今年もまた痛き雨の季節が

2018-06-21
降りしきる雨・雨・雨
寝床に雨音が届くこの頃
ワイパーで視界をかき分け進む車よ

梅雨入りしてからしばらくは雨と晴れ間が交互に来たりして、今年は楽かと思っていた。だがやはり梅雨前線が停滞する状況となり、1週間の予報にすべて傘マークが並ぶ。南国の雨は時に強く降りしきり、車から出て建物まで歩くわずかな時間にも服を激しく濡らしてしまうほどである。自宅や大学は高台に立地しているのだが、それでもなお道路がかなりの水を冠することもあり注意が必要となる。そんな夏季の意識を覚醒させた激しき雨音、何ものかによって押し出されはみ出したかのように人間に自己主張をしているかのようだ。

雨そのものもさることながら、この湿度との闘いがまた難儀である。W杯日韓大会の折には多くの出場国の選手が湿度対策をとったというが、我々にとって当たり前の湿度は身体にも大きな影響を及ぼす。僕自身の感覚からすると、通常の乾季よりも明らかに筋肉が硬直しやすい。筋トレなどをした後には、相当時間のストレッチが必要となる。今年は思いついてフィットネスローラーを購入、脚や背中の筋肉を対象に凹凸のついたローラーの表面を転がし筋肉をほぐす代物だ。ツボに嵌るとかなりの痛みを覚えつつ、身体をほぐす作用に助けられている。

動植物たちは夏に向けて動きも盛ん
自宅駐車場には蛙の姿もみられた
こうした意識を持つのも、心身が自然そのものになりたいという欲望なのか。

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なぜ音楽好きはバンド活動をするのか?

2018-06-20
「聞く」ことから表現する活動へ
鑑賞だけでその音楽の真髄はわかるのか?
バンドでカバーをする意味などから考える

県の教育事務所関係の担当者の方々と、秋に実施する「読書推進活動」に関する研修会の打ち合わせ時間を持った。先方の作成された計画であると、僕の「講演」が冒頭に30分ほど用意されていた。全体で使用できる時間は決まっており、できればゼミ生が参加するワークショップ形式の研修にしたいと要望を述べた。双方で削るべき時間はどこか?と対話を進めたが、僕自身は迷うことなく「講演をやめましょう」と進言申し上げた。ありがたいことに先方の構想では、やはり僕自身の講演を県内多くの図書担当教員に聞いてもらいたいのだと云う。だが既に何度か経験があるのだが、こうした研修で講演をすると間違いなく固着した雰囲気となり、活発な質疑にもならず「対話的」なものにならないことを僕は知っている。そこで冒頭から学生の群読活動などを実施して、そこに僕がコメントを加え、参加者にも感想・意見を引き出すような活動的研修を提案することになった。

とりわけ「読書推進」と言った際に、指導者自身の「推進」はどうするのか?と疑問に思うことがある。「主体的な学び」というお題目が唱えられているが、それは学習者のみならず指導者もそうあるべきと思う。指導者が「読書を面白い」と思うからこそ、学習者にもそうした意識が芽生えるのではないか。僕自身は(現在休止中ではあるが)、あるアマバンドのメンバーである。なぜ好きなアーティストの楽曲を「カバー(コピー)*演奏・歌唱をほぼ同じように再現すること)するのか?それは単に受け身で聞いていただけでは、わからない楽曲の深い味わいに近づくためである。自分たちで演奏して録音を聞き返してみると、「本物」とのあまりの違いに愕然とすることがある。だがその未知の距離を実感してこそ、愛好するアーティストの実力のほどが真にわかるのである。「講演」を聞いているだけではダメ、ましてや閉鎖的な場に閉じこもっているだけでは、「主体的な学び」は生み得ないのである。

深い理解をするには自ら表現すること
国語授業の「鑑賞」とはいかに?
活動的研修スタイルなくして、活動的学習は実現しない。


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『光の庭』伊藤一彦歌集

2018-06-19
昨年の日々が短歌となって
Webで読んでいたことが一冊になる感慨
「左注」に何度も名前を出していただき・・・

伊藤一彦先生の第十五歌集『光の庭』が発刊された。昨年の1年間、フランス堂のWebsiteに「短歌日記」として毎日掲載された歌群の書籍化である。その題に込められた思いが帯に表示され、「宮崎全体が『光の庭』である」とある。ご自身の「あとがき」にもあるように、ご自宅の庭にて詠う短歌が多いのも伊藤先生の個性であろう。だがその「自宅の庭」という限られた世界を、県内全体に見立て、さらには広大な宇宙のごときに思えてくるような歌には、自ずとその世界観に惹き込まれることが多い。果てしなく遠くまで行くためには、眼前の現実空間をいかに描写することからしか歩き始められない。こんな偉業へ向かう足跡さえ感じさせる歌集と思い、その装幀の素晴らしさとともに味わい深いものに仕上がっている。

「あとがき」に拠れば、依頼を受けてから即答せず「返事を待ってもらった」のだそうだ。理由は毎日歌を作り続けられのかと自分に問い掛けたのだと云う。だが今の(先生の)年齢だからこそ「できる」と思って始めたと述懐されている。僕などは1日1首とは思いながら、なかなか儘ならないものだ。伊藤先生ほどの歌人でも、日々を1首にしていくことに大きな決意がいることを知り、あらためて歌作こそ「生きる」ことそのものであると感じさせてくれる。昨年は10月の和歌文学会大会を始め、牧水祭での対談、宮崎大学短歌会の躍進のことなど、「左注」とされる歌の後の文章に何度か僕自身の名前も刻まれている。この短歌日記が成された1年にあたり、伊藤先生との交流が深まった証として誠にありがたい限りである。

先日、伊藤先生の夢をみた
初期歌集の「闇」を主題する歌と対照させ、
まさに伊藤一彦先生の「生きる」が深々と味わえる歌集である。


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「教える」の語感を考える

2018-06-18
「説明」ではなく自らの今を語る
「教える」のではなくお互いに気づく
世界でここにしかない発見をしたい

最近は「教える」という語彙に、抵抗を覚えるようになった。その一つの理由に、自分の一つの考え方を教え込んでも、学生にとっての学びにはならないと思うゆえである。少なくとも教え「込む」のではなく知識・技術は伝えた上で、学び手が自ら気づいて行動し活用できるようになることが重要なのではないかと思っている。あらためて『日本国語大辞典第二版』をくってみると、「(1)行動や身の処し方などについて注意を与えて導く。いましめる。さとす。(2)知っている事や自分の気持、要求などを他の人に告げ知らせる。(3)知識、技術などを身につけるようにさせる。教授する。(4)おだてたりして、悪い事をするようにしむける。」の四項目が見られる。特に(4)の意味については「語誌」に次のように記されており興味深い。

「本来は使役の辞である「教」字を、「をして〜(セしむ)」とよむ訓法が平安時代後期以降に成立した事に起因し、「〜」の本動詞の意味が特に悪い結果を生じさせたり、悪意に基づく所作であったりした場合に、「悪いことをしむける」の意味に解されるようになったのであろう。」

僕自身が今感じている「教える」に対する抵抗感は、たぶんこの「使役」の趣旨にあるようだ。
「読み聞かせ」という語もそうであるが、読み手が一方的に聞き手に「聞かせる」という趣旨の語感が生じてしまう。以前に俵万智さんともこの点について話したことがあるが、「なんだかお仕着せがましい」という意見で一致した。聞き手側にも主体性があって、その語りに参加していることが含まれるような適切な語彙はないものだろうかと現在も模索中である。誤解のないように記しておくが、上記の『日国』にある(1)(2)(3)の要素を、あくまで〈教室〉で不要だと言っているのではない。「さとす」「告げ知らせる」「身につけるように」と意味が記されているように、受ける側が主体的に「気づき」「行動し」「活用できる」ように「教える」ことが求められているということだ。この考え方の上では、教える側と学び手のすべてが平等でなくてはなるまい。

対面し声で告げることの大切さ
気づいたら自分で行動してみること
「説明」ではなく心を動かすものにすべきなのは短歌も同じ。


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「鳥のことば」に思ひて

2018-06-17
「さむきわがことばより鳥のことばもて語りたきかな父への愛は」
『瞑鳥記』〈伊藤一彦・第一歌集(1974)より〉
考えるに難しき新たな父との関係

宮崎の自宅では、早起き鳥の合唱が心地よい。どこからともなく自宅附近の電線を埋めて、美しい声の交響を聞かせてくれる。目覚めというのは本来、この程度の音で穏やかに覚醒してゆくのがよいと云う話を聞いたことがある。確かに階段を踏み外すような夢や、アラームの暴力的な音で飛び起きた際というのは、身体に変な負荷がかかっているようで明らかによくないと思えてしまう。居住環境というのは、その人間の感性や感覚までも作用してしまうので、明らかに穏やかな場所を選ぶべきなのであろう。こう考えると、宮崎の地というものは誠にありがたき場所である。僕自身が東京生活にあまり未練を感じなかったのも、「鳥の声」に象徴される宮崎の自然の豊かさを知ったからである。

「鳥」といえば、伊藤一彦先生の第一歌集『瞑鳥記』を思う。早稲田大学在学中の東京生活から故郷宮崎で教師をするために帰郷され、この地で根を下ろして作られたお若い頃の歌の数々を読むことができる。「おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内臓もつを」「韻律の森より翔べる鳥あれば血しぶきながらわれは見ている」「空には鳥の脂(あぶら)にじめりにんげんの街よりとおく離れきたれば」などの歌に表出する「鳥」からよめる韻律・意味・イメージは、この宮崎の風土で暮らさなければ得られない境地ではないかと考えさせられる。同時に親族への和みたる愛情の深さを、冒頭に示した歌などから感じ得るのだ。先週まで僕自身も在京の父が宮崎に滞在していたので、あらためてその関係性を考えさせられていた折でもあった。僕自身が自宅周辺の早起き鳥に癒されるように、父へも「鳥のことば」でもって語れる人になりたいと、伊藤先生の短歌は教えてくれるのである。

「もはや痴れし父と赦しつ酔眼を放てば月下のあおき雪嶺」
「虹斬ってみたくはないか老父(おいちち)よ種子蒔きながら一生(ひとよ)終るや」
「憤りしずまるまでを死についておもうは父に教えられたる」
(『瞑鳥記』より)


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老いてこそ忙しい幸福

2018-06-16
「畑仕事にあれやこれやと
 毎日やることが多くて忙しいよ」
温泉の世間話に学ぶこと・・・・・

小欄に記すテーマというのは、前日を過ごして一晩寝ることを経てもなお、脳内に印象深く残っていることである。特に前日から決めていたり計画的でもなく、決して予定調和で記しているわけでもない。それゆえにむしろ自分自身の心の向け方が客観的に文章に表現され、自身で読み返して発見できることも多いという効用もある。昨年、和歌文学会大会を引き受けて開催する間において、比較的よく小欄に記した話題が近所の公共温泉のことである。週に2回ぐらいは定例で行くようになって、同じ時間帯に行くものだから馴染みの方々もかなり多くなった。温泉施設には、大きな42度程度に設定された大浴槽とともに源泉をそのまま31度程度で溜めた小さな浴槽がある。この源泉に浸かるか浸からぬかで、疲労回復に大きな違いがあると気づくようになった。馴染みの方々というのは、この源泉にて「ぬるま湯会」などと称して、いつも世間話に興じている方々なのである。

「ぬるま湯」内での世間話は、地域の美味しい飲食店の話題から子や孫の家族のこと、日常生活の様々な面を、特に意図するわけでもなく話すというのがよいところである。年齢的には60代から70代の方々で、僕にとっては人生の先をこの地域で歩いている方々という意味で学ぶことも多い。昨日もある方が「(老後でありながら)毎日が忙しいよ」と幸せそうな表情でしみじみと語っていた。毎年のようにスイカを畑で栽培しているのだが、今年はやや不作であるという。4月当初の低温が影響してしまったらしいが、それでも収穫できたものもあって明日はそれを食べるのだと云う。その方は「もういつ死んでもいい」などと語りながら、畑仕事その他の活動に忙しく、まさに生きる希望を見出しながら第二の人生を悠々自適に過ごしている。この「幸せ」この「余裕」これこそが、今の日本社会に欠けていることではないだろうか。数人の方々と話していれば、病気などの不安が話題になることもある。だが「裸の付き合い」で、その不安要素を晒け出せることが、温泉の効用を倍増させているような気もする。

みなさん元気で肌艶も良よし
宮崎のこの地でこその幸福感
地域の「大学教授」であるからこそ、巷間の方々のことばが身に沁みるのである。


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「わかりやすさ」の落とし穴

2018-06-15
何事も「わかりやすい」が求められる
表面的で厚みのないことばが氾濫する時代
「わかりにくい」ものを考えてこその人間なのでは・・・

担当講義の「中等国語教育研究」では、後半の教材ジャンルごとの指導案作成と模擬授業の実施時期となった。最近気になっているのは、こうした教育分野に端を発して社会全体が「わかりやすさ」だけを追求する傾向である。言い換えるとそれは表面化・単純化であり、物事を奥深く考えることを避けているのではないかと思ってしまう。特に「授業」の場合でも「わかりやすく」を指導者に求めるのだが、本来は「深く考え話しやすく聴きやすい」授業こそが求められるのではないだろうか。バラエティ番組が展開する「二者択一」的単線思考や、知識を遊び道具にした格付け思考などが、政治をはじめとして社会全体に蔓延しているのではないかと危惧するのである。

実際に僕が過去に勤務していた中学校・高等学校でも、「わかりやすさ」を求めるがあまり、板書のチョークの色を的確に使い分けるとか、見ただけで理解できるプリント作成などを、管理職が口にして求める状況に遭遇したことがある。だが果たしてそれは真の学びを醸成しようとしているのだろうか?と僕は大変疑問に思っていた。「類別」するというのは重要な思考過程であるが、指導者がチョークでそれを施し押し付ければ、学習者が自ら考えて「類別」する思考を奪う。散々とした事項を自ら整理してまとめることで、時系列やテーマごとに奥深く考えることができるわけで、その過程を「ワークシート」と称して指導者が与えてしまうとやはり、大切な思考過程を奪うことになりかねない。したがって僕はその時、こんな決意をした、敢えて「わかりにくい」授業をしようと。

「わかる」より「考えたくなる」授業
静止し押し付けるより自ら動きたくなる授業
知的であることが正常である社会であり続けるためにも。


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美味しい空気・時節の野菜

2018-06-14
自宅の庭でも大学キャンパスでも
そしていつもあるわけではない野菜の種類
思わず深呼吸と新鮮朝穫れゴールドラッシュ

東京へと帰った母とやりとりをしていると、宮崎は食がよかったと繰り返し口にする。その食事のお陰で体力もついたみたいだと、電話の声も元気である。確かに宮崎に移り住んでから、東京で本当に美味しいものに出会うことは少ない。もちろん食材を吟味して提供する馴染みのお店ならば、聊か話は別であるのだが。あくまで東京は経済的物流の中にある都市で、人が時節を感じて生きるような感性おいては不向きな場所である。よく「都会でないと生きられない」といった趣旨のことを口にする向きもあるが、「東京砂漠」などと演歌で揶揄的に表現された無味乾燥な土地は、生活上の幸福とはどういうことかと考えさせられることも多い。

宮崎に住んでいると、無条件に空気が美味しい。大学の研究棟から外に出た時も、自宅の庭に続く窓を開けた時も、東京から帰ってきて空港に降り立った時も、まずは深呼吸をしたくなるほどのよい香りの空気がある。近くにある山川や多くの草木に囲まれていることは、動物たる人間にも好影響を与えないわけはない。また懇意にする産直市場に野菜を買いに行くと、その時節に即したものしか置いていない。昨日も朝穫れの「ゴールドラッシュ」に出会って、思わずその実の引き締まった具合に惹きつけられた。とうもろこしがこの時節に旬であることなど、冷凍コーンを食している身にはまず思いも寄らないであろう。

気もよし水もよし
野菜よし果物よし
生きる上での幸福とは何かと考えてしまう。


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対話的に自己をみること

2018-06-13
自己存在の様々な理由
他者のみならず自己の内なる他者
様々な癖と新たなる価値づけを創る

東京在住の両親が、しばらく宮崎の自宅に滞在していた。大人になってそして研究者となってから、これほど長きにわたり一緒に生活するのは初めてかもしれない。すると自分の中に理由付けができていなかった単純な癖や思考の傾向が、実は遺伝子由来であったことに気づくことがある。物事への対応、例えば冷蔵庫の食品をどう扱うか、起床就寝前後に何をどのように行動するか、等々が遺伝子なのか家庭教育なのか、自分の内なるものが親の姿で外側において発見されることがあるものだ。

だが正直なところ、それはよい面ばかりではない。今まで研究者を目指すために、自らを戒めてきた言動の傾向を親のうちに発見することがある。他者と話す際に「あれ・それ」と指示語を極力使用しないとか、食後は(もちろん食休みののち)むしろ動いて眠くならないように血糖値の上昇を抑えるよう行動するなどは、親の姿を反面教師として自らが社会性の中で成長した面であることもわかった。何れにしても対話性いわば、双方向に様々な話を繰り返しお互いが自己のうちに新たなる価値付けを発見することが求められるのであろう。

ゼミでも刺激的な挑発が必要でもある
自らの不甲斐なさ・だらしなさを知ることから人は起ち上がる
今、こうして両親との時間が持てることそのものに感謝せねばなるまい。


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「音・声」を大切にすることー宮崎大学短歌会6月歌会その1

2018-06-12
教員研修で〈教室〉の音読を批判的に
学生短歌会で「声調」のよい歌を批評する
「音」と「声」の大切さを繰り返し考える

県の研修センターと大学教育協働開発センターが合同で実施する、教員研修会の講師を務めた。午前中は教育方法論を専門とする先生が、発問と教材解釈についてのワークショップを展開。いかにして限られた時間数で、「主体的で対話的」な学びを創り出すかを具体的な小学校教材に即して講じられた。そこで扱った教材を、午後は僕が担当して音声表現を創り立体化してゆき、さらに深い教材解釈を考えるという内容である。僕の担当部分では、まず谷川俊太郎さんの詩などを教材とした「ことばあそび」から、その後は俵万智さんの短歌を教材に寸劇を創るというワークショップへ。まずは「文字」ではなく「音・声」を大切にするという意識を十分に理解していただいた。午後の中心は、「大造じいさんとがん」を群読劇仕立てにして相互に教材への気づきを深めること。現場の先生方も、日常ではここまで深い教材研究を施すこともあるまい。教材の機微を「音・声」で起こしていく作業である。

研修を終えて夕刻からは、宮崎大学短歌会の月例歌会。9首の歌が出詠されいつもながら活発な議論がなされた。参加者からは様々な観点から批評が為されるが、「音・声」のよさに着目して票を入れたというコメントも目立つ。「絡めー解く(ほどく)」といった動詞の読み方に、「音」として惹きつけられる歌。「わっ」などの擬態語を繰り返すことで、「韻律」の良さが強調された歌。このような歌が互選票の上位に入った。また「・・・まして」などの言い回しを意図的に使用した歌。「・・・じゃなく」「おばちゃん」などの口語性を活かした歌など、やはり短歌は「音・声」が重要な構成要素だと考えさせられる。そうした意味では、歌会時にの「読み上げ」にもこだわっていくことを本会の主義としたいと、あらためて提唱したいと考えている。来月の月例歌会(7月9日)に関しては、本学附属図書館にて県立図書館の「没後90年 若山牧水 企画展」の移設パネル展を開催する記念としてイベント的に開催することも決定。「ご飯」を題詠として、その食べ物が食べたくなるようなイメージ豊かな歌を競詠することになった。併せて牧水に関しては、酒の歌を中心に好んだ飲食物の歌を発掘し、学生たちで鑑賞トークを実施しようということになった。

「音・声」の大切さを再認識する
Webも含めて「文字」に圧倒される時代
生身の声を大切に〈短歌〉も〈教室〉も豊かにありたい。


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