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海面に出ていない記憶を探る

2021-10-24
「検索」「紐付け」などデジタル的な発想
だが、人間の記憶も氷山のように表面に出ていない多くが
ふとしたことから辿れる人間の脳の脅威

行動様式が変わると、「やり方」がわからなくなるものがある。例えば、この1年半で酒場で呑むというのがどういうことか?などふと思わないでもない。あらためて確認すると、既に東京に足を踏み入れていないのが1年間に及んでしまった。研究学会も編集委員会も掛かり付け医も理容店にも、親類親戚に会うことも墓参りも、洋服店も眼鏡店にも、そして馴染みの酒場や飲食店にも1年間のご無沙汰となってしまった。研究関係は多くがオンラインで事済ませており、服は馴染みの店長が写真を送付してくれ「リモート買い」などと通信で成されたこともあるが、その他は生身でその場に行かないとどうしようもない。両親はコロナ以前に宮崎に移住したからよいが、もし東京在住を続けていたら1年間は生身で会えなかったと思うとゾッとする。このような意味で、生活上の「分断」を明らかにコロナ禍はもたらしたのだ。だがしかし、僕らの脳内には記憶という大きな武器がある。「コロナ以前に戻る」というよりは、「新しい日々を夢に変えて」いければとも思っている。

メールやデータなどをPC上で扱うと、すっかり「検索」機能に助けられることが多くなった。大まかな整理さえしておけば、あとは「検索」ですぐに発見できる。その「大まかな整理」の部分が人間の記憶に依存するところだと自覚する。反転してPCの「検索機能」のような動作を、自らの記憶や物理的書類の上で「実行したい」とさえ思うことも出てきた。そのような意識で即時的ではないが、「紐付け」に「紐付け」を繰り返していると次第に表面になかった記憶が浮上して来ることがある。「この時は何処で誰とどのようなことをしたか」が、その時の会話を含めて記憶から検索されるのだ。最近、必要があって何年も前の買物の記憶を辿ったら、明らかな記憶として蘇って自分でも驚いたことがあった。しかし、時に記憶は「恣意的」であることも少なくない。人間の欲求が、記憶に一定の偏りを施すのだろう。深海の奥深く沈んでしまって、決して浮上させたくない記憶があるようにも思う。ゆえに、前述したように「新しい日を夢に変えてゆける」記憶が蘇ればいいのだ。比較的、幼少時からの記憶が鮮明だと自覚するのだが、そのデータ集積が上手く研究や創作に活かされるべく蘇ることを意図したいものである。

生きた時間の証として
変わらない脳の大きさの中に皺を刻み続ける
人間の精巧な素晴らしさ。


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地元高校生の道を照らすー出前講義で語ること

2021-10-23

県内高等学校の進路指導企画
大学で何を学ぶかその歩む道を照らす
「短歌県みやざき」の国語教育を携えて

大学から約1時間、県内を北上し出前講義のための出張に赴いた。距離約80Km、南北に長い宮崎県であるが、宮崎市から北行きは高速道路もあり比較的、便利に移動することができる。かつて僕が高校教員だった時、進路指導部に所属することが多かった。その企画でも「大学模擬講義」を実施していたが、その際に様々な大学の先生方が来校し講義を聞く度ごとに、いつか自分自身が講義をする立場になりたいものだと常に思っていた。その宿願が叶い、今やこうして県立高校への模擬講義に赴く立場になった。特に地方国立大学の場合、地域連携という大きな目的もあり地元高校生たちが進学の意志を持ってくれることは重要である。生まれ育った故郷の子どもたちを夢に導く教師になろう、という進学意欲をさらに掻き立てることが望まれる。このような公私の思いを胸に、県立高等学校に向かう長い「希望の坂」と名付けられた坂を車で登った。

近刊『日本の恋歌とクリスマスー短歌とJ-pop」の内容を本邦初公開として、その一部を紹介しながら恋について、人が生きること、西洋文化の受容、短歌は自分が体験していないことを味わいその立場の気持ちになれること、などをテーマとしての60分講義を2回実施した。テーマ名に惹かれたのか、1回目が70名以上、2回目も40名以上と総計で100人以上の1・2年生が聴講してくれた。時折、まさにクリスマスJ-popの音楽を流しながら、2ヶ月早いがクリスマスについて体験的に考えた。もちろん若山牧水や俵万智という「短歌県みやざき」に欠かせない歌人の短歌を多く紹介した。受講した中に牧水の母校である坪谷小学校出身の生徒さんがいて、講義後にあれこれ片付けの手伝いをしてくれ、控室まで案内をしてくれた。話すとどうやら先日の短歌オペラに「村の子ども」役で出演した児童の兄だという。彼もまた「教員になるか考えています」と話していたが、幼少の頃から宮崎の豊かな自然と短歌によって豊かな心に育った子どもらが、ぜひ多く宮崎の教員になって欲しいと願う。けふもまた、未来の宮崎へ向けてこんな「こころの鉦」を鳴らす講義となった。

講義の後、日向の地元の人々との交流も
「地域連携」とは名ばかりではなく、
人と人とがつながることだ。


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小言や意見を言うことが大切な理由

2021-10-22
小言や意見は相手を尊重しているがゆえ
そこが自分を変えていける大きな契機
忌憚なく言ってこその教育

怒れない社会になった。それゆえか、意義ある「怒ること」と非難・中傷の区別がつかなくもなっている。特に日本社会では「当たり障りのない」ことが、公にまかり通るようになった。「見て見ぬ振り」が反転して、暗躍する輩はどんな卑怯な手段を使っても隠し通す社会だ。今筆者は「・・・なった」と書いたが、昔から「知らぬが仏、知るが煩悩」「知らぬが仏、見ぬが極楽」という諺があるように、軋轢を生むよりも「見て見ぬ振り」をするか、敢えて踏み込んだ物言いをしないことが求められた社会なのかもしれない。直近での流行語でいえば「空気が読めない(KY)」なども、この類のうるさいことは言わない同調圧力を求めるものだ。だが表面的に「怒らない」一方で、ネット上の匿名での誹謗中傷が高揚してしまう社会。体裁を繕い陰で攻撃する陰湿さが増長する社会だ。欧米の若者たちの地球温暖化への非難デモとか、差別問題に毅然と立ち上がる姿を報道で目にすると、日本の高校生らでも運動をしているものがいる訳ではないが、あくまで少数派であるように思う。むしろ「出る杭」にならないために、ただ入試に合格するためだけを考えて若い時間を空費しているようにも見える。これが選挙で投票率の上がらない理由にもなってやしないか。「正統なる社会」を求める行動がこの国では危ういのだ。

親しい友人ががネット記事「”思い”の伝わる注意の仕方を欠かせないこと」を引用しつつ、「三項関係」の大切さについて投稿していてなるほどと思った。記事にはあるCAが先輩から再三の小言・苦言を受けた経験談があって、その小言の延長上には「お客様の背中に熱い飲み物をこぼさない」ための万全の配慮が根付くためという大きな目的・意義があることにようやく気づけたという内容だった。少なくとも「プロ」の仕事をするに当たっては、妥協のない育成が欠かせない。ならば僕が携わっている日々の学生への教育では、「子どもたちに熱湯をかけてしまうような(←ここはCAの話題に関連した比喩ですので念のため)絶望を与えるような言動を教室でしないため」の心構えの根底を学部で養わねばなるまい。指導者が教材を調べ尽くしてこそ授業ができること、児童・生徒にも小言や意見を忌憚なく言わないと育たないと理解すること、嫌われることを避けずに小言をくり返すことが卒業の時に児童・生徒に感謝されること、そこに教師冥利があること、等々を日常から学生に伝えるべきと考えている。昨日から演習の学生発表が始まったが、発表後にクラスの学生らから様々な質問が出たことは、前述したような教育を施した成果のように感じられて納得感があった。それゆえに発表資料内容が十分調べられていない場合には、存分に学生たちに小言・意見を忌憚なく言うように心掛けている。それが常識となる社会にするためには、まず眼の前の学生たちにそのように接することだ。

筋断裂をさせるのが筋トレ、ゆえに筋肉は育まれる
意見を言ってこそ相手を尊重しているのだ
未来の社会に絶望しないために。


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テーマ詠「パン」ー宮崎大学短歌会10月歌会

2021-10-21
テーマ詠「パン」
身近な食べ物ながら難しい
諸々のパンの名称を知る

後期授業期間が始まって初めての歌会、講義の多くは対面になったが引き続きオンラインにより
開催となった。この1年半で、ほぼほぼ「オンライン」によって各自の自宅から2時間半程度の歌会が恒例となった。途中参加や見学なども含めて、学生たちにとっても取り組みやすい方式なのだろう。本学はほぼ対面講義であるが、都市部でハイブリッド方式(オンラインと対面の同時講義)を希望制で実施すると、多くの学生が「オンライン」を選択するという実情を聞く。単位取得という講義であっても対面が絶対という訳ではなく、「オンライン」を便利な方法として学生が受け入れていることを知る。宮大短歌会でも対面を希求する意見がない訳ではないが、「オンライン歌会」が続いている。短歌に関しては特に同時双方向オンラインとの相性もよいように思う。さて今回のテーマ詠「パン」、意外や難しかったという声も多かったが出詠10首、8名の参加を得て熱い語り合いが展開した。

「パニーニ」「ナン」「チャパティ」「ベーコンエピ」など特徴あるパンの名称を初めて知る発見の歌、もちろん「メロンパン」「アンパン」「フランスパン」といった聞き慣れたパンの特徴を活かす歌もあった。食パンの「耳」、二つに割った際の不公平感、「4枚切り6枚切り」論争、朝食はパンが健康食か?パンの具材、等々の取材の仕方には各自の工夫が見られ解釈するにも興味深かった。それにしても思うのは、やはりこの国では「白米」が主食であり、やはりパンは脇役であるようだ。各国の特徴あるパンを多種多様に取り入れ、食事や間食にバリエーションを拡げているように思える。個人的に「菓子パン」などという言い方が気になり、果たしてそれは「食事」なのか?とその甘さや栄養価に疑問を持つことも少なくない。食べ物のテーマ詠は、どこかでその食文化としての社会的背景を映し出すことも、あらためて感じた歌会であった。

私たちの食文化の混淆(こんこう・混ざり合うこと)
アンパンマンという題材の巧みさ
オンラインでも熱量の高い歌会である。


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食事や酒のような味わいの心

2021-10-20
「短歌を味わう」
それは三十一文字に込められた「心の体験」である
決して「意味成分」がわかったというのみにあらず

多様なサプリメント(以下、サプリ)が発売されている時代になった。日本語なら「栄養補助食品」というわけで、注意書きにも「食生活は、主食、主菜、副菜を基本に、食事のバランスを。」などと表示されている。つまり栄養が詰め込まれたサプリのみでは健康維持には問題があって、バランスのよい食事をするのが基本だと謳われているわけである。これだけ多様なサプリがあると、人間が恒常性維持に必要な栄養を選び取るならば(サプリのみでも)満たされるのかもしれないなどと素人考えも浮かぶ。ダイエットを行なっている人などは、必要な成分のみを吸収したいと願うはずだ。だが極端な減食をして痩せるのは、明らかに身体によくない。若い頃には、「栄養ドリンクを飲んでいるから大丈夫だ」という強引な考えを強調する人がよくいるものだ。だがそれは、間違いなく身体を壊してしまう。サプリに表示された注意書きも、その栄養が万能でないことを諭すものだろう。人間には食事が必要なのだ。

栄養素のみならず、人間には食事をする精神的な作用が大きいように思う。なぜ?「美味しいものが食べたい」と思うのか。たぶん「恒常性維持」のためだけではなく、食事をすることが「生きる喜び」となるからだろう。「吉田類の酒場放浪紀」のようなグルメ番組が人気なのも、明らかに「酒と肴が人生の喜び」であると多くの人々が感じているからだろう。「味わい深い酒と肴」は、人生の至福である。確か高校の保健体育の座学の時間に、「嗜好品」という言葉を習った印象が深く刻まれている。『日本国語大辞典第二版』に拠れば、「必要な栄養を摂取するためでなく、香味や快い刺激など、個人の思考を満たすために飲食するもの。」とある。「酒」はその典型的な逸品である。もちろん過剰に摂取すれば、身体が悲鳴をあげる。吉田類さんのように「入れただけ動く」ということが肝心だろう。この「快い刺激」を求める志向は、動物にない人間的な営為であろう。自らを「もう一人の自分」にして他者と語り合ったり、ひとりで陶酔してむしろ心のうちを内観したり。「味わう」という作用で、人はその心を豊かに維持することができる。

教育において「文学」の価値を蔑んでしまっているのは
サプリだけ飲んで食事をしない生活に似ている
「嗜好品」の陶酔からこそ「文化」が育まれることを知るべきだろう。


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〆切にどう向き合うか?

2021-10-19
〆切をどう意識してどう行動するか?
早々に終わらせる?〆切厳守?まあいいか?
原稿催促など昭和にお馴染みの風景なども

昭和の映画・ドラマなどでは、作家さんの元に編集者が借金取りならぬ「原稿取り」に詰めて、あれこれ策を弄するという常套な場面があった。確かザ・ドリフターズにも、そんなコントがあったと記憶する。メールや郵便や宅配も今ほど便利に利用できない時代、「紙原稿」を直接手渡す重量や手触り感があっただろう。たいてい作家さんはその場合、編集者が家に来ていても原稿を書き続けているのが常だ。上手く筆が進まないと原稿用紙を丸めて投げるので、次第に部屋は原稿用紙のゴミだらけになる。400字詰原稿用紙ゆえ、書いていって気にくわなければ最初からやり直しとなる。これもまたワープロソフトを使用するのとは大きく違う面である。要は作家さんが特別な存在で、「〆切日」を設定しても一向に守らないことが社会的に慣例化している訳である。作家さんはある意味で世離れしており、社会性はなく自らの世界観から秀作を生み出すという観念がはびこっていたように思う。編集者側も「原稿を待てる」という社会的・時間的余裕があり、味のある名作を数多く生んだことだろう。故・井上ひさしさんなどは自ら「遅筆堂」と称し、原稿を仕上げるのに大変に時間がかかったのは有名である。

学部卒で教員になった時、定期試験の答案が出てくるとその場ですぐさま採点を始める1年先輩の先生がいた。僕は気になる設問の解答欄をまず楽しみに何クラス分か繰ったりして、ひとたび答案を引き出しに保管し、気持ちが向いてから採点を始めるタイプだった。同僚の先輩は定期テスト期間中に採点を終わらせ、成績〆切までかなりの余裕を残して成績を提出していた。僕は記述問題などの減点具合などをあれこれ考えるせいもあるが、〆切日になってようやく成績票を提出する。新卒当時はまだ手書き成績票に書き入れて担任に手渡しするという方式で、その後に担任は各教科の成績一覧表を「閻魔帳」上に手書きで作成していた。教員生活が進むにつれて、次第にパソコン入力で自動的に成績一覧表が作成されるようになった。仕事が与えられたら「すぐやる」か?「しばらく寝かせる」か?明らかに僕は新卒時には後者のタイプ。その後、諸々の機会に母の行動を観察すると、やはり何事も「しばらく置いて」やる生活習慣があることに気がついた。遺伝子なのか生育の段階でそう習慣化させられたのか、母親の言動の習慣が無意識に染み付いていることが他にもある。今でも僕は前項に記した作家さんほどではないにしても、「〆切日」ギリギリまで粘るタイプである。今回は「待つこと」を一つのテーマに新刊を著したが、初校の〆切日となる前日までやはりじっくり「待った」訳である。東京の出版社まで宅配のタイムサービスでやや高い値段を支払い、昨日の午後にようやく発送した。自分なりに校正の追い込みをかなり頑張れた納得感はある。だが時折、初任時の先輩の姿勢を思い出すことがある。少なくともメールや実務に関しては、初見で対応する習慣が必要な時代だ。誕生日プレゼントをした靴を母は2週間ほど寝かせ、「短歌オペラ公演」がある特別な日に下ろしていた。「日を選ぶ」思考もまた大切なこと。今回の自著にある「前向きと前のめりは大きく違う」という自らの文言に頷いたりしている。

原稿のやりとりも高速化した
だが性急に結果だけを求める社会でいいのだろうか?
人生の「スピード感」について、「待つこと」の大切さと天秤にかける日々だ。


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「国文祭・芸文祭みやざき2020」閉幕に寄せて

2021-10-18
7月3日〜10月17日107日間
「山の幸 海の幸 いざ神話の源流へ」
いくつものプログラムに参加して

「第35回国民文化祭・みやざき」「第20回全国障害者芸術・文化祭みやざき大会」が閉幕した。自著校正作業が大詰めを迎えており、自宅で作業をしつつ閉会式のグランドフィナーレのみをWeb配信画面で観覧した。この「みやざき」において、多様な人々が個々の持ち味を活かし、文化の多彩なフォーカスプログラムに参加してきた108日間であった。この閉幕にあたり個人的に深い感慨を覚えている。もとより校正作業大詰めと記した自著は、「国文祭・芸文祭プレイベント」での出前講義を契機としてその内容を膨らませて一冊にまとめたものである。思い返せば2019年12月、市内の2箇所のTUTAYA書店内で通常のお客さんがいるままに講義を展開した。家族・親類をはじめ学生や知人で来聴してくれた人々もあり、その年のクリスマスの思い出になった。今でも当該のTUTAYA書店に行くと、その時のことを思い返して感慨深い。特に2箇所目の会場での講義には伊藤一彦先生がお忙しい中を訪れてくれて、熱心に講義を聴いていただいた。その後、伊藤先生には「一冊の本にまとめたらよい」と常に背中を押していただき現在に至る。途中、急なコロナ禍によって大学の役職上で多忙を極め、なかなか出版への動きが鈍ったこともあった。だが伊藤先生からは事あるごとに励ましの言葉をいただき、学部重点経費の獲得、そして出版社からの企画承認に至り、2年越しの出版が間近に迫った。この閉幕の思いのままに「あとがき」を記したところである。

「国文祭・芸文祭」では、県庁のご担当の方々に誠にお世話になった。前述した「まちなか文化堂」に始まり「短歌オペラ 若山牧水 海の声山の声」まで、特にいつも心にかけてくれた一担当者の温かい気持ちが心に刻まれた。7月開幕直後に本学附属図書館で開催した「みやざき大歌会」では東直子さん・田中ましろさんの来訪も叶い、中学生・高校生・大学生らが一堂に集まり歌会ができたことは貴重な機会であった。この企画はこの「国文祭・芸文祭」で終わることなく、今後も「みやざき」の若い力を短歌でつなぐ行事として、引き続き展開できればと考えている。何より若い人たちに文化を伝えること、短歌イベントをやっても中高年以上ではなく若い人の参加があることが大切である。また8月の「吉田類トークショー」では、伊藤一彦先生・俵万智さんとともにコメンテーターの席に着かせていただき、この上ない「みやざきの縁」に感銘を受けた。吉田類さんとも、東京のワインバーでともにグラスを傾けた日から11年ぶりに再会できた。誠に「酒縁」のありがたさをあらためて考えさせられたが、肝心なのはその場の「気遣い」であることも類さんから学んだことだ。「文化」とは、人がつながりことばが融け合い個々が個々なりの表現としてこの世に何かを遺すことだろう。その際たるものが人にとって「詩歌」であることを、このトークショーメンバーで確認したような好機であった。トークは地元ケーブルテレビで編集されて放映され、それが今もYouTube上で閲覧できるようだ。

誠にありがたき出逢い
あらためて担当した県庁の方に深謝
豊かなみやざきの「海の幸山の幸」を文化で掬い未来へとつなげよう。


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短歌オペラ「若山牧水 海の声山の声」公演

2021-10-17
全3幕9場
脚本:伊藤一彦・作曲:仙道作三
日向公演・東京公演の2幕に加えて第3幕「故郷・日向の国」

僕が高校教員をしていた時、新入生を担任するとそのクラスに実に声のよい男子生徒がいた。「国語」の授業をすれば聡明な考え方を提示してくれたり、高1にしては「大人」な生徒だと印象深かった。彼は弁論部に入部し僕が就任時からお世話になっていた国語の先生の指導を受け、校内外の大会で入賞を続けた。奇しくも2年生以降も特進クラスで僕が担任することになり3年間通しての付き合いとなった。卒業式には彼が「答辞」の総代となり書いて来た原稿を読んだ時、それまでに僕が体験したことのない「物語」のある内容に驚いた。「式辞」という型通りを超えて、時事的な内容を含んだ「答辞」は卒業式に参列した卒業生・在校生・教職員・保護者の涙を誘った。このような僕の教員生活で忘れられない生徒が長年の時を経て、奇縁も奇縁にこの短歌オペラで「若山牧水役」を演じてくれた。以前の日向公演・東京公演でもこの巡り合わせには感激を覚えたが、再び「国文祭芸文祭みやざき2020」において、第3幕「故郷・日向の国」を加えて「海の声山の声」と題して増補再演されたわけである。この県をあげての文化の祭典を締めくくる公演としてパイプオルガンも鎮座する県立劇場「アイザックスタンホール」で、ミニ生オケも入った豪華な公演となった。

第1幕・第2幕も以前の公演が思い返されたが、今回はやはり「みやざき」を舞台にした第3幕にいたく感激し涙する場面が続いた。長男・旅人を連れて故郷の坪谷へと帰郷する牧水、沼津に大きな家を建てたので、坪谷で暮らす母・マキを呼んでともに暮らそうという意志も持っていた。旅人役で出演したのは現・坪谷小学校の児童で見事に短歌一首を歌い上げ、「村の子ども」役の友人2名とともに「ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り」を普段から登校時に行う朗詠さながらに、日向の山と海に届くような声をホール全体に響かせてくれた。牧水が母との再会を果たす場面性に加えて、「子どもらの声」というのはどうしてこんなに心に響くのだろう。「生きる」ことへの「期待・希い・祈り」がその幼い声には込められているからか。また僕にとって感激の沸点は、脚本・伊藤一彦先生の代作歌にあった。公演前の俵万智さんとのトークでご自身も語っていたが、代作するという行為は和歌短歌の歴史の中では正統なる詠法である。代作歌は主に「母・マキ」の心情が語られており、牧水の母子愛の熱さがあらためて心に迫った。若かりし頃の恋人との激しい恋・歌人としての牧水を支えた妻の忍耐強い愛・そして生涯にわたり息子牧水を生きる糧とした母の愛情。牧水の生涯がどのような「愛情」によって支えられ、今に名を遺す歌人となったかがひしひしと伝わる展開には深い感銘を受けた。最後にフィナーレで語られた心に沁みる伊藤一彦先生の歌二首を、敢えてここに提示させていただきたい。

「透きとほる水をかさねて青となる不思議のごとき牧水愛す」
「春おぼろ夏きらきらと秋冬は澄みに澄むなり日向の空よ」(伊藤一彦)
いま宮崎に住んでいて、この機会に巡り会えたすべての出逢いに感謝する。


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丹念に積み上げてこその著作物

2021-10-16
「ネットにありました」
がなぜ危うい情報なのか
2021年をかけて積み上げた著作物

新刊自著の初校が大詰めを迎えており、自宅書斎に積み上げられた参考文献から引用した箇所の照合、文章内容や展開の妥当性、もとよりわかりやすさなど、ペンの赤インクがなくなるほど力を尽くしている。思い返せば今年の松の内が明けて企画書を出版社に送り、内容が認められて「GOサイン」が出たのち、寒さの中で冴える頭をひねり完全元原稿を春先に仕上げた。4月以降、編集者とのやり取りでいくつかの改稿が提示され、粗粗しい部分が次第に整えられて行った。前期講義と並行しての作業は思いの外時間を要し、夏休みになっていつでも校正ゲラが出て来てもよいように体制が整った。もはや僕自身のペースのみならず、出版社の仕事の配分・進捗ももちろん作用し今に至る。こうして小欄を記す机の脇には、今も使用した参考文献が山積みされている。1冊の著書を刊行するまでには、誠に多くの時間を費やし参考文献からの情報収集、質的な検証と執筆・校正・確認に伴い、企画・編集・デザインなどの仕事が丹念に積み上げられて、ようやく1冊が仕上がる訳である。

予価¥1600円、内容タイトルにちなんで今年のクリスマス時期までには発刊予定である。この値段が市販される自著の価値なのかなどと、好きな感覚ではないが世相なりの金換算を考えてみる。例えば、小欄をみなさんがネットでお読みになるのは「無料」である。それは僕が朝起きて、その時点で脳裏に残る前日のテーマを勝手に考えて、独善的に文章にして発表しているに過ぎない。書き始めから30分から最大1時間以内の作業である。よって丹念な蓄積に基づいた情報ではなく、「思いつき」感が満載である。もちろん内容はそれなりに的確さを意識はするが、時に勘違いした内容をそのまま記しているかもしれない。されどこうしたブログなどを毎日更新していれば、いっぱしのエッセイストかのような真似事が可能だ。この点が「ネット」の融通性のあるところでもあり、また情報として危ういところでもある。最近、よく学生が講義内容やレポートなどの参考に「ネットで調べました」と平然と言うようになった。少し以前まではネットで調べたとしてもそうは公言しなかったが、さらにその情報の危うさへの意識が薄くなってしまったようだ。古典本文も現代語訳も彼らの「辞書」はスマホ内にあるのだ。教員を育てる立場として厳に意識を改善すべきと教室で目くじらを立ててしまう日々だ。少なくとも「演習」などを通じて、自らが著作を執筆し発刊するようなことの疑似体験をさせたいと思っている。

多くの資料のそれぞれがまた
多くの時間を費やして執筆・編集・出版されている
などと1時間以内で書いている今日のこの記事を、あなたはどう読むのだろう?


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コンパクトな人とのつながりーみやざきの魅力として

2021-10-15
短歌関係の人々とも
美味しいお店の人々とも
顔と顔がお互い見えるつながり

「国文祭芸文祭みやざき2020」が早くも17日(日)で閉幕となる。7月3日開幕1週間後に本学附属図書館で「みやざき大歌会」を開催し、8月末には「吉田類トークショー」オンラインにコメンテーターとして参加させていただいた。「全国高校生みやざき短歌甲子園」をオンライン配信で観覧し「短歌展きらり」も現地で参観した。この間、常に考えて来たことは「みやざきの魅力とは何か?」ということだ。トークショーで自ら実際に口にしたり、また自然アートを日南南郷大島で観る機会もあった。もちろん自然の豊かさ、その恵みとしての食文化など風土や地理的なものも大きな魅力の基盤ではある。だが文化的祭典を通してみると、あらためてコンパクトな人とのつながりこそが「みやざきの魅力」ではないかと思っている。歌人の方々や短歌に勤しむ学生たち、県庁の実行委員会の方々、企画そのものを支えるスタッフの方々、大学職員の方々など、お互いに顔と顔が見えるつながりがあるのは貴重なことだ。

もちろん飲食店などについては、東京でも同様なつながりを持つのが信条ではあった。今でもつながるお店が何軒もあり、コロナ禍でいかに頑張っているかについて連絡を取る機会も少なくない。ここぞと惚れ込んだお店の常連になるのが趣味みたいなところもあるが、その濃密度が「みやざき」ではさらに高い気もする。ようやく感染は減少傾向ながら、この1年半ぐらい市内中心部の繁華街の馴染みのお店に伺えていないのが気がかりだ。諸々と考慮すると「お家ご飯」が基本的な習慣となってしまったコロナ禍は、人と人とのつながりを遠ざける不埒な悪行をしている。だがそれを超えてお店に足を運んだ時に、笑顔で話してくれる人々の寛大さにまた心を射抜かれる。食事中は憚られるが、マスクをして会計をする際にお店の奥からわざわざ店主が出て来て、あれこれ話してくれるありがたさをひしひしと感じる。ただ「美味しい」だけではない、そして決してファーストフードなど顔のない店舗にはない、店主とのコンパクトなつながりがいい。少なくとも、こんな人と人とがつながりを大切にする地方を支えてくれる政治家に、僕らは投票しなければならないだろう。

みやざきの密度
人の縁で豊かに生きられる場所
決して都会の真似事などしなくてよいのだ。


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