高等学校の「国語」で学ぶこと

2017-05-26
大学入試へ向けた指導
言語による思考や感性の豊かさを求めるはずだが
入試改革のゆくへはいづこ


次期指導要領の大きな眼目である「主体性のある対話的な深いまなび」を考えた時、果たして高等学校の「国語」は、どう変わって行ったらよいのだろうか。「中等国語教育研究」なる講義で、学生とともに考えてみた。自己の高等学校で受けた「国語教育」を相対化すべく、その「疑問点」と「秀逸な点」を挙げてグループ討論をしてみる。「入試対策中心の授業」「文法事項の詰め込み」「意味のわからない音読」などに代表されるように、「疑問点」はたくさん提示されていく。もちろん「秀逸」に感じられた点がないわけではないが、やはり高校生の「国語」を学ぶ意欲というものは、実利的な「大学受験」で”かろうじて”支えているという印象を拭えない。中には、プリントを配布して、質問があったらするようにという、ほとんど自習ばかりという授業を体験した学生もいた。

だがしかし、本来は言語を言語で学ぶ自覚を持ち、高次元の「言語」を獲得していくことで、思考・想像を拡充し、内言を豊かにしていくといったことが、高等学校での3年間では求められるはずだ。「現代文」「古文」「漢文」」と細分化され専門的になる授業、そこで「言語」としての日本語が、どう成長してきたか、また如何なる思考を創造してきたか、そのような観点からの学びが醸成されるべきなのである。こうした意味では、まさに「学習者主体」の「活動的対話的」授業によって「深い」学びを創る方向性が求められよう。それならば、小中学校と高等学校との違いは何か?という観点にも無頓着ではいられない。むしろ小中学校で行われている活動型授業から多くを学び、校種を超えた交流も促進すべきであろう。そしてまた、「入試」もどこまで本気で変われるのか、それも高等学校の教育を改革する大きな要点である。

「社会生活」と「言語」「文学」
思考や批評を閉鎖しないこと
個々の意見や感性の豊かさをもっと考えてみなければなるまい。
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「正しさ」よりも「豊かさ」を大切に

2017-02-02
前後期30回講義の最終回
学生たちの群読発表会
そして贈る言葉として自然と出てきたこと

学部3年生の講義というのは実に重要であると思っている。本学教育学部では、3年生の9月に附属校での教育実習が3週間設定され、学生たちは初めて自ら子どもたちの前にひとりで教壇に立つ経験をする。その実習で「授業ができる」ようにするのが前期の「・・・教育研究」という講義科目であり、実習後に4年生前期に設定されている2週間の公立学校での応用実習に向けて、さらに視野を広げるのが後期の同科目の位置付けということになっている。学生たちの多くは、この2回の実習経験にて「教師志望」を固め、採用試験に向けての貴重な経験も積む。こうした意味でまさに机上の空論ではなく、実践的な講義内容が求められる。この日は、前後期30回の講義の最終回として、学生たち5名ずつの班によるリレー群読発表会を開催した。小学校定番教材である「くじらぐも」「ごんぎつね」「スイミー」「大造じいさんとガン」を全員による声のリレーで表現した。学生たちの多くはあらためて教材の奥行きに触れ、諸々と触発されるものがあったようである。

その後、全体への講評を語りながら、僕の口から自ずと出た言葉がある。「『正しさ』よりも『豊かさ』が大切である」ということであった。最後に僕自身へのメッセージを求めた授業レビューを読むと、多くの学生がこのことばに共感を示す内容を記していた。ある程度は考えていたことであるが、学生たちの群読を聴いてその表情や工夫や動作を観ていて、僕の感性はそのようなことばに自然と至ったようである。先日も地元劇団主宰者で演出家の永山智行さんと打ち合わせで話した際に、そんな趣旨の話題となった。「学校」では「正しさ」というものだけが尊ばれる。音読の読み方一つでも「正しく」が強調され、どこか日常と違った特異な「読み方」が強いられるごとき空気を醸成してしまう。それは文章を作成しても、読書感想文を書いても同じで、子どもたちの素顔はそこに反映されない。求められる「正しさ」に次第に子どもたちは嫌気がさし、「国語」そのものを忌避していく結果になる。だがしかし、少なくとも文学作品を読む上で必要なのは「正しさ」よりも「豊かさ」であろう。「正しさ」は相対的なものであり、時に邪悪で視野狭窄的になってもそれが「正しい」と強制されることを、僕たちは様々な歴史から知っている。そしてまた勘違いしないで欲しい、「豊かさ」とは「こころの豊かさ」のこと。県別の「幸福度」調査などが新聞紙上で記事になっていたが、宮崎県では宮崎県にしかない「豊かさ」を、子どもたちと共有できる教師を育てるべきではないかと思うのである。少なくとも僕の講義を受講した学生たちは、「豊かな」国語を次世代の子どもたちに伝えて欲しいと願いながら。

寄せられたメッセージは励みとなる
能動的活動型講義そのものへの感想も多く
4年間更新し続けて来た内容の現在形が「正しさよりも豊かさ」に表現されたのであろう。
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ことばを紡ぎ願い叶える

2017-01-12
「これからも人との結びを大切に
 私とわたしの今年の約束」(学生の作品)
初等教員を目指すためにも短歌を

地元紙・宮崎日日こども新聞にも文芸欄があって、小中学生が応募した詩歌が撰ばれて掲載されている。また実習や芸術家派遣活動で各学校を訪れると、大抵は廊下に短歌や俳句の作品が短冊に書かれて掲示されている。となれば小中学校の教員となれば必ず、子どもたちに短歌を詠ませる機会があるということだ。中学校であればまだ専科制であるから「国語」の教員が主導することが多いであろう。だが小学校は全教科担当が原則であるゆえ、専門性がなくとも「短歌」を扱う側に立つことになる。こんなことを考えた時に、特に初等国語教育研究という担当科目の責務が誠に重大であることを自覚するのである。

この日は当該科目の新年初日。3年生の配当科目であるゆえ、多くの受講者が半年後には教員採用試験に挑む。同時に前述したことを強く意識して、60名の受講者全員で新年当座歌会を実施した。題詠は「結」、今までの大学での学びを積み重ねて今年は「結実」させ「結果」を出す年であるという願いを込めた。ゼミとは違うのでその歌の掲載については割愛させてもらうが、冒頭に記したのは今年の抱負を歌にした学生の一首である。多くの歌が学生の素顔を題材としているため、創作後の交流においても自己開示が促進される。受け身な講義では決して見えない学生たちの素顔が見えて、学生相互も担当者としての僕も親密な交流ができたと自負している。歌を通し心を交わし合うことが、新時代のコミュニケーションを救うという願いを込めて。

「結」の字源は
「吉いこと」を重ね「糸」でむすんで出ないようにすること
ことばを紡ぐことで叶う合格祈願もある。
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プロとして表現者として

2017-01-06
「プロ」とは特別のようだが
「教師」もすべてその意識が必要
表現者として飽くなき追究を・・・

桑田佳祐さんの年越しライブで今年を迎えたことは既に何度も小欄に記したが、その鮮烈な印象は未だ脳裏に深く刻まれている。大仰であるが「2017年、僕は生まれ変わった」といっても過言ではない。ステージが間近に見渡せる「バック」に座ったことも相俟って、何より桑田さんのプロとして表現者としての飽くなき追究に魅了されたからである。浮き沈みの激しい芸能界で音楽界で、彼が輝き続けているのは、真の「プロ」意識があり真に歌を多くの人々に伝えようとする意志に、確固たる姿勢があるからに他ならない。曲にことばを載せて多くの人々の感性を揺さぶるという表現者としての矜持を、少しでも見習いたいと志を新たにしたのが「生まれ変わった」所以である。

考えてみれば当然ながら、僕らの仕事も教育現場の「教師」もすべてが「プロ」である。眼前の一人ひとりの子どもたち・学生たちの人生において、大きな責任を持つ。前述したように桑田さんの曲で僕が志を新たにするように、「教師」も子どもたちの「志」を存分に揺さぶり可能性を引き出す役割がある。〈教室〉で投げ掛ける声によって、また子どもたちの日記に記すコメントの文字によって、何かを起動させるが如く魅了しなければならない。多数に投げ掛けることばであっても、個々の経験が起ち上がり自らの「生きる」を考えることに導く表現が求められる。「教師」になるということは、眼前に向き合う他者の人生と対話的に関係するということでもある。それが表現者としての意識ならば、「短歌」を創ることもまた同質の「意志」に支えられているといってよい。

君は「プロ」を目指している
表現者として妥協なくことばに繊細たれ
新年の初講義で、こんなことを冒頭で学生たちに伝えようと思う。
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講義は外に向けて

2016-12-17
講義で学生が創作した群読
動画撮影をして附属校の生徒たちへ
活動を活用し目的意識を喚起する

講義とは、知識の切り売り場ではない。昨日の小欄で図書館の新たな方向性について述べたが、それと連動し大学の講義も変わらなければならないだろう。課題提示・情報入手をしたら学生は、熟考し対話して実践的に活用するという流れが求められる。例えば、文学史の知識を学んだとすれば、その背景や価値を評価し教材研究に応用し授業創りに活用できるような”仕込み方”が、指導者側にも求められるということである。特に肝要なのは、講義を講義の中で完結させないということだと最近は殊に意識している。学生たちの課題の一つ一つは、教育実習で活用でき応用できるものでなければなるまい。今の自分の能力では対処できない課題について、情報入手・熟考・対話を通して解決策を立てて、それを実践の場で「できる」ようにするのが、教育学部の講義では求められるべき方向性ではないか。

「教室コミュニケーション」を主軸にし、教師の「音読力」を始めとして「伝える力」を養成することを目的とする「国語科授業研究Ⅱ」という講義で、中学校定番教材(すべての出版社の教科書に掲載され長い教材史があるもの)『走れメロス』の群読を、4班に分けて3週間にわたり創作してきた。全編を4幕に分割し小説の筋が理解できれば各班の解釈を援用し、独自な編集で脚本化してもよいということにしてある。この日は、最終的な作品の撮影を講義内で実施。その撮影動画は、附属中学校の学習教材として活用するということを学生たちには宣言している。中学校2年生で例外なく全員が学習した筈の教材であるが、果たしてその読みは深いものであったのか?あらためて「教師」を目指す立場となり教材と出会い直すことが大変重要であると考えている。そして大学生なりの「読み」をもとに制作された群読を、附属中学校の生徒たちが教材として視聴する。この「読み」の伝播ともいうべき縦の関係から、「伝える」とは何かという問題意識も相互に高まる。学生たちはお互いの撮影用発表を見合い、新たな『走れメロス』像に出会い直したようであった。

テクストの「語り」構造も自ずと意識する
大学の講義からまずは開放的にすべき
動かなければ僕の講義単位は取得できないことになっている。
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『百人一首』の「音読」を考える

2016-12-08
「嵐ふく三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」(能因法師)
『百人一首』を声に出して味わう学習
小学校の「古典学習」指導者に求められること

現行の学習指導要領から、小学校において「伝統的な言語文化」分野の学習が必ず行われるようになった。三、四年生の教科書には「短歌(和歌)・俳句」が収載されていて、「音読」中心の学習目標が掲げられている。実際の現場では授業時間の確保も厳しい状況で、1時間程度の中でこうした教材の授業を実践しなければならないのが実情のようだ。時間数の少なさと指導者の「短歌・和歌」への造詣が浅いことによって、ただ単に「音読」をして「お茶を濁す」といった授業となっている状況も垣間見える。秀歌選としては実によくできている『百人一首』に対して、学習者である子どもたちがせめて「音読」して「親しむ」「楽しむ」という目的を叶える学習を創りたいものである。

3年生「初等国語教育研究」の講義で、前述のような内容を扱う回となった。小中高校教員は今まで以上に他校種の学習内容に対して意識を高めるべきであり、繰り返し教材となる古典に対しての段階的な扱い方を心得ておくべきであろう。そんな趣旨の講義の後、実際に学生たちに班内で『百人一首』を音読しながら、好きな一首をを選び理由を話し合う活動。その後、班内の代表者がその「一首」を教材として「音読」を中心とする模擬授業を展開する。「好きな歌を選ぶ」という行為自体が、「古典和歌」に親しむ第一歩である。そして「好きな歌」を如何に「音読」するかという点も重要だ。「読み方」にはその素材への「思い」が端的に表現されるといってよい。どんな教科を専攻していようと、せめて『百人一首』に「好きな歌」があるという教師を育てたいと思うゆえである。

歌を「音読」する効用を具体化する
「やまとことば」の流麗な響きを味わうこと
多くの方が、ぜひ手軽な『百人一首』を「音読」して楽しんで欲しい
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「ボケ岡」くんへの優しい眼差し

2016-12-01
「ボケ岡と呼ばるる少年壁に向きボール投げをりほとんど捕れず」
(『新百人一首』文藝春秋刊2013 島田修三の短歌から)
詩歌を読むために・詩歌を教えるために

1年生教職基礎専門科目「国語」のオムニバス担当の2回目。(全体120名を半分に分けて、国語学専門の先生と交互に3回ずつの講義を担当する)「国語」という教科では「思考力・想像力」を養うという指導要領上の目標を確認して、それを詩歌教材の学習としてどのように実現するか。そしてまた詩歌はどのように読んだらよいか、という内容を展開している。今回は特に詩歌を文字情報ではなく、朗読による音声で伝えてそれを受講者が個人で思考し、班内で話し合い一つの見解に摺り合わせて全体に発表し、多様な他者の「読み方」を知るという授業方法を採っている。最初に教材としてのは、金子みすゞのよく知られた「大漁」という詩。「あさやけこやけだ 大漁だ おおばいわしの 大漁だ はまは祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう」というものである。「大漁」に歓喜する人間に反して、その裏側では「いわし」が弱者の立場として「とむらい」をすると捉える、命あるものへの愛情を込めた詩である。みすゞの詩には、このような「弱者」への思い遣りを詠み込んだものが多い。まずは小学校教材となり得るこの詩を読んで、学生たちに様々な思考を促した。

学生たちが思考する段階で、何首かの短歌をさらに提示する。牧水の有名な「白鳥は哀しからずや・・・」の歌、啄木の「人がみな/同じ方角に向いて行く。/それを横より見ている心」そして冒頭に掲げた島田の歌を提示する。昨今は「いじめ」が学校での大きな問題となっている。だが「いじめ」というのは、今に始まったことでもあるまい。その質や程度が陰湿になってしまい、限度を分からず根本的な人間関係性を喪失してしまっているがために、その対象たる子どもが極限まで追い込まれてしまうというのが昨今の実情であろう。この島田の歌を読むと、昔は「いじめ」られてしまいそうな子どもにも精一杯の愛情が周囲にあったことがよく分かる。「ボケ岡」などという呼称そのものが最近では影を潜めて、管理された学校空間では差別などが表面化しない。子ども社会を管理し精神の発露を抑制すれば、必ず裏では発散する事態が生ずる。「いじめ」問題が発生すると報道では必ず「いじめの事実はなかった」などという学校側の見解が発表される。まさに陰湿に地下で「事実」は展開していることが予想される。小欄の読者の方々も学校時代を思い出して欲しい、きっと「ボケ岡」くんに相当する人物の顔を思い浮かべることができるだろう。彼は学級で力を持った同級生の命令に服従しつつも、その擁護という恩恵を受けて存在感を持っていたような気がする。島田の短歌は、そんな弱者への愛情が素朴に言語化されているといえよう。

教師になれば直面する問題
「詩歌」から人間関係を考えてみる
詩歌の存在価値を学生一人ひとりに伝えたいゆえに。
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群読表現を現場に運ぶ

2016-11-26
国語科授業研究の一環
詩の群読創り
発表する学生たちを近隣の小学校へ

担当科目「国語科授業研究II」は、3年生9月に附属校での実習を終えた「国語」専攻の学生を中心とした受講者による講義である。(毎年、数名の他専攻受講者がいる)4年次に控える公立校実習に向けて自らの「授業」をより現場に即したものとして、児童生徒との対応力や授業づくりの精密さを身につけるべきものと僕はシラバスで位置付けている。学習指導案を作成しそれに沿った「授業をする」ことは、既に附属校という現場で経験しているゆえ、授業内での教師の「音読する力」や児童生徒との「コミュニケーション力」を養うということである。大学の講義となるとどうしても机上の理論に終始しがちであるが、前述した目的を達成するためにはやはり現場で直接に児童生徒に触れ合う機会が必要である。そこで昨年度から交流のある大学近隣の小学校の「現場」を、なるべく学生たちに「体験」させるようにしている。

以前に恩師である歌人の佐佐木幸綱先生が、「現代短歌は運動不足である」といった趣旨の発言をされたと聞いた。短歌創作において「机上」で為されることが多く、創作者の生の脈動が感じられないとった批評ということになろう。考えるに「活動型授業」という観点からすると、小中高大学を比較すると、「大学教員」が一番「運動不足」な授業をしていることにはなるまいか。次第に状況は変わりつつあるが、固定された階段教室の机椅子に学生を固定し、ただただ持論を淡々と一方的に喋るだけという形式から、なかなか脱することが難しい。理工系で実験中心ならば状況は違うのだろうが、このあたりにも人文系が誤解されてしまう要因があるのではないかと思わざるを得ない。そこで「運動不足」解消のためにも、僕は授業内で表現活動を重視し、さらには学生を「本気」にさせるために、現場に引っ張り出して子どもたちと出逢わせる機会を設けている。この日も学生たちの創った「読み語り」や「群読」を、小学生の前で表現してもらった。その「体験」から、学生たちは「教師」という仕事とその力量を直接に見つめることになる。

何事も「運動不足」では成長しない
机上で頭だけで考えず「動きながら考える」こと
「教師」という仕事の何たるかを知るためにも。
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和の音階はいづこへ

2016-11-05
和歌披講の朗誦
雅楽の調べなど和の音を視聴する
我々の持つ音の感受性

「国語科授業研究」という担当科目で、「韻文教材」を扱う2回シリーズの回となった。「韻文」と一括りにしたが、「和歌・短歌」「俳諧・俳句」から「近現代詩」に至るまで、その内容は幅広い。一般論として、こうした「韻文」の「授業」において現場の先生方は苦手意識を持っており、時間数をあまりかけず、内容的に乏しい「授業」をやむをえなく実践しているという実情がある。「韻文」はその「韻律性」を味わってっこそ、学んだことになるのは自明である。だが、黙読中心の現代では、なかなか「韻律を味わう」ことそのものが何のことだかわからない向きが多い。「和歌」に関して言えば、伝統的な「披講」の形式があるものの、学校の授業ではあっさりと三十一文字を読み流してしまう「音読」がほとんどであろう。それが表現として熟したものになるかは、甚だ疑問である。

この日の講義では、披講の講師の読み上げや朗誦をCDにて聞いてもらった。また知人が参加した京都北野天満宮で開催された「曲水の宴」の際に奏でられた雅楽をスマホ音源から流した。「和歌」を句ごとに切ってゆっくりとした調子で読み上げる音がスピーカーから流れると、学生たちは一瞬、異様な受け止め方をした。音量が大き過ぎたせいもあるが、早く窓を閉めようといった動作に入ったのだ。(まだ講義開始前の休み時間であったゆえ)この態度を鑑みても、和の音階に対する違和感があるのだと、あらためて考えさせられた。「お経のようです」と発言した学生もいたが、要は「和の音階」を聞く機会が、神仏関係の諸行事に限定されているということであろう。「和歌」などは「人に心情を伝える具」であることから、声に出して読むことが通例であったことも伝える。例えば『伊勢物語』の「筒井筒」章段に見える「風吹けば沖つ白波たつた山夜半には君がひとり越ゆらむ」のように、「男の浮気」を止める効力を持つ歌があった。それも声に出して自宅の庭に隠れる「浮気夫」に聞こえたからこそ効果があった、という逸話を伝えた。さて学生たちは、自分たちがいかに西洋音階にしか馴染まない耳となっているかという、自覚が芽生えたであろうか。

あらためて「伝統的言語文化」とは何だろう?
古典を考える際に避けて通れない「明治の西洋化」
五七調・七五調の問題をはじめとして、僕の成すべき仕事を再認識する。
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出逢い・学び・変わり・明日へ

2016-09-03
出逢いは相互の学びであり
学べば己の中に変革がもたらされる
〈教室〉は希望の明日への出発地点

集中講義最終日。3コマ×5日間=15時間の講義が完結した。今夏は本務校の図書館司書講習の4日間とともに、短期集中講義を2種類手掛けた。約4ヶ月間にわたる15回講義とも違い、短期ゆえの感慨を持つことも多い。受講者と出逢い、次第に馴れ親しみ、思考や言動に変化が見え始め、そして別れるというサイクルが、日々顕著な形で体感できる。漢詩の絶句構成のごとく、起承転結が明確な形で起ち顕われるわけである。いやむしろ、そのような授業構成を仕掛けるという方が適切かもしれない。いわば絶句などの短詩系文学を読んんだような、瞬くような感慨を受講者が抱けるように、全体の授業を組んでいる。特に「教職」に関係した授業であるならば、その「授業」そのものが「教育方法」や「教育効果」を示すものでなければならないというのが、僕の持論でもある。「授業」というボックスに入ってきた受講者が、出て行く時には何らかの変革を伴っていなければならないということでもある。

集中講義最終日。5日間のまとめとして、SNSなど我々を取り巻くメディア環境は何をもたらしているのかという点から対話を始めた。SNS上に振り撒く言語と日常生活に対して、国語教育は学習者にとって何をもたらしているのか?公の顔と私の顔と、SNSでも教室でも二面以上の多重な仮面を意識しながら、中高大学を通して自己形成をしている姿が見える。己の真意とは何か?自分自身でもそこを自問自答しながら、過去とは大きく変化した社会性の中で学生たちは生きている。それだけに「メディア」の問題を考えるにあたり、むしろ「人間性」は不可欠であると僕は強く主張する。僕自身の体験としての幼稚園における「心を育てる教育」は、文学と教育を融合して研究を進める僕自身の原点でもある。物語・小説を楽しむ授業であること、決して指導者はその解釈を押し付けたり、威圧的な態度で学びを醸成してはならない。喜怒哀楽様々な感情の襞を存分にその虚構世界から追体験するということ。そこで味わえる葛藤は、我々の人生そのものなのであるから。物語・小説(または短詩)と違ってSNSでは、半ば「現実」だと思い込みながら、その架空性との境目を見失いがちである。この集中講義をWeb配信で行わない理由も、まさにそれを回避するためにある。僕という担当者が現前性をもって、学生たちへと人間性を披瀝し、彼らの志を触発し、その奥に眠る何物かを目覚めさせる必要があるからだ。最終日の学生たちの言動に、僕は十分な手応えを感じ取ることができたと自負できる。

変化したと思われる自分
それをどのようにするかは今後の生き方次第である
僕自身の中にもまた、新たなる野望が起動した5日間であった。
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