで思うのだが、他者の誰もが「あなたの声」だと認識するわけである。人は生きている上で、自分の顔も自分の声も自分の語り方も決して現実に外から見ることができない。そこにICTが活かされるのが、これからの教育の方向でもある。

タブレット使用に実に慣れた生徒たち
タコ足配線のヘッドホン使用も有効に
「自己」のあり方も時代とともに変化しているのかもしれない。


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小さな学校大きく育つ

2017-11-25
全教職員が全校生徒の顔と名前がわかる
小さな学校にこそ見える教育の原点
時間も感覚もすべて「競争」にある社会の中で・・・

米国によく行っていた頃、ある日本人と出会ってこんなことを話した覚えがある。「日本の教育の一番の問題は何か?」と問われたので、「1学級あたりの児童・生徒数を30名以内にすべきことではないか」と答えた。当時は「新自由主義」に席巻されているご時世ということもあったが、その日本人は「そんなことを教育関係の研究者が考えているから教育が良くならないんだ」と云う趣旨で反論された。いわば「競争」原理に拍車をかけて、教師もできる限りの力を尽くしてこそ「プロ」なのだと言わんばかりの反論であった。金を稼ぐことも、地位を築くことも、財を成すこともすべて「自らの力」で競争に勝ち抜いてこそ、社会の勝利者(勝ち組)であるという発想であるが、いまや社会がこの様な「原理」で動いているわけで、これを予見する様な人物として僕の脳裏に刻まれている。

果たして「学校」は、「競争」のみで成り立つのだろうか?「教育」に「対費用効果」などという経済用語が平然と使われるようになったのも、その頃からだ。児童・生徒は決して生産品・管理品ではない。効率のみであらゆることが論じられ、競争に先んじた者が「優秀」とされる。自ずと元来から「力」のある者が潮流を最初から掴み、「力」なき者は衰退していくしかなくなる。現況の企業への対応や各大学への対応も、すべてはこの「競争」原理によって成り立っている。「対費用効果」の少ない「少人数学級」などもってのほかなのである。こうした原則が、「都会」と「地方」の中にも同じ図式で成り立っている。だからこそ立ち止まって考えてみよう、そんな「競争」ばかりしている「社会」が、生み出している物は何か?平常では理解しがたい「人間性」を逸脱した事件・事故が、最近あとを絶たないではないか。もうそろそろ、僕たちは気づいた方がよいだろう。

小さな学校で大きく育つ子どもたち
そして個々を大切にする先生方に教わること
宮崎には、せめてそんな「学校」を増やしたいものである。


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短歌で学ぶ〈教師未来セミナー「宮崎の先生っていいな」〉

2017-11-19
「この子らを妊りし日の母のことふと思う試験監督しつつ」
(俵万智さん『サラダ記念日』より)
短歌から考える「教師のこころ」・・・・・

夜中には激しい雨音で目が覚めてしまった。その流れで早目に起床し準備を整えて、宮崎南高等学校へと車を走らせた。昨日の小欄でも触れた「教師未来セミナー」の講師を務めるためである。南高校の生徒のみならず、県内各地から教師を目指す高校生たちが、雨にも負けず朝から70名ほど集まった。まずはその情熱に大きな拍手を送りたい。人生の志というものは、悪天候など簡単に凌駕するものである。9:00セミナー開始、まずは前の方に座っている何人かの生徒たちに「どこから来た?」「部活は何を?」と”つかみ”を入れる。「教師」とは教科を教えるのみならず、「部活」などを通して生徒たちと深く関わるものである。その後、僕が〈教室〉で関わった「教え子」ならぬ”学び子”たちで、プロ選手となった面々を写真で紹介した。サッカー・野球では既に指導者やチーム運営に関わる要職に就く者もいる。彼らは「プロ」として厳しい競争を勝ち抜いて生きて来た。その生き様を自己に照らし合わせると、「教師」も「プロ」であることを忘れてはならないと思う。スポーツ選手は実績がなければ「自由契約」となるが、「教師」はどうだろうか?そのくらいの矜持と決意を持って、あらためて「教師はプロだ」と高校生たちに熱く語った。

その後は、俵万智さん『サラダ記念日』にある「橋本高校」の連作から、5首の歌(冒頭に記した歌が一例)をみんなで音読して味わった。そこから対話活動へ、6人1組となって5首から印象深い歌を1首選ぶ、そしてその歌から感じられる「教師のこころ」を話し合い、各班のコメントを簡潔にまとめる内容である。この活動は予想以上に効果的で、選ばれた歌は様々であったが、「先生を評する・・・」といった歌の一節に、「教師は中学生から厳しく見られている」などと、現代の世相を反映するようなコメントが付けられて、『サラダ記念日』という歌集が「色褪せない」というよりも、「いつの時代にも対応する」歌集なのだとあらためて実感した。また定番とも言える「歌の中の『君』はどんな存在か?」といった観点からコメントを述べた班もあって、「教師」も「人」であるという思いも含めて多様な「こころ」が学べたように思われた。

後半は宮崎が生んだ国民的歌人・若山牧水の歌へ。牧水が家業を継がずに歌人を志した強固な意志、そして人生とは「旅」のように出逢いの連続である感慨を歌から味わった。その後の対話活動では、「教師への志に不安なことは?」を話し合う内容。「志を持ちなさい」と学校では教え込むことが多いが、「不安」は誰しも持っているものである。むしろその負の方向を対話して共有してこそ、「志」はさらに固まるのではないかと思う。僕自身もいくつかの志に迷い、そして「教科(専攻)選択」でも大いに悩んだ。だが「教師」になれば、部活動を担当したり学校行事で出番が与えられたり、様々な「夢」をささやかながら「現実」にすることができる。これもまた「教師」という職業の大きな「希望」に違いない。

生徒「上手く授業ができるか不安です」
私「どうぞ宮崎大学教育学部へ来てください!」
宮崎の次世代を担う瞳が輝いていたことに、大きな希望を実感した。

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現代語訳に頼らないでこそ

2017-11-16
古文・漢文の現代語訳
高校古典授業の訳中心主義
わかったような気になるだけで読めていないのでは・・・

高大連携などが世間では叫ばれているが、大学入試がその間に置かれていることにより、むしろ分断されている感を抱かざるを得ない状況に遭遇することも多い。センター試験をはじめとして客観式試験が中心であるせいで、どうしても高校生は「正解主義」に陥った思考になりがちである。もちろん「最も適切なものを選びなさい」と問われるゆえ、「思考の傾向」を客観的に捉えるという意味では有効と言えるのであるが、その「最も」は「一つ」だけに微妙な差異を認めない薄情さが伴い、「正解」という「規範」だけを崇める思考に陥りがちなのは否めない。それが古典の場合は顕著で、特に「現代語訳」を求めても「唯一無二」の規範訳を授業で提示し、それを定期試験の「正解」としている「教室」を数多く見てきた経験もある。だがしかし、提示される現代語訳など、その教師の解釈か、あるいは指導書などの解釈に依存した偏りのあるものだと知るべきであろう。

古文であれ漢文であれ、そしてまた明治期の文語文であっても、その原文と向き合って意味を探るところにこそ、文学を読む魅力があるのではないだろうか。現代語訳することを求めたり、あるいは、訳を示して教え込む方法は、もとより「読む楽しさ」を失う受動的な学習に陥りがちである。大学1年生配当科目の「国語」では、こうした「読む楽しさ」を協働活動の中から見出す講義内容を心がけている。昨日は「短歌教材で育む思考力・想像力・表現力」と題して、主に牧水の歌について、自分なりの「読み」を個人思考した後に班内対話をして擦り合わせて一つの見解にまとめて、それを全体に発表するという方法で進行した。「あくがれ」の意味を短歌全体の文脈から考えることや、「白鳥」は「何羽?」が「どこに?」いるのかという疑問について、「正解」などを求めるわけではなく、自分の経験を立ち上げながら、歌の場面を想像し自ら映像化していく思考力を体験的に学ぶ機会とした。

自ら道を歩かずして道は覚えられず
現代語訳という「即席レトルト」を食べさせていいものか
森林で道に迷い、また材料を切り、味付けに配慮し、焦げ付きを避けてこそ・・・・・


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講義より対話ーやる気と思いやりの教育へ

2017-11-10
心とは「思いやりとやる気」で人間性といふ
それ即ち「対話性」と「主体性」なり
もはや講義よりも対話を創る研修こそが・・・

県中部教育事務所からのご依頼で「読書推進協議会」にて、講演とワークショップを実施した。8日付小欄にその経緯は記したが、ゼミ4年生6名を伴っていよいよ本番当日となった。会は県内中部地区中学校の図書室担当の先生方が一堂に会し、まず現場からの実践報告が為された。図書館担当教員であっても現状の学校組織の中では、他の仕事もたくさん抱えているゆえに、その活動には努力が欠かさない。また学校内で忙しい他の教員からの理解を得ることも困難ながら、地道な工夫を重ねていらっしゃる先生方の活動をあらためて知ることができた。その後、30分のお時間をいただき「読書活動と豊かな人間性」というテーマで講演を行った。冒頭一行目に記したのは、僕の通っていた幼稚園園長のお言葉であるが、「心(人間性)を育てる」ことこそが「心育(教育)」であると云う。実は次期学習指導要領で提唱されている「対話性」や「主体性」とは、「思いやりとやる気」という「人間性」ではないかという提案を行った。

さて「教員研修」というと、実に雰囲気が硬い。そこで一方的に大学教員が”わかったような”理論を掲げても、現場での実践活動にどれほどに変化を差し向けられるものかと、かねてから疑問に思っていた。もはや時代の要請として「講演」「講話」というのは、やめた方がよいのではないかとさえ思う。今回も担当の先生にお願いして、学生たちが将来の教壇での意識を予想した「読書推進」に役立つであろう活動をご披露して、その後に現場の先生方とともに対話する構成にして欲しいと懇願した。「歌集ブックトーク」「創作的読み聞かせ」「詩の群読」の3点をゼミ生が分担して作品を創って披露した。その後はグループに分かれて、その発表に対する先生方のご意見を学生が各班内で対話しながら聴き、また学生側からも現場への質問が先生方との間に為された。今後は県内でも大量退職大量採用の時代となるが、こうして県教育事務所と現場教員、そして地元教育学部の学生と教員が三者で学び合う環境が、求められていることも予見できた。学生たちは卒論へも大きな示唆を得たであろうし、また現場の実情や先輩教員となる先生方との間に、人間的な繋がりが芽生えたのも大きな成果であった。

時代は大きく動きつつある
学生たちとともに未来の教育を模索する
日本一の「短歌県」「読書県」を目指すためにも。


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「正しさ」の強制が危うい

2017-08-12
「正しい」読み方を
「正しい」解釈を
授業における「正しさ」の強要を考える・・・

「正」を手元の『漢字源改訂新版』(学研)で引くと、その字源は「一+あし」で、「足が目標の線めがけてまっすぐ進むさまを示す。」とあり、「征」(まっすぐ進む)の源字であるとされている。意味としても「まっすぐであるさま。」ならば対照となるのは「邪」の文字。「まともであるさま。また、まっすぐ向いているさま。」なら対照は「反」や「裏」の文字。「まじりけのない。」という意味なら類語として「純」の文字が掲げられている。また「中国の暦法で、一年の基準になるもの。」つまり「正月」という語彙はここから来ているわけで、「改正」という語に至っては、「王朝が変わった時、正月をいつとするかの規準を改めて、新たに暦を決めること」と解説されている。この「改正」という語彙の本来的意味に象徴さるように、「正」の規準というものは、権力を掌握した「王朝」によって違うわけであり、「暦」でさえも「改正」されていた時代があったことを考えさせられる。

こうした小学校低学年で既習の基本的な教育漢字というものは、上記のような字源などをあらためて考える機会が少ない。本来は高校の漢文教育がこの分野を担うはずであるが、現場における漢文の授業のあり方も、教科書教材文の訓読と口語訳に終始し、漢字文化の奥深さに言及されることは少ない。それは学習者というより、指導者がこうした意義を理解していない場合が殆どである。最近気になることは、学部の学生たちが模擬授業などを指導案段階から作ると、「・・・は正しいか正しくないか」という問いや、「正しい読み方」「正しい解釈」など「正しい」を冠して授業を進行する過程にしていることが多いのである。教室での「音読」が「正しく読めるか読めないか」を規準として実施されるゆえ、学習者は伸び伸びと自分らしい声で「音読」する気持ちが失せてしまう。もとより「漢字の読み方」そのものが相対的なもので、本来はその文体や形式によって多様な読み方があってよいものである。「唯一無二の正しい読み方」に怯えながら、萎縮した「音読」しかできなくなる〈教室〉を無意識に(そう無意識がさらには危うい)醸成してしまっている。この図式が暗澹たる歴史の再生であることに、我々は自覚的でありたいと思う。

「いま此処にいる」ことの自覚
あらゆることは「相対的規準」の上で
「当然」「問題ない」もあくまで恣意的な「正しさ」の上でしかない。

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