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2011.3.11から12年を思う

2023-03-13
あの日あの交差点で揺れを感じ
あの年は中高専任教員を辞した年
誰しもが忘れてはならない3.11を胸に

小欄に「2011.3.11以後」というカテゴリを設定し、見れば「75」の記事をこの「12年間」で書いてきた。「第二の敗戦」と言われ、原発の状況に応じては「東日本崩壊」になりかねなかった大惨事から干支で一回りの月日が経過した。WBCで奮闘する佐々木朗希投手なども岩手県大船渡で、お父さん・お祖父さんを震災で亡くしたと聞く。偶然にも12年目の「3.11」にWBC公式戦初登板であったことは、彼自身にとっても大きな意味があっただろう。自然に対していかに人間は無力であり、また自然を根底から破壊する人為的な装置への過信に対して、人類的な視野で考えを深めなければならない大災害なのであった。その教訓は全世界のエネルギー政策を転換させ、「地球温暖化」を始めとする「地球での生き方」に大きな警鐘を鳴らした出来事だった。

12年の歳月によってもまったく悲しみは癒えず、また同次元の大災害が再びいつ何処で起こらぬとも限らない。僕らはそんな危うさの中で日常を生きているが、多くの分野で「喉元過ぎれば」な対応が眼につくことも多くなってきた。都市部の建築高層化は、いっときは忌避されたが今や再び建築が進んでいる印象である。揺れはもとより津波などにも、どれほどの脅威を我々は警戒し続けているだろうか?ましてや原発再稼働や新設などへの政策転換は、「3歩あるけば忘れる」次元の愚の骨頂である。「あの日を忘れない」ということは、自らの身もあの日に犠牲になった方々のような立場で物事を考えるということだ。僕は「3.11」の2年後に宮崎での採用が決まり、この地に移り住んだ。「3.11以後」では、最初の2年間が「非常勤生活」のち10年間が「大学専任生活」である。こうした地方暮らしに豊かさを見出したのも、「3.11」の影響が少なくない。やはり今年も立ち止まって、「14時46分」に太平洋に向かい黙祷を捧げた。

新たな戦乱の時代に入りWBCに興じる私たち
あらためて我が身の危うさと自然への畏敬を思う
次なる「刻まれる日付」の前に自分が為しておくべきことは・・・


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意識を超えてしまう地震と自然への祈り

2023-01-18
阪神淡路大震災から28年
関西地方には大地震はないという思い込み
その後の各地での地震を我々は経験して・・・

阪神淡路大震災から28年目の午前5時46分を迎えた。当時、兵庫に住んでいた大学の親友に地震の後に落ち着いてから電話連絡が取れた。彼はやや大阪寄りに住んでいたので、大きな被害も受けずに無事でまずは安堵した。彼は電話で「(揺れた際に)関東の方で大きな地震があったと思った。」のだと言った。どうやら「関西には大地震は起こらない」と思い込んでいたのだと明かした。9月1日が「防災の日」になっているように、「関東大震災」の記憶が昭和・平成と受け継がれて多くの人に影響を及ぼしているのだと知った。だが中世の古典『方丈記』(鴨長明)などを読めば明らかだが、歴史的には関西地方を大地震が襲うことは必然なのであった。たとえ高校古典で『方丈記』を教材として学んでも、どこか「他人事」で「過去の虚構」のようにしか思われていないのだろう。東日本大震災の津波にしてもそうだが、平安朝の記録にまで遡れば経験があった事態なのだと言える。

この28年間で中越地震・東日本大震災・熊本地震など、この列島は周期的に大地震を経験している。海溝型もあれば活断層型もある。日本に住む以上、何処にいても大地震を逃れることはできない。だが偶々、人生の中でそれを経験するかどうかによって意識が違ってしまう。50年単位で揺れていない場所では、再び「他人事」となってしまう傾向が否めない。東京で東日本大震災の大きな揺れを経験して、もし関東大震災級の首都直下型が起きたら大変なことになるという意識が僕の中に芽生えた。その後の大学採用公募については、地方を選択する率が高まったのは確かだ。そして宮崎に移住して10年、もちろん宮崎でも日向灘に大きな震源はあり歴史的には大地震に何度も襲われている。多く警鐘が鳴らされている「南海トラフ」においては、南限の震災想定域でもある。ヒット上映の新海誠「すずめの戸締まり」で語られているように、自然神はいつその扉を開いて大きな揺れをもたらすのか?僕らにはわからない。ゆえに自然の声にも耳を傾け、日々「揺れない大地」に感謝して生きねばならないのだろう。

「大地が動けば地震と驚くが、動かぬ大地になぜ驚かぬ」
山よ海よ、今日もまた穏やかに温かく我々を見守りたまへ
毎朝のウォーキングで行く丘で青島を見て祈りを捧げている。


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桑田佳祐ライブ「お互い元気に頑張りましょう」が意味するもの

2022-11-03
2011年9月10日・11日
東日本大震災から半年、そして自らの病気療養からの復活
あれから11年、今回もやはり宮城セキスイスーパーアリーナで開幕

東日本大震災が起こったのは、僕がちょうど中高専任教員を辞する3月であった。新年度4月からは先の見えない非常勤講師生活、不安がないわけではなかったが、自分の持ち時間が全て研究に注ぎ込める希望で心を支えていた。勤務校では卒業式も簡素化、もちろん「送別会」などはまったく無し。自らの社会的アイデンティティ(存在理由)が、浮遊して宙に浮いたような感覚を抱いた。そんな中で4月を迎えるが、非常勤先であった母校大学の講義開始は1ヶ月延期となった。その際に抱いた思いとしては、「誰かのために役立ちたい」という切実な祈りに似たものであった。よほど東北の被災地にボランティアに出向こうかと考えたが、あれこれと情報が錯綜するうちに瞬く間に1ヶ月が過ぎてしまった。ある意味でこの時には「自らの命はどうあるべきか」など、哲学的に果てしないことを考えるようになっていた時期でもあった。マンション12階の自宅書斎が震度5強によってほぼ全壊状態、東京に在住していることそのものを深く考え直す機会でもあった。もちろん東北で被災した方々からすれば、他愛もない些細な困惑に過ぎないのであったが。

半年後の2011年9月10日・11日の2日間、宮城セキスイハイムスーパーアリーナで桑田佳祐さんがライブを敢行すると聞いた。この際は宮城のみでの特別なライブ開催でったので、行きたい気持ちがかなり募った。だがしかし、前述した4月頃の自らの行動を省みるに、このライブは東北で辛い思いをした方々のものだとチケットエントリーなど全てを躊躇した。ボランティアさえも行くこともなく、非常勤講師として細々と自らの研究に向き合う自分が甚だ矮小な存在に思えた。ライブの模様は、さらに約1ヶ月後にBS契約局で放映された。その際の激しい情動を僕は忘れることができない。桑田佳祐さん自身も自ら大きな病を克服し、復帰して最初のライブという意味もファンとしては実に大きなことであった。病への不安を抱えた身体を賭して、震災後に苦しむ東北の地で歌う桑田さんの映像。僕自身はさらなる情けなさを覚えつつも、「研究で身を立てる」と決めたからにはとようやく前向きな気持ちになれた。その後は論文に向き合いつつ、公募採用を目指して日々の格闘が始まった。それから約1年後、数限りない応募の末、ようやく複数の大学から面接に呼ばれるようになり最終的に現勤務校に採用された。僕にとって2011年9月の桑田さんの宮城ライブがあってこそ、今があると断言できる。11年後の今、ようやくあの時訪れたかった宮城の地で、桑田さんのライブを観る機会が訪れた。

今回のツアータイトル「お互いに元気で頑張りましょう」
11年間の僕自身の「存在理由」を胸に深く抱きつつ
本日は万感の思いを込めて宮城・仙台の地に向かう!!!


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自然に生きるとはーなぜそうありたいか?

2022-03-01
「杞憂」:中国古代の「杞」国の住人が、
天が崩れ落ちることを心配し寝食が取れず。
自然の中で生と死は必然の摂理であるが・・・

新型コロナに翻弄されて早2年、東京からの人口流出が顕著であると云う。もとより首都圏人口一極集中は我が国の大きな問題であったはずだが、政治社会的にまったく解決できなかったことがこのウイルスの所業でこのような反転現象になるのは、あまりにも人間の愚かさを皮肉っているようにも見える。それでも「テレワーク」への働き方転換を始め、この傾向が生じるのに2年という月日を要している。僕の場合は仕事上の公募採用による偶然で宮崎に赴任したのだが、その根底にはやはり自然の中で暮らしたいという願望がないわけではなかった。その大きな生活観念の転換点はやはり「東日本大震災」であろう。東京のマンション「12階」に住むんでいること自体の「不自然」、尋常ではない揺れが書斎をほぼ破壊したことへの衝撃は大きかった。同時に当時から様々な考え方があったが、放射能の問題も看過できなかった。様々な書籍や勉強会で放射能については多くを学んだが、自然界にもありながらそれが人為的に肥大化して暴発することで人間が制御できない領域になってしまう恐怖を覚えた。文学に関わる多くの人々の言動が繊細であるゆえに、この問題に敏感であったと振り返ることができる。

宮崎で僕が出逢い直した若山牧水は、43歳の若さで逝去しているが死を恐れることはなかったと云う。自らの心身も自然の一部と悟ったとき、「死」は恐怖ではなくなるという境地だ。ところが理不尽な偶発的で人為的なことで死に直面することには、喩えようもない恐怖が伴うのだろう。いま現在のウクライナ情勢がその状況で、民間人の家屋にもミサイルが突き刺さる恐怖の映像を観た。もちろん自然界を見れば弱肉強食、目の前の鳥が海中の魚を一瞬にして捕獲したり、生態系の摂理の中で人間が見ると残酷と思えることが自然と行われている。だが自然界を「残酷」とは言いながら、残虐さに蓋をした環境を産業として作り出し私たちは平然と肉も魚も清潔に食している。「いただきます」の祈りの意味を、日々噛みしめるべきなのだ。あらゆることが産業化されシステム化された近現代、日本でいえば明治以降の約150年で失われた感性も少なくない。少なくとも「平和」に暮らせる国土が77年間は、個々の人間が努力もせずに此処にある。明治18年生まれの牧水の歌に学ぶことは、近現代の穂先を生きている僕たちにとって必定なものの見方である。中国古代の故事成語は、近現代において真実味を増しているのだろう。人間そのものがこの地球を壊す道だけは歩んではなるまい。

日の出待ち月の出を待ち
地球という自然の中で生かされているこの命
自動車ひとつでも使い方で人間の命への恐怖になることを忘れてはなるまい。


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どこまで「科学的」なのだろうか

2021-04-29
「科学的根拠」という曖昧
科学ではわからないこともあり、
また信じたくない事実もあるだろう

僕らが子どもの頃はまだ、「科学的」という語のあり方が明確だった気がする。科学には憧れがあるとともに、科学で解明できないことも多いことも明言されていた。だがいつしか「科学」が万能であるかのような幻想が社会を覆い尽くし、「科学」なら何でもわかるかのように虚飾されてしまったかのように見えることがある。「科学的に安全」と云われていても、それは「完全」などがあり得ないのを「科学的」と呼ぶはずが、精神論のようなもので議論がすり替えられていく。すると、より「科学的」に考えようとする側が「異常」「悪者」のレッテルを貼られ、「現実的ではない」と批判されてしまう。その「現実的」とか言う輩は、「科学をする人」を選別し自らの欲望を満たす傾向の「科学を贔屓」することになる。この時点で十分に「非科学的」な偏向に満ちた思考である、と言わざるを得ない。

2000年代になってから、朧げに前述のような傾向が強まって来たことを感じていたが、とうとう新型コロナ禍によって、世界中の虚飾や欺瞞が炙り出されているような気がしてならない。国によっては明らかに従来の「信頼できる定義の科学」を以ってして、感染拡大を抑制できた政府がないわけではない。こうした成功例においては、まさに「科学的」な知見として尊敬し情報を入手し見習うべきと思うが、他国の情勢の報道でも悲惨な状況のものばかりが先行し、まだ我が国は良い方だという思い上がりをメディアも醸成してしまってはいないか。既に90日前にもなった東京五輪の開催をめぐる問題では、世界で他には決してない「国のあり方」を世界に露呈することになる。果たしてどれほどに「科学的」に対応できると言うのだろう。地球温暖化対策もしかり、フクシマの汚染水への対応もしかり。世界に見つめられていることは、少なくないのであるが。

「科学」ではないが
人の心の美醜を文学は切り取る
いまこの国に必要なものが時折わからなくなる。


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海は広いな大きいが

2021-04-14
トリチウムの海洋放出
「風評被害?」「科学的根拠?」
五輪招致の際には「制御下」と喧伝していたが

九州・沖縄地方で海岸に打ち上げられるゴミの類を漁れば、必ずといってよいほどに東アジア諸国のものと思われるものに出会う。海流や潮目の影響で、海は常に大きく動いている。そのゴミの類にプラスチック製品が溢れ、世界的な海洋汚染が深刻であることに僕らはどれほどの意識を持っているだろう。目に見えない「マイクロプラスチック」が生態系に影響し、やがて人類にも多大な悪影響を及ぼすのではないかと懸念が深まる。「目に見えない」という意味では、福島第一原発の放射性汚染水の海洋放出は本当に世界的に「容認」されることなのだろうか?と甚だ懐疑的になる。「WHO基準の飲料水」だとか、「世界のどこの原発でも行なっている」と聞かされると、その基準や原発そのものが問題だと思うのであるが。

「科学的根拠」とは言うものの、その情報公開が十分に科学的で公正公平だとはあまり思えない。単純に子どもが考えても、今まで「汚染水」と言ってタンクに貯蔵し投棄はためらっていたものを、「貯蔵が限界」だからという理由で「薄めて投棄」する理屈が「科学的」に説明できるのだろうか?また「風評被害対策」などと言うのも、本質的に「風評」なのかどうか?の「科学的根拠」は示されているのか?もとより「薄めて海に」と言うのは海洋で再結合などしないのか?など「科学を知らない」素人は馬鹿と言われるかもしれないが、不安ばかりが頭をよぎる。「貯蔵」という方針を「投棄」に変更したことで、五輪招致時に「アンダーコントロール」と豪語したことに嘘はないのだろうか?(投棄は2年後からというが)それを「制御」だと言い通すのは、少なくとも日本語の上では無理があるのではないか。

マイクロプラスチックが
何年も後に問題化するように
母なる海を穢す人類にどんな未来が待っているのだろう。


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動かぬ大地になぜ驚かぬVol:2

2021-03-16
1855年安政江戸地震(推定M7.1)
1894年(明治27)東京地震(推定M7.0)
1923年(大正12)関東大震災(推定M7.9)

今年の大河ドラマで、幕末からの渋沢栄一の生涯が描かれている。江戸末期、江戸城なども襲う大地震が起こる場面があった。「安政江戸地震」であるが、その歴史をこの大河が描くまで知っていた人は少ないだろう。僕の世代でも「関東大震災」のことは盛んに教え込まれたが、それ以前の歴史はあまり教えられなかった。調べてみると冒頭に記したように明治27年にも同程度の規模で「東京地震」が起きており、その周期を考えると今この時も心配が拭えなくなる。もちろん東京のみならず、近世以降の地震を調べると各地で頻発しており、僕らがいかに歴史上の少ない情報しか知らない無知を思い知る。この列島には必ず地震が起こるのである。

「東日本大震災」から10年ということで、多くの報道番組や特集番組を目にした。しかし肝心なのは、今も続く日常から地震への備えを意識することだろう。今こうしている間にも、列島のどこかで大地震が発生するかもしれないのだ。もちろん「南海トラフ」を始め多くの地震予知が為されて喧伝はされている。昨今は「何十年以内の発生確率」などが提示されるが、降雨の確率以上に敏感には反応しづらい。諺に「天災は忘れた頃にやって来る」と云われるが、まさにそれぞれの歴史を省みれば多くの人々が地震に急襲されている。幕末の黒船来航で「尊王攘夷」が叫ばれる社会情勢の中、地震は容赦無く江戸を襲ったのだ。ある意味で「無情な自然」に見えるが、人間の愚かさが試されている気もする。安政江戸地震から166年、為政者も庶民もそんなんに進歩はしていないなどと考えたくもなる。

今あなたの住む土地にも
「大地が動けば地震と驚くが・・・」
いつも肝に命じたいこと。


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10年目の14時46分

2021-03-12
「あの時」身体を震撼させた揺れ
やはりその時も友のカフェに避難
ただ「ひとりじゃない」と思いたくて

「あの日」誰しもが「その時どうしていたか」を鮮明に記憶しているとき。東京の自宅マンション近くの大通りの交差点で、街灯はメトロノームのように揺れ角の銀行のガラスが割れんばかりに軋み、僕はただ無力で小さな自分の身をどうすることもできずに立ち尽くした。幸いにあまりにも幸いに、命に別条はなく怪我に見舞われることもなく、その交差点での揺れは収まった。すぐに自宅に引き返すがもちろんエレベーターは緊急停止状態、12階まで階段を駆け上がり自宅内の状態を確かめた。玄関や寝室それにリビングは大きな変化はなかった、ただ42型のテレビはキャスター付きの台座のまま回転し背中をこちらに向けていた。むしろ回転できる「遊び」があったから転倒しなかったのだろう。だが書斎のドアを開けると本棚が尽く倒壊し、何よりも大切な書籍類が散乱し机上のPCは辞典類に押し潰されていた。しかし、自宅にいたらこの書斎を護らんとして命が危なかったかもしれないと、喩えようもない恐怖を覚えた。

そのまま自宅になどいることができず、徒歩10分以内で行けるその数年前から友だちとなった店主が経営するカフェに行った。夜の8時近くまでそこに滞在したであろうか、したがって地震直後のTV 報道はあまり目にすることもなく、スマホでSNS情報を中心にこの歴史的時間を過ごしていた。まかり間違うとパスタ釜の熱湯を浴びていたかも、そんな店主の恐怖体験も耳にして、すべての人々の命が紙一重な運命の中で生かされているのだと自覚した。こんなあまりにも安全な都会での「あの日」の体験、その時間にも多くの人々が想像もできない津波に命を押し流されていた。その後しばらく、余震も絶えず頻発する東京で、12階の自宅にいることに恐怖を覚えた。夜になると毎日のように懇意にするワインバーに出向き、親友からは「そこが家みたいですね」と言われたりした。「ひとり」でいることの無力感と恐怖感、人は何よりも自らを委ねられる「人」が必要なのだと痛感した。

10年目の14時46分は偶然にもやはり「友」といた
自然は容赦なく予告なく「人」に襲いかかる
それゆえに大切なのは「人」と「人」との繋がり以上のものはない。


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10年76年153年ー時の距離を思う

2021-03-11
東日本大震災から10年
第二次世界大戦から76年
明治維新から153年

本日、東日本大震災の発生から10年の月日が経過した。僕はちょうどその時、中高一貫校の専任教員を辞した年でもある。その後2年間の非常勤講師経験を経て大学専任に採用され、今やすっかり大学教員としての歩みが定着した感がある。これが10年という時間の実感である。基本的な生活感覚が覆される、僕は人生の仕事の上でそれを経験してきた10年でもあった。だが東日本大震災の甚大な被害に遭われた方々にとって、「生活感覚」では済まされない人生の変転の時であったことを最近の報道などを目にして痛感する。「あの日のままの10年」、復興を喧伝するのはある意味で簡単かもしれない。むしろ「復興」などという看板を掲げていることそのものが、「他人事」にしか見ていない証拠のようにさえ映る。被災した方々個々の終わらない10年、これからの時に思いを致す。

昨日は「東京大空襲」から76年目であった。東京の下町で育った僕にとって、その慰霊の思いは幼少の頃から強い。現在生活する宮崎も、この3月には大きな空襲を受けている。76年前に生活をしていた人々の恐怖を、僕らは想像ながら次世代にも引き継がねばなるまい。決して76年という時間によって「絵空事」にしてはならない、この国で生きるためのDNAのような歴史的体験だ。76年を倍にすると152年、明治維新から153年目であるからほぼそこに到達する。「10年」が7・8回繰り返され第二次世界大戦、15回繰り返されると幕末江戸に至る時間的距離が感覚として捉えられる。若山牧水(明治18年生)を深く研究するようになってから、「近現代」を歩んで来た「自分たち」を意識するようになった。牧水の「曾孫」の世代として、歴史を生きる「われ」を深く自覚したい。

「今日」が歴史になるかもしれない
「近現代」で人間が犯した罪が顕在化する昨今
自然が警鐘を鳴らし「自分たち」に困難を与え続けるのはなぜだろうか?


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転倒と落下なきように見直そう

2021-02-16
震度6強のちからの凄まじさ
過去の経験と仲間の苦闘を教訓に
家具転倒と落下物がないか点検しよう

昨日の小欄にも記したが、今回の東北地方を襲った地震で研究仲間の苦闘を思うと言葉に表現できないほどにその辛さを痛感した。僕たちの仕事は書籍と向き合うことにあり、身近に多くを所蔵しておく必要がある。その数は学術雑誌などを含めて、日々増えているわけである。10年前の東日本大震災の折に、東京のマンション12階で震度5強を被災した僕は、聊かを実家に残しつつほぼすべての蔵書をスライド書棚などを駆使して所蔵していた。スライド書棚は棚を横に滑らせることで壁面積の3倍ほどの所蔵が可能な優れものとして買い揃え重宝していた。しかし残念なことに長周期震動と云われる長い揺れには脆弱で、スライド部分から次第に本体から外れてしまい雪崩のように転倒を繰り返したのであろう。幸い自宅にいなかった僕は、その大切な書棚の倒壊に身体を張らずに済んだことになる。

大型辞書などもある書棚の破壊力は凄まじいものがある。両側に書棚がある場所にあるプリンターなどの機械類を尽く破壊させてしまった。書棚の扉にガラスがあるものは飛散し、まさに足の踏場がない惨状であった。これは何も僕の書斎のみではあるまい。当時、母校の研究棟に行くと、多くの先生方の研究室が「シェーカーで振られたよう」と比喩され、業者の方々の補助がなかれば復旧できない状態であったと記憶する。特にビル建物の6階以上で、その揺れによる被害が大きいこともわかった。さらには僕の書斎の経験からすると、揺れの方向(海溝型地震の場合、大抵が海から山方向に揺れる)に対して書棚や食器棚がどのように置いてあるかも重要である。そんなことを考えて、現在の僕の研究室を検証すると、書棚の上などに危険が少なくないのに気づいた。もちろん転倒防止器具も装着しており、施設管理の検査も受けているのではあるが。やるべきことはまずは紙資料のデーター化ではないだろうか。この春休みの大きな宿題をもらった気がしている。

PC機材に物が落下せぬよう
自宅の蔵書は書棚専用の部屋のみ
日向灘に震源がある宮崎では決して他人事ではない。


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