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ファンとしての節目もあるか

2018-10-18
区切りの5年振り返る10年
こころの余裕が潤いになる
仕事や専門ではない頭の使い方も

10月というのは単に「秋」というのみならず、野球ファンにとってはたまらない季節である。凡そ15年前からMLBのBoston RedSoxのファンとなったが、チームがこの時期の所謂”ポストシーズン”に進出しているか否かで、10月の気分や楽しみ方は大きく変わる。今季のRedSoxは年間108勝という圧倒的な強さで地区優勝を果たし、ポストシーズンとなってからも地区シリーズで最大のライバルであるYankeesを圧倒した勝ち方で一蹴した。これまで04・07・13年にはワールドシリーズを制覇しているゆえ、周期的にはそろそろ狙える年回りではないかと思っている。「ファン」というのは面白いもので、贔屓チームが優勝した年には何らかの節目が来るようである。いやそう思い込んで「ファン」をやっているという方が正しいのだろうか。

04年は博士後期課程に所属しつつも、「論文スランプ」に陥っていた状況から再起した年。07年は恩師の急逝という予想もしない落ち込みから、再起を賭けて学位取得へ起ち上がった年。13年は苦しい非常勤生活から、大学専任としてスタートを切った年。もし今年RedSoxがMLB制覇するとしたら、あらためて「再起」する何かがある年である。ちょうど大学専任として宮崎に赴任して5年間が過ぎた。年齢もそうであるが「5」単位で何らかの変化があるとよく云う。現に大学内での立場は今年から大きく変化し、新たな視点から宮崎大学を見据える日々となった。「地方国立大学はいかに生きるか?」「教員養成系学部の未来はいかに?」「高齢化社会に向けてこの国ではどう生きたらよいか?」そんな渦中で「われはいかに生きるか?」を問い返すのである。

渡米し現地で応援した日々が懐かしい
野球の試合はいつどうなるかわからないが、
人生の1イニングもまた気を引き締めて1球を大切に歩むのである。


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温泉マナーいろいろ

2018-10-17
まず身体を洗う
せめて掛け湯をする
タオルを浴槽に入れないのは言うまでもなく・・・

馴染みとなった公共の温泉施設が改修のため、しばしの休館に入った。身体を温めて寝るということに日常からかなり助けられているゆえ、休館というだけで温泉に行かないわけにもいかない習慣が根付いている。顔馴染みとなった常連の方と話していて、休館期間はどこへ行くかという目安も既につけていた。自宅からさほど遠くない青島周辺は、ホテルを中心にいくつかの温泉施設がある。海に近い源泉であるから、海水性のアルカリで肌に透明無色ながら滑らかで身体をよく温めてくれる。そのいくつかを比較すると、微細な違いも露わになってくるものだ。

昨今、日常から銭湯通いという人も少なく、公共浴場に慣れていない輩も多い。特にホテルの温泉であれば当然ながら宿泊客も多く、「慣れていない」率が上昇する。何より一番困るのは、身体を何も洗わずに湯船にいきなり入る輩。サウナの後なども、十分に汗を流したのかどうか疑わしい輩もおり、なぜか水風呂であるとダイブのように頭まで浸かり込む輩も多く見かける。多くの温泉施設は、このことを掲示して注意喚起をしている。脱衣所から腰にタオルを巻いてきて、浴槽内にそのままという「修学旅行中学生」タイプの輩も時折。考えるべきはただ一点、浴槽内の温泉の湯が「みんなのもの」であるというだけなのであるが。

浴場内の心地よい場所を見つける
湯温と清らかさ
裸の付き合いゆえに心も丸見えになっていることを忘れずに。



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短歌で時間も遡る

2018-10-16
若い時にしか詠めないこと
仕事に就いて初めて詠めること
「いま」をどう捉えて詠むか・・・

後期初めての宮崎大学短歌会月例歌会を開催。新たなメンバーを加え、また仕事に就いている卒業生も含めて楽しい会になった。会員の大学生が相互に歌を語り合い学ぶことはもちろんであるが、僕自身としては「若いこころ」が知られる機会として誠に貴重である。この日は自由題であるゆえ様々な歌が詠草に並んだが、恋愛に関するこころの機微を詠んだ歌などからは、自らの学生時代の「恋心」などを思い返してしまった。同時に当時から歌を詠んでいたら、どんなにか人生の機微をことばにできていただろうかと、遥か学生時代まで時間を巻き戻したい気持ちにもなった。

だが時間は元には戻らない、人は決して遡ることができない川の流れの上で生きているのだ。昨日の小欄で記事にした「文化公演」にて、伊藤一彦先生がこんなことを仰っていた。「若い頃のことでも『思い出』というのは『いま』のものだから、歌に詠めるのである。」と云うのである。歌とは「いまここ」の自分の「こころ」を、「ことば」で記すものなのである。「いま」でも「こころ」に大切にしまってあるもの、それはむしろ貴重な「モチーフ」であり「素材」である。などと考えると、学生短歌会歌会に参加するときぐらいは、「学生の年齢の立場」になって歌を詠むのもいいかもしれない、などとこの日の歌会中に一人で得心した次第である。

短歌を詠めば「あの頃」にも帰れる
古い本に挟まった栞のページを開くように
「いまここ」にいるのはすべての「過去」の蓄積の上にあるゆえ。


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「こめかみに視線は」宮崎市文化特別講演会

2018-10-15
「こめかみに視線はささり錆びたネジをばらまいたような難民キャンプ」
(知花くららさん 第63回角川短歌賞佳作入選作より)
現場を伝えることばの力

宮崎市文化団体主催特別講演「ことばの力」にて、女優・モデルの知花くららさんの話を聴いた。国連WFP大使としてアフリカ、アジアの食糧難の地域への視察を行なわれており、写真や動画とともにその内容が「ことば」で伝えられた。ご本人曰く「写真は、生々しく現場を伝えるが、こころが見たものを伝えるのが短歌である」と云う。確かに写真で見れば、現地の子どもたちの視線を僕たちも「生々しく」仮体験することができる。だが講演会でスクリーンに映し出された写真は、あくまでこの食糧があり余る日本の綺麗なホールでのものに過ぎない。「生々しさ」という言葉はある意味で便利だが、僕たちはその現場の「事実」を知ったような気になっているだけのような気持ちにさせられた。だが、そのようなこころの疑念的な葛藤の渦まで連れて行くのも、「国連WFP」の役目なのかという思いを持ちつつ、前半の講演を聴き終えた。

後半は伊藤一彦先生の進行で俵万智さんが加わり、短歌に関するトークへ。知花さんは昨年の角川短歌賞を受賞しており、冒頭に記した歌はトークで紹介された一首。短歌を始めるきっかけは、与謝野晶子の『みだれ髪』を再読したことだと云う。身体性ある艶っぽいセンセーショナルな明治30年当時の感度、わからない歌・勢いで押してる歌も多いなどと伊藤先生と俵さんを含めた晶子批評が展開され、「チョコレート誤訳」の執筆経緯なども紹介された。「駄目男・与謝野鉄幹」の「プロデュース力」には「身体を張って晶子に燃料を注入する」ものがあったと俵さん。さらに歌作については、こころの機微を表現するためにことばを探し続け、忘れてしまいがちなこころを栞のように浮かび上がらせておくのが短歌だと知花さん。具体と抽象の微妙な点について「詞書」のあり方についてなども話題となり、聞き応えある短歌トークが展開された。伊藤先生の「自分の中での最良の読者を想定して歌作している(30人が歌会にいたら、4・5人が分かればよい)」と云うのは実に参考となった。

「歌は、創りつづけることがトレーニング」
「簡単なことを小難しく言わない」
「あの若いとき詠めなかった悔しさは今に生きる(思い出は現在のことゆえ詠える)」


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「歌が生まれる 声を重ねる」短歌と朗読

2018-10-14
「でもどこもきつくしまってほどけないたちあがる火のようだったこと」
野口あや子『眠れる海』より
短歌と声を考える1日

愛知から歌人の野口あや子さんをお迎えして、県内の高校でワークショップを実施した。題して「歌が生まれる 声を重ねる」。高校2年生を対象に、野口さん選の「恋歌7首」をまずは朗読だけで2度繰り返して聴いてもらう。響きが気になった言葉をメモしてもらい、そこで初めて「文字」資料を配布。まずは自分が一番気になった歌を1首選び、その理由も考える。その後、4人1組のグループを構成し気に入った歌と理由を紹介し合い、グループ内で一番となった歌を決める。それを全体に簡潔な理由とともに発表する。まずは歌の個々の「読み」(鑑賞)を立ち上げて共有する。鑑賞に触発された後は自ら「恋歌」を創作するのだが、まずは思い浮かんだ「声」になるような「言葉」、できれば五音・七音になっているものを書き出す。その素朴な「心の声」の炙り出しから歌は生まれる。さらには各自の歌を再びグループ内で協働し、他者の意見を得て推敲したり、あるいは他者同士の歌を併合したりしてグループの代表歌1首を発表する。最後に各歌について野口さんが講評を加えて行くというのが、この日80分のワークショップの流れである。

「短歌を朗読する」のは、なかなか難しい。いやむしろ、「朗読とは散文」という思い込みが巷間にはびこり過ぎているのかもしれない。「詩」に関しては様々な機会に朗読されることはあるが、特に〈教室〉ではほとんど「短歌」は朗読されない。今「ほとんど」と記したが、小学校では文語の「短歌・俳句」を「音読」中心に3・4年生で学ぶ。だが、現場の先生の声を聞くに、ほとんど「読むだけで終わり」であって、授業をしている先生方も「それでいいのだろうか?」と常に疑問があると云う。この日は、夜になって市内のカフェで「野口あや子朗読会in宮崎」を開催した。野口さんが歌集『眠れる海』から、様々な表現パターンで朗読を披露した。短歌を朗読することで、声・喉・身体が繋がり始める。また人前で朗読することで、自己を保ちことばに助けられていく。そのような野口さんの「短歌朗読」観も披露され、後半のトークでは参加者を交えて和やかなフリートークとなった。「やりたいこと」はまず「言葉」にしてみる、するといつの間にか「事実」になっていたりするものだ。短歌をいかに朗読するか?という問題意識とともに、「ことばの力」をあらためて共有する時間となった。

小・中学生は、音の響きに敏感だ
「国語」の授業そのものが「文字攻め」にしてそれを奪う
「短歌と声」言霊信仰の古代より今に生きていると実感した宮崎の夜。


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宮崎の外と内

2018-10-13
他県からのお客さま
温泉で出会う近隣の人々
宮崎を外から内から・・・

果たして僕は、宮崎の人になっているのだろうか?そんなことを考えることがある。他県からお客さまを読んだ際に、宮崎の印象を聞いてみる。車の走り方や人の歩き方はどうですか?などと。この日にいらした方は、初めて宮崎に来た際の体験を語ってくれた。九州を巡りつつ、小倉や博多で過ごしたのちに、高千穂に行くという旅程であったらしく、喧騒から一気に「神々しいしじま」の世界にやって来たようであったと話してくれた。九州の中でも特に宮崎は、穏やかでゆったりした南国のイメージがあるようだ。

このように「外」からの視点で宮崎をみることもあれば、「内」からみることもある。近所の公共温泉に行くと、いつも顔を会わせる馴染みの常連さんが何人かいらっしゃる。地元の飲食店の事情なども話せば、「宮崎はこのようだ」という類の話になることがある。話の調子は合わせているが、果たして僕の感覚は「宮崎」なのかと自ら疑うことも少なくない。その象徴的なのが、「ことば」そのものである。その人たちと話していると、語尾など部分的なところは「宮崎弁」に感化されている。だがどうしても東京育ちの言葉遣いからは逃れられないと自覚してしまう。そんなとき、僕は宮崎の「外」でも「内」でもない領域にいると思ったりする。

神々しく穏やかに
日向時間もまたよろし
この「外」と「内」の意識でこそ、みえるものもあるだろう。


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「時代」は川の流れのように

2018-10-12
時代は何で始まり何で終わるのか?
区切られると同時に常に流れゆくもの
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

後期が始まって2回目の講義、初回は「授業ガイダンス」のような内容で講義の要点と問題意識の提示に終わった。今週から本格的な内容に入るのだが、特に「国文学史Ⅲ」を展開するにあたり一つの考え方を提示したくなった。「時代」とは何によって区切られるのか?ということである。今年は何かにつけて、「平成最後の」と語られることも多い。僕にとっては人生2度目の改元、学生にとっては初めての経験となる。少なくとも「昭和生まれ」の人々にとっては、3つの元号を跨いで人生を歩むことになる。僕自身の祖母などが「明治・大正・昭和」を跨いだ人生だったのだと子どもの頃に感じた際には、誠に歴史の上を生きているようだというある種の感慨を持った。今後は多くの昭和生まれの人々もまた、歴史を跨いで生きることになる。

だが果たして、改元によって何が変わるのだろうか?歴史はいつも川の流れのようであり、「いまここ」にあるものが絶えず継続して流れて行くのが必然である。国文学史を「中世」から講ずる際にも、やはり平安朝の和歌の流れを忘れることはできない。先日の和歌文学会大会の講演で『平家物語』と『新古今和歌集』を並立したものとして捉える視点(小欄2018年10月7日付記事参照)に、あらためて啓発された。「中世的無常観」の上に成り立つ『平家物語』の文体・表現は、和歌的(語り的)要素と文字表現(読み本系)の要素が相互扶助する形で、作品として成長したと云う。いわば「平安朝和歌」という大河の流れは、止まることなく中世以降も流れているのである。社会体制が変わって断絶するものもあるが、決して途切れることなく継続する力がある。日本文学史を通底して観ようとするとき、決して忘れられないのが「歌」の潮流ということである。

1300年の流れの上に身を置く
「いまここ」を見定めるためにも
「時代」を生きる意識を持つべき節目がやって来ているのだろうか・・・


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仏に現れていただく

2018-10-11
円空の仏を彫る際の思い
十二万体の素朴な仏像
「よむ」とは「隠れているものを現す」こと

卒論などを指導する際に、いつも比喩として学生に話すことがある。それは木彫りの仏像などのことで、「最初から細かな目鼻立ちからは彫らないだろう」という疑問を投げ掛けるようにしている。大まかな全体像を形作って行き、次第に細部を彫刻していくはずであるという具合に。往々にして学生が卒論を進める際には、序論や研究の動機などであれこれ詮索し過ぎて、一番時間をかけるべき本体の内容を進める時間が不足してしまうことがある。そんな折に、この比喩はなかなか有効に働く。何事もそうであるが、一気に細部までが整う訳ではない。むしろ細部は積み重ねによって「自然に現れる」のが理想であろう。

「よむ」という語には元来「向こうにあるもの、隠れているものを現す」と「声に出して唱える、神に祈る」という意味があると、再読した佐佐木幸綱『万葉集のわれ』(角川選書2007)に教わった。この前者の意味を捉えて、佐佐木は「円空」が仏を彫る際の心得について言及している。それは「仏に現れていただく」というもの。江戸時代の僧侶で諸国を遍歴した円空は、鉈(なた)彫りによる素朴な仏像を各地に残した。仏は「向こうに隠れて」いるだけで、それを彫刻によって現すというのである。どうやら古代の短歌も同様な発想で考えられていたようで、表現と人間との関係を考える上で興味深い。「よむ」のもう一方の意味である「声に出して唱える、神に祈る」に関しても、僕としては同根の意味に思える。「文字」では隠れてしまっている「音」を発することで、「見えない神に祈り」、あって欲しいものを引き寄せるわけである。などと考えて、短歌が「真実」を描き出すことの偉大さに思いを致すのである。

日常でないことばによって
隠れたものを「現す」ちから
ことばなくして人は何も知り得ず、何も祈ることさえできないのだ。


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意識できないダメージ

2018-10-10
知らぬ間に蓄積される疲労
意識の外で次第に何らかの兆候が
日々、身体をこころで見つめてあげること

出張から宮崎に帰った折、その空気の美味しさに思わず深呼吸をすることが多い。「吸いたい空気」「食べたい空気」とでも言おうか、その芳香とともに身体が洗われるような感覚を抱く。裏を返せば、「東京には空気がないと言った」ということにもなろう。まず意識して「空気を吸いたい」などと、長年住んできても思ったことはなかった。「呼吸」それはまさに意識できる「命」のひとつである。「一呼吸」の積み重ねこそが、「命」を繋いでいる。その「ひとつ」を疎かにするということは、自らの「命」を粗末にしているのと変わりない。ゆえに「食べたい空気」がある環境に住む意義は計り知れない。

研究学会への参加は、発表など登壇機会がないにしても結構な疲労となる。教室の一席で黙って話を聴き続けられるのは、身体の各所が脳を支えてくれているからできるわけだ。ゆえに出張の後はやはり要注意、様々な疲労が身体に蓄積されているはずだ。最近「負債睡眠」という語彙が気になった。日々の「睡眠不足」が積み重なると、それが「借金」のように負の連鎖を引き起こすという恐ろしい話だ。これは何も「睡眠」に限ったことではないだろう。身体各所の腰・首・関節などにも物理的な負担は来るであろうし、内臓や様々な身体機能にも意識せずに「負債」を与えていないかと最近は考えるようになった。生活にも緩急が必要であり、休息と活動の絶妙なバランスが求められるように思う。

意識できないダメージを
探り出せるのはやはりこころである
「一呼吸」を意識するように、各部の「命」を大切にしなければなるまい。


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引き寄せるちから

2018-10-09

お店に行くと他のお客さんが増える
そして偶然に会いたい人にも
隣になって交わす会話から多くのヒントが

懇意にするありがたきワインバーが、開店12周年を迎えるまであと数日。この機にどうしても顔を出しておきたいと思い、祭日営業の夕つ方にお店のドアを開けた。10月とはいえ気温が高めで、まだ薄暮の中でのビールが美味しい。何しろ東京でも数台しかないというプレミアムなサーバーから注がれる泡は、誠にクリーミーで味わい深い。丹念に誠実で人間味のある店主の人柄ゆえ、保全されている名器のような気がする。いつも思うのだが、このお店に僕が来ると他のお客様が次々と来店する傾向がある。この日も例外ではなく、客足が増して最後には会いたいと思っていた同業の友人までもが来店した。この引き寄せるちからは、なんだろう?

祭日の閉店時間は早く、いい時間に実家へと帰り両親とともに食事に出ようということになった。ここにもまた、懇意にする小料理屋さんがある。素材が吟味され手作り感ある料理をいただきながら、店主ご夫妻と話が弾む。また常連のお客さんで顔馴染みの方もいて、久しぶりの会話が楽しい。酒場というのは「酒」を飲むところであるのと同時に、日常から聊かの異世界に入り込み自らのわだかまりを晴らすところでもある。決して愚痴るわけでもなく、笑顔で前向きに今の自分を語る。そこにまた、新たな明日が見えてくる。自分を忌憚なく語れる場所、其処が自らを救ってくれる。両親ともども、すっかり楽しい気分になりよき連休の締めくくりとなった。

自分をことばにできる
それを許す場所と人々
引き寄せるちからの源は、こういうことなのかもしれない。


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