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失われた30年と着々と登るサッカー界

2022-11-26
バブル崩壊以後の日本
政治・経済・社会に云う「失われた30年」
しかし、サッカー界は違っていたことにようやく気づく

「コロナ禍だから」何かと言い訳がしやすい世の中になった気もする。例えば、我々のような大学教員が「オンラインだから」と言うのも同じ。学内外を問わずその点には「オンラインであっても」と言いたい自負が僕は強い。2年半前から「オンラインでこそ」学習効果が上がる方法に、向き合い続けてきたからだ。実際に、対面以上の授業内容や効果だと思える担当科目も少なくない。対面になっても「オンライン」で培った有効な方法は活用し続けている。世情ではほとんど「言い訳」にもならない答弁で逃げる姿勢が、「国会」という国民を代表して議論する場で相次いでいる。ここまで「政治は劣化」したかと耳を疑う事例ばかりだ。少なくとも政治を始め、経済や世界的競争力など、この30年で劣化甚だしくこの国は窮地を迎えている。だがサッカー界はどうだろう?そんなTweetなどをいくつか目にした。1993年「ドーハの悲劇」から30年、ちょうど「Jリーグ」が開幕した頃。大衆的なスポーツといえば野球一辺倒であったこの国が、「サッカー(フットボール)」でも世界を目指し始めた。地域に根ざしたクラブチーム作り、世界の名だたる選手が移籍する器ができたことで、最高峰の技術が身近になった。

その後、日本選手の技術が向上するにつれて、海外に移籍する選手が次々と出てきた。サッカーの本場、欧州の名だたるチームの一員となり、決して引けを取らずレギュラーを勝ち取る選手も少なくなかった。前述した「Jリーグ」が地域に根を下ろし、幼少の頃から子どもたちの育成に向き合い、自ずと指導者も育成される。あらゆる世代・組織役割において、「育てる」ということに妥協はなかったのだろう。資金面でも同様だ、「Jリーグ」による収益は躊躇なく「次世代への投資」に投入される。Web記事に拠れば、今回のW杯メンバーで欧州で活躍する選手に「怪我の不安」などがある場合、医師などのサポート体制を欧州拠点に据えて来たのだと云う。森保監督がメンバー選定をする際に「怪我の不安」が払拭できたのは、こうした資金を活用した支援体制があったかららしい。昨夜もTV番組で岡田武史さんがくり返していたが、「今回のドイツ戦の勝利は奇跡でもなんでもない。勝つための準備をしてきた結果だ。」という言葉に如実に表れている。振り返れば1990年代、サッカー部が全国レベルの勤務校の「国語」の授業で、僕は当時の岡田さんが記した論を教材にしたことがある。育てることに投資する「日本サッカー」の方針は、明らかに教育界全体にあるべき姿勢のはずだ。「言い訳をしない育成」「言い訳をしない結果」、まだたかが「ドイツ戦1勝」でしかないが、社会全体の劣化の中でサッカー界の躍進に学ばずしてどうするのだろう。

1997年大学院修士課程入学
現職教員として「自己投資」し続けたことが今に至る
あの頃、日本サッカー界の黎明期について深く考え自らの学びにしておいてよかった。


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富士山の頂上に登る気なくしてー「欧米列強」という意識

2022-11-25
岡田武史さん解説での比喩
「奇跡」ではなく「一喜一憂」せず
スタンドやロッカールームの清掃が話題にもなって

やや眠気に襲われる1日を過ごした、というのも前晩にW杯「日本対ドイツ」を最後までTV観戦したからだ。終盤に興奮する場面が集中していたからか、あまり深く寝付けなかった気がする。それにしても「よく勝った」という思いを持っていたが、いくつかの点で省みるべだと考えた。もとよりW杯本戦に出場できているのに、対等に向き合えない筈はない。スポーツは「水物」であり優勝4回・準優勝4回と決勝まで8回進出しているドイツであっても、今回のチームがどれほどかは未知数であるはずだ。またサッカーは守り切って「0対0」ならば勝ち点1、個人技で劣っても組織で守れば勝機はある。冷静に考えればこうなるのだが、どうしても「ドイツ(欧米列強)には敵うわけがない」という劣等意識が僕たちのDNAに刻まれているのを感じざるを得ない。ところが今回の日本代表は違っていた、前半のPKによる痛い失点がありながら1点で凌いだ。前半最後の方でドイツのシュート機会が「オフサイド」と「VAR判定」で認定されたことも大きな岐路であった気もする。後半へ向けてシステムを変更したことが、前半の劣勢を忘れさせる組織的戦術が功を奏した。

昨日になっての番組において、元日本代表監督の岡田武史さん曰く「富士山の頂上に登る気なくして本当には登れない」と、「頂上に登るための準備をしてきたはず」という弁に納得した。今回の開催地のドーハは、1993年10月28日、W杯初出場まであと1勝の日本代表が対イラク戦で終了間際ロスタイムに同点とされ、出場を逃したという日本代表にとって「悲劇の地」であるのだ。まさにあらゆる「劣等感」を引き摺らざるを得ない環境でも、冷静さと高い意識を失わなかった日本代表チームに学ぶことは多い。あの日、相手のショートコーナーから「同点にされた」瞬間を僕は今でも忘れない。当時はサッカー部が全国優勝をするような勤務校にいたので、翌日の授業ではサッカー部の連中と「悲劇のショック」について語り合ったのを記憶する。あれから「29年」、日本という国の政治・社会はともかく、明らかに「サッカー日本代表」は進化したのだ。その後のW杯出場経験や、日常的なJ1・J2・J3を始めとする国内のサッカー界の積み上げには敬意を表したい。組織力と戦術、そして多くの選手が欧州などで個人としての力も上げている。明治以降154年の「欧米列強」意識は、これによってやっと大きな分水嶺まで辿り着いた印象だ。最後に、選手のロッカールームやサポーターらのスタンドがいずれも使用後に綺麗に清掃がなされていた、という点を海外メディアが盛んに喧伝している。SDGsなどを考える上でも、清掃や整理整頓におけるこの国の意識は、「世界が求める範」になる可能性を感じさせた。

思考は現実化する
思いを抱くのみならず意識と実行と決断と
世界の中で劣勢なことが多いここ最近、一抹の希望をサッカー日本代表が見せてくれている。


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本当に短歌ブーム?ー笹公人さん×スケザネさんトークより

2022-11-24
短く上手く言う時代ーTwitterの影響
異ジャンルの人々が多く参入し始め
耐久年数の長い短歌・・・

世はすっかりTVよりWebで視聴する時代、標記のトークを有料券を購入して視聴した。有料でしばらく「見逃し配信」もあるので、内容の詳細や多岐にわたる点への言及は控えておく。だが短歌に興味があるのであれば、ぜひご覧いただきたいトークで「有料」であるがかなりのお得感があった。僕にとっては、両者ともに親しくさせていただいている間柄というのも視聴の大きな理由である。笹公人さんとは「牧水短歌甲子園」の折ごとに日向市でお会いし、コロナ前まではよく遅くまで酒席をともにさせていただいていた。審査員としての洒落のあるコメントも大好きで、昭和感を上手く素材とした短歌も大いに参考にさせていただいていた。今年に刊行された『終楽章』も大変に好きな歌集で、ある意味で僕の創作のツボを刺激してくれる相性のよい歌が多い。ちょうど1ヶ月ぐらい前に、そんな歌集への思いを書簡でお送りしていたところだった。

一方のスケザネ(渡辺祐真)さんは、親友の真山知幸さんを介してメッセージ交換などをさせていただいていた。人気のYouTube書評家であり、これまでにも俵万智さんとのトークなど短歌にも深い批評を展開している方である。ご自身も若い頃に投稿短歌に応募して入賞した経験があるようだが現在は「詠み手ならざる者」として、むしろその批評から学ぶことは多い。トークの中で「本当に短歌ブームなのか?」という疑問に双方から聞くべき意見が多々出てきた点は、短歌に関わるものとして心しておくべき内容であった。「一億総歌人」となるためには?耐久年数の長い歌と消費される歌(「いいね歌」)とは?真に「ブーム」と言えるには、まだまだ僕たちの努力が必要なようである。まさに詠み手として多様な人々の参入、従来の歌壇を超えた活動とは?こうしたトークにこそ短歌の未来への切符があるような気がした。

終了後、お二人それぞれにメッセージ
12月初旬には笹さんが宮崎を来訪される
トーク視聴終了後は、サッカー日本代表のドイツ戦をTV観戦となったが。


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あの「まぐろ丼」から10年

2022-11-23
採用試験面接審査の前泊
空港でも夕食が取れず辿り着いたお店
宮崎と縁を結ぶ「まぐろ丼」に出逢えて10年

今この場所で生きているのは、何のお陰、誰のお陰であろうか?宮崎に移住してからというもの、こんな思いを常に抱くようになった。その延長にはもちろん、この土地への、出逢う人々への、出逢う食べ物など、あらゆるものへの感謝の心につながる。都会の喧騒の中で生きれば、孤高でも生きられるという勘違いをしやすい。だが山と海に囲まれ、鳥たちの声を聴き、太陽や月の巡行を意識して暮らすと、自ずから「生かされている」思いを強くする。東日本大震災を様々な意味で経験したことも、大きく影響しているようにも思う。まずは「生きていることへの感謝」なくして「今日」はない。このように考えると、「今の自分」を成り立たせている多くの人々の顔が浮かぶ。学問研究や短歌の分野のみならず、生活のあらゆる面での出逢いに感謝しなければならない。「幸せ」を感じるのは、多くの人々の存在があってこそなのだ。

Facebook(SNS)から「◯年前この日の思い出」というものが、自動的に知らされる。この日に出てきたのは艶やかな「10年前・まぐろ丼」の写真であった。思い返せば10年前の本日、現所属大学の面接及び模擬講義の対面審査を受けた。確か「10時半までに学部玄関へ」という通知があり、当日ではなく入念に「前泊」の予定を組んだ。非常勤講師の仕事を終え、羽田空港を18時台に飛び立つ便であった。羽田までの行程で夕食を取る余裕はなく、宮崎空港での夕食を楽しみにしていた。予定通り20時過ぎには宮崎空港に到着したが、どのレストランも既にオーダーストップ。いささかの地方空港の現実を感じながら、予定していた電車を乗り継ぎ宿を予約していた「青島」へと向かった。駅を降りれば何か食べられるだろう、それもまた都会人の甘さでしかなかった。駅を出ても真っ暗、仕方なく宿まで歩くと煌々とした電燈で照らされた店を発見した。迷わず入店したのは、既に21時を回っていたと記憶する。そして前述した「艶やかなまぐろ丼」に出逢った。何か喩えようもない力を「宮崎地獲れまぐろ」からいただいた気がした。その後、宿に入り屋上の露天風呂で星に翌日の面接の成功を祈った。この「まぐろ丼」のお店、先週末にも親友とともに赴いた。自然と10年前の感謝が、身体を動かした感じがした。今にして思えば「まぐろ丼」が食べられた背景には、親友となった人とお店とのつながりを始め多くの人々の思いが詰まっていたのだ。眼の前にある食事ひとつでも、感謝を込めて「いただきます」という意味の深さをあらためて知ったのである。

来年3月で現所属校で丸10年
前任の中高専任教員をしていた学校への在籍期間に並ぶ
「今」のあらゆるものに感謝してこそ豊かな明日が見えるものだ。


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生き生かされているー人生を支える短歌

2022-11-22
題詠「寒」ゆえに思い浮かべること
「大寒」まではまだあるがその朝に産んでくれた母
子を思う心に親を思う心でお返ししている

人は誰しも産まれた時から「独り」である。人生というのは、とてつもない「孤独」に放り出されるとも言い換えることができる。そんな趣旨のことを昨年末に出版した自著に記した。ゆえに人生には「待つこと」も重要だと。だからこそである、親子の愛情に発し恋人や妻との愛情が無くして、人は独りでは生きてゆけないのも確かである。『万葉集』の時代から短歌に「恋」が描かれ続けてきた理由はそれで、「恋」という範囲は恋人に留まらず親子・兄弟に及ぶ。しかも「愛情」が大切だと詠うわけではなく、途切れたり失いそうになる葛藤における悲痛さに悶え苦しむ心を詠うのである。人は何事も失いかけてこそ、現状が幸せであることを知る。自分の日常あらゆる行動は妻に大きな影響を与え、妻に支えられていると同時に妻と相互にあらゆる状態を背負い背負われているものだ。親もまた同じ、本人たちが希望して宮崎に移住してきて安心はあるのだが、その健康状態や日常生活での心配事を背負っているのも確かである。

この日は、宮崎大学短歌会歌会が予定されていた。題詠「寒」、思い浮かんだのは「大寒」つまり一年で一番寒い日に僕を産んでくれた母のこと。その日のたぶん最低気温であろう早朝に僕は産んでもらい、「独り」で生きる人生が始まった。だが育つ過程での多くの母の愛情を考えるに、どんなに恩返ししても足りないぐらいだと今にして思う。短歌は「独り」の人生で他の人々との繋がりを確かめるための大きな力を持っている。そんな思いで歌を詠み、学生の担当に送っておいた。夕刻になって早めの夕餉と思いきや、母からの連絡で「父の体調が悪い」と云う。掛かり付け医の附属病院の先生も親切に電話で状況に対応してくれたが、他の病院を含めて診療時間は終わってしまっている。こんな時はまさしく「掛かり付け医」と良好な関係を結ぶことが大切だと痛感する。親族に限らず人はこうして「生かされている」のであると。という事態で短歌会の歌会には出席できなくなった。それでも通信で投票をし、投票結果は学生から連絡があった。いささかの救いであったのは、僕を産んでくれた母を詠んだ歌が投票で一位になっていたこと。歌だけは休まず必ず参加する、「三十一文字」とはそれほどに価値あるものだと実感できた。

自分の身体は自分だけのものではない
親族の愛情がわかればまずは自分を健康に保つこと
短歌で母への感謝を詠うこと、やはり歌は人生を支えてくれる。


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「班長われは」ー宮崎市内一斉清掃

2022-11-21
先週から雨で延期
「朗読&トーク公演」で伊藤一彦先生が班長と知る
雨上がりの朝、落ち葉がアスファルトにしがみつくのだが

落ち葉が路上に目立ち始めるこの時期に設定されているのだろう、宮崎市内一斉清掃が1週間延期で実施された。ちょうど先週の「朗読&トーク」公演で控室で談笑していると、伊藤一彦先生やチェロ奏者の方も自治会の「班長」になっており「一斉清掃」の話題になった。通常は朝8時から「一斉清掃」なので、リハーサルのために10時半集合であったことから、とりあえず「中止で時間に余裕ができた」と笑い合った。僕も昨年度は班長であったが、やはり一定の軒数の方々の手前に責任感が生じるものだ。「班長」となる以前はあまり意識も高くなく、「一斉清掃」への参加もほとんどしない「非協力的な班員」だった。今回は特に伊藤一彦先生も「班長」として責任を果たしていることを実感し、その具体的な光景を想像できた。たぶんあの大きな声で班員の皆さんに挨拶し、和やかに清掃を進めているだろうと。「宮崎市内一斉」ゆえ、僕自身も同様の思いができていることに幸せを感じることができた。

清掃の目的は主に落ち葉の除去である。この朝は雨上がりで落ち葉が水分を吸って重く、アスファルトに貼り付いてなかなか剥がれない。竹製の箒や熊手を持参した方が、その効力をいかんなく発揮していた。それでも全てが取りきれる訳ではなく、植え込み内に残す落ち葉もある。清掃をしながら考えたが、本来は「落ち葉は土に帰る」はずだ。僕らが清掃して集められた落ち葉は、「燃やせるゴミ」となって焼却される。特に水分を吸った落ち葉には、焼却にも余計に燃料が必要になるだろう。地球規模の温暖化や燃料費の高騰を考えるに、果たしてこれでいいのか?という疑問も感じた。これは僕だけではなく、一斉清掃をしている班の方々も口々に話していたことだ。宮崎市内でも舗装されていない道路を探すのは大変なぐらいであるが、街路のアスファルト化そのものを問い直す必要があるのだろうか?何はともあれ、班に割り当てられた道路上は綺麗になり、一斉清掃の効果が目視できる薄日がさす日曜の昼下がりになった。

街を綺麗に保つちから
確か伊藤先生の短歌に「班長われは」を結句とするものがあった
居住地域を生活しやすく保つための協力が必要だろう。


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オンライン学会ー開催方式の葛藤

2022-11-20
自宅あるいは研究室
他の所用をこなしながらも参加可能
終了後には語り合えない空虚感も

和漢比較文学会西部例会がオンラインにて開催され、例会前の理事会から参加した。感染状況を鑑みて例会開催方式をどうするかは、様々に議論されてきている。だが少なくとも半年前ぐらいから計画し発表者を募集し会場(開催方式)などを決めるゆえ、進む先の感染状況も十分には捕捉しづらい。どちらにするかとなれば「オンライン」がまずは安全なので、こちらが選択される場合が多くなる。会場校の負担はあるが、今年度はだいぶハイブリッド方式の開催も増えた。だが実際のところ準備をした対面会場へ足を運ぶ方は少なく、双方があると「オンライン」の選択に人気があるというのが実情である。僕自身も学会の大会開催校の経験があるが、会場を設定し運営するのはかなり大きな負担がある。会場校としては準備をしたからには、多くの方にご参加いただきたいと願う。そんな思いを考えるに、感染状況に左右されるこの2年半の期間はさらに複雑な思いと負担を強いられる学会運営である。

さて「オンライン選択」が多いというのも、ある意味で必然なのかもしれない。多くの大学の先生方は明らかに過去より忙しくなっている。休日にも説明会とかオンプンキャンパス、はてまた推薦入試と抜けられない校務があらゆる大学で増えている印象だ。もちろん行事にあらずしても、書類作成の負担が過去よりもかなり増量・煩雑であるという声も多く聞く。はてまた研究費の減額によって、必要な学会全てに出張することが難しい実情もある。このような学会に参加しづらい状況を、幾分かは改善してくれるのが「オンライン」である。自宅か研究室かの選択はあるが、とりあえず「オンライン」に繋げば部分的にでも参加はできる。何らかの校務があれば、全てを諦めなければならなかったのとは大きな違いがあり、特に「例会」などは断然に参加しやすくなった。よって今後も「オンライン」を併用する開催方法は維持されるであろうと思われる。休憩時間や発表終了後に「ブレイクアウトルーム」を設け、発表者や司会者が語り合う工夫も為されるようになった。それでもなお「終了後は一杯飲みながら語り合いたい」と思う向きも捨てきれない。オンライン参加の微妙な思いは、今後も続くのだろう。

自宅で宅配を受け取ることも可能だったり
時間と労力の上では大いに効は多いのだが
終了後は近所の親友と一杯と相成った


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抑止と挑発という相互の独善

2022-11-19
10時16分ミサイル発射69分飛行
北海道渡島大島の西約200Km日本のEEZ内に落下
「挑発行動は断じて容認できない」という表現はするが

自分に実害が生じる場合、その対象となる行為を必然的に憎む感情が湧き起こる。今月3日に宮崎から仙台まで移動する最中、北朝鮮のミサイル発射に伴い交通機関に安全確認のための遅れが生じた。夕刻からの「桑田佳祐ライブ開幕(仙台セキスイハイムスーパーアリーナ)」に計画通り時間に余裕を持って交通手段を利用しようとしていた僕たち夫婦は、その影響による遅延を甚だ心配した。宮崎空港でその報に接した僕は、まず羽田空港までの空の便に影響が出たら致命的だと気を揉んだ。幸い予約便は予定通り飛び立ち、乗客の乗り込みがスムーズだったお陰で予定より5分以上前に羽田空港に到着した。次は東京駅までの交通機関、モノレールも山手線もスムーズに僕らを運んでくれた。新幹線チケットは既にネット予約でスマホやICカードへ紐付け、みどりの窓口にも並ぶ必要もなく、東京駅で焼売弁当を並んで買う余裕まであった。しかし新幹線乗り場に行くと、「安全確認のために東北新幹線は10分程度の遅れ」という表示とアナウンス。ホームの混雑が影響し他のトラブルも生じ、結局は20分以上発車が遅れた。まあ問題ない範囲、と余裕はあったが、新幹線利用でさらに急いでいる人々には影響のある出来事だったであろう。

日本ほど「交通機関の定時運行」が遵守される国もない。その律儀な企業努力が、「ミサイル発射」という暴挙で不意にされる。北朝鮮がミサイルを発射するコースが、上越・東北・北海道という方面にかかるわけで必然的に「Jアラート」が警告が鳴る率も高い。(宮崎では今のところ経験がない)自ずと当該方面に住む方々と、意識も異なるように思う。先日のポーランド領内への着弾を見ても、ミサイルの命中精度がどれだけ高いのかと思う事例もある。「渡島大島から約200Km」という今回の着弾位置は、周辺を含めて住人たちの生活を脅かす。僕の親友も北海道西岸・岩内というところに住んでいるのでまずは彼の顔を思い浮かべた。果たしてどのくらいの精度でその位置を狙う意図がありミサイルを発射しているのだろう?何とか抑え込めないものか、と考えるのが人情である。この一連のミサイル発射行為を、「挑発行動」というように呼ぶ。北朝鮮の立場からすると、「米韓軍事演習」の日本海での実施を同様に認識するのだろう。「核保有」の問題を含めて大国が「抑止」だと正当化すれば、大国との関係を対等にしたい国は自らも同様の理屈で「挑発行動」に出るわけである。出口の見えないウクライナ侵攻を見ても明らかだが、武器使用をする以上、「抑止/挑発」の表裏一体の大義合戦が続くだけだ。「味方側は正しく敵方が悪い」という幼い諍いの理屈と何ら変わらない。この国の過去では「鬼畜米英」と言って国民に信じさせた。だが敗戦を機に「神様米英」の国になった。表と裏はすぐに反転するのだ。そんな歴史的経験がある我が国だからこそ、「表裏」に囚われない成熟した「外交理性」を発揮すべきなのであるが。

「抑止」のためだと「反撃」の力を持つという愚策
「挑発行動」の意図にまんまと乗っかってしまう愚弄
相互が「独善」を自覚し理性で対話する「大人の外交」がなぜできないのか?


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思い込みを排して教材に向き合う

2022-11-18
「清少納言ってこんな人」
「知識ありき」の思い込み教材読み
いや教材テクストあっての「清少納言と呼ばれる人物」

世情では「ありき」という構図で話が進むことがあまりにも多く、いつしかそれが「普通」かのように見えている危うさに包まれている。「結果は最初からありき」であり、途中で審議したり検討していることは「茶番劇」のような見せかけの過程である。どんなに過程で疑問が呈されても、当初から決められた「結果ありき」というわけである。ほとんど「民主主義ごっこ」のような様相で「隠れた独裁」が進行しているとも言えるのかもしれない。一国の将来を左右する重要な懸案が、一人の指導者の「思い込み」で次々と決定されていく。世界情勢を見るに、このような「強権独裁」の図式が平然とまかり通るようになってしまっている。「思い込み」はエスカレートし、次第に力で我欲を満たそうとするようになる。欧州発で世界がキナ臭くなってしまった今年を省みて、やはり起因するは「独裁者の思い込み」なのではないかと痛感する日々だ。

この「思い込み」の構図は恐ろしいことに、中学校・高等学校の学習で刷り込まれてしまうのではないかと危うさを感じる事例がある。もちろんこの構図に当てはまらない先生も、少なくないことをあらかじめお断りしておこう。学部2年生後期で、毎年『枕草子』を教材に演習を担当している。多くの学生は「清少納言は自慢めいたことばかり主張する嫌味な女だ」という「ありき」の感情を抱いている者が多いのに驚かされる。たぶん高等学校で『紫式部日記』の「清少納言評」を根拠に、そのような作者像を知識として刷り込むことが為されているように思う。するとこうした学生は、「嫌味な清少納言が記した作品」だということを前提として教材に向き合い発表をする。つまり「清少納言ってこんな人ありき」で、この古典作品と作者を語るのである。したがって僕は、「作品のテクスト本文そのものや作者のあり方」そのものを疑って発表をするように促すのが大抵である。『枕草子』などの古典作品に限らないが、やはり中学校・高等学校では「作者はこういう人だから作品がこうなった」という「思い込み作家論」の構図で扱われることも少なくないことを知る。否、このテクストそのものの本文を文献的に批判し、そこから人物を読み取ってこそ適切な理解になるのだ。中等教育で肝要なのは「批評性」を身につけること。世界から「思い込み独裁」がなくなるように、「国語」の学習のあり方から僕たちは注意深く向き合う必要があるようだ。

なぜ「自慢めいた話題」を書き付けているのか?
その原因を同時代的に探究する視点
敢えて「創作主体」という用語で「思い込み」を排することを教えている。


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地球の余命を奪う国境という諍いの元

2022-11-17
「ポーランド領内にミサイル着弾」の緊張
NATO側の緊急協議もあるが冷静な対応へ
「国」という人間の利欲は永久になくならないものか?

朝から緊張の走るニュース、NATO加盟国であるポーランドの領内にミサイルが着弾し「2人死亡」が報じられた。これによってもしNATO側が「集団的自衛権」を発動し、ミサイルの出所を確かめた上で報復措置にでも出たら「欧州全面戦争」の可能性も否めない。いやNATO側となれば米国が主導することになり、「第三次世界大戦」というあってはならない事態が生じかねない緊張であったわけである。日本では正午のNHKニュースは拡大版とはなっていたものの、どこか「対岸の火事」扱いな印象が拭えなかった。日本はNATO加盟国ではないものの米国への迎合的な擦り寄りのため、NATO関連の首脳会議にも参加している同盟国であることは間違いない。今年の情勢を見てもロシアが日本にも対抗措置に動く現実があるわけで、世界的な紛争を指をくわえて見ているわけにはいかないだろう。当事者意識は十分にあるわけでもないのに、米国隷属的な情けなさが先立ち紛争の危機に何ら解決にひと役が買えない精神的貧困な存在。世界の中におけるこの国の情けなさと閉鎖的な島国根性と「平和ボケ」な感覚は、こうした際に露わになるものだ。

それにしても今年のウクライナ侵攻の起因もそうだが、「国境」というものが人間の醜い諍いを誘発する。もちろん「国境」そのものが人為的に引かれたものであるのだが。広い視点で見たときに、なぜこの地球の豊かな自然の上で共存ができないのか?と思う。人類の欲望の象徴たる「国境」という概念が、このままだと地球そのものを破壊してしまう。ただでさえ懸念されている地球温暖化は、このウクライナ紛争でさらなる悪化への向かうのは確実である。ミサイル・爆弾・地雷などが燃え上がり人を殺傷しさらに「地球の余命」を奪っていく。気候変動のみならずエネルギー問題や物価高の経済的状況、さらには地球全体の格差の問題など、資源と労力を投じて解決すべき問題は山積している。領土拡大を意図するロシアそのものの国力しかり、武器供与に明け暮れるNATO諸国も「投入する資材」そのものが「人類の無駄」ではないのか?折しも日本の「防衛力の抜本的見直し政策」の中に「国債発行」ではなく「税金で賄う」という点が明記されると云う。前述した「地球の余命」を奪う紛争の負のスパイラルに日本は、国民の税負担を増やし加担しようとしている。これが過ちを反省し平和を誓ったはずの国の政策であることに、大いなる矛盾がある。せめてアジアの島国であるだけに、過去に学び世界的な紛争への気運を鎮める役目は果たせないものか?明治以降の「欧米列強」への劣等感による追従は、未だ拭えないままである。

明らかに暗澹たる地球の将来が見えてくる
若者たちに当事者として平和に声を上げることを求めたい
「地球」を壊してしまっては人類の先祖に申し訳が立たない。


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