「なぜ?」を抱きて読み続ける

2018-04-20
『源氏物語』を扱う講義
冒頭で語られる様々な「なぜ?」
わからなければ読み進められない訳ではない

講義も2週目で、内容も本格的にテキストに入り始めた。木曜日は2年生を対象とする「国文学講義III」があり、『源氏物語』を扱っている。もちろんこの日は、冒頭についてということになるのだが、学生に聞いてみるとほとんどが高等学校の古典で学習済であるようだ。「桐壺」と「若紫」というのが高等学校教科書採録個所としては、ほぼ『源氏』の定番であるといってよい。そこで学生たちがどのくらいこの冒頭部分の「なぜ?」に見解を持てるかという意味もあって問いを発し、「個人→少人数班」と段階を追って考え発表する形式で講義を進めた。

大学で身につけさせたいことは、「読む」=「考える」という姿勢である。高等学校まではどうしても「答えを待つ」ことが避けられず「読み流す」ようになってしまい、立ち止まって自ら考える姿勢はつきにくい。今「立ち止まって」と記したが、「立ち止まる」と同時に「なぜ?を抱きながら読み続ける」姿勢も求められる。周知のように『源氏物語』は巧妙なプロット構造であるゆえ、読み進めればその「なぜ?」が次第に紐解かれていくテキストでもある。この日の講義で学生が考えたことが、これからの講義で読み進めていくことで解明されていく。その期待感を持つだけでも、大変意義のある内容となったと自負している。

「いづれの御時にか」?
中宮が不在であるのは?
「なぜ?」一人の更衣だけが寵愛されたのか?


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いつも「同じ」であるという期待

2018-04-19
大谷翔平、投手として先発
2イニング4安打3失点で降板
こんなときもあるよね

もう15年ぐらい、ボストンレッドソックスの熱狂的ファンである。それゆえに大谷翔平が先発するこの日の試合結果には、微妙な思いを抱かざるを得なかった。日本のメディアは、こぞって大谷礼讃を派手にぶち上げる。その報道に対して、「アンチ」的な気分で接しなければならないからだ。いやむしろ現状の日本社会を考えたとき、僕のように”へそ曲がり”の存在こそが必要なのではないかと思ったりもする。嘗てボストンのフェンウェィパークで観戦したとき、偶々、松井秀喜さんが所属するアスレチックスとの対戦であった。日本人のご婦人二人が話しかけて来たので、あれこれ球場の名物などを講釈申し上げた。するとご婦人方は「なぜ松井さんを応援しないのか?(敵方チームのボストンを応援するのか?)」と僕に疑問を呈した。どうやら「日本人なら日本人選手を応援するのが常識」という感覚を抱かれているようであった。僕は迷わず「信念をもってボストンを愛してますから」と答えておいた。

大谷が先発するとなると、前回登板のようにまた「パーフェクト」に近い投球をするのではという期待感だけの「空気」が高まっているように思う。だがそれは、メジャーを十分に熟知した上での期待ではない。確かにメジャー初年度の滑り出しとして、大谷の適応力は群を抜いている。その大谷が挑戦したいと思い続けた偉大な野球の次元が、メジャーにはあると思う。むしろ大谷が本当にメジャーで1流になるためには、まだまだ洗礼たる困難が必要であるはずだ。現状のMLB全球団でで開幕から勝率1位のレッドソックスは、先頭打者ベッツの本塁打からして容赦なく大谷に襲いかかった。試合全体で6本塁打10得点、これを見せつけたことが大谷をさらなる次元に掻き立てるだろう。メディアを始めとする日本社会は、「(選手は)いつも同じように期待できるもの」と捉えがちだ。大谷自身がインタビューで語っていたが、生身の選手は「いつも同じではない」のである。この社会的期待が、これまで多くのスポーツ選手を潰してきた。もちろんこれは、日本社会の歴史的「悲劇」の同線上にある。

愛すべきは批評せよ
まだ真のメジャー選手になっていない大谷
日本人選手だけが通訳を介してインタビューに応じるのも僕には滑稽に見える。


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逞しき新人来たりー宮崎大学短歌会新歓の巻

2018-04-18
新入会2名を加えての歌会
2名とも同数で互選票の首位へ
新たな個性が加わり2年目の始動

新年度が始まり約2週間が経過した。大学全体の新歓祭、そして短歌会独自の新歓歌会も開催されてまずは2名の新入会員を獲得できた。僕自身が所用で参加できなかった先日の日曜日に催された新歓歌会では、新人が互選票首位であったと聞いて実際の歌を読むのが楽しみになっていた。この日は定例の歌会、新学期でまだ講義予定に心身が慣れていないこともあり、みんな慌ただしい中での参加という雰囲気であった。それでも出詠12首、遠方の熊本からも毎度1首の歌が出詠されている。創設当初はせいぜい6首ぐらいで歌会を実施していたこともあったので、詠草もなかなか読み応えがあるものになった。何より新たな個性が歌になって提出されているのは嬉しい。

「十五時」という時間を詠む意味は?そこで起こった「偶然」にどう向き合うか、実に興味深い歌の読みから歌会が幕開け。また「桃色のハサミとノリ」という小道具には、様々な読みが提案されて最初からなかなか活発な意見が飛び交った。具体的な時間設定というのは、1日という集約された時間意識を際立てて、人生の時間を感じさせる。「まだ何かができそう、でもしなければ終わってしまう」という微妙な期待感と切迫感を併せ持つ「十五時」というのは、なかなか響く設定だ。「桃色」は「恋」の色、またジェンダーな発想ならば「女子」を連想させる。「ハサミとノリ」という組み合わせは、高校文化祭準備の作業感など学校空間を存分に場面として想像させ、大変に有効であっただろう。毎度小欄では、歌そのものを掲出することを控えているが、気になった批評の論点を覚書としておきたい。

宮崎大学短歌会次回予定
5月2日(水)18:30〜(宮崎大学教育学部4階中村研究室にて)
特別ゲストを東京からお招きして開催します、お楽しみに!


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初恋はいつのことかと

2018-04-17
「あなたの初恋はいつですか?」
概ね中学校初期から小学校高学年ぐらい
思いと行動の程度にも拠るものとして・・・

「あなたの初恋はいつ?」と問われたら、どう答えますか?そんなことを講義の学生に問い掛けてみた。概ね冒頭に記したようなあたりに挙手が集中したが、みなさんはいかがであろうか?僕自身の経験からして「初恋」にもいくつかの段階的種類があって、一概に「いつ」と定められないような感覚がある。実際に何らかの手段で告白をした決断と行動経験、何となく相互に可能性に気付きながらもそのままになった淡い思いのみの経験、憧れを抱きながら先輩と後輩の関係以上にはなれなかった経験、そしてまた幼児期に保育士の先生に母性を求めるような経験、等々そのうちのどれを、果たして「初恋」と呼ぼうかと考えてしまう。

国文学講義で『伊勢物語』初段の講読をした。125段構成となっている本の最終段と併せて読むことで、「男の物語」として「人生」が「恋」と「死」によって枠組みが構成されていることが知れる。人は例外なく「死」の運命を背負っているが、日常生活ではそれを忘れようとしている。「独りで生まれ出で、独りで死途の道へ旅立つ」ゆえに、命ある今は「恋」をしてともに歩める最良の人を求める。孤独への飽くなき抵抗、そんな面が「恋」にはあるのではないか。前述した「初恋」の程度比較は僕自身の体験に基づくものだが、それが余計に「生きる」上での恋の意味を炙り出すようにも思う。男が即興で狩衣の裾に書いて「いとなまめいたる女はらから」に贈った歌、「しのぶの乱れ」という和歌表現こそが人生に艶を与える始発点でもある。

「かくいちはやきみやびをなむしける」
「恋」は「死」を意識した人生の大きなテーマ
生きている以上「恋」の心情は常にあり、である。


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愛と幸せそのためにあり

2018-04-16
「グレイテストショーマン」
「愛と幸せ」のために今を生きる
「これが私」と「いまここから」

生きる幸せとは何か?我々はいつしか日常の生活に紛れ込み、この世に生まれ出づるわけも、いつかは死へと旅立たねばならないことも忘れてしまっている。ここのところの様々な出来事、実家の転居や親戚との語らい、そして様々に読んでいるものからそんなことを考えさせられている。母の従姉妹という存在、その励ましや支えがなければ僕自身がこの世に存在していなかったのではないかと、あらためて宴席をともにして知らされた。知らなければ知らないままに生き抜いてしまうが、知る機会を得れば「生」をこの世にどのように活かそうかという意識も高まる。遺伝子に関連する集いというのが、最近は大変貴重な機会になることを感じている。

映画「グレイテストショーマン」を観たいと思いつつ、なかなか時間が取れていなかったが、ようやくこの日はレイトショーを観に行くことができた。休日の夜という時間帯からか「応援上映」なる設定で、観客の「拍手」「発声」や「歌声」などが許されている。ミュージカル映画ゆえ曲部分の字幕は英語のままに、カラオケのように「今ここ」と歌っている箇所が画面上に示される。それでも鑑賞にそう悪影響があるわけでもなく、映画を楽しむことができた。「これがわたし」と言えるものは何か?出自・社会的身分・財力・身体的個性・個人能力等々、この社会で生きるのは平等を求める標語が躍るゆえに平等ではない。ミュージカルなりに筋の展開は粗い部分もあるが、生きる上で大切なのは「愛と幸せ」なのではないかと音楽に乗って語りかけられるような気分になった。何事も「いまここ」から始まるのである。

向き合う親子・親戚
出逢いの縁と生きることの重み
「愛と幸せ」あらためて文学の講義で学生と語り合いたくなった。


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理髪は文化にほかならず

2018-04-15
19歳から通い続ける理髪店
髪が伸びる間の老廃をリセット
いままでもまたこれからも

気にいると「トコトン」という感覚がある。ただ単に「好き」というよりも、のめり込んで嗜好する行動傾向である。そのように自己を省みてみると、どうやら母も同じような行動傾向がある。大人になるにつれて、自分自身の行動パターンが実はDNAに依存し左右されているのではないかという発見が多くなる。いまDNAと記したが、もしかすると生育環境の中で親によって植えつけられた傾向なのかもしれない。否、「どちらか」という問題ではなく、遺伝子と生育環境が混沌と融合して「今」の己が作り上げられているように思われる。その「今」こそが、生きる「文化」の継承である。

頭髪を形作るのも一つの「文化」であるとすれば、携わってくれる理髪者にも十分なこだわりがある。散髪時の感覚というのは僕にとって、どこか「ヨガ」などにも通じるものがあって、1〜2ヶ月の間に堆積したストレスや腐敗物を新たなものに更新してくれる。「切り落とす」という物理的行為が、こころの中でも同時に進行するような感覚である。よって、理髪者はだれでもよいわけではない。僕がまだ大学学部2年生だったころ、実家の近所に新たな理髪店が開店した。それまでは親の仕事関係で懇意にする街の店に行っていたが、新たなる自分になりたくてその新規開店した店に勇気を持って出向いた。総大将のような「先生」と呼ばれる人の鋏さばきには、聊かの「感動」さえ覚えた。その僕が散髪されている様子を、集中して観察する熱い視線があった。その店に修行に入っていた若い理髪師、その視線に惚れ込んでから僕は一度たりとも浮気をしたことがないのである。まさに「トコトン」なのである。

また生まれ変われる感覚
季節と状況に合わせて納得の髪型を仕上げてくれる
大切にしたい僕自身の「文化」の一つ。


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「まだ見ぬ人を恋ふるものとは」考

2018-04-14
「いにしへはありもやしけむ今ぞ知る・・・」
恋のやりとりの性急さと結果を急ぐこころ
滞空時間のある恋心のやりとりを古典に学ぶ

何事も結果ばかりを性急に求められる世の中である。過程や段階を無視してただただ、結論だけが急いで求められている。今年は明治維新150年という節目の年であるが、この近現代の病理そのものをまさに「病理」なのだと僕たちは自覚すべきときにあるのだろう。昨今は「対面性」を嫌悪し直接的な批評を受けるのを回避してしまう若者が多いと聞くが、SNSを始めとする交流手段の変化がさらなる「病理」を産み出そうとしている。だがしかし、あくまで人が生きるのは相手との対峙のみから始まるのではないのだろうか。自らの考えそのものを、相手がどのように反応するいかという「鏡」に映さなければ、何事も理解や把握はできないのである。

冒頭に記したのは『伊勢物語』第111段の和歌の一節、「まだ見ぬ人を恋ふる」ということはあり得るのであろうかと考えさせられる。だが考えてみれば、このSNS全盛の世の中こそ、そうした状況がより起こりやすいとも言えるであろう。時空を超えて会えるはずもない人同士が、いとも簡単に交流できる。その架空の交際は、果たして現実とどれだけの開きがあるのだろう。翻って、古代において交信が物理的に手間のかかった頃、その時間的余裕や隙間にこそ恋の趣きがあったのではないだろうか。いままさに性急さを余裕に代えて、想像を存分に楽しむ時間に興じたいとも思ったりする。

新しい時代だからこその「いにしへ」
自らの時間意識を省みて思うこと
想像の行き着く先にこそ大きな夢がある


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「どっしりした構え」は適応力

2018-04-13
大谷翔平に対するイチローのコメント
「どっしりした構え」には様々な意味があろう
何事も強引や躍起よりはこの余裕を持ちたい

球聖と呼ばれるベーブ・ルース以来の選手と辛口の米国メディアが注目するほど、大谷翔平の評価は鰻登りである。メジャーへ移籍してすぐさまこのような結果を出した選手も、イチロー以来かもしれない。シーズン前のオープン戦でメジャーの投手にタイミングが合わないと判断すれば、足を上げる打撃フォームから摺り足のフォームへと変えた。またよく日本のメディアが適応しづらい要因として挙げる「滑るボール」など、まったく問題外のように直球も変化球のコントロールもよろしくボールの縫い目に指がかかっている印象である。さらには多くの日本人メジャー移籍選手が、髭をたくわえるなど風貌を変えるものだが、大谷はまったくといっていいほど日本にいる時と見た目にも変化がない。つまり自分のペースでまさに「どっしり」と米国で野球をやっているのだ。

力が上の世界に入り込む際というのは、なかなか「己」を保つことは難しい。往々にして強引な力技に走ったり、地に足がつかないような躍起になった言動が目立つのが凡人であろう。「熱さ」ももちろん大切ではあるが、それが「力み」になっては何の意味もない。むしろ「冷静」にいかにじっくり構えて、一つ一つの状況を味わえるかという余裕が求められるように思う。たぶんこれは「教員」であれ、多くの社会人としても必要な「構え」ではないだろうか。また日常の食事でもただ躍起になって食べるのではなく、素材を味わい味付けに適した「食べ方」をすべきであろう。酒好きで有名な若山牧水も「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかにのむべかりけれ」(『路上』)と詠んでいる。酒呑みであればこそ「歯にしみとほる」ほど、「どっしりした構え」が必然と言えるのだ。

適応力
様々な角度からの視野
「どっしりした構え」実は容易なことではない。


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「覚える暗記する」を考える

2018-04-12
「覚えらえない」
「丸暗記」はすぐに抜けてしまう
自らが使えるものにするために・・・

大学1年生には様々な機会を通して言っている、「覚える暗記する」から「考える疑う」に移行せよと。もちろん高校までの段階で、「考える疑う」思考の姿勢が身についている者もいないわけではない。だが大学入試対策の影響か、多くの者が「一つの正解を覚えていることから出す」という思考であることが多い。僕自身が高校現職教員だった頃にも、定期試験についてクラスの生徒たちと話すと、「覚えられない」という悩みを吐露する者が圧倒的に多かった。試験つまり「学力」を「覚える暗記する」と明らかに捉えているのだ。それゆえに大学1年生に文学史や歴史などを問いかけると、多くが「忘れました」という結果となり「教育段階の分断」のような虚しさを感じざるを得ない。

ジムのストレッチマット上で、親しい方から質問された。親戚の子どもさん(小学生)が数分間の漫才ネタなど聞いた話を克明に覚えて話せるのだが、それが良いことなのか?どう能力を伸ばしたらよいのか?という質問だった。たぶんその子は、「文字を覚えよう」としているわけではなく、他者の話を映像のように想像しながら脳裏に刻みつけているのではないかと答えた。例えば大人でも、観た映画の粗筋はたいていは他者に話すことができるだろう。この子どもさんは「文字」ではなく「声」で想像する力があるのだ。それは比較的、幼児の際に培われる能力だが、「文字言語」の学習が進むにつれてむしろ退化してしまう。中高生が「覚えられない」というのは、このあたりに原因があるのではないか。したがって、この子どもさんへのアドバイスとして、単語などでも、「音声」(発声や聴解)を使って「物語」的なストーリー(場面)で頭に刻むようにしたらいかがでしょうという提案を申し上げた。

大学講義としての「国文学史」をどうするか?
「意味」に偏った「文字」のみの机上の学習
「音」や「イメージ(場面)」を考えるのもまた短歌なのである。


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「文字を読まない」???音読って

2018-04-11
実感を伴う声
頽廃的に実効性のない教室の音読
これ一つにも国語教育の重要な問題点が・・・

今月号『教育科学 国語教育(4月号)』(明治図書)の第二特集(特集は「授業開き」)が「音読・朗読・群読」であり、当該特集の「提言」を執筆させていただいた。題して「文字を読まない音読・朗読・暗誦」とした。はて?そんなことがあり得るのかと疑問を抱く向きも多いと思うが、もちろん皮肉たっぷりな表題であるとご理解いただきたい。だが「文字を読まない」でもできるというのが僕自身の実感であり、「読んでいるうちは駄目」というのが「朗読」の真髄でもあろう。「暗誦」などはもとより「文字を読まない」と反論されそうだが、「文字を読む」ごとく無機質に内容との連関を持たずに覚え込まされる暗誦ほど、学習者にとって苦痛で意味のないものはない。(ただ「素読」のようにその場では意味がないように見えても、後の学習段階で活かすことができれば意義深い過程となることをお断りしておく。)

宮崎で懇意にするフリーアナウンサーの方が、「語り」の公演をされていて時間が許す限り興味深く拝聴している。彼女の弁を借りるならば「『読んでしまう』と作品が聴き手に伝わらない」のだそうだ。それゆえに短編小説でも丸々と身体化して、公演では何も見ずに作品を諳んじる。まさに「語り部」の営為なのである。この日は新年度最初のゼミで、この「提言」をもとに議論を展開した。予想はしていたが、「音読」の問題を考えると多くの「国語教育」上の問題が浮き彫りになる。過去の「国語授業」そのものを批判的に見て、「音読」の意義を考えるとかなり目的を伴わない活動を発見することができる。まず自己の教育経験を批評的に相対化する契機ともなり、予想以上に活発な議論に初回のゼミとして意義深いものとなった。

「よむ」行為を考える
あなたに伝えたい声でよむ
活きたことばとは何かを常に意識したい。


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