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『いまファンタジーにできること』まさに”いま”こそ

2013-06-19
「わたしたち人間は世界を、
 自分たちと自分たちがつくったものだけの世界に矮小化した。」
この何気ない文章に、”わたしたち”の倒錯が見え隠れする。
「子どもたちに(矮小化した・中村注)その中で生きることを、
 ことさら教えこまねばならない。」と続く。
『いまファンタジーにできること』(アシューラ・K・ル=グウィン 河出書房新社 2011年)の一節である。

”わたしたち”が本当に文学を通じて学びたいものは何か?とりわけフィクションの典型であるファンタジーをなぜ読むのだろうか?年齢が上がるにつれて、ファンタジーを読む意味はないと多くの人が思っている、いや思い込まされている。より矮小化されたリアリスティックな文学や考証を旨とする評論こそが、”読むべき”高級な文章であるという思い込みを。だが、社会の汚さに紛れれば紛れるほど、「善と悪との間にある”違い”がわかる方法について」何かをファンタジーから学ぶことができるはずである。

動物と人間は「連続体」である。「二項対立」で捉えるという「矮小化」が近代化の波の中で加速した。「共生」が盛んに唱えられるのも、その加速化が間違いであるということへの反省に違いない。その「連続体」に回帰するために、ファンタジーには動物が登場し人間とともに、いや同等に行動し忘れられた何かを蘇らせてくれる。「より大きなコミュニティーを再び獲得するために、想像力と文学がある。」と同書は説いている。

「ファンタジーは経験を否定し、不可能を可能にし、重力を無視する。ファンタジーは掟を破る。ー子どもたちやティーンがファンタジーを愛する一番の理由はこれかもしれない。」とも。

この一節を僕なりに表裏を反転させて書き換えてみよう。

〈教育というものは、経験を尊び、不可能を見極めさせ、重力を論証し思い知らせる。掟を守ることを絶対視する。子どもたちやティーンが教育を嫌う一番の理由はこれかもしれない。〉


僕たちは「国語教育」そのものが、
実に「矮小化」した世界観でしか構築されていないことに、
自覚的になるべきであろう。

真に想像力が必要な”いま”こそ。
「善」というベールに包まれた「悪」が、
大きな顔をして跳梁跋扈する社会であるからこそ。

せめてファンタジーに遊べる大人であり続けたい。
僕たちの悲惨な現実に気付く為にも、お薦めの一書である。
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平田オリザ氏著『わかりあえないことから』への共感

2013-05-28
昨日の小欄でも紹介した平田オリザ氏の著書。
『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何かー』
(講談社現代新書・2012年10月)
巻末まで読み進めるに、その深いコミュニケーションへの情熱に目頭さえ熱くなった。
されど僕自身は、演劇人ではない。
芝居の経験も演出の経験もない。
だがしかし、この違う価値観から学び自己の中で何かが確実に変わり始める。
書面から「情熱」を読み取るというコミュニケーションが成立したからであろう。

平田氏は、現在の日本が「「異文化理解能力」と「同調圧力」のダブルバインドにあっている」社会だとする。職場・学校・地域・家庭等々、身近な社会を見回せばすぐにその狭間を発見することができるだろう。その結果、既に「日本はバラバラ」であり、その中で「どうにかしてうまくやっていく能力」が求められていると。教育現場への視点で述べるならば、「伝える技術」を「伝える意欲」がない子どもたちに教え込むのでは定着せず、「伝わらない」ことを経験してこそ「伝える」気持ちが養われるというわけだ。

平田氏の国語教育への提言は実に斬新である。僕自身の研究・実践にも大変示唆的であるため、ここに覚書として引用させていただく。

「要するに無前提に「正しい言語」が存在し、その「正しい言語規範」を教員が生徒に教えるのが国語教育だという考え方自体を、完全に払拭しなければならない。そうして、国語教育を、身体性を伴った教育プログラム、「喋らない」も「いない」も表現だと言えるような教育プログラムに編み直していかなければならない。
 そのことはまた、すべての国語教員が、「正しい言語」が自明のものとしてあるという考え方を捨てて、言語というものは、曖昧で、無駄が多く、とらえどころのない不定型なものだという覚悟を持つということを意味する。」(同書・P58/59)

「演技」とは、「もともと他人が書いた言葉をどうにかして自分の身体から出てきたかのように言う技術なのだ。」(同書P187)というのが平田氏の定義。更に日本社会は「演じる」ということに順応しておらず、例えば日常生活の中で「(職場・学校等で)役割を演じる」ということは「悪」だと見なす慣習が強いと指摘する。確かに「正直で素直な心」が学校教育の目標として掲げられることは多い。この問題を「コンテクスト」という語彙を使用し、演劇が社会・教育に対してできることを前向きに提案しているのが同書である。

「同情から共感へ」
「同一性から共有性へ」
「シンパシーからエンパシーへ」
「協調性から社交性へ」
平田氏の思いが多彩な語彙で換言されていく。

「「わかりあえないこと」を前提にわかりあえる部分を探っていく営み」
同書のタイトルが、すっと腑に落ちて来た。
ぜひ「エンパシー」を感じていただきたい一書である。
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問題を好機に転じる

2013-05-04
2年前、『スタンフォード白熱教室』(NHKEテレ)という番組を観た。
「創造力は学ぶことができる」を始めとしてその発想に得るところが大きかった。
即座にいくつかの手法を自らの授業に取り込んでみた。
ブレインストーミンングに根ざした演劇的ワークショップ等々。
今改めてその講義の中心人物である、Tina Seelig先生の著書を読み返してみた。

「人は誰しも、日々、自分自身に課題を出すことができます。つまり、世界を別のレンズー問題に新たな光を与えることのできるレンズーで見る。という選択ができるのです。問題は数をこなすほど、自信をもって解決できるようになります。そして楽に解決できるようになると、問題が問題ではなくチャンスだと気づくのです。」(『What I Wish I Knew When I Was 20』(邦題『20歳の時に知っておきたかったことースタンフォード大学集中講義』阪急コミュニケーションズ 2010年3月刊)P26より。

問題に直面し苦難と感じるか。それとも好機であると捉える視点があるか。その差は大変大きいのではないだろうか。ともすると問題と捉えるべきではないことまでも、問題視しがちな世相の中で。人生は思い通りに行くことの方がむしろ少ないかもしれない。飛び越えるべき障壁があってこそ、人間は思考や行動が鍛えられて行くともいえるだろう。

同書の中で「サーカス団のシルク・ドゥ・ソレイユを例に、学生に常識を疑うスキルを磨く機会を与えています。」(P36)という一節も目を惹いた。それは、サーカス業界が苦境に陥る中で創設され、ことごとく常識の逆を行って成功した一例として興味深い。Tina先生の授業では、映像を観て「サーカスの特徴」を列挙した後に、それを「逆」にして行くというもの。「動物は登場しない」、「高額のチケット」、「物売りはいない」、「一度に上演する芸はひとつ」、「洗練された音楽」、「ピエロはいない」、「ポップコーンもなし」等々。そして「伝統的サーカスのなかで残しておきたいもの、変えたいものを選びます。」となる。こうして発想した「新しいサーカスは、シルク・ドゥ・ソレイユ風になるのです。」という具合である。

IT機器に代表される米国発の革新的な発想は、日本人の多くも虜になっている。ならば、そのような発想の根源がどのように生成されているかも考えるべきではないだろうか。日本の国内に目を向けても、様々な「問題」が山積されている。だが、その多くは「常識」の範囲内で処理されているであろう。政治家などが口にする「・・・することは常識だ。」という類いの発言が端的に物語っている。だが、問題は好機に、常識の逆を行ってこそ見えて来る「新たな光」に注目すべきではないだろうか。

問題を好機に転じる。
精神的にも実に健全な状態が保てる発想法なのである。
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田村耕太郎氏著『世界のエリートはなぜ歩きながら本を読むのか?』

2013-04-22
この4年ほど、というのは小欄を書き綴り始めてからというもの。
研究・教育実践・批評等を自分なりに文章化し模索して来た。
そのカテゴリの中でも「トレーニング・健康」は、
「教育」の「56」に続き、「47」と2番目に更新数が多い。
これは日常生活において至って自然な流れで、フィットネストレーニングが、
脳の活性化にも効用があることを、どこかで念頭に置いていたのであろう。
そのような意識を具体的に肯定してくれたのが標記の一書である。

同書では、氏の様々な留学経験から、主に「ハーバードビジネススクール(HBS)」に在籍するようなエリートたちが、まさに「文武両道」であり、日常からトーレーニングに励み脳を活性化させ、研究・実践の活動に奔走している姿を紹介している。更に第2章では、その「運動」「食事」「座禅」といった脳活性化の要点を、具体的な方法として提案している。第3章では、日本の偏向した体育会系事情を鑑みて、世界では「文武両道」が正道であることを具体例とともに説いている。

全体を通して強く共感したのは、こうした世界的エリートたちは「時間がない」ことを理由にしないということだ。朝型の生活を旨として、効率的に筋力を鍛えることで研究やビジネス上の体力も獲得しているという。社交は概ね朝食か昼食に限定し、夜にアルコールを伴い無益に長く時間を浪費することがない。書名の由来として、多くのエリートたちはランニングマシンをしながら書物を読む姿が象徴的であるというわけである。

僕自身も以前より、欧米の政治家・研究者・医師・弁護士などが、学生時代等を通じてスポーツでも一定の業績を残していることには関心があった。プロゴルファーであるが医師である(僕の記憶の中にあるギル・モーガン)とか、プロ野球選手であるが博士号を取得しているとか(田村氏の著書で、赤ヘル旋風時代の広島カープの助っ人・ホプキンスを紹介)いう例も珍しくはないということである。それは既に欧米人が高校時代から身に付けた姿勢であり、「文武両道」でなければ「運動」もやらせてもらえないという環境が存在するのだという。日本の場合は、まだまだ「運動」でさえ実績を上げれば、他のことは全て免除されるが如き誤謬が蔓延している。それはプロスポーツ界や高校スポーツ界をみればすぐにわかることだ。

「運動が脳機能に与える影響」について研究している筑波大学・征矢英昭先生に対して、田村氏が行ったインタビュー記事も興味深い。征矢先生は、特に「脳の機能によい影響を与える、運動強度や運動量がある」という仮説をもとに研究を進めているという。特に「筋トレなど高強度の運動が脳に効くということにつながる可能性がある。」といった大変興味深い談話が載せられている。

田村氏は、動物としての「ヒト」の特長に随所で言及し、その優位性と脳発達との関係を述べている。100mなら動物に劣るが、「42.195Kmを走らせたら生物界ナンバーワンだという。」といった記述である。人類発達史に敷衍して「ヒト」の機能を語りたくなるのもわからいではないが、ややこの点は慎重に考えたいという感想をここに添えておきたい。

全体として、ベジアリアンの勧めや高齢化社会での生き方など、今後の日本社会を見据えたライフスタイルの提案という「コンディショニング術」が記されている。雑誌『ターザン』の連載記事を纏めた一書。僕自身も、小学校時代から「文武両道」を信条としていたので、十分に納得できる内容であった。

そしてまた運動をすることは勿論、
格好よく服を着る、そして異性にモテる、
ことに通じる言及も避けていないあたりが嬉しい。

本書を読んで早速、日曜日の早朝から約5Kmのウォーキングを自らに課した。
今後も自らの「生き方」として、トレーニングを充実させる意志を新たにした。
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高橋哲哉氏著『犠牲のシステム 福島・沖縄』

2012-11-01
臨時国会が召集されたが、与野党の無益な睨み合いのみが浮き立ち、片や新党結成等、第三極形成の報道のみが右往左往しているかのように見える。この5年ほど、首相“毎年交代”あたりに始まる政治への不信感が雪だるま式に増加し続け、その結果の政権交代。しかし、沖縄基地問題と東日本大震災という二つの回避できない事態に直面し、新たな政治への期待は頓挫。(もちろん、この二つの事態があったことのみに原因があるわけではないが)与野党入り乱れて現状を誤摩化し、何も変わらぬまま国家の借金と税金だけが増大する世の中に、僕たちは生活している。

2011.3.11は、僕たちの世界観を変える未曾有の出来事ではなかったのか。「第二の敗戦」とまで言われたこの自然災害を真摯に受け止め、僕たちは自らが生活する社会を今一度見直そうとしていたのではないのか。それは、電気を過剰に使う危うい基盤の上に乗る生活であり、それを成り立たせる社会構造を根本から問い直す大きな契機ではなかったのか。それが今や、国会はもとより社会の様々な場所で、ただ何も変わらない危うい社会構造を、ただ維持することだけに躍起になっている人々で溢れ返っているかのように見える。

高橋哲哉氏著『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書・2012・1)を読んで、改めて僕たちが何を改めてどんな社会構造を希望すべきであるかということが、明晰に腑に落ちた。未だに大量の放射能を放出し続ける福島第一原発。予告なしに急遽発表される放射能汚染物質最終処分場の選定。市民がどれほど危険性を訴えても移設されない普天間飛行場。オスプレイという新型輸送機が危険かどうかという議論が必要なのではなく、飛行場の地理的環境が絶対的な危険性を孕みながら使用され続けていることが危険であるという事実。後を絶たない米兵による市民への暴行事件。政権交代後の現政権は、“偶然にも”この二つの容易ならぬ構造化された「犠牲のシステム」に正面から抗する役割を担わされて、その期待を裏切るように瓦解し続けて来た。今や僕たちが期待した政権の理念は、どこにも見当たらない。

ここで高橋氏の述べる「犠牲のシステム」の定義を紹介しておこう。

「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」

福島出身の高橋氏が、自らの故郷への思いを込めながらも冷静な眼で「犠牲のシステムとしての原発」という構造を明確に炙り出す。また哲学研究者である同氏は、「原発事故の責任を考える」として「原子力ムラ」から政治家、そして首都圏で電気を使用している市民の責任に至るまでを思想的背景を示しながら語っている。そして「この震災は天罰か」の項では「震災をめぐる思想的な問題」を、単なる批判を超えた思想的問題として、その背景を明快に示してくれている。

その「原発」(特に甚大な犠牲を強いている福島第一原発事故)という「犠牲のシステム」が、これ以上ないかと思うかの如く、「沖縄」のあり方と一致する。もちろんその相違点をも明確にした上で、本書第二部では「「植民地」としての沖縄」「沖縄に照射される福島」として、前述した「犠牲のシステム」に沖縄がどのように組み込まれてしまっているかを浮き彫りにしている。

こうした「犠牲のシステム」の中で起こる、差別・偏見に対しても高橋氏の批評の眼は向けられる。そのシステムに乗じて「利益」を享受している一人として、こうした問題に眼を背けること自体が、大変卑怯な思い込みであるのだということが実感されてくる。

「国益という大きなもののためには、一部の少数者の犠牲はやむをえず出てしまうものであり、いかなる犠牲もなしに国家社会の運営は不可能である、という議論。犠牲のシステムをそのように正当化しようとする議論である。」

という「議論」の存在に対して高橋氏は、

「しかし、問題はまず、その犠牲をだれが負わねばならないのか、ということだ。」と述べる。

今こそ本気で僕たちが選択しなければならない争点は、
この「犠牲のシステム」という社会的構造にあるのではないか。
明日には、あなたが
「犠牲にされるもの」に組み込まれるかもしれないのだから。

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「音読」本が前面に3冊

2012-04-18
巷間に旅立たせた自著がどのように航海しているかは、
著者として大変気になるものである。
先週、早稲田大学生協(西早稲田構内店)に行くと、
早々に「国語国文学科」のコーナーに何冊も並べられてた。

この日は、高校勤務時代の教え子たちと、
ささやかな同窓会があり池袋の街に出た。
約束の時間まで少々の余裕があったので、
ジュンク堂のエスカレーターに飛び乗った。

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4F人文書の「教育」ー「国語教育」のコーナーに行くと、
「音読」に関連する新刊書が3冊、
表紙を前面にして並べられていた。
もちろん、他の方の著書はライバル的な存在であるが、
「音読」がこれほど強調されて
前面に押し出されている配置に嬉しさを覚えた。

しばらくは、本屋に行く新たな楽しみができた。
有名書店に自著がどのように置かれているか。
そんな興味で、書店を巡り歩くことが続くであろう。

同時に、自著の主張を具現化するライブ性の確保にも奔走し、
更なる研究を進めなければならない。

表紙の緑と桜色が、
「書店に並ぶと映えますよ」
という編集者の方のことばが腑に落ちた。
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阿刀田高著『日本語を書く作法・読む作法』(角川文庫)

2012-04-16
昨日の小欄で、「作法」ということばで書籍検索をすると、多彩なものが発見できると書いた。中でも2011年4月刊・阿刀田高氏の『日本語を書く作法・読む作法』(角川文庫)は、ことばと日本語に対する向き合い方を、氏がわかりやすく綴った知的エッセイ集である。開巻一番で「文章を書くことは、小説家を生業としていながらこの説明はむずかしいけれど、あまり好きではない。」といった「告白的文章作法」からして刺激的である。読み進めると「あまり好きではない」ゆえに小説家としてどうしてきたかという、知的模索に自然と惹きつけられていく好著である。

「読む作法」の中に、「朗読事始め」というエッセイがある。阿刀田氏ご自身は「強い関心は抱いている」けれど「鑑賞者のレベル」であるという。愛妻の慶子氏が、十数年前から日本点字図書館の朗読員となって以来、身近で「朗読」について考え、「朗読21の会」を主宰するようになった経緯などが綴られている。現代の短編小説の書き手として、阿刀田氏が「朗読」との関係を実践的に考えているのは、大変興味深い。僕自身も、昨年10月に「朗読21の会」の公演をライブで聴いた。

エッセイの中に「(これは告知文にも言えることだろうが、文学作品の場合は特に)読み手の感情移入が過ぎると、人間心理の力学として聞き手の方は白ける。このあたりの塩梅がむつかしい。むつかしい気がする。」とある。同時に、小説の書き手としても、「読者を九合目あたりまで連れていけば、それでよろしい。あとは読者が自力で頂点を極め、みずからの感動を創って味わってほしいのである。」としていて、「読者が自由に鑑賞する余地」が非常に大切だと述べている。

小説の文章創造と朗読の音声表現において近似した要素があり、いずれも100%を敢えて意図的に目指さない「塩梅」が重要だという。表現には「余白」が必要で、そこに読み手や聴き手を尊重する作品としての「作法」があるというわけである。「すばらしいでしょ、悲しいでしょ、恐ろしいでしょ」と「はしゃぐのは、いけない。」というのだ。表現者として、この余裕を意図せず展開できるようになれば、自ずと作品は読み手や聴き手の心の中で完結するということだ。

「朗読事始め」の項は阿刀田氏ご自身が、かなり力を入れているのが感じられる。後半には「公演」における「テキスト選び」のポイントなども列記されていて興味深い。文章の結びに近いところに、「私の知る限り読書界には、“朗読概論”とも言うべき良書が見当たらない。」とある。「朗読をやろうとしたとき、どこから入り、なにを考え、なにを習い、なにを留意したらよいか、きちんと説くものがない。」という感情で、「私はもやもやしている。」と阿刀田氏はいう。

「朗読21の会」の公演は、演出家の鴨下信一氏が行っており、その演出の妙には大変魅力的なものがあった。阿刀田氏は、鴨下氏が“朗読概論”を執筆すればいいと語っている。

「朗読」には様々な要素と可能性が秘められており、一筋縄ではいかない。演出家・小説家・表現者・研究者・教育関係者等々、様々な分野からそのあり方を分析し、表現することで作品理解に到達するという、「文学」を味わう極上の悦びが普及するよう努めなければならないだろう。

阿刀田氏の「朗読」に関する発言・活動には今後も深く注視していきたい。

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新刊著書『声で思考する国語教育』見本完成

2012-04-10
昨年度から完成を目指していた新刊著書の見本が出来上がりました。
東京地方は桜が美しく咲いています。
これからの季節に調和する新緑の色をベースに、
桜色の縁取りがつきました。
裏表紙は一面満開です。


『声で思考する国語教育ー〈教室〉の音読・朗読実践構想』


「音読・朗読」を主に中高の〈教室〉で行う為の「実践構想」を展開した研究書ですが、
「理解」と「表現」を「声」が担うということを再認識できる内容です。
どうぞ身近なコミュニティーなどで「音読・朗読」をとお考えの方々にも、
お読みいただければと思っています。


今後も小欄では、本書の実践をライブ性をもって具現化する場の紹介を展開します。
どうぞこの情報ともども、よろしくお願い申し上げます。

早ければ11日、まずは早稲田大学生協の店頭には並ぶことになっています。

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真山知幸著『君の歳にあの偉人は何を語ったか』(星海社新書)

2012-03-24
自分の“今”を相対化することばが欲しい時がある。
どんなに客観的に自己省察しようとも、
哀しいかな人間は独善的に己を見つめてしまう。
特に年齢に関する感覚においては、
その傾向が甚だしいと、かねてから感じていた。
自身が若い時に憧れていた人の年齢になった時に、
果たしてその憧れを自身の成長に加算できたかどうか、
大変疑わしいという感覚に包まれることがある。

タイトルを見て一目瞭然。
著名な偉人が何歳で何を語ったか。
そんな「年齢的な感覚」を知りたいと思う方は多いだろう。
手に取ってまずは、
自分の“今”の年齢における偉人のことばが掲載されている頁を開けてみる。
また過去に自分が人生の分水嶺だと感じている年齢において
偉人のことばに耳を傾ける。

目次からいくつか例をご紹介しよう。

22歳=ダーウィン
「私の第二の人生がこの日に始まるでしょう。
この日は今後の人生の誕生日になるでしょう」

34歳=正岡子規
「悟りとは、いかなる場合でも平気で生きること」

49歳=立川談志
「よく覚えとけ、現実は正解なんだ。
 時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。
 現実は事実だ。」

67歳=トーマス・エジソン
「自分はまだ67歳でしかない。
明日から早速、ゼロからやり直す覚悟だ。」

88歳=ピカソ
「まだこれから描くべき絵は残っている。」


といった偉人のことばが年齢別に興味深く解説されている。



この日は、著者・真山氏と宵のうちグラスを傾けながら語った。
人物研究家・新進気鋭のライターである真山氏自身のことばからも
また僕自身の“今”が相対化される。

人生においては様々な媒介を通じて、
できるだけ多くの人々のことばに耳を傾けるべきである。


そんな意味で
多くの方々にこの年齢別による
偉人たちのことばをお読みいただきたいと思う。


3月22日新刊
星海社新書13
¥820円
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外岡秀俊著『震災と原発 国家の過ち 文学で読み解く3.11』(朝日新書)所感

2012-02-25
 毎年、大学の授業において最後の最後に言おうと決めていることがある。
それは、
「文学こそ実学だ」
ということばである。

この10年ほどの社会潮流の変化で大学学部選択などにおいて、理系に傾き文系でも社会科学が人気を博する状況がある。人文科学でも社会学や心理学が人気で、特に文学の低迷は甚だしい。要は技術・資格の獲得に通じる「実学」志向が強まったと、予備校などが分析をくり返してきた。文学部は心理・社会学系を独立させたり拡大したりして、文学縮小の方向で再編される傾向も強い。高校での進路指導もその流れを真に受けて、高校生が「文学部」を志望したりすると、「将来はどうする?」と疑問を投げ掛けたりもすることも多い。だがしかし、「実学」と天秤にかけて「文学」の存在を否定的に考える発想自体が間違いだと強く思う。むしろ「文学」を疎かにしているからこそ、現状の日本社会はこのような混迷の渦中にあるのだと認識するのである。

 本書は、そんな僕が考えていたことを、実に知的に明晰に示してくれた。「文学」を疎かにしている国民は「国家の過ち」を見過ごし容認してしまい、「同じことが繰り返される」のである。

 新聞記者として早期退職という幕引きをしようとしていた著者が、その年度末にあたり東日本大震災を目の当りにした。「あれだけの被災を間近に見て、それを「過ぎたこと」と切り離しては生きていくことはできないと感じた。見てしまった者は、見たことの重さを引き受け、その後も見届ける責任を負う。」という「はじめに」におけることばからして、外岡氏の記者としての真摯な態度が表現されており共感の淵に誘われる。

 東日本大震災は「人生観や世界観の座標軸を揺るがす出来事だった。」というのは多くの人々の実感であろう。だが、その「いびつに傾いたままの座標軸」において、どのように「思考を組み立てればよいか」ということに関しては、混迷こそあれ明解な観念を持ち得ずに時だけが経過しているのが実情ではないだろうか。そんな「思考」の「支え」を、「文学」に求めたという知的態度が、本書では存分に披歴されている。

 「私はそうした小説を、もう体験することのない過去の出来事を昇華し、未来の読者に届ける贈り物として読んだのを思い出した。」(はじめに)

 と外岡氏が述べるように、「この不条理はすべて文学に描かれていた」のである。


第1章「復興にはほど遠い」では、カミュ『ペスト』。
第2章「放射能に、色がついていたらなあ」では、カフカ『城』

 といった具合に、外岡氏が取材して目の当たりにした大震災の実感を、克明に理解しやすい文章で綴りながら、小説が描いていた世界観との共通点を無理なく結び付ける。実に教養ある知性に満ちた「小説読者」としての読み方を呈して、現実の日本社会を鋭く批評しているのだ。

 第3章の「「帝国」はいま」では、島尾敏雄『出発は遂に訪れず』
この章で語られる核心を記すには、もはや著者の表現に委ねるしか僕にはできない。

 「空虚な「想像力の帝国」は、戦後もかたちを変えて持続してきたのではないか。
 「虚妄」の支配に対して、人は「虚構」で立ち向かうほかない。この社会において文学が依然として有効なのは、「虚妄」が戦後において姿かたちを変えて、持続してきたからだといってもいい。」

以下、同じように
第4章「東北とは何か」
第5章「原発という無意識」
第6章「ヒロシマからの問い」
第7章「故郷喪失から、生活の再建へ」
終章 「「救済」を待つのではなく」
と続く。

敢えて小欄には、どんな「文学」からこの構造を汲み取っているかは記さないでおこう。
ただ、震災後、様々な語り口で「原発」のことが語られる中で、これほど腑に落ちる分析を僕は他にあまり知らない。

 最後に外岡氏のあとがきの一節を示しておこう。

 「ただいずれにおいても、その対応と復旧・復興には明らかに「国家の過ち」があった、ということができる。これは政府、官僚を中心とする為政者に、戦前から引き継がれた国家としてのDNAともいえる。それは、責任の所在をあいまいにし、税金を「恩恵のように施し」、「拠らしむべし、知らしむべからず」という方針に立って上から見下ろす視線である。こうした国家の体質を変えない限り、今回の震災や事故の復興が遅れるだけでなく、次に来る大災害でも、同じことが繰り返されるように思えてならない。」

一読した後に、この最後のことばは深い浸透性をもって本書の読者に伝わるだろう。


文学を疎かにしていた日本社会が、このような混迷の中にあるのは必然だったのだ。
いま改めて言おう。
「文学こそ実学である」と。


こうした名著・名文こそ多くの方にご一読いただきたい。
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