あの道を歩んでいたらー映画「ラ・ラ・ランド」雑感

2017-04-17
「今現在」に至るまでには
誰しもいくつもの岐路があったはずである
もしあの道を歩んでいたならば・・・

人生に「たられば」はないとは思いながらも、それを思考し想像するのが人間である。後ろを振り返ることは、果たして「後退」とだけ捉えられる行為なのだろうか?「あの日あの時」の一つの決断が、紛れもない「今」に連なっているのだとすれば、「振り返る」ことも「現在」を見直す隠された指標を見出すために有効かもしれない。「振り返った」としても、決してその「過去」は塗り替えることはできない。「後悔の念」の渦中に沈むのではなく、「現在」と「未来」に向けて、「今」も進み続ける見えない「道」に光を当ててくれるヒントがあるかもしれない。新年度の仕事の喧騒で2週間ほど走り続けたゆえ、しばし心も沈める必要があろうかとゆっくりした休日。アカデミー賞6部門を制覇した「ラ・ラ・ランド」をようやく映画館で観た。

二人の出逢いから楽しい日々、そして別れと5年後が「春夏秋冬」に振り分けられて美しい音楽とともに奏でられる、さすがに見応えのある作品であった。西洋の映画でありながら、四季を比喩的に描いた点も興味深い。先日の宮崎歌会でも、二首ほどこの映画を詠んだ歌があり、そのうち一首は俵万智さんの作品であったゆえに、映画の内容がたいそう気になっていた。「短歌」にも「人生」が乗っているのだとすれば、前述したような「道」を意識しないではいられない。短歌という珠玉のことばで「その時」の「心」を捕捉しておけば、きっとその先の「道」を歩む時に、大きな心の支えになるはずだ。映画では特に「5年後」の回想シーンには、自分の「5年間」を考えさせられた。もちろん「5年間」は積み重なり「10年」そして「15年」もあるわけで、それはまさしく「人生」の方向付けに決定的な意味を持っていく筈である。

「今」もまた常に「5年後の岐路」である
日々を「短歌」にして「未来」を照らす指標となれ
そしてまた音楽があって人生を彩る、ということも再確認した映画であった。

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ニグリノーダ公演「赤桃」に参加して

2016-11-06
「むかし、むかし・・・
 いま、いま、たったいま・・・
 たったいまの、わたしたちの物語。」

今夏、研究室で主催した群読劇の脚本・演出を手掛けてくれた立山ひろみさん作・演出の公演を、宮崎県立劇場に参観した。0歳から入場できる演劇公演で、その名も「赤桃」。作り手も演じ手も演奏者も、そしてそこにいる大人もすべてが「こどもたちと一緒に、同じ視線」で物語と出逢うという趣旨の公演である。絵本の世界にいる「赤ずきん」や「桃太郎」が、飛び出して踊りだす、そんなコピーの魅せられて期待を寄せて会場に入った。県立芸術劇場大練習室の床に、クッションやら小さな椅子やらが無造作に並べられ、その先にはたくさんの絵本が開かれて立てて置かれている。席を決めると演じ手の方が、「この紙を舞台の奥の壁に貼ってください」と持ってくる。「どのように?」と思わず言ってしまうと、「本能の赴くままに」という返答。そうだ!大人はすぐ常識の枠を考え過ぎる。こどもたちはあくまで自由に「本能の赴くまま」に行動しているのだ。そして貼ったら席まで「鳥になって帰ってください」という注文。僕は両腕を羽に見立て、ゆっくりと羽ばたきながら、そして枝に止まるかのように、席に再び尻をゆっくりと着けた。「赤ずきん」役の女性が、その枝に着くまでの動作をしっかりと見届けてくれるのも、童心に帰ってとても嬉しい感覚になった。公演が始まると僕が斜めに異質な部分に貼りつけた紙は多くの中で唯一「黒子役」の男性によって引き剥がされ、芝居に利用された。これが「本能」と「運命」の「物語」であろう。

芝居はそこにいるもの全員で創る。そのような趣旨が大変興味深く、ついついこの方式を学校の「授業」に応用できないかとあれこれと考えた。作・演出・役者・スタッフの皆さんはすべて、かなりの力を注ぎ、この舞台を「準備」してきたはずだ。だが、それをあまり感じさせずこどもを中心とした参加者全員で、この公演が成立していく。これこそ「授業」の理想型ではあるまいか。また冒頭で「むかし、むかし」と何度も繰り返し唱えながら、次第に「いま、いま、たったいま」となって昔話と今現在この日この場所でしかない全員の「物語」があるのだと参加者の感性を揺さぶる。この「自己認識」を深め、「今ここ」の「課題」を意識させる動機付けは、「授業」でも大変有効であろう。後方から舞台全体を覆う巨大な布が急に出現し異世界に誘導したり、iPadによってその場で撮影した静止画や動画をフル活用して時間を横断したり、こうした演劇的手法は、アナログ・デジタル双方の身近な素材で「授業」でも簡単に使用できよう。小難しく「デジタル教材」などと構えるよりも、iPadの即時利用こそが有効だと悟った。そして「物語の答えは一つではない」という結末。「桃太郎」は「鬼を退治しなくなった」、それは「武力」を使えば「何の解決にも決してならない」ことを、あらためて僕の胸に刻んでくれた。

「パフォーマーの要素ひとつひとつを丁寧に扱って
 コトバ(台詞)だけ、物語だけに偏重しない新たな表現の可能性」
(劇団・ニグリノーダの紹介より)

公演後、帰宅した夕刻より僕の新たな「物語」が確実に始まったと実感した。
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空間をどう使うか?

2016-05-20
芝生が敷き詰められたイベント広場
振り向けばブーゲンビリア咲く公園の象徴
空間をどう使って表現するかという視点

同じ空間を見てそれをどのように使うかは、人によって様々だと感じた。たぶん生活の随所に、同じような作用が起きているのであろう。清々とした空間が好きな人もいれば、乱雑な空間を好む人もいる。以前にも同様な趣旨のことを書いたことがあるが、僕が中高教員時代に経験した職員室の机上はまさに十人十色であった。最近になって実習各校に挨拶回りに赴き実感したのだが、概して校長先生の机上は実に素朴で清々と整理されている場合が多い。それは大学などの事務方の机上を見ても同じで、実務とは何かを考えさせられる。などと考えていると、小欄を書いている自宅書斎の机上周辺が気になり始める。3年以上が経過しながらも、聊か東京のマンション時代の品々が未だ随所に顔を覗かせているからだ。空間の使い方は、その時その時の思考にも大きな影響を与えるようにも思う。

夏休みの地域企画を、県立劇場の担当者とともに考案中である。大学とその周辺の地域の小中高校が連携し、世代を超えた参加者による群読劇ができればと鋭意構想を立てている。発表する舞台をどこにするかと検討した結果、地域の亜熱帯植物園が候補となった。この3月に新規オープンし、入場は無料。海沿いに南国の花や樹々が豊かに植えられていて、大温室も設置されている。その一角に芝生が敷き詰められた「イベント広場」がある。この日は下見に赴き、県立劇場の方と空間を眺めていると、彼は僕らが考えているのとまったく反対の発想で現地を視たのだ。芝生が敷き詰められた広場から観客は劇を眺め、通路の中心にある円形の花壇を背景に演じ手が表現したら面白いと云うのだ。左右の通路から劇中に参入したり、円形の花壇の裏側に演じ手が消えていくなど、より立体的な演劇が創れそうだということなのである。さらにはその舞台の背景には、南国の樹々と限りなき太平洋を望む大空のみ。この地の自然を最大限に活かしたロケーションにて、群読劇ができそうなのである。

空間は発見するもの
あなたの身近にも素敵な空間があるはず
身の回りの空間とは、まさに人の生き方そのものだということなのだろう。

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母と観る「母と暮せば」

2016-01-06
母と息子が語り合うこと
その日常を戦争いう悲劇が引き裂く
遺された母は婚約者はどう生きるのか・・・

山田洋次監督作品「母と暮せば」を観た。戯曲「父と暮せば」の姉妹作品として、生前の井上ひさしさんが書きたかった内容であると、娘の麻矢さんが山田監督に話したのが制作の契機になったと云う。広島の父娘・長崎の母子という一家族が、原爆によって如何に人生が変転してしまったかを克明に描くとともに、親子関係とは何かということを、今を生きる僕たちに深く語り掛ける作品となった。医師を目指して大学へ講義に出向いた息子を、一瞬の閃光と爆音が襲う。机上のインク瓶は溶けて形を変えたのに象徴的に描かれたように、多くの学生が犠牲になったと云う。爆心地にほど近い長崎医科大学での1945年8月9日午前11時2分の悲劇である。数年後に爆心地を望む丘にある墓地で祈りを捧げる母と婚約者の側で、ある人がキノコ雲を回想し「人間のすっことじゃねえ」と怒りを露わにした。そう、如何なる理由があっても戦争となる可能性そのものが「人間のすることではない」と、あらためて僕らは胸に刻み込むべきだろう。僕自身も2012年8月9日に長崎を訪れている。

夫は病いに倒れ長男は戦死し、そして次男が原爆の犠牲になり遺された母。そして彼と婚約していた健気な娘のその後。母の悲痛な思いに報いるかのように、息子が亡霊となって現れて母と語り合う。もしや生きているのではという、母や婚約者の思いは如何ばかりであるか、僕たちは想像力を頼りに考えてはみるものの、現実の悲惨さは計り知れない。幼少の頃からの様々な思い出を母子で語り合うという、ごくありふれた「日常」にこそ実は至極の価値があることを、平和な時代に生きる僕たちは胸に刻み込むべきであろう。この映画の息子像を、山田監督は「竹内浩三」に求めたと云う。先月の公開講座をはじめこの何年もの間に、様々な場面で僕も朗読して来た「竹内浩三」の詩のことば。映画や文学に憧れて根っから明るいその性格は、この映画の息子像によく表象されていた。

僕も母とともに観た「母と暮せば」
映画にも登場した小学生の世代である僕の両親
今世代を超えて必見の映画ではないか・・・「宇宙戦争」よりも。
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ミュージカルで育まれるもの

2014-08-29
幼児たちのコミカルな動き
18歳の熟練した歌と踊り
子どもたちの躍動が眩しい舞台

縁あって、地域に根ざした子どもたちを団員とするミュージカル劇団の公演を観た。年齢を超えて幼児から高校3年生までが、週に1回の練習を通してミュージカルの舞台を創る。まさに「幼保小中高一貫芸術表現教育」の実践である。幼い子どもたちは、先輩たちに憧れて歌舞を学ぶ。心の躍動が、そのまま身体表現になったような活き活きとした動きが印象的だった。

彼女たちの舞台を観ていると、みんなが「表現したい」という根源的な願望を持ち、それを素直に叶えているようであった。生育する段階で人は、己というものを動かし声を発し表情を創ることで、他者に訴えたいという本性があるのだろう。現に僕の数列前の観客席では、幼い子どもたちが抑え切れない衝動に駆られ、舞台上の振り付けの真似をして動き始めた。その「表現」を「行儀が悪い」などと抑制するのは、いかにナンセンスかは自明である。

ある意味で「学校」では、発達段階に並行して「表現」を抑制しているのではないだろうか。「理解」することこそ「学習」であるという頭デッカチな発想が、子どもたちの活き活きとした生育を阻害していないか。この劇団も高校3年生で「卒団」する「掟」があるという。だが卒団生たちのサプライズダンスによる身体表現や、司会進行役の熟練した「声」を聞くに、「表現」がいかに人を育んでいるかが、一目瞭然であった。

演じて踊って声を出す
人間の溢れる躍動を表現する
決して学力テストでは計れない学びが、子どもたちを育んでいた。
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「ありのまま」と「抑圧」とー『アナと雪の女王』再考

2014-06-01
「ありのままの自分になるの」
巷のあちらこちらで聞かれる歌声
さて、ここまでのヒットになった一因は・・・


日本では記録的な興行収入で大ヒットとなった『アナと雪の女王』。以前にも小欄に映画鑑賞後の所感を記したが、休日にあらためてサウンドトラックCDを聞いていて、思うところがあったのでここに記しておこうと思う。筆者は冒頭「日本では、・・・」と書いた。25言語バージョンの”Let it go”があるので、多くの国でもそれなりのヒットとはなっているのだろう。だがしかし、「記録的」ともいえるヒットになっているのは、日本社会の現状にも大きな要因があるのではないかと考えた。

米国在住の親友がやはりこの映画を観たと、メールにその所感を記してくれた。その内容は「途中冗長だし、ちょっとわからなかった。」とあった。更には「最後、なんとなくわかったような。姉妹愛なのだね。」と彼女なりの納得が記されていた。「彼女なりの・・・」と書いたのも語弊があるだろう。むしろ”FROZEN”は、「姉妹愛(家族愛)」の物語であり、従来の童話型にみられる、最後は「王子様」に救われて愛の力が幸せを導く物語にはなっていないところに存在価値が見出せるのだ。あくまで男性は脇役的存在であって、間接的にアナ姉妹を援助する(あるいは陥れる)物語であり、敢えて言うならばそこに現代的な「男女相関」の形も見出せるかもしれない。ともかくこの作品は、従来の話型を超えようとしているところに魅力があるといえそうだ。

映画が制作された米国での受け止め方と、日本でのそれに聊かの相違を感じざるを得ない。テーマ曲の”Let it go”の訳詞が「ありのままの」とされた言語上の語感の違いも、相違を拡大する要因ともなっている。(決して「ありのままの」という訳詞がいけないと批判しているのではないので誤解なきように。むしろアニメの口の動きまで分析して違和感なき訳詞に辿り着き、現状の日本社会が受け止め易いフレーズにしたのはお見事である。)映画、特にアニメによるファンタジーであるがゆえに、そこに現実逃避としての虚構を見出し易いという条件がある。その「逃避」したい「現実」とは、まさに「ありのまま」に生きられない社会ということだ。映画全体の主張よりもまして、”Let it go”の部分に焦点化され誇張された受け止め方が大勢を占めているような気がする。(僕自身がこの映画を観た時には、”Let it go”が映画のあまりにも早い段階で登場することに違和感を覚えた。)

「自由」であるはずだとは信じながら、陰湿な「抑圧」社会をいつしか我々は構成してしまっているのかもしれない。学校社会に子どもたちが出会えば、まず「規制」に「抑圧」を受ける。〈教室〉では「思ったことを発言してもいい」という建前ではあるが、そう簡単には「思ったこと」は言えない「空気」が醸成されている。血がつながった家族間でも、果たしてどのくらい「ありのまま」でいられるのであろうか。更には恋人や夫婦間という愛し合う間柄においても、「ありのまま」よりもむしろ、思い込みによる相互遮断的コミュニケーション不全といった状況に陥りかねない。「伝え」ることをせずに自らの殻の中で己を縛り付け、身動きができないほどに「抑圧」してしまっている場合が多いのではないだろうか。

幸い僕は、
そんな「抑圧」からの解放を意図して生きて来た気がする。
それゆえに「ありのまま」の響き方が他者より薄いかもしれない。

「共感」を「現実逃避」のみで終わらせるのか。
それとも「ありのまま」生きようともがき苦しみながらも「行動」するのか。
ファンタジーにこそ生きる糧があり、「今」を変える力があるはずである。

みなさんは今、「ありのまま」ですか?

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「ありのままの」ー姉妹の自立物語

2014-05-07
凍てつく氷と雪
そこに閉ざされた心
どうしたら溶解するのだろうか?

アカデミー賞二部門(アニメ・歌曲)を受賞し、興行収入も記録的だと云う「FROZEN(アナと雪の女王)」をようやく観た。以前からYouTubeを通じて、英語版・日本語版・25カ国言語版など、その歌曲に興味があり閲覧を繰り返していた。今や保育園の子どもも思わず口ずさんでいるフレーズが、「ありのままの♬〜」であるという。

映画に先立って英語版絵本に興味があって、内容を攫っておいた。映画は3D日本語吹替版で観たが、それはそれで松たか子の好演と翻訳の的確さが功を奏し、なかなかの作品に仕上がっていたといってよいだろう。あとは後にまた英語版映画の鑑賞もしておくべきだと感じる。言語に拠る語感の変化は、作品そのものの”主張”にも微妙な影響を与えるだろうと思うがゆえである。

自己の超越的な能力を、負か正かどの方面に活かすかという”人”としての課題。結婚という人生の岐路に潜む危険な”人”としての欲望。そして愛するとはどういうことかという永遠普遍のテーマを、”人”として悟って行く過程。王権を冠した姉妹が、僕たちの日常でもありがちなある種の混乱の渦中に自ら陥りながら、自分を発見していく物語。こうした筋書にどのような自己投影して受け取るかという鑑賞者としての”仕事”を果たすとき、自ずと作品はその深まりを増すことになる。

「ありのままの自分になるの」
今の自分はどうであろうか?
映画を共有したのちの、深まりを増した会話が面白い。
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「臆病者」こそが真の・・・ー映画「永遠の0」ー

2014-01-14
「必ず生きて帰る」
妻にそう告げて戦地に行った宮部久蔵。
「当時は、愛するとは言わないが、同じ意味でそう言ったのです。」
と当時の戦友が回顧する場面が印象的だ。
映画「永遠の0」。

昨夏、じっくりと小説を読み、そして大好きなサザンの「蛍」を無数に聴いて来た。原作・テーマ曲という組み合わせに、長い間心を躍らせ続けていた。12月21日封切りとなっていた映画を観た。しかも映画内の舞台の一つである、鹿児島で観ようという”思い付き”を敢行した。小説と映画との差違はともかく、むしろ小説の細部を知っているだけに、他の観衆が感涙しない場面でも、しゃくり上げるように泣いてしまった。何人かの観衆が僕を振り返るほどだった。

「それでいい」と思った。”男”が映画を観て、観衆に振り返られるほど感涙して何が悪いのだろうか。それは、かの戦争というあまりにも大きな過ちに対して、今の世代を生きる僕たちの責務であり、伝承されるべき”物語”なのである。映画内で末期癌におかされた宮部を知る一人が語る。「医師の宣告である余命何カ月よりも生き長らえている意味が分かった。あななたちに、この体験を語る”意味”があった。」と語る。命とは、世代を超えて伝えるとは何か。まさに「生きる」意味を感じさせる。

時代をある「空気」が支配する。その中にあって「愛する人」が何より大切であるという考えを貫く宮部。「日本帝国海軍一番の臆病者」と罵られる。教官として教えた学生たちを戦地に行かせたくはないという感情から、試験に「可」を与えない。やがて教え子たちが、特攻に向かう現実に直面し、苦しみの底に沈み込んでしまう。果たして宮部は、愛する妻と子のもとにどのようにして帰るのか。

兵器を拡充し情報を秘匿し建前の国への愛を喧伝する。
それこそが、実は「臆病者」に他ならない。
真に強い人間とは、たった一人への愛を貫ける者のことである。
”現地”鹿屋の資料館で、僕は一人一人の”物語”に頭を垂れた。
この現代においても強い「臆病者」であるべきと、映画「永遠の0」は教えてくれた。
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映画「かぐや姫の物語」雑感

2013-12-29
「今は昔、竹取翁といふものありけり。
 野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。
 名をば、さぬきの造となむいひける。
 その竹の中に、もと光る竹なむひとすぢありける。
 あやしがりてよりて見るに、筒の中光りたり。
 それを見れば三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。」
(『竹取物語』冒頭文より)

映画は、引用した『竹取物語』原文冒頭の語りと、映像がリンクする場面から始まった。今や小学校5年生の教科書に掲載されており、多くの小学生が暗誦までできる冒頭文である。原文であるから解釈が難解であるわけではなく、自然と物語世界に入り込む”語り”が映画でも「機能」していたと見てよいだろう。”昔物語り”冒頭文が誘引する伝奇的世界への扉が、声と映像によって開かれる思いがした。

竹取翁が生業を立てていたのは、「野山」のある鄙の地である。急成長し続ける「かぐや姫」は、「たけのこ」と呼ばれ自然の中で生活する子どもたちとともに戯れ遊ぶ。「鳥・虫・獣」にふれあい、草木や花が季節ごとに”うつろふ”ことを実感し、人間も”生き物”としてこの地球(ほし)に生きている「手応え」を感じ取る。だが、竹から「黄金(こがね)」を発見する翁は、この子を都で「高貴な姫」として育てようと決意する。このあたりに監督・脚本の高畑勲ならではの、「都鄙対照物語」が仕組まれて、物語は都へ舞台を移し求婚譚が展開することになる。

5人貴公子の求婚は、原典においても著名であるが、あらためて「貴公子」とは何か?と考えさせられる。財力や家柄に加えて、その社会に沿った姑息な処世術のみを身につけ、「この世のものとは思えない」ほどの「美しさ」を宿す「かぐや姫」を「得よう」とする。その権力に依存しきった男たちの愚かさを、すべて「かぐや姫」は露見させ暴いて行く。もちろん「わたくしから求婚されて喜ばない女はいるはずはない。」などという帝(みかど)の申し出、いや「夜這い」も拒絶する「かぐや姫」の気丈さが描かれている。

だが「かぐや姫」はひとり苦悩する。自分のせいで多くの人々が、不幸になったと。そして「高貴」でいることが、人間らしく生きることから隔絶した「嘘」の世界であることを悟って行く。そしてまた鄙の地で自由奔放に生を躍動させる自身の幻想に浸る。「都鄙対照」は、「財力・権力」対「自然・愛情」の対比となるが、「生きる手応え」を実感してくにはどうしたらよいかという人間としての命題を、この映画は僕たちに突きつけてくる。

「まつとし聞かばいま帰り来む」
百人一首16番「在原行平」歌の下句である。
「立ち別れ」と「帰り来む」という人情の彷徨。
月の世界に帰れば、人間界でのすべての記憶を失うという。
「生きる手応え」あらば、失わないものもあるやもしれぬ。

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郡読音楽劇「銀河鉄道の夜2012」公演

2012-08-25
「重ねる」とは実に様々な意味がある。まさに「多重」という語彙にもなっているように、複数の要素が複数の状況の中で、接触し刺激し合い反応して何らかの表現として結果となる。「群読」という表現行為は、まさにこの「重ねる」ことの多様さに根本的な存在理由がある。異質なもの同士や時代を超えたもの同士の邂逅。個々の声とテキストとの取り合わせ。そしてまた声のみならず、演じ・舞い・奏で・仕組む・という多元的な要素が、一つの劇的空間を創り出して行く。「重ねる」ことへの意識は、この劇の脚本・演出を担当している能祖将夫氏により、パンフの挨拶文に示されたコンセプトである。

桜美林大学プルヌスプロデュース・市民参加企画「銀河鉄道の夜2012」を観た。市民と学生が半分ずつ計130名ほどの応募者からオーディションを経て選ばれた12歳から70歳までの方々が参加する群読音楽劇である。稽古は直前の6日間という短期集中で行われるという。様々な年代の方々が公演を含めた期間を通して生活を「重ねる」ことで、宮沢賢治の世界観を創作的に表現する。

「朗読」と「劇」の違いは何か?常々、朗読発表会を実施すると学生たちと模索するこの境界。どこまで「声」に依存し、テキストを読むことのみで聴衆の想像力に訴えてよりリアルな表現を達成して行くか。そこに「朗読」、またその延長上の「群読」があると基本的には考えている。演じて動くこと・背景に流れる音楽的要素などはあくまで補助手段である。複数の人々が声を重ねるという実に単純な響きに、テキストのことばを再発見する表現者と聴衆の交流の場が「群読」であろう。そしてやはりこの場合にも、ライブ性が何よりも重要な要素になる。

今回の群読音楽劇は、限りなく芝居に近く音楽性にも長けている。主役・ジョバンニとカンパネルラは、舞台上で台本を読む行為はなく全てを“演じ”切る。これは既に僕の考える「群読」の域を超えている。他の出演者は、台本を構える場面もあり、台詞として語る部分もあり、「群読」と「演劇」を往還しながら進行する。終盤で「重ね」られた「タイタニック」の場面では、沈み行く船の中の混乱を描き、出演者が床に伏せる中で台本を見ているのが、象徴的にその二面性を物語っていた。「朗読」と「劇」の違いというのも、実に多重な考え方が可能なのであるとしみじみ見入った。

このようなことを考えている僕からすると、この「群読音楽劇」を観ていて混乱を来すことも多い。「朗読」を“聴こう”として台詞から想像力を働かせていると、出演者はいつしかその場面を、舞台上で演じている。自己の朗読を聴く想像力が、上手く演技と重なれば一つの落し所が発見できるが、その多重性にたじろいでしまう自分を、劇中に何回か発見した。音楽的なリズム感・そして豊かなダンスの表現。こうした要素を融合して行く、多重な鑑賞眼が求められるということであろう。まだまだ、多くの芝居を観て学ばなければならないという自覚を高めた。

それにしても賢治のことばは屈強であり優しい。台本の随所に賢治の詩の一節が「重ね」られていたが、「銀河鉄道の夜」がベースにありながら、その詩のことばが多様な声により跳梁する。その響きは強烈である。賢治の果てしない世界観とは、多様な表現の方法を容易に受け入れる包容力があることを認識した。賢治のことばをもっともっと噛み締めたくなる。


「ほんとうのさいわいはなんだろう?」
ジョバンニの声が響く。
それはまさに、この時代を生きる
僕たちへの問い掛けでもある。


桜美林大学プルヌスホールにて、8月26日(日)まで公演。
(横浜線・淵野辺駅前)
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