短歌朗読・朗誦の試みーTONARI page3(リーディングカフェ)

2017-08-22
日常の「となり」にある詩を朗読
声に言葉にして、詩となりゆくものを朗読
自由に挑戦できる自由で豊かなカフェ朗読のイベント


繰り返すようだが教員免許更新講習担当があり、今年は牧水短歌甲子園の観戦には行けなかった。俵万智さん・大口玲子さんらとともに大会審査員であった歌人の笹公人さんをゲストに、毎月開催されているカフェ朗読会「TONARI」が宮崎市内で開催された。手作りのカフェ店内に10人前後が集い、毎回自作の詩歌などを朗読している。特に構えずに気軽に読みたいものを読む、といった趣旨で開催されるのもとてもよい。元来「朗読」とは、他者に伝えたい”ことば”を”声”にして其処にいる人に伝えるという素朴な行為ではないのか。いつからかそれは、構えて大仰に上手く読まなくてはならない所業になってしまった。また方法についても同様である。決して「こうしなければならない」という規定があるわけではない。自らの中にある「ことば」を、その内容と声の共鳴点を探りながら、身体の持つ韻律に乗せて表現すればよい。それこそが「肉声」となって他者のこころに沁み込んでいくことになるはずである。

笹公人さんのお馴染み「念力警察」、ライブで眼前で”報告”されると、その臨場感あふれるユーモアがたまらない。笹さんのご著書表紙のイラストも手がける”日向ひょっとこさん”とのコラボで、短歌色紙や絵葉書の展示が会場に花を添える。また”スーパーアイドル”日野誠さんの「シャニーズ早着更え」も寄席でいえば”色物”として、場の雰囲気の高揚と沈着を自覚させる存在として輝いた。さて我はといえば、この日まさに実験的にこんな朗読を試みた。最近、こころを大いに揺さぶられた短歌評論をよむ→古典和歌披講形式にて『古今集』恋歌をよむ→自作短歌朗読→再び和歌披講という流れである。これはまさに、朗読した評論内容(佐佐木幸綱『作歌の現場』)にある「千三百年の歴史を持つ詩型に関わる」ことにおいて、「そういうスケールの時間に自分を晒す」という行為をライブで再現した形である。自作短歌の朗読というのは、現況では様々な模索が必要であろう。だがその一つの窓口として「自分を晒す」という趣旨が適っているのではないかと考えた。この日は特に自作短歌の部分に、あまり事前に演出や脚色は考えなかった。その場のライブ感から聞く人々の呼吸を拾い、繰り返し読みたい、立ち止まって読みたい、句ごとのことばを噛み締めたい、などの衝動に任せて己を晒してみたつもりである。幸い笹さんなどからもお褒めの言葉をいただき、自作短歌ともども新たな境地を感じられる時間となった。

こうした小さな場から声が生まれる
このカフェでもまた自分がやりたかったことに出逢えた
短歌を中心とする宮崎の文化、心から愛してやまないのである。
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物語を起こすわれ

2017-08-21
物語をライブで朗読する作業
自己を起ちあげて知る人間追究
声にしてわかること臨場感ある場面へ

教員免許更新講習2日目。朝9時から夕方4時まで(昼休み1時間)に加えて履修認定試験が40分間。大学校時4コマ分+αを2日間ということで、担当者としてもそれなりの体力が必要である。だが受講者の方々も、次第に各校種で夏休みが短縮される中、何科目も受講のために県内全域から大学に集まって来られることにも頭がさがる。そんな気持ちからも、なるべく今後の現場での授業の根本を考える材料を提供すべきと、あれこれ担当者としても苦心をしている。教員免許更新は自動車免許とは違い、眼の検査に講習映像や短時間の講義とは大きく性質が異なるはずだ。だがしかし、こうした性質の講習は「教える」ものではないという信念も強い。よりよい「授業実践」や「授業方法」を紹介し”教え”れば、それを真似ることで授業がよくなる訳ではないからである。

肝心なのは、授業や教材に向き合う「教員としてのわれ」ではないかといつも思っている。更新講習において「この物語教材は、かくかくしかじかの物語です」と一方的に教えられても、受講者の今後の授業のために有効なのか?「ある学校で実践されたこういう方法の有効な授業がありました」と紹介されて、受講者各自が勤務校に帰ってそれをそのまま実践すれば、「よい授業」になるのか?答えは「否」であろう。それは「教材」も向き合う「学習者」たる子どもたちも「生きている」に他ならないからである。ゆえに教材を「生きた」感覚で体験し直す営為がなければ、明日からの授業の糧にもなるまい。こうした趣旨から、この日は小学校定番教材の「ごんぎつね」と「大造じいさんとガン」を題材にして、班別の群読劇作品を創作してもらった。受講者各自が、「われ」を起ち上げて今一度これらの教材に向き合い、受講者同士の中で自らはどのように教材について考えたか、という思考の傾向を捉える。その”再現営為”によって子どもたちがどのように教材を受け止めるかを再認識することもできる。「音読・朗読ワークショップ」と講座名に唱っているが、それすなわち「教材解釈」の深化を図る講座でもあるのだ。

小手先ではない物語体験者となる
「音読・朗読」も技術にあらず
あらゆる「文学」に向き合う「われ」を起ちあげること。
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詩歌は楽しい発見に満ちている

2017-08-20
教員免許更新講習
敢えて講座名に「楽しい」と冠し
羊頭狗肉にならぬように・・・

土日ながら教員免許更新講習の担当が2日間。日向市では牧水短歌甲子園の熱戦が繰り広げられているが、今年は静かに結果を知るという形になった。この日の講座は「楽しい詩歌の授業づくり実践ワークショップ」として、こうした講座名としては似つかわしくない「楽しい」を敢えて入れてみた。例年、詩歌の更新講習を設けているが、「物語」などに比べると必ずといってよいほど受講者が少ない。受講者の事前アンケートによる要望を見ても、多くの先生方が「詩歌の授業は苦手ゆえに意識を変えたい」というのが、主たる受講動機であるようだ。また、近年の小中学校では、教科書教材はすべてを授業で扱うことを必須とする傾向も強く、「詩歌」に割り当てる時間数が極端に少ないという実情も耳にすることが多い。

そんな状況の中だからこそ、この講座に大きな意義があると思っている。もとより「詩歌」は、「授業で教えるものではない」といった趣旨のことを詩人の谷川俊太郎さんはかねてから発言している。「学校の先生は詩を教えようとしている」という日本を代表する詩人からの発言は大きい。眼の前の詩が言わむとしていることは、読み手である子どもたちのそれぞれの中に発見・創造されるもので、核心的な「詩人の意図」などもとよりあるはずがない。この日の講習では、谷川さんの「ことばあそびうた」から始めて、詩の言葉に登場する「実物」を意識しながら声に変換するワーク、その後は若山牧水・俵万智など宮崎に関連する短歌を「楽しく」紹介し、「うちの子は甘えん坊でぐうたらで先生なんとかしてくださいよ」(俵万智『かぜのてのひら』より)を15分間で4人が寸劇に仕立てるワークなどを行なった。午後はグループで一つの教材で「群読」など理想形の「表現」を創作し、授業づくりの要点を併せて発表し相互批評を行なった。なかなかユニークでまさに「楽しくなった」という受講者の声も聞かれて、有意義な時間となった。

詩歌は発見である
まずは指導者が「楽しく」感じること
そして何より「表現」してみることである。

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免許より身体感覚・実効性・理性を

2017-08-19
車の運転は「歩行」と違わず
理性と実効性と身体感覚が重要
「免許」の持つ意味は何か?

しばらく海外に渡航していない。2000年代にはしばしば「日本語教育」や、海外での「日本文学」研究の実情を知るべくよく米国に渡った。米国は都市部以外は車社会であるため、その都度「国際免許」を取得してレンタカーで広大なキャンパスの大学を訪れていた。当時は東京在住で車を運転する必要もなかったので、米国での右車線運転にむしろ慣れてきて、帰国して道路を横断する際などに左側ばかりを注視して危険を感じることもあった。運転はまさに身体感覚によるところが大きいゆえ、経験と実効性が物を言うように思われる。そんなことを実感して1年間有効でサイズも大き過ぎる「国際免許」を取得して渡米すると、レンタカーを借りる際にしか提示することもなく、免許はあくまで「建前」であって、肝心なのは「1、身体感覚」「2、実効性」「3、理性」のように思われて来るのであった。

「理性」が3番目というのは、何も交通ルールを疎かにするという意味では決してない。海外ではむしろ「ルール」というのは「自らの身を危険から回避する方法」だと思えることもある。日本ほど細部のルールに厳格なわけではないが、「右折は信号が赤でも安全ならいつでも可」といった運転者判断に委ねられる点もある。「信号」という単なる「記号」に全面的に依存する日本の感覚からすると、最初は少々違和感があった。だが次第に、それが心地よくなって来る。ハイウェイの運転などでも、日本では考えらえないような大型トラックが往来しているが、誠に柔軟で理性的な運転をしているように思われた。肝心なのは「自らが走る」ことにおいて、明確な自己主張がありながら、車社会を楽しむ現実的な感覚で運転がなされているからであろう。もちろんNYなどの都市部に行けば、横暴な運転に遭遇して危険な思いもしたことはある。そうした緊迫さを実感した時、日本の免許センターで与えられる段ボールのような灰色の紙片に写真と割印が押された「許可証」よりも、現地での連係した3つの感覚こそが大切であることを痛感した。「ライセンス」はあくまで社会的「許可」に過ぎず、「運転」はより現場での経験と判断力が大切だということである。

よく「大学教員に免許なし」と云う
現地で現場で体験的に積み上げていく実力
「免許」とその「更新」について諸々と考えさせられる。
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構造的理解の重要性

2017-08-18
家具を組み立てる作業
重ねられたプリント類をどう取るか
生活の中の構造的理解

宮崎では暑い日が続く。少々早めの午後4時に大学から帰宅しようとすると、自家用車の車載温度計がなんと「39度」を示していた。人間なら平熱を通り越して、インフルエンザでも罹患したかのような体温である。帰宅してしばし待機すると、宅配さんが呼び鈴を鳴らした。「衣類ラック」が、時間指定で届くように注文しておいたのである。数年来使用してきたハンガーごと吊るせる横棒状のものが左右の均衡を崩し左に歪み、とうとう角のプラスチック部品に亀裂が入ってしまっていた。いつ「倒壊」するかと恐れていたが、なんとか新旧交代まで頑張ってくれた。”新人”は、金属製の耐久度重視の一品。早速自ら組み立て作業に入ったが、注文の折に確認すると作業員の方に組み立ててもらうと「2700円追加」とあった。この作業はそれほどの価値か、と思いながら、こうした作業は嫌いではない。

友人などに聞いた話だと、こうした家具の組み立てで部品の左右を間違えたりすることも多いと云う。要は全体の構造を視野に組み立てるか否かという、思考の問題であると毎度考える。ネジの穴の方向や種類、全体の耐久性を考えたら湾曲はこの方向であるなど、「全体」を見据えて「部分」を構築することが肝要である。部分部分で面倒臭がらずに、それを常に確かめる。幼少時に「プラモデル」で鍛えられた感覚ともいえようか。まさに、学校での図画工作や技術の課程の重要性も再認識する。日常の大学で講義をしていると、学生たちにプリント類を配布する機会も多い。その際に、敢えて「仕切り」を曖昧にしておいて取らせることがある。ただそこにあるプリントを取ればいいと安易に考える者や、始業間際に来る学生などは粗雑に一番上の「一枚」だけを取る傾向がある。すかさず授業の「マクラ」に、前述したような「構造的理解」の重要性を話すことにしている。一枚取ればその下から違うプリントが顔を出す意味は何かと・・・

日常に「考える」行動はあるか
メディアが放つ情報にも構造的理解が必要だ
疎かにされていた自動車学校の「構造(機械的)」の重要性を顧みる。
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自らの身体に聞け!

2017-08-17
散歩・読書・入浴
ヨガ・筋トレ・水泳
自らの身体との交信はあるか?

いくつかの短歌関係の予定があったことと、お盆でジムが休館であったこともあって、約1週間ぶりのトレーニング。身体の声を聞いていないとやはり、思考の方も淀んだり後退的になってしまうものである。こうした身体の”休み明け”にこそ、準備のストレッチから身体各部の状態を覗き込むように、繊細に入念に行うようにしている。ストレッチは準備に30分、筋トレ後に30分、その間に60分間の筋トレプログラム。この配分(ストレッチと筋トレや有酸素運動の関係)が対等時間であるのが理想だと、以前に東京の尊敬するトレーナーさんから聞いたことがある。それが往々にして、メインと考えられる「筋トレ」のみをしてしまいがちである。また「筋トレ」ばかりに偏るのもいけない。この日は筋トレ後に15分間の水泳、水中に浮いて一定のリズムで身体を動かしていると、不思議と思考が活性化してくる。いわば、”瞑想的水泳”ともいえようか、実に心地がよい。

先日の「牧水を語り合う会」で発表した内容と、こうした自らの身体性を比較して考えさせられることも多い。牧水の場合は”瞑想的散歩”に、万葉集長歌を中心にした”敬虔なる音読”、そして混雑していない”銭湯入浴”が、歌ができない際の打開策として挙げている3点である。これはまさしく「ヨガ・筋トレ・水泳」に通づる。自らを内観しつつ身体を動かし続けて体温を上げ自覚を高めるのがヨガ。日常生活でも部分部分は使用しているが、意識して作動させないと刺激が充満しない筋トレ。そしてコース内に他に誰もおらず、自らのペースで様々な思考をしながらの水泳。この3点が、誠に心身を活性化させるのに重要である。こうしたトレーニングの時間が、忙しさに任せて疎かにならぬよう、思いも新たに始動したのであった。そして最近は、ジムで楽しい会話をする人たちも増えてきた。地元地域の様々な職業の方々と、交流があるのも意味深いものである。牧水でいえばさながら、「散歩」や「(銭湯)入浴」で味わったようなことも、ジムは体験させてくれる。

様々な状況を乗り越えて前に進むちから
身体を活性化する動きさまざま
心身のバランスを十分に図りながら。
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「わが世に又あひがたき今日の日の」引き継ぐということ

2017-08-16
「わが世に又あひがたき今日の日の一日も暮れぬ筆をおきて思ふ」
(佐佐木信綱『瀬の音』昭和15年)
また巡りくる夏の日に・・・・・・

72年目の終戦の日、「今日の日」を多くの人が重く受け止める日。だが最近は、広島・長崎の原爆の日などを知らない者がいたり、ましてや6月23日沖縄慰霊の日などに思いを致す人は減ったと聞く。肝心なのは一人ひとりが、「今日」の自らの命を思うこと。自らのことばに耳を傾けること。その「命」=「ことば」は、72年前の戦禍をかろうじて潜り抜けた貴重な命である。父母が、祖父祖母が、曽祖父曽祖母が、どんな思いであの戦時中を生き抜いたか。そう考えれば、自らの「命」のみならず、「ことば」もこの平和で繁栄した社会も、長い時間の中で「今」を生きてきた人々によって支えられている。歴史を考えるというのは、知識ではなくこういうことではないのだろうか。

冒頭に掲げたのは佐佐木信綱の歌で、昭和15年発刊の歌集『瀬の音』から。時局は開戦前にして暗澹たる様相となってきた頃、「又あひがたき今日の日」のことばが重く響く。「筆」は「仕事」や日々従事していることの象徴と読めるだろうか、ふと眼前の仕事から離れて自らの「命」を思うというわけである。こうして小欄に文章を書き連ねていると、ちょうど東の空に新しい日が昇っているのが見える。又「今日」が始まり、「一日も暮れぬ」となる。昭和26年の信綱歌集『山と水と』には次のような歌も見える。

「あき風の焦土が原に立ちておもふ敗れし国はかなしかりけり」

我々が「夏」と刻んでいるこの日は、立秋後にて暦の上では「あき」。又季節も巡るのである。

「春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり」
(『山と水と』より)

明治・大正・昭和を生きた佐佐木信綱の歌から学ぶ。
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「ことば」あるゆえ現実を知るー宮崎大学短歌会から

2017-08-15
世界は「ことば」でできているとも
「平和」「戦争」といった語彙で語り合うこと
風土・居住地で違う「津波」ということばの捉え方・・・

72年目の終戦記念日。先ほど来の激しい雷鳴で、目が覚めた朝であった。覚醒してからの意識が、「これが雷鳴でよかった」などと考えさせる。「神鳴り」という語源のごとく、目に見えない神霊的な存在が、人間に警告を発しているのか。自然との融和もまた「ことば」による作用によって、古来から人々は対応してきたのであろう。翻って、戦時中の体験がある方ならば、空からの大きな音は空襲の音を連想させるかもしれない。自分のことだけを考えて、うかうか寝てもいれない。TV映像などで耳にする、あの爆弾が落下してくる際の音の悲壮なことよ。大空からの閃光そのものに、耐え難い体験が蘇ってしまう方も多いだろう。だがしかし、そうした人為的な醜い争いで命の危機に曝された経験を持つ方も次第に減ってきている。先日も小欄で紹介した『角川短歌』8月号別冊付録「なぜ戦争はなくならないのか」は、紹介しきれない様々な考え方に溢れている。中でも「日露戦争」の悲惨な体験者が政権内部にいなくなった時期に、「太平洋戦争」が勃発したといった趣旨のことも書かれていた。また政権のみならず、「国民が引き起こした悲劇」だといった趣旨もあった。「なぜ戦争が・・・」という問い自体を否定するものもあった。

お盆の最中であるが、宮崎大学短歌会を開催した。会員の学生の高校時代の友人で、昨夏の牧水短歌甲子園を経験した九州大学短歌会の2名の学生さん、先日の「サラダ記念日30年」の折に公募された短歌が入賞した熊本大学の学生さん、さらには茨城県出身の会員のお友達を加えて、全11名による賑やかな歌会となった。題詠は夏にちなんで「祭」、若い年代の祭りに対する感覚が興味深かった。「縁日」「花火」「神輿」「甲子園」などの場面を中心に、様々な捉え方の歌があり批評も温度同様に白熱した。いつも感心することだが、牧水短歌甲子園を経験することで、自己の歌作りはもちろん、他者の歌の読み・批評・修正案などを具体的かつ的確に指摘した有効な議論方法が身についている。短歌会そのものが、この経験者に誘発されて議論が活発にならないことはない。高校課程内の授業でいかに学力を育てるか、などを「国語教育」の立場から考えている身として、実に微妙な葛藤を抱かざるを得ない。「理解」「表現」「思考力」「想像力」「言語感覚」を育てるなら他言は無用、ただ「短歌」のみであるような思いに至る。さて聊か興奮して趣旨が逸れたが、この日に一番考えさせられたことひとつ。ある短歌に詠まれた「津波」という語彙に対する考え方である。3.11以後、この語彙に対する感覚が明らかに変化したであろう。その時期前後が活動休止・再開の時期と重なった要因もあろうが、サザンの「TUNAMI」もあの日から、ライブをはじめ巷間で聞かれることもないように思われる。歌会中にも議論されたが、茨城や関東の者と九州の者とでは、その語感に差があるようにも思われた。だがしかし、重要なのはそのことばに乗った個々の「経験」を実感として語り合い、語り継ぐことの重要性である。ある学生が「そのように言葉の使用を抑制する社会が問題だ」といった趣旨の指摘をした。同感である。それは「一語」に敏感である「短歌」を考えるからこその発想のようにも思う。「ことば」への信頼が社会の中で大いに失われているいま、こうした感覚を世代を超えて共有することに大きな意義があるように思われる。だからこそ「短歌」なのである。

「祭」を興じ合える「いま」
多くの国語専攻の学生たちも参加させたい短歌会議論
72年目の夏、いま短歌とともに「平和」を創り続ける、
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牧水の「身体性」そして「万葉集」ー牧水を語り合う会

2017-08-14
温めれば心が浄化して歌を詠む身体となる
「火の山にしばし煙の断えにけりいのち死ぬべく人のこひしき」(『独り歌へる』)
牧水研究会主催「牧水を語り合う会」にて

短歌三昧のお盆を過ごしている。一昨日は心の花宮崎歌会、この日は「牧水を語り合う会」が開催された。しかもご指名をいただき「牧水『短歌作法』によむ身体性」という演題で小1時間ほど発表をさせていただいた。『短歌作法』とは大正11年、牧水38歳であるから晩年に出版した短歌作法書である。所謂「作法書」は詠歌には役立たないと牧水自身も当該書に書き記しており、またこの会で伊藤一彦先生もそのように仰っていた。今回読み直した意図は、牧水の短歌に関する考え方を知るためである。特に牧水歌が「声の文化」の特徴である「力動性」を具えているのは、その「身体性」に根ざした歌作りをしていたからであろうという点を具体的に確かめてみたかったからである。「生命の力」をできるところまで「押し伸べていく欲求」を「歌にうたへ」という基本姿勢は、「顔や身体の美しく活き々」とありたいのと同様に、「心を活気づける」ものだと同書に云う。また歌ができない時は、「散歩・読書・入浴」に効用があることを説き、「瞑想的散歩」、「敬虔な音読」、「風呂で歌ができたら中音で声に」など、温める身体作用から再び歌心が昂奮することが記されている。もちろん「酒」の効用も記されていて、「尽きようとした感興がこの飲料のために再び焰を挙ぐる」とあるのは、非常に牧水ならではの説得力ある記述で面白い。

会の後半は、関西からお見えの田中教子さんによる「牧水の恋と死ー若山牧水と万葉集」のご発表があった。牧水第一歌集『海の声』・第二『独り歌へる』・第三『別離』には、「死」を詠む歌が多く、その多くが「恋」との関係にあり、万葉集の「朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋わたるかも」(巻4・599)などに見える「恋死」の類想があるのではというご指摘。小枝子との若く激しい恋が、牧水の歌にこうした感興を起こさせている。「恋死」とは、「恋しさのあまり死んでしまいそうである」「恋いこがれているより死んだほうがましである」「死ぬ思いだが、逢おうため死なない」「死んでも恋心をあらわさない」などと分類した青木生子の説も紹介され、牧水歌をこの分類に従ってよむことや、万葉の「寄物陳思」の影響などが指摘された。また与謝野晶子の歌との比較もなされ、牧水が第4歌集以降「死」を詠む歌が少なくなるとのは違い、晶子は生涯を通じて「死」を詠みつつも明治43年を中心に「死」「恋」の歌が多いことと、牧水との関連性を窺う視点が提供された。明治期における新しい素材としての「恋」、旧派・江戸以前の歌ではあくまで「恋」を観念として詠む歌があったのと違い、「私」を起ちあげる新しい歌への変遷が、この期の多くの歌人に表出していることを考えさせられた。また、この会には今年2月に牧水賞を受賞した地元宮崎御出身の歌人・吉川宏志さんもお見えになり、幅広い知見から多様なご意見をいただき豊かな対話となり、学びが大きかったことを書き添えておきたい。

心と身体と歌との関係性
「生命を伸長させる」こと、「心を浄める」こと
まさに内観し外の世界との差を見極め「命」を見つめるということ。

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「われここにあり」を噛み締めて

2017-08-13
「かの夏に掃射逃れし少年の繋いだ命われここにあり」

ここ数日間、小欄では「かの戦争」について様々な角度から書き記している。だがあれこれと書くよりも、効果的な短歌一首で表現できないものかと考えてしまう。要は「かの戦争」が自らの存在とどのように関わっているかが、端的に示せればよいのであろう。多言は無用、まさにその一点において自らの「命」を考えることしかない。

冒頭に記したのは心の花宮崎歌会に初めて出詠した際の歌。ちょうど「夏」であったゆえ、自らの「命」がなぜあるのかを「かの夏」との関係から素朴に捉えることができた。歌会では「少年」とは誰かと様々な解釈が議論されたのを記憶している。その時はあれこれと歌を捏ねくり回すこともしていなかった。どうも最近はその素朴ながら一語の解釈に奥行きのある表現に至らない。「命」を見つめて自らと向き合うこと、いや、多作の中から拾い上げること。もう一度、自らの歌から学ばなければなるまい。

「かの夏」は必ずどこかで自らと関係する
「繋いだ命」ゆえに「われここにあり」
過去は決して断絶することなく未来に連なる
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