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教育とは命に向き合うこと

2019-02-20
学内教育活動表彰
対話型講義や短歌普及活動への評価
学部の垣根を越えて「命と向き合う」こと

学内で教育活動表彰をいただくことになり、表彰式に臨んだ。
表彰者を代表して謝辞を述べることになり、次のような趣旨のスピーチを行った。

この度は、このような栄誉な賞に選考いただき、またこのような表彰式を催していただき、学長をはじめ諸先生方、職員のみなさんに心より御礼申し上げます。私は宮崎大学に赴任して6年目となりますが、この宮崎の地が大好きです。「空の青海のあを」の豊かな自然や美味しい食材はもちろんですが、何よりこの宮崎大学に集まる学生たちの純朴さや前向きさに心を打たれ、日々の教育に携わって参りました。私は短歌を研究しておりますが、宮崎市在住の俵万智さんの短歌に「この子らを妊りし日の母のことふと思う試験監督しつつ」(『サラダ記念日』所収歌)という作品があります。”教育とは命に向き合う”ということを、ことばの力であらためて考えさせられる短歌です。「命に向き合う」ということは、この宮崎大学全体で学部の垣根を越えて考えるべき信念となるように思います。この度の受賞を糧により一層、一人ひとりの学生に向き合うとともに自らの研究も活発にし、この両輪をバランスよく進めるべく、宮崎大学の発展に貢献して行きたいと思います。

                         平成31年2月19日 
                         表彰者代表:教育学部 中村佳文

本日は、誠にありがとうございました。


牧水没後90年に際し
県内の様々な短歌活動への貢献度も評価いただいた。
ありがとう牧水先生、ありがとう宮崎。

 
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九州の神は予言していた

2019-02-19
ちょうど今から10年前
WBC日本代表合宿in宮崎
今居住する地からほど近い球場へ来ていた

宮崎といえば「ジャイアンツ」のキャンプが伝統的ではあるが、今やすっかり市内の優勝パレードなどを始め「ホークス」の方が市民の親しむ球団となっているようだ。概ね11日あたりの祝日までで、「ジャイアンツ」は沖縄に行ってしまう。先日の地元紙・宮崎日日新聞「くろしお」欄にも、キャンプ地として危機感を持って取り組むべきだといった趣旨の問題提起が為されていた。多くのファンが訪れ様々な面で観光収入が上がるのは、宮崎にとって大変重要な県の振興政策でもある。思い返せばちょうど10年前の今時分、
イチローを擁するWBC日本代表合宿が宮崎で行われており、総数24万人という観客動員で賑わっていた。僕は中高教員であったが、土日と有給休暇を活用し初めて宮崎の地に一人で来ていた。今住んでいる地からほど近い、サンマリンスタジアムへと空港や市内から電車を乗り継いで早朝から足を運び、ネット裏からイチローの勇姿を追っていた。

東京人の感覚というのはある意味で麻痺しており、電車・バスといった公共共通機関ならいつでもどこでも存分に活用できると思い込んでいる。県名を冠した駅ならば繁華街が隣接していて、飲食・遊業に困らず楽しい夜を過ごすことができるとも思い込んでいる。だが1時間に1本程度のダイヤと駅ビルのない素朴な駅舎やキャンプ地の最寄駅が無人駅であることなどを知り、都会の環境こそがこの国の病いなのだと些かの気づきを覚え始めていたのもあの頃だ。素朴なカウンターのおでん屋さんが街の人気店で、地元大学生がバイトとして店員をしており、満席の由を僕に「またよろしくお願いします」と丁重に伝えたことを鮮明に覚えている。たぶん、あの声は「九州の神」が女子大生の姿を借りて僕に「(この地の大学を)またよろしくお願いします」と告げていたようにも思う。最寄駅から球場までの裏路地の抜け方地図が、10年前の僕の手帳に記されている。

この10年歩んで来た道
今ここ宮崎の地を愛する日々
九州の神は、僕にかけがえのない人々と巡り会わせてくれたのである。


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劇団こふく「ただいま」三股公演千秋楽

2019-02-18
「いま そこは ふるさと
 あなたが いる そこは ふるさと」
(「ふるさと」作詞:永山智行・作曲:かみもと千春 より)

公演そのものがはねた後、三股町の方々が大きな「おかえり」と書いた横断幕を客席横いっぱいに広げ永山さん以下、出演した役者のみなさんを讃え出迎えた。そして冒頭に記した「ふるさと」の歌をみんなで唄った。「いまここ」それは「三股」、劇団こふくが全国10ヶ所を巡るツアーの千秋楽。昨夏、宮崎県立芸術劇場からスタートし広島・いわきにはぜひ行きたかったと云い、札幌から沖縄まで全国の人々が「いまここ」そして「帰るそこ」を感じたツアーであったことだろう。引き続き行われたトークにて、その足取りが出演者全員によって和やかに語られた。あらためて、この芝居空間に居合わせることができたこと、それが三股町であった幸せを感じるひと時であった。

機械的無機質なナレーションは、リエゾン(複数人の連結音声表現)とソロとの出し入れも絶妙で、実に単純素朴に行なっているようで高度な稽古と演出の妙を冒頭から感じさせた。ことばはもちろん和みの宮崎弁で、芝居の人間臭さと表現性が方言によってより豊かに心地よく伝わってくる。舞台上手の片隅にある水道栓からブリキバケツに垂れる水音が、時折役者の声の伝道と間の取り合わせを、絶妙に覚醒させるかのような演出も憎いばかりである。そこに描かれた人々は、「普通の人々のかけがえのない日常」である。観客である我々と等身大を生きる人々の「暮らし」が、この宮崎の三股の劇団であるからこそ描けた「自然」の中に展開する。奇しくも、昨日の小欄には、「いま」を見つめるといった趣旨のことを書いたが、作・演出の永山智行さんとは何度か小学校などで仕事を共にしたことがあり、その感性に縁と共感ありを深く確かめることができた公演であった。

親への愛情も
恋も愛もすべてが「いま」をどうするか?の中に
「私たちのいま続いている日常を守る」のである。


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今日もまた「いま」を見つめて

2019-02-17
生きるとは今を見つめ
その1日1日に向き合っていくこと
「幾山河越えさりゆかば」の連続でもある

池江璃花子さんの白血病公表、何より治療に専念して自身の日常を取り戻してもらいたい。メディアを中心とする社会的喧騒には事あるごとに辟易とするが、何より彼女が今を静かに見つめられる環境であって欲しいと願う。今朝、僕が高校教員だった頃の体育館で仕事をしている夢を見た。当時の同僚らしき人もいるし、現在の大学での同僚らしき人も混在して何らかの行事が行われている。僕はその行事で司会の大役を任せられているが、準備に手間取り開会間際にやっと講堂に行くという焦りの渦中で目が覚めた。起き上がると現実の「今」がそこにある。「今日」もまたいまの現実に向き合っていくことになる。

自らの身体であるのに、思い通りにはならない。この世に生きるということは、少なからずこうした不条理とも思える「山河」をいかに越えて行くかの連続なのではないか。身体のみではない、社会の中でいかに生きるかにも様々な矛盾や運に左右されながら荒天も晴天の日もあり旅を続ける。時にあまりにも困難な「山河」があることも、だがその苦難を乗り越える力こそが、人間の果てしなく素晴らしい価値でもある。いやむしろ直面した困難への対応こそが、生きることそのものではないか。何もかもが整い揃いいつでもすぐに手に入るという環境ばかりをよしとして、「便利」ばかりが氾濫する社会。牧水の「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」の歌のように、「寂しさ」といかに向き合うか?それでこそ「愛」や「親」や「和」の感情を初めて知ることができる。

目覚める起き上がる身体
自分で自分に問い掛ける今日
そしてまた「いま」を受け容れて越えて行く1日が始まる。


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義理ってなんだろう?

2019-02-15
日本だけの風習?「義理チョコ」
Xマスやハロウィンの異常な喧騒に同じ
何のために?そして様々な弊害も・・・

Web記事に掲載された情報なので確証はないが、「義理チョコ」というのは日本ならではの社会的慣習なのだと云う。主に職場などで「バレンタインデー」の本来の趣旨には適わない人にも、「義理」を通してチョコを贈るということである。社内の状況によっては、かなりエスカレートした状況もあると聞く。確かに僕が小中一貫女子校の教員だった頃は、その日だけ校則である「お菓子持ち込み禁止」が解かれ、競って手作りチョコを持った生徒たちが、職員室に押しかけたことが思い返される。経済効果の上ではそれなりな事態ではあろうが、この狂騒曲のごとき乱舞には聊か眉を顰めたくもなる。本当に大切に思う人に日常の感謝の心を込めてと、せめてこのくらいの密度を持って楽しみたいと思う。

「義理」とは『日本国語大辞典第二版』によれば、「1、物事の正しい道筋。道理。」「2、体面・面目」「3、つきあいや社交の場でのべる口上や挨拶。」「4、特に世間的なつきあいの上で、仕方なしにする行為やことば。」「5、血縁以外の者が血縁と同じ関係を結ぶこと。また、その関係。」「6、わけ。意味。字句の内容。」「7、(能で)劇としての筋、内容。またその面白さ。」などと多岐にわたる。主に1、2、6あたりの意味で古来は使用されていたものが、江戸期以降に4、5などの意味を生じたように用例を見る限りでは思える。こうした語誌から考えるに、「仕方なし」という負の心を背負いながらも、「道理・面目」といった日本で「しがらみ」の原因になるような体面に拘束される精神的図式のように思う。

漱石『草枕』冒頭に曰く
「義理を通せば窮屈だ」
講義のないこの時期の大学は、静かでとても過ごしやすい。


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原稿を書く楽しみ

2019-02-14
文章がみるみる進むとき
自分で書いた原稿に教えられるとき
常に書きながら考える身体でありたい

昨日の小欄、「スケッチブックをどう使うか?」の続編。頭の中でまずは「これを書きたい」という一部の趣向が、渦巻き始める。次第にそこから連鎖的な「あれもいい・これもいい」が浮かんで来る。文章のアウトラインを書き出し、浮かんでいた趣向がどこに嵌め込めるかを考え始める。原稿の冒頭も重要である、そこで文章を書く推進力を自らの筆致から、もらうような感覚がある。書き始めたら波が生まれる、サーフィンよろしくその波に如何に乗って文章を推し進めて行くかである。時に寄せては返す波の折に、書くことが停滞することもある。その時は、歩き回ったり他の人の短歌や文章を音読したりして、脳内をリフレッシュさせる。

最近はPC画面に打ち込んで文章を創るのがほとんどであるため、時には画面を前にスクロールして自分の文章を読み返す。前後関係の整合性のためにも重要だが、「こんなことを書いている!」という新たな気づきになることも多い。ある意味で、自らの宇宙観の中に埋没して筆を進めることになる。その喩えようのない「トランス」状態と、より客観的俯瞰的な視点とを共存させることが重要であるような気がする。今もこうして文章を書いているが、朝の没我なひと時であるとともに、そこから何かを自ら摘み取ろうとする視点がある。朗読や落語などの口頭を旨とする表現に取り組むことがあるが、やはり没我と客観性の微妙な境目で表現できた時こそ、他者に高次元で伝わる表現になるようだ。

そして原稿を送る
手元から離れた原稿への反響
その声に、また刺激され励まされ原稿を書く楽しみが増幅する。


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スケッチブックをどう使うか?

2019-02-13
頭にあるものを書き留める
否、発想を吐き出して自分を見つめる
文章や創作物もみな同じく

中高の教員をしていた頃、所謂「作文」を課すと、すぐに書き始める生徒となかなか書き始めらえない生徒がいた。過去の「作文」では、原稿用紙を配布してすぐに「完成形」を求めるような乱暴な方法が平然と行われていたが、最近ではまず発想や素材を発見できる準備段階も重視している。要はいきなり「完成形」を求めることそのものが、文章を書くこととは何か?という根本をわかっていないことになる。彫刻でも、「目鼻立ち」など細部から彫り始める訳ではない。まずは「粗々」と大まかな「人型」から彫り始めるのが常道であろう。

だが、時にこの発想段階を脳内で巧みに整理できる生徒がいないわけではない。ある生徒は400字詰原稿用紙2枚ぐらいなら、あっという間に書き上げた。彼は高校サッカー選手権でも活躍し、Jリーグや日本代表を歴任し今やあるチームのマネージメントをすべく上に立つ存在だ。もちろん、TVなどでの解説も実に的確でわかりやすい。こんな教え子もいる。イラストレーターや画家たちが、スケッチブックをどう使うか?という問いが、先日の「演劇と学校教育」のワークショップで提起された。もちろん「完成品」を書いて記録するのではなく、発想をそこに書き出し自ら書いたものに自ら刺激を受けて新たな創作の境地に至るわけである。これは文章もまた同じ、書きながら新たな発想や着眼点が見つかるものである。

脳内そのものをスケッチブックに
自由に書き出すメモ帳を持とう
「自分」とは自分でも表現しないとわからないものである。


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海を見ている午後ーみやざきの穏やかの源

2019-02-12
日南海岸ロードパーク
その先にある馴染みのお店
宮崎の海・みやざきの人々

なかなか休日とはいえ、ゆっくりとは休めない日々が続く。滞在している両親を時には何処かまで連れていきたいと思い、広島カープや西武ライオンズがキャンプを張る日南方面へ車を走らせた。目的地もさることながら、途中の「日南海岸ロードパーク」からの眺めは壮観である。太平洋の水平線までを見渡しながら、陸地付近の「空の青海のあを」が誠に心に沁みるようである。やや曇り空であった午前中から一転して、光り輝く陽光にも恵まれ気分が開放されるドライブである。途中、夏の台風や大雨による土砂崩れの傷跡を今も工事しており、片側相互通行の箇所がいくつかある。これもまた自然と人間との付き合い方を、深く考えさせられる光景である。

日南市油津には、僕が宮崎に赴任した直後から懇意にする店主が経営する洋食店がある。以前は宮崎市内で経営していたが、今は油津港を見渡す素敵なロケーションの地に店を構える。以前から母などは「この店のハンバーグなら食べる」という主義で、様々に親しくしていただいて来た店である。この日南の地に来ると、宮崎市内よりさらに住んでいる方々の心の穏やかさが思われる。時間に追われず自然の中で、伸び伸びと呼吸するような日常がそこにある。何よりかの海を見れば、心はいつも澄んで美しく生きていられそうに思えて来る。奇しくもかの地でキャンプをする二球団が、昨季は両リーグの優勝チーム。海の神が正当な野球への取り組みを後押ししているかのように思う。

海は人間のふるさと
見つめるだけで抱きしめてくれる
道路事情などが不便であるからこその景勝を貴重なものと考えたい。


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先生も「やってみる」ー演劇と学校教育

2019-02-10
体験することで感覚を働かせる
子どもたちも先生も・・・同型性
自身の感覚の活性化

NPO法人Swing By主催、本大学院・学部・附属教育協働開発センター共催のワークショップ・講演が宮崎市内で開催された。午前中は県内の演劇人による「先生のためのワークショップ」、身体表現を活性化させ表現し対話する協働活動から様々な気づき・学びが生まれた。「先生」たるや、まずは自身の感覚を活性化する必要性があると常日頃から痛感していた。「自らは体感せず子どもたちには”やらせる”」というまさに「上から」なのが現場の実情としてまかり通り過ぎて来たのだと思う。「演じる」という語彙が、誤解や偏見を孕んでいることも、この国の教育に演劇が浸透しない大きな原因ではないだろうか。まずは「先生」も体験することである。

午後は東京学芸大学教職大学院の渡辺貴裕さんをお迎えして「演劇と学校教育」のフォーラム。約2時間の内容であったが、「講演」というよりワークショップを交えて参加者がまさに「体験」する形式で、方法そのものが参加者に「伝える」形式として大変有効に機能していた。従来型の学校の授業では、「理解」を十分にさせないと「表現」ができないという一方向性に偏り、群読や演劇的表現へ到達する活動の嵌め込み方が歪んだものになっていた。「理解」は「表現」しながら促進され円環的循環的に学びが進行していく。まさにそこが「主体的対話的深い学び」を生み出す要諦であろう。教育活動の報告そのものを演劇仕立てで行う実践校の紹介なども含めて、数多くの示唆に富んだ時間となった。最後の挨拶を僕が申し述べたが、「日本一の読書県・短歌県」を目指す宮崎においても、その方法としての「演劇」を積極的に活用すべきという趣旨を述べた。

「原作・脚色・主演・演出、俵万智の一人芝居ー
 それがこの歌集かと思う。」
(俵万智『サラダ記念日』あとがき より)


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2月に錨を投げよ

2019-02-08
早一週間
2月が動き出すと早く速く時間が進行するような
まずは錨を投げておきたく

近所の公共温泉で常連の方々と話すのは、一日の疲れを癒す大切な時間でもある。その中で多くの方が、「時の過ぎゆくのが早い」ということを口々に言うことが目立つ。年が明けて3月まではあっという間、すぐにゴールデンウィークとなって夏になる。涼しくなれば秋となって今年も暮れていく、などと駆け足の1年を口にする方が複数いらっしゃる。多くの方が「光陰矢の如し」を実感していることを、ひしひしと実感するわけである。確かに1年前などを思い返せば、東京の実家の引越へ向けて、慌ただしく宮崎と往還していた頃から、瞬く間に時間が経過しているようにも思う。

だからこそ「今」が大切なのだ、と常に自分に言い聞かせる。「また」「あとで」は決して実現しない。例えば持ち物などでも、気が付いたらその場で鞄に詰め込まないと、忘れてしまうことも稀ではない。その「今」その「一瞬」、人生はこの積み重ねなのである。短歌とは、その「一瞬」に「錨を投げる・おろす」所業であるなどと比喩的にいう場合がある。放っておけば過ぎ去って漂流して行方知れずになってしまう「一瞬」=「時」に、ことばの「錨」を投げ込むのである。「早い早い」というこの2月こそ、心して「錨」を投げねばなるまい。慌ただしきときこその、「錨」なのだ。

卒論などの評価の時間
定期試験期間も終わりつつある
今日ひと日を噛み締めて生きる


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