熊本地震の現在

2016-07-19
地面が一旦は上がりそして下がる感覚
被災後、勤務先の小学校で奮闘した教え子
熊本地震から3ヶ月の現在を訪れて・・・

震度7の活断層型地震の、所謂「本震」に熊本が襲われてから3ヶ月以上が経過した。地震の当初から、熊本で教職に就く教え子のことが気になっていた。メールで連絡を取り、せいぜいその文面で励ますくらいしかできす、誠に歯痒い思いをしていたのだが、ようやくこの休日を利用して熊本を訪れて、彼に再会することができた。学校のガラスが大幅に損傷、その後、避難所となった校舎・体育館にて避難されている方々のお世話、そして5月10日に再会した授業。その直後に、予定されていた運動会を縮小しても短期間で準備をして実施に漕ぎ着けたと云う。文章で挙げれば簡易に聞こえてしまうが、その1日1日が彼にとっては経験したこともない誠に困難な日々であったのだと、諸々の会話を通して想像を致す。ライフラインでも水道の復旧が一番遅く、生活自体に大変な不自由を強いられたということ。こうして3ヶ月間の話を今現在の時点で聞くだけでも、この列島に住んでいる以上、自然災害と常に隣り合わせなのだと実感するひと時となった。

ちょうど熊本に向かう途中、高速道路のサービスエリアで休憩をし、用を足していた時のことである。今までに経験したことのない震動を足元に感じた。その場から動くこともできず、用を足すことを継続はしたが、どうも妙に嫌な感覚が身体に刻まれた。下から突き上げられて、その後に再び沈み込むかのような感覚。直後にスマホで情報を確認すると「震度3」、これこそが活断層型地震の揺れなのだと大きな恐怖の片々に触れたような気持ちにさせられた。九州自動車道も一部は対面通行となり、その区間の補修中の路面は甚だしい損傷を受けているように見える。一般道に降りてみると見た目には普通に見える路面が、路肩に凹凸があり車がそのギャップに跳ね返される動きを覚える。概ね、市民の方々の生活は復旧しているように見えるものの、目には見えない部分にこそ、被災した方々の困難が潜んでいるのであろう。それでも尚、宿泊施設の再開や交通機関の整備が施されて、観光客への呼び掛けも再開している。せめて九州に住む僕たちが、熊本に思いを寄せて、この困難を乗り越えるよう行動すべきであると、あらためて実感する訪問であった。

必然的に起こる地震列島ゆえに
どのような生き方が求められるかを、僕たち市民が真摯に考えるべき
明日は我が身、と思いつつ教え子との再会に学ぶこと多き時間となった。
スポンサーサイト
tag :

警戒かつ肝を据えて

2016-04-17
「本日の歓迎会は1次会で終わります」
地震の続発を受けて学生の判断した言葉
話をすると実に成長を感じる面々も・・・

気象庁発表では昨日深夜に起きたM7.3が「本震」である、と報道された。「余震は暫く続く」とも報道されていたにもかかわらず、1日後の深夜に再び熊本を悲劇が襲った。どれを「本震」だと形式的に名付けることよりも、今回のごく浅い内陸断層型地震の特徴を市民に伝え、どのような備えが必要かを報道を通じてさらに徹底して伝える必要があるように思った。”今のところ”僕の居住する地域には活断層もなく、地震の影響は少ない。だが地震というのは確実に誘発するのであるとすれば予断は許されない。現に頻発する緊急地震速報のある回では、「日向灘を震源」とすると表示されたものがあった。その折はいよいよと肝を据えたが、幸い極端な揺れには見舞われなかった。そんな状況下、研究発表要旨原稿を送ろうと宅配便配送所まで行くと、「配達の目処が立っていない」と言われた。それでもタイムサービスを利用しやや高い料金を支払い航空便に載せれば〆切までに間に合うことがわかって安堵した。さらに夜は、国語科の学生たち主催の新人歓迎会が開催された。安易に「自粛」とするのではなく、堅実に冷静に日常の「生活」をすることも、こうした際の心構えだと5年前に僕は学んだ。それゆえ何も指示することなく、冒頭に記したような「判断」が学生のうちから発せられたことに、ある意味で教員として実に嬉しい思いであった。

僕も、母が送ってくれた緊急避難具一式を居間に出して、いつでも持ち出せるようにしている。またミネラルウォーターを5箱備蓄し、車のガソリンはあらためて満タンにした。親友のお母様でも、荷物を用意しベッドでは寝ないなど、最大限の警戒態勢をとっている方がいると聞いた。まさに備えあれば憂いなしである。その一方で、自宅近所の親友などは「この辺りの土地は岩盤で揺れには強い」などと、肝を据えた発言を繰り返した。その根拠もないように見える発言が、僕にはこの上なく頼もしく思えた。たぶんいざという時には、この親友の肝が据わった行動力が、何より「現場」を動かすのではないかと思ったからだ。「何処にいても変わりはない」などと中途半端な楽観主義を安易に「発言」することは簡単であるが、要はいざという「現場」で如何に動けるか否かであろう。この近所の親友の貫徹した楽観主義には、他の事象に対しても学ぶ点が多い。僕らのような研究者が如何に「現場」や「世間」を知らない、狭量な「理屈」だけを口にしているかをいつも痛感させられる。ある意味で見習いたい肝を据えた「現場主義」なのである。

九州の地に、如何なる怒りが浴びせられているのか?
熊本在住で教員のゼミ卒業生も車の中で寝泊りしているという
今後も気構えを忘れず、警戒とともに肝を据えて生活しようと思う。
tag :

5年目の3.11・・・黙祷の意味

2016-03-12
体感として刻まれたあの日の震動
金曜日という共通した曜日となって
太平洋に向かい5年目の黙祷・・・

あの日の「14時46分」に自分が体感したことを、多くの人が鮮明な記憶として遺していることだろう。この列島に住む者として、決して忘れるべきではない共通の時刻であり体験である。東京の自宅マンション至近の交差点で信号待ちをしていた僕は、その震動に並々ならぬ気持ち悪さを覚えた。街灯が振幅をもって揺れるその光景と背後の銀行の窓ガラスが音を立てていることに、生命への危機さえ感じた。だがそんな東京の状況とは比べものにならないことが、東北地方では起こっていた。自然の力に対する一人間としての無力感とでもいえばよいだろうか、あの日から僕は独りでいることに恐怖を覚えるようにもなった。東京という大都市の矛盾と危険性を、真剣に考えて行動できる準備も整えてきた。大仰に語るならば、生きることそのものの尊厳を見つめ直したとも言ってよいだろう。

「5年間」という月日によって人は、「忘却」への道を歩む。東京へ行って気になるのは「歩きスマホ」の人々の多さである。雑踏がなく車社会であるといえばそれまでだが、僕の現在の居住地ではあまり出会わない光景だ。勤務校の大学生でさえ、キャンパス内ではそれほど多くはない印象である。それが羽田空港へ降りて公共交通機関に乗った途端に、老若男女を問わずスマホ画面の内部でしか思考しない輩に多く出会う。約1週間の在京で「(電車の)遅延」という情報を何度耳にしたことか。その幾つかは「お客様がホームに転落した。」という理由が添えられた情報として、僕の耳に提供された。その原因が「歩きスマホ」だと即断するのは早計であろうが、身体は其処にあれど思考が其処に無い輩が、雑踏の中で不注意極まり無い身体をある種の危機に曝しているのは間違いない。ホームドアの設置がみるみる促進されているのだが、それがむしろ人々の危機感を忘却の彼方へと誘う。雪国から比すれば僅かな降雪で帰宅困難となる大都市構造、5年前とその状況は大きく改善されているとは思えない。「誰かが守ってくれる」という当事者意識の欠如ばかりが溢れ、首都圏直下大地震は起きてみないと気づかないのかもしれない。大都市だけを批判するべきにあらず、僕の勤務校でも意志を持って黙祷を献げる人々は稀な印象だ。(特に西日本、九州という地理的条件により、関東の人々の意志よりも薄い気がする。)5年前に被災した方々への弔意のみならず、地震列島の住民として当事者意識を持つこと。それこそが「あの日」の「無念」を未来に活かすための真摯な態度であろう。

3.11以前のように元通り
そこに意識無意識にかかわらず虚飾があることを
僕たちは注意深く拒む必要がある・・・それゆえの黙祷でもあるのだ。
tag :

一般論という恣意に御用心

2016-02-11
「一般的に・・・・・」
と言うが易し証明するは難し
恣意を正当化する格好な語彙

もとより「中立性」とは何かという定義さえも、発言者の恣意によって多様であることを覚えておくことだ。世は「公平」「中立」であると思うことそのものが、幻想なのかもしれない。ただその「幻」を想念し「理想」を描き、何が「常識」であって「一般的」であるかという指標を、様々な事象から明らかにする作業を「研究」と呼ぶのかもしれない。だが、時にその研究成果でさえも恣意的に無視され、恣意的に利用されることがある。誠に世は複雑で多種多様な「思い込み」によって、成り立っているといえるのかもしれない。

3.11以降、この「一般論」が更に危うくなったのかもしれない。我々の安全という生きる第一義なことにおける情報さえもが錯綜する。何を信じればよいのかがわからない、いわば「一般論」なき世情となったといえよう。目に見えざるものは数値で示すしかないが、信ずるべき「公平」な基準に懐疑や恣意が渦巻き、妥当性が見えづらいということがまた明白になった。地名の「読み方」はまさに「一般論」であり、歴史的懸案となっている場所であるならば尚更、国民の8割以上は、いや小学生の8割と言い換えても、その「一般論」を知識として覚えているはずだ。(もちろんここでの「8割」も恣意に他ならない)それは単なる「知識」ではなく、懸案課題に対する我々の意志であろう。このような価値観の揺らぎを、僕たちは注意深く拒む必要がある。

まずは主張を受け入れる
相手の立場になって物事を考える
もとより一般論など歴史の変転の中では無力でしかない。
tag :

真の環境破壊・・・生きる尊厳への脅威

2015-08-12
地産地消・・・魚に牛・豚・鶏肉
そして実り豊かな野菜・穀物・果物
自然の中で生きる歓びがまた脅かされ始める・・・

現在の赴任地に来て、2年半になりなむとしている。都会育ちの僕は、その自然との共生感に聊かは戸惑いながらも、質の高い食材の豊富さ、安定供給、そしてまた地元生産者や仲介者との人間的関係性の厚さなどに魅せられ、実に充実した生活を送っていた。2011年3月11日以降における東京での生活は、まさに食品に対する不信感に悩まされ、情報の精査に辟易とする日々であった。その後、先述したような「生活を送っていた。」わけである。稿者はいま「送っていた。」と記した。それが昨日を期に、過去のものとなってしまったからである。自動車道路の距離にして約160Kmの場所で、また人間生活を脅かす炉が稼動してしまったのだ。(ちなみに東京は、「福島第一」から約250Kmほどであったと記憶する。)

政治が詭弁の塗り重ねであることは、現在の安保法案審議を見ていれば明らかであるが、その図式が経済政策にも、五輪招致にも、そして過去から現在に至る原発政策にも、共通して看て取れるものだとあらためて確信する。地方の経済振興を翳して交付金をばらまき、過疎地の活性化などという「正義」の詭弁によって、桁違いの危険が伴う施設立地を押し付ける。電力供給にはまったく問題がないにも関わらず、電気料金の高騰や二酸化炭素排出量増加などを理由に、人間が制御できない脅威の化け物に火を点ける。二酸化炭素は排出しないというが、その化け物が排出するのは、温暖化などでは済まされない地球破壊の要因となる「核のゴミ」である。その処理方法を、現在時点で僕たちも、詭弁を弄する輩たちも、誰も知らない。

「事故が起きないように」「紛争(戦争)を未然に防ぐために」とまたことばの上塗りを奴らは信じ込ませようとさせるのだが、もとより前提が倒錯している。事故を100%防ぐなら、炉心に火を入れず化け物を廃棄すること以外に道はない。同じように戦争を「絶対に」しないためには、「永久にこれを放棄する。」しかないのだ。かくも経済最優先反知性主義者たちが、同じ発想を強要しているかがよくわかる。奴らが「絶対にない」というのは、「絶対にある」ということだ。それは未だ「二度と帰らぬ故郷」と化している「フクシマ」の実情を見れば、火を見るより明らかだ。そこにもまた、詭弁で蓋をしようとしている。

このくには「美しい」のではなかったのか?
生きる尊厳への脅威がまた稼働している
素朴な自然を守り抜いてこそこの国は美しくあり続けるのだ。
tag :

遥か遠くに平穏な水平線が

2015-03-12
あのとき
何処で何をしていたか
多くの人が刻む記憶と、そして・・・

職場である大学の研究棟は7階建で、その4階に僕の研究室がある。その研究室へ向かう廊下の突き当たりに真東に面した窓があり、遥か遠くに太平洋の水平線を望むことができる。身近な生活環境の中で海が見える場所があるのは、なぜか心が落ち着く。東京に住んでいた頃は、海を望むことは地理的に難しい位置に居住していたが、江戸から明治・大正期頃までは海が現在よりも内陸まであったことは、「浅草海苔」という名産品や森鴎外の邸宅を「観潮楼」と呼称していたことからも知られる。(もちろん高層建造物がなく眺めを塞がない条件があったからだが)僕は幼少の頃から、湘南江ノ島などの海岸に行くのがなぜか大変好きであった。そういえば漱石の名作『こころ』にも、鎌倉の海岸が舞台になる場面がある。

その海が牙を剥き出しにして、多く人々の命が失われた東日本大震災から4年が経過した。あのとき、自宅マンション近くの交差点で信号待ちをしていた僕は、その尋常でない揺れに立ち尽くし、背後にある銀行の窓ガラスが粉砕でもして落下してこないかという恐怖におののきながら、都市計画で立派に整備された街頭がメトロノームのように揺れているのを眼にしつつ、その揺れが終熄するのを待った。14時46分、決して忘れようにも忘れられない時間である。その時から、更に巨大な激震がこの都会を襲ったらどうなるのかという想像の果ての恐怖を、常に心に抱きながら生活を続けた。そしていま、当時のマンションを手放し地方の学園街に居を構えている。海のみならず、山も背後に佇むという、実に自然の恵みに富んだ土地である。

大学正門には弔意を示す国旗が掲げられている。「黙祷を捧げよ」という趣旨のメールが配信されているが、僕は自らの意志で研究室から廊下に出て、当該時刻に東に向かって祈りを捧げた。遥か遠くに見える至って”平穏”な水平線は、僕に何を語り掛けるのだろう。あの日から今も「生き延びて」いる幸運、そしてまた「いま此処にいるちっぽけな自分」の存在を噛み締める。海は生命の源と云われるものの、ときに実に惨い仕打ちを人間に施す。いや「惨い仕打ち」と捉えることそのものが、人間の身勝手なのかもしれない。地球という”生きている惑星”で、僕らが「生かされている」ことをいつしか忘れている。人間の「近代」が、この星の環境を傲慢に改鋳してきてしまったのかもしれない。神社の祠が高台に位置するのは、「近代以前」の人間の叡智から得られた発想であろう。懐古趣味に浸るつもりはないが、約150年間に及ぶ「傲慢」をこの国は省みる必要があるのかもしれない。

水平線は至って穏やかであった
無念にも犠牲になった方々に思いを致す
何も変わろうとせず「近代」を続ける世情を憂いつつ。
tag :

東京一極集中への不安

2014-11-26
雲の眼下に見える密集したビル群
縦横無尽な鉄道交通網
政治も経済も此処へ集中している不安

東京生まれ東京育ちの僕が、その首都を俯瞰できるようになったのは、地方生活を始めたからだ。飛行機で東京へ向かうと、靄に霞む大都市が見えて来る。日本、いや世界から飛来する航空機が次々と湾岸の空港に着陸し、ただでさえ過剰な人口密度を増加させる。交通網は整備され分刻みのダイヤがほぼ寸分の狂いもなく履行され続ける。実に密度精度の整った大都市であると感心するのは容易である。だがしかし、過密で微細ゆえの脆弱性に、恐怖を感じない訳でもない。

この都市機能が麻痺したら、と考えれば考えるほど恐ろしい。2011年3月11日には、その脆弱性の一端が顔を覗かせた。それはあくまで「一端」であろう。過去の歴史が物語る関東直下型大地震は、この都市をどのように変貌させてしまうのだろうか?様々な予測が展開されているようであるが、それでも尚再び「想定外」と言わざるを得ないことが頻発しないとも限らないだろう。僕が小中学校の頃から「首都機能移転」構想があり、社会科の授業で提起され議論した覚えがある。「お山の大将」たる首都居住者ゆえの傲慢さに拠るものか、「移転」に対しては積極的な意見は少数であったと記憶する。

延々と発展する日本の象徴として、「強い東京」を為政者は作り続けて来た。そして再び「五輪」が開催されることで、その思考は同線上を加速する。だが、これだけ日本列島が火山の活動期に入り、噴火や地震があちらこちらで繰り返されると、東京だけが例外であるなどというのは、単なる幻想に他ならないと思ってしまう。もちろん、僕が地方に居を移転したから言うのではない。日本列島に住む以上、どこであっても地震・火山噴火の洗礼は覚悟しなければならないということだ。そんな自然との共生観を、僕らは「あの日(3.11)」に学んだ筈なのである。だが、それは再び為政者たちによって「強くする」という幻想が跋扈し、遥か彼方に追いやられてしまったようだ。

自然との共生を考える日々
衣食住すべてにおいて、日常の思考となった。
その一方で、僕の故郷への大きな不安が蠢く。
tag :

地球の拒絶反応

2014-10-23
太陽光を有効利用も一時なのか?
感染症の脅威もただ事にあらず
二十世紀が犯して来た罪への警鐘・・・

エボラ出血熱の感染が急速に拡大している。こうした感染症事例が起こると、日本の場合は島国ゆえか最初は必ず「対岸の火事」としか意識しない傾向がある。09年新型インフルエンザの際には、その巷間の意識の低さに甚だ辟易した覚えがある。いざ感染症上陸となると、”黒船”かの如く水際において”にわか防御”に躍起となり、感染者に対する差別的な偏見が横行する。今回の場合も行く末はどうなるのだろうか?欧米での感染拡大を見るに、一定の覚悟は必要であろう。

22日付「天声人語」に引かれたリチャード・ブレンストンの著作のことばに曰く「わがもの顔に増え続ける人類に対して地球が拒絶反応を起こしていることのあらわれではないか。」と。自然の摂理に反する人類の傲倨によって均衡を失ったこの星が、人類に警鐘を鳴らしているという見方である。二十世紀も感染症との格闘の歴史であった筈だが、今回のケースは倨傲に傲慢を重ね続けて已まぬ人類における無頓着が、裏返しに露出しその姿を曝しているような気がしないでもない。

自然エネルギー利用も然り。11年の大震災以後、”自然”への大転換が実行されていたのではないのか?地域ニュースでは、電力会社による太陽光発電力の買い取りが中断されることが示唆され、大規模施設に投資した農家などへの影響が懸念されると報道されていた。その裏で、原発再稼動が何ら躊躇なく進められる。政策決定をする人間どもに、放射能汚染による脅威への想像力は微塵もないのだろう。自らは身を守り経済を回せと旗を振り、危険性を遠隔地に押し付け金を撒き散らす。まさに二十世紀の誤謬を省みない愚かな道を未だに突き進み、それを是と見よと押し付けるのであろうか?

さすがに地球の堪忍袋も緒が切れたのだろう
歴史に学ばない島国には火山の脅威も提言されている
二十一世紀は先進の時代と夢見ていたが、人類の舵取りが愚かなままでは・・・
tag :

3年目の3.11が教えてくれたこと

2014-03-14
3年目となる3.11.14時46分に何をしていたか。
僕自身も予想だにしないことだった。
震災とか罹患とはこういうものなのだ。

小欄を2日間お休みした。変わらず日々お読みいただいた方には、大変申し訳なく思っている。書き込もうと思えばできないわけでもなかったが、様々な思いを巡らしながら僕としては珍しく発熱に苦しんでいたゆえである。3.11.14時から近くの街の医院が午後の診療を始める。鼻水と喉の痛みという症状を憂え、風邪薬だけでも貰おうと思い保険証を受付に提示した。症状アンケートの画板と体温計を渡されて記入し計測して驚いた。38度半ば近くまで数字が上昇しているではないか。

そのまま待合室から特定の部屋に居場所を移された。明らかに「インフルエンザ」の疑いがあるということだ。それでもなお僕自身は、その可能性は低いのではないかと思い込んでいた。過去に罹患した記憶がないというのは、かくも甘く安易に恣意的な判断に陥るものかと、今にして思えば我ながら恥ずかしささえ覚える。鼻の奥まで検体採取のスジ状のものを差し込まれて甚だしい違和感。待つこと5分間ぐらいであっただろうか。医師から「インフルエンザB型」であるとの診断を告げられた。

医師は「インフルエンザ対応の治療をしますが、よろしいですか?」と僕に問い掛けた。強引に情報を開示もなしに進める医師ではなく、大変良識ある医師だと思えて安心できた。「インフルエンザ薬投与」をするということは、「異常行動」などの副作用があることは世間でも周知のことだ。そうした注意事項と2種類の薬品の特徴を説明した上で、どちらにするかの選択を僕自身が判断できた。僕は1回吸引するだけで、喉や気管支に直接届いてウイルス増殖を抑制する薬品を選択した。そして処置室で看護師の方に指導いただきながら吸引が開始された。時計は、14時46分を指そうとしていた。本来ならば3年目のこの時間に僕は、黙祷を捧げているはずである。それが増殖のスピードの速いウイルスへの対抗措置を講じていたわけだ。いやこれもまた僕に何かを教えてくれているに違いないと思うようにした。

実はこの日の午前中、かねてから予定していた有志学生たちの自主勉強会にアドバイザーとして出席していた。その冒頭で既に学生たちとともに黙祷を捧げ、そして「東日本大震災3年目にして思うこと」というテーマで議論をした。現行大学3年生の彼らは、高校卒業した直後に、3.11を”体験”していた。多くが九州地方出身者なので、”揺れ”そのものも体感せずTV映像などによる津波の映像が鮮烈に記憶に残っていると云う。僕の東京での震災体験も語り、この列島で生きる為にはどんな心構えが必要かなどを話し合った。そして将来の教員として、どんな”覚悟”をもっておくべきかなど、学生たちの意識を喚起するには十分な内容になったと自負できるものとなった。(この勉強会の最中、僕自身はマスク着用であったこと、その後、至近にいた学生には健康状態をメールで確認したことを、ここに書き添えておく。)

被災地復興に対して何ができるのか、ということを考えることは何よりも重要である。更には、これから日本社会を作り上げる人材をどういう意識で育成していくかということもまた、大変重要であろう。ましてや僕の関わる学生たちは、殆どが教員志望である。更なる将来の世代を担う子どもたちを、彼らがまた育成することになる。九州地方にもまた「南海トラフ」への備えをしておく意識を確実に育んでおくべきなのである。折しも、ようやく熱も下がり回復傾向になった昨晩深夜、僕の携帯から「緊急地震速報」の鳴動が響いた。伊予灘を震源とするマグニチュード6.2の地震であった。3年前、数え切れないほどこの鳴動によって僕は”覚悟”をもったことであろうか。その時の”身体性”は今も保存されており、インフルエンザ罹患などを忘れてしまうほどに、冷静に情報収集に動くことができた。

3年前、「日本社会は大きく変わるべきだ」といった論調も喧しかった。だが果たして本当に求めるべき方向に変わっているのだろうか?それとも何にも変わっていないのだろうか?変わることを望んでいてはいけないのだろうか?学生との議論でもこうした点について結論は出なかった。小欄においても3年前から「2011.3.11以後」のカテゴリを作成しいくつかの思いを書き連ねて来た。こうした個々人が思いを表現し、相互に考え合う機会や場を設けていくことこそ、「変わる」ということなのではないだろうか。奇しくも設定された学生たちの自主勉強会が、僕の中に新たな意識を喚起させてくれた。

そしてまた、皆が自分自身を丁寧に見つめ続けることが大切なのではないだろうか。インフルエンザに対して意識も高く、免疫力も高いと自負していた僕がなぜ罹患するのか?そこにはやはり生活そのものが招いた要因が必ず存在するはずなのである。そしてこんな苦しい時でも頼れる人間関係を、この新たに居住し始めた土地で構築できているのだろうか。深夜の「緊急地震速報」の鳴動は、この土地で震災の備えに対しての甘さへの警鐘である。病気も天災も(その備えという意味で)、ましてや人災は個々人の生活意識から生じて来るのではないだろうか。やや閉塞的で小さく窮屈な思考になっていた己に、インフルエンザウイルスは襲い掛かったのである。

3年目の3.11に際し、日常ではできない自己との対話ができた。
小欄の余白から生れ出るものもある。
回復に近い身体で、キーボードを打つ己の新しさを実感しながら記す。
tag :

「7世代先の子ども達」を想う休日

2013-05-07
7世代、約200年後はどうなっているのか?
逆に200年前の世の中は、今に比べてどうであったのか?
「子ども達」という視点からどんな世の中を「自分達」は残すのか?
「より豊かで便利な生活」を嫌が上にも享受して来た僕たち。
まず「自分」が考え、そして「隣人」と対話することが大切である。
その上で、社会がどのような選択をしていくかである。


ボノワ主催による標記のイベントに参加した。ドキュメンタリー「六ヶ所村ラプソディー」の監督・鎌仲ひとみさんと、水俣病センター相思社・永野三智さんのトークセッション。そこにウインドファーム代表・中村隆市さんが加わり、「7世代先」を考え合う好機となった。僕自身は、昨夏水俣を訪れて、永野さんから水俣病に関する様々な状況を、現地踏査をしつつ聞いた経験がある。水俣病の確認からは既に57年の月日が経過している。だが、この日本の社会構造が引き起こした悲劇から、僕たちは何を学んだのだろうか?水俣・六ヶ所・福島はそれぞれ点であるが、それは様々な観点で線として繋がることが確認できた。

三人のトークセッションにおける主張の共通点は、「隣人との対話」という点に求められるであろう。「何も知らない人が多数派であり、その人々とのコミュニケーション」をすることが肝要だということ。その「多数派の人々」はあなたの隣にいるということである。これを鎌仲さんは「不条理の中で生きて行く覚悟を持ち、自分だけ綺麗でいないこと。」、永野さんは「迷惑を掛け合える社会を目指したい」、中村さんは「大事なものを大事にしてこなかったことが社会をおかしくしている。」と表現した。そして問題の核心は、鎌仲さんが冒頭で述べた「日本人の物を言わない特性が解決を困難にさせている。」ということになる。

また三者三様な表現で、学校教育の問題点を指摘した点も傾聴に値する。「自分の意見を言えない教育」により「先生から答えを貰い」、その「答え通りに書く生徒が東大に行く」という図式。いわば「与えられるものだけで生きる」ことが高く評価される教育現場であるという鎌仲さんの指摘。「水俣に住んでいる子ども達が、水俣病のことを知らないという現実」の中で、「差別に耐える教育」が施されているという矛盾を指摘した永野さん。「大事な物はお金であるということを教えている学校」という角度から、経済最優先の競争社会における教育の価値観を指摘した中村さん。要は「子どもらしい子ども時代を送れる社会」を希求すべきなのにという鎌仲さんの言葉に集約されているのではないだろうか。このような教育上の問題点を考えるに、特に「表現する」ということにおいて中心的な役割を果たす「国語」としての立場は、大変重要であると個人的に再認識した次第である。

2000年代となってから世界的学力水準において、日本人の「読解力」低下が指摘され、我々現場の関係者も様々な模索を繰り返して来た。その延長上において「思考力・想像力・判断力」を養うべく新しい教育が”制度”上では展開し始めている。だがしかし、果たして自分の意見を述べて、一つに限定されない多様な答えを発見して行くような「対話」を構築するような教育が為されているのだろうか。我々、国語教育関係者の責務は、尚一層大きいといえるだろう。

僕たちの故郷である日本を大切にするということは、
こうした「隣人との対話」なくして成立し得ないのではないだろうか。
せめて過去の数えきれない犠牲になった方々から学ばなくしてどうするのであろう。
水俣・六ヶ所村・福島、
もちろんその延長上には、広島・長崎があり、
更には国内外で無念にも戦火で犠牲になった多くの方々の意志があるはず。

その”事実”を踏まえた上で「思考力・想像力・判断力」を育む、
真の「対話」による教育を目指さなければならない。
しかもそれは”急務”な課題なのである。

まさに僕にとって意義ある休日であった。
tag :
<< topページへこのページの先頭へ >> 次のページへ >>