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講義3限目の「序破急」

2018-12-14
能のあらゆることにある「序破急」
昼食後の講義は学生も眠さとの闘い
やはり講義にも必要な「序破急」かな

食後に眠気を覚えるのは、何より昼食であろう。朝食はそこから活動開始、夕食ならむしろ眠りに向かうべき時間帯。だがあと半日の活動を残した昼食後の眠気に悩まされる方も多いのではないだろうか。本学の3限目は午後1時開始、1時間ある昼休みに学生は購買弁当を食しているようだ。するとまさしく講義が始まったあたりに、眠気が頂点に達する時間構成となる。いずれの時間帯でも意識はするが、特に3限目の「つかみ」は重要であると心得ている。さらに「つかみ」のみならず、眠気を「破る」活動的な内容が求められると日頃から痛感している。

「読む」行為というのは、一定の「波」が生じるゆえか眠気を誘発する。特に「声に出して読む」のを聞く行為は、睡眠誘発性に長ける。よく朗読会などでも妻に付き合いで来たと思しき夫が寝入って、いびきを立てて迷惑する場面に出くわしたのは1度や2度ではない。高校の「現代文」の授業も昼休み後の5限は、睡眠学習を主体的に実践している生徒も多い。などと考えつつ、後期担当の3限「国文学史」講義は、様々な工夫を凝らした活動を実践している。この日のテーマは「能」ゆえに『風姿花伝』の冒頭、いわゆる年齢別の「教育論」を学生たちに班別に読ませて、その年齢別の要点を紹介させた。講義にも自ずと「序破急」の流れが求められるというものだ。

「一足」出すにも「序破急」があり
「序」の中の「序破急」などと意識して
各段階で「共感」と「驚愕」を同居させる必要があろう。


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地方新聞の貴重な価値

2018-12-13
「牧水未発表歌」が一面トップ記事
そして、誤りとあれば一面下欄に訂正記事
大手新聞が失ってしまったメディアとしての矜持

昨日の小欄で取り上げた「牧水未発表歌」は、宮崎日日新聞の一面トップ記事として輝いた。僕ら短歌関係者にとっては大変重大なニュースであるが、果たして大手新聞社であればどれほどの大きさで扱うのだろうかなどと考えた。一面記事は遺墨の所有者遺族や県立図書館館長・伊藤一彦先生らの記者会見の模様と牧水の条幅の写真を大きなカラー版で記載してあった。一概に「地方新聞」と言っても、「文化」的ニュースを一面に据えるものが果たして全国でどれほどあるだろうか、とも思いを馳せてみた。「新聞」というメディアの価値が縮小化する社会において、まずは宮崎日日新聞の「文化尊重」の基本姿勢は、大きく讃えるべきものと思う。もちろん、その一面に価値を見出す宮崎県民を中心とする購読者の存在も忘れてはなるまい。

さらに特筆すべきは、昨日の小欄に記した経緯で県立図書館の翻字に誤りがあったことを、すぐさま昨日付(記事記載の翌日)で一面下欄に訂正記事を掲載したことには、深い感銘さえ覚えた。このことをFacebookに投稿すると、研究者としての先輩諸氏からも絶賛の言葉が寄せられた。「文化」の軽視とともに、その解読次元での訂正への価値付けが大手新聞では著しく低下しているのが実情であることを炙り出した形になった。「よだきい」などの古語が周圏論よろしく、宮崎で使用されているのは誠に意味あることのように思う。同じようにこの日本社会が失ったものを、「地方」が維持保存している場合は多い。明治150年の今年において、牧水が世に問うことは実に多面的であると言わざるを得ない。

「文化」のある地方を疲弊させること勿れ
「豊かさ」「幸福論」の議論も様々に行われている
牧水のごとく抗わず親和的に今を地方から見つめたい


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「かの太陽をこころとはせよ」ー牧水未発表歌

2018-12-12
「降ればかくれ曇ればひそみ晴れて照る
 かの太陽をこころとはせよ
 大馬鹿になる法を詠めと乞はれて 牧水」

この日、宮崎日日新聞一面見出しは「牧水の未発表歌」であった。前日に宮崎県立図書館が記者発表したもので、宮崎市内に在住の元医師が収集していた条幅の中に全集にも収められていない未発表歌が書かれていた。その収蔵品を元医師遺族が県立図書館に寄贈したことで発見された、という経緯である。宮崎日日新聞の記事によると、伊藤一彦先生は「おおらかで、ありのままという牧水の人生観がよく出た歌。代表歌に入れたい価値ある一首。」と評価している。未発表歌の書かれた条幅は、牧水の長男・旅人さんが24年前に「恐らく大正十一年頃の書」と鑑定していたが、今回は旅人さんのご長女・榎本篁子さん(沼津市若山牧水記念文学館館長)が牧水の遺墨であると確認された。

条幅を翻字すると冒頭のように短歌二行書、三行目に左注(詞書)が付されており、その下に「牧水」の落款がある。「おおらか」なのは歌の内容のみならず、牧水様とも云える連綿少なく一文字一文字がわかりやすく書かれている。新聞発表では、左注の末尾が「言はれて」と翻字されていたが、一面に掲載された条幅の写真を見ると「乞はれて」ではないかと朝から気になった。実物を観て確かめようと思いつつ、内容的に牧水が他者に「乞はれて」歌を書いたという状況を考えると、大正当時の表現としては「言はれて」は馴染まず、やはり「乞はれて」が穏当である。さらには漢字語幹以下の仮名遣いも「〜はれて」と共通する。などと研究室で判断し、午前中のうちに伊藤一彦先生にお電話を差し上げた。伊藤先生もやはりそうではないかと得心されて、すぐさま県立図書館へ連絡された。その後、県立図書館館長から僕の元にメールが届き、メディアへの訂正を入れるという旨が報告されたということもあった。

太陽という自然の根源のこころ
「大馬鹿になる法」ただ素朴に自然と親和的に
日向国出身の牧水による「太陽」を素材とする歌というのも代表歌たる価値であろう。


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半身浴で生気を取り戻す

2018-12-11
腹・腰から下半身を湯槽に
じっくり20分以上次第に汗が
湯冷めもせず温かな身体のまま寝床へ

先週末から出張その他で、やや身体に疲労が溜まっているのを実感した。一通りの朝の習慣をこなして研究室に出向くが、眠気と身体の重さが思考を妨げるような感覚だ。やはり適切な休養が一週間の中では必要なのだろう。こうした際に、まず実行するのが栄養補給である。馴染みの洋食店へ行き、ポークステーキをいただく。その栄養効果は抜群で、食した直後から活力が湧いてくるのである。誠に栄養補給は大切であり、身体の欲しいものを身体の良きように食してこそ、健康を保つことができる。

食事後はすぐさま公共温泉へ。毎度、馴染みの顔ぶれが浴場内にいらして、挨拶を交わすとなぜか嬉しくなってくる。その馴染みの方々の中で、最近は「半身浴」が話題になっている。温泉には大浴槽と32度程度の源泉ぬるま湯、さらには歩行浴槽とサウナが完備している。サウナ後などに32度にしばし浸かって世間話に興じることもあるが、ここのところの冷え込みでやや寒く、ぬるま湯での時間が自ずと短縮されている。そこで大浴槽の段差に腰を掛けての「半身浴」が、望ましいということになった。概ね20分長い人は30分と云うが、サウナ並みに汗が滲みなかなかの効用である。老廃物も出し切り代謝も良好となるのだろう、帰宅後の自らの顔に生気が戻っていたことに驚くほどであった。

何事も100%にあらず
冷やしてはいけない下半身
悲鳴をあげる身体を確実にケアしてあげたいものだ。


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「牧水が愛したふるさと」トークイベントin延岡

2018-12-10
2020国民文化祭・障害者芸術文化祭みやざきプレイベント
第二のふるさと延岡で女性歌人たちが語る牧水
旅と恋と愛と家族と

先週末から3日間で九州内800Kmほどの移動距離をこなした。金曜日朝から佐賀へ出張、一夜明けて土曜日に宮崎へ戻り、本学附属図書館にて「地域定着推進」を旨とする担当科目対面講義を3コマ。講義内容からして牧水の短歌から「ふるさとみやざき」を考えるものとしたが、さらに日曜になって標題のトークイベントを拝聴しに県北・延岡まで赴いた。よって土日の小欄は休ませていただいた。外に出るとわかる「ふるさと」のありがたさ。対面講義で学生たちと、そして豪華女性歌人のみなさんのトークで、「みやざき」を考える機会ともなった。

「おもひやるかのうす青き峡(かひ)のおくにわれのうまれし朝のさびしさ」(『路上』)

文学を志し東京に出た牧水が、常に意識していた「ふるさと」東郷町坪谷「青き峡のおく」。誰しも「ふるさと」はあるのだが、個々にその記憶・感覚は違うものである。栗木京子さんは、上記の歌から「命の根源に見るさびしさ」があると語る。人は独りで生まれ、独りで去り逝く、その無常な人生のあり様を見つめる牧水。ただ場所や物質的な「ふるさと」ではなく、こころの来し方行く末を見つめる「ふるさと」の普遍性。小島ゆかりさんは、「さびしさの原形の孤独」と表現された。

「母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ」(『海の聲』)

「家族」があってこその「ふるさと」、初句切れのよい歌も多いと小島ゆかりさん。家族のいる場所を「ふるさと」と思うものであるが、牧水は「家族を超えて受け止める」スケールの大きさを読むのは俵万智さん。そしてやはり「ふるさと」に抱く大きな感情は、やはり「母」ということになろう。

「われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの歯もなき」(『みなかみ』)

自然な母親への気持ちがあり、愛情深く強い人である母への憧憬も読めると米川千嘉子さん。「人間の精神の複雑な痛み」まさに誰しもが経験する親子関係の複雑さ・微妙さ。親は子に、子は親に、何でも言える安心感の大切さ。「母とは冷静さを失う過剰なもの、ゆえに子育てもできる」と小島ゆかりさん。

「着換すと吾子を裸体(はだか)に朝床に立たせてしばし撫で讃ふるも」(『朝の歌』)

牧水が家族を詠んだ歌、大口玲子さんは「子どもがただいればいい、子育ての原点」を詠んだ歌と評する。しかし「子煩悩だけど育メンではない」と俵万智さん。妻や子に対して「愛とは自分が変われること」と普遍的な大口さんの指摘も印象深かった。

標題トークで気になったところを断片的に覚書とした。トーク前の伊藤一彦先生の講演では、「牧水には四つのふるさとがあった」と指摘された。一つは生まれ育った「坪谷(日向市東郷町)」、二つ目に多感な10代を過ごした「延岡」、三つ目は晩年の8年間を暮らした「沼津」、そして四つ目は「旅先すべて」であると。接する人々すべてに親しみや愛情を覚え、眼前の人すべてに「ふるさと」を見出す、まさに牧水は「インターナショナル」な人物であったと評された。女性歌人のトークから補足するならば、四つ目は「妻・喜志子」とも。もちろん三つ目の「沼津」と「喜志子」が重なる部分もあろう。人生という旅をともに歩き、歌人・牧水があるのは、紛れもなく「喜志子」の愛情の賜物である。


土曜日の対面講義で学生たちとも語り合った
「ふるさと」とは何か?
時代や世代を超えて、人が生きる上での根源が「ふるさと」なのだろう。


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作ってみてから読むー活動する文学史

2018-12-07
連歌を創る・読む
体験によって深く読む意欲が湧く
知識を自ら求めるための活動型学習

講義型が一概に悪いという訳ではない。嘗て僕自身が受けた講義の中でも、担当の先生の語りが僕ら受講者の内面との対話を促し、こころを触発して動かすことを求めるようなものがあった。その講義を受けて「歌を創りたくなる」「小説が書きたくなる」「古典作品が読みたくなる」所謂”名講義”を、大学学部時代に経験した。講義が終わってすぐに図書館(当時の学部学生読書室)に駆け込んで本を貪るように読んだあの頃、やはり母校の大学の講義は素晴らしいと思った。一方で、まったく受講する僕らとの対話関係とはほど遠く、ただただ「独り舞台」で時間を浪費する講義がなかった訳でもない。

今年度から担当する「文学史講義(中近世)」にて、学生に連歌を読んで紹介するという活動を実践した。学生たちは班ごとに概ね8句ずつ、その付け合いの妙を他の班の学生に解説するというものである。前半約40分の時間内で、学生たちが一生懸命に連歌を読む姿が印象的であった。昼食後の講義でありながら、寝るものは皆無。その意欲を醸成したのは、活動型とともに前週の創作活動にある。小欄でも紹介したように学生たちによる連歌会を行い約30韻の連歌が創作された。この日も教室に行くなり「今日は連歌を創らないのですか?」と言う学生がいて、大変嬉しい気分になった。古典を読む意欲は、自らその対象を現代風でありながら創ることによって醸成される。僕が嘗て触発された名講義には足元にも及ばないが、それだけに新たな大学教育法が今求められていると思う。

活動後に知識を整理する
和歌から連歌そして俳諧へ
中近世の歌の流れを自らも再認識している。


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歩く生きるリズムー牧水の歌作と身体

2018-12-06
朝30分のウォーキング
身体に活力が湧いてくる
牧水も歩くことで歌作が・・・

師走ながら暖かい日々、「時雨」と呼べるか天候がすぐれない。気圧や湿気の関係もあろうしやや身体のリズムも安定しない感じである。朝方の雨間をぬって、習慣となった30分間のウォーキングに出向く。歩を刻むという単純な動きであるが、大地を踏みしめ自らの鼓動とこの地球のリズムを調律するような行為に最近は思えてくる。僕たちはこの天体の環境の中で、様々な偶然による幸運によって「生かされて」いる。だが「文明」という装置が、いつしかその身体性を剥奪し「動物」としての本能とは反した方向に人間を導いているかのようだ。歩かない・喋らない・考えない「人間」、活動不足は恐ろしきツケを身体にもたらすだろう。

若山牧水が短歌のできない折のスランプ脱出法として挙げるのが、「散歩」「風呂」「酒」(「読書・音読も入れている)の三種である。身体を前に進め、温めて、血中内の流れを円滑にする。3番目の「酒」に関しては、血流促進に止まらず最終的に牧水の命を奪ったのは有名であるが、牧水は身体と自然との親和性を常に保とうとしていた歌人である。「旅」なればその要素として前述の三種が揃うわけで、好条件で歌作が促されることになる。先月に顕彰全国大会で訪れた「みなかみ町」では、牧水の紀行文を読むと歌作と身体の関係性が読み取れて実に興味を惹かれる。まさに歩いて・湯に浸かり・杯を傾けて、牧水は歌を作る。そこに彼自身が求めていた、自然のリズムが湧き上がるからであろう。

歩みと鼓動
そして脳内の活性化
この地球(ほし)の大地で生きている自らの身体を意識していたい。


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青春は何歳までかー宮崎大学短歌会12月歌会

2018-12-05
大学生の青春論
「部活・恋・情熱・・・」
真っ只中ゆえに思いの外青春は短いと思うのか?

宮大短歌会12月歌会は自由題、そして今月開催の「マスターズ短歌甲子園」への準備。新たに2名の参加者を迎え、新鮮な気分で開催された。互選5票を獲得した歌が2首あったが、その対話内容は実に面白かった。「青春は何歳までか」と問う歌に対して、学生たちの具体的な年齢提示が為される。「20歳まで」「22歳まで」・・・僕自身の感覚からすると意外にその「期限」が浅いのに驚いた。「部活や恋」に熱中する「高校時代」あたりまでを「青春」と見ている感覚がある。僕などはやはり自由を獲得できる「大学時代」や「社会人創成期」こそが「青春」真っ只中と思うのであるが。恐らくは、現状の自分から見て羨望の「若さ」を「青春」と誰しもが思うのではないか。現状で「青春」であるからこそ、自らの年齢より引き下げて措定できるような気もした。

医学部の学生たちの弁が、とりわけ興味深かった。浪人を繰り返して入学したり、既に他大学学部や社会人を経験してから医学部に入学してきた比較的年齢の高い学生が、いつの時代もいるものだ。仮に30歳を超えていても彼らは「青春」を謳歌しているのだと、「同級生」たる学生たちは言う。僕自身の経験からすると、学部卒で教員として就職してもなお「青春」は継続していた感覚を持っている。高校生の「青春」に、日常から付き合っていたからかもしれない。そしてまさに30歳を超えて大学院に入学して「学割」の使用できる30代を過ごした。今にして思えば、それはまさに「青春」であった。などと考えると、「青春」はまったく実年齢ではない。「何年生きたか」ではなくて「どう生きたか」なのである。当該短歌も「何歳まではどうでもいい」といった趣旨の歌で、「青春」真っ只中の学生が詠う新鮮さがあった。

「足を組む」のが「オトナ」の構え?
そういえば「格好つけて」いた大学生の頃を思い出す
青春の学生たちと短歌に興じるまさに「青春」をありがとう。


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平成30年度第3回ひとり紅白歌合戦ー桑田佳祐さんAAA活動

2018-12-04
2008年第1回はライブで
今年は宮崎でライブビューイング
Act Against AIDS 啓発活動

2008年12月、偶々発売日に家で過ごすことができた僕は、午前10時の発売と同時にPC画面をクリックし幸運にも競争率の高いチケットを2枚引き当てた。長年、桑田ファンであった親友と2人でパシフィコ横浜へ行き、「ひとり紅白」の長時間ライブに酔い痴れたことを鮮明に記憶している。あれから10年、1993年12月1日「世界エイズデー」に武道館で始まった”AAA”コンサートも26年、2020年7月でこの啓発活動も終了するらしく、2008のあとは2013、そして今年開催となった「ひとり紅白」も今回で完結になると云う。2008年の興奮未だ身体内で冷めやらぬ中、今年は宮崎のセントラルシネマでライブビューイングにより、この歴史的なライブを観ることになった。桑田さんの長年のチャリティー活動は、音楽家として大変に意義深いものである。音楽の社会でのちから、その啓発性については「文学」も参考にすべきものがあるように思う。

師走になって俄然、「平成最後」という文句が巷間に踊るようになった。年賀状を準備すれば「平成」と表記できるものはこれで最後、来年の手帳には未発表の新元号を自らの手で書き込むことになる。昭和・平成、そして・・・と僕自身も3代にわたる元号を生きることになる。幼少の頃に祖母が明治生まれで、大正・昭和と生きて来たと知った時には、ある種の「歴史」を感じ取った。だが今や僕もそんな「歴史」を跨いだ生き方をしていることに聊かの驚きを覚える。さて、「ひとり紅白」の意義は、昭和・平成の大衆音楽の素晴らしさを再認識する音楽性に長けたものでもある。今回は特に「平成」の歌謡史を辿る選曲が多かった。それ即ち、自分自身の30年間の生き方を遡及する記憶の棚の整理のような感覚があった。それは大切に保存したい記憶もあれば、凍結して決して解凍したくないものもある。桑田さんの57曲という離れ業に酔い痴れつつ、何度か涙腺が緩む時があった。”YMCA”とともに「百万年の幸せ」(「ちびまる子ちゃん」エンディングテーマ」)の2曲は特に、西城さん・さくらさんの追悼の意を込めて時代の区切りを深く意識させた。

桑田佳祐の持つ社会的音楽性の深み
昭和の懐かしさが彼の音楽の中にいつも輝く
平成30年12月2日、このライブビューイングを僕はいつまでも忘れないだろう。


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対話するよみー第330回心の花宮崎歌会

2018-12-03
「コンビニ袋」は「レジ袋」では
「深々」は「ふかぶか」それとも「しんしん」
「喪中の葉書」が「流れ着く」という喩は軽いのか?

今年も早、最後の心の花宮崎歌会となった。この日の投歌数は「46首」に及び、50に迫る勢いで新たな会員の方の参加や見学も続いている。東京歌会には実数ではもちろん及ばないが、人口密度からしたら心の花歌会において、全国で一番の都道府県民参加率であるのは間違いないであろう。宮崎大学短歌会の学生たちや30代ぐらいまでの方の新たな参加もあって、様々な世代の歌が読めるという領域・世界観の拡大という意味でも面白さを増している現状がある。歌会冒頭の「3首鑑賞」は、宮崎大学短歌会の1名が担当し学生短歌会の歌を3首取り上げた。1首の後に「なんてね」を付して解釈するという感覚や「すべての内容が空想」という歌の読み方が提起され、「即座にはわからない」若い人の歌の在り処が話題となった。「いろはす」など商品名の使用などを含めて、世代の捉え方は大きく動いているのがわかる。伊藤一彦先生からは、「今回の牧水賞受賞者である穂村弘さんの歌も、最初はわからなかった。だが歌集で再編成されたり読み手が読み方を感得すると大変よい歌となる。」と云った歌の提示と読み手との関係について指摘があった。

さて、今年最後の歌会は、僕が司会進行を担当であった。歌数も多いゆえに高点歌からの批評となるが、それゆえに様々な「よみ」を対話的に交流させたいという思いを強く持って臨む。「高点歌は票によって評価はされているゆえ、修正点への指摘も存分にすべき。」という伊藤先生の方針もあり、様々な「よみ」の方向性が会員の批評として求められているように思う。結句で「・・・と思う」と表現されているのはどうか?「毛虫」が「奔る」という表現は描写として妥当かどうか?など具体的な表現の機微に入り込む批評が提起されていく。互選票を入れるということは、その歌の情景が見えたのみにあらず、歌の核心たる「心の揺れ」に共感と反発を持つ行為であるようにも思われる。「いい歌でした」というのは票を入れる行為で示しているゆえ、「こうすればさらに心の揺れが表現される」という観点からの指摘こそ、歌会全体の学びが深まることになるだろう。冒頭に示した3項目も、歌会の中で活発に議論された具体例である。

共感すれば指摘せよ
発言を繰り返し自らのよみを定めていく
短歌の対話性の現場が歌会である


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