人として幸福度の高い県

2018-02-04
地域定着推進事業
担当の対面講義にて
人としての幸福度の高い「短歌県」へ

今年度ほど多くの仕事を抱えた年も珍しいが、そのうちの一つが地域定着推進事業による講義である。「短歌県みやざき〈ことばの力〉と教育入門」と題して、Web配信型講義と対面授業を組み合わせた構成になっている。本年度後期は、10月の和歌文学会大会開催もあり、教務実習担当であったり、その他も諸々の方面でお声が掛かったり実務があったりと、なかなか配信型講義の制作が追いついていない状況が続いた。それが完結しないうちに、とうとうまとめの対面型講義が先に来てしまった。誠に受講した学生には申し訳ない思いであるが、せめて「対面性」を活かして「みやざきの短歌」の魅力が伝えられるように3コマの講義に臨んだ。

市内にある学生たちも知っている身近な場所に建つ歌碑に刻まれた短歌を扱いつつ、「短歌とはなんであるか?」というテーマについてまずは考えた。学生たちはその地の存在は知っているが、其処に「歌碑」があるとは知らない場合が多い。むしろこうした機会を通じて、身近な場所であるゆえにその由緒などを伝えておくべきであろう。その後は受講者による「恋」の歌の創作時間。互いに自らが創作した短歌を披露し合って、相互批評を試みた。短歌は、今ある思いを素直にことばにするもの、まずは創ってみること。こうした契機や機会こそが学生たちにとって大切であることを再認識した。最後に先月開催された「老いて歌おう ねんりんフェスタ」で、僕自身も出演した「短歌トーク」の映像を視聴してもらい3コマ分の講義を終えた。

県知事も力説する「日本一の短歌県」
報道によれば「生きがい」「幸福度」は全国で指折りと
それが「みやざき」の生きる道なのである。


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具体を語り個をもって立つ

2018-01-10
新年のスピーチ合戦
学級びらき授業びらきに応用を
個の語る力にこだわって・・・

「国語科授業研究II」という担当講義では、毎年新年すぐの回で「学級びらき授業びらき」を意識した3分間スピーチの発表会を実践している。そのスピーチを契機に、学習者らが意識を高く新たな道を歩み出せるような、啓発の要素をどれほど盛り込めるかが焦点となる。どのようなスピーチでも同様であるが、それほどに個人の具体的なエピソードを盛り込んで聴衆を惹きつけるかが肝要である。履修学生たちは、この冬休みの間に経験した初詣のおみくじや旧友と再会したことなどをこのスピーチのために題材化して各自が概ね3分以内の構成にまとめてきており、個々の話には学生たちの生の意識も表れていて大変興味深い時間となる。

短歌を創る場合がそうであるように、日常に取材しそれを「ことば」でまとめようとすると、自ずと生活の折々の視点が繊細になる。出来事をメモに残したくなったり、その「現実」を「ことば」で切り取るにはどんな語彙が適切かなどと考えるようになる。となれば、教員などは常に繊細な感覚をもって生活をしているべきなのである。年齢を超えて子どもたちと共感するには、どんな話題でどんな感覚が求められるか?そんな学習者視点を失わないことが大切であろう。スピーチは「一対多」ではあるが基本は「一対一」を意識すべきで、この日の多くは聴衆たるクラス内の級友の対する語り掛けであった。それが小学生や中学生であったなら・・・、そこに意識を降ろせるかが教員としての生命線ということにもなろう。

一人の人間として語ること
1スピーチ1テーマに徹すること
アピールする人の力はどんな分野でも活かされるであろう


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読みは反転するゆえをかし

2017-12-14
「正解」ではなく「読みの交流」
様々な捉え方の中で自らの傾向を知る
ある表現は反転すればまた自らが炙り出される

1年生の教科専門科目「国語」は、初等教員免許取得の科目であり多くの受講生が履修している。他教科は2年次の配当であるが、この「国語」のみ1年次に配当されている。それはやはり「国語」という教科が、あらゆる教科の言語活動による学習の基盤になっているゆえであろう。約100名近くの受講者を半分に分け、後半のクラスも2回目の講義となった。この日は各班ごとに牧水の「けふもまた心の鉦を・・・」の歌を「音読」してもらったが、その頽廃的な発声が現状の「国語」という教科の高校までの教育のあり方を象徴しているように思われた。特に高校ではあまり目的も示されずに、ただただ初読の際などに「音読」を施すので、その意義も不明確のまま声にならない声のような、不毛な時間が作り出される。「表現」とはかけ離れた「読み」のどん底を”聞く”ような思いである。

さて「正解はない」という思考で批評的に物事を捉えることが、まさに大学でアカデミックに学ぶ上で身につける力ではないかと思う。この日も「白鳥は哀しからずや・・・」の歌に関して、「白鳥は何羽?何処にいるのか?」という問いを班内で話し合う読みの交流を行った。個々に様々な捉え方が許されるが、それを擦り合わせて班の意見として発表する過程に、重要な思考過程があると考えたい。各班からは「哀しからずや」の表現から読み取る「孤独」なイメージから、「白鳥は一羽」という見解が多く出される。そうかと思えば「染まずただよふ」から、「力強さ」を読み取る班もあって「ただよふ」が単に流されているわけではないというイメージも提供された。教育現場では「短所は長所になる」という視点が、とても大切であると現職時代を顧みて痛感する。「短所」を反転して解釈すれば、必ずそれは「長所」と捉えることができる。”そこ”で本人を激励することが肝要だ。だが「長所は短所にもなる」のも確かである。表現は360度の分裂展開が可能であろうから、心を種に表現した短歌には必ず反転した意味が読み取れる。せめてそんな思考で大学での学びを進めて欲しいと願う。

「音読」と同様に荒んだ「読み」や「表現」も
学校での「国語」は何を目指しているのだろう?
やはり教育とは社会を考えることでもある。


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なげいだされしうつくしさかな

2017-12-02
「君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな」
(前田夕暮の歌より)
素を見せる、自らを投げ出す力

来週の講義の準備をしていてあるアンソロジーを紐解いていると、冒頭に掲げた前田夕暮の短歌が気になった。何となく傍でねむる「君」という存在、「あはれ」は古語の意味で「ああ!」という感嘆詞か「素晴らしい」という良い意味であろう。その「君」はもちろん素顔で無防備である訳だから「女の魂」を「なげいだされし」という状況だと社会的には思える。だがその寝顔こそを「うつくしさかな」と慨嘆している反転的な発想が読めるよい歌である。親密な「君」たる間柄であれば、なるべくは建前に塗り込められることなく、素顔で思ったこと感じたことをそのまま吐露し合えるのがよいだろう。まさに「化粧」とは、「ばけてよそおう」と訓じられ、和語の「けはい」「けそう」として「装(う)」の漢字にも通じ、「仮粧」が当てられることもある語である。化けて仮の装いの建前だけで本心がわからないほど、怖いものはないとも言えるかもしれない。

この日は講義で2週間に渡って構想してきた「詩の群読」の班別発表であった。題材は「ことばあそび」「宇宙の中にいる自己存在」「対象への語りかけ」「人の時間意識」に関する4種類で、敢えて作品性の違ったものから学生たちが自ら選んで班を構成し表現するという課題であった。各班とも題材に合わせた工夫を考案し実に楽しい発表となったが、その中で「対象への語りかけ」をテーマにした詩の場合に、そのテキストを宮崎弁に改編して朗読するという工夫が見られた。これがなかなか好評で、要するに「素顔」の学生たちの「語りかけ」が詩の文脈で再現されたような発表となったのである。元来「標準語」などというのは、政治的中心地から強引に定められた「基準」なのであって、まさに「化粧」「仮粧」であり、地方の者にとっては「虚飾」に過ぎないであろう。こんなことと前述の夕暮の歌が結びついて、「素顔」の「うつくしさ」を感じたわけである。

思ったことをことばにすること
それこそまさに「生きる」ことそのものではないか
本日は「老いて歌おう全国大会」で「短歌トーク」に登壇する。


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『百人一首』暗誦を活かすには?

2017-11-30
大学生はどれほど暗誦しているのだろう?
暗誦する意味は何か?
日常語の韻律に敏感になるためにも

1年生のオムニバス講義で、『百人一首』をどれだけ暗誦しているかをまずは個人で書いてもらった。その上で、5人1組の班内で相談してどんな歌を暗誦しているか3首ほど挙げてもらうという活動をした。大半の班は少なくとも1首の和歌を挙げ、10班中3首を挙げられた班は三分の一程度。中には様々な和歌の中にある韻律のよい句、「あしびきの」「ちはやぶる」「うつりにけりな」などを混合して組み合わせて1首に仕立て上げた班もあった。(もちろんこれも許可して、「正解」を求める活動でないことを宣言している)個々の学生には個人差があって、何首も口をついて出て来そうな者もいれば、歴史的仮名遣を間違って読んでしまう学生まで様々だ。こうして1年生に文学的な講義をすると、高校までの「国語教育」の現状が浮き彫りになって、大変興味深い結果となる。

中華人民共和国では小学校段階で暗誦すべき「80篇の詩」が、日本でいう学習指導要領の上で定められていて、6年間でそれを暗誦する教育課程となっている。日本に来ていた留学生に話を聞いたことがあるが、教育熱心な家庭では物心もつかないうちから詩を暗誦させるらしい。しかも暗誦することで詩句を身体的に通しておくと、日常言語の上で役に立つ機会があるという意識を持っているようにも思われた。どこぞの国の政治家が、詭弁的に故事成語で答弁するのとは”基本”から違うような気がする。だが日本でもカルタ競技を題材にしたアニメとその映画化の影響などもあって、「ちはやぶる」などという枕詞の存在感が増し、その韻律に好感を持っている若者は多いように思われる。そこで『百人一首』を「本歌」として、学生の日常を題材にした短歌を創るという活動をこの講義の最後にしてみたが、これはなかなか学生たちも楽しんでいた。これは既に俵万智さんなどが実作に活かしている手法だが、ただ「暗誦せよ」ではなく、こんなところから『百人一首』の存在に興味を持たせる工夫が必要だということだろう。

「浜松町 田町 品川 大井町 大森 蒲田 川﨑 鶴見」
いわゆる「ハナモゲラ和歌」は世の中にいくらでも存在する
「暗誦させる」ではなく、個々の学習者を「主体的表現者」として尊重することである。


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短歌と俳句・・・俳句と短歌

2017-11-28
短歌は一首、俳句は一句
それぞれ「歌」「句」と略称する
「言わない文学」の好きなこの文化の中で・・・

俳句は「文化遺産」として登録されることを目指していると云うが、短歌は「遺産」ではなく今も生き続けているので登録など目指さない。こうした趣旨のことを、佐佐木幸綱先生のお言葉として何度か聞いたことがある。確かに「遺産」たるや「遺された産物」ということであるから、そこに登録されるものは「過去のもの」と見なされる必然がある。まあこれもまたそれぞれの考え方であるから、相互に否定する必要もないとは思いながら、歌をやっている身として「今も生きている」という趣旨が、誇らしく思うのも正直な思いだ。学部2年生の複数担当講義の後半が、この日始まった。10月当初にテキストとしているアンソロジー(詞歌集)から、「好きな歌を一首選んでおくように」という課題を出しておいた。この日は受講者の自己紹介を含めて、それを板書して一言キャッチフレーズを添えるという活動を行なってみて、あらためて「短歌」と「俳句」の関係性を考えさせられた。

学生が選んできた詩歌の半数が「俳句」であったのである。記憶するに間違いなく僕は「和歌・短歌を選んでくるように」と2ヶ月近く前の教室で指示した。アンソロジーである文庫が、「教科書掲載の和歌・短歌・俳句」が古典近・現代を問わず載っているので、ある意味でやむを得ないと思いながら、聊か「俳句」優位な風潮を嗅ぎ取ってしまい短歌人として心を揺さぶられた。学生がコメントを始めると、「短歌は一首、俳句は一句」という量詞の使い方も厳密ではなく、何度かその発言を訂正したが、最後には話の勢いで自らも歌に対して「一句」と誤ってしまい、さらに自らを省みる事態になった。そういえば先日もよく行く公共温泉で常連の方々と話していて、「専門は何ですか?」と問われたので「教育学部の国語です」と一般向けに答えた上で、「和歌とか短歌です」と付け加えると、その方々のお一人が「テレビでやっている俳句を先生が直すのはいつも一理あると思っているんですよ」と話題を展開した。やはりバラエティー番組もまた「短歌」ではなく「俳句」なのである。考えるに短歌の添削行為などをしたとしたら、その理解度からして”バラエティー”にならないのではないかと、やや短歌人の矜持として考えた次第であるがいかがであろうか。

その双方を器用にこなす方々もいる
中学校教科書は中2で「短歌」中3で「俳句」
歌ができない時など「俳句を読むとよい」と聞くが、境にこだわるだけ未熟なのかもしれない。


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授業研究と短歌

2017-11-03
なぜ授業は退屈になるのか?
あなたも中高の授業で経験があるのでは
担当科目「国語科授業研究Ⅱ」で考えた覚書

高校時代などを回顧して、あの「国語」授業の喩えようもない空虚感は何だったいだろうかと思う。ある先生は古典文法などをただただ一方的に活用表などを板書して自分で喋っているだけで、ほとんど生徒で聴いている者は稀だったように思う。また現代文で単元教材の最初の時間などは、指名されて生徒が音読していくが、それも学級内でその音読を受け容れている者は少なく、昼休みの後などでは睡眠率が8割9割という悲劇的な授業も体験したことがある。そんな際に自分はどうしていたかといえば、眠るのはさすがに憚られたので自分なりの詩集や歌集を読んでいたのであった。国語にはもう一人の先生がいたが、その先生は生徒にじっくり考えさせようとするタイプで、自分から「正解」めいたものをすぐには決して言わなかった。だがあまりにも待ち過ぎて特段の手立てがないゆえ、次第にやはり退屈な時間とならざるを得なかったと記憶する。果たして「国語」授業が退屈で忌避される原因は何なのかと考えるのは、僕自身の体験から発する大きなテーマでもある。

後期3年生科目「国語科授業研究Ⅱ」では、教室での「声」をテーマにしながら3分程度のミニ授業を構想し、その有効性を実践的に探るという内容で行なっている。ちょうど昨日は「和歌・短歌」を教材にした音読中心のミニ授業を、受講者全員に実践してもらった。全体にわたって総評するならば、教材たる「和歌・短歌」の「説明」をする内容が目立ち、学習者が「音読」をする中から語彙や韻律に気づき、自ら考え始めるような実践が少なかった。前述した僕自身の高校国語授業経験で現職の先生でもその傾向が強いわけであるから、学生に至れば仕方ないとは思えど、なぜ「授業」というと「説明」をしてしまうのかと素朴な疑問をあらためて持った。考えるにこれは、短歌の批評にも通ずるものではないだろうか。所謂「説明」の短歌というのは、「そうですか」という読後感を抱くだけで、読者の心に響くことはない。「言いたいことを自分で言ってしまっている」というのも、歌会などでよく指摘される評語だ。こうした事例を挙げるまでもなく、短歌は対話的に読み手に考えさせる文芸なのである。どうやら学習者に考えさせる授業というのは、短歌を学べば腑に落ちると言えるのではないかなどと考えている。

「教え込もう」という教壇での傲慢
では自らその教材がどのくらい腑に落ちているか
主体的・対話的な言語作用は、短歌が培ってきた文化の中にある。


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メディアとしての身体

2017-09-02
教員自身がメディアそのもの
声で動作で伝える力
読む受動的学習から表現する能動的学習へ

集中講義最終日3日目。諸々の先進メディアを利用すれば画期的な国語授業が創造できることが、ある種の幻想であることを確認するため、教員としての身体性を自覚しメディアと融合する試みの実践を展開した。教員は、〈教室〉で「物語」を創ることができる。学習者の数だけ「主役」がおり、如何なる脚本・演出で芝居を創るかということ。役者は演じる場合もあれば、観客となったり演出や小道具など縁の下の力持ちになる場合もある。こうした創造過程を通して、文学を学び各自が自らの経験を起ち上げて当事者として考えていく。「物語」や「演じる」というと日本では誤解を招きやすいが、「虚構」の中にこそ「葛藤」があり、それこそが「生きる力」を育む経験となる。

最終日は身体メディアを利用した発表。谷川俊太郎の詩を1人1篇選び、朗読を中心とする自らの身体表現と身近なメディアを融合させた「表現」を創ることが課題である。スマホ動画・スライドショーに音楽・詩のイメージに近い写真・動作や表情・詩のテーマ性を問いにして考えさせてから表現するなど、約60分間の制作時間ながら多様な「表現」が発表された。これまで「国語教室」では、あまりにも「意味」が前面に出過ぎていた、しかも誠に「教育的道徳的」な「意味」が教師によってこじ付けられてきた。「イメージ」と「韻律」も含めた総合的なものが詩の魅力を創り出している。それが「メディア」を含めて表現にすることで、少なからず現前性をもって創り出すことができる。むしろこうした創造性を課題とすることは、現在の学生たちにとって文学に深く親しむ可能性ある活動なのだと確認することができた。〈教室〉はある意味で、創造的な「ステージ」なのだ。

終了後は声優さんたちと交流会
声と表現と舞台のヒントの宝庫であった
このあたりの内容は、また宮崎での企画が実現したら紹介しよう。
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メディアの学習活用と辞書

2017-09-01
スマホ1台で有効な教材開発
物語の構造理解・批判的思考・CM表現
そしてメディアとしての辞書について

集中講義2日目。午前中は、受講者による身近なメディアを有効活用した教材開発と授業提案。初日に醸成した様々な問題意識に基づき、動画・写真・新聞・Web記事などを利用してユニークかつ有効な教材が提案された。ほとんどの学生がスマホを利用し、短時間な中で実に見事な教材を提案した。既に教員が現場でタブレットなどを利用する実践は見掛けるが、スマホとなると「学校」での使用そのものが生徒・児童の手前から「不可」となっている場合も多いのだが、これは既に使わない手はないと思うほど、学生たちの発想は豊かであった。またPCを使用せずともスマホをアダプターで接続するだけで、即座にプロジェクター投影も容易で起動等のタイムロスもなく次々と利用できるのがよい。もちろんWeb接続環境もいちいち「学校」のWiFiに依存することなく、スマホ単体でそれなりの容量が確保されているのも心強い。これは既にリテラシー教育の必要性も含めて、「学校」では教員のみならず学習者がスマホを利用して発表や知識の確認をする「学習」をすべきではないかと考えさせられた。使用を「禁止」する旧態依然の環境こそが、むしろスマホを宝の持ち腐れにし、子どもたちの不健全な使用のみに貶めているのかもしれない。

午後は先輩である元小学館辞書編集長である神永曉さんに外部招聘講師としてお出でいただき、「メディアとしての辞書」という演目で御講演をいただいた。辞書編集の実態や用例収集の裏話、そして紙媒体の辞書とデジタルコンテンツの長所短所など、これだけの内容を少人数で聞けた学生たちは実に幸せであったであろう。神永さんは「辞書引き学習」の普及のために全国行脚もなさっているが、デジタル検索一辺倒に依存して育った子どもたちは、大学生になって「五十音図が書けない」などという実情が散見されるのだという。もとより五十音図は、小学校1年生でそれほど緻密に習うものではない。だが物理的に紙媒体の辞書を引く動作を繰り返すことで、身体的に順序を獲得できるものだと云うのだ。みなさんも自らの体験を思い返せばすぐに理解できることだろう。紙の辞書のページを繰り、当該項目を発見したときの小さな喜びの繰り返しこそが、学習の扉を開く行為なのだと、あらためて考えさせられた。本務校の大学生たちは五十音図は大丈夫であろうか。

御講演後は学生たちと対話の時間
様々な方向からの質問をやりとりできた
学習とメディア活用について前向きに様々な視点を持つべきであろう。
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メディアと学生時代

2017-08-31
通信手段の圧倒的な普及
「ことば」に関わるのはスマホ上にて
「現実」「真実」「真情」をどう捉えておくか

この10年で、スマホがみるみるうちに普及した。小欄をこうして旅先で投稿するのもスマホからで、講義などのプレゼンテーションソフトのバックアップや、写真やWebのプロジャクター投影などにおいてもスマホが欠かせない。更には航空券や交通時刻検索、宿の予約に至るまで出張における「仕事道具」として何よりも重要な代物である。その前の10年では「携帯」が普及した。ちょうど現職教員をしながら大学院に通っていたので、学校に関する必要な連絡は常時「携帯」を使用できる安心感があると同時に、心のどこかに「拘束感」から逃れない何かがあったように記憶する。さらにその前10年ではパソコンが普及し、手書き作成していたものの多くが整序して制作できるようになった。こう考えるとメディアの普及が人生にも大きな影響を与えているのがよくわかる。

非常勤先で「国語教育へのメディア活用」をテーマとした集中講義が始まった。前述のような話題も提供し学生と対話を始めるが、今の学生たちは既に中高時代からスマホに親しんできた世代である。自己の表現手段としては、「学校」における文章作成を建前としながらも、日常生活においては「スマホへの書き込み」が量の上で圧倒的に優位であろうと考える。コミュニケーションツールとしてのSNSは欠かせないであろうし、世界への窓は常にスマホではないだろうか。それだけに、対面コミニケーションを始めとしたライブ性ある表現伝達手段を考える場が必要なのだと思われる。初日は自己の「国語授業観」を相対化する対話とともに、生きて働く「言語機能」の問題やデジタル教科書を使用した研究授業のあり方などについて講義を展開した。

本日は学生たちからの発表
身近なメディアを利用した「教材開発」と「問い」の提案
午後には外部講師による「メディアと辞書」に関する講演ワークショップがある。

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