FC2ブログ

自由に飛べる翼が欲しい

2021-04-22
学べることの尊さ
失われて知る貴重な時間
学ぶための自由をください

「教師」というものは、教師になってからが勉強である。誰からともなくそんなことを言われて、今まで確固たる信念を持って実践してきた。学部卒で高等学校の非常勤講師となって1年勤務すると、当該校から専任教員となることを認められそのまま就職した。研究をしようか?教育現場で生徒らと向き合おうか?当時は非常勤講師での授業を経験しながら真剣に悩んでいた。しかし、次第に非常勤でも部活のコーチをしたり学校行事にも参加したり、現場で生徒らとともに歩む楽しさを知ってしまった。自ずと研究への手は止まり、学会などへも行かないようになった。「勉強」には様々な種類があるが、「現場」こそ自分を「教師」として高める豊富な学びの場だと実感する時代であった。

だが人間は勝手なものである、暫くすると再び研究への思いが募り「学校」の拘束から自由になりたくなった。土曜日は学会に行きたいので部活動の活動日から外し、生徒に不評を買ったこともある。大学院のゼミ演習に通うために研究日の曜日指定を受けると「なんであの人だけ」と誰からともなく批判され、「学校の仕事に集中せよ」と指導を受けたこともある。「研究日に研究をして何が悪い」などと思い、ほぼ「休日」と同等の価値しか見出していない同僚を怨んだ。年度末の「研究日報告」には必ず雑誌掲載論文のコピーを添え、多くの同僚が数行ぐらいの文章で済ませていることに疑問を感じた。学部卒直後にもっと勉強しておけばよかった、そんなことを痛切に感じる日々であった。尊い学びが目的であっても、自由は奪われて初めてその価値を知るものだ。学位を得て大学の非常勤講師になった際、給与は大幅に減ったが学びの自由に回帰できた喜びは計り知れなかった。

学べる環境があるうちに学べ
自らを困難な状況に追い込むことも学び
自由に飛べる翼の価値は失われて初めて知るものだ。


関連記事
スポンサーサイト



tag :

一寸先はやはり闇

2021-04-21
予定通りに物事は
交通機関の定時運行という幻
果たして1ヶ月後、来週、今日の夕方、そしてこの直後

世界を見回しても、これほど公共交通機関が定時運行する国は類い稀である。僕自身の経験でも中国の船はいくら経っても出航しなかったし、イギリスの列車は概ねドーバー海峡を渡った船からの乗客が乗り切ったと見るや定刻前に走り出した。東京で電車に乗ると「当電車は、1分ほど遅れて運行しております。お忙しい中、ご迷惑をおかけします。」と詫びのアナウンスがある。日本の航空会社は、「定時運行率」が世界でトップクラスの努力を続けていると聞く。海外では航空機の遅延や欠航は、織り込み済みな雰囲気が一般的だ。この「予定通り」を常識と考える国民が、先の見えない「新型コロナ」に直面していると考えてみることも必要なのかもしれない。

朝、出勤しようと予定通りに行動するが、何かアクシデントがあれば大幅に行動は変容してしまう。そのアクシデントの可能性を事前に摘み取っておく、それが「定時運行」の基本的な努力であろう。かのイチローが試合のある日の昼食は必ずカレーを食べ(お腹のコンデションをいつも一定に保つため)、球場へは誰よりも早く足を運び、身体の手入れや準備を入念に行なっていたのも「定時運行」のように力を発揮する国民性が表れていたようにも思う。しかし、新型コロナ感染拡大から1年以上が経過したが、未だに「定時運行」は難しい。大阪を中心とする関西圏の大学は対面講義を予定していたところが多いが、府知事の「オンライン要請」が出された。僕自身とて例外ではないだろう、2週間のオンライン期間を経て対面に入るにあたり、「予定通り」行くのか一寸先はやはり闇と見ていた方がよいのかもしれない。ということで、受講者が160人を超えた講義は感染対策上も「対面&zoom中継」というハイブリッド型講義を模索することにした。対面で教室に来るのは1回につき50名少々、その際に個別的な対話ができるという利点も見据えつつ、いつでも全面オンラインに戻すことも可能だ。「定時運行」をしたい前期講義の予防線となればと思う。

この直後、アクシデントなく進むには
ワクチン接種は、今年開催される行事は
闇を冷静に見つめる眼が求められているのだろう。


関連記事
tag :

自然の演ずる芝居ー創発読書会Vol4

2021-04-20
「自然の演ずる芝居はつねに新しい。
 なぜなら彼女はつねに新しい客をつくり出すからである。」
(『自然ー断章』より)

附属図書館の活動として行なっている「創発読書会」も数えること第4回目、「ゲーテらしきもの」の手による『自然ー断章』をスローリーディングしてきている。この日は冒頭に「学校らしくない話題をすべき」といった趣旨の雑談があった。小中高の「国語」は明らかにそうであるが、「学校らしい」対話にしか発展しない傾向がある。規律正しく実直というか、「学校」にある一種の「道徳」の枠内に収めようとする矮小な話題に終始するということである。だが果たして「文学の学び」は、それでどれほどの達成を見るだろうかと疑問が尽きない。「教師ー学生」という相互の仮面を剥ぐことで、初めて見えるものがあるはずだ。人は誰しも多様な「人格の仮面」を被っている。「教師」「学生」「家族」「部員」「バイト」「町内会」等々、その「仮面」を一枚一枚剥いだら、どんな「顔」が残ると言うのであろう。

冒頭に引用した一節が、大きな話題となった。「演ずる」とは何か?この国では「演ずる」「芝居する」という言葉そのものに偏見があり、「人を騙す」とか「真の自分を隠す」といった負の趣旨で使用されるのが一般的だ。欧米の教育では「文学」を学ぶと、必ずその内容を「演じてみよう」という課題がある。「文学」に対して遠目から「学校」という「正義」の枠内での対話よりも、「文学の現場」を自ら体験する学びに利があるのは明らかだ。「演じる」とは、他者の気持ちになって未知の状況を想像上で経験することだ。我々は「自然」のことを何もわかっていない。ゆえに「自然の演ずる芝居はいつも新しい。」わけだ。「客」とのその場限りの「ライブ性」の中に生きてこそ「自然」ということになる。文章はその後に「生命は彼女のもっともすばらしい発明である。」と続く。もとより「自然」による「芝居」の中に生かされている「生命」、「豊かな自然が好きだ」と口ばかりではなく自らの身体を賭して「演じて」みるべきなのである。

牧水は短歌の響きの中に演じた
溺愛を演じ酒呑みを演じ旅人を演じた
次回の創発読書会は、参加学生さんの創作小説を読むことになった。


関連記事
tag :

身だしなみを気遣ってくれる人

2021-04-19
ネクタイでもベルトを通す穴でも
些細な身だしなみを気遣ってくれる人
当人の品格、伴侶の配慮

日米首脳会談が実施された模様が、映像で報道されていた。報じられた内容は、バイデン大統領と「初めて会談した他国の首脳」とか、「同盟関係が強固であることを確かめた」とか、「ワクチン会社のCEOに確約を得た」とか、成果があったとばかりが強調されている。東アジア・東シナ海をめぐって中国の進出も目立つ中、いかに平和を築くかが我が国に託されているとも思いたいが、どうもそれほどの懐の大きさを感じるには到底至らない。二人で居並ぶ外見上の雰囲気も、会見での発言の仕方も、質問への応じ方でもあまり対等な同盟関係とは思えぬものばかりが目立ってしまう。その拭えない印象の要因は何だろうか?

米国側が医療用の高性能マスク・N95を用意してくれたのだと報じられていた。会見で日本の首相は装着しているのだが、後頭部に回すゴム紐のつけ方が明らかに違っている。装着後には跡が残るほど顔面への圧着の強さがこのマスクの大きな特長であるが、そのためには後頭部方向に一本、耳を挟んで口の真後ろの頚部に一本と幅を広げて装着するのが基本である。それは製品を収納した袋に英語の説明書きが、図とともに明示されている。ところが首相は二本のゴムとも耳の下で、顎のあたりに隙間が空くように装着をしていた。本人が英語の説明書きを読まなかったとかいう問題よりも、側近たる人々がなぜ助言をしないのかが大変気になってしまった。側近たるや、まずは身だしなみを諌められずして何ができるのか?図らずもこの会見映像が全世界に流れることで、「マスクの誤った装着を見過ごす側近しかいない国」だということを広く曝してしまった。五輪開催国ながら国内の感染対応の遅速にもよく呼応したものとして、である。

出かける前の伴侶の一言は大切に
小さな身だしなみに気遣えるや否や
ささやかな配慮こそが国を救うのだと思う。


関連記事
tag :

世界で一つの発見ができたら

2021-04-18
今ここでしか見つからないものを
ことばで切り取り箱へと保管する
生きるとは丁寧に発見をし続けること

言葉は同言語であるならば、使用する一定の枠内で共通理解ができるようになっている。反転すれば「共通理解」をするために、「・・・語」と各言語が同地域で形成されてきたと言い換えられる。音韻・文字・語彙・文法が共通認識され、例えば辞書を引けば語彙に一定の理解が得られるのが同一言語である。さらに広く考えれば、言語の種類でも系統があり派生的に展開したものも少なくない。日本語では先に記した四要素のうち、「文字」が無かったゆえに大陸から渡来した「漢字」を使用し始めた。その後、「漢字」を母として「ひらがな」「カタカナ」を産み出した。文学史を認識する際に、口誦から記載へという過程を考えるのは大変に重要であると思われる。一人の人間が産まれてから成長する間にもこの過程がある。

前述したような「共通認識」ができる言語であるが、使用する人間が世界に一つしかないものを発見しその表現において使用する。「共通認識」の原則は保ちながら、今ここにしかない組み合わせで言語を響かせ、今ここにいない人にもわかるように情景を描写することを通して、世界で一つの心のあり方を表現する。特に「伝えよう」という意志が大切であり、聞くもの読むものの心のうちに共鳴するものでなくてはならない。その共鳴を「感動」と呼び、人は言語で「心を動かさせられる」存在である。また、人間の力ではどうにもならない天象気象の問題を、神に祈りを伝えるために言語・文学の根源が生じたと考える説もある。そこには祭式的呪術的なものが生じ、「言霊」などの発想も出てくるわけである。このような背景から考えるに「文学」は奥深いもので、決して表面的なものではない。

「文学史」などを担当し伝えたいこと
あなたの「今ここ」の言語が大切である
短歌を考えると言語も見えてくる


関連記事
tag :

言ってくれないとわかりません

2021-04-17
マニュアルはどこにありますか?
言ってくれればやりますから
仕事は見て盗むものという時代は遠いのか

中高教員だった頃、中途採用で移籍したこともあってよく「・・主任」などになることが少なくなかった。ある時、校庭を使う部活の顧問でもあることから、体育祭・文化祭での校庭担当主任になった。グランド整備とともに校庭の周囲にたくさんのテントを張る作業を、生徒たちとともに行う作業班である。自分の部活の生徒たちはまだ日常の指導もあってか、上級生が率先して自ら動き後輩らとともに考えて作業をしていた。しかし、作業の概略と流れはプリントして配布していたと思うが、担当教員の一人から「言ってくれないとわかりません」と怒った口調で言われたことがある。経験から学べないのか?僕に個人的に怨みがあるのか?なんだか「一人前の教員のくせに」と心で思った記憶がある。世代間格差なのか「詳細マニュアル」がないと作業ができないようなことを奴は主張していた。

僕が初任者だった頃、職員室で机を並べる先輩教員から「仕事は見て盗むものだ」と言われたことがある。出席簿・教務手帳の作り方から担任としての指導の基本まで、周囲はどうしているか?という観察をする意識が研ぎ澄まされた。現在でも周囲の人が何をどういう意識で行なっているかに対して敏感なのは、この時に身についた経験によるものだ。遡れば、母校の大学のある意味での放任主義が、教員となっても困らないトレーニングになっていたようにも思う。掲示板を見なければ教職課程の登録さえ知らないで過ごすところだった、という大学入学直後の経験が尊かった。そう考えると大学も個々に個性はあろうが、時代を経て大きく変質した。教員へもそうだが、学生には諸々の「お知らせメール」が届いて手続き等を促してくれる。常に詳細に「言ってくれる」社会になり、「自分で考えて」などと言うのは「不親切」か場合によると「職務怠慢」になりそうな勢いである。などと、教員養成学部にいる一教員として考えた。

「指示」に無批判に従うのでいいのだろうか?
あらゆる分野でクレームに対応するサービス業のような風が
「習」という文字は「自らの羽で羽ばたく」という字源なのであるが。


関連記事
tag :

「匂い」にまつわること

2021-04-16
夕方に隣家より漂うカレー
金木犀の咲く道を
そしてあの人の匂い

「匂い」には極めて敏感であると、幼少から自他ともに認めている。幼稚園に入園前までは、ある特定のタオルを日夜手離さずにいた。それは何となく自分なりの「匂い」になって、それを嗅ぐと安心感が得られたような感覚であった。母親がそのタオルを洗うと1日は代替品になるがそれでは用を為さず、洗い上がったタオルを再び要求し再度の「匂い付け」に励むといったようであった。そのタオルには「ひよこ」の刺繍がなされており、幼稚園入園とともに泣く泣く捨てられたことが鮮明な記憶として残る。その後も食べ物に異様な匂いがするとか、他の家を訪問した際の特徴ある匂いとか、自分の中では大変に大きな問題として存在していた。しばらくは布団の襟の部分がタオルを代行し、小学校の給食などでも匂いには、ある意味で過剰に反応していたのかもしれない。

学生らと「匂い」について語る機会に恵まれた。冒頭に記したようなのが、その典型的な例である。家路についた際にどこからともなく香るカレーの匂い、日本人はいかにもカレーが好きな国民なのだと思うことがある。隣家となれば、確実にそのメニューが特定される。草木では、金木犀の香りが鮮烈だ。庭に金木犀を持つ家があると、その周囲に近寄るだけで匂うものである。そして何より恋人の匂い、愛し合うという関係の中でお互いの匂いは個人差はあれど大変に重要な要素であろう。以上は「良い匂い」の例であるが、「おならの匂い」などやや負の匂いの存在も欠かせない。もとより人間の中の動物性の要素が、「匂い」においては表面化するようにも思う。などと考えると、学生らは洗濯の柔軟剤の種類などにたいそう敏感なことも知った。動物性への回帰とともに、より化学的な匂いにも囲まれている生活環境を知る。

「匂い」と言うか「香り」と言うか
マスク必須が求められて1年、嗅覚は衰えていないか?
「匂い」のDNAの合致は大変に重要だとも聞いたことがある。


関連記事
tag :

じっくり向き合う集中して急ぐ

2021-04-15
焦らず寝かせて熟成を待つ
急な〆切に集中してすぐに仕上げる
物事への向き合い方として

小欄を記す前に、朝の珈琲を入れてデスクに持ち込む。この文章が映し出される画面の前には、珈琲の豊かな香りが立ち上る。先月あたりから新しいマシンを貸与契約(珈琲そのものを通販購入すれば、マシンは無料貸与と云う)して使用している。抽出方式が選択できて、「標準」と「手淹れ」の二種類がある。後者は、抽出に3分〜4分の時間を要するが香り高い抽出が可能と説明書に記されていた。朝の限られた時間にさてどちらを選択するか?と思ったが、ほとんどが「手淹れ」を選択するようになった。むしろ朝から「3分〜4分も待てない」心性はいかがなものか?と思うゆえである。何事も「早い安い便利」が合言葉のようになった社会であるが、大切な過程を疎かにしてはなるまい。

そうかと思えば、急に強いられた仕事は集中して短期勝負という場合もある。過去には論文依頼書に記された原稿締切日が1ヶ月近く誤って遅く記載されており、急に電話で原稿を請求されたことがある。その時は憤りのような、だがしかし混濁しない頭に切り替わり論文を数日で仕上げた憶えがある。中国の歴史を記述した『史記』を著した司馬遷の「発憤著書」というのは有名であるが、憤りは表現をまくしたてて書かせる作用も持つ。これは一見、焦っているようだがそうではないだろう。「発憤」したことで短い時間を緻密に刻み、過程を的確に踏んだ階梯を着実に上ったということのように思う。人生の時間は限られる、ならばいかに生きるか?じっくりと集中の両刀の境地が必要なようだ。

寝かせればことばが言葉を呼んでくる
集中すれば自ずと躍動感が増す
待てる人であり瞬発力のある人でもありたい。


関連記事
tag :

海は広いな大きいが

2021-04-14
トリチウムの海洋放出
「風評被害?」「科学的根拠?」
五輪招致の際には「制御下」と喧伝していたが

九州・沖縄地方で海岸に打ち上げられるゴミの類を漁れば、必ずといってよいほどに東アジア諸国のものと思われるものに出会う。海流や潮目の影響で、海は常に大きく動いている。そのゴミの類にプラスチック製品が溢れ、世界的な海洋汚染が深刻であることに僕らはどれほどの意識を持っているだろう。目に見えない「マイクロプラスチック」が生態系に影響し、やがて人類にも多大な悪影響を及ぼすのではないかと懸念が深まる。「目に見えない」という意味では、福島第一原発の放射性汚染水の海洋放出は本当に世界的に「容認」されることなのだろうか?と甚だ懐疑的になる。「WHO基準の飲料水」だとか、「世界のどこの原発でも行なっている」と聞かされると、その基準や原発そのものが問題だと思うのであるが。

「科学的根拠」とは言うものの、その情報公開が十分に科学的で公正公平だとはあまり思えない。単純に子どもが考えても、今まで「汚染水」と言ってタンクに貯蔵し投棄はためらっていたものを、「貯蔵が限界」だからという理由で「薄めて投棄」する理屈が「科学的」に説明できるのだろうか?また「風評被害対策」などと言うのも、本質的に「風評」なのかどうか?の「科学的根拠」は示されているのか?もとより「薄めて海に」と言うのは海洋で再結合などしないのか?など「科学を知らない」素人は馬鹿と言われるかもしれないが、不安ばかりが頭をよぎる。「貯蔵」という方針を「投棄」に変更したことで、五輪招致時に「アンダーコントロール」と豪語したことに嘘はないのだろうか?(投棄は2年後からというが)それを「制御」だと言い通すのは、少なくとも日本語の上では無理があるのではないか。

マイクロプラスチックが
何年も後に問題化するように
母なる海を穢す人類にどんな未来が待っているのだろう。


関連記事
tag :

国語教師を目指すわけ

2021-04-13
小学校で一番授業数が多く
思考や感情あらゆる基礎になる
人々が多様なのと同じく国語も多様である

先週9日(金)から新年度の講義が始まり、この日は2日目。前期は担当講義が多く、ほぼ毎日のように何らかの講義がある。その多くが教科専門科目、いわゆる「国語」の教材内容について学びを深める科目となる。配当年次は1・2年生、「国語教師」を目指すにあたり「基礎体力」のような部分を養成する役割を担っている。野球などに喩えて考えると分かりやすいが、どんなに「技術」が高くとも「基礎体力」の無い者はプロとしては活躍できない。「国語教師」としての基礎基本、それこそが「内容学=教科専門」というわけである。昨今、「よい授業」という名の下に「指導技術」が重視される傾向にあるが、あまりに偏重するのはいかがなものか?と思う。型に嵌めたような「授業方法」は、「簡単便利」で素材や制作過程の見えない大量生産物と同様、虚飾と自己満足にまみれた物と思えて来る。

講義開きにあたり、新入生や2年生に「国語専攻や(国語の中高)免許取得を選んだ理由」あるいは「国語の魅力」について語ってもらっている。開始から2週間はオンライン講義と全学的に定められているゆえ、同時双方向システムでの対話を重ねている状態だ。新入生もそれほど戸惑うことはなく、画面の前で語ることに違和感はないようだ。この1年間、高等学校などでも経験した者も少なくないのだろう、オンラインが社会に十分に根を下ろしたようだ。テーマに対してどれほどに語れるか?は当人の「思考」そのものを物語るものだ。そのような意味で新入生も存分に「国語への思い」を語ってくれた。特に「文学」を学ぶことは「文化の伝承」、「ことばのDNA」を後代に伝える大きな役割を担う。ぜひ壮大な志をもって「国語」に向き合ってもらいたい。

国際化社会だからこその古典
現代の生活や感性にもどう活かされるか
そしてまた今は「役立つ」かどうかが判らない?から学ぶということも理である。


関連記事
tag :
<< topページへこのページの先頭へ >> 次のページへ >>