イブイブ補講ー若い人の未来へのクリスマスと短歌
2022-12-24
若い世代の好きなクリスマスソングこの日本で未来へどんなクリスマスにしたいか?
音楽をかけながら「生きづらさを超える短歌」について
今年もいよいよクリスマスイブの「イブ」となった。本務校での年内講義は、前日に全て終わらせていた。この日は非常勤先の補講(創立記念日式典の分)を設定しており、午後に車で10分ほどのキャンパスへ向かった。既に10回ほどの講義日を経て、出勤印・印刷・教室の位置や機器の使い方にも十分に慣れた。1年生配当の「文学」では、自著である『日本の恋歌とクリスマスー短歌とJ-pop』(新典社2021)をテキストに、このクリスマスをめがけて時節に適した内容について学生たちと考えてきた。80年代クリスマスJ-popの数々の曲を紹介し、明治以降のクリスマス受容史を短歌で綴ってきた。これまで「当然」の「年中行事」だと思っていた「クリスマス」を「なぜ?日本にこのように定着してきたか?」を考えるだけでも、アカデミックな「文化論」に触れる機会として学生たちに貴重だと考えている。山下達郎「クリスマスイブ」とか桑田佳祐「白い恋人達」は、現代の学生たちにも広く知られ、クリスマスJ-popの王道なのだとあらためて僕自身が確認できる機会でもあった。
さて補講では、冒頭に1987年「メリークリスマスショー」での出演者全員による「Kissi’n Christmas(クリスマスだからじゃない)」を映像で視聴してもらった。若き日の明石家さんま・松任谷由実・小泉今日子・Char・吉川晃司・原由子らが出演していて、最近も音楽のみならず俳優(吉川の朝ドラ出演)などの方面でも活躍しているこれらのミュージシャンの姿は、学生たちにとってどのように映るのだろう?そんな触発から、むしろ学生世代はどんなクリスマスソングを楽しんでいるのか?と「好きな曲」を提供してもらった。昨今はYouTubeを活用すると様々な「学び」さえできると言われているが、学生のリクエストを配信で投影していく方式は新たな可能性を感じた。「ナヨン・Santa tell me」「Twice・メリーハッピー」「Boa・メリクリ」「稲垣潤一・クリスマスキャロルの頃には」「Back number・クリスマスソング(現在の朝ドラの主題歌を歌うミュージシャン)」など、学生たちの挙げる曲は韓国のミュージシャンを含め国境なき東アジアの世界観が感じられた。その後は「世界では今どんなクリスマスを迎える人々がいるのか?」という投げかけに思いを馳せるようにして、クリスマスこそ「平和」を希求するべきことをみんなで再確認した。そして「平和」とは一人ひとりの心が健全であることで、苦しい時こそ「短歌」で「心の丈」を「ことば」にしてみることで救われることを伝えた。「生きづらさを超えていく短歌」若き心を支えていくのは短歌、この「文学」の講義で伝えることは「知識」のみにあらず、「生きる」ことにこそ「短歌」は活かされる実学であるのだ。「日本の未来のためのクリスマス」を学生たちに想像させ、さらに「今年のクリスマスには何を祈るか?」を考えてもらった。最後にわずかなクリスマスプレゼントにチョコを提供し、来年1月の講義での再会へ笑顔で学生たちは教室から去っていった。大学1年という人生の1ページに、「生きる今」を考えるクリスマスを過ごしてほしい。
YouTubeカラオケで熱唱の学生さんも
文学は短歌は音楽は人をつなぐ
桑田佳祐さんの素晴らしい音楽とともに人生に「短歌」を添えよう。
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思い込みを排して教材に向き合う
2022-11-18
「清少納言ってこんな人」「知識ありき」の思い込み教材読み
いや教材テクストあっての「清少納言と呼ばれる人物」
世情では「ありき」という構図で話が進むことがあまりにも多く、いつしかそれが「普通」かのように見えている危うさに包まれている。「結果は最初からありき」であり、途中で審議したり検討していることは「茶番劇」のような見せかけの過程である。どんなに過程で疑問が呈されても、当初から決められた「結果ありき」というわけである。ほとんど「民主主義ごっこ」のような様相で「隠れた独裁」が進行しているとも言えるのかもしれない。一国の将来を左右する重要な懸案が、一人の指導者の「思い込み」で次々と決定されていく。世界情勢を見るに、このような「強権独裁」の図式が平然とまかり通るようになってしまっている。「思い込み」はエスカレートし、次第に力で我欲を満たそうとするようになる。欧州発で世界がキナ臭くなってしまった今年を省みて、やはり起因するは「独裁者の思い込み」なのではないかと痛感する日々だ。
この「思い込み」の構図は恐ろしいことに、中学校・高等学校の学習で刷り込まれてしまうのではないかと危うさを感じる事例がある。もちろんこの構図に当てはまらない先生も、少なくないことをあらかじめお断りしておこう。学部2年生後期で、毎年『枕草子』を教材に演習を担当している。多くの学生は「清少納言は自慢めいたことばかり主張する嫌味な女だ」という「ありき」の感情を抱いている者が多いのに驚かされる。たぶん高等学校で『紫式部日記』の「清少納言評」を根拠に、そのような作者像を知識として刷り込むことが為されているように思う。するとこうした学生は、「嫌味な清少納言が記した作品」だということを前提として教材に向き合い発表をする。つまり「清少納言ってこんな人ありき」で、この古典作品と作者を語るのである。したがって僕は、「作品のテクスト本文そのものや作者のあり方」そのものを疑って発表をするように促すのが大抵である。『枕草子』などの古典作品に限らないが、やはり中学校・高等学校では「作者はこういう人だから作品がこうなった」という「思い込み作家論」の構図で扱われることも少なくないことを知る。否、このテクストそのものの本文を文献的に批判し、そこから人物を読み取ってこそ適切な理解になるのだ。中等教育で肝要なのは「批評性」を身につけること。世界から「思い込み独裁」がなくなるように、「国語」の学習のあり方から僕たちは注意深く向き合う必要があるようだ。
なぜ「自慢めいた話題」を書き付けているのか?
その原因を同時代的に探究する視点
敢えて「創作主体」という用語で「思い込み」を排することを教えている。
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よきものは引き継がれるー「昭和の活力」に光を
2022-10-27
「古典」が世に遺されているように今の学生が「山口百恵」が好きだと言う
あの活力と自由と均衡の時代を未来へ引き継ぐために
『図書新聞』なる業界紙に昨年暮れに出版した著書の広告が出たと、出版社から郵送されてきた。今年も「クリスマス」2ヶ月前となり、「季節もの」としてさらなる販促に力を入れてくれたようで嬉しい報せであった。自らの著書がどれほどの売れ行きか?というのは目に見えず測り難く、通販サイトのレビューの星の数を見る機会も少なくない。また東京へ行くと大手書店に入り、自著が在庫にあるかなど確かめる。反響の多くは講義でテキストにしている学生たちで、前期の本務大学の基礎教育科目110名程度には自著に沿った内容を展開した。また後期は非常勤先の大学での基礎科目「文学」20名程度において、テキストとして使用している。こちらは前提となる若山牧水や恋の歌について10月中に3回講じてのち、来月より1章から内容を講義化していく。するとちょうど今年のクリスマス前に、短歌もJ-popもクリスマスに関する内容を実施できて、学生たちはその味わいをクリスマスに持ち込むことができるという計画だ。また後期公開講座「牧水をよむ」の第3回目が12月24日に当たり、ここでは「出版1周年」のスペシャルクリスマス講義を、ゲスト講師に伊藤一彦先生をお迎えして実施する予定である。
自著には「1980年代のクリスマス」を取り上げる章がある。当時のJ-popを紐解くうちに、自らの若き思い出や80年代の前提となった70年代、つまり「昭和」の素晴らしき文化的世相を語ることになった。家族による「ホームクリスマス」が盛んだった60年代から70年代、まさに「テレビ」の時代であって、凄まじい視聴率の「8時だよっ!全員集合」のことなどにも触れている。ここのところ小欄にも追悼文を記したが、仲本工事さんそしてアントニオ猪木さんなど、「昭和」を活気づけてきた人々が次々と世を去っている。そんな悲しい機になおのこと、「昭和」の素晴らしきものを次の世代に引き継ぐ役割は僕の世代の責任ではないかと考えている。昨日の非常勤先の講義で「サザンのことを知っているか?」とか「君たちの世代で好きなミュージシャンは誰なのか?」などの問いを発したところ、ある学生が「山口百恵」と答えて感心した。以前にもゼミ生らとカラオケに行くと、「百恵ナンバー」を上手く唄う学生がいた。まさに昭和を生きた親たちが子どもらに伝承しているということらしい。また最近の「昭和」を特集した歌番組なども多く、その影響を受けていると云う。非常勤先から本務校に戻る際には、実に「秋桜」が綺麗に咲き誇っていた。「昭和は遠くなりにけり」ゆえに、「古典」の伝承のようにその文化を先の世代に手渡したい。
政治家なども大物が多かった
均衡がもたらす「平和」と「成長」の時代
まさに現代短歌史として1300年の歴史の上で「昭和」を考える。
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冒険のごとく遊ぶー「探究」こそがこの国を救う
2022-10-14
穴の一番奥底(九)まで探り出すこと予定調和な目的・意義・回答を目指さないこと
結果が見えていたら「遊び」ではない
新しく施行された学習指導要領では、「探究」という学びの方向性が示されている。受け身で「知識・技能」を身につけるのではなく、様々な活動を通して自らが学びに向かう力をもって進めていくということである。所謂「詰め込み教育」や学習に意欲的に向かわない傾向が目立った、我が国の教育の反省から求められた姿勢であろう。「探究」を学校現場で進めるためには、何より指導する教師が「探究的思考」を持たねばなるまい。という立場から教員養成系である所属学部の講義では、学生たちがこうした思考で学びを深めるような工夫をしている。昨日の講義(国文学史III)でも、『新古今和歌集』(実際には僕がある程度抄出したプリント)から任意の一首を選び「気になったこと(課題意識)」について「探究」してコメントするという内容であった。学生たちは予想以上に自ら調べ、当該歌の「本歌」についてとか勅撰集的な季節観をコメントした。講義時間の多くは学生からのコメントで占められたが、相互の「探究的発言」から『新古今和歌集』の歌風を徐々に奥底まで探り当てていくようで学生の姿勢に好感が持てた。「探究」の「究」の文字を分解すると、一桁最大数の「九」という「奥底」まで「穴」の中を探るという語源説がある。しかも「自ら探る」ことが肝要だ。
前述のような講義展開になったので、僕が事前に用意しておいた講義課題から変更し、学生たちの講義中のコメントを文章化するという課題に変更した。講義がまったく「予定調和」ではなくなったのだ。課題というと学生の誰しもが講義中に教員が話した内容に「忖度」して、判を押したように似たような内容を書いてくる課題レポートほどつまらないものはない。ちょうどこの日の朝に、Twitter上にあった茂木健一郎氏の発言動画を観た。「脳にとっての遊びの大切さ」を説いており、「人生は、結局、どれだけ真剣に遊び続けられるかだと思うんだよね。」と呟いている。「結果が見えているのは遊びじゃない」として「忖度」こそが「一番遊びから遠い」のだと云う。確かに「学校の学習」には「目的・意義・教訓」ばかりが予定調和的に仕込まれている。その結果「教員の答えに忖度する」ことばかりを、この国の教育では子どもたちに学ばせている。強権政治家と官僚の「忖度」が社会的な問題になったのも、ある意味で必然であるのだろう。「どうなるかわからない」(偶有性)のある現象・結果に向けて夢中に(茂木氏の云う「フロー」「ゾーン」)自らが没入するように探り続ける。この国を根本から建て直すには、真に教育現場で「探究」が叶うことこそが第一歩ではないかなどと、自らの使命を覚えつつ僕自身の「探究」を大切に生きたいと思う。
演習科目では自ら調べ、自ら資料を作り、
授業として成り立たせる
子どもの頃に図鑑とか草野球に夢中だった心を思い出したい。
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授業で元気!ー学生たちが活性化する方法
2022-10-06
1日3コマ合間と終了後に会議
学生たちに向き合い語りかけ考えてもらう楽しさ!
今週は後期授業が始まり、気持ちも新たに進む1週間である。特に今期から非常勤講師として他大学へも出向することになり、新たな学生たちと出逢う楽しみもある。1日3コマ、合間の昼休みにも会議、さらには午後の授業後も教授会。ほとんど朝から午後4時過ぎまでフル回転な1日となった。夏季休暇中に担当した「学校図書館司書教諭講習」は、9時から16時過ぎまでが4日間続いた。以前に母校大学の非常勤を担当したことがあるが、その際は夏季集中講義で名目的には朝9時から18時まで、1日5コマを3日間で15コマ消化したことがある。それからすると1日3コマは通常のことであり、負担を覚えることもない。むしろあらためて思うのだが、授業はすればするほど元気になる自分を発見した。自分の授業で何かを発見してくれる学生たちの瞳、その輝きを見ているだけでこの職業に就いて本当によかったと思うのである。
最近心掛けているのは、授業の構成である。90分を5分割、最初の「出逢い・導入」10分間、人数によるが出欠確認で名前を呼ぶことで、受講者全員と目線を交わす。最初なら自己紹介も含み、この講義にどんな楽しみがあるか?発見の可能性があるか?を語る。状況に応じて時事的な内容を語りともに社会を生きている共感性に訴える。この10分間で学生たちの反応やどんな話題がツボかを確かめていく。残りの80分を4セットに分割すると1セット20分、そのうち僕が話をするのは10分以内に抑える。『ちびまる子ちゃん』の1話分、『サザエさん』では短か過ぎるといつも喩えている。残りの時間は「学生の個人思考」の時間と、思考した内容を周囲と意見交流する時間に当てる。20分で次のセットに入るので講義が単調になることもなく、ギアチェンジがあるので学生たちは眠くならない。昼休み後の午後1番の講義などは、特にこの方式が有効である。誤って15分以上話し続けたものなら、食後の胃袋を持つ学生は確実に重い瞼を下げることになる。以上、最近の授業構成の覚書である。
やればやるほど元気が出た授業
夜はご褒美に近所の親友と焼肉店へ
1日の充実した働きが嬉しい。
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生きた図書館つながる図書館ー図書空間から創発空間へ
2022-08-23
附属図書館の学習支援館内案内を一巡りして
「この空間で何を創発しますか?」
学校図書館司書教諭講習第3日目。「図書空間から創発空間へ」と題し、この日は会場となっている本学附属図書館の空間をどう活かすか?をテーマに進めた。小中高の図書室もそうだが、「教室」ではない特別な空間である。ある意味で「教室」は制約があり強制的なことを「やらされる」場であるとすれば、図書館(図書室)はその強制なき解放された自らが興味に向かう場であろう。小学校の時の記憶では図書室の開架書棚の片隅を「自分専用のスペース」と定めて、そのあたりに配架されている書籍をお気に入りにしていたことがある。たぶん当時の僕は、自分の興味だけで「選べる」ことに大きな喜びを覚えていたのだろう。「個別最適化」が標榜される現在の教育で、「図書室で自ら選ぶ」という行為はより重要度を増したといえる。さらにいえば単なる「図書空間」ではなく、多様な資料と人が繋がり新たな秩序を生み出す「創発空間」を目指すべきである。本学附属図書館をこのような趣旨で改修してきたことも具体的に紹介する機会ともなった。
午後は例によって活動と発表。「あなたならこの図書館で何を企画するか?」を様々に発案してもらった。(1)「相談窓口」として、小中高の「探究」課題との交流的なやり取りをする。(2)宮崎の「虫」などをテーマに「地域交流民泊ツアー」を企画し、県内地域の交流を図る基盤になる。(3)小学生の「遠足」の場として、施設のみならず大学生らをバディとして短歌作りをする。(4)マタニティヨガなどから始め「ライフステージごとの学び」を備える空間にする。(5)国際連携などの部門を活用し「異文化交流」の言語活動を学べる場とする。(6)大学附属図書館をベースに「オンライン博覧会」を開催する。など6つのユニークな発案が発表された。いずれも現実に実行したい内容であり、大学附属図書館に何が求められているかをこちらが学ぶ機会にもなった。「世界を始め地域から始めよう」という大学のスローガンは、こうして外部の人たちにも門戸を開く図書館でこそ具体的に叶えられるものと知ることができた。日々の講習には「イノベーション(新機軸・革新)」の要素を入れている。学校は本来は「保守的」な場であるが、現在のこの国が直面する閉塞感を打ち破るには「教育現場」の発想転換が必須であると確信する。
全国学力テストの結果から考えても
「学びに向かう力」こそが大切だろう
生き生き「創発」する空間をさらに多様に自由につなげてゆきたい。
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本を持った手つなぎ鬼ー素材開発から発案する単元学習
2022-08-20
「素材にしたら学びが深まる本」2分のブックトークの後、受講者間で「手つなぎ鬼」
つながった仲間と作る単元学習案
学校図書館司書教諭講習2日目。事前に「(学習)素材にしたら学びが深まる本」を選定し、持参いただくよう課題を出しておいた。最初に「単元学習」のあり方について確認、「言語生活(学びに向かう力・人間性等)」を起点に「言語活動(思考力・判断力・表現力)」を構成し、この「巻物」の円周に包まれるような核心に「言語(知識・技能)」があるという図式である。「言語」の定義は、「音声・文字・語彙・文法」の四要素。従来からこの要素が基本に据えられることから、その習得ばかりが「学習」だという勘違いが未だに横行している。例えば、高等学校「古典」学習では、「歴史的仮名遣い」とか「古文単語・文法」ばかりが学習機会に反復され、素材である文章を学習者が当事者意識を持って「意味生成」することはない。これは僕らの頃からの悪弊であるが、学部学生に聞くと今もこの勘違いした授業構成が行われてしまっているようだ。「教育は保守的なものだ」と学部時代に「教育学」の先生の弁を思い出すが、明らかな悪習であるにも関わらず、そこから容易に改革がままならない怖さを実感する。
「学校図書館司書教諭」がいかに校内で「学習指導」を多様にコーディネートできるか?そのような演習を行う意図もあり、受講者が持参した推薦本についての「ブックトーク」を1人2分。昼休みを挟み、午後の一番でそのトーク内容から受講者同士が「手つなぎ鬼」のようにつながっていく。前述した「単元構成」をもとに当事者意識を持った「言語生活」から発想し、教科を超えた多様な学びを発案していく演習活動に入り、最終時間でその発表という流れ。担当者が懸念することもなく、受講者は自ら「えらぶ」ことで8つのグループを構成した。どのような学びの機会でも「学習者がえらぶ」ことが、個別最適化の中で肝要である。発表においては「総合的な学習」と受け取れるものが多く、「平和」や「教室の住みやすさ」などを深く考え合う内容の単元構成が提起された。受講者が発案の対話をする際に学んだことだが、「特別支援」の視点を包摂することで学びは大きく柔軟に寛容性を増す。「教室はまちがうところだ」といった絵本は、明らかに「みんなちがって みんないい」を考えさせられる。「平和」は世界で作るとともに、「あなたのいるいまここ」で作り出すものなのだ。受講者への声かけとして、本当に学校でやりたくなる単元構成を発案してくださいと言った。何事も机上の空論を展開することが、学習を実効性のないものに貶めてきた。この日の豊かな「単元」の中から、実行できるものをオンラインなどを駆使して県内で実行してみたいと意欲が湧いた講習であった。
「教科書」とか「教室」を超えた単元学習
明日の宮崎を世界を考える学習構成
僕自身がまた現場の先生方とのつながりを強く持つ機会になっている。
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学校図書館司書とメディア創作型学習
2022-08-19
学校図書館司書講習の4日間が始まる第1日目「第三世代型学習観とは」
「選べるメディア創作型学習」を目指す講義と演習
今年は、例年この時季に設定される「教員免許状更新講習」が廃止となって初めての夏。だが、数年に1度は担当が巡る「学校図書館司書講習」における「学習指導と学校図書館」4日間が始まった。時代とともに「学校図書館」の役割も変わりつつある。公共図書館が既にそうであるが、「資料を揃えて貸し出す」機能のみでは成り立たないと考えるべきだろう。同時に「新しい時代の学習観(小欄2022/08/08記事)」を踏まえた場として展開することが必要である。この「第三世代型」ともいえる学習観として、ここ数年で僕自身が研究学会に提案してきたのが「メディア創作型課題学習」である。「短歌・俳句・詩・小説・物語」などの文芸創作を目指しつつ、それらをラジオドラマやリーディング劇に仕立てて表現したり、CMやSNS表現に展開したりする方法である。文芸には「鑑賞・批評」がつきものだが、学習において「鑑賞文」などを求めると形式的で当事者意識のないものになりがちである。そこで「メディア表現」をすることで、原作の読みがさらに深まるという方法である。
この日は午前中に「第三世代型学習観」や「メディア創作型」の意義を講義した。午後はこちらが提示した短歌から「好きな歌を選び」、受講者各自が「好きな方法を選び(誰とどんなメディア創作を作るか)」、さらには「好きな場所を選ぶ」ことによる演習活動を展開した。90分間という限られた時間で、この講習内で出逢った仲間と何をどこまで作れるか?「教師」が注意しなければならないのは、「学習者にやらせ」はするが「自らはしない」ということだ。文芸創作などに対しては特にこの傾向が顕著である。その上で「創作の指導はどうしたらよいか?」などという質問を受けることが多い。旧態依然の指導観であると、「添削」をすることが「指導」だと思い込んでいる向きも多い。だが「添削」というのは、本当に学び手の力を伸ばすことにならない。創作対象に対して当事者として何が足りないか?何がよいか?に気づく対話としての機会を持つべきだろう。さてこの日の受講者のみなさんはいかなるメディア創作を編み出したか?寸劇あり歌物語あり、さらにはユニークなドラマやスマホで録音したラジオドラマまであった。発表会の光景を観るに、参加者が生き生きと相互の作品に向かい「探求と創造」を体験することができた。
スマホやICTの活用は「メディア創作型」と相性が良い
「学校図書館」が「楽しく好きな」場所となるために
新たな時代の新たな「学校図書館司書」を本県では生み出したい。
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文学は面白い!に火をつける授業
2022-07-30
各自の好奇心あるテーマ探し「文学史」は暗記ではなく活かす
それぞれの学生らとのスピーチに光が
前期講義最終日、金曜日は年度輪番担当の「大学教育入門セミナー」講義が朝一番からある。附属図書館のワークショップコートを利用し、移動式机椅子の効果を最大限に発揮しての展開だった。「テーマ発見」→「序文」→「本を探す(参考文献)」→「本の紹介文」→「考察1」→「考察2」→「一文一義」→「論点整理」→「根拠を示す」→「参考文献の示し方」→「題をつける」概ねこのような過程を経て「学術的文章(レポート)」が書けるようになるのが大きな目標の講義だ。最終回のこの日は、究極の要約である「題」を発表し各自1分30秒程度で、自らのレポート内容を紹介するスピーチを実施。「文学」「歴史」「文化」を「宮崎」という視点から見つめた内容の多様なテーマが並び、大変に興味深かった。学生のスピーチからは「自らが選んだテーマを面白く」語っているという印象があり、学びの原点は「面白い(好奇心)」であることをあらためて考えさせられた。小中高の学習指導要領にも「探究」が大きな方向性として示される中、教員になる学生に「探究心」がなくてどうしようか、ということであろう。教師は自らが教える内容を「面白く楽しい」と感じることが瑣末な技術よりも何より大切だと思われる。
午後一番の3コマ目講義は「国文学史Ⅰ」、これもまた旧態依然の学修観だと「知識の暗記」たる科目に思われがちである。だが現代は「検索」すればいつでもどこでも一定の知識は確認できる時代、「暗記」ではなく「主体的な活用」を旨として内容を構成すべきと考えている。こちらの講義でもこの日は「音読&紹介スピーチ」、これまで14回の講義で扱った「上代・中古・中世・近世」における作品の中から、各自が最も「面白い」と思ったものの一部を「音読」し内容を紹介するというもの。学生に任せていたにもかかわらず、4時代の配分も適切で(上代・近世は少なかったがいないというわけではなく)学生たちの文学への思いを垣間見るようであった。「国語」の授業の中では、どうしても「文学作品」を「面白い・楽しい」と思える機会があまりにも少ない。「学力」を考慮しての授業づくりに教師がこだわるからだろうが、むしろそれが逆作用で学力の伸長も削ぐ結果となる。なぜなら「文学を主体的・探究的に楽しむ」意欲を、喪失させてしまうからである。「国語教師」を養成するにあたり、まず肝心なのは「文学好き」にすることだと、あらためて実感した学生たちのスピーチであった。
15回を対面講義でやり抜いた
マスクをしていてもやはり〈教室〉で出逢える豊かさ
新たな時代の「国語」へ忌憚のない突破が望まれる。
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江戸時代から受け継がれたもの
2022-07-23
文学史(概論)14回目の講義江戸時代の読本・滑稽本について
幽霊・珍道中・勧善懲悪などは現代にも
前期講義もあと1週間、最後のまとめを残して14回目を実施する週だった。担当する「国文学史Ⅰ」では、今年度から「日本文学概論」ともいえる内容にリニューアルした。昨年度までは時代で分割し「上代・中古」を扱い、「中世・近世」は「国文学史Ⅱ」で扱っていた。だが大学1年生の時点ということと小学校免許を中心に取得する受講生も多いことから、「概論」的な内容が求められると思いをあらためた。現在は小学校の教科書にも「古典教材」が見られるようになったが、現場の先生方は「音読中心」によって「古典に親しむ」という指導要領上の趣旨の扱いには苦労しているのが現状のようだ。もとより、先生方の「古典教材」に対しての基本的な認識が十分ではない。場合によると高校時代の「古典文法アレルギー」を自ら引き摺りながら、”やむなく”小学校で古典教材の授業をする先生方も少なくないと聞く。本学部の特徴である「小中一貫」の方針からすると、小学校教員でも「専門性の高い」教員の養成が期待される。ゆえにせめて文学部に設置されている「日本文学概論」程度の内容は理解しておいて欲しいという願いを体現したものだ。
この日は江戸時代の「読本・滑稽本」をテーマとした。『雨月物語』の怪異幽霊譚、『東海道中膝栗毛』の旅先の滑稽な失敗譚、『南総里見八犬伝』の勧善懲悪譚、いずれも現代の様々なサブカルチャーなどに影響のある作品ともいえる。三作品の概要を話した後、受講学生たちが興味を持てそうな内容について個々にコメントを求めた。怪異譚では「人間が人間でないものに化ける」という構造こそが、ゲームやアニメで頻出する内容であるという指摘。「化ける」ということは人間が自らの存在意義を確かめる行為であることを思わせた。受講者のコメントが多く集まったのが『膝栗毛』、「滑稽」であることは娯楽に通じ、現在でも「お笑い」が一般的であることに通じるという内容が多かった。「笑い」にはどこか風刺の要素もあり、社会に不可欠な自浄作用をもたらしていることに気づかされる。勧善懲悪譚は儒教倫理に連なるのだが、ウルトラマンや仮面ライダーに戦隊物など、学生らが幼少の頃から身近に感じてきたものも全てはその類型だ。八犬士の「仁義礼智忠信孝悌」などについては、僕の父などは学校の学級名が「仁組」「義組」だったと聞いたことがある。さすがに学生に馴染みは薄いようだが、江戸時代からこうした倫理が明治以降もそれほど遠くない時代にまで生きていたことを考えさせられる。現代とつながる要素が大きい江戸文学、ほとんど古典教材として活かされていないことは誠に残念な状況である。
古典芸能や時代劇から学ぶ感覚も大切
明治以降の154年を相対化した上での古典学習へ
文学が後退するのは教員養成の方針にも拠るといえるであろうか。
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