新刊『悩ましい国語辞典』(時事通信社)から

2015-12-10
「悩ましい目つき」「悩ましい問題」
「このカレー、やばいです。」
「この使い方で大丈夫」・・・・・

昨日紹介した先輩・神永曉氏の御高著『悩ましい国語辞典』(時事通信社2015年12月10日)には、長年辞書編集者として日本語の語彙に携わって来た方ならではの話題が満載である。しかも所謂「学習語彙」といった類の聊か高尚なものばかりではなく、むしろ老若男女の使用する日常語彙が数多く見られて興味深い。書名の如く全体が『国語辞典』の体裁を成しており、五十音順に目的の語彙を繰ることができる。また若者を中心に使用される「新しい使い方」に対しても寛容であり、それは用例を根拠に掲載語彙の選択や意味解説を施している『日本国語大辞典』の編集方針にも通じており、過去を遡れば現代の若者が使用する如き用例にも出逢えるという発見を根拠にしている。例えば「まじ」などという語彙使用は、明らかに「若者言葉」だと断じる向きも多いと思うが、これは江戸時代から使用されているといった内容が紹介されており、現代の年配者の偏見であることがわかる。ことばは「生きて」いるのであり、いつの時代もあらたな活用・展開が施されて然りなのである。よって年代を問わず自己の語彙使用に敏感になることが肝要であり、辞書を日常から楽しむといった感覚が求められるということを考えさせられる。

冒頭に記したのは同書に掲載された中から、この日の1年生(134名)を対象にした講義で問いを投げ掛けた語彙である。「悩ましい」に関しては、ほとんどの学生が「悩ましい問題」といった文脈での使用をすると回答したが、両方使用するとしたのが4名ほどで稀少であったが、その中には「官能的」といった語感を口にする者もいた。「やばい」に関しては、「辞書の解説のように意味を記述せよ」と問い掛けると、品詞は形容詞と答える者も目立ち、多くの者が「危険やあぶない状態が予測されること。」といった方向性の回答を記した。「美味しい」などの「よい評価」との区別には自覚的であるようで、教員養成学部であるからか日常語彙に対しても、それなりなりな感覚があることが再確認できた。「大丈夫」に関しては日常使用場面を想定して、2人の会話を記述してもらったが、やはり聊か曖昧な意味で使用している現状も看て取れた。スーパーでバイトの学生がレジで「袋は大丈夫ですか?」と言っていたことや、繁華街の客引きの方が「カラオケ大丈夫すか?」と問い掛けてきた僕自身の体験も話して、使用場面によっては年代によって解釈が異なり、失礼にあたる可能性もあるので、バイトなどでは十分に注意すべきと促した。

教師たるや
まずは自らの言語感覚に自覚的で敏感たれ
大学で学ぶ意義の一端も露わにできたのではないかと、先輩の御高著に感謝。

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外山滋比古著『リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる』

2015-01-06
「敵ヲ知リ己ヲ知レバ百戦危ウカラズ」(孫子)
「田舎の学問より京の昼寝」(諺)
「日本人は目で考える」(ブルーノ・タウト)

『思考の整理学』で著名な外山滋比古、老巧の最新エッセイ集である。「はじめに」で日本人の自身喪失が語られ、「見えるものに心を奪われ、見えないものをバカにする」性質を「幼稚」と斬り捨てている。「ものごとをしっかり考え、洞察する力」の重要性を多様な角度から指摘している。決して過去の著作のように奥深さはないが、それでも尚、老練のことばに耳を傾けるという意味での価値は高い。そんな思いで、夕餉の後に一気に読み通した。

最近、僕自身が「田舎の学問・・・」に陥っていないかと、やや痛い思いもした。学問のみならず、日常的にも先入観や思い込みで判断してしまっていることが多いと自覚した。この日も、新年のトレーニングをしようと張り切ってジムまで行くと、灯りが消えて真っ暗、そう!休館日であった。「月曜日=始める」という先入観が強過ぎた。(だが即座に、読書の時間が得られたと嬉しくなった)東京の母校(大学)で講師をしていた時の縁で、慕ってくれている学生の大学院学年を1年先取りしてしまっていた。まあ彼女の研究が優れていたということに起因しているので、あながち悪い思い込みでもないとは思いつつも・・・。

外山のことばは、ふと何かを気付かさせてくれる。「負ける経験をするのがスポーツ」「愚をよそおって他者を喜ばせる」「休まなければ疲れることも忘れる」「腐りかけのバナナがもっともおいしい」「よい我慢はしても悪い我慢はするな」「充満したストレスを目標とするところに向けて噴射し、大きなエネルギーを生ずる」「道を歩かぬ人、歩いたあとが道になる」「心の世界にまで、みずからの姿を見る鏡が欲しい」等々・・・・覚書として

「善悪・良否・美醜を見きわめる判断力・識別力」
まさに思考は限りなく柔軟であるべきで、「知識バカ」ではいけない。
外山のことばそのものを「合わせ鏡」として、物事を「見よう」とする方にはお勧めの一書。
(2014年7月刊・幻冬舎)
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”うたぐりや”ばかりのよのなかじゃ

2013-12-16
「うたぐりやは、心のせまい人たちです。
 心がせまいために、よくわからないことが、
 たくさんあるのです。
 それなのに、じぶんのわからないことは、
 みんなうそだときめているのです。」

街には各所でイルミネーションが輝いている。僕の自宅の近所でも、日を追うごとにその度合いがエスカレートする”豪邸”がある。今年もあと半月。このあたりからXmasまでの間というのは、慌ただしいながらも、夢のあるときではないだろうか。「世知辛い世の中」とはいつの時代も囁かれることばであるが、それだけに人のこころのあたたかさを信じるひとときを、過ごすべきだと切に思う。

先日訪れた「えほんの郷」で、欲しかった品物が在庫切れであったので、一昨日から市内で開催されている「えほんフェア」に届けてもらうことになっていた。目的の品を受け取りつつ、他のえほんたちを眺めていると、ふと何冊かのXmas関係の本に食指が動いた。その一冊が、『サンタクロースっているんでしょうか?』(偕成社・1977初版・1986改訂版・201310月改訂版114刷)である。その冒頭に先に記したような一節がある。

8歳の少女が「サンタクロースっているんでしょうか?」という素朴な質問を、父に勧められて新聞社に投稿する。すると新聞社は、その「社説」として味わい深い返事を彼女に出したという心温まるお話である。これは100年前のニューヨーク・サン新聞の粋な計らいだそうだが、その後、Xmasが近づくと各新聞などがこぞって取り上げる逸話になったという。読んでみるとまさに、現在への警鐘とも解せるような文面に驚かされる。

「この世界でいちばんたしかなこと、
 それは、子どもたちの目にも、
 おとなの目にも、
 みえないものなのですから。」

不確かなものを疑り、批判の刃のみを翳し、こころを通わさずに相手を叩くことのみに躍起になっている現在の社会は、一体何なのだろうか?更に言えば、新聞社は信頼性を失い、疑心暗鬼を拡大させ、自ら瓦解していく道を辿ってしまってはいないだろうか?子どものこころに正面から応えようとする100年前の記者たちから、我々は「たしかなもの」を学ぶべきではないだろうか。

この一書には、
生きるために大切なことばが満載されている。
結末のあたたかい限りのことばは、小欄には書かない。
こうした書物を手にしようと思うこと。
そうしたこころを忘れていることを一人一人が自覚したい。
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「正しい理論ではなくて、美しい歌を唄おう」『FAMILY GYPSY』(その2)

2013-07-21
ことばを選ぶ。
何が”適切な”語彙か?
などと学校の試験は問い質す。
答えは「道徳」の中にある。
でも本当に”美しい”とはなんであろうか?

昨日の小欄に記した書物『FAMILY GYPSY』の幾らかの頁を再読している。直感的に付箋を貼っておいたところを中心に。なぜかその素朴で飾らないことばの数々に、涙腺が緩む。たぶん今は自覚がなくとも、生きることの節目にいることで、僕自身の心の琴線が甚だ敏感になっているのかもしれない。笑顔を失い顰めっ面になった時、思い出したいのが高橋歩さんのことばと写真である。


「苦しい時期が続いても心配はいらない。
 成功するまでやれば、必ず成功するものだから。ただ、やめずに頑張り抜くのみ。

 そして、目に見える結果が出て来た途端、すべては変わる。
 周りからの評価は、180度転換する。

 失敗は「経験」と呼ばれ、わがままは「こだわり」と呼ばれ、
 自己満足は、「オリジナル」と呼ばれ、意味不明は、「新鮮」と呼ばれ、
 協調性のなさは、「個性」と呼ばれるようになる。」
(同書255頁)



僕たちは、周囲からの評価を気にし過ぎているのではないか。また社会が、前向きな評価よりも、欠点の露出に躍起になっているようにも見える。不毛な中傷合戦が、至る所で行われる。ことばは本来美しいはずであるが、こうした社会の中に放り込まれると、不幸にも暴力的で残虐性に満ちたものに化ける。もちろんそれはことばのせいではない、ことばを使用する人間の心の醜さが露呈しているに過ぎない。あまりにことばが惨めである。

「正しい」とは何か?「正解」を求めるのが教育か?「理論」化されたことばは「正しい」のか?否、たぶん教育に関わるすべてのこと、学校・授業・試験・学習内容・学習活動・指導法・教材・教具・・・等々に「正しい」などないのであろう。だが、それぞれの領域を「改善」しようという意図が国語教育の分野では働く。一定の「枠」を「正しい」と定めて行く。「正しさ」が精密に見えない「文学」が昨今大切にされないのは、こうした規範主義の表面化である。

だが本当に生きる為には何が必要なのだろうか?
高橋歩さんのことばを借りれば、
「美しい歌を唄う」ことだ。
そしてまた、「美しい歌」を唄おうという意志ある人に出逢うことである。


最後にもう一節、高橋歩さんのことばを紹介しておこう。

「旅も人生も同じ。
 どこに行くか、ではなく、誰と行くか。
 なにをするか、ではなく、誰と生きるか。」(同書265頁)


4人家族の世界一周旅行。
この「枠」から飛び出した生き方に、
大きな力をもらった。
高橋さんの生き方自体が、「美しい歌」なのである。
さあ!唄って素敵な夢を叶えましょ!

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「未来は、歩きながら考えていくものだ」ー『FAMILY GYPSY』との邂逅

2013-07-20
「止まっていると、心は揺れる。
 動いていると、心は安定する。

 方角なんて、直感でいい。
 まずは、一歩を踏み出そう。

 未来は、歩きながら考えていくものだ。」(同書165頁)


 昼食後、大学書籍購買部に何となく足を運び手に取った一冊。そのPrologueを読んで、思わず涙腺が緩んだ。しばらくその場から離れられずにいたが、ページを繰ってその素朴な写真を目にし、久し振りの衝動買いに及んだ。高橋歩著『ファミリー・ジプシー/家族で世界一周しながら綴ったノート』(サンクチュアリ・パブリッシング 2013年5月)である。

自分が生きて来た「枠」にこだわらない。自然と戯れて、気持ちの赴くままに世界を旅する4人の家族。その自由な発想と行動力は敬服に値する。些細な”仕事”にこだわることなく、子どもたちの学校がどうなるのかに不安を抱かず。ただ一度しかない人生を「シンプル」に前を向いて生きる。読み進めるうちに、何歳になっても人生は夢を持つべきだということを考えさせ、明るい躍動感が心に宿ってくる。

われわれは、自分の人生でありながら、いかに周囲が作り上げる「枠」に囚われて生きているのか。反転して述べるならば、「居心地のいい日常に、ぬくぬくと縮こまっていないで、新しいことにガンガン挑戦しながら、死ぬまで学び続けようぜ!」(同書53頁)ということを行動に移せないでいるか。「周りからの評価」を気にして、その”根拠もない決め付け”に「一喜一憂」しながら、自らの生を浪費していやしないだろうか。

「悪く言われても、意地悪されても、進むべき道を進む。
 ほめられても、チヤホヤされても、進むべき道を進む。

 ただそれだけでいい。」(同書125頁)

もちろんこれは、学生時代から活力漲る生活を常に追い求め、このような世界一周ができる経済力を兼ね備えている高橋歩さんならではの生き方であるかもしれない。だがしかし、それを本の中の人物と考えるか、自由に生きる”隣人”と考えるかは、僕たち次第だ。その豊かな笑顔溢れる「世界一周家族旅行」の写真を見ていて、実に温かい気持ちにさせられた。そして僕自身の想像力が随所に起動し、眼前にある自らの人生の歩み方を何度となく考えさせられた。

ふと振り返ると、僕自身も高橋歩さんほどではないが「「枠」を破壊する」人生を歩んで来た気がする。中学(一貫校)入学・大学進学・就職後の変遷・再度の大学院進学、そして今、新たな土地での新たな一歩。そこにささやかな「GYPSY」性があったからこそ、高橋歩さんの人生に共感できるのかもしれない。「進むべき道を進む。」生き方、である。

同書は、嫌味のない爽やかな家族愛に溢れている。「価値観の不一致」といいながら「最後まで一緒に生きよう」という想いだけは一致しているという愛する妻。好奇心全開で自然や異文化と戯れる逞しくも笑顔を絶やさない子どもたち。旅の先々で、寝る前には絵本を読み、やがて各自が新しい”物語”を創るということが恒例となったという。その随所で子どもたちが味わった出逢いが、その物語に凝縮され人生の財産となっていく。お金や学歴だけが人生ではないことを、同書は豊かに語り出してくれている。

「人間っていう生物は、とてもシンプル。

 将来に「楽しみ」があるから、頑張れるんだと想う。」(同書145頁)


最後に

「俺が幸せに生きるために、一番大切なことはなんだろう?
 まずは、それを、大切にすることから始めよう。」(同書67頁)


食事の間も惜しみ、寝るまでに一気に通読した。
いや通読せねば寝られなかった。
そんな豊かな興奮をもたらす一冊である。
ぜひご一読いただきたい。
自分の生き方を確実に考えることになるだろう。
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斎藤兆史著『教養の力 東大駒場で学ぶこと』

2013-07-03
めっきり「教養」という語も影を潜めた。
いや、そのような流れに迎合しているだけではないか?
あらためて「教養」とは、学ぶ者として、人間として不可欠なものである。
そんな志を深くする一書である。

「教養」とは「確かな判断を行うために必要な「知」のあり方」なのである。公共の場で好ましくない態度をとる人がいたとする。知人の大学教授は、「まったく教養がない者はだから困る!」といって強く非難していたことを思い出した。「教養」という語そのものが矮小化され、日常的な態度とは分離してお蔵入りするが如きものとなってきてしまった。最高学府である大学ですら、「教養」を大切にすべきという論調から外れた思考で物事を進める事態が顕著である。

斎藤氏の著書では、「教養」の基本的なあり方からはじまり、「学問・知識としての教養」「教え授ける・修得する行為としての教養」「身につくものとしての教養」を具体例を示しながら説き、まとめとして「新時代の教養」について展望を述べている。典型的な教養書のあり方やそこから学ぶべき事の重要性。そして「センス・オブ・プロポーション」という知的技能のあり方を再発掘し新時代への提唱とする。

「様々な視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えているかどうか、それが教養を身につけているかどうかの大きな指標になると思われる。」という一文には深く共感できるものがある。「教養」とは空虚な知識ではなく、「行動原理」や「バランス感覚」の根幹になる人として重要な知であることが再認識できる。それは「あとがき」に示された斎藤氏の個人的な経験でより説得力を増す。

”3.11”の際に東大駒場の研究室にいた斎藤氏が、帰宅を諦めてキャンパスで一夜を過ごした時のこと。誰ともなく食料を調達し炊き出しをするという助け合いが、自然発生的に存在していたという。「「教養」を旗印に掲げる学部では、人が人を思いやり、お互いに情報を提供し合い、そして助け合っていた。」というエピソードには、個人的に深い感慨を覚えた。僕自身、かつて大学学部を卒業した頃、「研究者」はここで示されるような「バランス感覚」を欠く存在である、という固定観念に支配されてしまっていたことがあった。その思いを強くしたが為に、自分にとって「現場」と思える中高の教諭への道を一時は選択した。だがしかし、そこで教壇に立ち年数を重ねると次第に「教養」の重要性に眼が開かれた。「文学」を学び教えるということは、「正義を見極める様々な情報を有している」ことに連なり、まさに「バランス感覚」を備える方法であることに気づいたのである。

このところ小欄でも、
「文学は人生に意味を与える」という趣旨のことを書き込むのは、
こうした経緯の延長線上にある。

いま僕は、「国語教育」と「文学」の接点で新たな模索を開始した。
「「科学的」理論や教授法」のみならず、
「教養」ある「国語教育」を再興させ「文学」の復権を目指すべきであろう。

何より僕たち大学教員が、
「教養」に対して誤った認識を持っていてはならない。
今一度、自らの「教養」を点検し学問の意味を考える為にもお薦めの一書である。
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『いまファンタジーにできること』まさに”いま”こそ

2013-06-19
「わたしたち人間は世界を、
 自分たちと自分たちがつくったものだけの世界に矮小化した。」
この何気ない文章に、”わたしたち”の倒錯が見え隠れする。
「子どもたちに(矮小化した・中村注)その中で生きることを、
 ことさら教えこまねばならない。」と続く。
『いまファンタジーにできること』(アシューラ・K・ル=グウィン 河出書房新社 2011年)の一節である。

”わたしたち”が本当に文学を通じて学びたいものは何か?とりわけフィクションの典型であるファンタジーをなぜ読むのだろうか?年齢が上がるにつれて、ファンタジーを読む意味はないと多くの人が思っている、いや思い込まされている。より矮小化されたリアリスティックな文学や考証を旨とする評論こそが、”読むべき”高級な文章であるという思い込みを。だが、社会の汚さに紛れれば紛れるほど、「善と悪との間にある”違い”がわかる方法について」何かをファンタジーから学ぶことができるはずである。

動物と人間は「連続体」である。「二項対立」で捉えるという「矮小化」が近代化の波の中で加速した。「共生」が盛んに唱えられるのも、その加速化が間違いであるということへの反省に違いない。その「連続体」に回帰するために、ファンタジーには動物が登場し人間とともに、いや同等に行動し忘れられた何かを蘇らせてくれる。「より大きなコミュニティーを再び獲得するために、想像力と文学がある。」と同書は説いている。

「ファンタジーは経験を否定し、不可能を可能にし、重力を無視する。ファンタジーは掟を破る。ー子どもたちやティーンがファンタジーを愛する一番の理由はこれかもしれない。」とも。

この一節を僕なりに表裏を反転させて書き換えてみよう。

〈教育というものは、経験を尊び、不可能を見極めさせ、重力を論証し思い知らせる。掟を守ることを絶対視する。子どもたちやティーンが教育を嫌う一番の理由はこれかもしれない。〉


僕たちは「国語教育」そのものが、
実に「矮小化」した世界観でしか構築されていないことに、
自覚的になるべきであろう。

真に想像力が必要な”いま”こそ。
「善」というベールに包まれた「悪」が、
大きな顔をして跳梁跋扈する社会であるからこそ。

せめてファンタジーに遊べる大人であり続けたい。
僕たちの悲惨な現実に気付く為にも、お薦めの一書である。
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平田オリザ氏著『わかりあえないことから』への共感

2013-05-28
昨日の小欄でも紹介した平田オリザ氏の著書。
『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何かー』
(講談社現代新書・2012年10月)
巻末まで読み進めるに、その深いコミュニケーションへの情熱に目頭さえ熱くなった。
されど僕自身は、演劇人ではない。
芝居の経験も演出の経験もない。
だがしかし、この違う価値観から学び自己の中で何かが確実に変わり始める。
書面から「情熱」を読み取るというコミュニケーションが成立したからであろう。

平田氏は、現在の日本が「「異文化理解能力」と「同調圧力」のダブルバインドにあっている」社会だとする。職場・学校・地域・家庭等々、身近な社会を見回せばすぐにその狭間を発見することができるだろう。その結果、既に「日本はバラバラ」であり、その中で「どうにかしてうまくやっていく能力」が求められていると。教育現場への視点で述べるならば、「伝える技術」を「伝える意欲」がない子どもたちに教え込むのでは定着せず、「伝わらない」ことを経験してこそ「伝える」気持ちが養われるというわけだ。

平田氏の国語教育への提言は実に斬新である。僕自身の研究・実践にも大変示唆的であるため、ここに覚書として引用させていただく。

「要するに無前提に「正しい言語」が存在し、その「正しい言語規範」を教員が生徒に教えるのが国語教育だという考え方自体を、完全に払拭しなければならない。そうして、国語教育を、身体性を伴った教育プログラム、「喋らない」も「いない」も表現だと言えるような教育プログラムに編み直していかなければならない。
 そのことはまた、すべての国語教員が、「正しい言語」が自明のものとしてあるという考え方を捨てて、言語というものは、曖昧で、無駄が多く、とらえどころのない不定型なものだという覚悟を持つということを意味する。」(同書・P58/59)

「演技」とは、「もともと他人が書いた言葉をどうにかして自分の身体から出てきたかのように言う技術なのだ。」(同書P187)というのが平田氏の定義。更に日本社会は「演じる」ということに順応しておらず、例えば日常生活の中で「(職場・学校等で)役割を演じる」ということは「悪」だと見なす慣習が強いと指摘する。確かに「正直で素直な心」が学校教育の目標として掲げられることは多い。この問題を「コンテクスト」という語彙を使用し、演劇が社会・教育に対してできることを前向きに提案しているのが同書である。

「同情から共感へ」
「同一性から共有性へ」
「シンパシーからエンパシーへ」
「協調性から社交性へ」
平田氏の思いが多彩な語彙で換言されていく。

「「わかりあえないこと」を前提にわかりあえる部分を探っていく営み」
同書のタイトルが、すっと腑に落ちて来た。
ぜひ「エンパシー」を感じていただきたい一書である。
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問題を好機に転じる

2013-05-04
2年前、『スタンフォード白熱教室』(NHKEテレ)という番組を観た。
「創造力は学ぶことができる」を始めとしてその発想に得るところが大きかった。
即座にいくつかの手法を自らの授業に取り込んでみた。
ブレインストーミンングに根ざした演劇的ワークショップ等々。
今改めてその講義の中心人物である、Tina Seelig先生の著書を読み返してみた。

「人は誰しも、日々、自分自身に課題を出すことができます。つまり、世界を別のレンズー問題に新たな光を与えることのできるレンズーで見る。という選択ができるのです。問題は数をこなすほど、自信をもって解決できるようになります。そして楽に解決できるようになると、問題が問題ではなくチャンスだと気づくのです。」(『What I Wish I Knew When I Was 20』(邦題『20歳の時に知っておきたかったことースタンフォード大学集中講義』阪急コミュニケーションズ 2010年3月刊)P26より。

問題に直面し苦難と感じるか。それとも好機であると捉える視点があるか。その差は大変大きいのではないだろうか。ともすると問題と捉えるべきではないことまでも、問題視しがちな世相の中で。人生は思い通りに行くことの方がむしろ少ないかもしれない。飛び越えるべき障壁があってこそ、人間は思考や行動が鍛えられて行くともいえるだろう。

同書の中で「サーカス団のシルク・ドゥ・ソレイユを例に、学生に常識を疑うスキルを磨く機会を与えています。」(P36)という一節も目を惹いた。それは、サーカス業界が苦境に陥る中で創設され、ことごとく常識の逆を行って成功した一例として興味深い。Tina先生の授業では、映像を観て「サーカスの特徴」を列挙した後に、それを「逆」にして行くというもの。「動物は登場しない」、「高額のチケット」、「物売りはいない」、「一度に上演する芸はひとつ」、「洗練された音楽」、「ピエロはいない」、「ポップコーンもなし」等々。そして「伝統的サーカスのなかで残しておきたいもの、変えたいものを選びます。」となる。こうして発想した「新しいサーカスは、シルク・ドゥ・ソレイユ風になるのです。」という具合である。

IT機器に代表される米国発の革新的な発想は、日本人の多くも虜になっている。ならば、そのような発想の根源がどのように生成されているかも考えるべきではないだろうか。日本の国内に目を向けても、様々な「問題」が山積されている。だが、その多くは「常識」の範囲内で処理されているであろう。政治家などが口にする「・・・することは常識だ。」という類いの発言が端的に物語っている。だが、問題は好機に、常識の逆を行ってこそ見えて来る「新たな光」に注目すべきではないだろうか。

問題を好機に転じる。
精神的にも実に健全な状態が保てる発想法なのである。
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田村耕太郎氏著『世界のエリートはなぜ歩きながら本を読むのか?』

2013-04-22
この4年ほど、というのは小欄を書き綴り始めてからというもの。
研究・教育実践・批評等を自分なりに文章化し模索して来た。
そのカテゴリの中でも「トレーニング・健康」は、
「教育」の「56」に続き、「47」と2番目に更新数が多い。
これは日常生活において至って自然な流れで、フィットネストレーニングが、
脳の活性化にも効用があることを、どこかで念頭に置いていたのであろう。
そのような意識を具体的に肯定してくれたのが標記の一書である。

同書では、氏の様々な留学経験から、主に「ハーバードビジネススクール(HBS)」に在籍するようなエリートたちが、まさに「文武両道」であり、日常からトーレーニングに励み脳を活性化させ、研究・実践の活動に奔走している姿を紹介している。更に第2章では、その「運動」「食事」「座禅」といった脳活性化の要点を、具体的な方法として提案している。第3章では、日本の偏向した体育会系事情を鑑みて、世界では「文武両道」が正道であることを具体例とともに説いている。

全体を通して強く共感したのは、こうした世界的エリートたちは「時間がない」ことを理由にしないということだ。朝型の生活を旨として、効率的に筋力を鍛えることで研究やビジネス上の体力も獲得しているという。社交は概ね朝食か昼食に限定し、夜にアルコールを伴い無益に長く時間を浪費することがない。書名の由来として、多くのエリートたちはランニングマシンをしながら書物を読む姿が象徴的であるというわけである。

僕自身も以前より、欧米の政治家・研究者・医師・弁護士などが、学生時代等を通じてスポーツでも一定の業績を残していることには関心があった。プロゴルファーであるが医師である(僕の記憶の中にあるギル・モーガン)とか、プロ野球選手であるが博士号を取得しているとか(田村氏の著書で、赤ヘル旋風時代の広島カープの助っ人・ホプキンスを紹介)いう例も珍しくはないということである。それは既に欧米人が高校時代から身に付けた姿勢であり、「文武両道」でなければ「運動」もやらせてもらえないという環境が存在するのだという。日本の場合は、まだまだ「運動」でさえ実績を上げれば、他のことは全て免除されるが如き誤謬が蔓延している。それはプロスポーツ界や高校スポーツ界をみればすぐにわかることだ。

「運動が脳機能に与える影響」について研究している筑波大学・征矢英昭先生に対して、田村氏が行ったインタビュー記事も興味深い。征矢先生は、特に「脳の機能によい影響を与える、運動強度や運動量がある」という仮説をもとに研究を進めているという。特に「筋トレなど高強度の運動が脳に効くということにつながる可能性がある。」といった大変興味深い談話が載せられている。

田村氏は、動物としての「ヒト」の特長に随所で言及し、その優位性と脳発達との関係を述べている。100mなら動物に劣るが、「42.195Kmを走らせたら生物界ナンバーワンだという。」といった記述である。人類発達史に敷衍して「ヒト」の機能を語りたくなるのもわからいではないが、ややこの点は慎重に考えたいという感想をここに添えておきたい。

全体として、ベジアリアンの勧めや高齢化社会での生き方など、今後の日本社会を見据えたライフスタイルの提案という「コンディショニング術」が記されている。雑誌『ターザン』の連載記事を纏めた一書。僕自身も、小学校時代から「文武両道」を信条としていたので、十分に納得できる内容であった。

そしてまた運動をすることは勿論、
格好よく服を着る、そして異性にモテる、
ことに通じる言及も避けていないあたりが嬉しい。

本書を読んで早速、日曜日の早朝から約5Kmのウォーキングを自らに課した。
今後も自らの「生き方」として、トレーニングを充実させる意志を新たにした。
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