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心の赴くままに翔べたなら

2020-10-25
心が動かされるもの
「志」の文字は「心」が「上に向く」という字源
良き師の受賞の喜びを胸に

人が鳥に憧れを抱くのは、空を自由に翔んでいるように見えるからだろう。何にも押さえ込まれず、枠組みのない大空をどこでもどのようにでも自由に翔んでいる。だがもちろん鳥たちに「自由」などわからぬものだろう。「自由」などと考えることそのものが何らかの「束縛」に嵌まり込む要因なのではないかと思うこともある。同様の意味で僕は都会生活から離れ、宮崎での生活を選んだことで少しは「鳥たち」に近づけたのではないかと思う。今、こうして小欄を書いている書斎の外からも、鳥たちの元気な声が響いている。無駄な騒音のない宮崎の居住環境には、自然の声がたくさん届けられるのだ。

地元紙・宮崎日日新聞賞の特別賞を、師である伊藤一彦先生が受賞された。大学卒業後に故郷の宮崎に戻り、高校教員をしながら日本でも指折りの歌人として活躍されてきた。また全国の有力歌人の登竜門となった牧水賞の制定、若者から高齢者まで「短歌」に関係する企画開催に尽力され、「短歌県みやざき」の礎を築かれた功績が大きな受賞理由である。その長年の「志」と「努力」を思うに、心から尊敬できる良き師である。週末で落ち着いた頃と思い、お祝いの電話を申し上げた。すると「短歌県」としての更なる企画や構想のお話を、多く聴かせていただいた。思うに僕自身が宮崎に居住している理由の大半が、伊藤先生の存在が身近にあるからだとあらためて思う。人間が向かう空には、翔び方があるのだと悟るひと時となった。

やらずにはいられない翔びたい空域へ
いつも支えてくれる妻とともに
「心」を向けて青き宮崎の空へ


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10000万歩分のはじめの1歩

2020-10-24
朝のスタート
夕方の憂鬱
躓いたとしても前に歩むために

昨日の小欄を書く直前のことである。起きると一杯の珈琲をマシンで入れて、PCのある2階の書斎に持ってくる。その際に階段で左足が引っかかるようになって、珈琲を三分の一ほどこぼしてしまった。幸い自分自身は転んだりしなかったが、起床時間ではまだ暗い状況になってきたことも影響があるだろう。その後はタオル2枚を使用して、階段のこぼれた珈琲を拭き取る作業をせねばならなくなった。所要時間は10分程か、毎朝のルーティンに余分な作業が加わった。今、「余分」と書いてしまったが、本当にこの語でよかったのだろうかと思う。もしかしたらこの些細な出来事は、何かを暗示し何かの予兆なのではないか?と考えれば「余分」ではなく「必然」の作業だったのかもしれない。

ここのところ、毎日の歩数が確実に10000万歩を超える。職場への往復を含め、できるだけ徒歩を心がけているからである。キャンパス内でもなるべく一度は図書館に足を運ぶようにしており、遠隔講義で研究室で籠りっきりになるのを避けようとしている。朝の出来事を思うと、「一歩」に匹敵する時間が大変に貴重なのだとあらためて痛感するのだ。その個々の「一歩」を、自らが納得した過ごし方ができているか?「余分」な作業や建前の行動をしてはいないか?だがすべてが効率化された、精選された行動で「一日」は成り立っているわけではない。「無駄」に思える時間や仕方なく「せねばならない」時間も含んで「一日」なのである。などと言うことを、「今日」になって小欄に書き付けることで、自らを客観視している。珈琲をこぼした際の虚脱感は、どうやら一日に拡がり引きずってしまったように思う。

眼の前の「一歩」
「してしまった一歩」
今日は再び来らず


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与謝野晶子の「髪」と「われ」

2020-10-23
「髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ」
(与謝野晶子『みだれ髪』収載歌)
「和歌」から「短歌」へ 浪漫的に

ゼミ生が卒論で「髪」に関する和歌短歌を扱っており、与謝野晶子の「髪」が詠まれた短歌についてのゼミ発表があった。興味深い内容であり指導の関係であらためて『みだれ髪』を読み通してみた。晶子の歌は人口に膾炙したものも多く、個別に読んでいる場合が多いことにあらためて気づかされる。だが歌集として、399首の配列や題をモチーフとしたテーマ性などを考えることも重要である。冒頭に記した歌も大変に有名であるが、「少女ごころ」を表象しているところは奥深く読んでみたい。歌に詠まれる「君」の存在、与謝野鉄幹との関係を前提として読みがちであるが、歌集収載前の初出なども考えて浪漫的な詠風の成り立ちを考えたい。

また明治30年代の情勢を考えると、「和歌」から「短歌」へと革新が名実ともに進められた時代。「公的主体・儀礼的(和歌)」なものから、明治近代色を帯びた「個的主体・日常的」な発想に意識が転換した時代である。こうした転換は瞬時に起きるものではなく、晶子の中での変遷も考慮すべきであろう。このような意味で、古典和歌の持つ没個我的な象徴性を踏まえた上で晶子の「われ」を読むべきと思う。さらにいえば、「君」と「われ」との対象性を見出しつつも古典にみられる一元的な「神」の存在も意識されている。平安朝和歌に詠まれる「黒髪」という素材、恋の情念を表象し自由を束縛される要素もあるからこその「みだれ髪」なのかと思う。卒論のさらなる進展が楽しみである。

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
こうして明治に始まった近代短歌の延長に我々はいるのである。


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自分の眼で現実をみること

2020-10-22
「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」
(斎藤茂吉『短歌写生の説』)
「他人の借り物ではなしに・・・」

いまさら言うまでもないが、冒頭に掲げたのは茂吉の『短歌写生の説』である。根本的なところに据えておくべき考え方であるが、ともすると忘れがちになってしまうので反芻すべき機会も必要と考えてみた。特に思索的な研究者である身にとっては、執拗に反芻する必要性を覚える。「実相」ではなく「観念」ばかりが先行し、「理屈」にまみれた「・・・とは?」といった落とし穴に嵌りがちであるからだ。「物事を正確に直接に見るということである。」や冒頭の「借り物ではなしに・・・」は佐藤佐太郎の言葉であるが、この「正確に直接に・・・」がなかなか容易ではないものである。

日常生活や仕事上の組織内でも、前述したような「見方」をするのは難しいと思うことがある。我々は多くの物事を、「他人の借り物」で見がちなのではないか?仕事上の場合は、あまりに「実相に観入」するとなると、心が伸び切ってしまうため防衛本能が働いているのかもしれない。正岡子規に拠れば「取捨選択」が必要で「面白い処を取りて、つまらぬ処を捨つる事」の大切さが説かれているが、これも簡単なことではない。仕事ともなれば「面白い処に気づかず、つまらぬ処に目くじらを立てる」ことになりかねない。短歌に向き合う頭と仕事に向き合う頭は、明らかに違う。先日、妻から「(自動車を)運転しながら歌を考えれば」と言われたが、それはあり得ないことだと実感した。どうやら本日に記したことが、作用しているのではないか。歌人の方々が、あまり自動車運転をしない傾向にあることも薄々感じていたことだが。

「大を取りて小を捨て、長を取りて短を捨つる事にあらず」(子規)
世間には数多くの歪んだ眼も存在している
ただただ人間を見つめること。


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遊びは学びー操る感覚から

2020-10-21
「遊学」にこそ様々な真理が
余計なことと思える技術に生きるコツも見える
旋回と手前から速度を落とすためには

実家が上野公園まで近かったせいもあって、中高生の頃からよく不忍池に行くことが多かった。その思い出は早朝のランニングを始め、博物館・美術館などを観て歩くこと、そして池のボートに乗ることである。最初は父の漕ぐのを見よう見まねで行なっていたが、次第に理屈ではなく身体感覚が身についた技術となった。決して広くはない不忍池で、他者のボートとぶつからないように漕ぐのは一定の技術が求められる。舟の旋回の仕方や逆走、船着場への着岸方法までいつしか絶妙に操れるようになっていた。もちろんそれが何の「役に立つ」など、まったく考えたこともない。だが小さな舟でも操る技術といいものに、様々な真理があるようにも思う。

まったく前回がいつだか記憶にないが、妻とボートに乗った。身に着いた技術というものは面白いもので、オールを握るとすぐに蘇ってくる。他の舟が多く浮いている水面を縦横無尽に操るのは、爽快な気分である。周囲を見回すと他の舟と接触してしまっている者や、川岸に落ちる小さな滝の水を浴びてしまっている者も見られた。思い通りの位置に着けて停泊しながら楽しむ景色が心地よい。腕というよりも足を踏み込む力を利用して、舟は滑らかに進む。漕ぎ手は舟の行く手が見えない、ゆえに妻が方向性の情報を伝えてくれることが重要だ。行く手に他の舟がいる、川岸の岩があるなど「羅針盤」の役割をしてくれる。問題は妻の伝えてくれる情報を聞いて、回避できる操縦力である。最後に船着き場につける際の右旋回も見事に決まり、爽快な気分のボート遊びに興じた。

人生は二人で歩むもの
妻が伝えてくれることに微細に応じること
「遊ぶ」ことから多くを学びリフレッシュ。


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心身を固めないために

2020-10-20
仕事からの解放
さまざまな重圧から自由に
妻と豊かな宮崎時間を

「宮崎時間」という言葉がある。「まあいいが」といった感じで、時間に厳格ではない感覚である。目まぐるしく変化する時代に否定的な見方もあろうが、むしろ大切なことではないかと思えるようになった。日々の仕事に追われ「次は次は」とこなして行くのは、精神的な「息継ぎ」さえない。潜水を無理して続けていれば、どこかで無理が祟ることになる。時には「次の予定」に囚われない時間の過ごし方が必要である。今年は「新型コロナ」感染対応で、世界の「時間」が大いに変わってしまった。だからこそ「待つ」「待てる」時間を尊重する姿勢が、求められているのではないか?宮崎では、「待つ」ことにも愉悦を感じられる人間らしい生活ができる。

仕事の関係で日向高千穂に来る予定であったが、結果的にリフレッシュ休暇を伴い妻と共に時間に囚われない過ごし方をすることになった。天孫降臨の地ではやはり、「待つ」というか先のことを考えてあくせくしない時間が流れる。何時に到着しようが、食事は何時にしようが、次の行動も場当たり的に過ごしていく。次第に心身がほぐれて解放されるような感覚、ただただ妻とだけ向き合っている時間は貴重だ。この2年間ほど仕事上の役職もあり、なかなかこのような穏やかな時間を過ごせていなかった自分に気づく。固まった心身では妻の思いやりをも、十分に受け止められていなかったのではないか?高千穂の八百万の神々に祈り、新しい明日を妻と共に「待つ」のである。

神話にみえる「天岩戸」
天照大神が籠り双方から「待つ」こと
観光夜神楽の舞に魅せられる宵のうち。



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出逢う人と第一印象

2020-10-19
学校を選ぶ、お店を選ぶ
それは出逢いの窓口を選んでいること
そこから始まる縁のあれこれ

人生において「出逢い」ほど大切なものはない。僕自身のことを考えてみても、幼稚園で素晴らしい園長先生に出逢い、絵本や紙芝居の楽しさを身に染み込ませたことが文学へ眼を向けた入口でもあった。その頃から家の近所の「絵画教室」にも小学校半ばまでは通い、芸術的な情操が涵養されたのも大きかった。その後、日本で指折りの師範の勧めで剣道にも出逢い、中高は野球や器械体操と多彩な運動を経験できた。そして何より母校となった大学に出逢ったことは、人生の方向を大きく変えたように思う。大学受験の折から素晴らしい母校の先生方に出逢うことができ、また今でも続く多業種の親友たちにより人生が支えられていると言っても過言ではない。

人生を振り返れば多様な出逢いがあるものだが、日常の出逢いも疎かにはできない。お店を選びそこで偶然に出逢った店員さんから、購入すべき商品を選ぶ。衣類などは特に重要で、店員さんとの相性をことさら重視している。相性がよければ「こだわり」となり、その店員さんでないと買えなくなる。しばし「専属」となって、僕の身だしなみを整えてくれる友人のような存在になる。さらに理髪店は衣類以上にこだわりが強く、親友として存在感が強い。PCやスマホは店員さんというわけにはいかないが、同一会社の製品にこだわる性質が強い。第一印象の挨拶・言葉・嗜好や話の運びの趣旨などにおいて、僕の出逢いのセンサーは大きく反応を変えるのである。

初対面にある化学反応
そこから人生が大きく開けることも
「相性」の奥深さを思う休日


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中古文学会2020年秋季大会オンラインシンポジウム

2020-10-18
「これからの古典教育を考える」
お二人の先生方とともに諸分野からの問題提起
枠組みの中だけで行うのではなく批判的解体へ向かうべく

標題の中古文学会シンポジウムでパネリストを務めた。本来は北海道大学での対面開催の計画であったが、春季大会に続くオンライン開催となった。自宅の書斎で学会のパネリストを務めるというのは、人生を通じて予想だにしなかったことだ。朝から脳裏では「北海道大学」に行っていたらどんな行動をしていただろう?ということが想像される。自宅のパソコン前にスーツに身を固めて座る、どこかに日常の褻(け)のモードがあるようで画面越しにそれが出ないようにと気を遣う。先週にリハーサルを行っていたので、戸惑いもなく本番へ。発表時間内に収まることを念頭に置きつつ、プレゼン効果が高いように「原稿読み」はしないで20分の発表を終える。その後は、司会者とパネリストで討議の確認を他のオンライン会議室で行い、討議や視聴フロアーからの質問に対して答える時間へ。3時間超のパソコン前の時間は、まさに人生初体験であった。

今回の報告で提示したのは、従来からの「読解現代語訳型古典学習」から「創作・メディア制作課題型古典学習」に転換するというもの。「メディア」とは「媒介」が原義であるが、ここでは「メディア文化」と包括的に文芸創作(短歌・俳句・物語・脚本等々)や「SNS表現」に「広告宣伝文」や「ラジオ音声表現」などを指す。学習の基本は学び手の興味・関心の換気が鍵となることから、古典本文に「我」を見出し享受したものを「二次創作」として現代的に表現しようとする学習活動の提案である。既に大学生を対象とした講義の中で「本歌取り」の試みや「ラジオドラマ」の制作などの実例を紹介した。また学部附属中学校での主に実習生の行なった授業指導案から、「和歌リーフレット」や「歌物語」の制作に関する指導例を具体的に提示した。他のパネリストのお二人からも、「アダプテーション(再解釈・再創造)や「(古典との)連続性」の方向性が示されて、相互に「参与・補完」する内容の報告となり、討議に及んでそれぞれの特長が活かされた内容とすることができたのではないかと振り返る。

「国語」そのものの解体を考えつつ
入試に囚われない「文学活動」の創造を
まずは自らが向き合う宮崎県の「古典教育」を充実させたい。


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筋トレ脳トレの原理

2020-10-17
机の引き出しに終われたままのペン
衣更えはするが着ない服
使わない方が疲弊し、書けない・繊維が弱ってしまう

最近、通勤の往復を自家用車ではなく徒歩にしている。1日の歩数は確実に1万歩を超え、身体各部の活性化と引き締まりを実感する。多く歩けば「疲れる」ということではなく、筋肉が使用されて一時期の筋断裂は起きるものの修復されることで強化される。たぶん歩数が多い分だけ、連動して脳も活性化しているのだろう。身の周りの物品を考えてみよう。長期間使用しないペンは、インクが固着して書けなくなっている。しばらく身に着けなかった服の繊維が、何年振りかで着用すると劣化していたことはないだろうか。革靴などもしばらく履かないでいると、妙に固くなり靴底のゴムの一部が剥がれたりした経験もある。人も物も使用し続けないと、衰えてしまうのである。

こう考えると人生はどうだろうか?一生にどれほど自分の能力を使い切るのだろう?若い頃は特に、苦労するであろう道を選択する方がよいように思われる。中高でも勉強だけでなく部活動とか、大学でも単位を取得するのみではなく社会経験や恋愛から学ぶことも多い。身体を使い脳を使う、筋繊維や脳の皺は刺激があればある程よいのではないか。ゼミ生への指導でも、敢えて厳しい道を勧めるようにしている。20代で十分なトレーニングが為されれば、その後も心身ともに活性化するように思う。高校教員だった際も生徒には、安易に推薦入試に傾くよりも厳しい難関大学一般受験を勧めた。難関入試を乗り越える力が、人生そのものの筋力脳力になるものだ。

荒波を越えて泳ぐことで鍛えられるもの
苦しい時は適切なトレーナーの助言があるさ
豊かな人生とは、狭き道・茨の道を歩いてこそなのだ。


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窮地は熟考より初動

2020-10-16
緊急事態にどのようにするか?
熟考していては事態に置いていかれる
まずはなんでも動きながら考えていく

物事の前提や枠組みが整わないと動けない人がいる。学部の時にレポートや卒論に向き合った時に、前提となる定義や論の枠組みありきで考えてしまっている自分を発見した。定義や枠組みは、むしろ論の中身の考察により形になってゆくものである。また形式にとらわれるあまり、「序」から先に進めない人も少なくない。小学生が「作文(最近はこの用語を使用しなくなっているが)用紙」を与えられて、書き出しから悩んだり、1・2行で動けなくなるのはよくあることだ。むしろ書くべきは「一番言いたいこと」でよい、もとより文章は言いたいことを書いて、次第に「序→本→結」と構成を組み立てていけばよいはずなのだ。教育実習生も学習指導案の段階で「授業ができない」と悩む様子が観て取れる場合が多い。

先日、NHKBS3の歴史番組「選択」を観ていると、次のような内容に出演する歴史家らがみな賛同していた。「緊急事態に熟考する戦国武将は必ず滅ぶ」というものだ。テーマとして秀吉の「中国大返し」が取り上げられていたが、明智光秀の謀反で織田信長が本能寺に倒れた後、西の山陽方面に出陣していた秀吉が、わずかの時間で大阪に帰還し、謀反者の光秀と対峙する体制を整えたというもの。「緊急事」の初動でまずは動きに動き、行動の中から事態の成り行きを考えていったということだろう。学習でも「理解」が十分でなければ「朗読」ができない、という訳ではない。声に出す行動を繰り返すことで、解釈の「理解」が進むのである。前提・定義・先行を考えようとするのは大切であるが、「今」すべきこと・できることに向き合い、動きながら考えることも忘れないでいたい。

ゼミ卒論指導で嘗ての自分に出逢う
一番書きたいもの・書くべきものから
附属図書館の秋の夕暮れは趣がある


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