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運転免許証の写真

2020-01-21
なかなかうまくは撮れないものが
その年々の生活の気分が表れるような
誕生日前日にして免許更新

休日出勤の振替代休をいただいたので、運転免許証の更新に出向いた。更新可能なのは誕生日の前後1ヶ月、気分的にはなるべく誕生日に近い方がよろしいかと思っている。幸い「優良運転者」いわゆる「ゴールド免許」であったため5年ぶりの更新で、宮崎に移住してからは2度目の更新となる。この度も「優良講習」であったゆえ、30分程度の講習を受講して更新手続きは完了した。最近はかなり視力も衰えてきたが、係官の方の指示により裸眼で測定、すんなりと「眼鏡等使用」の条件も付かずに更新されることになった。その後、しばらく待機して写真撮影となる。一般的に免許証の写真というのは、気に入った顔では写らないと云う。果たして今回はどうだろうか?

撮影場所の列に並び順番が来ると撮影機の前に座り、シャッターのタイミングがはっきりせず、急に撮影される感覚がいつもある。しかしながら、今回は写真機の性能も向上して係官の方も唐突で事務的ではなく撮影タイミングを知らせてくれたので、なかなか気分がよく写った実感があった。その後、30分の講習では、宮崎の交通事故の原因で一番多いのが「漫然運転」だという点が気になった。全国平均で「漫然運転」を原因とする交通事故は60%台だが、宮崎県では72%だと云う。同じく高齢者の割合も74%と、全国平均の55%前後を大きく上回るそうだ。「漫然」は裏返せば「寛容」「温和」、さらには高齢者の増加と運転免許の問題も地方の課題。宮崎県の課題もここにありとあらためて実感した。さて、免許証の写真の仕上がりはどうであったか?免許更新に行く前に誕生日ということで、妻が高級ランチをご馳走してくれた。その美味しい香りが未だ残っていたのであろう。免許はその時々の生活のあり方が、その写真に反映するような気がする。

写真の写り具合は想像にお任せするが
新たなる5年間も安全運転で
幸多かれとハンドルを握り進み続けたい。


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「新しき靴」いかなる方位へ歩かむ

2020-01-20
「新しき靴履きて立つ街角にわが望郷の方位をさがす」
(内藤明・本年歌会始「選者」としての詠進歌)
靴は方位をさがす

靴には並々ならぬこだわりがある。今年の箱根駅伝以来、長距離競技では「ピンクの靴」が高速記録を連発する道具として注目されているが、靴の機能が人間の身体能力の限界を超えようとしているようで考えさせられる事例である。果たして、人間の身体は靴の反発力に耐え得るのであろうか?高次元にトレーニングをしている選手であるからこそ履ける代物ではないかと、あれこれ穿った見方をしてしまうものだ。それほどの次元の効果ではないにしても、凡人の我々も日常生活で靴によって身体は大きく左右されているように思われる。ゆえに脚に合うもの、衝撃吸収力に優れ脚を圧迫しない製品を高価であっても選ぶようにしている。

大地と自分を接する大切な役割を担う靴。日常では省みられることも少ないようだが、その歩みは人生そのものであると思う。どんなに身だしなみを整えても、足先に気が遣われていないのは嫌だ。家を出る前には、必ずひと磨きするのが習慣になっている。さて先週行われた「歌会始の儀」で、選者を務めた内藤明さんの歌を冒頭に記した。題詠「望」は「望郷」という漢語として使用されており、「新しき靴履きて立つ」という表現に、新たな人生の歩みを始めるような思いが読める。「街角」の語は喧騒のイメージを感じさせ、「方位」さえ見失いがちな雑多な都市の中で自らの「望郷」の思いを探る心が伝わってくる。「新しき靴」が原点たる「望郷」への一歩となる。「靴」そのものにやはり、大いなる「望」があるものだ。

「センター試験」という名称は終了した
「新しき靴」に希望ある高校生が道に迷わぬように
「入試」こそが今「望郷」ならぬ原点を見据えるべきかもしれない。


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徒歩のこころで考えたい

2020-01-19
坂道を一歩一歩進む
階段を一段一段歩む
その基本的で謙虚なこころで

東京などの都市へ行くと、エスカレーターにエレベーター、さらには動く歩道もあって電気を使用して身体を動かさないで済む場所が大勢を占める。高齢者の方々はもとより、キャスターバッグを持っている際などは大変に便利に利用することも少なくない。だがひとりで身軽ならば、なるべくこのような類を使用しないようにしている。現在の職場である大学構内でも、7階建の4階に研究室があるがエレベーターは使用しない主義だ。だが地方では公共交通機関の本数の少なさもあって、車を使用する機会も必然的に多くなってしまう。そんな中でも最近はあらためて「歩く」ことを重視している。

坂道を若い高校生が、自転車を一生懸命に漕いで登る姿を見る。端から見るとなんなく自力で登り切るように見えるが、ペダルひと回しひと回しに脚力と体重を乗せて進むことそのものに意味があるように思うことがある。世に「エスカレーター式」という比喩があるが、人生においてこうした電動式によって楽をするごとき道を歩むのは、「生きる力」を削いでしまうようでどうもいただけない。僕の一つの経験として、困難極まりない大学受験を超えられたことがその後すべての困難に対応するこころの糧になっているのだ。それゆえに今日もまた、僕は大学の研究棟の階段を一歩一歩登るのである。

電気屋ガソリンを使って身体を悪くしても
科学や文明の進歩が人間の身体やこころを脆弱にしてはいないか
明日へ向かって今日も、坂道を階段を大腿筋に力を込めて登るのである。


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「望み灯して」歌会始の儀

2020-01-18
「観覧車ゆふべの空をめぐりをりこれからかなふ望み灯して」
(本年歌会始の儀・召人・栗木京子さんの歌より)
「題」は「望」。

仕事で中継を観ることはできなかったが、16日に皇居で「歌会始儀」が催された。題は「望」で皇后雅子さまは17年ぶりの出席ということで「災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす」という歌を詠まれた。令和初の儀において、昨年来の台風などの災害の被災者に寄り添う歌で、特に「若きらの力」に注目され国民への慈愛が感じられた。天皇陛下も「学舎にひびかふ子らの弾む声さやけくあれとひたすら望む」とやはり「子らの弾む声」と次世代を大切にされる歌を詠んだ点で、仲睦まじいご夫妻の関係も垣間見られた。「望」は「若きら」と「子ら」にあり、国の未来は彼らのものであるはずだ。

さて今回の「召人(めしうど)」のうちに栗木京子さんがいらした。栗木さんは牧水賞選考委員でもあり、毎年の授賞式を始め様々な機会でお会いすることも多く親しいゆえにその歌に興味を覚えた。中学校教科書に掲載されてあまりにも著名で人気な「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日われには一生」自らの歌を本歌として、「想ひ出」ではなく「これからかなふ」未来への希望を詠んだ。歌人としての栗木さんご本人の人生も「観覧車」のごとく投影されているようで、「ゆうべ」は暮れるがまた朝が来る「望みを灯して」という人生の円環を感じさせてくれる。来月には牧水賞授賞式でお会いできるので、この歌についてお聞きしたいと思っている。

「望」は「若きら」と「子ら」
教育学部はいつも彼らに寄り添う
国を挙げて「望」の叶う年でありたい。


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「掌ほどのたたふる光」日々の希望

2020-01-17
「冬曇ひくくわたれる沖の海に掌ほどのたたふる光」
(佐藤佐太郎『しろたへ』より)
じっと掌を見つめたり

暖冬傾向で日本列島周辺にたくさんの低気圧があると、TVで気象予報士が話していた。例年であれば西高東低の冬型の気圧配置となり、すっきりと晴れて遠望も鮮やかな日々が続くはずである。台風の猛威を「地震」そのものとするならば、体感しない「地殻変動」がこの季節を狂わす気圧配置のように思えて危機感が拭えない。時雨というわけでもなく、暖かさを運び来る春先の雨でもない歳時記にない雨が降っている。極度な乾燥は回避されるのであるが、冬の冴え冴えした山並みをやはり期待したい時節、なぜか傘もさす気になれない街角である。

1月も早半分が過ぎ去ったが、今年の正月に南郷で観た朝陽がいたく心に焼きついている。小高い頂から見わたす漁港とその周辺の街、点在する小島が表情豊かに南海の光景を演出している。静かに音もなく巨大な力を潜めて登りくる朝陽、まるで我が家の玄関先に実をつけた南天のような粒が沖の低い位置の雲とも靄ともいえぬあたりから独特の朱を湛えて現れる。その後、栗金団のような靄の上に滲み出るように炎が上がりはじめる。冒頭に記した佐藤佐太郎の歌も、そんな冬の朝陽を「掌ほどのたたふる光」と描写している。遠望は時に「掌」のうちに載るほどに、そこに人は希望を見出すのであろう。

ゼミ新年会
新しい出発・新しい挑戦
雨の中でも雲の向こうで今日もまた陽は昇る。


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「逆白波」のひびくゆふべに

2020-01-16
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
(斎藤茂吉『白き山』より)
「さかしらなみ」響きの奥行き

冒頭に記した茂吉の著名な名歌を声に出して読むと、いかにも寒々しい感覚に持っていかれる。山形県「最上川」そのものが含みもつ、「五月雨をあつめてはやし最上川」の芭蕉の句に見られる急流なイメージがある上に「冬」が上塗りされる。「さかしらなみ」の語に「サ行音」が響き、それを「ア行音」が受け止める韻律には、冬の川の過酷な寒さが身に沁みて感じられてくる。それが具体的にどのような光景かは、たぶん現実を見なければ理解はできないであろう。だが、この素朴な情景描写に徹した表現から、創作主体の沈痛な抒情が伝わる作品となっている。その秀歌たる大きな要素に、音の響きが貢献していると言えるであろう。

今年は北信越・東北・北海道は雪不足で、スキー場などの営業も儘ならないところが多いと報道にあった。冬は寒いからこそ冬、昨夏のように台風による大きな被害も地球温暖化の現実であるならば、「あるものがない」ことにも大きな危機感を持つべきかもしれない。例えば、雪の寒さ冷たさがあってこそ、かの地の酒蔵は冷やされて上質の日本酒ができていた。生態系などにおいても雪に覆われ、雪解け水があってこそむしろ「あたため」られるものも多いことだろう。もはや茂吉の詠んだ「最上川」の光景は、失われてしまうのかもしれない。温暖化という急速な地球環境の破壊によって、風土の光景の保存という重要な記録の役割を短歌が担うかもしれない。

寒さに向き合う身体
過酷に鞭を打つような「逆白波」
その奥に人間のあたたかい体温があることを信じている。


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いつもおでんがそこに

2020-01-15
「お田楽(おでんがく)」から「楽」が取れて
幼少の頃から「おでん種」屋さんへ
冬にはいつもそこに

おでんが大好きだ。久しぶりに鍋の中に具材が溢れるほどに、妻が煮込んでくれて嬉しくなった。「おでん」の名の由来は、冒頭に記したように「お田楽」から「楽」が脱落したもので、江戸時代は味噌を焼豆腐に塗りつける「田楽」のことを指した。現在のように醤油味のだし汁で様々な具材を煮込んだものは、明治以降の産物であるらしい。関西ではむしろ「関東煮(かんとうだき)」と呼ばれ、関西で鶏の出汁に下煮をした種を入れたきれいな料理となって、関東に逆輸入されたものらしい。(『日本大百科全書(ニッポニカ)』による)その「おでん」については、幼少の頃からいくつかの思い出がある。昔は裏路地で近所の子どもたちと遊んでいたが、そこへ「おでん屋台」を引いたおじさんが来るのである。子どもらは一旦遊ぶのをやめて、おでん屋台のタイヤ周辺の枠組みに足を掛けて登り、煮込まれている四角い鍋の中を覗き込んだ。ズボンのポケットから10円玉などを出して、「野菜ボール」などを1串買うのである。あの「おじさん」の顔は今も忘れない。

生まれ育った街の中で、僕の生家は比較的東側に位置したが、西側に「田端銀座」と称する商店街があった。そこに「おでん種」を専門で直売する店があった。(調べるとどうやら今も営業しているようだ)「田端銀座」に母と妹と買い物に行くときは特別感があって、冷蔵ショーケース内のおでん種を選ぶときは格別な気分であった。なぜかその「田端銀座」の入口付近の露店で餃子を売る店があって、「おでん」と「餃子」はその日の夕飯の特別なセットであった。さらに言うならば、家の近所にはない玩具を売る大きなスーパーが「銀座」にはあって、毎回そこに行けるのも楽しみであった。「おでん」とは不思議な縁であるが、大人になって一人暮らしをした際にも、近くになぜか「おでん種屋さん」を発見した。特に冬になると常連となり、おばさんとは顔馴染みであった。宮崎に移住してからも1度、宅配で配送さえしてもらったことがある。しかしWeb情報によると、その店はこの3月に閉業すると知った。何とか3月までに1度はと思っている。

煮込まれた大根・じゃがいもの美味しさ
色のついたゆで玉子に厚揚げ
やはり宮崎でも家で煮込み、懇意にする街の店の「おでん」がそこに。


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人に向き合っているか

2020-01-14
飲食店の店員さん
事務的ではなく人に向き合う仕事として
そこにお店があるからではなく人のところへ行くのだ

新規開店をして評判だと云う飲食店に妻と行った。休日ということもあって混雑しており、座席が空くまで約30分、食べ物が来るまでにおおよそ1時間は要したであろうか。最初に案内された席が陽よけスクリーンは下ろしてあるものの、かなりの陽射しで一旦は座ったが眩しく注文後に新たに空いた席に移動したいと申し出てそれが叶った。しばらくすると陽射しのキツい席に若いカップルが案内されて、僕などは「若い人は陽射しにも強いんだな」などと感心していた。ところが暫くするとそのカップルに僕らが注文したのと同じ物が運ばれて、男子の方が頬張っているのに妻が気づいた。飲食店で自分たちより遅く来た客が、同じ注文品を先に食べてるというのは誰しも気になるであろう。たぶん、座席を移動する前に注文したことで店員さんが運び間違えたのではないかと僕ら夫婦は推測した。それにしても、同じメニューを注文しているとは偶然であるとは思いつつもである。

店員さんに確かめようと目線を送ると、それだけで店員さんも気づいたようで、「すいません、すぐに持って来ます」と言って注文品が比較的にその後すぐに届けられた。混雑した店内では、「場所」(席番号もついている)と注文品を対応させて意識しているのは十分に理解できる。僕も新任教師1年目の頃は、「この位置に座っている生徒」と「場所」で記憶していた経験がある。だが、やはり教師こそは「その生徒、その人」を強く記憶すべきと思い直し、新クラスを担任する場合、顔写真と名簿を存分に見比べて記憶してから4月を迎えるように心掛けたものだ。新学期が始まって生徒たちの発言とか反応で、次第にその記憶に新たな情報が付加され、ほぼ1週間程度で記憶は完全なものとなる。(もちろん時折、似た生徒がいて混同することがないわけではない)すべての人に向き合う仕事では、向き合う掛け替えのない「人」を記憶に刻むべきと思う。

どうやら、その店の食べ物とはあまり相性もよくなく
新しい物好きと高級食材とはいかに
僕らを「僕ら」と意識してくれる店が好きだ。


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1日の運動量は時計が知っている

2020-01-13
時計がすべて量ってくれる
運動量・エクササイズ・立っている時間
1日に身体をいかに生かしているか

休日ながら書かねばならない原稿があり、研究室に籠った。静かなキャンパスは人影も少なく、落ち着いて筆も滑らかであった。ほぼ午前中から机に座っていると、丸1日の運動量がかなり少ないことを知った。歩数なども夕方に至り2000歩しか記録しておらず、1日ですぐにどうこうという訳ではないが基礎代謝の退行などが気になってしまう。というのも、先月から機能的な腕時計を購入し使用していることによるもの。腕に装着していると歩数はもとより、1日の運動量やエクササイズ・立っている時間などを自然に計測してくれる。座って動かないでいると、「1分間の深呼吸をせよ」とか「立って1分間は動きましょう」などと促してくれるのだ。余計なお世話、といえばそれまでだが、確かに時折の身体的な動きは脳の活性化にも資するものと実感した。

近現代化の波の中で、人間は「動かない」身体に退行してきてしまった。自動車・自転車・エレベータ・エスカレータから動く歩道まで、歩かないで生活できる代物が身の回りに溢れている。旅といえば航空機か新幹線かという時代、ひたすら歩いて邂逅を求める旅などはむしろ計画的でなければ実行できない。かの若山牧水の歩行量や速度に距離などが計測できていたら、かなり驚異的な数字なのではないかと思う。動かなければ筋力は衰え、その結果で内臓や血液にも悪影響が及ぶ。乗らない自転車は錆びついてしまうように、身体を錆びつかせてはなるまい。研究者の宿命で机に向かう時間は貴重であり、かなりの分量を確保せねばやっていけない。それだけに、日常にいかに身体を動かすことを埋め込むかが課題だ。機能的腕時計も近現代化の先にあった代物であるが、時代を省みて自分の意識を変えてくれるパートナーなのかもしれない。

夜は近所の公共温泉へ
「もう1月も半分近くじゃ」と知り合いの方が
脳活動も次なる意欲も、そして身体活動も活性化していこう。


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空と海を自在に制す

2020-01-12
人間が叶えられない領域
空中の目標物へ雄大に飛び上がる
その前提として水中での見えない動作があって

「地に足がついている」という成句がある。概ね「現実的である」とか、「堅実に物事ができる」といった趣旨で使われる語句であろう。裏を返せば「空(間)」とか「水(海など)」は、人間にとって「現実的」ではなく、「堅実に」は物事をこなすことのできない領域である。人間は自らの力の限界を超えるために、走高跳なら「2.45m」、棒を利用する棒高跳で「6.14m」の高さまで(陸上屋外世界記録)の空間を制するまで夢を叶えてきた。また水中でもいかに速く泳げるかを競い、50m(自由形男子)を20.91秒で到達するまでになっている。年々様々な記録が更新されるのは、こうした原始からの動物的な欲求を叶えるためにあるようにも思う。五輪の年としてあらためて、各種目のあり方や見方を考えるべきではないかと思っている。

姪っ子がトレーナーを務めるイルカショーを観た。既に何度も観ているがその都度トレーナーとしての成熟度が増し、イルカに足を持ち上げられ空中に飛躍する姿は壮観であった。高等とはいえイルカという哺乳動物との信頼関係やいかに?自らの身体を空中に押し上げる見せ場の場合、もし誤った押され方をして尾鰭などが身体に触れたら大変に重篤な怪我の恐れもあり、命がけのショーなのだと本人の弁で知った。それにしても何度観ても、イルカが空中を自由自在に飛翔する姿には心を揺さぶられる。空中での刹那の滞空時間にこそ、奥深い真理が潜んでいることを感じさせられるからである。かなりの高さまで水中から飛び上がり、回転をしたり錐揉みをしたり。高い位置に設けられたボールに触れるだけの跳躍力を計算して実行しているかのようだ。重要なのは、あまり観客席からは見えない水中での動作にあろう。哺乳類ながら空と海を制するイルカの高等さ、何よりも地球の環境を破壊したり武器で諍うこともない。もちろんそのあり方を含めて、イルカショーが語ることは単純なことではないと思っている。

妻と義父母と父母もともに
新年の空中への希望を見た
雄大な自然の海とともに動物としての能力を考えさせられた。

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