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言霊と学生との対話

2019-05-24
「言霊を信じてをらねばカウンセリング成り立たざるとわれ言ひ過ぎつ」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
学生との対話にあるもの

今ここに大学教員として仕事をしているにあたり、あるべき姿として尊敬すべき像を抱くのは自らの数人の恩師たちのことである。学問は視野と教養深く、比較文学・文化の視点でと主張された恩師。和歌一首の読み方に徹底的にこだわる厳しさとともに、酒宴での和やかな人間的な語らいを教えてくれた恩師。文学研究こそが最高の教材研究であると、教育と文学の結びつきへと導いてくれた恩師。思い返せばいずれの恩師も、その「ことば」に不思議な説得力があった。ラジオ講座も担当されていた恩師の巧みな弁舌の調子。『万葉集』を「まんにょうしゅう」と発音し、その和歌を朗々と教室で朗詠していた声の響き。穏やかな口調ながら自らの主張になると決して妥協を許さない芯の太い声質。いずれもその声を体感するだけで、素材として語る文学そのものにも魅了されたような体験であった。

今現在、自らが大学教員として学生たちに向き合っている。果たして偉大な恩師たちのようにできているや否や、自問自答してみる。質の高い「ことば」を提供し、十分に学生たちを啓発しているか?文学や国語教育を「面白い」と思えるよう導いているか?など研究室に帰るといつも自らに問いかける。和歌研究などしているとやはり「ことば」の精度や波及力について、考えることも常である。「言霊」という考え方が概して古代的であると思われがちであるが、考えてみれば「ことば」こそが、人間が生きる存在そのものではないのか。冒頭の伊藤一彦先生の一首は、学校カウンセラーとして県内の教育に貢献されたご経験の中から生み出された実感に基づく歌であろう。「われ言ひ過ぎつ」と結句で否定的に意識的完了の助動詞「つ」を使用して着地させているが、これがむしろ逆説的に「ことば」への厚い信頼を感じさせる。カウンセリングでなくとも人生の黎明期である学生たちに向き合うことは、尊厳へ働きかけることに他ならない。その橋渡しになるのが「ことば」である。「霊」とは、「いのち」「いつくしみ」「さいわい」「ふしぎな」の意味もある漢字で、「よい。すぐれている。」という意味もあり「令」にも通ずる。「言葉」が「命」に向き合い「慈しみ」を持って「幸い」へと導く「不思議」で「優れた」力こそが「言霊」なのである。

命が表出する言葉
学生たちの人生に関わる仕事
恩師たちの顔をまた思い浮かべ文化を継承していくのである。


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勝敗はつけるべきか?ー令和老若歌合へ向けて

2019-05-22
県歌人協会の企画
宮崎大学短歌会も参加しての歌合
老若男女の交流の場として

来月6月30日(日)に、県歌人協会の主催で「令和老若歌合」という企画が開催される。協会の方々と宮崎大学短歌会のメンバーが混在してチームを構成して短歌を競い合うというものである。宮崎県内では短歌関係の行事が盛んではあるが、参加者の平均年齢が高い。少しでも若い人との交流機会を持ち、今後も永く継続するようにしたいものである。もっとも高齢化は、何も「短歌」を嗜む人のみの問題ではあるまい。このように分野ごとに世代間交流を、積極的に仕掛ける必要があるように思う。「令和」を機として、ぜひ危機感を持ってこのような交流を前向きに行いたい。こんなことも考えて、企画では「歌合とは?」という題で講演もすることになった。自らが世代的にも仕事的にも、交流を促す使命を負っていることを自覚しつつ。

この日は宮崎大学短歌会の歌会であったが、県歌人協会の方々に来訪していただき、本学附属図書館で打ち合わせ会議を持った。その中で今回の「歌合」で、勝敗はつけるべきか否か?という議論になった。もとより短歌は、「勝ち」「負け」と二項対立で割り切れるものなのだろうか。「(現代版)歌合」にも様々な形式がある。「大学短歌バトル」(角川主催)のように、「剣道」の競技方式に似た形で対戦する一首ごとに勝敗をつける形式。この場合は2手先勝すれば、勝敗は決してしまい大将戦に虚しさも伴う。宮崎で開催される「牧水短歌甲子園」(日向市主催)では、3人それぞれが歌のアピールと質問を行い、すべてを終えた時点で勝敗を決する。短歌の出来栄えはもちろんであるが、アピールや質問の巧みさなど総合的なチーム力が問われ、個々に勝敗の責が負うことも少ない。やはり「勝敗をつけるか否か」という問いでは結論には至らず、「勝敗もつけるが一対一では抗わない」という融合策が選択された。これぞ日向方式と呼ぶにふさわしい企画内容となった。

今一度、根本的に歌合を考えてみる
対抗ではなく対話の場として
企画へ向けて宮崎大学短歌会の新たな地域交流である。


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「雨しぶき降る」宮崎の夜

2019-05-21
「妻とゐて妻恋ふるこころをぐらしや雨しぶき降るみなづきの夜」
(伊藤一彦『火の橘』より)
早くも「みなづきの夜」のごとし

先週末から宮崎県は、大雨に見舞われた。日南方面は特に降水量も多く、「日南海岸ロードパーク」と呼ばれる国道220号線も鵜戸神宮の前後あたりで通行止めが相次いだり、JR日南線も運転見合わせが続いていた。日南方面へ車で向かうと、いつも「宮浦」あたりで山側の崖が崩れた痕跡が気になる。海岸沿いに崖が迫った一本道は、逃げ場もなく寸断されれば暫くの間は通行不可能となる難所でもある。夏場の台風をはじめ、宮崎の雨は容赦なくわれわれ人間に浴びせかけられる。「安全」が当然であるわけではなく、自然と向き合って生きることの過酷さと安寧の双方の入り混じった思いとなる。それだけに自らを起点とする人間存在の矮小さ・脆弱さの自覚と孤独なさびしさを存分に感じることになる。こうした心の作用こそが、宮崎に住む人々の穏やかさ・優しさ・愛情深さの大きな要因ではないかとも思う。

こんな夫婦関係でありたい、冒頭の伊藤一彦先生の歌はしみじみとそう思わせる一首である。三句目「をぐらしや」の解釈はなかなか難しい。辞書によれば「《「を」は接頭語。少しの意》うす暗い。ほの暗い。」(『全文全訳古語辞典』)とあり、『源氏物語』の「山の方をぐらう、何のあやめも見えぬに」(「宿木」)を用例として引く。「妻恋ふるこころ」のことを「をぐらし」というのは決して負の意味ではなく、いつまでもやまない不思議な恋心と解せばよいだろうか。「雨しぶき降るみなづきの夜」という制御ができないながら底知れぬ力を供給されるような自然のうちに置かれる夫婦の姿。明確で数値的な「答え」だけが重視されてきた現代の世相の中で、夫婦の恋心という簡単には見通せない、二人だけが探せる愛情この上ない機微を見事に描いた、愛誦すべき歌であるように思う。

こんな夜には「妻とゐて」
雨音に何を思うや
自然を聞き愛すべき人の心を聴く


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表現者の表現の場に立つ

2019-05-20
楽曲に向き合う狂騒的身体性
曲の調べと歌詞と楽器と声と
あらゆることを吸い込むライブ空間

「伝える」ことは決して「説明」ではないと、最近はつくづく実感している。「教える」ことも
総じて「伝える」ことの一環であるとすれば、なおさら「説明」は説得力を持たないという逆説に気づく。「国語」の授業の場合の多くは特に、「説明」されると学習者の毛嫌いの大きな要因となる。「説明」ならまだしも、「説得」的な押し付けになってしまう場合も少なくなく、そこに「国語」がつまらない原因の多くが存在することに自覚的になるべきだろう。実習生の授業などを参観すると、短歌教材でも写真や図版などを使用して「理解させよう」と努めている。だがその「写真」の選択そのものが、実習生の恣意的な一解釈であり、それを学習者に暴力的に浴びせているに過ぎないのではないかと思う。

サザンオールスターズの6大ドーム全国ツアー福岡公演を観た。最近は特にサザンの楽曲を歌詞を中心に詩歌との関連性を考えているだけに、執拗にどうしても体験すべき場であった。音源とライブではどちらが入り込めるか?という話題を妻としていたが、僕自身はいつも圧倒的に「ライブ」支持派である。音源が一つの「基準」とするならば、「ライブ」はあくまで表現者の表現の場であると強く思う。4万人前後という掴みどころのない入場者数を塊ではなく、一人一人の「こころ」と捉えて、自分たちの音楽を伝えようとする意志を強く感じることができる。40年間という長きに渡り日本の音楽界を席巻してきたサザンの、デビュー当時から変わらぬライブへの姿勢であるように思う。「伝えたい」ことを、曲と歌詞に乗せて「歌うことしかない人生」と謙遜しつつ主張するそのライブは、何度も「抒情の矢」で自らの胸を射抜かれるような体験の場なのである。

大胆かつ精巧に積み上げられてきた楽曲
なぜ「ライブ」があるかの意味を考えさせてくれる
「体験」でしか人は本気で「わかった」とは言えない。


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「重からぬ月の光を吸ひながら」宮崎のよさを探る

2019-05-18
「重からぬ月の光を吸ひながら妻とあゆめり畑の中を」
(伊藤一彦『新月の蜜』より)
ゼミで「宮崎のよさ」を対話する

教員採用試験願書提出も締切日を迎えた。「宮崎の教員を志望する理由」についてゼミ生たちと対話し、出身者も僕を含めたそうでない者との差にも自覚的になった。どの都道府県でも誰しもがそうであると思うが、出身地の利点というのに気づかぬままに過ごしてしまっていることが多い。恩恵は恩恵として具体的に意識する機会がないと、気づかないことを考えさせられる。そこで昨日のゼミでは、「宮崎のよさ」「自分の強み」「自分の弱み」の三点を小グループで対話する時間を持った。「宮崎のよさ」ではやはり「自然」という点に集約されるが、そこを原点とする人々の穏やかさや食料の新鮮さ、そして「よい子が育つ」という教育面にも言及されて、さすがは教育学部の学生であると思った。宮崎県の豊かさをさらに開拓するのは、経済的な発想ではない。人文や教育こそが、この県の穏やかさに根付くのである。

近所の公共温泉に出向く際に、田圃の真ん中を通過する。先月ごろからそこに番いの「山羊」が放牧されている。車のライトに反応して通過すると挨拶をするかのように、頭を下げたことがあった。その後、なぜそこに放牧されているのか大変に気になって車を停車させて妻と観察したりもしてみた。角を冠する雄は、ややどぎつい顔立ちで鎮座している。雌は穏やかに草を食んでいることが多い。まさに自然の中で生活するその山羊たちの姿に、どこか安心と安堵を覚えるのだ。今朝のように雨が激しく降れば、小さな小屋で二頭が寄り添っているのかと思いを致す。冒頭の伊藤一彦先生の歌は「畑の中を」「妻とあゆめり」という夫婦仲睦まじい姿が映像として脳裏に鮮明に再現される。何より「吸ひながら」という表現が秀逸で、「重からぬ月の光を」というからには、天から穏やかな恵みを受けてあゆむ夫婦の落ち着いた穏やかさが読める。「宮崎の自然がよい」とは簡単に言えるが、そこでどんな恩恵を具体的に受けて生きているかは、短歌でないと語れないと言っても過言ではないことを考えさせられる。

学生とともに考える宮崎
他県出身者も宮崎の教員になる志が
自然の中に生きる我らを思って・・・


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「待つこころなりいかなる明日も」美味き宵の口

2019-05-17
「味酒の身はふかぶかと酔ひゆきて待つこころなりいかなる明日も」
(伊藤一彦『新月の蜜』より)
明日への架け橋たる時間

今この時間、早朝の快適さを左右するのは「宵の口」の過ごし方ではないかと思う。あれこれ迷いがあったり、後悔や不安を抱えていると寝つきも悪く心身ともによく休まらない。有効に活かそうと読書に勤しもうとすれば、電灯を点けっ放しにし熟睡もできず深夜に気づくように、むしろ無駄に過ごしてしまうこともある。いずれも朝の気分は快適ではないが、様々な話題を家族と話せたり、潔く電灯を消して寝付くと快適な暁が迎えられる。もとより「宵の口」とは、「日が暮れて間もないころ。日暮れから夜中までの間。」(『日本国語大辞典第二版』)の意であり、「古代では、夜を、よい、よなか、あかときに三区分した。」ことを知るべきである。気象庁は嘗て「宵」の語を使用していたが、その時間帯範囲を勘違いする人が多いことから使用しなくなったと聞く。継承すべき日本語であるゆえ、気象庁こそがその定義を啓発し社会に根付かせて欲しかった。

「晩酌」という語彙があるように、「宵の口」につきものであるのが「酒」であろう。「昼間の酒は効く」という俗信もよく耳にするが、やはり酒は「日暮れの後」が適した時間帯なのだろう。牧水の「かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏の夕暮れ」は、「(なかなか日が落ちない)夏の宵の口」を待望する大の酒好き牧水の心境が直接に詠われた名歌である。立夏(5月6日)も過ぎ、もはやそんな宵の口の季節になった。牧水研究の第一人者である伊藤一彦先生の冒頭に掲げた歌もまた、「宵」の「味酒(うまさけ)」の効き目を素朴に表現した歌である。「身はふかぶかと酔ひゆきて」の表現によって、「味酒」の響きががより一層増幅するように味わえる。音といえば「宵」は「酔ひ」にも通じ、酒によって自他と語り合うべき時間と思わせる。「今日」をいかに生きたのか?そして「いかなる明日」をも、泰然と「待つこころ」が持てる懐の深い人間味が感じられる一首である。

愛すべき家族との大切な語らいの時間
生きるための豊かさがそこにある
学生からお祝いにいただいた「味酒」を一献。


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「寂しさを忘るるといふ」語り合う人のいれば

2019-05-16
「寂しさを忘るるといふ寂しさのありや菜の花の海の広がる」
(伊藤一彦『新月の蜜』より)
語り合う人・我を知る寂しさ

教員採用試験の願書提出締切が近く、ゼミの学生たちが試案を見て欲しいと盛んに持ってくる。「添削していただけますか」と一般的に通例な依頼を受けるが、僕は「添削はしない」といつも答えている。しかし「対話をします」と付け加える。理由は「添削」を施してしまうと、僕の「文章」になってしまい、学生「本人」の文章ではなくなってしまうからである。僕の「文章」になってしまった願書の内容を元に、面接が行われることを考えてみよう。その文章を表面上は読んでいたとしても、学生たちの思考や感覚からはかけ離れた質問が浴びせられるかもしれない。結果的に「添削」を施したことが、二次試験で仇になると考えるゆえである。このような主義の中で、一人で来る者もいれば、複数人でという時間設定で願書PR文章の「対話」をしている。面白いのは、複数人で実施するとより深く個々の学生の良さを語る内容になることである。

もとより教員には、「協調」する心が大切なのは自明である。「個」を主張する願書とはいえ、仲間と協働活動を実施することで、客観化された「自己」にあらためて気づくことができる。人はあくまで「個」であり「孤」でしかありようもない宿命、「独り」で生まれ「独り」で死なざるを得ない。牧水の歌に頻出する「かなし」「さびし」は、人間の「孤」を悟り愛情を求める心の裏返しでもある。この世で何よりもありがたきは、物理的物質的な環境ではなく「人」であろう。そのかけがえのない尊さを知るために、「寂しさ」があるもかもしれない。冒頭に掲げた伊藤一彦先生の歌もまた、「寂しさ」の本質を「菜の花の海の広がる」光景と対象化させることで炙り出すことに成功した一首であろう。「寂しさ」は「寂しさ」でしか忘れられない、円環的な真理を深く考えさせられる。この春先、宮崎に来て初めて一面の「菜の花の海」を見ることができた。「花を愛でよう」という、平穏な気持ちにさせてくれる人がいるゆえである。「海」はあまりにも「花」としては広大過ぎて、どこか「寂しさ」のような感情も抱いたように思う。華々しさの背面には、いつも「我」を自覚する「寂しさ」がある。ゆえに愛する人の存在があってこそ、「自己」を支えることができるのだと思う。

採用試験願書は自己発見の扉である
「寂しさ」を悟る語れてこそ光るものが生まれる
「菜の花の海」をまた思いながら睡る。


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「床にくろぐろと」潔癖の中の自然

2019-05-15
「なめらかに磨きたてたる空港の床にくろぐろと太き蠅死す」
(伊藤一彦『柘榴笑ふな』より)
近現代的な潔癖と自然に生きること

今年度からの新たな取り組みとして、「日本の恋歌」の講義がある。和歌・短歌と歌謡曲の歌詞の類似性を探りつつ、「恋」「愛」について考え当事者の立場で「(文芸)批評」ができるような思考力・想像力・表現力を養うことを目標としている。大学各学部に専門性のみが求められる昨今、「知性と感性の成熟」を求め人生を豊かにする可能性をもった科目として学部を問わない受講者の多様さとも相まって、大変に僕自身がやりがいを感じている。その講義の準備とその探究を通じて、自らも新たな大学基礎教育の方向性を開拓しようと思うほどの思い入れがある。それだけに講義の準備や学生レビューのコメント書きに多くの時間を費やしている。昨日はその講義に行くと、教室のワイヤレスマイクが雑音を放ち、受講する学生にとって大変に不快な環境となった。時折、正常な声を発する状態にも戻るので、たちが悪い不調な状況である。

準備に準備を重ねて創った講義内容だけに、最良の状態で学生に講じたいと思うのが人情である。タブレットの接続やWiFiの状態などにも細心の注意を払うのだが、昨日も途中で”Siri”が急に起動して僕を「助けようとする」コメントを発したりもした。タブレット側の「言い分」からすれば、僕に「完璧」を与えようと「助言に走った」というわけであろう。どうやら人間が意図しない「潔癖」の幻想世界に、僕たちの社会は向かおうとしているのかもしれない。講義内容としてのより人情味深い「恋愛」の機微との対比が、機材との付き合いで浮き彫りになるようでもある。冒頭に掲げた伊藤一彦先生の一首、「空港の床にくろぐろと太き蠅死す」という描写は鮮烈にその光景を想像させる。「くろぐろと」という濁音部分をひらがなとして「太き」を漢字、「蠅」を形容する語を繰り返すことで、鮮明なリアリティを持たせることに成功している。羽田や成田など都市部の空港では特にその床が、過剰に「磨きたてたる」状況であると思うことがある。(むしろ宮崎空港は人間味があって安心する)次々と新たな施設ができる現実と重ねて、「潔癖」社会の構築に拍車がかかるようにも思う。その床に死す蠅の姿、「なめらかに磨きたてたる」人間の作為が自然に生息する蠅の命を奪ったかのようでもある。宮崎では、やや大きな一物のことを「ふってぇね」と言う。その方言性からの発想もあろうか、「太き蠅」は見事なまでに自然の逞しさと存在感を語るのである。

講義は地声で120名へ語り掛ける
潔癖なのか自然への回帰なのか
描写に鮮烈な批評ありを目指して。


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「薄紅のあけぼのつつじ」恋と花と五月晴れ

2019-05-14
「あふぎみる高きに恋の緒のごとき薄紅のあけぼのつつじ」
(伊藤一彦『日の鬼の棲む』より)
恋の緒(いとぐち)から五月晴れに咲き誇る花よ

花のある人生、ただそこにある花を「美しい」と思える感性こそ人間としての豊かさだろう。野に咲く花でも、また購入した花でも、その生命と生き様から多くの栄養を貰う可能性がある。美しいものに素直に心を委ねられる、そんな人生こそ素敵かと思う。だが、ともすると人は日々の生活に追われ自らの殻の中に閉じ籠り、偏屈なこだわりの中に「美しさ」を愛する気持ちを忘れてしまう。花を愛でるのみならず、身近な人々の愛しき行為に思いを致すことができず、荒漠なる精神が様々な事例を引き起こす世の中である。どのような場合でも、向き合う人に慈しみと優しさと愛情をもって生きてこそ、健全な社会が築かれるはずである。

視野の広さもまた重要である。自分の「今」の視野だけでは、なかなか「豊かな」生き方とはならない場合が多い。足元を見つめ直すことや、左右を広角に見つめることも必要だろう。冒頭に掲げた伊藤一彦先生の歌では、ふと「あふぎみる高きに」へ視点を移動させる。頭上というのは見えていそうでなかなか見えていない、気高いとも思える空間である。そこに咲いている「あけぼのつつじ」を「恋の緒のごとき」と捉え、「薄紅」という色と相まって素朴な花に「あけぼの」の胎動を見る。人生でも「恋の緒」は様々であろうが、それが「あふぎみる高き」にあったことを、いつまでも忘れないでいたい。

五月晴れに穏やかな気持ちで
あらためて「恋の緒」を想起しつつ
今日もまた『伊勢物語』を講じている。


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「あるだけの力尽して」愛し続ける

2019-05-12
「あるだけの力尽して咲きゐるに力の見えぬうすべにの花」
(伊藤一彦『日の鬼の棲む』より)
本当の強さをもって

みづからにどれほどの力があるか?何をどこまですることができるかなど、簡単にはわかるものではあるまい。先ごろ引退したイチローさんは、幼少の頃から「笑われて来たことが力になった」と回顧する語録がある。少年野球の時に「プロ野球選手になる」と言っては笑われ、入団して「首位打者になる」と言っては笑われ、MLBに行って「殿堂入りや記録更新」を口にして笑われたのだと云う。だが宣言することでみづからを律し、それだけに「力を尽くして」日々を積み上げた結果、「笑った」人のすべてを見返して歩むことができたわけである。MLB選手としては決して大きくない身体は「力の見えぬ」ように見える。だが、それだけにこれ以上なきほどに美しく「咲きゐる」存在感は多くの人を惹きつけたのである。

5月1日に花屋さんで買った芍薬の花が、「うすべに」から「しろ」に変化し次第に花びらを落としつつもその茎は真摯に花芯を正面に向け続けている。普通であればもう捨ててしまうような「凋残」の状態かと思うが、僕はその花がどのように「あるだけの力を尽くす」のか最後まで見届けようと思い、今も居間の空間に置いている。12日間という時間の中にも「花物語」があり、それこそが人生のようにも見えてくる。冒頭に記した伊藤一彦先生の歌もまた、同様な「うすべにの花」を詠んだものだ。具体的に何の花かは明言されていないが、それだけに様々な花に想像を致し読む人によって多様な映像を受け取ることができる。「うすべに」という色も、安易には放つことができない「力」を感じさせる。「花」の命の尊さを意識し、その自然とみづからが同線状で「咲きゐる」ものと自覚する、素朴で崇高な人の心を感じさせる一首である。

宮崎でこそ見える光景
太陽と空と海と・・・
「あるだけの力尽くして」愛し続けたい。


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