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「大切なことは目に見えない」ー若松英輔『読み終わらない本』

2023-05-09
「むしろ言葉は、考えや思いにならない何かを、
 こころからこころへ運ぶもの」
若松英輔『読み終わらない本』(角川2023/3・P12) より

自らが「国語教師」になりたくなって文学の道を志し、大学学部を卒業して念願を叶えた。しかし、真の意味で「国語教師」であったかというとそう言い切れない20代だったと思い返している。「国語」のみならず「学校」内外で行われるあらゆる活動が楽しかった。それゆえにしばしば「国語」の杜を抜け出して、「スポーツ」の杜に興じたあの頃がある。その果てに10年が経過し「僕は文学をまったく読み終えていない」とやっと気がついた。「大切なものは目み見えない」どころか、「大切なものは目に入らない」ような経験だった。その後、研究と経験を重ねつつ今や「国語教師」を育てる立場になった。ゆえにこれまで自分が得てきた「大切なもの」以外も含めてあらゆるものを「手紙」など、あらゆる形式を用いて「誰かに手渡して」いかねばならない時にあるのだろう。日常に行う「講義」も公的な「研修」も、ある意味で「手紙」のように具体的な対象を意識して伝えるという、人生を賭したものでなくてはなるまい。

標題の若松英輔のエッセイを読み始め、こんな気持ちになった。そして上質なエッセイをすぐさま「国語教師を目指す人たち」に伝えたくなった。なぜ教材として「物語」を読むのか?「国語教師」として真の根本的な問いに答え得る人になってもらいたいと願うからだ。若松の著書の最初の章にこんな一節があった。「物語を読むということは、あらすじを追うことじゃない。それならほかの人でもできる。ほんとうの意味で、君が『読む』ということは、君が自分で見たもの、感じたものを受けとめる、ということだ。」(同書P19)そしてサン=テグジュペリ『星の王子さま』の著名な一節「大切なことは目に見えないんだよ」が引用されている。巷間では定式的・合理的・論理的に文章をデータのように読み取ることを「読解力」と呼び始めている。だが物語も詩も歌も、現在言われている「国語」の読み方では、ましてや入試対策の受験勉強ではまったく「大切なもの」へは届かない。若松はまた「孤立」ではなく「孤独」が必要だとも云う。「孤独」が保障されてこそ、真に「個」を尊重したということだろう。ゆえに僕自身の孤独な「書く」という行為は、いつまでも「終わらない」のである。

宮崎で短歌を紡ぎ始めてさらに「大切なもの」へ
「こころ」が読めからこそ「国語」を選んだのだ
「文学」だ「教育」だと分け隔てのない「生きる希望」を手渡してゆきたい。


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スケザネ(渡辺祐真さん)『物語のカギ』を読み始めて

2022-07-31
副題ー「読む」が10倍楽しくなる38のヒントー
「文学」が嫌いではなく「国語授業」が嫌いだったという学生の声
「文学理論」を適切に押さえていない「国語教師」の現実を浮き彫りに

親友のライター・真山知幸氏と対話する機会を得て、「スケザネさん」のことを話題とした。書評系YouTuberとして活躍しており、俵万智さんとのオンライン対談などもある。既に2021年6月号『短歌研究』には、「俵万智の全歌集を『徹底的に読む』」という特集も組まれていた。その冒頭の自己紹介では、高校時代に文芸部に所属し『サラダ記念日』の歌に触発されて創作した短歌が、第13回宮柊二記念館全国短歌大会にて小島ゆかりさんの選者賞を獲得した思い出が綴られている。俵さんの歌集を読む契機がこの高校時代の体験にあり、「それ以来、実作することはほとんどなくなりました」とされているが、YouTubeの書評で『ホスト万葉集』や『未来のサイズ』を取り上げたことで、『短歌研究』の執筆機会も得たということだ。ある意味で「歌人」(実作を一定の範囲で継続している人)ではない視点からの歌集評として、大変に新鮮かつ的確な内容であった。どこか僕たちが「言葉にしよう」としていた「痒いところ」に焦点を合わせ言葉にしてくれており、研究者として実作者として大変に参考になっていた。

さてそのスケザネさんの初の著書『物語のカギ』が刊行(2022年7月27日)されたので、早速購入して読み始めた。真山氏も既にYouTubeにて書評を述べているが、「物語の読み方」というのを教わる機会がなかった、ということに気づかされるという所感を持つ一書である。国語教育にも携わる文学研究者として、まさに僕自身の「痒いところ」であったことを明晰に素朴に炙り出してくれている。例えば、「物語が大切にするのは『特殊性と具体性』」などは、短歌に直結した考え方として有効である。「作者の意図は正解じゃありません!!!!!」という点を「国語の授業の弊害」として強く訴えているあたりは、まさに現場の実態をあからさまにした指摘である。テクスト論としての「作者の死」の問題にも言及しているが、「国語」の現場の理解は程遠く「作者」が「正解」を持つという偏向の渦中で授業づくりがなされる。その「正解」とはいっても所詮は「指導書」とか、せめても一教師の「解釈」なのであって、学習者がどんなに多様な「面白い」読み方をしても「教室」では試験があるからと「誤り」とされてしまう。大学に入学してくる多くの学生の声を聞くと、そんな「国語授業」によって「文学」までもが嫌いになってしまっているのだ。ある意味で、僕ら現場に携わる機会の多い研究者の問題だと、甚だ自省の念を強くするところだ。現代の若者の間で、YouTubeの力は甚だ大きい。それゆえに既に講義においても、スケザネさんの紹介をしたのだが、多くの学生がそれに触発され『物語のカギ』を読んだ上で、将来は教壇に立ってもらいたいと思っている。

入試だけを目標とする「国語」の弊害も多く
「面白い」を「マンガ」や「映画」などの例も出し縦横無心に述べる一書
スケザネさんと交流できる日が今から楽しみである!!!!!


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『もうイライラしない!怒らない脳』茂木健一郎著(徳間書店)

2020-04-27
「怒らない脳」にするために
イライラが募るこの世情にあって
急遽電子書籍を購入し一気に読破

もう2ヶ月以上に及ぶだろうか、今まで以上にストレスの多い世の中を僕らは生き抜かねばならなくなった。様々な報道によれば、「家にいよう」と云う施策によって家族内での暴力が深刻な問題となっており、減収や解雇によって先行きの見えない不安が社会全体に蔓延している。マスクの極端な品薄によって販売店の店頭で無用な諍いが生じたり、新型コロナ感染を公言した自暴自棄な行為や狂言的な行為まで、報道では目立つものだけが取り沙汰されるが、巷間での「イライラ」は膨大なものがあるように思う。何を責めてよいかもわからず、その上で社会生活をするだけで感染リスクの恐怖に曝されるという、実に「怒り」を生みやすい環境となってしまった。それがほぼ世界で例外なく蔓延してしまっているわけである。

かく云う僕もこのように小欄に考えや思いを言説化することで、少しは精神衛生を保とうとしている。しかし、「今まで」であったら通用していたものが、ほとんど全て通用しなくなった大学内で今後の方策に対応するにあたり、計り知れない「イライラ」を抱えているのも事実である。休日になってもそれは脳内から離れず、身体的に影響を及ぼすのではないかと思うほどである。そんな「自身」を「メタ」に客観的分析を施した結果、急遽本日の標題とした電子書籍を購入して一気に読み切った。その内容は、これまでも自らが「生活の知恵」のように日常から体得し既に実践しているものも多かった。例えば、「朝早く起きる」のもその一つに茂木氏は挙げている。「怒らない脳」にしないと、仕事にも趣味にも集中できないと云う。いやむしろ集中できるものがあれば、「怒らない」ようになると言えるのかもしれない。今月の新刊、「イライラ」が募る方にはぜひご一読いただきたい一冊である。

愚かなる「怒り」の言動
自らの言動は相手に映し出される
丁寧に謙虚に前向きに生きてこそ人間の「脳」であろう。


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「新たな時代の学びを創る」新刊紹介

2019-09-24
『中学校高等学校 国語科教育研究』
(全国大学国語教育学会編 東洋館出版社 2019年9月26日刊)
「Ⅳ 国語科授業づくりの実際 2思考力・判断力・表現力等を育てる授業づくり」

本日は、今週出版となる新刊(共同執筆)を紹介しておきたい。主に教員養成系大学の「国語科教育法」などで使用するテキストとなることを目的に、全国大学国語教育学会が編集したものである。以前にも同様の題となる書籍はあったが、学習指導要領の改訂により「主体的・対話的な深い学び」を創造すべく、新たな視点で学会内で各分野の先生方の研究成果を結集して編集された。今回の指導要領の改訂は、大学入試新テスト施行も相まって日本の子どもたちの学びを大きく転換しようとするものである。その邁進と裏腹に、「新テスト」や高等学校の課程編成をはじめとして問題視されている面が少なくない。大学入試で学生を受け入れ、中等教育の方法について新たな教育法を研究し学生に伝えている僕らの責務として、この改革の課題を克服し軟着陸であっても混乱のない方向へと導かねばなるまい。それほど大きな学びの過渡期に、今現在はさしかかっている。

さて、新刊では冒頭に記した項目頁において「中学校・読むこと 2)詩歌の指導」を執筆した。「(1)短歌の学習ー韻律・読みくらべ・創作」「 (2)詩の学習ー主体的読みから対話的群読」という二項目を立て、紙幅の関係で俳句の学習は割愛した。(1)では様々な授業観察記録から短歌学習で問題となっている教師が勘違いしやすい点の指摘に基づき、子どもたちが楽しく短歌創作をして他者と対話できる授業法についての提案を記している。(2)では、あまり時間数を割くことのできない詩の授業について、音読・朗読・群読をいかに有効に機能させるかを谷川俊太郎氏の発言にも言及しつつ「料理の食べ方」になぞらえて記している。短歌の項目では、若山牧水・栗木京子・俵万智の三人の名歌を引用させていただいた。牧水は言わずもがな、栗木さんは牧水賞選考委員であるため毎年一度は宮崎で様々にお話させていただいている。俵さんとは「心の花宮崎歌会」や様々な機会を通して交流しており、作品引用著者とこれほど懇意にしている同書の執筆者も稀であろう。ご興味のある方は、ぜひお手にとってご笑覧いただきたい。

本来的な意味で「新たな時代の学び」が創れるよう
指導要領ではなく教師の意識を転換せねばなるまい
そしてまた中等教育について、高等教育にいる人々も多くを知るべきである。


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新刊『悩ましい国語辞典』(時事通信社)から

2015-12-10
「悩ましい目つき」「悩ましい問題」
「このカレー、やばいです。」
「この使い方で大丈夫」・・・・・

昨日紹介した先輩・神永曉氏の御高著『悩ましい国語辞典』(時事通信社2015年12月10日)には、長年辞書編集者として日本語の語彙に携わって来た方ならではの話題が満載である。しかも所謂「学習語彙」といった類の聊か高尚なものばかりではなく、むしろ老若男女の使用する日常語彙が数多く見られて興味深い。書名の如く全体が『国語辞典』の体裁を成しており、五十音順に目的の語彙を繰ることができる。また若者を中心に使用される「新しい使い方」に対しても寛容であり、それは用例を根拠に掲載語彙の選択や意味解説を施している『日本国語大辞典』の編集方針にも通じており、過去を遡れば現代の若者が使用する如き用例にも出逢えるという発見を根拠にしている。例えば「まじ」などという語彙使用は、明らかに「若者言葉」だと断じる向きも多いと思うが、これは江戸時代から使用されているといった内容が紹介されており、現代の年配者の偏見であることがわかる。ことばは「生きて」いるのであり、いつの時代もあらたな活用・展開が施されて然りなのである。よって年代を問わず自己の語彙使用に敏感になることが肝要であり、辞書を日常から楽しむといった感覚が求められるということを考えさせられる。

冒頭に記したのは同書に掲載された中から、この日の1年生(134名)を対象にした講義で問いを投げ掛けた語彙である。「悩ましい」に関しては、ほとんどの学生が「悩ましい問題」といった文脈での使用をすると回答したが、両方使用するとしたのが4名ほどで稀少であったが、その中には「官能的」といった語感を口にする者もいた。「やばい」に関しては、「辞書の解説のように意味を記述せよ」と問い掛けると、品詞は形容詞と答える者も目立ち、多くの者が「危険やあぶない状態が予測されること。」といった方向性の回答を記した。「美味しい」などの「よい評価」との区別には自覚的であるようで、教員養成学部であるからか日常語彙に対しても、それなりなりな感覚があることが再確認できた。「大丈夫」に関しては日常使用場面を想定して、2人の会話を記述してもらったが、やはり聊か曖昧な意味で使用している現状も看て取れた。スーパーでバイトの学生がレジで「袋は大丈夫ですか?」と言っていたことや、繁華街の客引きの方が「カラオケ大丈夫すか?」と問い掛けてきた僕自身の体験も話して、使用場面によっては年代によって解釈が異なり、失礼にあたる可能性もあるので、バイトなどでは十分に注意すべきと促した。

教師たるや
まずは自らの言語感覚に自覚的で敏感たれ
大学で学ぶ意義の一端も露わにできたのではないかと、先輩の御高著に感謝。

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外山滋比古著『リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる』

2015-01-06
「敵ヲ知リ己ヲ知レバ百戦危ウカラズ」(孫子)
「田舎の学問より京の昼寝」(諺)
「日本人は目で考える」(ブルーノ・タウト)

『思考の整理学』で著名な外山滋比古、老巧の最新エッセイ集である。「はじめに」で日本人の自身喪失が語られ、「見えるものに心を奪われ、見えないものをバカにする」性質を「幼稚」と斬り捨てている。「ものごとをしっかり考え、洞察する力」の重要性を多様な角度から指摘している。決して過去の著作のように奥深さはないが、それでも尚、老練のことばに耳を傾けるという意味での価値は高い。そんな思いで、夕餉の後に一気に読み通した。

最近、僕自身が「田舎の学問・・・」に陥っていないかと、やや痛い思いもした。学問のみならず、日常的にも先入観や思い込みで判断してしまっていることが多いと自覚した。この日も、新年のトレーニングをしようと張り切ってジムまで行くと、灯りが消えて真っ暗、そう!休館日であった。「月曜日=始める」という先入観が強過ぎた。(だが即座に、読書の時間が得られたと嬉しくなった)東京の母校(大学)で講師をしていた時の縁で、慕ってくれている学生の大学院学年を1年先取りしてしまっていた。まあ彼女の研究が優れていたということに起因しているので、あながち悪い思い込みでもないとは思いつつも・・・。

外山のことばは、ふと何かを気付かさせてくれる。「負ける経験をするのがスポーツ」「愚をよそおって他者を喜ばせる」「休まなければ疲れることも忘れる」「腐りかけのバナナがもっともおいしい」「よい我慢はしても悪い我慢はするな」「充満したストレスを目標とするところに向けて噴射し、大きなエネルギーを生ずる」「道を歩かぬ人、歩いたあとが道になる」「心の世界にまで、みずからの姿を見る鏡が欲しい」等々・・・・覚書として

「善悪・良否・美醜を見きわめる判断力・識別力」
まさに思考は限りなく柔軟であるべきで、「知識バカ」ではいけない。
外山のことばそのものを「合わせ鏡」として、物事を「見よう」とする方にはお勧めの一書。
(2014年7月刊・幻冬舎)
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”うたぐりや”ばかりのよのなかじゃ

2013-12-16
「うたぐりやは、心のせまい人たちです。
 心がせまいために、よくわからないことが、
 たくさんあるのです。
 それなのに、じぶんのわからないことは、
 みんなうそだときめているのです。」

街には各所でイルミネーションが輝いている。僕の自宅の近所でも、日を追うごとにその度合いがエスカレートする”豪邸”がある。今年もあと半月。このあたりからXmasまでの間というのは、慌ただしいながらも、夢のあるときではないだろうか。「世知辛い世の中」とはいつの時代も囁かれることばであるが、それだけに人のこころのあたたかさを信じるひとときを、過ごすべきだと切に思う。

先日訪れた「えほんの郷」で、欲しかった品物が在庫切れであったので、一昨日から市内で開催されている「えほんフェア」に届けてもらうことになっていた。目的の品を受け取りつつ、他のえほんたちを眺めていると、ふと何冊かのXmas関係の本に食指が動いた。その一冊が、『サンタクロースっているんでしょうか?』(偕成社・1977初版・1986改訂版・201310月改訂版114刷)である。その冒頭に先に記したような一節がある。

8歳の少女が「サンタクロースっているんでしょうか?」という素朴な質問を、父に勧められて新聞社に投稿する。すると新聞社は、その「社説」として味わい深い返事を彼女に出したという心温まるお話である。これは100年前のニューヨーク・サン新聞の粋な計らいだそうだが、その後、Xmasが近づくと各新聞などがこぞって取り上げる逸話になったという。読んでみるとまさに、現在への警鐘とも解せるような文面に驚かされる。

「この世界でいちばんたしかなこと、
 それは、子どもたちの目にも、
 おとなの目にも、
 みえないものなのですから。」

不確かなものを疑り、批判の刃のみを翳し、こころを通わさずに相手を叩くことのみに躍起になっている現在の社会は、一体何なのだろうか?更に言えば、新聞社は信頼性を失い、疑心暗鬼を拡大させ、自ら瓦解していく道を辿ってしまってはいないだろうか?子どものこころに正面から応えようとする100年前の記者たちから、我々は「たしかなもの」を学ぶべきではないだろうか。

この一書には、
生きるために大切なことばが満載されている。
結末のあたたかい限りのことばは、小欄には書かない。
こうした書物を手にしようと思うこと。
そうしたこころを忘れていることを一人一人が自覚したい。
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「正しい理論ではなくて、美しい歌を唄おう」『FAMILY GYPSY』(その2)

2013-07-21
ことばを選ぶ。
何が”適切な”語彙か?
などと学校の試験は問い質す。
答えは「道徳」の中にある。
でも本当に”美しい”とはなんであろうか?

昨日の小欄に記した書物『FAMILY GYPSY』の幾らかの頁を再読している。直感的に付箋を貼っておいたところを中心に。なぜかその素朴で飾らないことばの数々に、涙腺が緩む。たぶん今は自覚がなくとも、生きることの節目にいることで、僕自身の心の琴線が甚だ敏感になっているのかもしれない。笑顔を失い顰めっ面になった時、思い出したいのが高橋歩さんのことばと写真である。


「苦しい時期が続いても心配はいらない。
 成功するまでやれば、必ず成功するものだから。ただ、やめずに頑張り抜くのみ。

 そして、目に見える結果が出て来た途端、すべては変わる。
 周りからの評価は、180度転換する。

 失敗は「経験」と呼ばれ、わがままは「こだわり」と呼ばれ、
 自己満足は、「オリジナル」と呼ばれ、意味不明は、「新鮮」と呼ばれ、
 協調性のなさは、「個性」と呼ばれるようになる。」
(同書255頁)



僕たちは、周囲からの評価を気にし過ぎているのではないか。また社会が、前向きな評価よりも、欠点の露出に躍起になっているようにも見える。不毛な中傷合戦が、至る所で行われる。ことばは本来美しいはずであるが、こうした社会の中に放り込まれると、不幸にも暴力的で残虐性に満ちたものに化ける。もちろんそれはことばのせいではない、ことばを使用する人間の心の醜さが露呈しているに過ぎない。あまりにことばが惨めである。

「正しい」とは何か?「正解」を求めるのが教育か?「理論」化されたことばは「正しい」のか?否、たぶん教育に関わるすべてのこと、学校・授業・試験・学習内容・学習活動・指導法・教材・教具・・・等々に「正しい」などないのであろう。だが、それぞれの領域を「改善」しようという意図が国語教育の分野では働く。一定の「枠」を「正しい」と定めて行く。「正しさ」が精密に見えない「文学」が昨今大切にされないのは、こうした規範主義の表面化である。

だが本当に生きる為には何が必要なのだろうか?
高橋歩さんのことばを借りれば、
「美しい歌を唄う」ことだ。
そしてまた、「美しい歌」を唄おうという意志ある人に出逢うことである。


最後にもう一節、高橋歩さんのことばを紹介しておこう。

「旅も人生も同じ。
 どこに行くか、ではなく、誰と行くか。
 なにをするか、ではなく、誰と生きるか。」(同書265頁)


4人家族の世界一周旅行。
この「枠」から飛び出した生き方に、
大きな力をもらった。
高橋さんの生き方自体が、「美しい歌」なのである。
さあ!唄って素敵な夢を叶えましょ!

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「未来は、歩きながら考えていくものだ」ー『FAMILY GYPSY』との邂逅

2013-07-20
「止まっていると、心は揺れる。
 動いていると、心は安定する。

 方角なんて、直感でいい。
 まずは、一歩を踏み出そう。

 未来は、歩きながら考えていくものだ。」(同書165頁)


 昼食後、大学書籍購買部に何となく足を運び手に取った一冊。そのPrologueを読んで、思わず涙腺が緩んだ。しばらくその場から離れられずにいたが、ページを繰ってその素朴な写真を目にし、久し振りの衝動買いに及んだ。高橋歩著『ファミリー・ジプシー/家族で世界一周しながら綴ったノート』(サンクチュアリ・パブリッシング 2013年5月)である。

自分が生きて来た「枠」にこだわらない。自然と戯れて、気持ちの赴くままに世界を旅する4人の家族。その自由な発想と行動力は敬服に値する。些細な”仕事”にこだわることなく、子どもたちの学校がどうなるのかに不安を抱かず。ただ一度しかない人生を「シンプル」に前を向いて生きる。読み進めるうちに、何歳になっても人生は夢を持つべきだということを考えさせ、明るい躍動感が心に宿ってくる。

われわれは、自分の人生でありながら、いかに周囲が作り上げる「枠」に囚われて生きているのか。反転して述べるならば、「居心地のいい日常に、ぬくぬくと縮こまっていないで、新しいことにガンガン挑戦しながら、死ぬまで学び続けようぜ!」(同書53頁)ということを行動に移せないでいるか。「周りからの評価」を気にして、その”根拠もない決め付け”に「一喜一憂」しながら、自らの生を浪費していやしないだろうか。

「悪く言われても、意地悪されても、進むべき道を進む。
 ほめられても、チヤホヤされても、進むべき道を進む。

 ただそれだけでいい。」(同書125頁)

もちろんこれは、学生時代から活力漲る生活を常に追い求め、このような世界一周ができる経済力を兼ね備えている高橋歩さんならではの生き方であるかもしれない。だがしかし、それを本の中の人物と考えるか、自由に生きる”隣人”と考えるかは、僕たち次第だ。その豊かな笑顔溢れる「世界一周家族旅行」の写真を見ていて、実に温かい気持ちにさせられた。そして僕自身の想像力が随所に起動し、眼前にある自らの人生の歩み方を何度となく考えさせられた。

ふと振り返ると、僕自身も高橋歩さんほどではないが「「枠」を破壊する」人生を歩んで来た気がする。中学(一貫校)入学・大学進学・就職後の変遷・再度の大学院進学、そして今、新たな土地での新たな一歩。そこにささやかな「GYPSY」性があったからこそ、高橋歩さんの人生に共感できるのかもしれない。「進むべき道を進む。」生き方、である。

同書は、嫌味のない爽やかな家族愛に溢れている。「価値観の不一致」といいながら「最後まで一緒に生きよう」という想いだけは一致しているという愛する妻。好奇心全開で自然や異文化と戯れる逞しくも笑顔を絶やさない子どもたち。旅の先々で、寝る前には絵本を読み、やがて各自が新しい”物語”を創るということが恒例となったという。その随所で子どもたちが味わった出逢いが、その物語に凝縮され人生の財産となっていく。お金や学歴だけが人生ではないことを、同書は豊かに語り出してくれている。

「人間っていう生物は、とてもシンプル。

 将来に「楽しみ」があるから、頑張れるんだと想う。」(同書145頁)


最後に

「俺が幸せに生きるために、一番大切なことはなんだろう?
 まずは、それを、大切にすることから始めよう。」(同書67頁)


食事の間も惜しみ、寝るまでに一気に通読した。
いや通読せねば寝られなかった。
そんな豊かな興奮をもたらす一冊である。
ぜひご一読いただきたい。
自分の生き方を確実に考えることになるだろう。
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斎藤兆史著『教養の力 東大駒場で学ぶこと』

2013-07-03
めっきり「教養」という語も影を潜めた。
いや、そのような流れに迎合しているだけではないか?
あらためて「教養」とは、学ぶ者として、人間として不可欠なものである。
そんな志を深くする一書である。

「教養」とは「確かな判断を行うために必要な「知」のあり方」なのである。公共の場で好ましくない態度をとる人がいたとする。知人の大学教授は、「まったく教養がない者はだから困る!」といって強く非難していたことを思い出した。「教養」という語そのものが矮小化され、日常的な態度とは分離してお蔵入りするが如きものとなってきてしまった。最高学府である大学ですら、「教養」を大切にすべきという論調から外れた思考で物事を進める事態が顕著である。

斎藤氏の著書では、「教養」の基本的なあり方からはじまり、「学問・知識としての教養」「教え授ける・修得する行為としての教養」「身につくものとしての教養」を具体例を示しながら説き、まとめとして「新時代の教養」について展望を述べている。典型的な教養書のあり方やそこから学ぶべき事の重要性。そして「センス・オブ・プロポーション」という知的技能のあり方を再発掘し新時代への提唱とする。

「様々な視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えているかどうか、それが教養を身につけているかどうかの大きな指標になると思われる。」という一文には深く共感できるものがある。「教養」とは空虚な知識ではなく、「行動原理」や「バランス感覚」の根幹になる人として重要な知であることが再認識できる。それは「あとがき」に示された斎藤氏の個人的な経験でより説得力を増す。

”3.11”の際に東大駒場の研究室にいた斎藤氏が、帰宅を諦めてキャンパスで一夜を過ごした時のこと。誰ともなく食料を調達し炊き出しをするという助け合いが、自然発生的に存在していたという。「「教養」を旗印に掲げる学部では、人が人を思いやり、お互いに情報を提供し合い、そして助け合っていた。」というエピソードには、個人的に深い感慨を覚えた。僕自身、かつて大学学部を卒業した頃、「研究者」はここで示されるような「バランス感覚」を欠く存在である、という固定観念に支配されてしまっていたことがあった。その思いを強くしたが為に、自分にとって「現場」と思える中高の教諭への道を一時は選択した。だがしかし、そこで教壇に立ち年数を重ねると次第に「教養」の重要性に眼が開かれた。「文学」を学び教えるということは、「正義を見極める様々な情報を有している」ことに連なり、まさに「バランス感覚」を備える方法であることに気づいたのである。

このところ小欄でも、
「文学は人生に意味を与える」という趣旨のことを書き込むのは、
こうした経緯の延長線上にある。

いま僕は、「国語教育」と「文学」の接点で新たな模索を開始した。
「「科学的」理論や教授法」のみならず、
「教養」ある「国語教育」を再興させ「文学」の復権を目指すべきであろう。

何より僕たち大学教員が、
「教養」に対して誤った認識を持っていてはならない。
今一度、自らの「教養」を点検し学問の意味を考える為にもお薦めの一書である。
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