なにゆえに旅に出づるやなにゆえに旅に
2018-05-01
牧水の常なる自問自答なにゆえに旅に出づるや
人生を集約的に見せてくれるもの
航空機や新幹線がこれほどに整備されてきたここ50年ぐらいで、「旅」への感覚というものの大きく変化したのだろう。移動すべき距離を実感するには、あまりに速く便利に目的地に到着してしまう。国内のみならず海外であっても、それほどの「距離」を感じずに、会いたい人行ってみたい場所に到達することができる。これだけを考えても、牧水の生きた明治・大正期とは感覚が大きくズレてしまっているのかもしれない。学生時代に「青春18きっぷ」などという企画乗車券を利用して、敢えて普通列車のみの旅によく出たことがある。1日24時間を最大限に利用して、最高は東京から広島まで。その距離を心身に刻み込んだ、よい経験となった。こんなことを考えると、人生そのものも新幹線的感覚ばかりで、見逃してしまっているものがあるのかもしれない、などと危うさを覚えることもある。
訪れた土地で出逢う人々、宿の人・飲食店の人・偶然に席を共にした人等々、様々に逃したくない問い掛けをしたくなってしまう。今回出逢った90歳を越えた茶店の女将さんは大正時代創業から4代目とか、お団子をいただいて美味しかったが、その餅米の効用もよろしく綺麗なお肌が印象的であった。オープンテラス式の店では、なぜか九州料理に出逢った。どうやら店長が長崎であるというが、九州の優秀な食材を活かしているという意味で好感が持てた。少なくともこうしてお店の人へ問い掛けをして、何らかの情報を引き出してみること。旅の面白みが確実に倍増するのである。そのような姿勢を、あらためて友人の社交性から学ぶ機会でもあった。空港という場所は嫌いではないが、常に前述した理由から後ろ髪を引かれる切なさや虚しさを覚えないではない。飛び立てば一気に、馴染み始めた土地が見る見る遠のいてしまうからだ。
日常にない時間を過ごす
心を今一度整理してみる
かくして本日より「ほととぎすなくや皐月のあやめ草」
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三河国八橋といふところ
2018-04-30
『伊勢物語』第9段「東下り」「かきつばた」の咲く時季に1度は
三河八橋を歩いて・・・
所用があって中部方面を訪れているが、時間ができたので三河八橋に立ち寄った。八橋は冒頭に記したように『伊勢物語』の「東下り」で、昔男が京を発ったのち最初に出てくる名所である。蜘蛛手のように橋を八つ掛け渡してあるので「八橋」というのだ、という名前への興味を記しているあたりも気になるところである。さらに「かきつばた」が大変趣深く咲いているとあるので、季節としてはこの晩春から初夏にかけての時季であろう。まさにその時季にこそいつかは訪れたいと思っていたが、ようやくその好機に恵まれたというわけである。名鉄の三河八橋駅に降り立つと、さっそく「かきつばた祭」の幟が立っている。ちょうどこの日は、業平供養の「毎歳祭」も「かきつばた園」内の無量壽寺で行われていた。
「かきつばた園」を訪れる前に、業平が歌を詠んだとされる「落田中の一松」へ。そこは「かきつ姫公園」となっていて、中央の松を中心に公園として整備されていた。今は周辺も住宅地となっているが、川の流れも近く当時は湿地であったことがしのばれる。そこから5分ほど歩いて「業平供養塔」へ、寛平時代に業平の分骨を受けここに供養したと無量壽寺の記録にあると云う。その近くには「在原寺」が、供養の塚を守るの御堂として創建された小さな寺である。これらを結ぶ道路が「鎌倉街道」で、「東海道名所図会」にもある「根上りの松」も道すがらに見ることができた。最後に「八橋かきつばた園」へ。どうやら昨今は生育不良であるというが、それでも湿地にかきつばたの紫色が明るい太陽に映えていた。歩き疲れたのを癒すには、この土地「知立」名物の「あんまき」をいただく。かくして三河八橋の散策を堪能した。
国文学講義ではあと数回先で扱う
歌が詠まれた地を実際に訪ねてみること
文学研究へのあらたな野望が再び起ち上がった1日となった。
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坂本龍馬没後150年特別展
2016-10-31
「世の人はわれをなにともゆはばいへわがなすことはわれのみぞしる」
京にて、いまあらためて龍馬の志を読む
高校生の時に出逢った司馬遼太郎の歴史小説『竜馬がゆく』を、今までに3回は読み直している。自らの人生の節目節目で、主人公・竜馬の生き様はそれぞれに違って読むことができ、その都度、その先の道に希望をもたせてくれて来た。一番最近読み返したのは、NHK大河『龍馬伝』が放映された年のことだが、中高専任教員を続けるか大学での教育経験を重ねるために非常勤講師になってしまうかと悩んでいた頃であった。「竜馬」の脱藩という大局を見た選択が、僕自身の背中を押したのは言うまでもない。
当時の思いも小欄に綴っていたのだが、特に京都での龍馬の足跡を自分の足で追いかけ、寺田屋や遭難場所や墓所に頭を垂れて、その志のあり様をこの身で実感しようとしていた。「私心があっては志と言わず」という龍馬の言葉に、僕はどのように生きればいいのか?と自問自答し、歩むべき道を探していた。そして数年後に「わがなすこと」をすべき場所が宮崎であることとなり、今に至るわけである。毎年のように龍馬の命日である11月15日に京都の墓所を訪れたいと思いながら、仕事や京都の宿の予約が難しいことなどと相俟って、実現に至っていないが、今回は一番近い時季に京都国立博物館で特別展を開催している幸運に巡り会えた。
今回の展示では、暗殺時に佩用でその鞘で敵の刀剣を受けたという銘吉行という日本刀や、血染めの書画屏風に梅椿図掛軸などが目玉ではあった。その既に薄くなりつつある血飛沫に、龍馬の無念を読み取り胸が熱くもなった。だがそれ以上に今回の展示で興味深かったのは、大量の龍馬の書簡の展示であった。その文字を読み進めるうちに、龍馬の思い遣りある人柄に触れ、そして志を叶えようとする行動力や視野の広い構想などが、僕の心の内に躍り上がるように立ち上がってきた。最近は重要な案件でも多くが電子メールで送ることが多いが、その文面を僕自身はどれほどの迫真さをもって記しているだろうか。あらためて「手書き書簡」の大切さを再考するとともに、人と人を繋ぎ心を動かすのは「手紙」であるということを見直そうと思うに至った。
手紙の中には冒頭に記した著名なものを含めて和歌もあり、龍馬が歌の心得もあったことが偲ばれた。決して「上手な」とは言い難いかもしれないが、志を高く生きた人物の歌は心に深く共鳴する。そういえば、6月に行われた短歌トークで俵万智さんは「短歌は手紙」という説を述べていた。自己満足ではなく、自己の心情を如何に他者に伝えるか。その訴える言葉を紡ぎ出すのが、短歌なのである。あらためて多くの龍馬の手紙文を肉筆で読むことができて、また僕の中であらたな龍馬像が膨らんだ思いである。
賑やかな京町を歩き新たな志が起動する
そしてまた宮崎で繋がりのある店主のカウンターへ
仮装者が跋扈する街の喧騒をよそに、龍馬の遭難地で深く頭を垂れて手を合わせた。
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フライト運てあるのでしょうか?
2016-05-28
機内アナウンスが「待機旋回」を告げる「成田空港へ着陸変更」となり
東京経由新潟までの道程は長かった
「フライト運」というのがあるのではないかと、かねてから思っていた。過去に渡米した際に、行けども行けどもフライトキャンセルなどに連続して遭遇した経験があるからだ。それでも日本の国内線は、ほとんど定時運行されているので、地方在住となり航空機をよく使用するようになったこの3年間でも、それほど大きな影響を受けたことはなかった。この日は冒頭に記したような顛末で、時間にして3時間ほど余計に要してしまった。機械のことだから故障はやむを得ないのと、前述した過去の経験から、それほど腹を立てることではないと思いながらも、やはり予定が大きく変更されてしまうのは、気分を害さないわけではない。東京で両親と話す予定や、叔父宅に早目に到着する目論見は、尽く覆されてしまった。
羽田空港が閉鎖になると、甚だ大きな影響が出てしまう。もしやその過密さそのものが問題なのかもしれない。成田空港に振替着陸した航空機は、僕の搭乗便のみにあらず。着陸してもターミナルになかなか接続できず待機。その後も機体に適合するタラップがなく、整備清掃用の大型の脚立のようなものが設置され、一人ずつ急な階段を小雨の中に降りた。大きな荷物を持っていては困難で、老人などは降りるのを躊躇する方もいた。その後もしばらうバスで遠方のターミナルまで移動。ようやく京成線のスカイライナーに乗車し一路上野駅を目指した。そこには昼食をともにする予定の両親が待っていてくれたが、会って弁当を買って新幹線ホームまで見送ってくれるだけになってしまった。京成線や新幹線の車窓からは、見慣れた東京下町の風景が眺められたが、どうもこの日は落ち着かない気分から脱することはできなかった。
上越新幹線からは新潟平野の田園風景
親戚の面々の顔を思い浮かべながら
叔父宅に到着し歓待していただき美味しい日本酒を一献。
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坂本龍馬への想いあらた
2015-05-07
「実 此世の外かと おもはれ候ほどの
めづらしき所なり 龍馬」
(坂本龍馬の姉宛書簡より)
人生を通した愛読書といえば、疑いなく司馬遼太郎『龍馬がゆく』である。高校生のときに読んで以来、最近では大河「龍馬伝」が放送された2010年まで、通算5回ほどは読み通している。「龍馬伝」以後、龍馬の足跡をあらためて辿りたいという想いが再燃し、京都・長崎などはここ数年のうちに訪れた。ところが、伏見寺田屋の事跡は現地で存分に体感的に味わったのであるが、その後龍馬が薩摩藩に保護され、伏見から薩摩に大怪我の療養にわたった際に、傷を癒した湯治場をなかなか訪問する機会には恵まれなかった。そこで、このGWを利用して車を飛ばして薩摩(鹿児島)の山あいの湯治場を訪れることにした。
狭い渓谷沿いに存在する小さな温泉。龍馬は現在の霧島温泉郷にも足を運び、高千穂峯にも登頂し天の逆鉾を挿し直したという話は有名である。だが、それ以前に愛妻・お龍とともに手に負った大怪我を癒すため、塩浸温泉という場で18泊ほど療養をしたという。さすがに行ってみると、人里離れ隠れて湯治をするには格好の場であると思える場所に、今は龍馬公園となって記念銅像や温泉に資料館などが設けられている。その場を描写したのが、冒頭に記した龍馬が姉・乙女宛の書簡の言葉である。「此世の外かと」というほどに「めずらしき所」といった趣が今でも漂う大変風光明媚な場であった。
どうやら、其処は龍馬が再起した場として、様々なパワーが宿っていると資料館の解説員の方が教えてくれた。そのパワーのキーワードを挙げるならば、「志」「天の恵み」「五感」「繋ぐ」「結ぶ」「緩む」「蘇り」「転機」「暖かい」などであるという。いずれもいずれも、僕自身が今現在に得たい力ばかりが其処に存在しているということになる。先述した『龍馬がゆく』は、僕に大学受験・転職・大学院受験・大学教員採用への道など、あらゆる人生の転機に大きな励ましとなってきた。それらに加えてふたたび何かを「繋ぐ」ことが重要であるということを、今回の塩浸温泉龍馬公園は教えてくれた。
「此龍女が おれバこそ
龍馬の命ハ たすかりたり」
(坂本龍馬の姉宛書簡より)
龍馬が、愛する女性とあらためて
自身の命の尊さと意味を自覚し蘇生した場なのである。
本年は龍馬生誕180年にして想いあらた。
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脅えずに災害情報リテラシーを備えよう
2014-10-14
台風の上陸・接近その進路に向かうようなフライト
果たして予定通り家に帰れるのか?
近畿地方で2日間の研究学会を終えて、3連休の最終日はフリーな予定。博物館見学などを構想していたのだが叶わず、台風に翻弄される1日となった。速度が遅く勢力が強いという台風19号が、朝方には鹿児島県枕崎付近に上陸した。TVニュースの情報では、近畿地方でも午後になると電車などの交通機関に乱れが生じ、場合によると運休する可能性があることを伝えている。丸1日を有効に過ごす為に、最終便を予約していたのだが、まずは大阪(伊丹)空港まで行けるかどうかという不安に駆られる。
「うろたえるな!」と主人公たる人物が、周囲の人々を落ち着かせるが如きドラマの一シーンが、僕の脳裏に映像となって現れた。こうした場面で、どれほどに冷静沈着に行動できるかが大切であると常々思っている。大河ドラマでいえば、若い家臣たちが動揺したり躍起になったりした場面で、黒田官兵衛が軍師としてまさに絶好のタイミングを見計らって策を指示し実行するようなイメージだ。己が焦っても台風の速度や進路は、決して変わらない。情報を精査し、的確な行動を選択することが肝要であろう。
まずは京都で見学地へ立ち寄るのは断念。午後になると運休する可能性があるという交通機関に対する措置を講じた。午前中の早い段階で大阪へ向かい、空港まではどんな手段でも行ける範囲に身を置くべきであると判断した。だがしかし、最終便までの時間はかなりある。空港へ出向き、運行状況を見ながら予約の振替を行うべきか否か?少なくとも既に午前中の便は、欠航が決まっていた。着陸地に台風が存在する状況での運航は困難であるということだろう。ならば台風が上陸後に速度を速め、あわよくば通過してくれれば、最終便の意味も生じるだろう。前段で書いたような心構えで、「待つ」ことに賭けるという判断を下した。
スマホにより運航状況を逐一捕捉しながら、時間を有効に使うことにした。東京在住の母から電話も入り、TVを見ている限り近畿地方もかなりの状況ではと心配している。ところが僕の眼前では、何ら問題のない天候状況が現然としている。これがメディアの怖さでもある。今年は台風による災害が事実起こっているので、慎重に警戒を強めて予告報道しているのであろう。だが、約500Km離れた場所でTVを頼りに僕を心配する母の言葉を聞くと、どうも釈然としない気持ちにさせられてきた。メディアの情報は鵜呑みにせず、常に自ら事実を確認し判断を下す姿勢が不可欠ではないかという思いが募った。
この間、僕が何をしていたかは、小欄をお読みの方々の想像にお任せする。午後になって次第に、スマホで捉える運航状況が好転して来た。されど空港までの交通機関は、三通りほどの可能性を見極めて、複数の路線が運休しても行き着くという射程内にいて、実に有効な時間の使い方ができた。それでも午後4時頃には空港入り。予約便は運航予定だが、その時間帯周辺の便に欠航が表示されている。まだ安閑とした予断は許さない状況が続く。念には念を(その時点までの楽観視とは相変わって)、一本前の便が1時間後に運航され、その空席があるのを確かめたのを好機と見るや、すかさずカウンターで振替手続きをとった。しかも尚、台風の進み具合からいって、直前欠航という可能性がないわけではない。(事実、その時間帯の運航で、予定時間の10分前に欠航というアナウンスが流れていたので)当初の予約便の座席をも二重に押さえるという措置を、航空会社に願い出ると快く対応してくれた。
かくして家に帰る為の、飛行機が大阪空港を離陸した。約10分ほどした後であろうか。左翼エンジン附近に閃光が走った。よもやエンジンが発火したかという不安に・・・飛行状態はかなりの揺れを生じている。暫くして機長から「雷」であるという説明があり胸を撫で下ろしたが、悪天候のフライトは気が気でない。着陸時も大きな揺れを伴いながらも、無事に自宅に帰着できた。過去に米国でのフライトを数多く経験しているので、欠航や予定変更への心構えは備わっていると自負できる。ともかく情報を集めて自ら確認し、短絡的な判断に陥らず、機を逃すこともせず、という柔軟なバランスある感覚が必要であろう。これぞ災害情報リテラシーということか。
帰着してまた母からの電話
いくつになっても親は親である
その言葉に市民への報道のあり方を批評的に逆照射しつつ、感謝の意を伝えた。
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旅情豊かであること
2014-06-23
どんな目的であれ旅をしていると心が躍る
その折、その場にしかない出逢いの面白さ
研究学会に赴く際に思うのは、時間がある時に何をするかである。土産はどうするか?”月並”なものではなく、まずは自分で心から食べたいものであること。更に僕の場合は、賞味期限が「短い」こと。考えられないほどの長期にわたった賞味期限のある菓子類は、たぶんかなりの保存料含有であると考えて(米菓など種類によるが)、避けるようにしている。時間があるかないかで、その条件を満たす土産を購入できる場所に行くか否かを決めたりもする。
その地に友人・知人がいれば、会うか否か?限られた時間であるが、久し振りに会いたい友人がいれば約束を取り付ける。よく「今度行くね!」などと言っていて一向に実現しないというケースが、世間では通例になっていることを忌避したいからだ。「今度」「いつか」は、常に「今」であると心掛けるべきであろう。そういえば今回は長崎に来たので、当地出身で東京在住の友人に電話を入れた。すると新たな展開であるという話が聞けた。電話も「また」と言っていると、いつまでもしないものである。
再訪したい処がある場合も。長崎では、尊敬する坂本龍馬ゆかりの「亀山社中」である。長崎を発つまでに時間があったので、どうしようか迷ったものの、今回は「龍馬の意志」に思いを馳せる想像力に委ねて、雨降りであることもあって断念した。ただ確実にこの港町に来ると、「広い世界を見たい」という野心が起動するものだ。これまた昨日の記事ではないが、「実体験以上の体験」として、旅情の味わいの一つであろう。
往復の道すがら様々な人々に出逢うことも。
まさに「一期一会」かと思えるような邂逅。
旅情を豊かにするのは人生を豊かにすることでもある。
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ことばの危うさに敏感たれー知覧を訪ねて
2013-11-11
ささやかなメールのことば。それだけ安眠に誘われることもあるが。
激しく書き付けられた魂の叫び。
そのことばは本心なのか否か?
展示されたことばの数々を読んだ衝撃。
研究学会で鹿児島へ出張したので、一夜明けて参加した大学の先生方6名と院生ら2名とで知覧へ観光に行こうということになった。個人で行ってみようかと考えていたが、ちょうど先生方との懇親を深める大変よい機会となった。早朝から雷鳴を伴う激しい雨であったが、鹿児島中央駅から知覧までバスで約1時間。その間に雨も小やみとなり、知覧の武家屋敷に着いた頃は、ちょうど良い風情であった。
知覧といえば第二次大戦時”特攻”の最前線基地である。他の土地からここに多くの若者が集結し、尊い命を南海の海上に散らした。その慰霊と後代へ記憶を留めるために特攻平和会館がある。屋外に置かれた当時の戦闘機のレプリカを観るに、もはや複雑な心境にさせられた。そして平和会館内へ。
そこには数多くの遺品が展示され、「第何次攻撃隊」ごとに多くの特攻隊員の遺影が展示されている。その展示の中でも、遺書に書き刻まれたことばの重さには、僕の心に突き刺さるものがあった。果たして、本心でこのことばを書きし記したのであろうか?たかが70年近く前の若者たちは、命に対してこれほどまでに現在と違う捉え方がなぜできたのか。時折、そのことばの衝撃の度合により、涙腺が緩んだ。
ことばとは、かくも危ういものなのだろうか。それが僕の正直な感想である。何のために己を絶つ意志をことばに刻み、納得したように装い、建前を振りかざして、帰らぬ出撃をしなければならないのか。その数々の遺書を書かせた、無謀なる権威的支配力とは何なのだろうか。ことばの扱い方そのものを、いわゆる”空気”が支配しているのは言語社会学的な考え方であるが、その”悪質な空気”を蔓延させ、尊い命を奪った”魔物”に対して、僕たちは永久に注意深く拒み続ける必要があるのではないだろうか。ちょうど僕たちが見学している時間帯に、若き自衛隊員らが迷彩服で見学に訪れていた。彼らは、特攻隊員らのことばをどのように受け止めているのだろうか。
この特攻平和会館に眠る魂に報いるためにも、
僕たちの責務として、ことばに対してどこまでも慎重でなければならない筈だ。
この知覧は陸軍の基地であるが、やはり「永遠の0」の内容が反芻された。
来月にはロードショーも封切りになる。
こんな話題を夜になって友人とメールで交わし、この日の眠りに就いた。
「夢溢る世の中であれと、祈り。」(サザンオールしターズ「蛍」より)
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特技としての乗物睡眠
2012-10-27
記憶にないほど久し振りに夜行バスに乗車した。本年GWの高速道での衝突による悲劇の記憶も生々しいまま、この予約を確定する際に一縷の躊躇もなかった。勿論、乗務員2名と走行距離の関係は確実にチェックした。また夜行バスを選択する理由には、僕自身の性癖があることも大きい。飛行機を始め電車・バスなどの長距離移動交通手段の車内では、確実に睡眠を確保できる自信があるからだ。都会の喧噪の中、新宿摩天楼でバスに乗車。空港かと思うようなシステムにより、乗車ゲートまで用意されている。地上アテンダントよろしく、スカーフを巻いた方がバス乗車の案内をしてくれ、乗車券のバーコードを改札機器にかざす。「50便富山金沢方面のバス乗車にご案内申し上げます」というアナウンスに導かれ、駐車場に控えているバスに乗車。自らの座席を確認すると既に寝込む態勢が整う。バスが発車すると心地よい振動。カーテンが引かれ外の光景が見えない車内は、さながら異空間だ。考えている余裕もなく熟睡モード全開で、既にそこからの記憶はないに等しい。
バスが静止するとなぜか目覚める。長野県の松代という土地での休憩にトイレまで動く。バス車内は静寂極まりない。深夜2時台、一時的な目覚めも問題ではなく、再び安眠の境地に向かう。どうやらこの乗物内での僕の睡眠状況は、“特技”とも言える代物だ。疲れがまったく無いといえば嘘になるが、次の日の予定をこなすには、ほぼ問題ないコンディションは保証される。
早朝5時40分富山駅北口に到着。やや朝靄のかかる富山駅は、さながら異空間だ。深夜のバス移動がもたらす、精神的な時間旅行。到着という実に単純な平穏に、乗客各自がそれなりの夢を載せている。夜を跨ぐことの期待感、きっと何か新しい扉が開くような気にさせる移動感覚である。
飛行機搭乗を模して、空気枕を用意したが使用せず終い。おかげで車内に空気を注入しなかった枕を置き忘れた。それでも富山駅前からの市内ライトレールの姿に、地方都市の可能性を見据えつつ宿泊先の宿に荷物を預けた。新たなる夜明け。前向きに前向きに研究学会が行われる富山大学へと歩みを進めた。
北陸富山の街並は、まさに異空間。
様々な彩の夢模様を起動させてくれそうである。
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小さな占有権のお話
2012-09-09
国際線に乗った際にいつも感じていることがある。日本人に比べて、諸外国人の持ち込み手荷物の多さである。(日本の)国内線は、手荷物の大きさもかなり厳格に規定されてそれが遵守されているが、国際線はほぼ各自の感覚任せではないかと思う時さえある。さすがに巨大なスーツケースは殆ど見かけないが、ソフトタイプのかなり大きなカート式ケースを持ち込む人が一般的だ。するとどんなことが起きるか?
頭上の荷物収納スペースが必然的に不足するのである。以前は僕も国内線並みに手荷物量を抑えていたが、一度、アメリカで預け荷物が行方不明となり、手元に届いたのが3日後という憂き目にあってから、“郷に入れば”で手荷物主義となった。その程度で荷物量も十分で不足もない。だが、これはこれで収納場所の確保に努めなければならなくなった。
だいたい、アメリカ人などは自らの座席位置にこだわることなく、空いているスペースにはどんどん荷物を詰め込む。その要領のよさと迅速さを見習いたいと思うことしばしば。実に柔軟な対応のように見える場面である。うかうかしていると、自分の手荷物を収納する場所を失うことになる。もちろん、全く不可能な場合は、乗務員がどこかに持って行って収納してくれるのであるが。
ある時、日本人の老夫婦が手荷物を足下に置いたまま、離陸時間が近づいていた。乗務員が棚に上げるように告げたので、旦那さんの方が自らの頭上の収納部を開いた。そこは僕のカート式ソフトケースが占有していた。やや僕の席からは離れていたので傍観していると、旦那が「荷物が入っている」と驚くように言う。すると妻が「入っているわけないじゃない。私たちの席よ」と座ったままに言い返した。旦那が信じ難いことが起きているといわんばかりの表情で、(日本人)乗務員に告げ口をするかのように言う。乗務員は「お席の位置に関係なく入れていらっしゃるので」と諭した。最終的には、その老夫婦の小さめの手荷物は、乗務員が離着陸時に預かるということになったようだった。
座席上の収納部分の占有権はあるのか?
たぶん、日本人的感覚だと「ある」ということになるだろう。
しかし、諸外国人の感覚では「占有権」という概念自体がないと感じられる。
あくまで、流れに任せて対応し、
自らの荷物の置き場所は自らで確保するのである。
小さな「占有権」の話であるが、
日本人の思考を表象している現象に思えた。
与えられて当然という、ある意味での傲慢。
自分の手で占有権を獲得する意志に比して。
果たして真の国際化とは何だろうか。
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