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種はいつしか発芽している

2023-08-01
夏休みの朝顔観察記録
早く芽をと水をやり過ぎてはいけない
種を信じ続ければいつしか発芽する朝が来る

大学は、前期定期試験の真っ最中である。研究仲間の私大などは既に「採点・評価」という時期に入っているようだ。「試験」という中でも前期講義のまとめとして、スピーチを課している科目がある。教育実習の事前指導が重なり、その実施がこの定期試験中までずれ込んだ。スピーチは「国語教師を目指した契機」「国語の魅力」「講義で学びとなったこと」などを、5分台で話すというもの。学生たちが「契機」とするものとして印象深いのは、やはり中学か高校で「良い国語教師」に出逢っている場合が多いということだ。僕自身の経験としても中学校3年間の担任で「国語教師」に出逢わなければ、この道に進んでいたかはわからない。「国語教師」はまさに「文化の伝承者」なのだとつくづく思う。そしてまた「国語教育のプロ」でもある。「良い教師」に出逢った反面、「プロ(スポーツ)なら自由契約」と思えるような教師に出会ったことも僕自身を「教師の道」に反動的に導いたといってよい。

学生のスピーチで印象深かったのは、中学校や高校時代に僕の出前授業に参加したことがある者が2名いたこと。鉢に種を蒔いていた朝顔が、いつしか芽を出しているような感触を持った。この時節は、夏休みの宿題として「朝顔観察記録」を思い出す。発芽までは水をやり過ぎず、ましてや土をいじることなく、ただただ発芽を忍んで待つことが大切だが、確実に「種蒔き」はしておかねばならない。まさにスピーチは、「発芽を見つけた朝」のような趣であった。前述した「文化の伝承者としての国語教師」の役割を、自分が果たせたという達成感もある。全国津々浦々、教員採用の実情として「(中学校での)国語教師不足」という深刻な状況に直面している。あらためて「国語・国文学」に関連する研究者は、その魅力を発信する努力を怠るべきではない。そして発芽したら丁寧に育て上げて花開く日まで育て上げるのだ。「国語」に対する大いなる誤解が蔓延る世の中で、「プロ」として伝えていくべき責務は大きいと自覚する。

短歌が文学が好きな人たちの多い県であろうから
小手先の技術に囚われない「国語教師」を養成したい
いつまでも「プロの現役選手」として「国語の一球」に魂を込めたい。


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思考・判断・表現のLIVE

2023-07-29
生成AIを活用を見据えて
その時その場で身体だけで何ができるか
先端技術なき「生身の人間」が稀少になる世の中で

各分野で生成AI(人工知能)の活用への議論が盛んになってきた。携帯やスマホが出てきた時もそうであったが、何か新たな弊害に巻き込まれるのではないか?という不安がこの国の社会に先行して蔓延る傾向がある。しかし、今や子どもから老人まで多くの国民が「スマホ」を手にして個に応じて生活に活用している。きっと次第にスマホにも生成AIが様々に連携され、さらに予測もしない使用法が生まれて来るのだろう。さて、学問上の活用も多方面で使用が開始される中、当然ながら学生のレポート等への応用をどう考えるか?という課題について方針を表明する大学が増えてきている。Twitterなどを見渡すと、むしろ逆手にとって生成AIによってテーマの回答を弾き出し、その適切でない点を指摘させる試験を実施した大学教員がいるらしい。新たなものが出現した時、「人間が使われない」ためのリテラシー(読み書き能力)が必要だということだろう。

他にも「レポートの中に浮き出た文言」があると、その部分を検索や生成AIにかけることで「剽窃した元の文献」に容易に辿り着けるという採点への援用を示唆するTweetも見た。この件から考えたのは、最近の学生は「資料に当たる」ことが「活字」ではなく「Web」になっている傾向をどう捉えたらよいかという問題だ。実際に副館長を務める附属図書館でも、感染に対する規制が緩んだ今年は入館者数はコロナ禍前の水準に回復しても貸出冊数がまったく回復しない。農学・工学・医学の学部を持つ大学ゆえ、最新のデータはむしろWeb上にあるのかもしれない。それゆえに、蔵書資料の精選が求められるかもしれないのだ。かくした状況での大学の前期試験、僕はなるべく教場試験を採用し「思考・判断・表現のLIVE」を実行することにした。音声的に身体化したものを知識化する、逆に「知識→精査→解釈」を身体的に表現する。自らが問いを立て、自らが生成AIのように理路整然と論述する。などなど90分の試験時間中で「覚え込んだ知識を単純に問う」ことにならないような工夫をしている。生成AIにかければ一定の知識は簡単に入手できる時代に、「教師として生きる」学生たちに必要な「思考・判断・表現」の力を身につける試験方法を開発して行かねばならない。

孤立知識を問う穴埋めや単純設問は論外
教壇で教師が身体的に必要な語りに活かせるための試験
「覚えているか?」ではなく「どう使うのか?」に繋がる評価が求められるのであろう。


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日本の恋歌前期講義最終回ー恋愛を学ぶ機会として

2023-07-26
サザンや昭和歌謡曲とともに
短歌から恋の諸相を考えていく
「自分の恋愛を初めて言語化しました」という感想

私たちは「恋愛」をどこで学び、どのように実践するのだろう?多くの生活習慣は親に学び、読み書き計算は学校に学ぶ。多くの人が「初恋」の経験は「学校」を舞台とすることが多いはずだが、なかなかその術を学ぶ人や機会が用意されているわけではない。例えば「国語」の授業でも、牧水の「白鳥は哀しからずや」の歌を教科書で学ぶが、背景に「恋愛の哀し」があることへの言及はなされない(指導書がそうなっている)ことが一般的であろう。栗木京子さんの「観覧車回れよ回れ」なども教科書に採録され中学生に人気な歌であるが、そのわけは〈教室〉で「恋愛」が語っても許される範囲の淡く切なく甘酸っぱい恋に読めるからだろう。しかも「鑑賞文」という枠の中で、整序された「恋愛」が語られる授業に留まることが多いのが現状だ。他の小説教材なども含めて、せめて中学校高等学校では、もっと「恋愛」について考える機会があってもよいのではないか。

「これが大学の授業なのか?」という疑問に近い感想を受講の学生たちからいただいた。この日は「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」の前期最終回の講義であった。100人を超える受講者から講義の感想・私への質問など「ラジオへのハガキ(メッセージ)」のような100字程度のコメントを課題として提出してもらい、なるべく多くのメッセージに応えるという内容で進めた。普段はあまり聞くことがなかった「昭和歌謡」の曲に触れられてよかったという感想とか、サザンオールスターズにハマったなどの嬉しい感想も見られた。実はいつの時代も私たちは歌謡曲やJ-popの音楽から、自然と「恋愛」を学んでいるのではないだろうか。サザンや桑田佳祐ソロの楽曲を並べてみても、様々な恋愛事情を垣間見ることができる。先日も桑田さんがラジオで「歌詞は妄想で書いた」という趣旨の発言をしていたが、例え歌詞制作上は「妄想」であっても「恋愛の諸相」として語り合える機会が大切なのだと思う。(文学の虚構性と同じ)現状はだいぶ改善されたであろうが、中高部活動での「恋愛禁止」などに見られたように、「恋愛=悪」のように見てしまう「学校」環境をもうそろそろ終わりにしてもよいのではないか?こんな思いも込めて、「大学」の基礎教育科目として全学部の学生たちと「恋歌」を通して「恋愛」についての対話をしている次第である。

次年度へ向けて新たな展開も考えたい科目として
多くの若者がサブカルチャーから「恋愛」を学んでいる
「恋愛忌避」「晩婚化」「対人拒否」などについてまずは若者たちと考えるために。


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語れる身体をもつ教師を育てたい

2023-07-25
感情の表現を人間として豊かに
AIの時代に身体性を意識した表現力を
まとめのスピーチで学び合う時間として

いよいよ2023年前期講義期間も、先週の金曜日から最終週となった。担当科目ではいずれも最終回に受講者のスピーチ機会を設け、お互いが15回で何を学びどんな力をつけたかを学び合う機会としている。とりわけ教員養成を旨とする学部ゆえに、「(人前で)語れる身体性」を育むことも肝要だと考えるゆえである。1年生配当の文学史の講義では、和歌・俳諧・散文の冒頭文などを暗誦してその文学史的な魅力を高校生向きに語るという想定のスピーチ。同じく1年生の『伊勢物語』講読の講義では、扱った章段の中から和歌一首を選んで暗誦した上で、その物語の魅力や現代的な学びの意義を語るというもの。さらに2年生配当の国語科教育法基礎の講義では、「国語」選考を選んだ理由や現在の学びとどんな教師になりたいかなど「教員志望」を自らの語りで確かめていく内容で実施している。

多くの人々の前で語ることは、誰しも決して最初から得意であるわけではあるまい。中高時代の環境の影響もあるだろうが、僕なども中高生の頃は学校では全く無口であった。現在と違って発表形式の授業も少なく、先生が話すだけであったので生徒らの表現力など微塵も伸びない教育を受けた。だが大きな海のように感じた大学では、日本文学専修ということもあり適切に表現するにはどうしたらよいか?を問い続けていた。やや大胆に傍若無人に振る舞う度胸もつき、研究会やサークル活動のおかげで社交力もかなり身につけた。それがそのまま教員に就職して役立ち、教室で語れる力になっていった。僕自身は学部が文学部なので(大学院は前後期とも教育学研究科)「教員養成系」の学びを受けていないが、大学のあらゆる機会を活用し語る力を身につけた気がする。先日の短歌トーク&朗読公演もそうだが、聴衆の方々が多ければ多いほど語り甲斐のある高揚感があって爽快な気分になる。ぜひ向き合う学生たちにも、教師のこうした愉悦を味わって欲しいのである。

理路整然とまとめるより抒情性あるスピーチを
生成AIが構成できない人間の語りとは何であろうか?
「そうですかスピーチ」にならぬように学生には心を大切にしてもらいたい。


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講義の新陳代謝

2023-07-19
一定のパターンができたからこそ
新たな道を模索してこそ活性化する
時代とともに学生の要求に応えつつ

高等学校「国語」の教科書は義務教育のように限定されず多くの出版社が制作・発行しているが、全ての出版社の教科書に掲載されている作品がある。芥川龍之介『羅生門』と若山牧水「白鳥は哀しからずや」である。(現行学習指導要領版になって確認していないことをお断りしておく)現状の高等学校進学率を考えると、国民の全てがこの二作品は必ず学ぶと言い換えることができる。だが『羅生門』はほぼ「全て」と言えるが、「白鳥は」は「必ずしも全て」とは言い難い。このあたりに高等学校国語教員の偏向した思考が垣間見える。散文・韻文の偏向問題はさておき、『羅生門」を全ての出版社が採録する理由に、「学期が始まって1ヶ月ぐらいの忙しい時期に、教員がやり慣れた授業ができる」という「作品評価」や「指導観」とは全く別な問題で掲載されているという指摘がある。つまり高校国語教員が一度『羅生門』の授業をすれば、あとは「再放送」をくり返せばよいという理屈が陰でまかり通っているという指摘である。

いま「再放送」という表現を皮肉めいて使用したが、かつて高校教員だった頃、平然とこの語を自慢げに言う輩がいた。もちろん各教科を専科で担当する高等学校では、「同じ授業」を複数の学級ですることになる。基本的な「方法」は「再放送」であろうが、学習者が違えば「全く同じ」でいい筈はないというのが僕の実感である。眼の前の学習者の実態に合わせて、授業は「ライブ(生き物)」として変化せねばなるまい。高等学校でもこのように「再放送」が横行している実情があるとすれば、大学講義はなおさらだろうという印象を抱かざるを得ない。だが最近、自らの講義を省みて思うのは、年々の時代や学生の変化に対応して講義も新陳代謝をしなければならないという思いを強くしている。確かに忙しさの中において「再放送」のようにできる講義は、ありがたさを覚える時がある。だが教壇で話していて、その内容にどうも自らが新鮮味がなく学生の反応と呼応しないのではないかと思ってしまう。大教室での講義であれば、なおさらこのような思いをいたく感じてしまう。講義で構想したことは、一冊の書籍にでもまとめれば良い。その上で、新たな発想のある講義を開発してこそ、自らの研究も前に進むということだろう。

5年間にコロナ禍を越えて来て
対面の意義、オンライン上の課題の意義
既に次の講義構想は作成してある。


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集中するための時間分割策

2023-07-14
1コマ15分×αセット
合間に息継ぎのような潤いを
余剰な時間でできることに向き合う

講義をする際に、自ら「ちびまる子ちゃん方式」と名付け実践していることがある。90分の講義を6分割し【準備→目標→課題提示→対話→共有→振り返り】と「1テーマ15分の枠」を意識して進行することだ。これは担当する僕の意識であるとともに、「ギアチェンジ」を明示することで受講する学生たちに意識させることが大切である。漠然とした90分は、眠くなり課題意識が保てない。随所で「今は何をする時間」という意識が相互に働いてこそ、豊かな学びが醸成されるはずだ。「サザエさん」の約7分程度では短く、仮に30分間一方的に話し続けると明らかに学生たちの集中が切れるのがわかる。人間が集中できるのは、せいぜい15分程度という説もある。ゆえに15分ごとに「息継ぎ」を入れれば、再び集中モードになることができる。

これは元々は講義ではなく、僕の大学受験勉強時の計画の立て方に由来する。自分だけで編み出したのではなく、何冊かの参考文献を読んで活用した。英単語・古文単語は「15分×1セット」、問題演習は「15分×2・3セット」、英語長文読解・現代文読解となると「15分×4・5セット」と「15分」を単位としたコマを組み上げる。自ずと「15分」という時間感覚が身につき、90分の試験を受ける際にバランスよく問題に取り組めるという効用もあった。基本的に今に至るまで、研究や実務に費やす時間もこのように編成している。読書なども小さな「15分継続枠」として、寝る前「15分」とか、昼休み「15分」などと隙間時間を活用する。また急に余剰になった時間を発見した際も、「15分刻み」で何ができるかを考えて実行するようにしている。この「セット」が有効に働いて来ると、実に仕事も順調に回るのである。

大切な時間ゆえに切り刻んで茹でやすく
セットの合間に自らへの「ご褒美」をお忘れなく
小欄なら「15分×2・3セット」で書き上げている。


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教師のこころ(志)を短歌でリレーする

2023-07-09
「教師未来セミナー」(本年度第2回)開催
未来の宮崎の教育を担う高校生たちへ
中学校の教員として成長したゼミ卒業生を迎えて

教師は、小さな夢をたくさん叶えられる職業である。文学者にもアナウンサーにも歌い手にも野球の監督にもなりたいという欲張りな願望を、僕は教師になったことで叶えてきた。今現在、まさに研究と実作に向き合っている「文学者」となった。さらに文学のうちには精密な夢がまだまだたくさんある。今月22日(土)には300人規模と聞く野口遵記念館(延岡市)で短歌トーク&朗読の公演に出演するのは、文学者であり朗読家である所業だ。高校教員の時にクラスに文化祭実行委員長がいて、僕に校庭の野外ステージで歌を唄いませんか?と誘いかけてくれたことがある。彼女は僕がサザンの大ファンだと知ってのことだ。多くの生徒や保護者さらには同僚の眼前で、僕は「勝手にシンドバッド」を熱唱した。また部活動では女子ソフトボールの監督顧問を続け、まったく勝てないチームを都大会まで勝てるチームにしたこともある。生徒らとともに「小さな夢」を叶える仕事として、やはり僕自身が教師という仕事を大好きなのだ。

前述のような内容を随所に盛り込みながら、県内で中学校教員をしているゼミ卒業生を講師として迎えた。大学院まで短歌創作も行いつつ短歌学習について研究し、院在学時にも中学校非常勤講師を経験し苦労を重ねた。「苦労は買ってでもさせよ」というが、教え子には教師として十分な「筋力」がつくように敢えて険しい道を勧めるようにしている。非常勤の際には夜遅くに僕のところに電話が来て、「もう舐められて授業ができません」と泣いたこともあったと本人が語ってくれた。その「筋トレ」が功を奏し、今や立派に中学校2年生の担任をしている。彼女の「こころ(志)」をぜひとも多くの高校生に知ってもらいたい。また彼女は所属短歌結社の新人賞に当たる賞を受賞した。その作品の題は「1日担任」、まさに教育実習の苦労や歓びが十五首の短歌にリアルに描かれている。この日はセミナーに参加した高校生たちに、この作品を読み合って5人単位で小さな「歌会」をするという計画を進めた。高校生たちの感度はよく、さすがは「短歌県みやざき」の高校生だと思った。各班ごとに「一番いいねの歌」について代表者に評してもらったが、その視点と感性の豊かさには将来の宮崎の希望が見えた。かくして、この企画によって僕がゼミ卒業生に手渡したバトンを活用し、さらに教師になりたい高校生へのリレーができた。夢を持った多くの高校生たちよ、どんな時代になろうとも豊かなこころのある宮崎を創って行こう!

終了後は希望者による附属図書館見学ツアーへ
補助の学生たちもまた未来の教師としてサポートしてくれた
僕自身が今までの生き方を問う機会でもあった。


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朝の舗石さくさくとーまだ離れたくない

2023-07-05
「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」(北原白秋)
「連れてかえれない黄昏に染まる家路」(サザン・LOVE AFFAIR 〜秘密のデート)
「道ならぬ恋」を考えるために

ChatGPTなどの生成AIの教育現場での使用について、文科省がガイドラインを公表した。「不適切なケース・適切なケース」として使用場面ごとに要点が示されている。その適否については、機会をあらためて考えることにしよう。ただもはや試験などへの援用を恐れるあまり「全面禁止」にならなくてよかったと思っている。中高教員を長く経験したが、「中高生と携帯」について考えるに多くの学校で「全面禁止」の方針が取られたことで、むしろ陰での使用が中高生を危険な場面に誘導する事案が多く社会に蔓延した。むしろ使用法を適切に教えるのも、学校の役割だったのではと思っていた。学校現場において「臭いものには蓋」の発想は、過去から現在まで形を変えて大なり小なり存在することが、この国の「建前社会」を作ってやしないかと思う。「性教育」をはじめとして忌憚なく話し合う機会が、青少年期に求められるのではないかと思うのである。

話は迂遠したが「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」の講義で、冒頭の北原白秋の短歌やサザンオールスターズの曲を教材に「道ならぬ恋」について考える回を設定している。白秋の歌は、隣人の人妻との恋心が極まった結晶のような一首である。この歌が発表される際には、恋した相手の夫に訴えられ「姦通罪」で収監されていたのは有名なエピソードである。また白秋の友人であった若山牧水も小枝子という人妻との5年間にわたる苦悩の恋があった事は、既に俵万智『牧水の恋』などに明快に記されている。相手の素性を知る知らぬという差はあれど、明治生まれで詩歌に名を残した二人が、ともに「道ならぬ恋」に落ちていたというのは単なる奇遇なのだろうか。最近でも、スポーツ界や芸能界の不倫についての報道が喧しい。現在は「姦通罪」はないながら「性暴力」による書類送検で謹慎になるとかCMの違約金が莫大であるとか、社会的制裁は計り知れない。恋はその身が自由なうちに存分に味わっておかないと、いつか暴発してしまうものなのか?「道」とは?「社会」とは?なんだろうか。ドラマではよくある設定だが、「恋歌」によって大学でもその思いを考えておくことが、むしろ学生たちに「恋」の免疫をつけ将来の幸せにつながることを祈りながら。

「恋に落ちてーFall in Love」
「時の流れに身をまかせ」など昭和の曲も
中高時代にもっと恋や愛を考える文学的体験の機会があってもよい。


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この世に絶対は無しー「しらないきもちが かくれてて」

2023-06-08
「なかよくするって ふしぎだね
 けんかするのも いいみたい
 しらないきもちが かくれてて」
(たにかわしゅんたろう「かんがえるのって おもしろい」より)

大学講義にて「音読の帯単元」を実践している。つまり、各講義の最初に一貫して系統立てた文学作品を「音読」する活動である。昨年度後期から久しぶりに「国語科教育法」を担当するようになり、あらためて小学校向けの詩歌の音読を実践している。これにはいくつかの目的があり、一つは学生が詩歌への興味関心を深めること、もう一つは学生が実習などにおいての「声の構え」を作ることにある。5分程度でも毎日、詩歌を音読することで口蓋周辺の筋肉が鍛えられ教育実習で声を潰すことも防ぐことができる。また現況ではマスクであまり動かさなくなっている口蓋や口唇を活性化する効果も期待できる。講義は小学校教員を目指す学生たちを対象とするので、冒頭のような谷川俊太郎さんのひらがな書きの作品を音読する。もう10年以上前になるが、谷川さんと直接にお会いする機会に、「どんどん音読してください。僕の詩も(教育現場だなんて)責任重大だな〜」と頭を掻いていたお顔が思い出される。

この日は特に、冒頭に記した詩の当該フレーズが気になった。詩全体から「かんがえる」ことの可能性が読み取れる。「どこかとおくへ いくみたい しらないけしきが みえてきて そらのあおさが ふかくなる」とある。この詩を読むと、人間が「かんがえる」ことに「絶対」がないことを考えさせられる。「絶対」と思い込みで「かんがえる」可能性を塞いでしまうと「とおく」「しらないけしき」や「そらのあおさ」も見えては来ない。現況のウクライナ侵攻を考えても明らかだが、「自己が絶対に正しい」と考えれば他者を攻めるだけで戦争はいつまでも解決し平和は訪れない。むしろ「絶対無理」だと考えてしまったことを、「いや!こうしたわずかな可能性があるかもしれない」と「かんがえる」ことが、過去の歴史でも諍いを鎮めてきたはずだ。もちろん戦争は、決してあるべきではない。だが人と人とが冒頭の詩のように「けんか」をした際には「しらないきもちが かくれてて」と新たな局面を垣間見ることができるのだ。物事は「絶対」と考えずに、小さな可能性を信じてみよう。これこそが人としての叡智の第一歩ではないか。

未来を信じるならば
あらゆる可能性を「かんがえる」
詩歌の音読から人が教えられることは数知れない。


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説明したがるゆえに授業はつまらない

2023-05-23
『伊勢物語』第9段の折句の和歌を
高校生に紹介する文章という課題
多くの学生たちが「説明的」に「修辞技巧が・・・な歌である」と

「説明的」と言われると短歌の批評としては、ダメ出しされたことになる。同様な批評としては、読者に伝えて想像を委ねる余地があるのではなく「自分で結論を言ってしまった」などとも言われる。特に感情語は自分で言わず読者に感じさせるために入れるべきではなく、丁寧で具体的な描写により読者がイメージしやすくすることが肝要であると入門書などでは説かれている。教材としての文章の類別に「説明文」があるが、これと「文学」特に「短歌」はその表現において根本的に違うといえる。前者は文字による「情報」であるが、後者は「コトバ」として文字を扉に声にして心を開き、作者が言い得なかったことを読まねばならない。だが多くの小中高の「国語」の授業では、この大きな違いが認識されていないことが多い。あらゆることに「わかりやすい」を念頭に置きがちだ。

冒頭に記した課題を講義で課した。すると多くの学生が、実に「説明的」な紹介文を提出してきた。「高校生に古典和歌の魅了を伝える紹介文」と課したのだが、読んでみて「魅力」に心を踊らせる可能性のある内容は少なかった。若山牧水は前項で述べた「説明的な短歌」のことを、「そうですか歌」と呼んで批評している。その歌を読んだ読者が「そうですか」との感想しか持ち得ず、イメージが広がらない歌のことだ。残念ながら学生たちの課題は「そうですか紹介文」がほとんどであった。入試対策ということもあり、高等学校では「小論文の書き方」を教えることが多い。「客観的」などと格好をつけた言い方で、「説明的そうですか文」を書かせることに躍起だ。その反面、「文芸的表現」にあそぶ機会は少ない。だが現行の指導要領になって、「創作」を言語活動にする方向性が明らかに打ち出されている。これについては僕も研究学会のパネリストを担当し、その内容は論文化した。ゆえに、これから教師になる学生たちには、ぜひとも「文芸表現」を学ぶ時間が大学時代に必要になる。「説明的」がいかにつまらないか、それは90分間を話だけを聞く講義を体験すれば、彼らが一番よく知っているのだから。

「魅力」は各自が「こころ」で感じられること
広島平和記念資料館でG7首脳が「説明」を受けたのでなく「こころ」で感じたことを願う
なぜ教師は「説明」したがるのか?「コトバの経験」になるような学びの場を創り出せ!


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