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声の推敲

2023-10-26
牧水の朗詠は一律ではなく短歌の内容で多様
「声」には様々な要素がある
〈教室〉の音読も声に出したものを推敲してこそ生きたものに

大手チェーン飲食店やコンビニ飯が多くの顧客を取り込むように、一律・規定・型通りが求められる世の中である。表面的には「多様性」などと言いながら、判で押したような横並びが好まれる証拠である。〈教室〉では毎日いつも同じような振る舞いが求められるゆえ、「簡単便利」でいつも一律なコンビニ飯のような「仮面」を纏い予定調和な己を演じている。その制御があるためか、「国語」の音読や「英語」のリーディングではほとんど無味乾燥な「のっぺら読み」しか為されないのが〈教室の声〉の実態であろう。「文字の文化」に侵食され過ぎたこの約100年で、我々は「声」にその場に合わせた表情があることを忘れてしまった。

日常生活での自律的探究的な思考を導く「言語活動としての音読」をどう考えたらよいか?附属小学校で行われた授業研究において、あらためて諸々と考えさせられた。物語の語りにおいて場面や登場人物の心情を読み取り、文脈に即した創意工夫により原作を読者として「どう読んだか(読みたいか)」を「声」によって遡及する言語活動が求められる。遡求の過程で「音読を工夫した根拠」を可視化させる必要があるのだが、その上で「根拠・工夫」が理論的に明らになっても、「生きた音読」にするためには「音声化」そのものを検証していく必要性がある。文章を書いたら「推敲」をするように、「音読」についても前提の理屈ばかりでなく「声」そのものを「推敲」するべきだと考えている。小説の語りには実に多様に場面を構成する要素が含まれており、「黙読」の読書では行き着かない領域が再生される場合があるはずである。

本文の「校異」から作品の文脈変化を批評する
「思考の型」を示しつつ高次元な表現へ向けた「型破り」を
授業そのものが「生きている」ことを実感する良質な機会の覚え書き。


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自律する音読ーやらされず自由に読むために

2023-06-29
「正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。」(学校教育法1947)
「外部からの力にしばられないで、自分の立てた規範に従って行動すること。
(『日本国語大辞典第二版』)

学部附属学校との共同研究テーマが今年は「音読・朗読」についてということになり、この日は「問題提起」を行う機会を得た。しかも附属学校園全体のテーマとして「個が支え合うまなび」を掲げており、学校全体に行きわたる「積極的行動支援」を進めるべく活動している。自ずと「自律」や「自己調整」などを鍵としつつ、教科ごとの部会での共同研究が推進されている。それでは「国語」の学習における「音読」活動は、どれほどに「自律」が為されているであろうか?と考えてみた。学部に入学してくる学生たちに聞くと、むしろ「強制感」を伴った音読活動に嫌悪感を示す機会が多かった教育経験を語る。目的なく自らが教室で読む意味を自覚できない音読は、発達段階が上がれば上がるほど「強制感」のみが負の記憶として刻まれる結果となる。

「個別最適」と「協働」を掲げる「令和の日本型教育」を意識するならば、個々がさらに自律し主体的に自由に読むことができる環境を作らねばなるまい。漢字の読み方からして、教師から訂正され教え込まれるものではなく、「教材の文体に即して自ら試案が出せる」ことから周囲と確かめ合い一番適切な読み方を探究できるならば理想的だ。また物語・小説などでは「精査・解釈」をする段階で「この台詞はどんな言い方をしているのか?」という疑問を持ち、「登場人物の心情」を黙読的な思考の中に留めず、多様に「音読しながら考える」ことが求められる。「心情」とは「文字面」の上にのみあるのではなく、「言い方」の中に表現されるのは日常生活の常である。また物語・小説の「語り手」を意識して読むことも「音読」によってこそ小・中学生が自覚できる。自己調整しながら「声に出して探究する」、そんな新たな授業の手立てをさらに附属学校の先生方と開発してゆきたい。

「個別最適な音読」で相互の学びを支え合う
自由に縛られない声こそが豊かな想像を生んでいく
楽しい声の学びを創りたい!


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Poetry Readingー詩は詠う声に出して演じて

2023-06-05
劇団SPC総合文化祭「文学」
藤崎正二さんらの詩を空間で声に出して演じて
詩は日常の中にありそしてまた昭和を今に伝えている

「国語教師」に必要な素養・資質は何か?そんなことを考える時、筆頭に思うのは自らが「文学を好きで好きでたまらない」ことだと思う。身近にある「教員養成」を見回すと、いささか指導技術に傾きがちで違和感を覚えることが少なくない。さらにいえば、自らが「文学研究・評論」「文芸創作」とか「演劇」に携わっているべきだと思う。「表現」を探究し続け、自らが言い訳なく「発信」していてこそ、学習者に「コトバ」を伝えることができるはずだ。少なくとも「国語教師」は「花を贈る意味」を知っていなければ、良い仕事はできないように思っている。とりわけ「創作」が前面に出ている現行の学習指導要領では、この考え方が重視されるはずである。こうした意味で宮崎で詩人としても活躍する藤崎正二さんの活動には、いつも刺激と敬意を表することが多い。この日は、藤崎さんの詩を演劇・音楽で立体化した表現にする会を観覧に行った。

詩も短歌も「生きている」ものだと信じている。そうは思いながらなかなか実感が得られず、ついつい「書いてある文字」として「よむ(読・詠)」ことを脱することはできない。「詩歌」を創作することを「書く」という動詞で表現する場面に最近よく出会うが、少なくとも僕はその動詞は「詠う」であると思う。「詠う」は単に「声を出す」ということのみならず、字源としても「声を長く引いてうたう」の意味ゆえに、「声」から発して次々と派生的に形を変えていくものだと考えたい。標記の公演を観て、一層その思いを強くした。詩歌が文字として「表現」されたのは、氷山の一角に過ぎない。海中で見えない部分を、作者が書けなかった部分を読者が想像して物語を想像し拡げることで、ようやく真に表現したいものへと到達する。この考え方に基づき、鑑賞文など空虚な機械的捉え方ではなく、短歌の物語化・脚本化などを講義課題にしている。この日の公演で詩が演劇化されたのを目の当たりにして、自らが考えていることが大いに意義深いことがわかった。さらには「音読・朗読」研究の上でも、やはり決して「文字を読む」のが「朗読」でないことをあらためて悟った。

詩歌は生きている
懇意にする役者さんの一瞬の目線や表情が好き
詩歌と演劇と音楽のあるみやざき、やはり僕はこの土地が大好きだ。


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声を忘れた倭人たちへー「群読フェスティバル」最終章

2023-02-13
羽田空港から宮崎空港
その足で宮大まちなかキャンパスへ
一夜を跨ぎいよいよ「群読フェス」最終章へ

人との繋がりが次々と分断される昨今、新型コロナのみならず人為的な断絶も深刻だ。人々が集まることが忌避され、繋がるための声はマスクによって覆い隠されている。人は良くも悪くも「慣れる」動物である。だが悪意のある人為には、素直に声をあげたらいい。それにしても、思っている以上の「人の縁」というものがあるものだ。別々に航空券を予約したのに、なぜか隣の席。これを「縁」と言わずして、なんと呼ぼうか?真山知幸さんとともに宮崎ブーゲンビリア空港に降り立つ。到着出口には「マッチング短歌・日向」の表示があり、撮影さえ行われている。通り過ぎるわけにもいかず、担当者と思しき人に問いかけるとやはり「日向市」の企画であった。どうやらNHKの番組で特集が組まれるらしい。数人の方々と名刺交換をして、また新たな縁を紡ぐ。妻のありがたい迎えで、そのまま市内中心部へ向かう。スタバで真山氏と打ち合わせ、名店で蕎麦を天麩羅とともに。

2月11日正午に会場入りし、本番前日のワークショップが開始された。「声を上げて何かを描写すると、不思議とその感情になる」これまでのワークショップとは反対の発想を冒頭に提示して開始。参加者の群読において、和みがない部分をいかに柔らかく和合させていくかが課題だ。アドバイザーとはいえ、自らもいくつかの群読作品の読み手に加わる。「自ら動いて見せる」のがこれ以上ない助言と心得る。真山氏の書き下ろし脚本についても、著者が加わり参加者の声が生きたものになってきた。あっという間に前日リハを終え、夕刻になった。真山氏はまずは宿泊先へチェックイン、その後に餃子の銘店へいくと既に3人ぐらいが店の前に並んでいた。妻が迎えに来てくれる時間になったので、餃子は諦めて予約した地産地消の隠れ家へと向かう。「店」というのは、人で繋がり人をつなぐ。お店の人たちとのご縁は、「声と笑顔」によって支えられている。冒頭に記した「分断」は、あからさまにこうした「店」を襲って来た3年間だった。それだけに今からあらためて、ご縁を大切にせねばと思う。栄養を十分に補給し、真山氏を宿まで送り帰宅。

2月12日午前10時集合、いよいよ本番の朝だ。30分の会場準備を経て、前田晶子さんの声の準備体操から。その後、約1時間の本番リハーサルを実施。会場に用意されたチキン南蛮弁当を真山氏と頬張り、午後1時の開演に備える。会場はまちなかキャンパス前の若草通りアーケード商店街。偶然に道ゆく人々にも、声が自然と届く環境への挑戦である。開演前に真山氏と僕がともに最新著書を販売するコーナーを設置、すると早速に通りがかりの老人が手に取り、そのまま購入をしてくれた。「眼の前で本が売れる」ことの貴重な体験と真山氏、著者というのは実は閉鎖的な書く現場から、読者を望み見ることなく書いているのかもしれない。著者はもっと「街に出る」べきなのだろう。いよいよ午後1時開演、プログラム通り順調に群読が進む。その名も「餃子王子」も会場に登場し、その場の雰囲気が盛り上がってくる。こうした「本番」の日常とは違う「時間感覚」、「昂奮と陶酔のあはひ」とでも言っておこうか。約1時間半のプログラムは無事に完遂し、フェスティバルを無事に終えることができた。その後、キャンパス内の教室にて全員で振り返り、一般からの参加者はもちろんであるが、スタッフの健闘を大いに讃えるコメントをした。今回の企画はひとりの学生を起点に、県への申請、計画、スタッフチームの構成、アドバイザーの招聘など、実社会で求められる学びが満載であった。「スタッフの学生には10単位ぐらいあげたい」という言葉を贈った。そしてまたいつもの「祭りのあと」の気分。真山氏とともに宮崎空港へ向かい、マンゴーソーダフロートの甘さに疲れを癒す。長くも短い、2日間が終わりを告げた。


街にはマスクの奥で声を忘れた倭人たちの群れ
商店街という人と人との交差点で心と声を空に放つ
参加者・スタッフ・アドバイザーそれぞれの胸に咲いた分断を超えるための熱き思いがここに。


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「知識」がないと「声」は出せないか?ー「ことば」が作るイメージ

2023-02-06
「やまとうたは人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」(『古今集』仮名序)
「感情」と「ことば」の関係、植物を見る際も表面にあるのは「葉」であり「種」にあらず
「知識」から抜け出せない「国語」学習習慣の弊害か・・・

2月12日(日)に宮大まちなかキャンパスにて、「群読フェスティバル」が開催される。その準備段階としてのワークショップ2日目を、この日は附属図書館にて開催した。アドバイザーに詩人の藤崎正二さんをお迎えし、新たな参加者も加え遥か日向灘を望める「板の間」は活気に溢れていた。前回同様に参加者は「群読ネーム(呼び名)」を胸に表示して、開催中はこれで呼び合う。その名を覚えるための「山手線ゲーム」を終え、「感情表現伝言ゲーム」へと進む。次第に打ち解けた参加者は、来週にはアドバイザーとして東京からお呼びする真山知幸さんの「文豪のことば」を表現する時間へ移る。ここで提示された「課題」は、「文豪のイメージを考える」というもの。「漱石・芥川・太宰」などの持つイメージを話し合う時間が持たれた。さあ、果たして僕たちはこの作家たちにどんな「イメージ」が持てるのだろう?教科書で一度は学んだ作家、よく「国語」の授業で「略歴」などを参考に、「この作家はこんな人物だから、こんな作品を書いた。」という趣旨が顕然と語られる。だが、果たして「人物略歴」が「作品(内部の表現)」にどれほど関係と影響があるかは、あくまで「誰もわからない」命題ではないのか?

「教科書教材」においては特に、「太宰治は・・・な人だった」(『走れメロス』学習時)「清少納言は・・・な人だった」(『枕草子』学習時)というあたりが、極端な偏りを持ってどちらかというと否定的に語られるのである。だがそれは真の教材理解に、どれだけ貢献しているのであろうか?作品を読む前に仕掛けられてしまう偏向した作家イメージによって、表現の真に潜む作品の核心をむしろ見逃す結果になりやしないか?「女好きがなぜ信実と友情の物語を完結させるのか?」とか、「自慢ばかりの知ったかがなぜ平安貴族の豊かな感性を集約的に表現できるのか?」などという矛盾と説明し難い疑問の渦中で、作品すら好きになれない「国語授業」の現状については、明らかな是正が必要なのだと考えていた。そう!我々は「作品(教材)」内部からしか、実は作家イメージを描けないにもかかわらず、顕然としているかのような「イメージ」ともいえない「(学校)知識」を強制的に「授業」で植え付けられているのではないか?「朗読」という学習活動そのものを実践する際もそうなのだが、「理解(した知識)」がないと「表現(声)」にできないという誤った考え方が横行するケースが多い。「ことば」の表現は決して「知識」のみで成り立つものではない。むしろ「ことば」があるからこそ「感情」や「イメージ」を持てるのである。それは短歌を読んでみれば明らかなのである。僕たちは「歌人の情報(知識)」がなくとも、短歌の「心(核心)」を読み取ることを楽しむのだ。むしろ「知識」に偏れば、浅い読みに終始してしまう危うさに曝される。歌会を「無記名」で実施するのは、こうした背景があることを確認しておきたい。

「一篇の詩」は「感情」の混沌とした浮遊物のようなもの
「区切られ整理された知識としての感情」に左右された読みは浅い
さて、いよいよ次週、このイベントの最終段階が楽しみである。


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「寒いね」と答える人のいるー群読・朗読・音読の使い方

2023-01-26
「『寒いね』と話しかければ『寒いね』と答える人のいるあたたかさ」(俵万智)
声で学ぶことで生まれる「あたたかさ」恋の歌を考える「あたたかさ」
そして、群読・朗読(劇)・音読の使い方のことなど

宮崎市最低気温マイナス3度、日中の最高気温5度。さすがに南国宮崎でも厳しい寒さに見舞われた1日。素人の勝手な考えであるが、地球温暖化が進行することでむしろ異常な寒波が冬の北半球を覆っているような印象である。朝からついつい「あたたかさ」を求めてしまう気温であったが、思わず俵万智さんの冒頭に記した歌の奥深さが感じられてくる。仕方ないながらあまりの寒さに「寒い!」と声に出せば、呼応して「寒いね!」と言ってくれる人が傍にいてくれてこそ「あたたかさ」が得られるものだ。この日は寒いながら多くの「声」に触れて「あたたかさ」を得られた。小学生を対象とする模擬授業を行う学生たちの希望に満ちた「声」、「短歌のリズムに気づく」という目標の授業は熱を帯びていた。また「恋歌」ばかりを8首の資料から、1首を選んで「いいね」の要点を「声」で述べる講義では、熱い恋心が学生たちの心の中に踊ったことだろう。いずれにしても短歌は人に「あたたかさ」をもたらせてくれるものだ。

昼食は馴染みのうどん屋さんへ。天ぷらとおにぎりがセットになる「生姜葱うどん」を注文。ふんだんに盛られた生姜が別添えで来るのが嬉しい。もちろん全てをうどんの中に入れて食すと、生姜の暖め効果は抜群。「(あまりに寒いので)朝からお宅のうどんをと思っていました!」と奥様に言うと「温まりましたね!」と嬉しそうな笑顔をくれた。うどん屋さんはありがたき「あたたかさ」を人々に提供している。その後、附属中学校で研究授業。『走れメロス』の群読を実践するというので、これは僕の得意分野と期待して教室へ。小説全体から「問い」を立て、自ら探究し見解をプレゼンしつつ、その根拠となる群読を披露するという授業内容。僕自身は中学校教員の頃から、「朗読劇」という方向性を展開し考察してきたが、この日の授業では「多様な声の使い方」を選択して実践することの大切さを学んだ。「小説」の読みは多様であるべきだが、「声の使い方」も同様である。「音読」で論理を感じさせるように読む、小説場面を動画再生のように挿入する朗読劇として読む、なぜ複数人で声を寄せ合う「群読」をするのか?その実践自体を押し付けず、学習者が自ら考えて選択することが大切であろう。「声」の「あたたかさ」の中で実に学びの多い1日であった。

帰宅して牛しゃぶ鍋
格別なあたたかさだが、再び夜は気温が氷点下まで
「寒い」ことがむしろ「あたたかさ」が貴重であることを自然は教えてくれる。


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群読フェスティバルーワークショップその1

2023-01-23
「感情」と「動作」
「演劇は関係性の芸術」
複層的に関係が連携し人は自らを表現する

前日の公開講座の余韻が冷めやらぬ中、日曜日ながら附属図書館で標記のワークショップが開催された。この事業は「令和4年度ひなたの文化活動推進事業採択」の企画で最終的に2月12日(日)に宮崎大学まちなかキャンパスにおいて「声でつながるフェスティバル」を開催予定となっている。もとより僕の講義で「群読」の〈教室〉での効用を学んだ学生の一人が、学部コースにおいては僕のゼミ生ではないが、自主的にゼミにも参加し学内朗読会などを経験し今回の企画を県に申請して実現したものである。ゼミにおいてもそうだが、学生時代に「お勉強」以外の分野で諸々の経験をすることは大変に貴重である。特に「教育」以外の世界の人々と関わり、社会性を学んでこそ一人前の「教師」になれるものと考えている。こうした意味で4年生で卒論も忙しい中、この企画を進めてきた学生の代表者には今後も大きな期待をもつことができる。

さてこの日のワークショップには、懇意にするアナウンサーで劇団ゼロQ代表の前田晶子さんをお迎えした。語ること、そして身体表現をすること、その魅力を自ら経験的に助言いただける機会として貴重だ。前田さんは「教えるのではなく一緒に楽しく気づきましょう」といった趣旨のことを冒頭挨拶で語り、参加者・スタッフとの親密さも抜群にワークショップが進められた。「感情カード」「動作カード」の2枚を引き、二人の会話を表現する。決して「感情」と「動作」が一致するとは限らず、微妙な表現になることもしばしば。その複層的な機微によって、人は他社に複雑な気持ちを伝えている。同時に「感情」も一つの正解があるわけではなく、「辛いけど楽しい」とか「悲しいながらの喜び」など反転したり交錯したりするものと気づく。最後に「草野心平」の「おれも眠ろう」を三人一組で群読し、グループごとの多彩な読みに実に多くの発見がある機会となった。参加者とともに4時間があっという間に過ぎ去り、次回のワークショップに向けて声の連携の輪ができた。

次回2月5日(日)宮崎大学附属図書館にて
学生さんをはじめ一般参加者らの出逢いの場としても
やはり「群読は人をつなぐ」朗読を考え始めて20年目の境地である。


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物語をえがく表現力〜声と表情と動作と

2022-11-30
桑田佳祐さんの歌詞物語をえがく力
ゼミプロジェクト『注文の多い料理店』学生たちの声と表情
本番に向けての演出あれこれ

今月は桑田佳祐さんのライブツアー開幕の仙台に赴いたことで始まったが、長いような短いような一ヶ月で晦日を迎えるに至った。桑田さんは仙台→福岡→名古屋と巡り、ちょうど先週末がライブツアーの中休み。そんなスケジュールに合わせてか、「NHK MUSIC LIVE クローズアップ佳祐ー桑子じゃないよ桑田だよ」が24日に放映された。当日は忙しく見逃し配信で視聴したが、あらためて桑田さんの歌唱力ならぬ「表現力」の豊かさに感服した。よく「ひとり紅白歌合戦」で美空ひばりの楽曲も唄っていたが、正直なところ「美空ひばり並み」な表現力を感じるのだ。「歌が上手い」歌い手はたくさんいる、だが真に「伝わる表現」ができるミュージシャンは限られるのではないか?美空ひばりとの共通点として、「ややしゃがれ声」な要素も大きいように思う。その「引っ掛かり」がむしろ人間的な歌詞の「物語」を起動させてくれて、聴く者は感動に至るのである。言葉・リズムという根本をはじめとして、表現力には多様な要素があることを再認識する。

かたやゼミ学生を中心に行ってきた文理融合「朗読・群読」プロジェクトの研究授業が、いよいよ本日となった。工学部院生が制作してきた「プロジェクションマッピング」が映し出す舞台における「群読」によって、どれほど物語世界に入り込んだ表現ができるのだろうか? 作品は『注文の多い料理店』、「耳の文学」とも批評される宮澤賢治の世界観をどう再現するかが焦点だ。この日のゼミでは、前日にして群読の最終チェックが行いたいという学生らの希望する展開とした。オノマトペをいかに遊ぶか?登場する「二人の紳士たち」と「山猫」の声をいかに交錯させ、言語表現の複層性を表現するか?「山猫」の部下たちの声はどの程度の恐怖感と悪どさが必要か?遠くから「二人の紳士たち」を捜索に来る声の遠近感をどうするか?など、僕が聴いて演出上の工夫が加えられるところを指摘して、前日ながら最後の最後まで詰める稽古を実施した。次第に学生たちの表現力が高まるのが感じられ、紙面ばかりではなく仮想ながら現実の「物語舞台」で身体的に演じることで、文学作品を立体的に楽しく主体的に読む活動であることが確認できた。「学校」の授業を通じて、「もっと多くの読書がしたい」と思う人々は残念ながら多くはいない。図式的・構造的な読みと登場人物の理論的な「気持ち」だけで「理解した」という観念的な面が、今も拭えない「授業の限界」を超える挑戦ともいえるのである。

さて本日は附属小学校で共同研究授業実践へ
学生たちのチームティーチングで実施するのも初めて
生きるための心の声が相手に伝えられる表現力を身につけてもらいたい。


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詩歌を身体と声で考えてゆくー「七夕朗読会」準備中

2022-07-01
7/7の朗読会へ向けて
ゼミ生たちが「板の間」で準備を
机上でなく身体で考えてゆく詩歌

この2年間、すっかり「声を出すこと」が犠牲になって来た。カラオケもスポーツ観戦も音楽ライブも「飛沫対策」として「声」が禁じられた。カラオケやライブハウスは特に、「換気も悪い」ということで疎まれた。また「黙食」などという言葉が造られ、学校給食や飲食店で励行されるなどということも目立った。だが、音楽に声を出すことこそ、人間が精神を解放される大きな効果もある。スポーツも声を出して応援してこそ、試合の流れに同期して観戦できるというもの。もとより日本で食事の際は「おしゃべり」はしないという社会的慣習が強かったので、あまり抵抗なく「黙食」を励行した。だが食事こそ家族や友人・知人と「しゃべってつながる」重要な時間であるのは欧米では常識だ。この声を出さないことで高齢者をはじめ多くの人たちが、精神的な落ち込みを余儀なくされたと言えるだろう。政(まつりごと)はこうした慢性的な疾患を取り沙汰しようともしないが、全国津々浦々、「声を出せない」人々は大変に苦しんでいるのではないか?元々が「声を上げない」日本人が、さらに「声を出せない」2年間を経験して苦悩しているといってよいかもしれない。

4月から大学では対面授業が貫かれ、行動規制も大幅に緩和されて来た。ここに来て全国的に再び感染者が増加傾向にあるが、規制が強化される気配はない。コロナ関連は既にトップニュースではなく、むしろ暑さと電力需給と物価高の話題に翻弄されている。さらに選挙前だということで、報道にも一定のバイアスが掛かっていることも頭におくべきだろう。音楽もスポーツも「声」とともにある「日常」が、戻りつつあるように思う。このような流れに企画した附属図書館創発活動としての「七夕朗読会」、学生たちが「声によって素敵な詩歌(文学)を共有して欲しい」と星に願う企画だ。この日のゼミ時間は、「演目」を発案し合い順番を決めた。詩歌と絵本・教科教材などの群読を中心に10本の作品が提案された。附属図書館の「板の間」という空間で、実に場所の特性を活かした準備が進んだ。「声を発する」学生たちのマスク上の眼は実に生き生きとしている。非常勤講師時代にこの時期、盛んに前期末の発表会へ向けて学生たちと作品を作っていたことも思い出させてくれた。教員になるのなら「机上」の学びだけでは物足りない、身体を作品に同期させ、その言葉の奥行きや繊細さを体感する必要があるだろう。次週、七夕に祈りを込めて開催する。

7月7日(木)18:00〜19:00
宮崎大学附属図書館1階ワークショップコート
「創発七夕朗読会」乞うご期待!!!


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読むのではなく語ることからー音読教材研究

2022-05-27
音読劇『ニャーゴ』
三匹の鼠と猫の心が通う物語
場面を創り表情と動作で読むから語る声へ

今週から4年生が、公立学校での教育実習に入った。よってゼミも3年生のみとなり、何をしようかと学生たち自身に発案させることになっていた。すると学生たちは、小学校2年生の教材で宮西達也さんの『ニャーゴ』の音読劇を創りたいと提案があった。教材も全て自分たちで準備し、附属図書館の「itanoma(板の間)」を予約していた。ゼミこそが仲間たちと今自分たちに必要なものは何か?と考えて学びを深める場であろう。個々人の色を尊重しながらも、仲間との学び合いでむしろ個々の特長を伸ばすべきと考えている。このような趣旨に学生らが呼応してくれたのは、誠に嬉しくも逞しい展開である。教材研究や作品解釈は机上の理論はいくらでも言えるが、自らが作品そのものを「体験」するまでの深度はなかなか成し得ないものである。もちろん「音読劇」をしたからといって「作品の本質がわかった」などと、安易に短絡的な考えで実施しているわけではない。だが単に「字面を読む」だけではない、「作品世界を語る」ことが特に小学校教材では重要であると考えている。

所謂「教科書読み」は学校特有な「音読」であり、一般的な「朗読」と比べると違和感を覚える読み方である。句読点で均質的に休止し常に同速度による濃淡緩急のない、日常口語にない特有な読み方となる。その目的の多くが「正しく読む」ことに置かれており、「場面を再現して読む」意識は低い。「黙読」が中心的な読み方として社会的に定着して120年ほどが経過し、たとえ「音読」をしたとしても「字面読み」の声による再現でしかない。その120年は、語りの芸能をはじめとして演劇的要素を「教育」に取り込まない「歪な音読」が続けられて来た歴史でもある。ゆえに、小学校教員を目指す学生らには「音読劇」を通じた教材研究や解釈が求められるべきであろう。「下読み」では未だ「字面」から解放されない、場面ごとの台詞の心情を様々に検討するが多様な坩堝に迷い込み混迷を深める。理詰めでの表面的な「理解」しか指導者がしていなければ、「多様な解釈」とは名ばかりで「教材を体験」する学習には至らない。登場する先生・鼠たち・ニャーゴ、さらには語り手・心の声などの配役が舞台稽古のように設定されてこそ、「生きた場面の声」になるものだ。作品の見せ場「ニャーゴ」の鳴き声をいかに読むか?たぶんゼミの学生たちは、この教材を生涯忘れ得ないであろう。

他のコースの学生らも2名参加
定期的な朗読会なども附属図書館で実施したい
「生きた声」で教材作品を「生きた解釈」をしてこそ多様な学びを創る基礎となる。


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