対話的に自己をみること

2018-06-13
自己存在の様々な理由
他者のみならず自己の内なる他者
様々な癖と新たなる価値づけを創る

東京在住の両親が、しばらく宮崎の自宅に滞在していた。大人になってそして研究者となってから、これほど長きにわたり一緒に生活するのは初めてかもしれない。すると自分の中に理由付けができていなかった単純な癖や思考の傾向が、実は遺伝子由来であったことに気づくことがある。物事への対応、例えば冷蔵庫の食品をどう扱うか、起床就寝前後に何をどのように行動するか、等々が遺伝子なのか家庭教育なのか、自分の内なるものが親の姿で外側において発見されることがあるものだ。

だが正直なところ、それはよい面ばかりではない。今まで研究者を目指すために、自らを戒めてきた言動の傾向を親のうちに発見することがある。他者と話す際に「あれ・それ」と指示語を極力使用しないとか、食後は(もちろん食休みののち)むしろ動いて眠くならないように血糖値の上昇を抑えるよう行動するなどは、親の姿を反面教師として自らが社会性の中で成長した面であることもわかった。何れにしても対話性いわば、双方向に様々な話を繰り返しお互いが自己のうちに新たなる価値付けを発見することが求められるのであろう。

ゼミでも刺激的な挑発が必要でもある
自らの不甲斐なさ・だらしなさを知ることから人は起ち上がる
今、こうして両親との時間が持てることそのものに感謝せねばなるまい。


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江戸っ子の心意気

2018-05-20
よき肴とよき酒あり
朋有り遠方より来る
江戸っ子の心意気ここにあり

「腹心」と言えば、「心の奥底・まごころ・心底にある気持ち」転じて、「自分の胸とも腹ともたのむ人・どんな秘密でも打ち明けることのできる人」と『日本国語大辞典第二版』にある。誠のこの語彙通りに、こころの底から待ち望んでいる朋だちがいる。宮崎を彼が訪れるのも、今年で5年連続、ことあるごとに僕の公開講座や地域の芸術家派遣事業に協力してくれ、他の予定よりこちらの仕事を優先してくれるありがたさである。「義理堅い」という言葉にすれば簡単であるが、なかなかその内実を体現できる朋友は、そう多いわけではない。

夕刻の便で宮崎空港に到着、早速にして地元の友人ご夫妻と共に歓迎の宴に赴いた。朋は落語家という仕事上、言動も「江戸っ子の心意気」なのである。(実際には江戸下町出身ではないが)日常からして洒落たっぷりな会話が展開し、細部にくだらぬこだわりもなく、宵越しの金は持たないごとくの気前のよさだ。僕自身は東京下町生まれの三代目、正真正銘の江戸っ子ゆえに、彼の言動からあるべき洒落の姿を学ぶことも多い。よき酒よき肴に舌鼓を打ちながら、笑いの絶えない宵の口が過ぎていった。

本日は清武町でガールスカウト創立周45年記念行事
落語入門・子ども落語の講師・独演会と午前午後と活躍をお願いしている。
「金原亭馬治独演会」宮崎公演・本日2時開演


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新しい「気」が始まる

2018-04-22
家を出たときそう確信した
今日から「気」が新しいと
様々な経験を超えて今・・・

そう思おうとするからか、いやなにかがそう感じさせるのだ。「気」が一変したと、ある瞬間に思うことがある。「気」とは哲学的な概念であるが、中国では古代からこれが重視され『論語』をはじめとする戦国時代の文献にも現れる。「天地万物を形成し、かつ気が生命力、活動力の根源であって、人の身体的、精神的諸機能もすべて気から生ずると考えた。」(『世界大百科事典』)とある。「陰陽五行説」もこの考え方に基づくものであり、現代日本語で通行する「元気」という語彙も、「気の元(気の根元)」というところから来ていると云う。もちろん暦の上の「二十四節気」もこの思想が時節に適応されたものであるのは、言うまでもない。

こう考えると、「日時」や「方角」または向き合う人の「相性」など、様々な「気」の中で僕たちは生活していることになる。中でも「相性」というものが確実に人と人との関係の中で感じられるのは、やはり眼に見えない「気」が存在することを実感する。これまでの人生を考えてみても、その「気」に何度となく救われたこともあれば、「気」によって痛い目を見たこともあるように思う。相手の気持ちを謙虚に思いやるのも、実はこの「気」の作用かもしれない。きっといつも「気の眼」のごときものが、我々を見つめているようなものだ。短歌においても「眼に見えぬ鬼神いづこに隠れをる」と思えば、自然と歌の「読み手」を意識することができるだろう。千年以上前の『古今集仮名序』も、まんざら空論を展開している訳ではない。

やや長いトンネルを抜け出した
様々な方面でよい風が吹き始めた
人生には耐えるときもあれば、伸びるときもあるのだろう。


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「まだ見ぬ人を恋ふるものとは」考

2018-04-14
「いにしへはありもやしけむ今ぞ知る・・・」
恋のやりとりの性急さと結果を急ぐこころ
滞空時間のある恋心のやりとりを古典に学ぶ

何事も結果ばかりを性急に求められる世の中である。過程や段階を無視してただただ、結論だけが急いで求められている。今年は明治維新150年という節目の年であるが、この近現代の病理そのものをまさに「病理」なのだと僕たちは自覚すべきときにあるのだろう。昨今は「対面性」を嫌悪し直接的な批評を受けるのを回避してしまう若者が多いと聞くが、SNSを始めとする交流手段の変化がさらなる「病理」を産み出そうとしている。だがしかし、あくまで人が生きるのは相手との対峙のみから始まるのではないのだろうか。自らの考えそのものを、相手がどのように反応するいかという「鏡」に映さなければ、何事も理解や把握はできないのである。

冒頭に記したのは『伊勢物語』第111段の和歌の一節、「まだ見ぬ人を恋ふる」ということはあり得るのであろうかと考えさせられる。だが考えてみれば、このSNS全盛の世の中こそ、そうした状況がより起こりやすいとも言えるであろう。時空を超えて会えるはずもない人同士が、いとも簡単に交流できる。その架空の交際は、果たして現実とどれだけの開きがあるのだろう。翻って、古代において交信が物理的に手間のかかった頃、その時間的余裕や隙間にこそ恋の趣きがあったのではないだろうか。いままさに性急さを余裕に代えて、想像を存分に楽しむ時間に興じたいとも思ったりする。

新しい時代だからこその「いにしへ」
自らの時間意識を省みて思うこと
想像の行き着く先にこそ大きな夢がある


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方位厄のちに知らされ鬼の引く手に

2018-03-11
方位厄の年回り
平安朝に倣ってさながら「方違え」でも
「眼にみえぬ鬼神」はここにもあり・・・

妹に「方位厄」の年回りであると教わった。1年前に妹自身が引越しをする際に方位を入念に調べ、今年は兄がそれであると知り、正月にはお札ももらってくれていたらしい。具体的な「吉」や「大凶」の方位を妹のメールで知って、ある意味で驚愕な思いを抱かざるを得なかった。早速に「お札」は東京の実家から、宮崎に持ってくるべきだと進言された。先日拝見した公演ーNAOTAプロデュース「見えても 見えなくても」で喚起された意識であるが、やはりいつも「誰かに見られている」という感覚は大切なのだと思い直している。人は所詮は弱いもので、独善的で傲慢な考え方になると、自ずと動作が怠慢によって意に反した動きをしてしまうことがある。その「緩み」に楔を打つのが、「方位厄」といった「思想」なのかもしれない。

昨日の自身の短歌評に記したが、まさに「眼にみえぬ鬼神」とはこのことである。「鬼神」とは現代語の「神霊」の意味に近く、民俗学的に形象化さえた角の生えた節分や雷さまの「鬼」にあらず。『古今集」仮名序に紀貫之がこれを記したのが西暦905年前後のことであるから、平安貴族にこうした意識は一般的であったのだろう。ことばを和歌として詠めば、「眼にみえぬ鬼神」も「あはれ(しみじみとした感興を抱くこと)」に思うと云うのである。宮崎では神楽も盛んであるが、和歌とは元来が「神霊」に捧げるという「言霊信仰」に根付いたものであったことがわかる。ゆえに平安朝では『源氏物語』などに頻出するように、日によって凶の方角を避ける「方違え」なども行われていたのである。翻って現代に置き換えて考えてみても、短歌は「自分の眼にみえぬ心」との交信であるようにも思う。自分の心は自分が一番わかるわけではないゆえ、ことばにして「鬼神」に届くように捧げるのである。そうすることで初めて、「自分」の心の有り様がわかるのである。

吉凶の在りかはいづこに
自らの一挙手一投足を戒める
ただただ自らの心に向き合うということでもある。


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逢いたい人に逢うを惜しまず

2018-03-03
上京して逢いたい人
大学の先輩・馴染みのお店・店員さん
温かい気持ちのありて我の今あり

大学時代から親しくお付き合いいただいている学部の先輩がいる。僕が在学時に助手をされていた縁で、和歌関係の研究会を通じて様々なことを教えてもらってきた。研究者として今の僕があるのは、この先輩のお陰と言っても過言ではない。指導教授とともにいつも酒を飲みながら、大声で和歌のことを語り合った。その声の大きさは、今でも変わらない。店で飲んでいると、時折他の客が振り向くほどの声の大きさといえば想像がつくであろうか。だが、その「歌」への情熱ある語り合いによって、常に研究への意識を覚醒されて僕自身はここまで歩いて来られたのだと思う。今回もまたお忙しい中、予定を調整してお会いすることができた。誠にありがたき先輩である。人生ではこうした先輩を持つか持たぬかで、大きな差が生まれるとさえ思う。良き師と良き先輩は、必ず持つべしである。

角川『短歌』3月号の特集は「出会いと別れ」、その総論に俵万智さんが「出会いなくして成長なし エネルギーの泉」と題して「総論」を執筆している。やはり「師」「恋人」「子ども」との「出会い」が、それぞれ性質を違えながらも「エネルギーの泉」になるのだと云った趣旨である。ぜひこの時季にお読みいただきたい。僕の場合は、これに加えて先輩後輩、そして生徒・学生、さらには仕事や研究を超えた親友、心を和ませてくれる飲食店の人たち、などが「エネルギーの泉」に加えられる。ついつい行って店主の顔を見たくなるお店、もちろん一度の上京ですべて周れるわけではないが、機会あるごとに訪ね続けたい店が何軒かある。そんなことでついつい飲み過ぎてしまうのが常であるが、人とのつながりほど大切なものはない。

苦しい時に支えてくれるありがたい人・人・人
その優しい心こそを大切にし続けたい
まずは口先だけでなく実際に会うことである。





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邂逅・思考・薫香

2018-02-17

なぜいまここで出逢えるのか?
なぜをくり返す際に見る光景があるか?
なぜこの香りに導かれるのか?

人は「出逢い」によって、その生き方が大きく左右される。学生時代に出逢う人・書物・嗜好などによって生きる志向が決まって来たりもする。この人と出逢ったからこそ、新たに見えてきた光景がある。「光景」と言えば、自分の「思考」を形成する際に、見ている定まった「それ」があるようにも思われる。季節によって多少位置は違うものの、太陽がここから昇りどのように一日が始まるかを、さながら知っているかのようである。空も雲も日々違うものであるが、基本的な光景というものは、そう簡単には変わるものではない。そしてまた、言葉で言い表し難い「香り」の妙が世の中には存在する。目にも見えず、他者に説明できない薫香に引き寄せられることもある。

物品は人の周囲にさながら存在し、その生きるための資材となり足跡にもなる。だが物理的なものだけではあまりに虚しく感じてしまうのが人生でもある。否、その物品には必ず思考が宿り、人との出逢い同様に生き方を左右する場合もある。これほどまでに写真が手軽にいつでも撮影される時代になり、刹那の場面をスマホなどに保存する生き方ができるようになったが、それだけでは叶わないことも多くあることを知るべきだろう。最近、視力の低下を自覚し眼鏡も新しくして矯正の度合いを上げたりもしたが、それは遠くの景色を習慣的に見ていないことに起因するのではということに気づいた。もしや研究や評論の思考も、これと同じ症状にはなっていないかと自らを戒めてみたりもする。幼少の頃から「匂い」には大きなこだわりがあり、その好き嫌いで行動が左右されることがある。元来が「犬」的な動物的本能を備えてるかもしれない、などと戯れ言を語ってみたくもなる。

邂逅の面白さ豊かさ絶妙さ
思考が形成される遠景を持ち続ける
薫香を確かめ導かれ好きになって・・・


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「縁」とはなんだろう?

2018-01-22
「縁がある」「縁がない」
それは何で決まるのか?
感覚・社会慣習・生き方・・・

この数日、「縁とはなんだろう?」と考えている。いま何らかの繋がりがある方々とは、少なくとも「縁があった」ということなのだろうか?それでも付き合い方の深浅はもちろんあって、感覚が合う方もいれば、ほどほどという方もいる。人生において、誠に出逢いは重要である。それなくして「自分」という「畑」は、決して耕されることはない。好むと好まざるとにかかわらず、人との刺激的な関係が、人生を面白くも退屈にもする。それゆえに、自らも「面白い」人でありたいと願いつつ、縁のある人には「面白さ」を追い求めているように思ったりもする。

この人と出逢わなければ、「いまの自分はない」と思える人が何人いるだろう?幼稚園のころからいまの宮崎に至るまで・・・反対に出逢わなければよかった人などとは考えたくもないが、正負を超えて人生には「出逢い」があるものだ。どんな人と「出逢いたいか」と、ことばにするのは誠に難しい。なぜその場に足を運ぶのか?なぜその関係に興味を抱くのか?何に心を奪われて生きているのか?大河の一滴は、どんな島で潤いとなるのか?大空の中で、どの鳥の羽ばたきに逞しさを覚えるのか?誠に生きるとは、稀少な偶然に支えられているような気もする。

棲家と人の縁と様々に・・・
Webで大海や大空は狭まったのか?
生きることには、素朴で面白く豊かでありたい。


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店の縁とは人の縁なり

2018-01-20

5年間の宮崎での生活
さらにその前の5年間
笑顔と温かいことばに支えられて

様々な意味で、今年は節目の年であると思っている。この3月で宮崎での生活も丸5年となるが、日々あらたな発見にも恵まれていて充実した時間だと振り返ることができる。だが何事もそうであるが、苦悩がないわけではない。その苦悩をいかに解放するかという点も生きる上では貴重である。親友と呼べるのは、まさにこうした苦悩の話を聞いてくれる人。もちろん宮崎でも親友に恵まれた。などと考えていると、宮崎に赴任する前の5年間が思い出された。専任職にあらず非常勤講師の2年間、そして中高教員を辞することを決意するまでの様々な苦悩がいまよみがえる。

その頃、自分を支えてくれていた何人かの笑顔がある。御夫婦で経営する洋食屋さんの奥さまは、常に僕の悩みを聞いてくれて、旦那さんはいつも野球の話に深く興じてくれた。その店のカウンターには齢90歳を超えたお爺さんがいつもいらしていて、この方と話していたこともい大きな支えであった。どうやらいまもお元気で、時折その洋食屋さんに電話があるという。カウンターといえば、ワイン好きの僕を根底から支えてくれるバーの店主。宮崎に赴任後も、この5年で赴かない月の方が数えるほどで、常にその温かいことばと笑顔に支えられている。ここでも常連として知り合った同業の研究者がいて、やはり確実に充実した5年間を送っていることを知り、深い安心感を覚えた。

鉄板とワイングラスに笑顔あり
店の縁とは人の縁なり
大切にしたい笑顔とことばである。


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〆切あるは楽しからずや

2018-01-18
原稿〆切という制度
逆算してキーボードから文章を立てる
追われつついかに平常心を保つか

今週末前に原稿〆切がある。先週10日に1本の原稿を出して、次が19日ゆえ10日ごとに〆切がくる。もちろん20日は心の花宮崎歌会の歌稿〆切であり、25日は『心の花』の投歌〆切である。考えてみれば自ら課しているのであるが、小欄の原稿〆切が毎朝あるようなものだ。文筆を生業とするゆえ、これは宿命であり決して忌避するようなものとは思っていない。むしろこの〆切があることによって、脳内で思考されたことがことばとなって表現されるわけである。仮に〆切がなければ、ことばとなって吐き出されず内に籠もったままになってしまうであろう。誠に〆切はありがたいと考えたい。

いくつかの超えるべき境を超えると、原稿書きに勢いが出る「沸点」のようなポイントがある。アウトラインから全体を見据えて文脈に、「書きたいこと」が見える刹那に酔うような感覚だ。「先が見えた」とはまさにこのことを言うのであろう。あとは脳内にあることを、自然にことばにしていくだけである。すると自らの「思考」とは何なのかと思う時がある。小欄にしても早朝に無意識な感覚で記していることが多い。むしろそれが目的でもある。そして昼下がりに自ら読み返すと、思わぬ発見があったりする。これまた〆切の効用なるや。

〆切を楽しもう
逆算して境を超えられるように
まずは形にせずして良いものになるはずはない。


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