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人懐っこさを取り戻そう

2024-02-08
講義前後の雑談や声かけなど
先生とは楽しく話したものだ
人懐っこさこそが貴重な時代

2020年の今頃、得体の知れない感染症の話題が少しずつ社会に滲み出していた。そしてわずか2ヶ月もしないうちに、社会の人々がお互いに安易に会うことができなくなってしまった。ちょうど教務担当副学部長の任にあったため、4月からの講義開始を1ヶ月遅らせたり、オンラインの方針を模索したり人類史上の特異な体験をすることができた。あれから4年目の春、僕らの生活は「日常を取り戻した」ということなのだろうか?。もとより「取り戻す」という発想自体がいただけない、「元に戻る」だけで進歩が見えない趣旨が臭うからだ。むしろ知らぬ間に失っていることに自覚的になり、新たな歩みを模索するようでありたい。

非常勤先で試験を行い今期を終えた。特に3年生とは前後期と1年間32回の付き合いであった。何となく「最後」というのが惜しまれるようで、お互いに愛着が芽生えているのを実感できた。4月当初、初めての教室で機材のことで僕が困っていれば事務担当を呼んできてくれたり、講義前後に雑談のように話す学生たちが次第に増えた。ここ3、4年で失われたものに「雑談」があると僕は思っている。〈教室〉に行ったら、なるべく学生たちの日常の声を知りたい。小さな会話にこそ学ぶための契機が隠れているものだ。もちろん今も感染症には注意が必要だが、人と人として大切な人懐っこさこそを求めてもよいのではないか。学生の中には僕の本務校の学生とバイトが一緒だとか、諸々と話しかけてくれる。僕自身の常勤非常勤など別にして、〈教室〉での雑談を活気づけたいものだ。

僕もよく先生に話に行くことで
多くの生きるヒントをいただいた
人を孤立化させる感染症にはこんな面でも抗して行かねばなるまい。


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クリスマスだからじゃないー特別企画補講

2023-12-23
「Kissin’Christmas クリスマスだからじゃない2023」 MV 公開
待ってました『日本の恋歌とクリスマスー短歌とj-pop』をテキストにした補講
学生さん世代のクリスマスソングリクエストとともに

人々が「会う」こと、そしてお互いを確かめるように「ハグ(抱き合い)」「キス(接吻)」を交わす。2020年から3年間、人類にとって一番大切だと思われるこの行為が普通にできなかった。世紀次元のパンデミックが、人々の「会う」を尽く阻害した。どんなに科学が進歩しても、世界が未知のウイルスで閉塞的な状況に追い込まれることをまさに人類規模で体験した。感染の世界的拡大とは因果関係があるわけではないが、パンデミックが解消したら世界で幾多の人々が戦火に見舞われて明日が見えない状況に追い込まれている。地球温暖化への急務な対応を始め、人類には「内輪」で諍いを起こし「人殺し」をし合う時間などないはずだ。今こそ「仲良くしようよ」という幼児の時に最初に大人から言われる言葉を人類規模で実践するしかない。

「Kissin’Christmas クリスマスだからじゃない2023」 スペシャルリリックビデオが21日に 公開され、昨日の早朝に観た。多様な「二人」が笑顔で「ハグ」や「キス」に及ぶその素朴で大切な映像に桑田佳祐さん・松任谷由実さんらのユニークな歌唱映像が加えられている。この日は非常勤先の補講を設定していたが、自著『日本の恋歌とクリスマスー短歌とj-pop』(新典社新書108)をテキストにしており、さながら補講イブイブ特別企画という様相で授業展開をした。今の学生さんたちの世代は、どんなクリスマスソングに心が揺さぶられるのか?この日はリクエストを受けてWebを駆使しての「クリスマス物語」鑑賞会のようになっていった。教室の投影の大きさやスピーカーもよろしく、大きなライブ映像の迫力に魅了された。次第に学生さんたちは、スマホの懐中電灯機能をオンにして左右に揺れる光のウェーブを行い始めた。この和んだ心からこそクリスマスや年末年始の平和と幸せを祈る心が生まれるだろう。最終コマなので終了するとすっかり暗く、寒さきびしき中に「Merry Christmas! and Happy New year!」をお互いに告げながら今年の担当講義が全て終了した。

「仲良くしようよ」
まずは眼の前の人との「幸せ」を作ること
「クリスマスだからじゃない」世界の「今日」が愛に包まれ平和でありますように。


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連想することばの学習ー連歌(連句)を楽しむ

2023-12-15
文学史講義の活動として
「連歌式目(ルール)」より適応する項目を絞り
自由な発想で現代のことばの学習として

毎年恒例となったが学部2年生配当「国文学史Ⅲ」(各時代の要となる作品を深く理解する)で「連歌(連句)実作会」の活動を実施する。前週には「応安新式(南北朝時代に二条良基により連歌の規則を制定したもので、その後の規範となる。)」の主要な項目から、自分たちの連歌実作に適応できそうな項目を選択する作業を行う。さらに現代連句の例において所々を空白として、付句の演習をする。最後に実際は歌人らによってどう付けられたかを情報提供し、自らの付け句を相対化してみる。このような準備を経て、昨日の連歌(連句)会に至った。季題「冬ーもみの灯の巻」として十日後となったクリスマスを連想する発句から始める。

今回は試みとして、チームを構成して進行をすることにした。前の句がついたら、持ち時間2分間のうちにチーム内で話し合い付け句を決める。昨年度までは個人で行なっていたが、発想が乏しかったり、高校までの正解主義の思考が邪魔したり、周囲の眼を気にしたりでなかなか豊かに楽しい時間になりずらかった。やはりチームで行うと「私個人の表現ではない」という連帯の安心感があるのだろう、2分間の凝集した話し合いは、実に楽しそうな学びの時間になっていた。それでもなお、季題を転換し「付き過ぎ」にならぬようにするのは難しいようで、類想的なことばが連なってしまう場合も少なくなかった。最後に付け合いを振り返り、前後の関係から自己批評のコメントを各チームから。笑いの中で学生たち世代の普段は見せない発想が垣間見られた。

ぜひ小中高でも行なって欲しい活動
この学生たちが教師になって豊かな授業を
「国語好き」を増やすのも教員養成の急務な課題だと心得ている。


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イメージからイメージを紡ぐ

2023-12-08
「日向路や帰る『たかちほ』去年今年」
宮崎ー神戸に就航している新船フェリー
年越しに乗船したとする想像が何を生み出していくか?

具体的で丁寧な描写があれば、イメージからイメージを紡ぐことができる。宮崎と神戸を結ぶフェリー航路があるが、10年以上在住してまだ一度も乗船したことがない。昨年には新しい船体「たかちほ」が就航し、現在は「ろっこう」とともに双方の寄港地の山の名を冠して往来が続いている。リーグ3連覇したオリックスバファローズが宮崎にキャンプ地を移してから来年で10周年と聞き、ホームの土地・神戸からファンのキャンプへの往来としても有効な航路である。何より「宮崎でキャンプをするようになって強くなった」というのも嬉しいことで、さらには宮崎で高校生活を過ごした山本由伸投手が日本を代表する投手としてMLBを目指しているもの頼もしい。

神戸から日向路の航路は牧水の時代から利用されたが、帰港地は「細島(日向市)」であったらしい。日向灘には航路の難所があり、当時の船だと宮崎し近辺への帰港に危険があったという話を聞いた。この日は「文学史」の講義で連歌について考えた。ただ知識だけを詰め込むのなら、Webでもできるが「式目(連歌のルール)」として「自分たちが歌を付ける」際に活かせそうなものを選択する対話をしたのちに、「付け句」の演習を行った。その発句としたのが冒頭の一句である。学生たちも「たかちほ」に乗船したことがある者は少ないが、そこはやや注釈を入れてグループごとに付け句を考案するようにした。僕が意図するように、イメージからイメージを紡ぐという感じで連鎖する言葉を紡ぐ班もあったが、スマホで諸々を調べるばかりでなかなか先へ進まない班もあった。式目があるとはいえ、「付け句」に正解はない。空洞化した概念や筋書きではない具体と描写をイメージしつつ、学生の発想そのものに変革をもたらせる効果がある演習だと感じた。

もとより「ことばのあそび」として
「フェリー」から何処まで想像の翼を拡げられるか?
「ことば」を楽しむ学習をもっともっと増やさねばならない。


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集ったら「声の文化」で語り合おう

2023-12-04
9回のオンデマンド視聴+6回の対面講義
まずは集中対面講義3コマ分を実施
やはり集まったら「声の文化」を大切にしたい

もう既に「新聞を音読して読む人」は、「絶滅危惧種」となった時代か?いや絶滅したことも忘れられたかもしれない。「昭和」の時代ころまでは、老人で「新聞を音読する」人が見らても決して不思議ではなかった。「音読による(文章)享受」が「黙読」に変遷し始めたのが、明治30年代から40年代、祖父祖母にその世代を生きた人・生まれた人がいれば「新聞を音読」することが身体化していたはず。そう考えると「黙読による享受」になってから、まだ110年ほどの歴史しかないことになる。その後、「声の文化」は「国語授業」の「音読」に意味を忘れられたまま、残存しているゆえに多くの児童生徒が違和感を持ちながらも説明されないままやらされているのが実情である。地域教育基礎教育科目「『短歌県みやざき』ことばの力と牧水入門」の第1回目の集中講義3コマ分を実施した。その進め方は前述の「声の文化」を存分に活用する形を採用した。

受講者40数名を、所属各学部が混ざり合うようにまず班を作る。最初の第1セクションは、「牧水の声と音に取材した歌」12首ほどを班内で読み合い、一番の「推しの一首」について「音読で紹介」してから「魅せられた要点」をコメントするという活動から。9回分のWeb上のコンテンツでは視聴して課題レポートに「書く」活動が中心になる。「孤」の中で牧水短歌を「文字」によって考えるように制作してある訳だ。よって学生たちが対面講義に出てきた際には、存分にそのリアルを活用すべく、「音声」を使用する機会を中心に展開する必要がある。5月以降、マスクも任意になった教室では、やはり発言コメントも聴きやすくなった。学部を超えたこの日に出逢った仲間たちと、声で語り合い声で考えを発表し合う。第2セクションでは「故郷の母と延岡」について同様な活動、第3セクションでは「宮崎を詠んだ歌」を取り上げながら「宮崎の良さ」を語るという活動を展開した。90分×3コマ連続という長丁場であったが、時間を忘れるほど学生たちの豊かな「声の文化体験」が教室に展開した。

「たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしきこころうちつれて鳴る」
なぜか人気があったこの酒の歌
次回は2月上旬に短歌創作のワークショップである。


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「語らない授業」という指摘

2023-11-30
学生たちと講義について語り合う時間
「語らない授業」という指摘に考えさせられる
なぜこれをするのか?先生はこう考えると教科書の行間を語ること

大学全体として学生参加の「授業への意見を聞く会」が企画開催され参加した。昨今、授業ごとにアンケート評価が学生の手によって為されるのは普通のことになった。各前後期ごとに学生側から僕たちの授業は評価され、特に自由記述欄に書かれていることは毎回の改善点として次期の授業に活かすようにしている。アンケートを読んで考えるのは、こうした自由記述にも意見が書きたくなる授業を目指したいということ。もちろん学生に積極的に書かれるためには、正負の両面があり「学生との対話が上質に生成された場合」と「学生がこれだけは勘弁してほしい」と思うことでもちろん前者を目指して授業に取り組んでいるということだ。特に「何のためにこの授業内容をその方法でしているのか?」という必然性が、学生に伝わるよにするか否かは大変に肝心な要素であるように思う。

この日の学生たちから出た「こうした授業は改善してほしい」という部類の意見で、「語らない授業」という指摘があった。「資料や教科書を読むだけ」など、聴いている学生に授業者の意識が向いていないということだろう。一人芝居のように自分だけで一方的に喋り、自分だけが納得しているかのように授業の時間を空費する。お客様あっての落語、お客様あっての音楽ライブとは全く正反対に、聴衆の存在を意識下に置かないような授業を学生は深く憂いていることがわかった。僕自身が生徒や学生の頃、やはり同様なことを大変に強く実感していた。それは僕が幼稚園の頃に「人の話を聴くときは、相手の眼を見てしっかり聴きます」と習慣化されていたため、高校の時などでも生徒の眼を見ないで勝手に喋る先生には甚だ辟易とした。反対にこちらが授業に集中していないことも見抜かれるほど、眼と眼で語り合えた先生もいた。大学となれば人数が多い講義もあるのだが、やはり原則は「一人一人(の眼に)に語りかける」ことだろう。コロナ禍でのオンライン講義のせいか眼を見ない学生も増えたと感じる昨今、「どうして対面に効果があるか?」という意識を常に持ち「相手の眼を見て語りたい」ものである。

自分勝手な自己完結・自己陶酔
いやいや90分をいかに浪費しているか
政治・社会でも横行する「語らない答弁」ばかりの社会は頽廃することを肝に銘じるべきだ。


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ライブ授業の対応力

2023-10-20
「資料提供」→「解説」ならオンラインでも
だが受講者の生の反応によるライブこそが授業
探究心を唆りながら相互に考える空間へ

本年前期に比べると、講義でマスクを着用している学生がだいぶ少なくなった。僕自身も最近はマスクなしで話をすることがほとんどになった。お互いに素顔を突き合わせて、表情全体で語り合うような「授業」が戻ってきたとも言える。(もちろん任意でマスクをしている学生を否定するものではない)向こう4年間において「オンライン授業」を行うことが多かったせいか、「資料提示」をして「自ら考えられる」方式の講義が普通になっているように自己省察をしてみた。提供する内容・展開は予定調和であり、受講者の疑問や探究心を即応して刺激するものになりにくい。そんな思いから、「オンラインでもできる授業」から「ライブでしかできない授業」をすべきではないかと思うようになった。

教職大学院の講義は特に、現場の疑問や問題意識に対応して多様な展開を意図して進行する。既に現職教員として何度も当該教材を扱ったことのある院生に、何をどのように提供したらよいか?はまさにライブによる即応力が求められる。「ライブ」というと音楽のそれを思い浮かべるが、「1曲目は何か?」と詮索したり「やって欲しい曲のイントロ」がきた時の待望感の爆裂のような感覚こそが、さらにそのミュージシャンを好きにさせてくれる。授業にも「マクラ」の意外性とか、自らが期待する内容に出逢えた時の喜びが学びを深くするはずである。「ライブ」にするためには、自らがあらゆる場合に対応する幅広い予想と展開力を持っておく必要がある。学部の文学史の講義では、まさに教育実習で『古今和歌集仮名序』を扱ったら「どのように文学史の知識を活かすか?」という問題意識を学生たちと対話をしながら作り上げた。敢えて「予定調和」になるスライドなどは提供しないで行ってみる。オンライン授業でどこか「スライドを見ることが学び」だといういささか安易で知識に偏った展開から、学び手をより主体的にする探究が求められると考えるゆえである。

学生たちとともに思考したという爽快感
そして「演習」では学生の問題意識を伝えるスピーチを実施
「教室」に集まって行えることの意義をあらためて貴重なものと考えて。


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「国語嫌い」だが「日本語・日本文学好き」

2023-10-19
学習課程の中の「国語」
作文も説明文も古典も短歌・俳句も嫌い
だが表現の面白さを知れば「日本語・日本文学」は好きになる

午前中は非常勤先での担当「国語科教育法」「文学」、さらに午後は本務校での「国語」と昼休みを挟み連続3講義が続く1日。この三つの担当科目だけを考えても、「国語」なのか「文学」なのかと諸々の差異や葛藤を伴いながら講義内容を編成している。だが共通して提供したいと思っていることに、「国語嫌いから抜け出し日本語・日本文学を好きになる」という壮大な「裏テーマ」を信念としている。それは講義の最初に「国語で嫌いだったこと・面白くなかったこと」を書いてもらうのだが、多くの学生が「作文・音読・説明文・要約・古典・短歌・俳句」などが嫌いであると言うのである。主に小学校教員を目指す学生たちにとっては、この精神的な障壁をなんとか取り払わねばならないと強く思う。なぜなら小学校で一番授業数が多いのが「国語」だからである。

中高国語教員に比べて専門性は高くないものの、多くの授業をする小学校教員の「国語観」が否定的なのは大きな問題であろう。何事でも自らが「苦手意識や嫌い」だと思っていては、教える児童らが「好きになる」授業をできないはずだ。せいぜい学習者が反骨精神で、主体的なやる気を起こす僅かな望みに期待するしかない。それゆえに「教員養成課程」においては、講義の看板を問わず学生たちの「国語嫌いから脱皮する」機会がぜひとも必要だと思うのだ。もとより学生たちは「日本語・日本文学」を嫌いなわけではない。少なくとも「短歌」に関しては、「ハードルが高い・わけがわからなかった」など小中高までの思いを明らかに好意的な方向に転換できる内容を提供している。総じて学生たちの気づきの記述から思うに、「日本語・日本文学が嫌いなのではなく、『国語』の授業方法そのものに嫌悪感を抱いている」のだと思うことがしばしばだ。「国語」という明治以来に塗り固められた虚像に、多くの学習者が嫌悪感を抱いていることを真摯に受け止めるべきだろう。

日常の言語生活に連なるものゆえ
自らの思考そのものを好きになるように
言葉や文学には大きな発見があることに期待を持たせたい。


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『万葉集』の音楽

2023-10-13
「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき」(東歌)
「なんと!その娘のこんなに愛しいの!」を導く音楽性
曲におけるサビのようなくり返しと耳に付く効果

担当する教職大学院科目のオムニバス担当期間が始まった。主に「和歌短歌教材」における小中学校での扱い方を考える内容だ。受講者は現職教員の院生が多く、こちらとしてもどのような意識で日頃の授業を構想・実践しているかなど学びの多い時間になる。この日は、なるべく素朴な問いを発し受講者の問題意識を喚起することを目指した。その中でやはり教員自身が和歌短歌教材の魅力を十分に掴んでいないのでは?という課題意識が浮上してきた。例えば、冒頭に記した『万葉集』の東歌は、どんな素晴らしさがあるのか?なかなか理解が不十分だというのだ。当該歌は中学校3年教科書に掲載され、簡単な現代語訳も添えてある。あくまで「意味」を深く考えようとすると「その娘が愛しい!」という程度で拍子抜けするといった意識である。だが当該歌の上の句では「多摩川にさらす布もさらさら(清々と)している」と清らかな水の流れに布をさらすという実景が浮かび、そのイメージが音楽のサビのように機能して「娘」の清らかさや「愛しさ」に重なっていくのである。まさに一首の音楽性を楽しみたい歌である。

午後一番は学部2年次配当「文学史Ⅱ」の講義。こちらでは中学校教材『万葉・古今・新古今』において採録歌数が、「万葉9首」に対して「古今3首・新古今3首」という編集上の偏りがなぜ生じているのかを考えてもらった。多くの学生から出た意見は、『万葉集』の素朴で意味がわかりやすい歌により、中学生が古典和歌に親しむ教材として有意義だというものだった。確かに前述のように簡易な現代語訳が付してある中学校教科書で、『万葉集』では訳が不要と思えるほど内容が理解しやすい。それに対して『古今・新古今』では「現代語訳を読んでも当該歌の理解は十分になされない」という意見が多く出された。もちろん元の歌集の収録歌数も『万葉』が約4500首と圧倒的に多いので、その配分比率が考慮されているという考え方もできる。(という理由だと『古今』『新古今』の同歌数が説明できないが)さらに『万葉集』という歌集が明治期になってから「国民的歌集」として仕立て上げられてきたという「近現代国家建設」の一翼を担う上で極端に尊重されたという歴史的な事実を紹介した。いずれにしても教員を目指す学部生が、この教材に和歌短歌の生命である音楽性も感得し、将来は豊かな授業を中学校で展開することを願いつつ講義を結んだ。

あらためて短歌の音楽性を考える
文章を書くときも音とリズムとサビのような効果を
「国語でなぜ音読するのか?」という根本的な理由を現代人は忘れている。


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接続コードが切れていたような

2023-10-12
教室の投影機にタブレットが繋がらない
事務の方を呼び悪戦苦闘した末に
接続コードを替えたらあっさりと映るとは・・・

様々なことが、うまく繋がらない日があるものだ。午前中は非常勤先で2コマ、前期も1コマ使用していた教室ゆえに機材には慣れてきたが、タブレットの音声を流す具合がどうもうまくいかない。その分、なるべく学生の発想した内容について発表をしてもらう機会を多く取ることで補うようにしてみた。昼休みに本務校へ帰り、おにぎりを片手に午後一番の講義の準備。こちらも学生が提出した課題作品から秀逸なものを3点紹介する下読みなどで交流と共感を教室に作り出したいなど企んでいた。1年生のほぼ全員が履修する科目で、大教室での講義となる。講義開始15分前には教室に行き、様々な機材トラブルにも対応できるようにしている。だが前週までは容易に接続されていたタブレットを投影機に繋いでも一向に画面がスクリーンに映らない。自ら接続方式を変更したり、可能な限りの対応をしてみたが状況は改善されない。

10分間の格闘ののち講義開始5分前、事務担当者を呼びに行き対応をお願いした。既に僕自身の対応したことも含めて改善作業を行なっていただく。代替のPCなども持参いただいたが、資料をタブレットのクラウド保存をしているのでUSBでは移行できない。もちろん代替PCでクラウドから落とせばよいが、OSの違いもあり短時間で処理できる作業ではない。資料はバックアップでスマホにも落とせるとか、講義後にアップする大学の教学システムを教室で「表示」に変更し格納されているPDFを映すなど、誠にありとあらゆる投影方法を考えた。講義開始から10分近く経過してしまった後、数人いらしていた事務員の一人が「念のため接続コードを替えてみましょう」と試みると繋いだ瞬間に正常通りの投影が為された。タブレットの接続形式までいじろうとしていたが、結局は肝心要のコードが断線していたという結末だった。もちろん、その間に行なった投影機とタブレットの再起動など、他の要素が関係している可能性も否定できないのだが。教室に常設の配線は、教卓や補助机の移動で常に外圧に曝されていることも学んだ。

目的のことが滞りなく遂行できるために
機材のあらゆる可能性を考えておかねばならぬ
今朝は有明の月が薄い光を東の空に放っているのが印象的であった。


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