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「怪物」ーすぐそばにある怖さ

2023-07-01
カンヌ国際映画祭脚本賞
監督:是枝裕和・脚本:坂元裕二
個人と社会を取り巻くすぐそばにある怖さ

カンヌ国際映画祭での脚本賞受賞を受けて、早く観たいと思っていた映画だ。だが個人的な感情の渦の中にある「怪物」というタイトルへの得体の知れない恐怖で、なかなか映画館に足を運べないでいた。予告編映像などにより内容の一部を知るにつけ、その怖さはさらに高まったといってよい。家族・学校を取り巻くこの国のいまの生きづらさ、小さな歪みを放置し続けるとやがて肥大化し「怪物」となるのか。決して他人事では済まされないこの国のどこにでもあるような怖さを、この作品は見事に描いている。それゆえに自身が怖さを現実のものとして体感しているようなうちは、タイトルにも近づけなかったというのが正直なところである。お断りしておくが、あくまでこの映画があまりにも巧妙にいま現在のこの国の実情を描いている素晴らしさゆえの所感である。

内容に踏み込んでの記述は控えるが、僕らが抱え込んでいる現代社会の歪みを深く考えさせられた。こうしている今でも日々のニュースで、殺伐とした内容が報じられ続けている。かつては、少なくとも1990年代頃までは、殺伐とした報道の背景について原因究明への言及があった。だがその件数の多さなのか、関心の低下なのか、事件の背景などが僕らの知らないところで闇に葬られるような感じはしないだろうか。混濁とした面倒臭いものには蓋をしてしまい、いかにも何もなく綺麗であったかのように体裁だけが整えられていく。その体裁を整えることにだけ躍起になる人たちがいて、小さな歪みが見えない場所で黴が増えるように蔓延ってしまう。教育という誰しもが直面する現場において、こうした体面体裁主義が横行することで現出する世界は怖すぎる。今此処で向き合う「あなた」へ、「人」としてどのように信じて愛することができるのだろうか?

レイトショーながら多くの観客が
上演後のなんともいえない混濁を脳裏に
深夜の宮崎市のどこにでもある街に妻と車を走らせた。


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愛と残虐ーThe LEGEND&BUTTERFLY初日  #レジェバタ

2023-01-28
信長に抱く残虐なイメージ
濃姫と対立しながらも愛し続けた物語
権力を握った者の傲慢と孤独と・・・

東映70周年記念作品映画「The LEGEND&BUTTERFLY」が封切りとなり、珍しく初日のレイトショーに行ってみた。市内で夕食を済ませ、映画館の席は事前にWeb予約。最後列が好みなのでその中央で悠々と鑑賞することができた。話題を呼んだ作品の初日ではあるが、「レイトショー」であると混雑もしておらず料金も¥1300とお得だ。妻はかつてよくレイトショーを独りで観に来ていたのだと云う。金曜日の夜などは1週間の「疲れた」で終わってしまいがちであるが、こうした過ごし方は休日に向けて好ましい。封切りしたばかりなので、あまり映画の内容に触れることは控えねばなるまいが、「予告にある範囲」で語れそうなことを語ろう。織田信長に抱く我々のイメージは凝り固まっているようで、実はなかなか見えづらい。これまで大河ドラマで何人もの役者が信長を演じたが、果たして誰が一番腑に落ちるタイプなのだろうと思う。むしろ秀吉(竹中直人)や家康(津川雅彦)は概ね「こうである」というイメージがある。

この映画は、木村拓哉と綾瀬はるかという豪華キャスト。果たしてキムタクがどのような新しい信長像を見せてくれるか楽しみでもあり、綾瀬の毅然と侍立しつつ主張しそうなキャラとの関係性が楽しめる映画である。信長はどうしても残虐なイメージがあるのだが、果たして人間はどれほどまで残虐になれて、どれほどまでに愛を身に受け止められるのか?を考えさせられる。史実からすれば残虐に残虐を重ねた権力の暴走が、やがて家臣から夜襲(本能寺の変)を受けるという悲劇の最期となる。「天下を取る」とはどういうことなのか?信長の言動の多くを秀吉・家康は学んだのだろう。家康がようやく「いくさのない愛に溢れた平穏な時代を築く」ことになる。だがしかし、果たして信長に「愛」は無かったのか?徳川幕府が採った鎖国政策とは真逆の「異国文化好み」の好奇心は、もしかするとその後の日本に大きな進展をもたらせたかもしれない。しかしやはり人を愛することに従順でなければ、一番の「忠臣」に命を取られるという結果となる。「愛憎」というように愛と憎しみは表裏一体であり、現代でも起きている様々な残虐の悲劇はその表われである。こうした映画を契機に、歴史から個々人が多様なことを学ぶべきなのだろう。

「喧嘩するほど仲がいい」
権力者の暴走はいつの時代も己の思うがままを通して急襲される
平和な社会を築くには「愛」が不可欠だと誰もが知っているはずなのであるが・・・


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『すずめの戸締り』の舞台・宮崎ー新海誠作品とわたしたち

2023-01-08
映画舞台のモデルになる場所
妻の実家の日南市でいつも見ている光景
「坂道の出逢い」が『天気の子』では僕の実家の最寄駅

子どもの頃から限定したアニメ(コミック・週刊誌・映画)しか観ることはなく、むしろあまりに空想的すぎて観るに耐えないと思ってきた。『巨人の星』『ルパン三世(特にTV初放映版)』『宇宙戦艦ヤマト』など、どこかでそれぞれの世界の真実を考えられるものだけを好んできた。ここ最近は話題になっている新海誠作品に、同様の「真実」が感じられそうで自然と観たい気にさせられている。しかも、最近公開された『すずめの戸締り』は主人公が暮らす街のモデルが宮崎県日南市では?と評判である。地元紙・宮崎日日新聞もこの件を記事にしたが、既にアニメファンの間では「聖地巡礼」と呼び、作品の舞台らしき地を訪れる旅行などが流行りつつあるらしい。元日の朝は日南市大堂津海岸で初日を拝み、朝食後にはめいつ港が見下ろせる高台を散策した。まさにその坂道の光景は、『すずめの戸締り』の中で主人公が恋する人に出逢う重要な場所である。細部や複合条件は虚構で仕立てられてはいるが、妻の実家を訪れて僕が大変に気に入っている光景に類似した場所が、映画内で鍵となっているのには驚いた。

「驚いた」と書いたのは、単純に一致したのみではない。前作『天気の子』では、やはり主人公が大切な人と出逢い再会する「坂道」があった。そのモデルとなる場所が、僕が生まれ育った実家のある最寄駅の南口である。山手線内でもこれほど渋い場所はきっと他にないと自負できるほどの駅舎で、かつては芥川龍之介なども往来した「田端文士村」の一角である。そう!なぜ前作が僕の生まれた地の坂道で、今作が妻の生まれた地の坂道なのか!偶然とはいえあまりにも僕たち夫婦は、新海誠作品において恐いぐらいの奇遇により結びついている。作品の内容については詳しい言及を控えるが、クライマックスと感じた場面に覚える自然で理由なき感涙という二作品の共通点にも酔った。この列島で起こる災害は、単純に「自然の猛威」というだけでは済まされない「真実」があることを作品は訴えている。虚構と思われる部分を超越し、自然を崇拝しなくなってしまった我々の無責任が突きつけられる思いがする。若山牧水の短歌に「古代的なアニミズム(万物有魂論)」を読む指摘があるが、「自然との共生」という意味でも宮崎が舞台となり、また都会らしくない都会である僕の実家付近が舞台になることの意味と結びつくようも思う。あらためて「自然」とは何か?多くの方々が新海誠作品からその「真実」に目を向けるべきだろう。

この宮崎の自然豊かな光景
しかし綺麗な海の底には大地震を引き起こす震源もあり
僕たち夫婦の自然との向き合い方やいかに。


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「夏を歩く」×「五月の空〜宮崎市と戦争と〜」朗読劇公演

2022-12-13
「今を戦争前夜としないために」
語り継がねばならない1945.8.6
主演;田中健さん そして宮崎の1945.5の惨禍

ここのところいくつもの舞台に身を委ね、様々なことを疑似体験している。題材が史実であれ虚構であれ、考えさせられる真実は同様で一時的に日常でない自分になれることに大きな意義を感じている。この日は標題とした朗読劇を、宮崎市内まで観に出向いた。主演は俳優の田中健さん、僕にとっては青春ドラマ『俺たちの旅』での「オメダ」役から親しみのある俳優さんだ。青春期には「なりたい自分」と「そうなれない自分」に向き合う葛藤が常に付き纏う。同ドラマで中村雅俊さん演じる自由奔放な「カースケ」には誰しもが憧れたものだが、田中さん演じる「オメダ」がいることで、そこまでは大胆な行動はできない「自分」を逆照射されるようで青春の葛藤が上手く描かれていた。その田中さんの生声による朗読は、実に楽しみだった。かの1945.8.6.8:15広島で誰しもが個々の「朝」を迎えていた。「広島第一県女の生徒たち」の「朝」に焦点を当て、凄惨な「ピカッ」が彼女らの「今日」を一変させる怖さが実感できた。「戦争」はいつも一般の人の日常をかくも悲惨な「日々」に変えてしまうのだ。

「夏を歩く」の前に上演されたのが「五月の空」、本公演の特徴は地方公演を巡りつつ当地の戦争の記憶を風化させないための朗読劇が組み合わされていることだ。この宮崎にも1945年当時には空襲が相次ぎ、多くの人々が犠牲になった。赤江空港(現宮崎ブーゲンビリア空港)に空軍の拠点があり、鹿児島のみならず多くの特攻機がこの宮崎からも飛び立ったことを忘れるべきではない。それゆえに宮崎市を中心に空襲も増えて、多くの一般の方々の「今日」が変わってしまった。以前から附属小中学校に行くと、門のすぐ脇に慰霊碑があり実習生なども必ず登校すると手を合わせる慣習となっている。かの「五月」の空襲で、下校途中だった小学校の生徒らが犠牲になってしまった。なぜ?軍事拠点でなく文教地区に爆撃があるのか?「戦争という名の狂気」には、そんな「なぜ?」はまったく通用しないことは現在のウクライナを見ても明らかだ。戦争が起これば必ず「弱い者が犠牲になる」、あらためてそこに生きた人々の叫びが朗読劇で再現され僕らの胸に突き刺さったのである。

朗読の声を語り継ぐこと
どこまで表現したら真に伝わるのであろう
舞台と表現の可能性を見つめ続けたい。




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生涯現役ー理論のみならず実践できる人でありたい

2022-07-04
映画『トップガンーマーベリック』
36年の時を経ての続編
「生涯現役」の意志と誇り

「生涯現役」と聞けば、誰を思い出すだろう?野球ではイチロー選手、昔は野村克也さんかもしれない。思わず「選手」と書いたが、現役は引退したもののイチローさんはシアトル・マリナーズのインストラクターとして、試合前などユニフォーム姿で大谷翔平選手と談笑する姿がよく映し出される。キャンプでもバッティング練習に励み「今でも選手で行ける打球だ」などと、米国メディアが取り上げることもある。もちろん体型も体力も現役時代と寸分も変わらない。好きな道の頂点を極め、その道で生涯現役を貫く。もちろん第一線というのは難しいのかもしれないが、そんな生き方には誰しも憧れる。僕自身も生涯を通して「文学をよんでいたい」「教室で教えたい」という思いは強い。前者は自らの意志で貫けそうだが、後者においては「生涯現役」たるために努力が必要だろう。声や教壇に立つ身体に加えて、人々が聞いて飽きない硬直しない柔らかい話ができる脳を育て続けねばならないだろう。「教室」で学ぶ者たちに共感と共鳴できる存在であり続けること、その根底に「文学をよむ」という確固たる信念が根付いていることを貫きたい。

冒頭に記した映画を観た。ほぼ僕と同年代のトム・クルーズ主演大ヒット映画から36年を経た続編だ。主人公「マーベリック」が、生涯現役であることを思わせる内容。年代・時代に共鳴できるので、トム・クルーズの衰えない筋骨隆々の身体を始め、様々な面において「こうあるべき」という思いをあらたにした。大学学部を卒業した頃のあの野望と熱さと無謀さ、考える前に既に行動しているような前のめりな生き方。そんな流れで僕はまず「研究」よりも「現場」を選んだあの頃。「教えることのプロ」に目覚めて、再び「文学研究」の場に帰ってくることができた。映画では過去への後悔や他者との確執を持ちつつ、昇格を断って現役にこだわってきた一人のパイロットの姿が描かれていた。もちろんこの映画の売り物である空中アクションは健在で、戦闘機も世代が2世代ぐらい進行していることを思わせた。ウクライナ侵攻が現実のものとなった今、こうした最新兵器を扱うフィクションの映画を観る思いも複雑である。「核戦争」の脅威を減らしたという大義が踊る脚本でもあり、米国映画の様々な意図と側面を見せつけられもする。それを抜きにした上で、「生涯現役」を貫く主人公の姿とどんなに機器が進化したとしても最後は「人間の力」であることを描いたあたりには感激を覚えた。「生涯現役で自ら動けて教える」中高年の生き方に大きな勇気と野望に火をつける作品であった。

理に溺れ行動を忘るるなかれ
やりたいことをやりとおす生き方
最後に試されるのは人間の愛ではないだろうか。


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先生はつくるー『日之影大吹哀歌』(第10回岡田心平賞受賞作品劇団ゼロQ公演)

2022-06-27
「私たち女郎はさ、ここで死んで山に埋められて、
 そこに石を置かれて終わりさ、
 名前もなけりゃ、墓なんてありやしない」(『日之影大吹哀歌』より)

山に登り自らの足で歩き発見したことへの驚き。そんな激しい情動をそのままにすることなく、「表現」することは人としても大切なことだろう。宮崎県日之影町見立地区五葉岳入り口に「大吹(おおぶき)鉱山跡」があると云う。そこは天正10年(1582年)に鉱脈が発見され寛永8年(1631年)に操業が始まり閉山される明治の初めまでは1000人規模の人々が鉱山労働者やその家族として住み、行商人が行き交い遊郭までもあった賑わいを見せていたと云う。こんな宮崎県内の放置すれば埋もれてしまいそうな歴史に焦点を当て、一人の「女郎」と新たに遊郭に売られてきた14歳の女性の生き様を描いた戯曲が『日之影大吹哀歌』である。多くの女郎たちが、家族の食い扶持を稼ぐために女郎屋に売られ、年季が明ける直前になると後悔と未来の展望に失望し自ら命を断つ者も多かったのだと云う。「女郎屋」の旦那と番頭のえげつない策略に騙され、純粋な恋心を利用され踏み躙られる女郎「お清」、その下で年季奉公を始めたばかりの「お栄」は耐えきれず「女郎屋」から、ある者の助けを借りて逃げ出すという哀しき物語であった。

この作品が本年「第10回岡田心平賞」を受賞した。綾町を拠点に宮崎の演劇に功績があり38歳で急逝された岡田心平さんを顕彰し、宮崎県内で書かれた戯曲作品に与えられる賞である。演劇をすること芝居で訴えることの尊さを岡田心平さんの意志を受け継ぎ、表彰される作品のリーディング劇を観るのが毎年楽しみだ。昨年も懇意にする県内高校の国語教師である方が受賞し、奇しくも今年もやはり以前から「高校国語研究会」などで交流のあった高校国語教師の方が受賞した。新学習指導要領では学校種を問わず、学習者に「創作」を通して学ぶ「学習活動」を重視した内容になっている。短歌・俳句・詩・物語・小説・戯曲(脚本)等々、制作する過程を通じて原作やモチーフとなる教材の読みを深め、また想像力や表現力を育むことを意図している。だが大きな問題は、学習者である生徒・児童には「創作」をやらせるのだが、指導者である教員が「創作」の経験がないことだ。何も本日の話題のように受賞を果たす作品を、全ての教師に書けと言っているのではない。少なくとも学習者とともに作品を制作してみるなど、その「創作」にはどれほどの意義があるかを自ら経験して理解しておく必要があるのではないだろうか。現場では往々にして「音読活動」一つをとってみても、CD音源使用などで教師自らが「逃げる」ような姿勢が残念ながら目立つ。こうした意味で、宮崎県立高校の「国語教師」が2年連続で「岡田心平賞」に輝いたのは、県の「国語教育」にとっても誠に大きな成果であると思う。

高校演劇部の部員たちとともに創った作品とのこと
宮崎の哀しい歴史に高校生演劇部員が向き合う意義も
またあらたにリーディング劇に出演したい衝動を覚えた公演であった。


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芝居はしごー演劇文化拠点としての三股町

2022-03-14
烏丸ストロークロック×五色劇場『新平和』
みやざき演劇若手の会 おはぎとぼたもち企画 Vol1『班女』
芝居で満腹な午後を三股町にて

毎日のようにTV映像で流されるウクライナの戦禍、そのあまりにも理不尽で悲惨な光景への憤りや哀しみを僕たちはどうしたらよいのだろう?世界史の視点で見ても世界は平常時ではなく、今後の欧州情勢やこの日本への多大な影響が避けられない情勢。だがしかし僕たちは自らの頭上にはミサイルや砲弾が降らないことをいいことに、次第にTV映像に慣れてしまってはいないか?スマホが多くの地球人の身近になったことで、即時に多くの情報が取れるようになったが、それだけに「リアルな現実」と「ネット上の架空」との識別に大きな危うさを感じる時代でもある。『新平和』という芝居は、そんな今だからこそリアルに舞台芸術として77年前の「広島」を僕らが語り継ぐために体験すべきものだ。「出演俳優の一人一人が被爆体験者やその時代を生きた人たちと1年間交流を続ける」ことで「体験の生の声を記録するオーラルヒストリーの手法」によるものと「上演にあたって」のパンフにある。5年間という長き時間を費やし、稽古時間よりも「多くの時間をディスカッションに費やし」という芝居の構成・演技は個々の役者が舞台上で語り部となるような鮮烈な印象を受けた。2019年の本公演、今回は京都・東京を経ての宮崎三股町での再演千穐楽に立ち会えたことは幸運だった。77年を経過しても世界に語り継ぐべきこと、一地方の三股町という小さいながら演劇の大きな可能性を秘めた町でこそ、「平和」を祈るために僕らは芝居を観たのだ。

終演後は急いで「はしご」で公演へ向かう。小倉邸という古民家での公演『班女』である。先月に公演を行って僕自身も出演した『牧水と恋』に出演した2名の女優さんが出演する。『新平和』の会場から既にそうであったが、先月の公演にて出逢ったり再会した方と多く会場でお会いする。これぞ人と人とが「つながる」ということ。三股町は「演劇」を基盤とした町づくり拠点として、明らかに整備されつつある。「短歌拠点」を考えたい僕らの構想には、誠に見本となる町なのだ。さて、『班女』は三島由紀夫原作の近代能楽であり、世阿弥の謡曲に源流がある。「待たない女・実子」に「待ち続ける花子」そこに「約束の扇を携えた吉雄」が交錯しすれ違う関係性の中で常軌を逸する物語だ。今回は2チームが違う演出でこの戯曲を展開したが、それぞれに知り合いの役者さんがいたのは、比較の視点を持つためにも有効であった。三島作品が持つ鮮烈な近代的課題と人間の狂気の実態、そこにはまさに多様な解釈が作る段階で生まれたであろう。視線・喋り方など感情表出をする人間としての演じ方、ただそこにある肢体のあり様、そこに謡曲における「遊女」性などまで考えが及ぶのは、文学をしている身として精査し過ぎであろうか。まさに漢籍や平安朝物語から情事がつながる延長に、小さな古民家の舞台があったように感じられた。

芝居を観る刺激
そしてまた自らが声を出したい衝動
三股町の演劇文化拠点に多くを学ぶのである。


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そこにある日常の居場所ー「新かぼちゃといもがら物語・#6火球」

2022-03-05
あなたの居場所はどこですか?
作:桑原裕子・演出:立山ひろみ
宮崎の小さな離島の物語

いま僕には、小欄を書いている自宅書斎という居場所がある。1階へ降りれば台所に食卓と居間もあり、聖域のような寝室もある。また徒歩でわずかな大学へ行けば、自分の研究室がありそこでは様々なものを生み出している。自分が自分らしく何も気にすることなく落ち着ける場所、そんな巣のような居場所が人間には必要なのだ。だがこうしている今も、ウクライナではその当然あるはずの居場所を多くの人々が失っている。侵攻は人間の尊厳を奪う、断じて許されない蛮行・愚行である。この件は日々小欄に記しているが、1日も早い停戦の道が対話により開かれることを願う。さて「居場所」に注目したのは、標題の芝居を観たからである。既に2年となる新型コロナ感染拡大で、「公演」という性質のものからもしばし遠ざかっていた。もちろんまだ感染への不安は少なくないが、やはり観られるものは見たいという思いが先立った。宮崎県立芸術劇場には以前に『星の王子さま』群読劇を共催した担当者の工藤治彦さんがおり、その際の演出を担当した演劇ディレクターの立山ひろみさんが今回の芝居も手がけている。仕事や短歌企画との兼ね合いで、今回も観劇に行かれるかどうか定かでなかったが、前日に当日券があるのを知って滑り込みでの観劇が叶った。(会場に入るのもまさに滑り込みであったが。)

公演は本日と明日が千秋楽ゆえに、あまり内容に踏み込んだ記述は控えたい。宮崎県延岡市の北に位置する離島・島野浦を舞台として5人が青春時代と大人の時代を往還する物語だ。島にある廃屋を5人で「秘密基地」とか「部室」とか呼び、まさに彼らの居場所が舞台の中に日常として描かれていた。青春の友らと他愛もない話をし隠れて格好だけ大人のふりをして過ごす空間、誰しもが高校の「部室」などで友人関係と恋と個々の立ち位置などを気にしながら日常を過ごし成長する場所がある。仲間たちしか知らない場所ゆえの「秘密基地」といった呼び方、そこに大人になっても変わらない心身の熟成の繊細な階梯が潜むものである。島野浦という離島であるからこそ味わえる漁師である大人との関係、そして「秘密基地」の外には果てしない自然が限りなく広がっている。その海の先に思いを馳せ、また広大な天と宇宙に思いを致す。冒頭から芝居を観ていて、僕自身が彼らの日常の一員になったような錯覚を抱きながら舞台に同期していることを自覚した。時に登場人物の動作や台詞を、自分がしているような気分になった。高校卒業後をいかに生きるか?宮崎が抱え込む社会的問題とともに、自然と親和的に生きることの尊さを日常の中に描き出したところが、この芝居の大きな見所だろう。

舞台という虚構の空間の一人になれる体験
終演後に知人にも偶然会い、そして立山さんとも話ができた
短歌と演劇、僕が宮崎で為して来たことが微塵も無駄なくいま合流・融合して来ている。


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映画『MINAMATAーミナマタ』が語ること

2021-09-26
9年前の水俣フィールドワーク
相思社に2泊して実感したこと
「ユージン・スミス」の写真が今も訴えること

2012年8月、福岡の炭鉱から長崎の平和祈念式典、そして水俣で2泊して町の歴史を辿るフィールドワークに参加した。水俣病に苦しみ命を落とした方々の位牌が安置されている仏壇を前に寝泊まりし、夜は相思社の方々とあらゆる話題で語り尽くした。同行した親友の落語家は、そんな語らいの宵の口に「誰かが耳元で囁いた」と叫び出し、無念にも命を落とした方々の魂を感じたらしい。朝のトイレに彼が入ると、必ず天井から巨大な蜘蛛が糸を垂れて降りてきたとも云う。フィールドワークして歩いたのは水俣の町の様々な場所、小さな漁村での人々の生活の手触り感がわかるところ、また水俣全体で自然はいかに循環しているかが知れる山と海が感じられるところ、もちろん「株式会社チッソ」の排水口跡とか町にとっての会社のあり方がわかるところなど多岐にわたった。この旅全体に及び、「日本の近現代が引き起こしたもの」を再認識する機会となった。石炭火力による産業振興は大量のCO2を排出し、第二次世界大戦は世界で唯一の被曝を招き、高度経済成長は公害による人体の侵害をあからさまにしつつ、かたや社会が「発展した」と金を儲け喜ぶものがいた社会を築き上げてきた「近現代」を。

一昨日23日に全国公開となった映画『MINAMATAーミナマタ』を2日目にして早速観に行った。「ミナマタ」の悲劇を自らの写真によって世界に伝えた写真家「ユージン・スミス」の格闘を描いた作品だ。「写真を撮るということは、自らの魂も削ることになる」という趣旨のことを信念に、米国メディアとの確執や葛藤を持ちながら、自分しか撮れない写真を求めて「ミナマタ」へ住むようになる。罹患者やその家族らと心を交わすまでの苦闘や様々な妨害に遭うことを超えて、世界に発信する写真を撮るまでの様子が語られた映画であった。映画題の『MINAMATAーミナマタ』という表記は重い、「オキナワ」「ヒロシマ」「ナガサキ」「ミナマタ」「フクシマ」と世界に知られる地名、もはや日本語固有名詞という枠組みを超えた世界の意志を表現するための表記である。我々はその当事者の国に住みながら、どれほどこれらの土地の真実を知っているのだろうか?映画で描かれた水俣や被害者の格闘の様子は、僕にとって9年前に実感した「経験」と重なり合いながら、世界にここしかない受け止め方ができたと言えるだろう。それは近現代が錯誤の末に至った様々な環境問題は、今もまさに進行中であるということ。映画の帰りに購入した昼食が詰まったプラスチック容器、それを買ってしまう自分をどう見つめるか。この映画は過去ではなく、地球の未来へ向けて皆が当事者であることを考えさせられる。帰宅して「ユージン」の写真集をあらためて見直している。

相思社発行『ごんずい162号』は映画特集号
「近現代」の歴史そのものを振り返る大きな視野が求められる
「SDGs」などというのは、もう遥か以前から「ミナマタ」で学ばれていたことだ。


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物語を何度も観る理由

2021-05-25
子どもが絵本を何度も読むように
「登場人物に会いたい」「絵本の中に広がる世界に身を置きたい」
「物語の大きな効用」は「日常での気持ちの安定」

地元紙宮崎日日新聞に毎月第4月曜日連載の俵万智さん「海のあお通信」、今月はコロナ禍で家にいることが多くなり、ネット配信ドラマ「愛の不時着」に「ハマった」という話題であった。既に全16話を「5回見てもまだ飽きず」という具合だと記されている。さすがは俵さん、ただ「ハマった」だけでなく「愛の不時着ノート」なるものをネットに連載してしまったのだと云う。そして連載の後半には、実に大切なことが記されていた。それは「物語の効用」である。冒頭に箇条書きにしたように、何度も同じ物語を観る理由は「子どもが絵本を何度も読む」のに似ていると云う。確かに幼少の頃の絵本の体験を回想すると同じ物語を何度もくり返し読んで、登場する英雄の痛快な言動に「会いたい」という気持ちが強かった気がする。

ではなぜ物語を観る・読む・すると「日常での気持ちの安定」に繋がるのか?俵さんの考えを覚書として記しておくならば、「現実逃避というのとは、ちょっと違う」とあり、続けて「確かにある意味、逃げ込む場所なのだが、帰ってきた時に瞳が潤っていれば、この世も少しは輝いて見えるはず。」とされている。元来が虚構である「絵本」とか「物語(映像のドラマ・映画)」の世界に身を置くことで、自分の直面する現実が相対化される。喜怒哀楽も達成も苦難も、自分だけが味わっている訳ではないと思える。これは古典を含めた「文学」が、生活を豊かにしてくれる大きな効用である。新聞の折込に「実録昭和平成ドキュメント」のような映像DVD広告があって、巣籠もりする母にでも買ってあげようかと思ったが、どうやら「ドキュメント映像」よりも「ドラマ・映画」を観た方が効用が大きそうだと思い直した次第である。

好きな物語を観る豊かさ
映画が僕たちに与えてくれるもの
ドラマ・映画・演劇・古典芸能などジャンルを問わず豊かでありたい。


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