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講義は学生が創るもの

2021-10-08
オンライン同時双方向
指導者が語るだけというイメージではなく
受講者が語り合って講義を創る

オンライン講義には指導する我々も学生たちも、すっかり慣れた感がある。全国の大学の個々の状況を鑑みると、現在の2学年生は入学以来「オンライン講義」ばかりを受けて来たので人間関係など様々な面が懸念されている。昨年度はそのような心配もあったが、今年度4月からは人数規模が適切である条件にも助けられ、少なくとも自らの専攻の担当学生たちは元気である。以前よりよく私大の研究仲間の先生方からは、「国立は人数も少なく担当授業も少なくてよい」と羨ましがられていたが、特にこの前者に関しては大変に適切な人数で学びを創ることができる。ちなみに「担当授業数」は、決して少ないわけではないと思うのであるが。新自由主義的に対費用効果ばかりを指標にすると、私大のような発想と比較することになるのだが、やはり教育には適切な「学生数/指導者数」が求められる。ゼミは1学年5名以内、専攻の学生は15名前後というのが僕の置かれた環境であるが、個々に対して密度が高く親身の指導をするならこの規模が適切なのは明らかであろう。

オンライン講義に関しては、前期の経験からすると比較的学生たち自身が「希望」する場合が少なくない。対面とオンラインが選べるハイブリッド型を、実践してみた結果である。また対面になっても課題提出・資料提示などは、オンライン上の教学システムをそのまま使用する。これによって大幅に印刷費用を節約することができ、課題を物理的に研究室に保管する必要もなくなった。もちろん、印刷に費やす時間もバカにならず、最近は授業準備から「印刷時間」が削られた効用がある。昨日は当該2年生の配当科目講義が二コマあったが、学生ら全員に講義テーマの前提となる内容を語ってもらった。オンラインで「学生を置き去り」にするというのは、やはり「集団一斉教授」的な発想で「指導者が上から教え込むように喋るだけ」の講義スタイルである。従前から大切な意識であったが、「講義は学び手である学生たちが創る」ということがオンラインによってより鮮明に意識されるようになった。指導者のやり方そのものが適切かどうか?をオンラインは浮き彫りにするという訳である。

適切な人数と適切な方法
言い訳なく学生らを育てるために
オンラインがある意味で単位の実質化にも大きな貢献をしてくれている。


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多様ってなんだろうか?ー「それを横より見てゐる心」

2021-10-07
「人がみな
 同じ方角に向いて行く。
 それを横より見てゐる心」(石川啄木の短歌より)

後期担当「国語」複数担当者科目でそれぞれの専門に関連した内容について、小学校で「国語」の授業をする際の基本的な教材の分析・解釈・批評・評価ができるようすることを目標とするものである。今年度は他の担当者の都合で後期開始直後から4回を僕が担当することになった。小学校教員免許状はどのコース・専攻でも卒業要件になっているゆえ、ほぼ学部1年生が全員履修する科目である。この限られた時間数の中で何を教えるかは実に悩ましいが、それだけに十分な精査も必要となる。毎年、必ず伝えたいことは「国語」では「多様性」を学ぶべきということ。ただし昨今はあらゆる場面で「多様」という言葉が使用されるのだが、それだけに真の意味で「多様ではない」ことを指して使用されることも少なくない。そう言っておかないと社会的に批判を受けるゆえ、言葉だけ「多様」と言って逃げているケースが多いということだ。果たして「多様」ってなんだろうか?

大学1年生は高校段階から「入試」をくぐり抜けて入学している。共通テストではマークシート式で(「記述式」が頓挫した)一つの「最適解」が求められる。「国語」に関する設問では「多様」な解釈は許容せず、「唯一無二」の「正解」を求める思考が自ずと身につく。教科によって、また「国語」においても設問分野によってはこれで仕方ない場合もあるが、特に「文学」に関わる問いに対しては「唯一無二の正解」はむしろあり得ない。それゆえに「文学」を入試で問うべきではないという風潮も加速して席巻している傾向も強い。中学校ぐらいから「文学」であっても「まとめ」があって「先生の解釈」を「試験」で書けば評価が高くなるので、仮に自分は違う考え方をしたとしても「先生の正解」を覚え、頽廃的で服従的な思考しか育たない「国語」の授業が横行する。やがて高校入試を経て大学入試に至る。こうした中高「国語」授業の誤った「方角」にみなが楽だからしがみつき、その結果で「文学は入試で扱えない」というのは、この国に育つ若者の思考力を衰退させることになるのではないか。話題は迂遠したが、ゆえに教師を目指す大学1年生には、自らの小中高の教育経験を相対化させ、「国語」は「多様な思考を育む」ことを具体的に語るのである。

他者との違いを自覚し自らの傾向を悟ること
1週目はオンライン講義ながら5人ずつのグループ対話を実施
谷川俊太郎・金子みすゞ・吉野弘らの詩を、あなたはどのような傾向で読むのだろうか?


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調べればよい時代にーわからないこともある

2021-07-31
すぐに調べるのはよい習慣ながら
スマホで信憑性の定かでない情報に依存していないか
ルールは知っておかないと試合はできない

この約10年ほどの間に、スマホで調べることが日常化した。飲食店もその評判も、行きたい場所も、最新のニュースも、緊急な情報まで、ほぼスマホで調べるのが早いのは確かだ。僕自身は仕事上、総合辞書・事典類データベース「Japan Knowledge Personal」を契約しており、年間22000円の料金を支払い、膨大な数の辞書・事典をWebを介してスマホに格納しいつでもどこでも持ち運んでいる。講義・演習・ゼミ中に学生の発表や発言について調べたくなることがあり、スマホを操作することがあるが、その光景を学生は「先生も同じ!」という安堵感のある目をして僕を見ている。その目を感じた際にはいつも、「年間22000円の契約サイト」であることを告げると、学生たちは「高い!」と驚きの表情を浮かべる。「月々約1800円でこの教室に収まりきれないほどの信頼性のある辞書類をスマホ内で持ち運べる!なんと安いではないか!」と僕は切り返す。書籍・データベース・Web情報の価値の問題を浮き彫りにするやり取りとして、執拗に学生たちに訴える内容だ。

「上中古文学史」の講義では1年生ということもあるが、学生たちに「覚え込む」ことから「関連を考える」思考に変化させることに苦心している。中高の学習や大学・高校入試を経験してきた学生は「学習=暗記」という意識からなかなか脱しない。例えば、成立年次の定かでない作品などにおいても、「どのように答えを書いたらよいか」といった感覚が拭い去れない。もとより「成立」そのものが一回性であるわけでもなく、和歌の原資料とか伝承・説話的なものが集約され編纂され次第に現在認識できる作品形態になったという理解を、「入試的正解主義学力観」は許さないというわけだ。現代語訳などでも「スマホで検索したら」と平然と言う学生もいて、既に現役学生世代で「調べる」という行為は「図書館」ではなく「スマホ」になっている。本学の図書館でも前述した「Japan Knowledge」が館内の端末で利用できることは告知するのだが、果たしてどれほどの学生が調べているか疑わしい。(少なくともゼミ生は卒論などの際には調べている)さらによくないのは、「調べればわかる時代」だという社会に甘えてしまうこと。教員になって「古典」の授業をする際の「基礎体力」として「文学史」は欠かせない。運動競技ならば、少なくとも「ルール」を試合の際に調べていてはプレーはできない。試合中のどのような状況変化にも対応できる力、「系統立てた思考」が意識せずに動作化できるか、比喩的にそんな力を「中高国語教員免許状」の基礎体力と考えたいと思っている。

「正解=事実」否、
すべてが「解釈」という相対化の中に
この世にはわからないこともある、が常識ではなくなる虚飾社会にしてはなるまい。


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講義の学びスピーチから気づくこと

2021-07-27
スピーチでこそ表出する心
嫌われない「古典」嫌われない「国語」であるために
講義最終週にあたり

前期講義も最終週に入った。15回目の講義でこれまで何を学んだか?〈教室〉で個々の考えを提供してもらい相互に気づきを得る時間とする。『伊勢物語』を扱う講義では、「高校生に向けて『伊勢』の魅力を語るスピーチ」を1分30秒ずつ展開してもらった。未だ「高校古典学習」には文法の丸暗記や断片的な教材の扱いから、嫌悪感を示す者が少なくないことが知られる。それを受けて大学講義でいかに古典に親しみを持てるようにするか、免許状授与機関として重要な役割があるとように思う。本来は小学校から「古典に親しむ」ということは、大きな目標になっているはずであるが、現場の実情はなかなかそうならないことが学生たちの教育経験から知られる。『伊勢物語』は「むかし男」の恋愛譚が主なるテーマとなる物語であるが、人間の「愛情」という点において、学生らには現実生活上でも響く内容が多い。高校までの「古典教育」でも、「愛」と「恋」をもっと前面に出した授業が為されるべきと思う。それにしても教員を目指す学生たちのスピーチは、なかなか訴える力があった。

「1分30秒」は、ひとまとまりのテーマを冗長にならず具体的にスピーチする単位であると考える。「×2=3分00秒」「×3=4分30秒」「×4=6分00秒」と倍加していくと、かなりの内容を主張することができる。講義では「ちびまる子ちゃん1話分(約12分)」という原則を意識するのだが、それは「6分00秒×2」という感覚である。一人の人間が同じ速度やトーンで「13分」を話すと、人々は「冗長だ」と感じるらしいのは、この五輪の開会式に対するWeb上での批判的意見でわかる。「テーマの全体像」「要点の明示」「具体例の列挙」「要点の連携」といった構成で、「1分30秒」ごとに「ギアチェンジ」する感覚が大切であるように思う。また「6分」話をしたら、聴き手が主体的に思考し発表する時間を「6分」組み合わせるとよい。こんなことを考えながら、学生らにこの「時間単位」でスピーチの感覚を身につけさせることは、教員養成として大切なことだとあらためて思う。自戒を込めて言うが「教師は話が長い」、いずれの校種でも朝礼の「話」がキツかったという経験は誰しもが持つだろう。効果的な「話す 聞く」を学生時代に意識として根付かせておく必要がある。その前提として大学教員も「冗長で主旨のわからない話」を、まずは自覚して避けなければなるまい。

スピーチに体操競技の構成の感覚を
これは一首の短歌にもいえることだろう
五輪の喧騒が巷間を覆うのだが、学生たちは期末レポートなどに必死な時期だ。


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当事者の立場で考えるために

2021-07-20
生徒・学生の身になって
「親身」=「肉親であるかのような」
みずからその身になって・・・・・

人はどれほど「当事者」の立場で物事を考えられるのであろうか?昨今はあまりにも所謂「当事者意識」のない事例が社会に溢れており、常々考えさせられる機会も多い。また新型コロナ感染が世界中に拡大したことで、各国の政府や社会の「当事者意識」も浮き彫りにしたようにも見える。為政者の被災地視察などの姿勢を見るに、果たしてどこまで「当事者意識」があるかなどと考えてしまう。社会や国家の問題ばかりではなく、個々人の考え方にも他者に対してどれほどにその人の立場で考えているかには差が大きいだろう。基本的に「親身」であるはずの教員の場合でも、その深浅は少なからずあるものだ。文字通り「親身」とは、「親の立場になって考える」ことであるはずで、「親」には「みづから」という意味もある。「自ら生徒・学生の立場になって」というのは簡単なようで難しい。かつて城山三郎の小説『今日は再び来らず』に登場する予備校は、「親身の指導」を主眼とした教育をしていたことが思い返される。

相互に「当事者意識」を持つためにも、「自らを語り合う」機会が貴重だ。僕らの仕事で言えば、どれほど講義などを通じて学生が語る機会を設けるかが重要である。昨日はオムニバス(複数教員)担当講義で学生が「国語教師を目指した理由」を主軸に、どのような学生生活を送り講義から何を学んだか?などを盛り込んだスピーチを発表する機会であった。自身の小中高での「国語教育体験」なども語られて、クラスの学生同士も僕ら教員も「当事者意識」を持つのに有効な機会であったと実感できた。「みづから」を語るということは自ずと個性的な内容になり、手元にメモ書きはあるにしても学生らの「私はこのようなわたしだ!」という訴えるような語りに未来が見えた。僕ら教員は、そんな個々の志望や学びの立場になって教員となる支援をしなくてはなるまい。「教える」とは「自ら気づく」ことでもある。「学ぶ」とは其処にいる人の立場を「真似ぶ」ことでもある。僕らは向き合っている「当事者」の立場になる想像力を養うためにも、文学を学んでいるのだ。

「この子らを孕りし日の母のことふと思う試験監督しつつ」
(『俵万智』サラダ記念日より)
〈教室〉ではいつも「親身」になって考えることが必須だと教えてくれる短歌だ。


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ラジオの海に抱かれたい

2021-07-14
大学におけるワクチン職域接種
オンデマンド講義にて久しぶりにラジオの声で
課題短歌は題詠「海」

大学で職域接種が始まっており、学生・教職員への接種が順調に進んでいる。学内でこれを采配する職員の方々のご苦労はいかばかりかと、頭が下がる思いである。希望調査から予約サイトの立ち上げ、接種場所や打ち手の確保、たぶんそれ以上に目に見えない苦労が山積であるはずだ。この現場の努力に対しては、せめて希望者分は問題なくワクチンが供給されることを願う。個々の国民への公約を私たちは忘れるべきではなく、接種促進を上から命じた前提となる責務であると思う。この学内状況で全学学生が対象の基礎教育科目においては、「オンデマンド講義」での実施依頼があった。この曜日が接種日となる対象学部があると、講義に出席できない学生が生じるということで、いつでも学生の可能な時間に講義が受講できる「オンデマンド」の要請である。急な依頼のように見えるが、昨年1年間でこうしたオンライン講義の形式を僕らは学んでいるので、まったく問題なく「オンデマンド講義」に移行を決めた。久しぶりに1年前を思い出して、「ラジオ放送方式」の音声と資料を配信する形式である。

ただWeb上に「音声」や「資料」を掲載する方式では、その内容の「著作権」が問題となる。使用する教材としての「歌詞」や、音源として「音楽」を流すことは、ライブでのオンライン講義とは違い控えなければならない。ただこれにも対策がないわけではなく、学生らにYouTube動画を各自で閲覧するように指示する形式で対応する。使用したい音楽・歌謡曲の映像はたいていがYouTube上に存在している。今やYouTubeは貴重な教材であるとも言えるのである。この日はサザンオールスターズの「涙の海で抱かれたい-SEA OF LOVE」が課題曲、梅雨も明けている宮崎で「恋と真夏」というテーマを考える内容であった。ビーチでのひと夏の恋、寺山修司の短歌なども紹介し、「海と夏」というサザンに欠かせない素材についてラジオ方式で語った。前週からの課題短歌創作も題詠「海」、僕が秀歌と思える10首を選び紹介した。砕ける波・潮風・航海・海の幸・山と海・白鳥など素材や視点に特徴ある短歌にはキラリと光るものがあった。久しぶりでWebへの掲載までは手間取ったが、収録を終えてあらためて「ラジオ方式」の利点も感じた。「聴く活動」の少ない社会において「耳で思考する」行為が学生たちの想像力を育てるものと考えている。

ラジオは海になぜかよく似合う
浜辺で流れる音楽のイメージが忘れられず
ラジオの海に抱かれたい


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愛ってなんですか?古典から考えるために

2021-07-09
「おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩の上露」(紫の上)
「ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先だつほど経ずもがな」(光源氏)
辞世の唱和をいかに読み取るか?

前期講義もあと数回を残すのみ、内容的にも佳境に入るものが多い。2年生対象の『源氏物語』を扱う科目は、光源氏の最愛の妻・紫の上が死期を間近に察し自らの命が長くないと悟った心を歌に詠み、源氏や明石の中宮がそれに唱和するという場面を読んだ。紫の上と光源氏の和歌は冒頭に記した通りだが、その表現から相互の愛情がどのように読み取れるか?という点についてグループごとに対話をして全体共有するという方法で講義を進めた。辞世の歌にしても光源氏への気遣い、急な死で光源氏が驚き苦しまないような配慮、などという読みもあれば、やはり二人は最期にいたり深い愛を確かめ合ったという読みをするグループもあった。普遍的に人の愛とは何だろう?ということを必然的に考える対話ができた。物語の中では光源氏の様々な女性遍歴が描かれるが、社会的には「正妻格」とされて、その「格」が付くことにはこれまでの講義対話でも深く考えて来た内容である。夫妻の「愛」とは何であろうか?

昨今の若者において「恋愛忌避」や「晩婚化」の傾向が指摘されて久しい。その結果としての「少子化」の問題はこの国の社会が正常に歩めるかどうか?に関わる大きな問題である。社会の各所で対策は講じられていようが、政治から示されるものは旧態な体質を背負い根本的な解決に寄与するには望みがあまりに薄い。たぶん新型コロナの感染対策においても折に若者が問題となるのは、政治・社会と若い世代との意識の乖離があるように思えてならない。「学校」一つ見ても組織内において大量退職が続く50代と20代の新任教員との感覚の違いは甚だしいように思うことがある。「最近の若者は・・・」という以前に「最近の中高年は・・・」と自らを見つめた方がいい。学生らと接していて思うのだが、「深く考えている若者」も少なくないのだ。その証拠に多くの官僚腐敗体質が露見する中で、官僚を志望する若者の率は年々減少していると聞く。若者たちを臆病に去勢してしまう原因は何だろう?学習も受験も習い事もボランティアも強引に大人の勝手で押し付けられ、押し付けた当事者から「主体的に」などと訓示が垂れ流されると必然的に若者のやる気を削いでいるのではないだろうか?

若者の生きた声を聴こう!
ゆえに短歌があると僕は思う。
学生たちの心に十分に耳を傾ける人でありたい。


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非情のライセンスPC編

2021-06-09
嘗ての型破りなハードボイルド
しかし、肝心な時に動かない非情
心を落ち着けて向き合う試練か

「非情」という語を使用しようとしたら、ついつい昭和の『非常のライセンス』というハードボイルド刑事ドラマのタイトルを思い出した。型破りな捜査で悪と闘い、もちろん各回で見事に事件は解決する。それ以前に僕の印象に深いのは、『キイハンター』というやはりハードボイルドドラマのエンデイングに流れる野際陽子が歌う主題歌である。まだ幼少で番組の進行もよくわからなかったが、土曜日9時という子どもがテレビ視聴を平日は許されない時間帯に特権が与えられるという喜びとともに、『8時だよ!全員集合』が終わるとすぐに始まるというタイミングも大きな視聴動機であったのを思い出す。話は最初から横道に逸れたが、昨日は「非情なPC」と向き合う1日となった。朝方、研究室に出向きこの日の講義で使用するプレゼンソフトを立ち上げようとすると何度やっても初期段階で「問題発生」となって落ちてしまう。仕方なく同期しているタブレットを開くと、正常に前日までに創り込んだソフトが立ち上がった。少なくともタブレットを使用すれば講義はできると、そのバックアップの重要性にもあらためて気付かされた朝だった。

原因はどうやらソフトウェアのアップデート(更新)が為されていなかったかららしい。まずプレゼンソフトを更新し、更にはOSの更新へ。クラウドの更新なども含めてほぼ90分近くを要したと思う。かくして危機から脱したわけだが、それにしてもPCは「非情」だと聊か恨んだ。先週末に学会プレテストで使用して大きな負荷がかかったのも確かだろう。いや、学会本番前に更新が為されてよかったとも言える。それにしても「アップデート」を舐めてはいけない、常に新しい状態に更新しておくべきである。かくしてハイブリッド講義を実施するために附属図書館へ出向くと、今度はプロジェクターにPCが上手く接続されない。前週までに使用する部屋に不都合を感じたため、違う部屋に移動したためのトラブルだ。職員の方にもサポートいただいたが、結局はHDMI配線で繋がらず、VGAの旧式配線で繋ぐことでかろうじて会場にPC画面が投影された。しかしPC関係で「非情」の上に「非情」の上塗りのような一日であった。講義終了後は一気に疲労に襲われ、図書館カフェでしばし放心状態。どんなトラブルも乗り越えることと、バックアップそして何よりアップデートの大切さを痛感した一日であった。

野際陽子の声のごとく
「ウフン ラムール(愛)アー ラモール(死)」
仕事の強力なパートナーであるPCが死なぬように愛せよということか。


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〈話す 聞く〉から学びは動く

2021-06-08
学ぶ者は互いの言葉に学びあり
〈話す 聞く〉はかけ離れ難く一体の活動
「よく聞かない」人に話し上手はいない

授業・講義の方法を「主体的に」と言われてから久しい。「アクティブラーニング」だとか「対話的活動」だとか、派生的に同じ方向性を示した物言いである。「学び」は「学ぶ者」が相互の〈話す 聞く〉の活動の中から主体的に自ら見つけ出すものである。しかし今尚、「集団一斉教授」という〈教室〉の形式はそう簡単には改まらないようだ。その上、新型コロナ以後の「飛沫防止」という規制がかかって、なおさら対面であっても距離をとって隔絶した場所から指導者が一方的に話し続けるという形式に拘泥しなければならないかのように見える。努力して構築している「オンライン講義」の内容そのものも、そう易々と「学習者主体」を叶えるのは難しい。ある意味で「一斉教授」方式は、工夫なく「やってる感」だけをなし得ることができ、授業者として極めて「楽」である。だが優れた授業者は違う、たとえ一方的に話していたとしても聞く者の「思考」を動かす工夫があるということを忘れるべきではない。

同じ立場から同系統の主張を、同じ声で同じトーンで同じ速度で語られ続けたとしよう。「聞く側」の集中が持つのは、せいぜい10分程度であろう。小さな子どもらでも完結するまで飽きずに観ることができる「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」の一話分の時間には必然的な意味がある。その反面、幼少の頃に長いドラマや映画に飽きてしまった経験はないだろうか。固着した形態が長く続くというのは、誰しもが必ず飽和状態を迎えるだろう。ということをわかってか?無自覚なのか?教育の場での話は往々にして無駄に「長い」のである。「説明」の要素があるものは書物からでも自ら学べる、しかし〈話す 聞く〉から学びを喚起することは〈教室〉でしかできない。他者の意外な発想に刺激を受けたり、賛同も反発もある多様な意見を〈話す 聞く〉ことで学びは醸成される。嘗て「スタンフォード白熱教室」という番組があって、米国スタンフォード大学の学生たちが極めて活動的に学ぶ姿が映し出されていた。彼らの〈話す 聞く〉の映像を観ることで僕らは多くを学べた。あくまで学習者の創造的思考が動き発見があるか?そこが肝心要なのである。

いつまでも〈話す 聞く〉を奪われていてはならない
オンラインを含めて学習者の〈話す 聞く〉時間を確保する
「思考」の原点はそこにあり、よって人間は言葉を失っては生きていけないのである。


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学ぶ自由と利害得失

2021-06-02
学びたいはずの選択
感染対策という大義
虚空に浮いた講義を省みて

学びは自ら進んで主体的で自由でありたい、誰しもがそう思っているはずだ。中学校・高校ではよく「暗誦」をさせたりするが、強制的に評価で縛り付けテストを行うがゆえに「仕方なく」覚えることが多い。テストが終わると氷のように、暗誦した内容は脳内から溶解し流れ去ってしまう。しかも「強制された」という経験が負の作用に働き、「暗誦」を行なった科目までもが嫌いになってしまう場合がある。主に「古典」や「英語」にこのケースがよく見られる。昨今の高校ではさらに「入試に要るか要らぬか」で、生徒の学ぶ意欲が大きく左右されているケースを多く耳にする。生徒のみならず高校教員までが同じ感覚で、「国語」の中の「漢文」などは「要らない」と平然と言い放つ教員がいる。あくまで「入試」が最大の基準であって、「文化」「歴史」「芸術」などの視点で生きることを豊かになどとはほとんど考えない。「学び」というものをこの国では「利害得失」にしてしまった際たる例である。

企業は経常利益、大学は就職率、TV番組は視聴率、いずれも結果のみが重要視される。ならば大学講義は、単位取得の利害得失のみが大切ということなのだろうか?僕の母校ではその学風もあって、「学問の自由」を前面に出した講義科目が多かった。出席は取らず強制力はないのだが、その講義内容から学べる内容に自ずと多くの学生が耳を傾けた。もちろん学生側に「利害得失」の思考がなかったわけではなく、情報誌サークルが「楽勝科目」かどうかを詳細を報じていた。僕はよく「ゲテモノ喰い」と言って、評価が厳しい科目に敢えて挑む習性があった。「厳しい」中にこそ学びがあると考えたゆえである。その上でやはり、「自由」でも学生を学ぶ気にさせる科目は理想だと思っていた。さて自らが講義を担当する現状では「感染対策」という大義があって、「対面+オンライン」の併用講義を展開している。受講者数が多くなったゆえであるが、この初体験の中で前述したような点に心底苦心をしている。開講当初から「人数制限」をすべきとは思っていたが、より多くの学生に短歌を好きになってもらいたいという欲望がそれを拒んだ。まさに「対面」に来る意味は何か?その場に「利害得失」を超えた学びを醸成せねばなるまい。大教室で何も考えず「密」に講義をしていればよかったのか?否、自らを厳しい立場に置いて自ら学ぶ「ゲテモノ喰い」は今も治らないようだ。

対面・同時双方向オンライン・オンデマンド
様々な講義方式の融合に各々の利点と欠点がある
最後はあくまで短歌の魅力だけを信じている。


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